Moanin’ と軍師ベニー・ゴルソン

MI0001706164.jpg
 <軍師ゴルソン>

benny_golson.jpg

  みなさんご存知のように、”Moanin'”はメッセンジャーズの名ピアニスト、ボビー・ティモンズ作曲。でもテナー奏者、ベニー・ゴルソンの周到なプロジェクトなしに、名曲の誕生はなかった。ゴルソンがメッセンジャーズに入団したのは、レギュラー・メンバーのジャッキー・マクリーンがキャバレー・カードを剥奪され登録抹消になった事がきっかけでした。急遽代役に駆りだされ、なし崩し的にレギュラー登録されたんです。
 ゴルソンがアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに在籍したのは、1958年5月頃から半年余りの短期間でしたが、メッセンジャーズへの貢献は計り知れないものがあります。 

 その時、ゴルソン29才、浮き沈みの激しい演奏家の生活を捨て、作編曲に専業しようと真剣に考えていた。若い時から憧れていたバップのメジャー・リーグ、ディジー・ガレスピー楽団に入団を果たし、理想的な音楽の場で充実したジャズライフを送っていたのもつかの間、ローマ楽旅のトラブルで楽団は破産し解散。最高の音楽を提供しても、儲かるどころか、むしろ逆なんだ…夢破れ、興行の世界に幻滅し、比較的安定した道を選ぼうとしていた矢先、ガレスピーの推薦でブレイキーに駆り出された。場所はイースト・ヴィレッジのクラブ《カフェ・ボヘミア》、ゴルソンは一晩だけトラのつもりでメッセンジャーズのギグに参加したのですが、アート・ブレイキーのドラムは余りにも素晴らしかった!一緒に演っていてシビれました。それじゃ、もう一週間やりましょう…そしてツアーに数週間、すっかりブレイキーのビートに魅入られ、気付いた時にはレギュラーになっていた。
 ホレス・シルバー(p)や、ケニー・ド-ハム(tp)で有名だったメッセンジャーズもメンバーが入れ替わり、この頃も確かに人気はありましたが、演奏もステージ・マナ―もガレスピー楽団で躾けられたゴルソンにすればB級もいいところ、本番中にピアニストが居眠りする、演奏時間になってもブレイキーは帰って来ない、当然仕事はジリ貧という体たらく。その惨状を見たゴルソンのやる気にスイッチが入った!ガレスピー楽団の敗北を繰り返してはならないという気持ちだったのかも知れません。この瞬間、ゴルソンは軍師になった!バンド再生プロジェクトを推進します。

<再生プロジェクト企画書>

Blakey-paris.jpg

 当時のゴルソンはNYでは無名もいいところ、そのNobodyがトップ・ドラマー、アート・ブレイキーに意見した。
 「あなたは凄いドラマーです!現状のギャラはあなたの価値を考えるとタダ同然じゃないか!あなたのような才能の持ち主は大金持ちにならなくちゃいけません。新しいバンドを作りましょう!」etc.etc…いわばプレゼン、もう止まらない!自分でも呆れるほど色々アイデアを出した。最初は乗り気でなかったブレイキーも、ゴルソンの舌鋒になんとなくその気になり、メッセンジャーズ再生プロジェクトが始まったのは1958年5月のことです。ゴルソンのアイデアは次のとおり。

1. 人事:必須事項:メンバー総入れ替えだ!
 旧メンバーに対する解雇通告は、ブレイキーが「クビなんて言えない」というのでゴルソンが首切り役、同時に新メンバーの提案もした。
 新登録候補は、ゴルソンが実力をよく知る同郷フィラデルフィア出身者ばかり、ピッツバーグ出身のブレイキーは当初「ピッツバーグは俺だけかい(怒)」と難色を示しましたが、「大丈夫、大丈夫!ピッツバーグもフィラデルフィアも同じペンシルヴァニア州じゃないですか。」と丸め込まれちゃった。
 フィラデルフィア出身で固めた新レギュラーはフロントに19才の新人トランペット奏者、リー・モーガン、チェット・ベイカーのピアニストだったボビー・ティモンズ、そしてベーシストはB.B.キングと演っていたジミー・メリットに決定!フィラデルフィア出身者で固めることは、規律を守るためにもゴルソンの音楽プロジェクトにも必要な案件だった。最初は殆どの項目に難色を示したブレイキーを、ゴルソンは理詰めでどんどん説得して行きました。

