第11回トリビュート・コンサート!良い集まりになりました!

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 11月17日に開催したトミー・フラナガンへの第11回トリビュート・コンサート・・・もう11回になったのです。
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 寺井尚之は、このコンサートの為に骨身を削って稽古し、体も指も、脳も、ビシビシに研ぎ澄ました。河原達人(ds)、宮本在浩(b)も、切磋琢磨、色々工夫して、この特別なコンサートに充分備えました。
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左:河原達人(ds)、右:宮本在浩(b)
 トリビュートは楽しい集まりでなくてはなりません。
 近くから、遠くから、トミー・フラナガンを偲んで、色んな方々が集まって、食べたり飲んだり、初対面のお客様同士でも、幕間にはフラナガンの話題で、話が盛り上がる…トリビュートとはそんなイベントなのです。
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 でも、そういう集まりにするためには、フラナガニアトリオの名演が不可欠!オープニングの“ビッティ・デッティ”からアンコールの“ブラック&タン・ファンタジー”まで、じっくりと聴かせてくれました。
 寺井尚之のピアノの音色には、フラナガンへの色々な思いと、自分自身の生き方への確信が満ち溢れていた。
 客席は、お馴染みの常連様からトリビュート初体験の若いお客様までびっしり… 小さな子供達も目を凝らして聴いてくれた、フラナガンの名演目の数々、聴き手のオーラが若い人たちから強く出ているのを感じ、とっても嬉しかったです。来て下さって本当にありがとう!
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埼玉から、何度も家族で来てくださっているKDファミリー!お嬢ちゃんたちも、牛肉の赤ワイン煮込みとフラナガン大好き!お姉ちゃんは河原達人ファンです。
 私はこの夜の演奏を聴いて、色んな曲で色んなフラナガンの姿を思い出した。
 …初めてOverSeasでフラナガン3を聴いた夜の大きく赤いトレーナーの背中、いつかのアンコールで『トミー!トミー!トミートミートミー…』とトミー・コールが起こった時、バンドスタンドから客席に向かって「ミートてなんや?」と言ったときの平然とした表情、うちのコックさんが工夫して作ったピアノ型のバースデイ・ケーキに、真っ赤な顔をくしゃくしゃにして喜んだときの笑顔、優しい言葉を言ってから、頬を突き出してキスを待つトボけた顔、カンカンに怒ったときのかすれた大声…NYのアパートのキッチンでお皿を洗っているフラナガンの妙にまじめな顔…最高の最高のトミー・フラナガン!
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東京から来てくれたサックス奏者タカハシ・アツシさん。
 
 次回のトリビュートは来年3月。ダイアナはトリビュートのイベントをダウンビート誌に記事にさせようと言っていたけど、まあ、そんなことはどっちでも構わない。
これからも、もっともっと楽しい集いに出来るよう、一生懸命がんばります!
皆さん、どうもありがとうございました。
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CU

トリビュート・コンサート曲目説明はHPに近日UP!

演奏:フラナガニアトリオ
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<1st><2nd>
1. Bitty Ditty (Thad Jones)

ビッティ・デッティ
1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)

 ザット・タイヤード・ルーティーン・コールド・ラヴ
2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)

ビヨンド・ザ・ブルーバード
2. Smooth as the Wind (Tadd Dameron)

 スムーズ・アズ・ザ・ウィンド
3. Thelonica(Tommy Flanagan) セロニカ

 ~ Minor Mishap (Tommy Flanagan)マイナー・ミスハップ
3. With Malice Towards None (Tom McIntosh)

 ウィズ・マリス・トワード・ノン
4. Embraceable You(Ira& George Gershwin)

  ~Quasimodo(Charlie Parker)

 エンブレイサブル・ユー~カジモド
4. Mean Streets (Tommy Flanagan)

 ミーン・ストリーツ
5. That Old Devil Called Love (Allan Roberts, Doris Fisher)

 ザット・オールド・デヴィル・コールド・ラブ
5. Easy Living (Leo Robin, Ralph Ranger)

 イージー・リヴィング
6. Rachel’s Rondo (Tommy Flanagan)

 レイチェルのロンド
6. Our Delight (Tadd Dameron)

  アワ・デライト
7. Sunset and the Mockingbird (Duke Ellington)

