ボビー・ジャスパー:サックスの国から来た男

 bjimages.jpeg 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、フラナガンがNY進出後、最初にレギュラーとして活動したJ.J.ジョンソン・クインテットによる名盤群を解説中。

 13日(土)に取り上げるのは、『Live at Cafe Bohemia』(Marshmallow)、『Overseas』の録音が近づく1957年のライブ録音、J.J.ジョンソンとボビー・ジャスパーと、フラナガン、ウィルバー・リトル(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)による一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルの上で、縦横無尽のアドリブが繰り広げられるダイナミズム、すごい!の一言です。

 

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 今回は、このコンボのテナー奏者、また寺井尚之が最も愛するフルート奏者、わずか37才で早すぎる死を遂げたボビー・ジャスパー(1926-63)について調べてみました。

 ボビー・ジャスパー(本名 Robert Jaspar)は、ベルギー東南部にある、フランス語圏の中心都市、リエージュの生まれ。『Dial J.J.5』や『カフェ・ボヘミア』で聴けるジャスパー・オリジナル”In a Little Provincial Town”(小さな田舎町)は、故郷のリエージュに因んだ曲です。日本では、川島永嗣GKなどが活躍するサッカー・チーム、「スタンダール・リエージュ」の街として有名らしい。
 
 元来、サックスという楽器はベルギー発祥、19世紀にアドルフ・サックスというベルギー人が発明したものですから、、ベルギーとフランスでは、サックスを「いろもの」扱いにするドイツ圏に比べ、サックスはずっと「偉い」楽器で、サックスの為に書かれたクラシック曲が沢山あるそうです。同時に、フランスとベルギーは、ヨーロッパの中でもとりわけジャズを愛好する文化がありました。ジャスパーは、そういう土壌から生まれたミュージシャンだったんですね。

 幼い頃からクラリネットとピアノを学び、19才でプロ・デビュー、24才で、パリを拠点として活動しました。戦時中ナチの占領下であった「花の都」では、ジャズは、自由を象徴する芸術、ジャスパーはレスター・ヤングばりのリリカルなブロウイング・スタイルで、またたく間にトップ・ミュージシャンに踊り出ました。

 

<ジャズのゴーギャン>

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 ジャスパーのパリ時代からの友人で、クラシック畑からジャズまで幅広く活躍するフレンチホルン奏者、デヴィッド・アムラムは、彼について「物静かで内向的な性格だが、音楽への情熱と探究心が人並み外れて強かった。」と語っています。ジャズ・ブロガー、マイク・マイヤーズのアムラム・インタビューによれば、ジャスパーは自分と向き合うため、パリに移る前に一旦活動を休止し、一年間タヒチで暮らした時期があったそうです。『自分の目指すサウンドは何なのか?』 完璧なテクニックを持つ演奏家ゆえの悩みなのか?ジャスパーには、ソニー・ロリンズと共通する、とことん内省的な面があったのかもしれません。

 

<ディアリー・ビラヴド>

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 花の都で6年間、ジャズ界の若き第一人者として君臨したジャスパーは、その地で米国人歌手、ブロッサム・ディアリーと出会い’55年に結婚しました。ディアリーは’52年からNYを離れ、ベルリッツのパリ校でフランス語を勉強する傍ら、高級クラブの弾き語りとして活躍、アニー・ロスとジャズ・コーラス・グループ”Blue Stars of Paris”を結成(ダバダバ・コーラスでお馴染み、スウィングル・シンガーズの前身です)”バードランドの子守唄”のフランス語ヴァージョンをヒットさせています。

 ’56年、夫妻はNYに移り、グリニッジ・ヴィレッジに新居を構え、ジャスパーのNY進出が始動。二人の結婚生活は2年で終わってしまいましたが、終生、友達として親しく付き合い、レコーディングも一緒にしています。

 

<ジレンマ>

  ジャズのメッカ、NYの街で、ジャスパーがびっくりしたのが、街が石畳ではなくアスファルトで覆われていること、そして憧れのジャズの巨人達がうようよ居ること、そして何よりもジャズメンの現実でした。多くの素晴らしい芸術家が生活に困っているなんて、ヨーロッパ人のジャスパーには、全く受け容れがたいことだったんです。
 
 パリからやってきた外人テナー奏者にいち早く注目したのがJ.J.ジョンソン、完璧なテクニックと、クリアで、心に響く歌心は、ジョンソンの最も愛するレスター・ヤングを彷彿とさせ、その持味を最大限に生かしたアレンジを整えて、レギュラーに迎え入れ、ライブやレコーディングに起用、北欧ツアーにも同行し、名演を繰り広げたおかげで、ジャスパーは、ダウンビート誌の批評家投票でテナーの「注目すべき新人部門」第一位を獲得しています。それに目をつけた《SAVOY》《Prestige》などのレーベルもこぞって録音し始めました。ジャスパーはJJバンドの若い同僚、エルヴィン・ジョーンズの演奏に大感動し、フランスのジャズ雑誌「Jazz Hot」にエルヴィン・ジョーンズ論を寄稿したほどでした。フランス語の辞書と首っ引きでも、何が書いてあるか読んでみたいですね!

 

<In New York, You’re Just Another Cat>

 

bobby_jaspar1.jpg 「NYじゃ、誰だってただのキャットさ。」ジャスパーが、友人のアムラムやアッティラ・ゾラ―に、ふと漏らしたのがこの言葉。J.J.ジョンソンの許で15ヶ月活動後、ジャスパーはマイルス・デイヴィスのバンドに起用されています。その後、新進ピアニストだったビル・エヴァンスやジミー・レイニー(g)など、、幅広く活動しますが、パリよりもNYの方が、ずうっとジャズでは食えない土地だった。

 最も耐え難いことは、ヨーロッパでは「鑑賞すべきアート」であるジャズメンの演奏中、大声で話をするガサツなNYのお客!余りのリスペクトのなさに堪忍袋の尾が切れて、ヨーロッパに戻り、古巣の仲間と演奏すると、今度は音楽的に満足が行かない。バンドスタンドでは、アメリカのミュージシャンの方が自分の音楽言語を理解してくれる同胞であり、ヨーロッパのミュージシャンの方が、自分の言語を理解しない音楽的外人だった。聴衆のレベルとミュージシャンのレベルが反比例するどうにも困った状況だ。

 そんなジレンマが災いしたのでしょうか?62年、心臓発作で倒れ、心内膜炎という難病と診断されます。唯一生き延びる選択肢は、当時、大手術であった心臓バイパス手術でした。手術に耐えられる体力をつけるためには6ヶ月間の休養が必須と言われ、精神的にも経済的にも困難でしたが、ジャズパーは平静さを失わず、健康なときと変わらない物静かな人柄だったと多くの友人が証言しています。手術は1963年2月28日に行われ、20リットルの大量輸血をされました。それほどの時間と労力をかけたにも拘らず、術後の合併症で、ジャスパーは3月4日に死去。37才の誕生日からわずか2週間後の早すぎる最後でした。 

 

 晩年は、バリトンサックスやバス・フルートなど、様々な楽器を意欲的に取り組んでいたボビー・ジャスパー、どんな楽器を吹いても、そのサウンドには磨きあげた上等のクリスタルみたいに曇りがありません。超絶技巧なのに、温かく心に語りかけてくるプレイは、レスター派とかいったカテゴリーに入れたくない個性的なものだった。 もしも手術が成功していたら、またタヒチで暮らして、新しいサウンドを見つけたのだろうか?

 

 

sawano_jaspar.jpg 土曜日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」をお楽しみに!CU

 

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