その昔、貧乏大学生時代、『見学』『部活』と称し、親からお金を巻き上げて、ありとあらゆるジャズのコンサートに行きました。その中でも強烈な印象があるのは、1976年のJohnny Griffin(ts)カルテット、Horace Parlan-piano, Mads Vinding-bass, Arthur Taylor-drumsの布陣で、初めて生で観るATが楽しみで仕方なかった。
その時期は、3日に開けずハードバップの巨匠によるコンサートが目白押し、3日ほど前であったデクスター・ゴードン(ts)4の煽りを食って、厚生年金大ホールはガラガラでした。司会者のイソのてるオさんが、いつもどおりプロ野球の途中経過を報告して雰囲気を和ませた。
「後ろの方に座っている皆さん、せっかくですから前の方に詰めましょう。どうぞどうぞ!」
お客さんがゾロゾロ前に集まっても、最前列から数えてせいぜい3列ほど、出演者はやる気が失せるだろう、と思ったらそんなことなかった!湯気の立つような熱いプレイが繰り広げられて、ミュージシャンシップに感動!ハードバップってかっこいいなあ!この夜ここに集まった私達は一生、彼らのファンでいることでしょう。この夜の感動を、まさかグリフィンに直に伝える日が来るとは夢にも思わなかったけど。
超速の”All the Things You Are”や”Wee”! 横に居た寺井尚之先輩はプロで演ってるし、音楽をずっとよく判ってるから、私以上に感動してた。右手と右足が不自由なピアニスト、ホレス・パーランの強烈なスイング感と歌心!「ほとんど左手だけで弾いてるのに、音だけ聴いてたら、普通に両手で弾いてるとしか思われへん。信じられん!」今でも、若い人たちに、この話をしています。
<ホレス・パーランのTHEN:それはホロウィッツから始まった。>
ホレス・パーランはトミー・フラナガンより1つ年下の1931年、アート・ブレイキーやビリー・エクスタインなど数多くの巨匠を輩出したペンシルヴァニア州ピッツバーグで生まれました。幼いころポリオに感染し、右手に麻痺が残った。私が観たコンサートでも、中指と薬指は反り返っているように見えました。両親は息子を案じ、心身共に良いセラピーになるだろうと、8つの時にピアノを習わせましたが、先生の頭が四角四面で、この指ではピアノは無理だと言い、一旦はピアノを諦めます。数年後、ホレスは、ウラジミール・ホロウィッツのコンサートを観て大感動、「やっぱりピアノをやりたい!」と再チャレンジ!11才の彼を指導してくれた先生は柔軟な頭の人で、彼の左手の能力を伸ばすことに専心してくれた。
やがてデューク・エリントンやチャーリー・パーカーの音楽に強く惹かれ、ピッツバーグ大学法学部に在籍しながら、アーマッド・ジャマールやソニー・クラークがしのぎをけずる地元ピッツバーグの音楽界に身を投じました。
「尊敬するピアニストはアート・テイタムやオスカー・ピーターソンだけれど、身体的に私には無理だった。私に適した演奏方法、自分のグルーヴを見つけなくてはならなかった。そして、自分には、シンプルなことが一番適していると思った。それは、アーマッド・ジャマールから学んだ。もっと複雑で凄いことができるのに、彼は敢えてシンプルなプレイを選択していたからだ。」
パーランは大きなハンディキャップにも関わらず、実力者がひしめくピッツバーグでスタンレー・タレンタイン(ts)と共演、ソウルフルでありながら、バップの品格を失わない独自のスタイルを確立していきます。
1957年にNYに進出、チャーリー・ミンガス(b)やルー・ドナルドソン(as)に可愛がられ、ブルーノート・レーベルに多くのレコーディングを残しました。ピッツバーグより更に激しい競争社会NYで、パーランは”バードランド”のマンディ・ナイト・ジャムセッションや”スモールズ・パラダイス”などのハーレムのクラブを拠点に活躍、フラナガンはじめ当時のジャズメンが崇拝したコールマン・ホーキンスのギグに何度も呼ばれたことを誇りにしています。
<ホレス・パーランのTHEN:デンマークに行こう!>
’60年代の後半からはジャズ界に冬の時代が到来し、パーランは仲間達がクスリなどの問題を抱えながら命を縮めて行く姿に苦慮するようになりました。’70年に南アフリカの歌手、ミリアム・マケバと初めて北欧にツアーしたパーランは、マケバが喉の不調を訴えデンマーク公演をキャンセルしたために、5日間、フリータイムでコペンハーゲンの町を散策することになります。
「当時のカフェ・モンマルトルが大盛況で、町には色々な催しがあり、ここに移住してきたデクスター・ゴードン、ベン・ウェブスター 、ケニー・ドリュー、サヒブ・シハブたちの米国人ミュージシャン村もあった。友人が沢山いて、その時、住むならここ!と思ったんだ。」