 サンセット&ザ・モッキンバード
7. Dalarna (Tommy Flanagan)

  ダラーナ
8. Tin Tin Deo (Chano Pozo,Gill Fuller,Dizzy Gillespie)

 ティン・ティン・デオ
8. Eclypso (Tommy Flanagan)

  エクリプソ
<Encore:>Like Old Times (Thad Jones) ライク・オールド・タイムズ
Ellingtonia: エリントニア

Come Sunday (Duke Ellington)

  ~Passion Flower (Billy Strayhorn)

  ~Black & Tan Fantasy (Duke Ellington)

デューク・エリントン・メドレー:

カム・サンデイ~パッション・フラワー~黒と茶の幻想

トミー・フラナガンの遺産:トリビュート・コンサートの前日に・・・

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トミー・フラナガンは6年前の今日、11月16日(金)に亡くなった。
 訃報が届いたその夜のライブは奇しくもフラナガニアトリオ、寺井尚之が溢れる涙をぬぐいもせず演奏した哀しい哀しい“Easy Living”、今も忘れることが出来ない。
 それ以来、寺井尚之は、私のちっぽけな哀しみを遥かに超越した大きなスタンスで、ジャズ講座や年2回のトリビュート・コンサートなど、フラナガンの業績が忘れさられないようにじっくりと良い仕事をしている。それ以上に本業のピアニストとしての力量もムラーツアニキが驚くほど大きくなった。日本人だな!えらいね。
 フラナガンからもらった色々なものを考えると、それは「正しいこと」だと思う。
  OverSeasにいるピアノの音色も、フラナガンの遺産のひとつ。一番上の写真は、今週のピアノ調律の風景です。左が名調律師、川端定嗣氏、川端さんの凄いところは、音程を揃える調律だけでなく、ピアノのアクションの調整技術にある。
 「この音だけ引っ込んでますな。」「これはかさついてるなあ、もうちょっとしっとりさせてほしいわ。」とか、寺井尚之が88ある鍵盤の一本一本のサウンドにあれこれつける細かいいちゃもんに、完璧に応えてくれます。すごいでしょう!調律は正午から日暮れまで、休憩なしですよ。
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 元々、川端さんと寺井尚之に、「調整技術」の本当の意味を教えてくれたのはトミー・フラナガンだった。初めてOverSeasに来たときに、「この音に“ゴースト”がある」と指摘してくれたおかげで、にごりやくすみのないサウンドを追求する術を獲得できたのだった。その後川端さんの技術は、寺井の演奏と同様、飛躍的に向上し、巨匠ウォルター・ノリスをして、「大阪に世界レベルの調律師あり!」と驚喜させる結果となった。
 
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フラナガンはコンサートで演奏するときだけ、ピアノにサインをして行った。2代目のこのピアノにもびっしり…
 「木で出来た楽器には魂が宿る」とTVで霊能者なる人が言っていた。この人の言うこと全てを信じるのは無理だけど、これは本当だ。
 うちのピアノが典型的で、トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナとか、自分好みのピアニストが演奏した後は、調律は落ちていても、「音」そのものは冴え冴えと研ぎ澄まされて伸びの良い、幸せ一杯の音になり、その後数週間は寺井が驚くほど高らかに鳴っている。逆にタッチの汚い荒くれピアニストが一晩弾きまくると、すっかり落ち込んでしまって、川端さんや寺井尚之を手こずらせる。
 トリビュート直前の調律は、川端さんも寺井も舌を巻くほどスムーズに落ち着いた。ピアノにも気合が入っているからだ。
 明日はトリビュート・コンサート、別に厳かな行事でなく、生前フラナガンがライブで愛奏した名演目の数々を、フラナガンをよく知っている人も知らない人も、小さい子供から大人まで、皆が「トミー・フラナガンっていいなあ!」と心から楽しんでもらえれば、一番の供養になると思う。
宮本在浩(b)、河原達人(ds)の二人の名プレイヤーも、わくわくするような楽しい演奏を聴かせてくれることでしょう!
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 これから、明日皆さんにお出しする料理の仕込みにかかります。おいしく作ろう!
 ENJOY!!
 