2. 経理は一流バンドらしく。
 ゴルソンは、エージェントに掛け合い、これまで日銭勘定だったツアーの経費やメンバーへのギャラを、月極の一括精算とし、帳簿を自ら管理することにした。それによって明細がはっきりし、仕事の計画を立てやすくしたのだ。

3. 就業規定:メッセンジャーたる者、紳士であれ。
 ゴルソンはメッセンジャーズのメンバーに就業規則を作った。遅れない、休まない、ステージで眠らない…などなど、これによって、ステージマナーも驚異的に改善されたことは言うまでもなく、当時のDVD映像でも、メンバーの立ち位置までしっかり配慮が行き届いていたのが判ります。ただし親分ブレイキーの遅刻癖は、ゴルソンがいつも見張っていなければならなかったとか。

4. ユニフォーム着用
 ゴルソンはブレイキーに新ユニフォームの着用を提案。お客は演奏を聴く前に見た目で判断する。ビシっとクールに決めようぜと、難色を示すブレイキーを説得。恐らくホレス・シルヴァー時代と同様に、経費はパノニカが援助してくれたのではと推測されます。

5 .コンテンツ・リニューアル:オール新曲でレコーディングが目標。
 ゴルソンの作編曲者としての叡智がここで最も発揮されます。新バンドの為に書き下ろしたのが” Along Came Betty”と “Are You Real”今もジャズ・スタンダードとして演奏されている名曲。それに加えてブレイキーの魅力が最大限に爆発する”Blues March”を一晩で書き上げた。例によってブレイキーは「俺はバッパー!ニューオリンズの葬式じゃあるまいし、マーチなんて恥ずかしくて出来るかよ。ウケるわけない!」の一点張り。
「ダメ元で一度だけ演ってみて。」と小さなクラブで演奏したら、店が地響するほどお客さんが熱狂し、その夜から半世紀に渡りブレイキーの十八番は”ブルース・マーチ”になった。
 軍師ゴルソンは、ずらりと揃った新レパートリーを眺め、次の一手を案じる。もうひとつの決め球を…

<Moanin’登場>

 BobbyTimmons.jpg

 その年の夏、ボビー・ティモンズがアドリブの中でよく使う、いわゆる「仕込み」フレーズ、ファンキーな8小節がゴルソンの心を捉えた。ある日、リハーサルの合間にゴルソンはティモンズに頼んだ。
 「ボビー、いつものフレーズを弾いてみてくれない?それそれ!そこにサビを付けて曲にしてくれよ。」
 「ベニー、これはただのフレーズで、曲にするほど大したものじゃないし、サビなんて思いつかないよ…」
 「ステージなら、アドリブでこのフレーズから、サビへ行ってるじゃないかよ。それなのに、ここじゃできないっちゅうの!?」
ボビーはしばらくしてサビを作って弾いてみせた。
 「これはどう?」
 「アカン!だめ、だめ、元のフレーズみたいにファンキーでないと…」
 「そんならベニーが作曲すりゃいいじゃん。」
 「アカン!お前の曲だ、サビも創らなアカン!ただし最初の8小節みたいにファンキーなブリッジにしてくれ。」
 しばらくして、ボビーは黒っぽくでかっこいいブリッジを作りあげた。よし!新生メッセンジャーズの決め球だ!ゴルソンは迷わずこの曲に”Moanin'”と名づけた。「嘆き」や「ぼやき」それに「うめき」、ときには「喘ぎ」だったり、なんとも日本語にしにくいけれど、曲を聞けば意味カテゴリーが理解できるほどぴったりした名前ですよね!

