トリビュート・コンサートの前に:トミー・フラナガンの幼年時代

tommy_red4.jpg

<氏より育ち:Breeding Counts More…>

 

  ジャンルに関係なく、どんな音楽や芸能でも、そのパフォーマンスから、「品格」とか「エレガンス」という、浮世離れしたものが、さり気なく漂っているのを感じると、水戸黄門様に出会った町民みたいに、ひれ伏したくなることがあります。

  私が生で見た事のあるジャズのプレイヤーなら、目まぐるしく変動するジャズの潮流の中、”ザ・キング”として、半世紀以上、全ジャズ・ミュージシャンに尊敬されたベニー・カーター(as,tp.comp.arr.その他何でも)や、ジャズ・ヴァイオリンの最高峰、ステファン・グラッペリ、ピアノならジョージ・シアリング、勿論トミー・フラナガンもその一人!これらの高貴な巨匠達は、銀のスプーンをくわえてお生まれになったのかというと、そういうわけでもないみたい。

george_shearing.jpg  例えばシアリングは、英国の労働者階級の出身、父は石炭の運搬人で、自ら貧乏人の子沢山と言い、望まれない9人兄弟の末っ子として生まれた。生まれながら目は不自由で、子供の頃は、毎月借金取りが集金に来ると、帰っていただく役目をしていたと自ら語っている。盲学校に行くまでは、日曜になると、父さんと公園でクリケットの試合を観戦(!)したり、労働党の演説を一緒に聴きに行ったり、母さんは、末っ子の目の不自由さを忘れさせようと、精一杯、家庭を明るくすることに専心した、と楽しそうに語っている。並み居る巨匠ピアニストと共演するクラシックの指揮者達も鳥肌を立てるほどの、天上の調べのようなソフトタッチの演奏は、子供時代に両親から注がれた愛情によって輝いていたのだろうか・・・

  一方、フランスの至宝、グラッペリは幼い時に母親を亡くし、父は第一次大戦に出兵、残されたステファーヌは孤児院で育った。高貴な音楽性に、家族の豊かな愛情はエレガンスの必須要素でもないみたい。
 

では、我らのトミー・フラナガンの幼年時代はどうだったのだろう?

young_tommy_flanagan.jpgTommy Flanagan(21才,  ’51)、巡業中Ohio州Toledoにて

 

 フラナガンに、時々、子供の頃の話をしてもらったことはあるけれど、その頃は、目の前のフラナガンに夢中で、もっと詳しく聞こうと思いもしませんでした。
  未亡人 ダイアナはトミーが40代の時に結婚したから、NY以前の生活は共有していない。
  フラナガンの生い立ちは、雑誌や書物で、断片的知ることは出来るけれど、インタビューが余り好きでないせいか、なかなか、詳しく語られているものがないのです。 

newyorker-2.JPG  その中で、かなり詳しく両親や子供時代のことが述べられている資料が、“The New Yorker”のアーカイブにあります。ジャズ・コラムを担当していた名ライター、ホイットニー・バリエットがエラ・フィッツジェラルドの許から独立したフラナガンにインタビューした記事(’75 11/20)。インテリ文芸雑誌の代名詞、リベラルにした感じ。カリスマ編集長、ウイリアム・ショーンが采配を振るった時代の古き良き”The New Yorker”の記事、さすがにしっかりした内容です。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 「私が生まれたのは、デトロイト北東部にあるコナント・ガーデンズという地域で、男五人、女一人の六人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟は今もデトロイトに住んでいて、生家には、今も何人か兄弟が住んでいる。 

  (訳注:コナント・ガーデンズ(Conant Gardens)は、1910年代、奴隷解放主義の篤志家が、アフリカ系の人達に提供した住宅地。第一次大戦後に、フラナガンの両親を含め多くの黒人が、南部から好況に沸くトロイトに移住、この街に移り住んだ。フラナガンの両親達が、ここに初めて教会を建立した。)

 88歳で亡くなった父は、ジョージア州、マリエッタ出身(綿畑の多い地域です。)で、第一次大戦後にデトロイトに移り住み、35年間、郵便配達夫として働いた。父はまっすぐな気性でユーモアに富む人だった。良い人間になるために何をすべきかを、身をもって子どもたちに示した。父と私は瓜二つなんだ。父も禿げで、私も若いうちから毛髪がなかったから、かなり長いあいだ、そっくりだったと言える。母は私がNYに移ってしばらくした頃、1959年に亡くなった。父と同じジョージア州出身だが、母の出はレンズと言う町だった。

