ジーン・アモンズの肖像(2)

 <塀の中のボス>

ammons_late4r.jpg

joliet7610578.jpg ジーン・アモンズは、違法薬物所持とそれに関連する罪状で、のべ10年間服役しています。最初は、多くのバッパーがお世話になったケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設、通称”NARCO”で2年間(1958-60)。タッド・ダメロンもほぼ同時期に、ここに収監されていましたが、ここから舞い戻ったものの、ジャズメンの多くが、再びヘロインに手を出し、さらに厳刑を課せられることになった。アモンズが典型的な例で、“NARCO”から帰ってきて間もなく、仮釈放中にクラブ出演をしたとして再び拘束され、その2年後には、7年間という長期間をシカゴのジョリエット刑務所で過ごすめになります。ジョリエットという名前にピンと来た映画ファンは我が同士!かの有名な『Blues Brothers』のファースト・シーン、兄のジェイクが入っていた刑務所として、今や観光スポットになっているそうです。

 アモンズの逮捕は、有名人を狙った違法な「おとり捜査」だったと言われていますが、本人は後年、麻薬に手を出したことについて、ボス・テナーにふさわしく、誰のせいにもすることなく、淡々と語っている。

「環境だ、生活状況だ、それに、逃避したくなるような苦悩があるから、ということが原因だという人もいる…だが、私が薬に手を出した理由として、自分で言えることは、『好奇心』だったってことくらいだ。一番肝心な時に、自制心が足りなかった。そして気がついた時には、どうすることも出来ないほど深入りしていたというわけだ。」

 アモンズが「どうすることも出来ないほど深入り」してしまったのは、エクスタイン楽団に居た’40年代ではなく、ウディ・ハーマン楽団からソニー・スティットとコンビを組んだ時期だったようだ。

gallery7.jpg ジュニア・マンス(p)の証言:「私が1951年~53年の軍隊生活を終えてシカゴに戻ってきた時、ジャグは完全な麻薬中毒になっていた。」

 アモンズのヒット作の大部分を制作したPrestigeのオーナー、ボブ・ワインストックは先見の明があったようで、レキシントンから帰ってきたスター奏者、アモンズが活動休止に追い込まれた時のため、シカゴやNYで、せっせと彼のセッションを録音、7年間の服役中に、それらの音源を新譜としてリリースする離れ業をやってのけた。 「親友アモンズのために一肌脱いだ」と言われているけれど、それほどアモンズは売れたのだ。

 アモンズはジョリエット刑務所からワインストックに何度か手紙を書き送っている。そこには、自分の名前が、塀の中に居る間に忘れられないよう、継続的に自分の新譜をリリースして欲しい、そのために録り貯めた音源が枯渇しなければいいのだがという願いが綴られていたそうです

 さて、刑務所の中のアモンズは、ずっと鎖に繋がれていたわけではなく、音楽の実力を買われ、受刑者バンドの音楽監督に任命されます。おかげで、更生教育の一環として団員に音楽を教え、編曲をする傍ら、テナーを持つことを許され、暇さえあればテナーを吹くことが出来た。

 出所前の18カ月間は、レコード・プレイヤーだけでなく、ラジオやTVも視聴することができたので、世相の変化や、音楽の流行、アヴァンギャルドへと向かうジャズの潮流をキャッチしながら、出所したあどんな音楽をするべきか?ということを冷静に見定めていました。

<プラグド・ニッケル>

gene_ammons.jpg

 1969年11月、出所後わずか12日目に、アモンズはシカゴの《プラグド・ニッケル》でカムバックを果たしました。満員の聴衆が総立ちになり拍手でアモンズを迎え、全くブランクを感じさせないアモンズ・サウンドに熱狂した!伝説のコンサートに立ち会った評論家ダン・モーガンスターンは、「完全にリラックスして、再びバンドスタンドに戻った幸福感に満ち溢れる演奏だった、」と書いていますモーガンスターンが、幕間にインタビューを行い、現在流行りの前衛ジャズについてどう思うか?と質問すると、「あれは自分の柄には合わない。自分はやっぱり、ジーン・アモンズのままでいたい。」と答えています。

  アモンズは、並のテナー奏者ならヴォリュームの点で食われてしまうハモンド・オルガンを、テナーのバンドで初めて使ったり、ソウル・ジャズという新ジャンルを容易く確立してきました。カムバック後は、一時期アンプを使ってサックスのサウンドをオーバーダブするという流行も取り入れてはみたけれど、すぐに元の自然な音色に戻している。

 カムバックしてから数年後は、がんに冒されながらも、死の3か月前までボス・テナーであり続けました。ラスト・レコーディングは亡くなる年、1974年の3月、プレスティッジには稀な一日のセッションでたった一曲だけの録音。曲目はいみじくも”グッバイ”でした。その2ヶ月後、1974年5月、オクラホマ・シティで、アモンズ・サウンドは、演奏中に腕を骨折するという形で終焉を迎えます。肺ガンの合併症で骨が弱くなっていたんでしょう・・・

 享年49歳。あの重厚さ、あの貫禄のサウンドからは信じられない若さでした。

 死後40年経った今も、アモンズの音色はやっぱり私達の心を掴んで離さない。ヘヴィー級チャンピオンであり続けています。

参考資料》: 米国公共放送 NPR Documentary: Gene Ammons ‘The Jug’

Living with Jazz / Dan Morgenstern

Jazz and Death: Medical Profiles of Jazz Greats / Frederick J. Spencer

Jazz Wax : Gene Ammons :  Up Tight

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です