<演奏のこと、レパートリーのこと>
「このあいだヴィレッジ・ヴァンガードで、ある人物に、私が影響を受けたピアニストは誰かとしつこく尋ねられた。実は(ピアニストではなくて)ホーン奏者のようなプレイを狙っているんだけどね…つまりピアノでブロウするわけだ。
演奏で一番気を使うのは、一曲のサウンド、つまり全体のトーナリティだ。もしCのブルースを演るなら、全体が一つの円になるようにプレイしなければならない。頭にはCのサウンドをしっかりキープしながらも、心はそのサウンドに覆われて茫洋とするわけだ。(トーナリティに比べれば)曲のコード進行もメロディも、さほど重要ではない。でも弾いているときに迷ったときには、メロディとコードが道標になる。
僕の取り上げる題材に、目新しいものは殆どないよ、僕にとっては新鮮だとしてもね。新曲をレパートリーに加えると、プレイが高揚する。特に好きなのは(ジェローム・)カーン、(ハロルド・)アーレン、ガーシュイン、それにデューク・エリントン―ビリー・ストレイホーン、タッド・ダメロンといった作曲家たちだ。まあ何を演ろうと、演奏するというのは大変な仕事だ。一週間続けてギグをやった後は、とにかく休みたい!癒されたい!」
フラナガンは真剣に聴くことをリスナーに求める。シングルノートのメロディラインは上へ下へと動き続けるが 、彼はパーカッシブなプレイヤーでもあるから、思いがけない音にアクセントを付ける。絶え間なく変化するフレーズはリスナーに挑みかかると思えば、また遠ざかる。その結果生まれるダイナミクスは微妙で、しかも魅力に溢れている。縦横の双方向に流れるメロディに、聴く者は2本のラインが動いているような印象を受けるし、フラナガンはその両方をしっかり聴いて欲しいと思っているのだろう。このラインの内側が、また違う動きを見せる。―倍テン、倍ノリの動き、それにフラッテッド・ノートの塊、ダンスするように疾走感のあるパッセージ、そして休符-それは前のフレーズの余韻を響かせる空間だ。フラナガンはまさしく超一級である。
時として、天気が良く、聴衆が熱意に溢れ、ピアノも良く、最高の雰囲気になると、彼の情熱はすさまじいものになる。一旦そうなると、もう手がつけられない。熱いインスピレーションを沸き立たせ、息を呑むソロ、ソロ、ソロ繰り出し、一夕を弾き通す。すると聴衆は、神々しい出来事に立ち会ったような気分にさせられる。
<ダイアナ・フラナガン再登場>
ダイアナ・フラナガンが居間へ入ってきた。するとフラナガンは立ち上がり伸びをして、散歩の時間だからと言う。今日のコースはリンカーン・センターに向かって南下し、セントラルパークを通って帰宅する、そう言って日除け帽をかぶると部屋を出て行った。
ダイアナ・フラナガンはクッキーをつまみソファに腰掛けた。
彼女曰く、今までの人生で、一番良かった行いは、NYに来たことと、フラナガンとの結婚だ。
「私はアイオワ州エイムズからNYにやって来ました。父が転々として落ち着いたのがアイオワだったので。生まれた場所はケンタッキー州ラッセルビルで、そこから、テネシー州クラークスビル、ケンタッキー州ホプキンスビル、ノースキャロライナ州、ゴールズボロなど色んな場所に移り住んで育ちました。父はセールスマンで保険や紳士服、冷蔵庫、色んな営業マンをして、ナショナル・キャッシュレジスターにも務めてました。物静かで、洞察力があり優しく上品な人でした。父の名前はウイリアム・キルシュナー、スコットランド、アイルランド、ドイツの血を引いています。トミーも私も、父がテネシーに住んだことがあったので、テネシーの言葉使いが一緒だったんです。例えばテネシーでは「靴べら」のことを「スリッパのスプーン」と言うんです。父は1971年に亡くなりました。
