『Overseas』生誕の地

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 新年明けましておめでとうございます。

今週土曜日は早くも「トミー・フラナガンの足跡を辿る」開催、新春講座に相応しく、トミー・フラナガン・トリオ初期の最高作『Moodsville9』が登場します!

この作品では、『Overseas』と一対を成す初期フラナガンの音楽美を味わえます。『Overseas』が「動」なら、『Moodsville9』はフラナガンの「静」的ジャズの極致で一対の美術作品のような趣があります。

ところで、新年にスウェーデンのトップ・ベーシスト、ハンス・バッケンロスさんから年賀状代わりに2枚の写真が届きました。

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  ここは「カーラヴェーゲン(Karlavägen)」、スウェーデン、ストックホルム郊外をほぼ東西に走る美しい大通りです。19世紀に作られた道路で、ネオルネッサンス様式の歴史ある建築が立ち並んでいます。

hans_backenrothIMG_5714.JPG ハンスさんが立っているこの場所はKarlavägen67番地、1階は洒落たベビー用品店ですが、50年余り前、ここにメトロノーム・レコードのスタジオがあり、トミー・フラナガン・トリオが、地階のスタジオで、『Overseas』を録音したのだそうです。

 フラナガンへの敬慕を共有するハンスさんは、私達や、日本のトミー・フラナガン・ファンの皆さんの為に、わざわざ、市の中心地から離れたこの場所までドライブして写真を撮影してくださったようです。ほんとうにありがたいですね!

 ストックホルムの歴史を調べてみると、’50年代のKarlavägen67番地の写真がありました。確かに同じ建築で、よく見ると…ありました!《METRONOME》の看板が!

 1957年8月15日、J.J.ジョンソン・クインテットとしての演奏旅行で、リズム・チームのトミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズ、ウィルバー・リトルが、Relaxin’ at Camarilloを始めとする、あの9曲の演奏を繰り広げたと思うと感無量!

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 録音直前、ストックホルムは豪雨に見舞われ、録音ピアノは水浸し、信じられない話ですが、あの名盤はマイク一本だけで録音されたのだそうです。写真を見ると、ビルと舗道がほとんどフラットですから、雨が吹き込んだのでしょうね。

 この録音のわずか2日後には、J.J.ジョンソンと共に、オランダ、アムステルダムに渡り、由緒あるコンサート・ホール、《コンセルトヘボウ》で大喝采を浴びました。彼らは船でヨーロッパに渡り、2ヶ月以上に渡る楽旅は大成功、意気揚々と帰国しますが、このツアーを境に、J.Jはエルヴィンとボビー・ジャスパー(ts.fl)をはずし、アルバート”トゥティ”ヒース(ds)、ナット・アダレイ(cor)に入れ替え、新生クインテットとして活動を再開、それまでの端正で気品溢れるコンボから、鮮烈なコントラストで魅せるダイナミックなコンボへと変貌を遂げますが、どちらもフラナガンの輝きは重要な役割を果たしています。

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ハンス・バッケンロス:「J.J.ジョンソン・クインテットは、スウェーデン国内をくまなくツアーした。彼らのプレイを聴いて、スウェーデンの全世代のジャズ・ミュージシャンに『革命』が起きた!」

Denna artikel är tillägnad min vän, Hans Backenroth.
 

「『Overseas』生誕の地」への4件のフィードバック

  1. いくつか間違えと、疑問点があります。
    1)カーラヴェーゲンは街の中心部ではありませんが、郊外ではありません。
    2)マイク一本のみによる録音とされていますが、一本のマイクのみによる録音となればマイクを無指向性にするかして、よほどバランスの良い位置に3者を配さなければこの音は録れません。当時のメトロノームの録音風景を記録した写真の多くが、各楽器に一本ずつのマイクを使用している場合んがほとんどです。
    3)帰国は彼らがドイツのフランクフルトのストーリヴィルクラブに出演中に、メンバーの一人に「急ぎ帰国せよ」風の電報が入り、バタバタと帰国したので、意気揚々ということではなかったと考えます。電報を受け取ったのは私の推測ではドラマーで、このドラマーとストーリヴィルクラブで写真を撮ったハンス・へール氏とは友人同士でした。このエピソードはへール氏自身から聞きました。
    4)グループはスウェーデン全土を隈なく回ったのではなく、中部中心で、北部と南部は演奏記録はありません。

  2. 上不様、あけましておめでとうございます!いつもご指導に感謝します。
    1)は写真を頂いたHansさんのコメントでした。いつも「音楽活動をしている地域と全く反対側」おっしゃったので「郊外」という言葉をはめまたのですが、そのようなことでしたら、微調整しないといけませんね!
    2)はトミー・フラナガン自身に数回そのように伺いました。私にも、NPRのラジオ放送でもそのように発言されているので、訂正はしないでおきます。
    http://www.npr.org/player/v2/mediaPlayer.html?action=1&t=1&islist=false&id=92568276&m=92516538&live=1
    3)これは私もそのように資料で読みました。が、少なくともフラナガンは(私的な理由で)意気揚々としていたはずですので、このように書きました。
    4)これも写真をいただいたHansさんよりこのように記載したメールをいただきました。彼は若いので上不さまのご意見のほうが正しいかも知れませんが、これは彼の言葉ですので、そのままにしておきたいと存じます。
    最近、この当時のJ.J.ジョンソン5を現地で何度も観たという年配のスウェーデン人の方と知り合いになり、色々当時の状況を教えてもらうことができました。またここにご報告しようと思っています。
     拙いブログではございますが、今後共、どうぞご指導頂ますよう、宜しくお願いします。

  3. 冒頭、いきなり「間違えがあります」のスタートは礼を失したものでお詫びします。
    2)の件は頭脳明晰なフラナガン氏のことですから、多分事実だったのでしょう。ただ私個人としては、3本のマイク説を捨てきれません。ヴィヴィッドなエルヴィンのうなり声などが収録された音を聞くと、マイク一本での収録は信じられないのです。尤もエンジニア、イェスタ・ヴィホルム氏のジャズへの理解と愛情、メンバー3人の録音への協力があれば可能であったのかもしれません。
    ところでこのツアーは1957年ですが、その次の年、1958年にも、フラナガンはヨーロッパへ2度(!!!)訪れる予定があったのはご存知ですか?

  4. 上不さま、お詫びなんてとんでもないです。
     ジョンソンのクロノロジーをたどると、このツアー直後にジョンソンはJATPのツアーに参加しています。「3)急ぎ帰国せよ」は、そのことと関係が有るのではないでしょうか?
     1958年のヨーロッパ・ツアーのことは存じませんでした。どうぞ、また色々ご教示くださいませ。
    ありがとうございました。

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