Relaxin’ at Camarillo、西の情景

 Jimmy-Heath.jpg先週末、バードの生誕を記念する,恒例” チャーリー・パーカー・ジャズフェスティバル”がNYハーレムで開催されました。金曜日には、我らがジミー・ヒース(ts)がビッグ・バンドで書き下ろし演目のコンサートを!
 NY特派員、Yas竹田によればジミー・ヒースのプレイは素晴らしく、最高のコンサートだったとのこと!10代でリトル・バードと呼ばれたジミー・ヒースは現在86才!万歳!

 というわけで、先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」<Overseas特別講座>で改めて感動した”Relaxin’ at Camarillo”のことを調べてみました。日本で語られる逸話は、主に、パーカーゆかりの”Dial Records”の創始者でプロデューサー、パルプ・フィクション作家でもあったロス・ラッセルの著書“Bird Lives”からの出典が主のようですから、ここでは、パーカーと同じ世界に生きたミュージシャンの証言集、アイラ・ギトラーの”Swing to Bop”や、バードを神と崇めるミュージシャンたちのインタビューを色々紐解いてみました。

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(Charlie Parker August 29, 1920 – March 12, 1955),

 
カマリロでリラックス

 ・・・と言っても、カマリロは熱海みたいなリゾートではなく、ロスアンジェルスから車で一時間ほどの場所にある精神病院、バードはそこに6ヶ月入院していました。かなり自虐的タイイトルです。

 1946年、パーカーは、ディジー・ガレスピーとのコンボでハリウッドにある”Billy Berg’s”というクラブで演奏、NYに帰る交通費はクスリ代になったのか、コンビを解消し、単身ロスアンジェルスのガレージを改装したアパートで暮らした。LAとNYは、同じ米国でも西と東で、文化も違う。NYでは飛ぶ鳥落とす勢いのパーカー・ガレスピー・バンドも、西海岸ではマニアック。狂喜するのは、ビート族か若手ミュージシャンで、売上げに貢献してくれない客層。一般的な人気はまだまだだった。なにしろ、この当時、西の一番人気がキッド・オーリーのシカゴ・ジャズ、ビバップと銘打つなら、スリム・ゲイラードみたいに歌の入ってなくては喜んでもらえない。私たちがタイムマシンに飛び乗って聴きたいビバップ・バンドへの客足は日に日に遠のいたといいます。

 LAで、バードの一番の仲良しはトランペット奏者、ハワード・マギー、バードはマギーにしょっちゅうお金を無心して、彼の自宅にある酒やマリワナをごっそり拝借して行ったらしい。

 それは、LAの麻薬事情と関係がある。LAではヘロインの流通が少なく、入手困難の上に価格はNYの3倍(!)。曲の名前になるほどバードが世話になった(?)売人”Moose the Mooch”は既に服役していたから四面楚歌。

 

<リトル・トーキョー>

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 ディジーと袂を分かったバードの新しい本拠地は、「クラブ・フィナーレ」という店で、共演者はマイルズ・デイヴィスと、地元のジョー・オーバニー(p)、アディソン・ファーマー(b)、チャック・トンプソン(ds)というメンバーでした。

 その店は意外にも日系人の街、リトル・トーキョーにありました。住所は230 1/2 East First Street、元はオフィスビルの会議室だった場所ですが当時は空き家。大戦が連合軍の勝利に終わった後も、日系人は強制収容されていたから空いていた。皮肉だな・・・日系人がやっとリトル・トーキョーに戻り、死に物狂いで復興を始めるのは、1949年になってからです。
 
 さてParkerFinale-1.jpg、「クラブ・フィナーレ」は会員制、アルコール販売免許がなく、お客が自分で酒を持ち込み、入場料を払いライブを楽しむシステム、夜中から朝まで営業するアフターアワーズのクラブとして、知る人ぞ知る店となります半分非合法な業態ですから、閉店、開店を繰り返し、結局ハワード・マギー(tp)がマネージメントを担当、チャーリー・パーカーがレギュラー出演するので、パーカーを信奉する多くの若手ミュージシャンで大盛況、一時はラジオ中継されるほど賑わいます。ところが、繁盛ぶりを観た警察に「みかじめ料」を要求され、あえなく閉店。バードはたちまち生活に困窮。ガレージの家賃が払えず、安ホテルに引っ越した。

 

 当時のバードの状態をハワード・マギーはこう証言しています。「朝の5時でも、正午でも、夜中でも、バードはガレージで、常に起きていた。ベンゼドリンを大量に飲んでいたからだ。」

[Portrait of Howard McGhee and Miles Davis, Ne...

