’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その2)

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(前回よりつづき)<トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

 静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

<アート・テイタムのことなど>

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    フラナガンにとって、特に思い出に残る場所は、《パラダイス・シアター》(訳注:デトロイトの黒人街の中心に在った映画館兼劇場です。)の少し北にあった《フレディ・ギグナーズ》と言うアフター・アワーズ・クラブ(訳注:ギグが終わったミュージシャンのたまり場となる朝まで深夜営業の店)だった。

 「ジミー・ランスフォード、アール・ハインズ、ファッツ・ウォーラー・・・レコードで愛聴した名手たちを初めて見た場所です!」-フラナガン 

   オーナーであるギグナードが自宅の地下で営業していたクラブで、テイタムもそこに足繁く現れた。テイタムは、良いピアノさえあれば、どんな場所にでも立ち寄るのであった。テイタムの弟子格のピアニスト、ウィリー・ホーキンスが出演していたためでもある。地元の名手であったホーキンスの演奏はテイタムに酷似しており、テイタムや、それ以外にも演奏しようというピアニスト達がスタンバイするまで演奏していた。

 「その頃の私はかなり内気でした。」フラナガンは言う。「まあ、今でもアート・テイタムがその場に居れば、やっぱりそうなると思います。ただし、彼が来ると判っていれば、ずっとその店で粘っていて、実際に弾いてくれるのを待ち構えていました。テイタムがもの凄い演奏をした夜のことは今もよく覚えています。皆すごいと言って、一体どんなコードを弾いていたのか?と尋ねたんです。実は、前座でウィリー・ホーキンスが弾いた一つのコードが気に障ったテイタムが、この曲は「かくあるべし」というコード進行をで、最初から最後まで弾いて見せた、と言うわけでした。すると今度は、テイタムがいかに和声進行に習熟しているかと、皆がわあわあ話し始めた。すると、テイタムは彼らに向き直ってこう言いました。

『デューク・エリントンこそがコードの達人だ!』

  テイタムがどの程度エリントン楽団を聴きこんでいたかは分かりませんが、少なくとも、あらゆるピアニストを熟知していたのは間違いありません。

  私が聴きたいのはテイタムだけでした。なぜなら彼のアプローチは私が探求していることと密接に繋がっていたからです。有り余る才能に恵まれた、真の天才だと思っていました。最初は全盲だと思っていましたが、後になってそうではないと知りました。でも、字や譜面は読めなかったと思います。あれほど凄いピアノ・テクニックをどうやって編み出したのか分かりませんが、彼の演奏する和声構造を聴くと、修練したことは明らかです。彼こそ正真正銘の名人(ヴァーチュオーゾ)だ。名人芸というものは、基本的な修練なしには、絶対に得られない!

  もう1人フラナガンに大きな影響を与えたピアニストがハンク・ジョーンズである。フラナガンがハンク・ジョーンズを初めて聴いたのは、コールマン・ホーキンスとの共演盤だった。

<ソフトタッチ>

hank-jones.jpg 「彼の演奏は、テディ・ウィルソンと同型だと感じました。」フラナガンは言う。「ただし、ハンクはテディをアップデートしたスタイルだった。私はハンクがテイタムの次世代のピアニストであると、常に感じていました。今も、その意見は余り変わっていません。あの頃からずっとハンクの演奏を尊敬してきたし、その思いは自分のプレイに反映されていると思います。あの頃の私は、きっといつかテイタムみたいに弾ける時が来ると思っていましたが、やがて、テイタムと全く同じように演奏する望みはないと思い知った。それからは、ハンクをよく聴くようになりました。バド・パウエルもよく聴きました。(訳注:これらの昔話はフラナガンの高校時代のことです。念のため)良く話題になるタッチの相違は、多分身体的な問題ではないかと思いますが、鍵盤を叩きつけるようなハードなタッチは絶対に嫌です。私の好むスモール・コンボ(ビッグ・バンドではなく)なら、ハードなタッチでプレイする必要は全くないし、とにかく、ハードなアプローチはどんな場合も必要ではないと思います。」