<彼を知り己を知れば…>

 lee_morgan_benny_golson_500.jpg

 さて、新曲が揃った。お次はレコーディングだ。「ブレイキーはもう十分録音したから…」と渋るブルーノート・レコードのアルフレッド・ライオンに、半ば強引にライブを聴かせて「OK」を取り付けた。10月30日、ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオで録音。選曲も、ブレイキーの顔が強烈なインパクトのあるジャケットも、『Moanin’』というアルバム・タイトルも、全部がゴルソンのアイデアだった。その結果、『Moanin’』(BLUE NOTE 4003)は世界中で大ヒット!たった一晩の代役として演奏してから5ヶ月後のことでした。

 軍師ゴルソンは、全身全霊でバンドを立て直し、作編曲全てお膳立てしておきながら、新作アルバムのタイトル・チューンは自作にしなかった!なんてクールなんでしょう!並の人間なら、まして自己主張の強いミュージシャンなら尚更、『Blues March』や『Along Came Betty』と自作をタイトルに持ってきたはず。ところが彼はバンドが売れることを第一義とし、どの曲にすべきかを冷静に見極め、ティモンズ名義の『Moanin’』をアルバム名にしたのだった。

 正に孫子の兵法=「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」を実践できる稀有なミュージシャン!翌月、録音と平行してゴルソンがエージェントにお膳立てさせた1ヶ月に渡るヨーロッパ公演も大成功を収めた。

 でも戦を終えた軍師に安住はない。 帰国して3ヶ月後、ウェイン・ショーターを後任に決めて円満退団、潔く自らの道を進んだ。

 後年、ゴルソンはアート・ブレイキー70才のバースデー・コンサートで共演、その時ブレイキーは、ゴルソンをこう紹介しました。

「メッセンジャーズを始動させたベニー・ゴルソンに拍手を!」

 その頃には ”Moanin'”の作者ボビー・ティモンズも、リー・モーガンも生き急ぎ、とうにこの世を去っていました。

 参考文献

 Smithsonian Jazz Oral History Program NEA Jazz Master interview:Benny Golson

 Cats of Any Color: Jazz Black and White Gene Lees 著/ Oxford University Press刊

「Moanin’ と軍師ベニー・ゴルソン」への4件のフィードバック

  1. こんばんは
    最近の記事がたいへん面白く、さきほどから読みふけっています。Moaninに、そんな経過があったとはびっくりしました。ボビー・ティモンズが普通に曲を提供したと思っていました。それから、フラナガンのソロ録音の話はミステリアスで、結末がどうなったか知りたくなります。
    いずれも、大阪のオーヴァーシーズに行って、講座を受講する必要がありそうですね。大阪のジャズファンがうらやましい。

  2.  azuminoさま、いつもお世話になっております。
    私もMoanin’がティモンズの仕込みフレーズから生まれたというのはゴルソンのインタビュー読むまで知りませんでした。
     即興演奏とはいえ、優れたジャズメンは仕込みに余念なし、今月ジャズ講座で、Blues-Etteの別テイクー本テイク比較したら、仕込みフレーズがいかに大切かが判りました。
     というわけで良い連休をお過ごしください!

  3. tamae さん、こんばんは。
    創業35周年おめでとうございます。Jazz Club OverSeas の益々のご発展、ご盛況を心よりお祈り申し上げます。
    軍師としてのベニー・ゴルソンを興味深く拝読しました。経理といい就業規定といい、おおよそジャズメンには無縁のコンボ経営論を取り入れたゴルソンは大したものです。名門コンボの基礎を築いた功績は大きいですね。
    関西のおばさんが、流暢なイタリア語を話す英会話学校のCMがありましたが、ゴルソンなら「アカン!だめ、だめ」と言いそうですね。そういえばマッコイ・タイナーをフィラデルフィアから呼び寄せるとき、「アパートを用意しておくから、マッ、コイよ」と言ったとか。(笑)

  4. dukeさま、ありがとうございます。
     ゴルソンの話しぶり人懐っこくて、大阪弁が入ってしまいました。
    マッコイを呼んだ時には、車がエンコしてコルトレーンにNJターンパイクまで迎えに行ってもらったら、ヘッドハンティングされて油断もすきもなかったそうです。ジャズテットよりも相性が良くて、ご縁があったのでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です