本日発売!寺井尚之のジャズ講座:「トミー・フラナガンの足跡を辿る4」

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 トミー・フラナガンの命日、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第4巻発売。
 ジーン・アモンズ『Boss Tenor』、ジミー・ヒース『Really Big』など、私の大好きなテナー奏者達の名盤、カーティス・フラーとズート・シムスの顔合わせで楽しい『South American Cookin’』、ジャズ講座受講の皆さんから圧倒的な支持を受けた、明るく深い音色のクラリネット、サックス奏者ジミー・ハミルトンの一連の作品など、一生楽しめるアルバムが沢山解説されていて、読み進むうちに、今まで気づかなかった楽しい聴きどころが判る仕組みです。
 寺井尚之と共に、足跡編集委員会のG先生、あやめ副会長の努力と技量の賜物でもあります。皆さん、ありがとうございました!
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 加えて、ケニー・バレル(g)の隠れた名ヴォーカルなどの楽しさがじっくり味わえるように、私が作った歌詞対訳も付いています。なんたってジャズヴォーカルは一人一人の歌手の歌詞解釈が判った方が面白いよ!スタンダード曲であろうと、歌詞の解釈は歌手の数だけあるのです。
 限定部数なのでお早めに!
 OverSeasに来店されるか、http://jazzclub-overseas.com/about_lecture_book.htmlからお申し込みください。
CU

ジョージ・ムラーツ3レポートできました!

 今週いっぱいかかったコンサート・レポート、やっと出来上がりました。
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 ご興味のある方はこちらまで
 レポートを書き進むと、あのベースの生音が心に甦り、また幸せな気持ちになれました。良いコンサートを聴くと、一生楽しめるのがお得です。
 このInterludeに載せたムラーツの伝記の日本語のページを、(日本語は読めないはずだけど)気に入ってくれたムラーツが、自分のHPにもぜひ載せたいと言うので、現在彼のWEBデザイナー、ジャック・フリッシュ氏が作業中です。彼はマーカス・ミラーやハイラム・ブロックなど、色々なジャズのCDやHPをデザインしていますが、なにせ、日本語を扱うのは初めてなので、打ち合わせが大変です。今も、このエントリーを書いていたら、お達しが来て、仕事してました。出来上がったら、お知らせします…
 ジョージ・ムラーツのサイトには、ツアー日程を知らせてくれるメーリングリスト登録ページもあります。勿論メールは、ジョージ・ムラーツ自身から来ますよ!読みやすい英文のはずです。英語の練習もかねて登録してみませんか?
 http://www.georgemraz.com/contact.htmlにアクセスして、国名(Japan)とあなたのお名前とメルアドを入れるだけなので簡単です。大阪の皆さんは、ぜひOSAKA, JAPANと入れてくださいね。
 登録してくれる人が多ければ、ジョージ・ムラーツが再びJazz Club OverSeasに帰って来る日も近いかも…
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 今回の送迎部長、鷲見和広氏撮影、次にこの名器がOverSeasでしどけない姿を見せるのはいつ?
皆さん、JOIN, NOW!
 

