映画史に輝く『オズの魔法使い』-ストーリーと音楽を一体化させ、ハロルド・アーレンと共に、国民的ポップ・ソング〈Over the Rainbow〉を創り上げた作詞家イップ・ハーバーグはどんな人だったのだろう?
イップ・ハーバーグの作詞作品は、〈April in Paris(パリの四月)ヴァーノン・デューク曲〉や〈Last Night When We Were Young ハロルド・アーレン曲〉といったラブ・ソングも多いけれど、〈Over the Rainbow〉を始めとするユニークな歌詞の作品も多い。例えば、初ヒット作〈Brother, Can You Spare a Dime (’32) 〉は、大恐慌で失業した労働者の歌。鉄道や道路建設に汗を流し、社会貢献したのに、職にあぶれた身の上を語りつつ、「10Brother セントCan You 恵んでSpare aくれ Dime・・・」と物乞いをする・・・哀愁を帯びたロシア民謡のメロディーと身につまされる歌詞を、ビング・クロスビーがさらっと歌い上げて、庶民は大共感!”ディプレッション・ソング(恐慌歌)”と呼ばれるトレンドの先駆けを作った。日本でも有名な〈It’s Only a Paper Moon (’33) ハロルド・アーレン曲〉は、カメラが普及していなかった時代、写真館でポートレート撮影する際の背景として流行したボール紙で作った三日月を主題にしたポップな感覚で一世を風靡しました。市井の人たちの心情に寄り添うイップの視点は、お坊ちゃま育ちで、贅沢に疲れた富裕層の香り高きコール・ポーター作品の対極と言えるかも知れません。
=ドブ板人生=
イップ・ハーバーグ(Yip Harburg)は1896年生まれ、親友のガーシュイン兄弟(左写真:左から-弟のジョージ、兄のアイラ)や、コンビを組んだハロルド・アーレン、バートン・レインといった作曲家と同じロシア系ユダヤ人です。ロシアからNYに夢と希望を抱えてやってきた両親は、英語も満足に話せず、婦人服工場で最低の賃金とひきかえに重労働を強いられた。四人兄弟の末っ子であったイップも、幼い頃から、日暮れにエジソン社の街灯を順番に点けて回る仕事で家計を助けた。一家の暮らすロウワー・イーストサイドは、当時究極の貧民街、いくら働いても劣悪な環境から抜け出せない…貧乏の辛さが骨の髄まで滲み込んだと、晩年のイップは回想している。マイノリティに門戸を開き、才能を伸ばす教育方針で知られたタウンゼント・ハリス高校時代、イップが隣の机に居た生徒もロシア系ユダヤ人二世、共に文学好きだったから意気投合。その男子はブルックリンに住み、彼よりも裕福な家の子で蓄音機を持っていたからしょっちゅう遊びに行っては音楽を楽しんだ。生涯の友となったその生徒の名はアイラ・ガーシュイン!二人は共にシティ・カレッジに進学し、イップが青年社会主義同盟(YPSL-イップスルと発音)に入団したのもその時期だった。YIPというニックネームは、そこから付いたのでした。前の大統領選挙で若者の絶大な支持を得て善戦したバーニー・サンダース上院議員もYPSL出身者です。余談ですが、米国の小学校などで行われる国旗への「忠誠の誓い」を発案したのも、実は社会主義者なんです。第一次世界大戦が始まると、反戦の意思硬いイップは、南米ウルグアイに渡り徴兵を避け工場で働いた。両親の面倒を見るために帰国した後は電器店に就職し、数年後自ら共同経営者として家電販売会社を立ち上げて、実直なビジネス・マンを目指した。ところが、数年後に大恐慌が起こり、会社はあえなく倒産してしまいます。彼の文才を知るアイラ・ガーシュインは、多額の借金を抱え途方に暮れるイップに、「作詞家になれば借金が返済できる。」と、ショウビジネスに入ることを強く勧めました。
=作詞家稼業=
アイラの紹介で、ブロードウェイでレビューの作詞を担当すると、ショウは首尾よく成功し、次々と作詞の依頼が舞い込んでくるようになった。やがて1932年のブロードウェイ・レビュー『アメリカーナ』の劇中歌として、ロシアの子守唄由来のメロディーに歌詞をつけた〈Brother, Can You Spare a Dime 〉が全米で大ヒットしたのは、大恐慌の3年後のことだった。イップ・ハーバーグは作詞家として、そして、ショウの脚色や演出に手を入れて、お客に受けるヒット作に微調整する”ショウ・ドクター”として現場の信頼を確立していきました。
