アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(4) 母ともゑ:愛と気骨の人

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  意外にも、アキラ・タナは高校時代に、教育用の短編ドキュメンタリー映画に主演しています。映画のタイトルはズバリ“Akira( 照)”(BFA Education Media, ’71)で、アメリカの様々な少数派に属する若者の青春像を描く”Minority Youth”というシリーズの一編。日米二つの文化の間で戸惑いながらも、アイデンティティを確立していく日系人少年、アキラさんの姿や、両親との日常生活が描かれていて、15分の短編ながらとても心を打たれました。

映画の中で、少年時代のアキラ・タナは母、田名ともゑについてこんな風に語っています。

 「母は長い間、よその家の掃除や庭仕事をするメイドをして、僕たち家族を養ってきた。その合間に短歌を創っている。朝早くから起きて、夜中まで台所で皿洗いをやっている。母がどうやって時間をやりくりしているのか、僕にもわからないほどだ。母は結婚するまで日本で教師をしていた。だけど、英語がうまくないから、こっちでは教えられない。英語をちゃんと勉強したいと思ってるんだけど、その余裕がないんだよね。」
 アキラは日本人らしく謙遜して、お母さんのことを語ったのでしょう。実のところ、ともゑは、すでに「Tanka Poetry」として北米に大きく広がる短歌運動の担い手の一人でした。後には、「英語の習得」どころか、日米の短歌史に関する素晴らしい学術論文(もちろん英語で)を発表して修士号を取得しています!日本には、世界に誇る美女や芸術家、偉人も沢山いるけど、私は、ともゑさんのような人生の歩き方をした女性は、他に知りません。

<家政婦、青い目の歌人を育成する>

tomoe_3.png(田名ともゑ1913-1991)

  戦後、晴れて家族一緒の暮らしを再開したともゑは、仏に仕える病弱な夫と、食べ盛りの幼い子供たちの生活を支えるために、家政婦として、様々な上流家庭に出入りしました。アキラさんは、1952年、戦争を知らない末っ子としてサン・ノゼで生まれパロ・アルトで育っています。一家がパロアルトに落ち着いた頃、ともゑは、地元の教育委員会の役員であったルシール・M・ニクソンという女性宅で、毎週掃除をすることになります。このニクソン女史は町の名士、詩人でもあり、GHQ日本占領時代、少年時代の平成天皇(明仁親王)の家庭教師となったエリザベス・ヴァイニング夫人の親友でもありました。ニクソンがともゑを雇い入れたのは、このヴァイニング夫人の推薦で、おそらくは天皇の歌会始に選ばれたことを知っていたからかも知れません。


 ある日、ニクソンが、ともゑに自作の詩を見せると、「あなたの詩は日本の短歌ととても似ていますね。」と言われた。どこまでも嘘のない誠実な瞳を持つともゑの言葉に、ニクソンの知的好奇心は否応なく刺激されます。たちまち二人は意気投合!いつしか、女主人が在宅している時は、ともゑが掃除機を動かす暇はなくなっちゃった。ともゑは家庭教師として、彼女に請われるまま、日本語と短歌を教えることになり、掃除は彼女が留守の時しかできなくなってしまったのだそうです。
 いつしか、二人は無二の親友となり、「日本書紀の時代から受け継がれてきた独自の詩形式、短歌を米国に広めよう!」という共通の目標を持つようになりました。英語の短歌創作、在米日本人の詠んだ短歌の味わいを、そのまま生かした英訳、という課題に取り組み、パロアルトの公立小学校のカリキュラムに短歌を導入するという事もしています。ニクソンは、一方で、日本語による短歌創作にも励みました。

lucileAS20140124002490_comm.jpg 1957年、ニクソンは日本でも大注目されることになります。新年の宮中歌会始に彼女の作品が見事選出されたのでした!高額な渡航費にも、地元有志や短歌会から寄付が集まり、ニクソンは儀式への参列をすることに!その年の歌の御題は「ともしび」で、ニクソンの歌は日本への想いを綴ったものでした。

「あこがれの
うるはしき
日本法隆寺
ひるのみあかし
いつまたとはむ」
(大意:私は憧れの日本にやっと来ています。法隆寺に入ると、昼間からともされる灯明に、浮かび上がる荘厳な伽藍の様子に心打たれます。いつかまた、この光景を見ることはできるのでしょうか・・・)

 昭和天皇より「日本と米国の文化の懸け橋になってください。」とお言葉を賜ったニクソンのニュースは「青い目の歌人、宮中歌会始へ!」と、当時の日本のメディアで大きく報道されました。 (左写真)

 8年前、同じように選出の光栄に浴したともゑは、宮中に参じることはできなかったけれど、親友の快挙を自分のことのように喜んだのでしょう・・・

 この後も、二人は自分たちが英訳編纂した短歌を一冊の本にして出版しようと仕事を続けます。この計画が成就する目前の’63年、ニクソンは鉄道と自分の車が衝突するという事故によって不慮の死を遂げ、彼女が保管していた校正原稿が紛失するという憂き目に遭ってしまいます。

 でも、ともゑは決してくじけなかった。

<友情と不屈の精神>

 ともゑは、ニクソンの死によって失われた校正原稿を、独力で復元し、英語で読め4193CUpobbL._SY344_BO1,204,203,200_.jpgる日系人短歌集『Sounds from the Unknown (未知の響き)』として出版にこぎつけ、ニクソンへの追悼としました。一言で「復元」といっても、パソコンもワープロもない時代、それがどれほど忍耐力と知力の要る大変な作業であったのか・・・想像することすらできません・・・

 ともゑの情熱は、衰えることなく、1976年には、亡きニクソンの短歌と彼女の伝記を『Tomoshibi』という本にして、自費出版を成し遂げます! この本に感銘を受けたのが、アーカンソー州立大の教授で詩人でもあるウェズリー・ダンで、『Tomoshibi』は、彼の授業の教科書として採用されます。ともゑの友情が、短歌をひとつの文学スタイルとして最高学府に認知させたわけです。これらの出版物の収益は、さらに夫の「勾留所日記」4巻の自費出版資金にもなっていきます。

  51549-TWJGL._SL500_SX314_BO1,204,203,200_.jpg これらの短歌集にせよ、夫、大正の「抑留所日記」の編纂にせよ、どの作業も途方も無い労力と心配り、そして時間が必要です。どの仕事も、自分の功名のためではなく、短歌への愛情、夫や親友への愛情、そして後の世代へ伝えたいという不屈の熱意によって実現したものばかり。彼女の愛の大きさと、しなやかで鋼のように折れない意志に、ほんとうに心を打たれます。

 もし、私が入稿寸前に、パートナーと原稿の両方を失ってしまったら、どうしただろう?

 もし私が、朝から晩まで、家族の世話と、他のお宅の掃除に明け暮れていたら、短歌の創作だけでなく、他人の作品まで愛情をこめて、英語で編纂することなんかできただろうか?

 田名ともゑさんの愛の力は底知れないほど凄い!

  そして、映画でアキラさんが語っていた、ともゑの「英語習得」の熱意もまた、息子達への深い愛に根ざしたものでした。末息子のアキラさんをハーバード大学に遣り、4人の息子全員が立派なアメリカ市民として独立したのを見届けたともゑは、とっくに還暦を過ぎていましたが、迷わず地元の大学に入学します。(つづく) 


 Special thanks: 短歌の大意について助言してくださった Wakamiya Makiko様、ありがとうございました!

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