[Portrait of Howard McGhee and Miles Davis, New York, N.Y., ca. Sept. 1947] (LOC) (Photo credit: The Library of Congress) 

ベンゼドリンは覚せい剤、通称bennyと言われ、ヘロインはhorseと呼ばれてた。

 「起きている間、彼は常に読書をし、勉強していた。クスリでおかしくなっている時以外は、彼はものすごく教養にあふれた深い人間だった。女性には殆ど興味を示さなかった。

 バンドと編曲にしか注意を払わなかった私に、ストラヴィンスキーやバルトーク、ワグナーたちを教えてくれたのもバードだ。よく一緒に”火の鳥”や”春の祭典”を聴いた。」

  尊敬するバードがクスリをやるならと、真似をしたアルト奏者が死亡するという事故も起きた。バードは致死量のクスリを飲み、酒を浴びるほど飲み、何日も寝ない。

1946年7月29日、歴史的に有名な”Lover Man” セッションの夜、、ついに錯乱状態になり、ホテルのロビーに全裸で表れて注意され、その間には部屋で消し忘れた煙草でベッドが燃えてボヤ騒ぎ。10日間の勾留後、カマリロ精神病院に送られた。

<ようこそカマリロ精神病院に>

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 後記:上と左の写真は、ジョン・コルトレーンのエキスパート、藤岡靖洋氏が膨大なフォト・コレクションの中から探して送って下さったものです。上は現カリフォリニア州立大チャンネル・アイランド校となっているカマリロ病院。左は”ベル・タワー”、元男性患者の病棟で、バードが滞在していたと推測される建物です。Fuji先生ありがとうございました!)


 バードが6ヶ月過ごしたカマリロ州立精神病院は、1997年に閉院し、今はカリフォリニア州立大学の一部になっている。彼が入院していた頃は4000人を超える患者であふれていた。

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 彼はなかなか手ごわい患者、なにせ頭がいい。おかげで、彼を担当した精神分析医は、彼の精神状態を全く理解することが出来ずに、自殺未遂をします。ウィーン出身の研修医、ミイラ取りがミイラになってしまった。

 その間、マギーは何度も見舞いに行き、共演ピアニストだったジョー・オーバニーも治療の為に入院。病棟でであったバードが余りにも太っていたので、最初誰かわからないほどだった。仲間の殆どが再起不能と危惧していたバードは2月に退院し、復活を果たします。

<バスタブで生まれたオフ・ビートのブルース>

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 1947年2月、再びダイアルでセッションが決まりました。メンバーは、マギー、ワーデル・グレイ(ts),ドド・マーマローサ(p)、バーニー・ケッセル(g),レッド・カレンダー(b)、そして何故かドン・ラモンド(ds)、ラモンドは、バードとの共演を大喜びし、ジミー・ロウルズ(p)に大自慢していたといいます。

 録音の一週間前に、リハーサルがあり、マギーはバードを迎えに行きました。するとバードはお風呂に浸かって、譜面を書いている最中だった。LAのその地域で車を止めておくのが心配で、マギーはせかした。

「譜面は僕がバンド用に仕上げるから、もう服を着て行こう!」
 

 それじゃあ頼むわ、とバードが手渡した12小節の譜面。裏から入るオフ・ビートの意表をつくリズムは、これまで観たこともないようなものだった。それが「Relaxin’ at Camarillo」だ。マギーは懸命にパート譜を書き上げて、録音当日にメンバーに配って、バードがテンポを出した。

 ありゃりゃ、バード以外の全員があえなく撃沈。譜面を仕上げたマギーまでわからなくなったといいます。

 それから、格好がつくまで、バード以外の全員が、ゆっくりと譜面を見て練習しなくてはならなかった。

 それを観たバードはうんざりした様子で言った。

「君たちができるようになったら、呼びに来てくれ。」

 バードは酒を買って、車の中で飲みながら待った。マギー達が、一応プレイできるようになった頃、ボトルは空になり、彼は酔いつぶれていた。

 翌日、仕切りなおしの録音で、バードは絶好調!マギーは、彼が本当にカムバックできたことを実感して、嬉しかったといいます。

 <西からの福音書>

 この録音の直後、やはりバードを信奉しアルトを吹いていたジョン・コルトレーンが、キング・コラックスOrch.の一員としてLAにたどり着き、ジャムセッションでバードに遭遇、「Relaxin’ at Camarillo」の譜面をいただき、フィラデルフィアに持ち帰りベニー・ゴルソンと必死で練習したと言います。西海岸からもたらされたバードの新曲の譜面は、西方浄土の経典か、聖なる「福音書」として、うやうやしく取り扱われたんだろうな!

 

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 それから10年、やはりバードを尊敬し、ビバップのエッセンスを中学時代から吸収したトミー・フラナガンが、エルヴィン・ジョーンズとウィルバー・リトルで録音した「Relaxin’ at Camarillo」、フラナガンはドド・マーマローサのイントロをピカピカに磨き上げていとも自然に弾いている。オフ・ビートのユニークなリズムがエルヴィン・ジョーンズの鮮烈なブラシで一層際立ち、曲の解像度が大幅にアップしている。

 このときチャーリー・パーカー没後3年、もしもバードがジミー・ヒースのように長生きしてくれていたら、どこかのセッションで、このトリオと演ってくれたかも知れないですね。

 フラナガンは、それから40年後、『Sea Changes』で再録音し、ライブでも何度か演奏したのを聴きました。47年に、ミュージシャン達が度肝を抜かれた意表をつくリズムは、すっかりトミー・フラナガン達の血となり肉となって行ったんですね。

 

 

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