<13才のプロ・ミュージシャン>

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  初期の参加バンドで、フラナガンにとって特に思い出深いのは、中学時代に活動したピアノとサックスとドラムのトリオだ。当時、まだ13才ではあったが、プロに相応しい卓抜した技量をすでに備えており、早くもデトロイトでのギグが次々と舞い込んできた。1947年、ラッキー・トンプソンがデトロイトの町に戻ってくると、ミルト・ジャクソン(vib)、ケニー・バレル(g)と共に、彼のセプテットに参加している。 

  クラブ演奏可能な年齢に達する頃には、地元デトロイトでの仕事場は潤沢で、良いミュージシャンも多数居たものの、多くは名声を求めてNYへと進出した。テナー奏者のフランク・フォスターもこの街にやって来て、軍隊に入る前の2年間を過ごした。彼は “強烈な印象をもたらした。”とフラナガンは言う。 

  PepAda.gifフラナガン自身、1951年から1953年まで陸軍に入隊している。すんでのところで、音楽家等級なしで、一歩兵として韓国に送られるところであった。だが、幸運にも、訓練地のショウでピアニストの募集があり、オーディションを勝ち抜いたフラナガンは特別芸能部(Special Service)に転属となった。彼が居たキャンプ、ミズーリ州、レオナード・ウッド基地では、例のラッキー・トンプソンのデトロイト・バンドの盟友であったバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスとの偶然の再会があった。 

  「彼は、すでに数週間の基礎演習を修了していて、私がホヤホヤの新兵で居ることを知っていました。」フラナガンは回想する。「初めて野営地に向かって行進している時に、ペッパーが現れた!隊列の中の僕を目がけて走ってきたんです。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込みました。 『きっと役に立つよ!』と言って…」 

韓国駐屯を経て除隊、故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。

 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

(つづく)

「’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その2)」への5件のフィードバック

  1. 毎週楽しみに拝見させていただいています。トミー・フラナガンが影響を受けたピアニストにハンク・ジョーンズの名前が出ているので、前から気になっていたことを伺いたいです。寺井さんの話では3回ほどフラナガンがハンク・ジョーンズについてどう思うか聞かれたと言ってましたが、フラナガン自身はハンク・ジョーンズのことをどのように思っていたのでしょうか?レコードの解説書やいろんな本を読むと二人には共通する点が多いと書いてあり、レコードなでもデュオのアルバムを残しているのでお互いに影響を与えあっていたのではないかと思っています。

  2.   コメントありがとうございます。このご質問をもしもトミー・フラナガンが読んだら“Good question!”と言ったかも・・・
     ジャズ評論では、フラナガンとジョーンズは同じカテゴリーに入りますよね。
     ジョーンズ兄弟のうち、エルヴィンやサドとフラナガンの共演や交流は大変深いですが、長兄ハンク・ジョーンズはフラナガンがピアノを志した時には、すでにミシガン州から離れていたので、NYに出るまではレコードを聴いて、このインタビューにあるように、模範としていたようです。ハンクさんはフラナガンより12才上で、ジャズの世代としては遥かな隔たりがあります。
     その後、NYに出てキャリアを積んで、’70年代にエラ・フィッツジェラルドの元から独立してから、ピアノ・デュオなどで共演していますが、あれこそ「ケンカセッション」(音楽的な)と寺井尚之は断言しています。
     独立以降のフラナガンにとっては、ハンク・ジョーンズと同カテゴリーとして評されるのは、かなり不満で、それだからこそ、寺井によく質問して、その答えを聞いて溜飲を下げていたのだと思います。
     その理由はここでは書ききれませんが、その頃になると、二人のスタイルは、ルーツは似ていても全く異なったものとして発展しており、それをきっちり研究してくれる人は少なかったのだと思います。例えば、フラナガンの『Let’s』とハンクさんの『Upon Reflection The Music Of Thad Jones』は、どちらもサド・ジョーンズ集で、エルヴィンが参加していますが、アプローチの違いは歴然としています。
     影響ということについては、明らかにフラナガンは初期にハンクさんの影響を受け、そこからフラナガン独自のスタイルを構築しています。
    逆にハンクさんへのフラナガンの影響は、余りなかったのではないでしょうか?
     こんなところでよろしいでしょうか? 珠重 