OverSeasで演るのは実に楽しかった!:ジョージ・ムラーツ

「OverSeasでプレイできて凄く楽しかった!」
 
 さっきジョージ・ムラーツから無事に帰国したよとメールがありました。現在は、晩秋のNYでゆっくり休養しているそうです。
 ジョージ・ムラーツ3のコンサート直後に、ダイアナ・フラナガンが、「どうだった?」と電話をかけてきて、こんなことを言います。
「ヒサユキは凄くニホンジンだけど、トミーとジョージも同じようにニホンジンなの。あなた、私の言う意味が判るでしょう?」
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 勿論、姿かたちの問題ではなく心の話です。トミー・フラナガンもジョージ・ムラーツも、“渋さ”や“粋”という日本語にぴったりの趣がある。プロとしての“一分(いちぶん)”をわきまえ、その誇りはサムライのように高い。私達の父親の世代、第二次大戦以前の日本人みたいに「男は黙って…」みたいなところがあるし、お世辞が下手。決して誰にでも愛想のよい応対は出来ないけど、一旦胸襟を開くと、とことん面倒を見てくれる。苦労は口には出さない。・・・なるほど、ダイアナの言うとおりかも知れないな。
 私達が2003年に表通りから、この路地裏に引っ越して僅か2ヵ月後に、来日したジョージ・ムラーツはすぐに訪ねて来てくれました。「ヒサユキ、良い店じゃないか!どんな小さい店でも構わない、君達が元気で幸せなら、それで俺は嬉しいんだから!」と力づけてくれました。私が、ベースの神様、ジョージ・ムラーツを、ついアニキと呼んでしまうのは、こういうところです。
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’89 ヴィレッジ・ヴァンガードの楽屋にて。
 トミー・フラナガンと連れ添った約15年の間、ムラーツはただの一度も「譜面」と名の付くものを渡された事がなかったそうです。トム・マッキントッシュやサド・ジョーンズ、皆が知らない隠れた名曲を、まるで、ずっと以前に聴き馴染んだメロディのように懐かしく思わせる魔法のデュオは、即興演奏の究極のレベルで実現されていたのだった。だからこそ、フリー・ジャズよりもずっとずっと「自由」な演奏になったのだ。
 トミー・フラナガン・トリオに加入したケニー・ワシントンやルイス・ナッシュ達、若手ドラマーが最初、バンドスタンドで途方にくれた時に、ナビゲーターとして彼らを導いたのも、ムラーツだ。フラナガンはムラーツの資質を最初から見通していたのに違いない。共演者のアドリブの行方を、本人より先読みして、ドンピシャのRight Notesを繰り出すムラーツのテレパシーは、譜面を渡さないフラナガンとの共演で一層培われたのではないだろうか?
 
 先週のコンサートで各セットのアンコールとして、お客様を狂気させた<Denzil’s Best>は、ジャズ史上最高のセールスを記録したと言うトミー・フラナガン3のアルバム、『Eclypso』での有名なナンバーです。私たちには信じられないことですが、この曲もレコーディング当日に、トミーの指示で急に演らされた曲だったそうです。なのに、あれほどこなれた演奏やってのけるというのは、神業としか言い様がありません。でも、先週の<Denzil’s Best>には、極上のシングルモルトのように、天才の中で熟成したえもいわれぬ芳香が味わえました。
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先週のコンサートで。
 先週のコンサートの幕間、ごったがえすなかで私はムラーツにお礼を言いました。「ジョージ、どうもありがとう!最高よ!<Denzil’s Best>に、お客さんたち、すっごく喜んでた!」すると、ムラーツはにっこりして、尋ねました。
「タマエ、次のアンコールも<Denzil’s Best>を演って欲しいかい?」
「Umm…<Denzil’s Best>も大好きだけど、ジョージのファンたちはきっと<Passion Flower>も聴きたいんじゃないかしら・・・」
 ジョージは、してやったりとウィンクします。「タマエ、残念だけど、<Passion Flower>はもうプログラムの中に入ってるんだよ!」まるでいたずらが成功した少年のような顔つきでした。
 テナーの巨匠ジミー・ヒースの奥さん、モナがこう言ったことがあります。「偉大なジャズミュージシャンはね、皆子供の顔を持っているの。」
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<FONT size="-1"’02 ブロードウエィの日本料理店で。
 ジョージ・ムラーツという芸術家が「若手」と呼ばれた時代から、現存するジャズベーシストの最高峰と言われる現在に至るまで、幸運にも、レコードだけでなく、殆ど毎年生の演奏を聴き、その人柄にも触れることが出来ました。30年余りの間に世界もジャズ界も大きく変貌し、ムラーツ自身の社会的立場も、西側で活動する自由芸術家から、チェコの至宝へと、大きく変化を遂げました。その反面、スタン・ゲッツやトミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナと言った最良のパートナー達を次々と亡くし、彼と同じレベルの土俵で、立ち会えるミュージシャンも少なくなっています。これからのジョージ・ムラーツは、どのように天才ぶりを発揮して行くのでしょう? 彼がトミー・フラナガンに音楽人生の大きな部分を捧げたように、彼の天才をしっかりと受け止める献身的な天才が、これから現れるのでしょうか?
 偉大な芸術家が熟成していく歳月を、この目で眺めることが出来るとは、何と幸せなことでしょう!
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<FONT size="-1"フィッシャーマン・スタイルのジョージ・ムラーツ&寺井尚之in NY
 コンサート・レポートは近日HPにUP 
なお、お客様からたびたびお問い合わせのある、ジョージとイーヴァ・ビットーヴァの新譜Moravian Gemsの日本購入サイトはこちら!
また、ジョージ・ムラーツのサイトはこちら!
CU