イップは、ポップソングの歌詞の中に、こっそりと、支配者層に対する皮肉や風刺を忍ばせるということをした。日本人の私には、そんなイップのスピリットが、江戸時代の浮世絵師、歌川国芳や葛飾北斎の技と重なります。そしてアメリカの寓話、『オズの魔法使い』は、反骨の士にとっては、願ってもない題材でした。
=『オズの魔法使い』という寓話=
お若い皆さんは、もはや『オズの魔法使い』がどんな話か知らない人もいるかも知れません・・・
ごく簡単にあらすじを言うと、カンサス州の単調な片田舎で、両親を幼い頃に亡くし叔母さんと農家で暮らす12歳の少女、ドロシーの冒険物語。ある日、大竜巻に吹き飛ばされたドロシーと愛犬のトトの行き着いた先は、カンザスとは似ても似つかぬカラフルなおとぎの国-オズという大魔法使いが支配する”マンチキン・ランド”だった。「家に帰りたいなら、エメラルドの都にいらっしゃるオズ大王に頼めばいい。」-良い魔女に教わったドロシーは、愛犬トトとエメラルドの都を目指します。道中出会った「脳みそ」が欲しいカカシ、「勇気」を願うライオン、「心」を持ちたいブリキ男の命を次々に助け、皆で一緒にオズ大王に望みを伝えようと、一路エメラルドの都へ…色々な冒険をしながら、やっとのことで都にたどり着くと、街の入り口で「ここはエメラルドが輝きすぎて目に悪い」からと、メガネをかけさせられた。すると、そこはまさにエメラルドが輝く美しい都市、しかし、謁見を許された大王の正体は、なんとネブラスカからやってきた手品師兼ペテン師のおっさんで、メガネをはずせばエメラルドの都も普通の街だったのです。結局、カカシ、ライオン&ブリキ男が切望した、勇気、叡智、感情は、数々の苦難を制することのできた彼らに備わっていたものだった。そして、ドロシーも、自分が履いていた魔法の靴があれば故郷に帰れることを知らされる。結局、オズの魔法使いの助けなど必要なかったのだ!ドロシーが憧れた虹の向こうの幸せは、あれほど退屈だったカンザスの叔母さんの家に有った!というお話です。
1900年、原作者フランク・ボームが登場人物に込めた寓意は、かかし=銀行に搾取される西部の農民、ブリキ男=資本家に搾取される東部の工場労働者、ライオン=人民の権利を守ろうとしたW.J.ブライアンという民主党の政治家、悪い魔女=資本家、ペテン師のオズ大王=当時の大統領-であったとされている。それから30年余り、スラム街に育ち、不況倒産の憂き目にあったイップ・ハーバーグにとって、インチキなエメラルド・シティとは、大恐慌後にルーズベルト大統領が、景気回復とバラ色の未来を提唱するニュー・ディール政策だったのです。
=反骨の美学=
映画『オズの魔法使い』はディズニーの長編アニメ『白雪姫』に対抗して巨額を投入したプロジェクトだったが、実のところ、公開当時はそれほどの評判も収益も得られなかった。
この映画が全米で親しまれるようになったのは、むしろ’50年代中盤からのTV放映のおかげだった。奇しくもその時期は米ソ冷戦時代、共産主義者=反政府分子を駆逐しようというマッカーシズム(赤狩り)旋風がハリウッドに吹き荒れた時期と重なっている。’30年代から共産主義は理想主義として若者の間で人気があり、危険視されていなかった。ディジー・ガレスピー始めビバップのミュージシャンもコミュニスト集会で盛んに演奏していた歴史があるし、ビリー・ホリディが『奇妙な果実』を歌った人種混合のクラブ《カフェ・ソサエティ》もまた「赤狩り」によって閉店を余儀なくされたのです。
