11/16は我らがトミー・フラナガンの命日です。亡くなってから13年の月日が経ちましたが、敬愛の思いは高まるばかり。
命日前の15(土)はトミー・フラナガン・トリビュート・コンサート開催!
フラナガンの弟子、寺井尚之(p)が自己トリオ”The Mainstem”で在りし日の名演目をお聴かせします。
それに先駆けて、フラナガンが亡くなる直前に遺したインタビューの邦訳を掲載。
元々、<デトロイト・フリー・プレス>というサイトが、2001年9月のデトロイト・フォード・ジャズフェスティバルのPRとして、目玉となるフラナガンがNYヴィレッジヴァンガード出演した際、行われたインタビュー。
体調を崩していた時期ですから、 このデトロイトのジャズフェスティバル実際に出演を敢行していたのかどうか・・・私も覚えていません。
リーマンショック以降、フェスティバルのスポンサーが代り、このインタビューのオリジナル記事もネット上からは消滅していますが、フラナガンのプレイや、Jazz Club OverSeasでの寺井尚之を聴いて、よく話題にされるピアノのタッチについて語る希少なインタビューです。
聴き手: マーク・ストライカー
伝説のタッチ:デトロイト出身トミー・フラナガン、
ジャズフェスティバルに出演、深みと艶、スイングするビバップを故郷へ!
NY発
トミー・フラナガンがセヴンスアヴェニューのヴィレッジ・ヴァンガードへと通じる階段を降りていく。おぼつかない足取りで、まだガランとした店内を少し見回してピアノの方へ向かうと、まるで古い友だちと握手をするかのように、いとおしげに鍵盤に指を滑らせた…
今回の【フォード・デトロイト・ジャズフェスティバル】の看板ミュージシャン、トミー・フラナガンはデトロイトが生んだ最高の音楽家の一人である。彼が始めてヴィレッジ・ヴァンガードに出演したのは50年代後半、トロンボーン奏者JJジョンソンのサイドマンとしてであった。近年、フラナガン率いる最高のトリオは、このジャズの神殿で演奏する機会が一層増えている。
だが今日、静かな午後のひと時、フラナガンは自分自身や、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン達、この世界一有名な地下室(ヴィレッジ・ヴァンガード)のすすけた壁に掛けられた今は亡きジャズの英雄たちの為にプレイしている。
柔らかなコードがまた別のコードへと、川の流れの様に移り変わり、やがて茫洋とした霧の中からメロディが顔を出す…1937年作の佳曲”ゴーン・ウィズ・ザ・ウィンド”だ。これを聴くとフラナガンはあらゆる曲を知っているのではなく、良い曲しか知らないのだと改めて思う。次第に”公園を散歩しているような”ゆったりとしたテンポへと滑り込み、無邪気なスイング感、絶妙に入るカウンターメロディ、シングルノートのラインがクリスマスツリーの飾りの様に和音に絡まる、エレガントなビバップのフレーズで、円熟の即興演奏がどんどん繰り出される。
フラナガンのリリカルなタッチは今や伝説だ。まるで一音一音が絹に包まれた真珠の様である。このタッチの事が曲が終わってからの最初の話題となった。
“頭の中でイメージしている音に注意深く耳を傾け、それを忠実に再生すると、こういうタッチになるのだ。”―優しい声がステージから静かに響く。
“強いイメージでハードに弾きすぎることは決してないね。自分で音が大きすぎるなと感じたらソフトペダルを使う事にしている。それが好きなんだ。ハードに弾いて、ソフトなサウンドを出す。――なにしろ家のピアノはおんぼろでひどい音だからね。(笑)”
今年71歳になるフラナガンの演奏ぶりは、天国で一番ヒップな天使のようだ。気品と気合い、スイング感とクレバーさ、ウイットと温かみが、絶妙にミックスして、聴く者を魅了する。彼の故郷での演奏は2年ぶりのことである。病気で、昨年オーケストラホールで予定されていた71歳を祝うコンサートのキャンセルを余儀なくされたフラナガンにとって、今回のジャズフェスティバルが、ヴェテラン・ドラマー・アルバート・ヒース、ピーター・ワシントン(b)という彼の新編成のトリオの、故郷への初お目見えとなるのだ。
〔輝かしい経歴〕