ジョージ・ムラーツ・トリオ!コンサート速報

 <今夜のジョージ・ムラーツ・トリオ!>
2007年 10月25日
沢山のジョージ・ムラーツを想うファンの方々、ジョージ・ムラーツが、”Old Friends”と呼ぶ懐かしいお客様や、ジョージ・ムラーツが大好きな新しいお客様が集まる中で、短いツアー中、最高にまとめて聴かせてくれた素晴らしいコンサートになりました! 
 終演後は皆ゴッキゲンで、アート・テイタムを聴きながらシャブシャブを楽しむ男声合唱団に変貌… これも、霊感を与えてくれた客席の皆さんのおかげです。
 やったぜ、アニキ!
ああ、楽しかった!!今夜来て下さった皆様、どうもありがとうございました!!
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George Mraz Trio :David Hazeltine-piano, Jason Brown-drums



 1st

1. Imagination(Johnny Burke/Jimmy Van Heusen)

2. In Your Own Sweet Way (Dave Brubeck)

3.Wisteria (George Mraz)

4. Too Sweet to Bear (David Hazetine)

5. Waltzing At Suite One (David Hazeltine)

6. My Ideal(Leo Robin/Richard A. Whiting, Newell Chase)

7. For Bill:[Evans](David Hazetine)

Encore: Denzil’s Best(Denzil Best)

 2nd

1. I Should Care(Sammy Cahn/Axel Stordahl and Paul Weston)

2. Show Type Tune (Bill Evans)

3. Passion Flower (Billy Strayhorn)

4.Soft Winds (Fletcher Henderson)

5. Everytime We Say Goodbye (Cole Porter)

6. Wonder Why (Sammy Cahn / Nikolaus Brodszky)



Encore: Denzil’s Best (Another Version)


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 最近ムラーツが愛奏するチェコ製の名器、最高級のワインのように芳醇な音色。スミ&サイコウというベーシストたちがきっちり見守っているので、名器は信じられないほど、無造作に置かれている。
ジョージ・ムラーツ・トリオのコンサートが終わってから、私のメール受信箱は「素晴らしいコンサートをありがとう!」というお客様たちのメッセージで一杯になっています。
 多くのお客様がジョージ・ムラーツの超絶技巧よりも、まず「生の音」を体で感じることが出来て幸せになったということを言っておられました。狭いOverSeasならではの感想です。高いお金を頂いて、逆にお礼まで言っていただけるとは、ジャズクラブ冥利に尽きます。苦労してもやって良かった!!後日、アニキにも報告します。
 まだ、全部の皆さんにお返事できなくてごめんなさいね!
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演奏中、ヘッポコカメラマンの私が撮った写真は昨年のG先生のものと比べて、月とすっぽんのヒドいものでした。でも写真を整理していて驚くのは、ムラーツの手元は兆速の動きでブレていても、頭部が全然ブレていないこと。「ベースだけが勝手に直立して、ムラーツはベースにもたれて弾いているように見える」秘密はここにあります。
 これから、コンサート・レポートを書きます。OverSeasに来れなかった人にも、この皆の幸せを伝えたい!
故に、今週のウィークエンドブログはここまで。
 ちょっと待ってね! CU

ジョージ・ムラーツが来るまえに(2)