パーランはデンマークに移住すると、ヨーロッパのジャズ興行の関わりの深い人物、アレンジャー、アーニー・ウィルキンスの未亡人、ジェニー・アームストロングの世話で、ソニー・ロリンズとヨーロッパのジャズフェスティバルで共演、それを皮切りにアル・コーン&ズート・シムスの双頭コンボなど、様々のミュージシャンとの仕事が舞い込んできました。やがてデンマーク人女性、ノーマと結婚し、ここを安住の地と定め、トップ・ピアニストとして長年活動、アーチー・シェップとの共演作がヒットし、様々なメンバーで何度も来日を果たしました。
ハンディキャップがあるからではなく、本格的なピアノの巨匠として愛され続けています。
<ホレス・パーランのNOW>
数日前、トミー・フラナガン・ファンの同志として寺井尚之と交流のあるスゥエーデンのトップ・ベーシスト、Hans Backenroth(ハンス・バッケンロス)さんが、上の写真を送ってきてくれました。ハンスさんは、フラナガンが『Home Cookin’』 で共演したスゥエーデンのテナー奏者、ニセ・サンドストームの教え子で、ペデルセン直系のテクニックと風格を持つ名手。日本のミュージシャンとも沢山レコーディングしているから、ご存知の方も多いでしょう。今月はハリー・アレン(ts)、ヤン・ラングレン(p)たちと一緒に、スタン・ゲッツへのトリビュート・コンサートで演奏し、ヨーロッパで大きな話題になっています。
彼の親友で、フラナガンが可愛がっていたデンマークの名手、イェスパー・ルンゴー(”ジェスパー・ルンドガード”とフラナガンは英語読みしていました。)がアレックス・リール(ds)、ダド・モロニ(p)と、コペンハーゲンの老舗クラブ、”カフェ・モンマルトル””に出演したので聴きに行ったら、「ホレス・パーランに会ったよ!」と、メールには、こんなことが書いてありました。
「モンマルトルで僕の席のすぐ近くに伝説の巨匠、ホレス・パーランがいたんだよ!再会できてすごく嬉しかったです。
僕がストックホルムの音楽アカデミーに在学中、ニセ・サンドストローム(ts)がホレス・パーランを招いて、一緒に演らせてもらったんだ!
ホレスはもう演奏活動をしていない。現在は視力を失い、車椅子で来ていた。でも、彼は本当に幸せそうで、頭も心もすごくはっきりしていた。アレックス達がトリオで、ホレスのオリジナル曲”Arrival”を演奏して彼に捧げた。時の流れが止まったみたいだった。」
この後、ハンスさんが同じ写真を自分のフェイスブックにアップしたら、北欧のミュージシャンやファン達が、「素晴らしい!」「ホレスのプレイが大好きです!」と沢山コメントを入れていた。「現在もたくさんのミュージシャンが彼の面倒を見ている」と書いている人もいた。
不遇の米国からヨーロッパに移住したジャズメンを「ジャズ・エグザイル」と呼ぶ向きもあるけれど、ホレス・パーランは、もはや亡命者ではなく、引退した現在も、同胞として愛されています!
上の写真の笑顔!パーランのプレイみたいにピュアで明るい笑顔!昔のコンサートの思い出とともに、なんだかとても感動しました。
珠重サマ、はじめまして。いつも楽しい話題をありがとうございます。ホレス・パーランのプレイはグルーヴィでクセになりますね。障害があって「ほとんど左手だけで弾いている」なんて驚きです。「アーマッド・ジャマルから学んだ」というご本人の述懐には手を打ちました。欧州盤のジャケットに一緒に写っているのは奥様ですか。だとしたら自分を支えてくれた奥様への感謝の気持ちが込められているのでしょうね。恥ずかしいような照れくさいような、いい笑顔をされています。心から旦那様を信頼していなければこんなステキな表情はできません。新天地で生涯の伴侶を見つけたパーランさんの幸せな気持ちが「Glad I Found You」という泣かせるタイトルからも伝わって参ります。夫婦愛というのはいいものです。最近見つけましたが1960年に録音されながら蔵入りになっていた「Midnight Sun」 (BlueNote)という作品があります。ルー・ドナルドソンの作品ですが、パーランの瑞々しいピアノを聴くことができて感無量でした。
イザベラさま、はじめまして。ブログ読んで下さってありがとうございます。
私自身はず~~っと大阪の店から出ることができませんが、最近、北欧の人たちとネットを通じて交流が始まったおかげで、パーランさんの近況を知ることが出来ました。
ハンス・バッケンロスさんとの2ショットに、とても感動しました。パーランがブルーノートに録音することになったのはルー・ドナルドソンの推薦があったからだそうです。
これからもどうぞ宜しくお願いします。