チャップリンは米国を追放されスイスに移住、膨大な著名映画人が映画産業から閉め出された。ジョン・ウェインやウォルト・ディズニー、ロナルド・レーガンは赤狩りを応援し、オーソン・ウェルズやヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート(写真上中央:妻ローレン・バコールと)達は、違憲な人権侵害だと真っ向から抵抗しましたが、国家権力には勝てません。実のところ、イップの標榜したのは、北欧的社会民主主義で、共産党員であったことはないのですが、立派な(?)要注意人物として’51年から11年間ブラックリスト入りし映画の仕事ができなくなります。でも彼には印税という収入源があり、比較的寛容なブロードウェイに戻って仕事を続けました。
イップは赤狩りでハリウッドを追われ、投獄された脚本家の友人で、「ローマの休日」や「パピヨン」など数多くの名作で映画史に名を残し、後に「トランボ」という映画にもなったダルトン・トロンボが投獄された間には、多額の経済的援助を行っています。
赤狩りのヒステリーが一段落する頃、イップをハリウッドに復帰させたのは、『オズの魔法使い』で〈Over the Rainbow〉を守ったアーサー・フリードだったといいますから、縁の深さを感じます。
イップの反骨精神は一生衰えることはありませんでした。 1944年には、女性開放運動家として、ブルマーという言葉の元になり、南部の黒人奴隷の逃亡を援助する秘密結社で、コルトレーンの曲でも知られる〈アンダーグラウンド・レイルロード〉の幹部でもあった女性運動家、アメリア・ブルーマーをモデルにした『ブルーマー・ガール』の作詞を担当。人種混合のステージで、ヒロインが人権活動家という、何十年も時代を先取りしたミュージカルでさえヒットさせたのだから、さすがはショウ・ドクターです。その3年後には、人種差別と資本家に対する風刺をこめたファンタジー『フィニアンの虹』の脚本、作詞を担当。ブロードウェイで725回のロングラン記録を樹立し、後にフランシス・コッポラが映画化しています。
82歳で天寿を全うしたイップの遺骨は、無神論者らしく海に散骨されたといいます。
「私は単に歌を書いてるだけの男じゃない。自分の歌に、なにかしら特別な意味を持たせたい。」イップ・ハーバーグ (1981)
=参考文献=
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Yip Harburg: Legendary Lyricist and Human Rights Activist 著者: Harriet Hyman Alonso (Wesleyan University Press)
- Who Put the Rainbow in the Wizard of Oz?: Yip Harburg, Lyricist 著者: Harold Meyerson、 Ernie Harburg (University of Michigan Press)
- A Tribute to Blacklisted Lyricist Yip Harburg: The Man Who Put the Rainbow in The Wizard of Oz
- Yip Harburg, ‘Widzard of Oz’, songwriter and Socialist
- Yip Harburg, Beyond the Rainbow : インタビューby Peter W Kaplan /ワシントン・ポスト 2/28, 1981
- A Tribute to a Blacklisted Lyricist Yip Harburg: The Man Who Put the Rainbow in “Wizard of Oz”
- Reading Lyrics 著者Robert Gottlieb, Robert Kimball (Pantheon)
堂々の完結、お疲れ様でした。大変勉強になりました。
イップ・ハーバーグとアイラ・ガーシュウィンが学友だったとか、初めて知ることが多かったです。
実は映画はまだ見たことないのでした。これを機会に見ることにします。
ジバゴさま、不覚にも深入りしてしまいました。
長々と書いたのにも関わらず、最後までお付き合いいただき感謝です。他にも面白い歌がありますので、ぜひ映画見てみてください。
ありがとうございました。