George Mraz 公式HPより
<バイオグラフィー>
《チェコ時代》
 1944年、チェコ共和国生まれ、7歳でヴァイオリンを始め、高校時代にアルトサックスでジャズを始める。61年プラハ音楽院入学、66年卒業。
 恐らく、彼が若いうちにヴァイオリンやサックスなどのメロディ楽器に親しんだことは、後にベーシストとして叙情的な資質を成熟に関連しているのであろう。
 ムラーツは回想する。「高校の頃、僕は週末になるとビッグバンドの仕事をしていた。このバンドのベーシストが今ひとつうまくなかった。下手なのか天才なのかどちらかだった。」彼はそう言って笑った。「だって、彼はいつでも間違った音ばかり弾いているように聴こえたからだ。まぐれでもいいからたまには「正しい音」を弾いてくれよって感じだった。でもまぐれ当たりもなかったんだ。それで僕は休憩時間に彼のベースをちょっと借りて、正しい音を弾いてみることにした。そうしたら、『そんなに難しくないじゃないか。』と思ったんだ。それで、ベースを少しやり始めたんだ。気が付けば、プラハ音楽院に入学していた。」
 学生時代から、ムラーツはプラハの一流ジャズグループで活動、卒業後ミュンヘンに移り、ベニー・ベイリー、カーメル・ジョーンズ、レオ・ライト、マル・ウォルドロン、ハンプトン・ホーズ、ヤン・ハマー達とドイツ全土のクラブやコンサートで共演、中央ヨーロッパにツアーをする。
 当時、アメリカ合衆国の国際放送、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)が世界中に発信するウィリス・コノーバーのジャズ番組に大きな影響を受ける。それは彼に、海の向こうの新世界への大きな可能性を示唆するものだった。
「僕が初めて聴いたジャズはルイ・アームストロングだった。地元プラハの軽いオペレッタ放送の間にアームストロングの特別番組が一時間放送されたんだ。僕は、サッチモのへんてこな声に大きなショックを受けた。最初は、なんでこんな変な声でうまく歌えるんだろう?と不思議だったけど、一時間番組が終了する頃には、この日僕が聴いた音楽のうちで、これが一番好きだという結論に達したんだ!それでジャズに興味を持ち始めた。
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ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:ズート・シムス(ts)と
「VOAは深夜一時間ほど放送されていたんだけど、僕のラジオは上等じゃなかったから、ベースの音を判別するのは一苦労だった。仕方なく、ベースばかり聴くのでなく、全部の楽器を聴き、サウンド全体がどういう様に関連しているのか耳を傾けた。だから楽器の種類にかかわらず、色んな楽器から影響を受けた。もちろん、レイ・ブラウン、スコット・ラファロ、ポール・チェンバース、ロン・カーターは、必死になって聴いたよ。」
 このように、ムラーツは、自然に音楽の世界に引き寄せられ、彼の想像力を毎晩出し尽くすクラブで、味のあるベテランに成長して行く。
 「音楽院を卒業できたのは、ある種の奇跡と言えるけど、その後、ミュンヘンでベニー・ベイリーやマル・ウォルドロンと仕事を始めた。しばらくして、バークリー音楽院から奨学金をもらえることになった。丁度、ソ連の戦車がプラハに侵攻したのと同時期のことだ。奨学金を利用する絶好のタイミングだと思った。」
《新世界アメリカへ》
 1968年、ジョージ・ムラーツはバークリー音楽院の奨学生となるや否や即、当地の有名クラブ、レニーズや、ジャズ・ワークショップでクラーク・テリー、ハービー・ハンコック、ジョー・ウィリアムズ、カーメン・マクレエなど一流どころと共演した。
 翌’69年冬、ムラーツはディジー・ガレスピーからNYに来て彼のバンドに加入するよう要請され、ディジーと共演して僅か数週間後、オスカー・ピーターソンと約2年間ツアーをすることになる。その後、サド・ジョーンズ-メル・ルイスOrch.のレギュラー・ベーシストとして6年間活動、70年代後半には、スタン・ゲッツ、サー・ローランド・ハナとのニューヨーク・ジャズ・カルテット、ズート・シムス、ビル・エヴァンス、ジョン・アバクロンビー達と、その後、いよいよトミー・フラナガンとの10年間の共演期を送る。
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ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:トミー・フラナガンと
 ジョージ・ムラーツはアコースティック・ベースへの完璧な資質を持って生まれたアーティストだ。故郷チェコスロヴァキアから、米国に上陸した瞬間から、ミュージシャンの間で大きな評価を得て、確固たる存在感を確立した。それに比べて一般的には過小評価されている気味がある。恐らく、ステージ上でも私生活でも物静かな彼の性格を反映して、バンドスタンドでも、自分の実力をひけらかそうとしないせいかもしれない。
 この無欲な性格ゆえに、ムラーツは素直に、今まで自分が決してリーダーとして活動することを恥ずかしがって避けていたわけではないと認める。
 「ただ、その暇がなかったんだ。」つまり、この30年間、ジャズ界の人名辞典に載る一流ミュージシャン達(サドーメルOrch.、ディジー・ガレスピー、カーメン・マクレエ、クラーク・テリー、スタン・ゲッツ、スライド・ハンプトン、エルヴィン・ジョーンズ、ジョー・ヘンダーソン、ジョー・ロヴァーノetc…)がこぞって、ずっと彼をファースト・コールのベーシストにしていることが、リーダー活動を阻止した主たる原因であることは驚きに値しない。「’92年にトミー・フラナガンのトリオを退団してからは、かなり時間の余裕が出来たよ。」ジョージは微笑みながら付け加えた。「もっと色々なことをやって行っても大丈夫だよ。」
フラナガンの許を去った後、ジョージは、ジョー・ヘンダースン、ハンク・ジョーンズ、グランドスラム(ジム・ホール、ジョー・ロヴァーノ、ルイス・ナッシュ、DIM(ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴ)、マッコイ・タイナー、ジョー・ロヴァーノ+ハンク・ジョーンズ4、マンハッタン・トリニティなど、多岐に渡るフォーマットで活動。
 加えて、リッチー・バイラーク、ビリー・ハート、リリカルなテナー、リッチ・ペリーを擁する自己カルテットを率いている。(このカルテットは、マイルストーン・レコードの一連のアルバムで聴くことが出来る:当レーベルでの第一作“ジャズ”、1997年に、ムラーツが自己作品や、ベーシスト仲間(ジャコ・パストリアス、ロン・カーター、マーカス・ミラー、チャーリー・ミンガス、バスター・ウィリアムス、スティーブ・スワロウ)ばかりを取り上げたアルバム“ボトムライン”で、また、バイラークとハートとのトリオは、“マイ・フーリッシュ・ハート”で堪能することが出来る。
 