現在、フラナガンの持ち味である詩的モダニズムは世界的に高く評価されているが、いつの世も常にそうだったわけではない。彼のキャリアの第2章が始まる70年代後半までは、ミュージシャン仲間以外には知る人ぞ知るの存在で、ベテラン伴奏者というのが一般的な評価であった。それはフラナガンの控えめな性格と彼の経歴が災いしたのだった。1962―1965、及び1968―1978と通算14年間、エラ・フィッツジェラルドのピアニスト(このブランクに短期間トニー・ベネットのピアニストも務める。)として活動したフラナガンのリーダー作は少なく、1960―1975にかけて自己名義のレコーディングは皆無である。しかし一方ではサイドマンとして、数多くのレコーディングをしている。例えば<コレクターズ。アイテム/マイルス・デイヴィス>、<サクソフォン・コロッサス/ソニー・ロリンズ>、<ジャイアント・ステップ/ジョン・コルトレーン>といった’50年代の古典的名盤の数々である。
転機は1978年に訪れた。心臓発作に襲われ、17日間の入院生活を余儀なくされたのである。彼は禁煙と節酒をし、エラに辞意を伝えた。まもなく自己トリオ結成、洗練されたスタンダード曲や、サド・ジョーンズ、モンク、タッド・ダメロン、ビリー・ストレイホーン、デューク・エリントンの、余り演奏されることのないオリジナル曲に独特の解釈を加え、見事なヴァージョンに仕上げる事を身上とする一連のピアノトリオ時代の幕開けである。
フラナガンはNYの様々なクラブに常時出演するようになり、ヨーロッパの小さなレコードレーベルで一連の名作をレコーディングした。アメリカの大手レコード会社がフラナガンを支援するようになったのは、1998年になってからのことで、名門BLUENOTEが<サンセット&モッキンバード>を製作、この頃になってやっと、フラナガンの名声が確立したのである。
批評家ゲイリー・ギディンスは、数年前フラナガンについて次のように述べた。
”フラナガンは、競争相手のいる場で一番を勝ち取るというよりも、競争とは無縁なところで、自分の最高の力を発揮するタイプだ。 彼は自分にぴったりの分野を確立し、完璧なものに磨き上げた。それはスタイルを超越したスタイルだ。その分野で比較対照できるものをいえば、彼自身の演奏の内、その場でとっさに触発を受け生まれたヴァージョンと、元々固有のヴァージョンの違いといったものが関の山である。”
フラナガンのスタイルには、人を欺く要素がある。絹の様なタッチで有名な彼だが、ある時は鋭いアタックを巧みに駆使して、他のピアニストに負けぬほど深くスイングしてみせる。彼はバップの申し子であり、バップ的な目くるめくリズムの変化や、大胆なハーモニーの使い方―バド・パウエルが確立した奏法スタイル―の達人である。
しかしフラナガンの音楽的ルーツを辿ると、同時に、テディ・ウイルソン、アート・テイタム、ファッツ・ウォーラー、といったバップ以前のピアニスト、またナット・キング・コールや、ポンティアック出身の初期のモダニストハンク・ジョーンズと言った過度的なスタイルのピアニスト達にも行き着く。
フラナガンはこう語る。”最初に影響を受けたのはテディ・ウイルソンだ。力強い演奏でありながら、タッチが美しい。そんな彼の演奏に感動すれば、自分もそう言う風に弾きたいと必死に願うものだ。そんなわけでここ20年ほどの間に私の音量は大きくなってしまった。前に『ピアノの音がうるさすぎるから』と言われドラマーに辞められた事があった。” フラナガンはこの皮肉な話を笑い飛ばす。”ピアノ弾きに向かって音がうるさいと文句を言うドラムなんて考えられん。”
フラナガンを敬愛する多くの若いピアニストの一人、マイケル・ワイスは、フラナガンのピアノの秘密は、ダイナミクス、アタック、ペダル使いとオーケストレーションに対するアプローチにあると指摘する。
“フラナガンの演奏は、単なるヴォイシングによるのではなく、一音一音、コードのそれぞれは、音の響きを綿密に計算した結果だ。例えばテーマをシングル・ノートだけでまず弾き始める、やがてそこに3度の音などが加わり、そこからいつのまにかオクターブやフルコードに発展して、彼のアドリブへと繋がっていく。アドリブのパートで、クライマックスへ上り詰める瞬間、豊かなオーケストレーションとなる。―メロディの基礎となるコードは、彼のプレイにアクセントや色合いを加える為のものだ。”
フラナガンはクラシックの巨匠達と同様ペダル使いの名人である。ダンパーペダルを駆使し、一音一音を汚すことなく湧き出るアイデアを、滑らかなレガートで繋げていく。
“時々、私の足を観察するためだけに来る連中もいるよ(笑)ペダルを使う時には、その為の呼吸法が必要なんだ。フレージングと同じでね!” (続く)