母は老人ホームで暮らしており、もうすぐ90才です。フィラデルフィア出身で名前はルース・ステットスンと言います。母方の祖父はイングランド人で、祖母はフランスとアイルランドの混血、母はいつも音楽や書物が趣味でした。ウイットがあり、感情の起伏の大きい人でした。私はアイオワ大学で奨学生として2年間音楽を学び、NYに出てきたのは1949年です。ずっと、自分の落ち着く場所はNYだと思っていました。9-10才頃、1939年のNY万博に連れていってもらってからずっとそう思っていました。NYに行ってからはコロンビア大の演劇科に進みました。それとは別にバイオリニストや歌手もやりました。芸名はダイアナ・ハンター…ああカッコ悪い! NY界隈で歌ったり、エリオット・ローレンスやクロード・ソーンヒルの楽団とツアーもしたわ。ソーンヒルは私にとても親切でした。今でも彼のプレイはビューティフルです!”スノウ・フォール”とか、夢見るようなシングルノートのサウンドがいいわね。
1956年、私はエディ・ワッサーマンというテナー奏者と結婚しました。彼はジュリアード出身でチコ・オファレル、チャーリー・バーネット楽団で活動、ジーン・クルーパー・カルテットにも長いこと在籍していました。私は1962年にプロ歌手を引退し、エディとは1965年に離婚しました。それからシティ・カレッジで国語の学位を取得し、バンクストリートで教育学を学んで教師になり、最初はベドフォード・スタイブサント、そしてサウス・ブロンクスで10年間、音楽、英語、黒人学などの教鞭を取りました。教師の仕事は、トミーと結婚する直前の1976年まで続けていました。
私とトミーは、本などを読み聞かせし合うんです。私が興味のあることはなんでも興味を持ってくれるし、彼が興味の持つことは、私も面白いんです。スポーツ以外ですけどね。
彼の優しさや物静かなところは見せかけです。本当は強い男性です。とても気骨があり、面白くて、一緒に暮らすには最高の伴侶です。彼の発言には、どれも表と裏の2重の意味があって、尖っているのよ。二人だけのゲームをしたり、一緒に笑ってばかりいます。彼はダンスもするんですよ。ちょっとしたタップダンスや、サイドシャッフルなんかをこの辺りで踊るの、人前では絶対にしませんが。昔デューク・エリントン楽団を聴きに”レインボー・グリル”(訳註:ロックフェラーセンターの高級展望レストラン 左写真)に行ったことがあって、彼は私をダンスフロアに誘ってくれたのだけど、同じ所に突っ立って左右に身体を揺すってるだけだったわ・・・
夜が更けたら、彼の伴奏で、今も時々歌ってます。今じゃもう誰も知らないような曲を私たちは沢山知ってるんですもの。」
(抄訳)
原書 ”American Musicians II: Seventy-one Portraits in Jazz, POET (pp 455-pp 461)” Publisher: Oxford University Press,
Jazz Club OverSeasでは、寺井尚之メインステムがトミー・フラナガンを偲ぶトリビュート・コンサートを誕生月3月と逝去月11月に、開催しています。ぜひ一度お越しください。
ホイットニー・バリエットの視線は様々な角度からミュージシャンを捉えて、キュビズム時代のピカソのような筆致がありますよね。
冒頭のシングルノート・ピアニストの系譜を読むと、フラナガンのルーツがアール・ハインズであるような印象を受けますが、本当のところはやはりアート・テイタム。テイタムは私たちが好きな時代の全てのピアニストのルーツだと本人も言っていました。まあ、細かいことはさておき、上から目線でもなく、妙にPRっぽくもなく、バリエットの絵心のある文章が大好きです。
フラナガンはピアノのある居間にバリエットの奥さんで画家のナンシーが描いたポートレートを飾っていました。
あの章のなかで、一番頷く箇所はDianaの「優しさや物静かなイメージは見せかけ」という発言です。彼女はそのおかげで、悪役になって、色んな都合の悪いことをひっかぶりました・・・まあ、それは別の話・・・
バリエットの文章を訳していると、色々な思い出がよみがえり、トリビュート前のひととき、楽しい時間を過ごせました。珠重