 「ジョージはいつも、正にこっちが欲しいと思う音をドンピシャリと弾いてくれるんだ。」 リッチー・バイラーク(p)はムラーツについてこう語る。「それに、まるで彼自身がベースっていう楽器を発明したんじゃないかという位、楽器を知り尽くしたプレイだ。」だが、ムラーツはそれをわざとひけらかすようなことはしない。縁の下の力持ちとして、何をすべきかしっかりと感知しながら、わざと自らの存在を透明なものにしてしまう。「例え、四分音符のランニングしかしなくとも、彼の音の選択は完璧だ。まるで、ソロイストの後ろで、素敵な物語を語っているかのようだ。」彼のプロデューサー、トッド・バルカンは熱っぽく語る。
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ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:フィリップ・モリス・オールスターズで世界ツアーをした時、モンティ・アレキサンダーが若い!(ジョージの左手前)
《レコーディング歴》
 
 ジョージ・ムラーツのレコーディングの共演者は膨大だ。:オスカー・ピーターソン、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、ハンク・ジョーンズ、チャーリー・ミンガス、サド-メルOrch.、NYJQ、ライオネル・ハンプトン、ウッディ・ハーマン、秋吉敏子、ケニー・ドリュー、バリー・ハリス、テテ・モントリュー、ジミー・ロウルズ、ラリー・ウィリス、リッチー・バイラーク、マッコイ・タイナー、アダム・マコーウィッツ、ジミー・スミス、スタン・ゲッツ、ズート・シムス、ペッパー・アダムス、アート・ペッパー、ウォーン・マーシュ、フィル・ウッズ、グローヴァー・ワシントンJr.、アーチー・シェップ、デイブ・リーブマン、ジョー・ロヴァーノ、ジム・ホール、ジョン・アバクロンビー、ケニー・バレル、ラリー・コリエル、ディジー・ガレスピー、チェット・ベイカー、アート・ファーマー、ジョン・ファディス、ジミー・ネッパー、ボブ・ブルックマイヤー、ジョン・ヘンドリクス、カーメン・マクレエ、ヘレン・メリル、エルヴィン・ジョーンズ他書ききれない。
 リーダー作としては、アルタ・レコードから“キャッチング・アップ”、マイルストーン・レコードから、“ジャズ”“ボトムラインズ”“デュークス・プレイス”などがある。
《チェコへの回帰:最新作 Moravian Gems》
 ジョージ・ムラーツの最新作は「モラヴィアン・ジェムズ(モラビアの至宝たち)」だ。モラヴァ民謡を題材とし、鋭いリズム、面白いハーモニー、様々なメロディが、ジャズのスイング感、洗練さ、即興演奏の独創性と合体し新しい世界を構築している。ムラーツは成長期を父の生地で過ごした、西欧では『モラヴィア』と呼ばれる地方だ。彼の心に残る「モラヴァ」の思い出は、緑生い茂る草原、そして陽気で心温かい人々、メリハリの効いた方言で歌われる民謡の数々だ。その思い出が本作でのムラーツのプレイの中に生きている。
 ピアニスト、エミール・ ヴィクリツキーは、本作で一曲以外の全ての作編曲を担当している。もう一人のパートナー、ラツォ・トロップは、ヴィクリツキー・トリオの長年のドラマー、ここに驚異的な才能を誇るシンガー、イヴァ・ビトヴァが加わる。
 ムラーツとヴィクリツキーは、1976年、ユーゴスラビアのジャズフェスティバルで知り合った。ムラーツがNYに移り、世界で最も多忙なベーシストとして、スタン・ゲッツ・カルテットなどで共演をし、一方ヴィクリツキーはボストン、バークリー音楽院卒業後、チェコに帰国しカレル・ヴェレブニー(vib)のSHQアンサンブルに参加して、ピアニストとしての評価を確立していた頃だ。ムラーツ自身は、それに遡り、プラハ音楽院の学生時代にヴェレブニーのバンドで活躍していた。初顔合わせから20年後の1997年、再び二人の大きな出会いが始まった。プラハを訪問した時、ムラーツがエミールに、モラヴィア民謡とジャズを融合した音楽を創るというプロジェクトを提案したのだ。本CDはこの二人のコラボレーションの産物だ。
  二人は、モラヴィア音楽特有のリリシズムと深いエモーションの伝え方や、ジャズのアドリブのポテンシャルなど、モラヴィア音楽の持つ広範な可能性について深く考えていった。
 