  母はアメリカ先住民の風貌を持ち(訳注:トミーの祖父はインディアンだ。)、小柄で身長158センチそこそこだった。生活が苦しくなると、通信販売会社の内職でドレスを縫い、会社が送ってくるサンプル用のはぎれでパッチワーク・キルトを作って生計を助けた。

   私にピアノを続けるよう励ましてくれたのは母親だ。母は独学でピアノを弾いていて、兄のジェイ(Johnson Flanagan)がピアノを弾く姿を、幼い私が真似するのを見て、弾き方を教えてくれた。後に私も、ピアノ教師、グラディス・ディラードについて正式なレッスンを受けた。彼女は現在もデトロイトで教えている。ディラード先生は、私にピアノの正しいタッチや運指、指先の使い方をしっかり教えてくれた。」

  (訳注:Gradys Wade Dillardは、デトロイトで音楽を志す多くの黒人子弟が師事したピアノの名教師、後に音楽学校を開設、地域の職能教育に大きく貢献した。バリー・ハリスもディラード・スクール出身。トミーの兄、ジョンソン・フラナガンは後にディラードのピアノ教室で教えるようになり、カーク・ライトシー(p)は彼の教え子だ。ディラードが最も誇りにした生徒がトミー・フラナガン、彼が7才の時、レッスン中にアドリブを弾こうとするトミーに手を焼いて、「ちゃんと譜面通りに練習させてください。」と両親に釘を刺したという伝説があります。)

Art_Tatum-49.jpg    母はいつもピアノに興味を持っていた。子供の頃に、アート・テイタムのレコードをかけたら、一緒に聴いて、『まあ!これはアート・テイタムじゃないの?』って言ってくれて、私はいっぺんに得意になったもんだ。

  アート・テイタム以外に、ファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソンを聴いた。しかしハンク・ジョーンズは格別だった。テディ・ウイルソンをさらにモダンにした感じで、私には大きな意味があった。バド・パウエルも同様だ。バド・パウエルはクーティ・ウィリアムス楽団時代にデトロイトで聴いた。その頃からすでに彼は”バド・パウエルだったよ!つまり、『何だこれは!?今まで聴いたことがない!』という感じのピアノだったんだ。それからナット・キング・コール!深いニュアンス、パワー、スイング感、物凄い魅力を感じた。パルスとドライブ感たっぷりの独特の音色があったからだ。彼はピアノの音に命を与えてバウンスさせていた。

  私をジャズ界に入り、経済的にひとり立ちできるようになったのは、兄のおかげだ。初めてのクラブ・ギグは高校時代だった。セットの合間に他の人達と付き合うには、余りに子供だったので、休憩中は家に帰って宿題をしていた。…」

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

TommyFlanagan1990_COPYRIGHT_EstherCidoncha.jpg

   フラナガンの言葉の端々から、両親やお兄さんに対する尊敬と感謝の気持ちが伝わってきます。お父さんもお母さんも、決してお金持ちではなかったろうし、立派な学歴ではなかったかも知れないけれど、家族をしっかりと守り、きちんと人生を送った。  フラナガンの兄、ジェイことジョンソン・フラナガンはプロのピアニストとして地元で活躍した。ジェイのお孫さん、スコットはアトランタ生まれ、’80年代に広島で英語教師をしていて、私達を訪ねてきてくれたことがあります。やっぱりトミーと良く似ていました。他の兄弟達は、なんでも教育委員会とか、固い仕事についておられたそうです。  フラナガンのユーモアのセンスは最高だったけど、「業界人」っぽい軽薄なところは全然なかった。

 ただ、広く言われているように「温厚な紳士」とか「控えめな性格」といった印象はありません。確かに「紳士」ではあったけど、家の中では、瞬間湯沸器みたいな気性の激しさと、凄まじいほどの天才のオーラをムンムン漂わせていました。彼のプレイそのままに・・・

piano_tommy_flanagan_autograph.jpg 

 寺井尚之メインステムによる、トミー・フラナガン・トリビュートは11月28日(土)。どうぞお越しください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です