  3. 返信ありがとうございます。
    たしかにフラナガンとジョーンズの音楽的なスタイルが似ていたのは’60年代ごろまでだと思います。バリー・ハリスとローランド・ハナを含めた四人をデトロイト派と括った上で、評論家が指摘する二人の類似性はあくまで’60年代までの話として考えるべきなのでしょうね。ご指摘のように’70年代に入ると二人のスタイルは違ってきたようですが「Our Delights」や「More Delights」のレコードは録音の悪さもあって寺井さんはケンカセッションと言われているのだと思います。けれどフォーバース交換などでのフレーズは互いに影響を受けあったものだと思いますしピアノデュオの演奏としては素晴らしいと思います。この後も2人は’83、’86、’93年と断続的にデュオ活動を続けていたようですし、仲が悪かったというわけでは無かったのでしょうね。またLet’sとUpon Reflectionが録音された’90年代になると二人の違いはよりはっきりしています。もともとフラナガンはバド・パウエルなどのラインにいるピアニストでハンクはテディ・ウィルソンなどのスウィング系のラインにいるような気がします。ですが、ハンクは彼より下の世代のフリー・ジャズを除くピアニストのスタイルもマスターしていたと聞くのでどこかでフラナガンの影響も受けているのかなと考えています。
    私の中でハンクとフラナガンは大好きな名手2人ですが、なかなかこの名手2人を語れる方がいないので寺井さんのブログはいつも楽しみにしています。

  4.  大変音楽を判っていらっしゃる方から、的を得たご返信をいただき光栄です!!
    ハンク・ジョーンズ+フラナガン・デュオ最大の「死闘」(笑)は、Live in Marciacだったと思います。イントロや、テーマ・アンサンブルは、大相撲の立会い勝負のような感で、数年前の寺井の講座は頂上戦の「実況中継」のような趣だったのが忘れられません。
     
     ハンクさんは、(敢えて)フラナガン世代以降のモーダルなアプローチを端正なプレイの中に取り入れて、独自の世界を作っておられたのではないでしょうか?
     
     この二人の最大の相違点は一言で言うと「エモーション」でしょうか?演奏も人柄も、フラナガンの第一印象は、大変控えめで温和ですが、よく聴いてみれば決してそうではないですよね。
     もう一つ、二人の顕著な相違は、トリオでの演奏構成ですよね。
    ハンクさんはサド・ジョーンズの実の兄ですが、音楽的にはフラナガンの方がサド・ジョーンズに近かったのかな~なんて思う次第です。
     ハンク・ジョーンズとフラナガンについて、すごくよくご存知な方にご意見いただけて、すごく光栄です。どうもありがとうございました。

  5. いえいえ、恐縮です。
    私も「Live In Marciac 1993」のライブアルバムは興味深く聴きました。ライナー・ノーツでアイラ・ギトラーも触れていましたが、フラナガンのトリオ演奏が終わった後MCでハンク・ジョーンズが「素晴らしいピアノプレイの後なので、何か残っている音を探して演奏してみましょうか」と言った言葉がとても印象的です。あと願わくば日本でも100 Gold Fingersで2人のデュオを聞いてみたかったですね。
    なるほど、そうかもしれないですね。スウィング時代にデビューしたハンク・ジョーンズが晩年まで人気があったのもその辺りに秘密があるのでしょうか。
    たしかにフラナガンと「エモーション」という言葉はすぐには結びつきませんが、誰も知らない曲を取り上げたり意味が繋がる引用をしたりする部分は正に音楽に対するエモーションから来ていると思います。またフラナガンとサド・ジョーンズの音楽性も沢山のアルバムで共演したからこそ近いのではないでしょうか。フラナガンがサドの曲を好んで取り上げトリオの演奏に見事に昇華していることは見逃せない点ですね。一方のハンクは一世代違うこともあってか、サドやエルヴィンとの共通性はあまり見出せません。
    ハンク・ジョーンズがスタジオ・ミュージシャンに転向した後、多くのグループで後を引き継いだトミー・フラナガンに興味があり、色々調べているうちにこちらのブログに出会いました。フラナガンと音楽に対する思いを感じることができる記事ばかりで素敵ですね!フラナガンが歌の伴奏者としてジミー・ジョーンズとエリス・ラーキンスを高く評価していた話など初めて知りました。おかげでジミーとラーキンスのピアニストとしての魅力も知ることができました。フラナガンが二人のどの辺りを評価していたのかなどマニアックな内容になるかもしれないですが記事にして頂けると嬉しいです。
    また機会を作ってお店の方にもお邪魔させて頂きたいと思っています。ありがとうございました。

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