 本アルバムのプロデューサー、ポール・ヴルセックは、モラヴィア民謡、特に南モラヴィア地方の音楽のモーダルな特性を指摘する。地理的に孤立していた為だけでなく、その音楽が土地の人に愛され、歌い継がれてきたために、時代や流行の変遷に影響されず、何世紀の年月を経ても、音楽の美質が損なわれずに守られてきたのだ。本能的にモーダルな和声進行を感知する鋭敏な耳を持つモラヴィア人達にとっては、これらの民謡を歌い奏でたり、ちょっと風変わりなものであっても、自然に音楽を作るのはいとも容易いことなのだ。モラヴィア人でない者にとっては、それらの音楽は予想もつかない斬新なものだ。
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ジョージ・ムラーツHPより:イヴァ・ビトーヴァはヨーロッパでは凄いスターらしい。クラシックからアヴァンギャルドまでボーダレスな凄い音楽家だそうだ。
本作のヴォーカルとして、エミールはチェコのみならずヨーロッパ全土で活躍するスター、イヴァ・ビトヴァ を推薦、並外れて清らかな声と、あらゆるフォーマットに対応する柔軟さを持つ大歌手であり、ヴァイオリニストとしても一流、しかも映画界では主役を何本も勤める名女優でもある。ビトヴァは1958年北モラヴィアの街ブルンタル生まれ、母、リュドミラ・ビトヴァは教師で歌手、父、コロマン・ビトヴァは、多数の楽器を演奏し、中でもダブル・ベースの名手である。
 ビトヴァは語る、「私は今回のマテリアルが大好きです。録音前、エミールやラコと一緒にリハーサルをした時は、気楽だったんだけど、ジョージとは初めてだったし、ジャズバンドとレコーディングするのも全く初めてだったの。でもジョージのベースからは、同じ楽器を演奏した私の父コロマンの心臓の鼓動が聞こえてくるようでした。父は素晴らしい音楽家だったんですが、’84年に54歳の若さで亡くなりました。ジョージの演奏には心の底から感動しました。それで、レコーディングではヘッドフォンやモニターは一切使わず、その瞬間の波動を直接感じながら歌うことにしたんです。この方法は私に凄い刺激を与えてくれました。」
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 ジョージとイヴァ・ビトヴァは、今後、本アルバム『モラヴィアン・ジェムズ』からのレパートリーやオリジナル曲を、デュオで演奏する予定。演奏スケジュールはイヴァ・ビトヴァのHPを参照されたい。
水曜日コンサートなので、Interludeで速報をお届けする予定です。CU

ジョージ・ムラーツが来るまえに(1)

 <アニキの肖像>
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 ジョージ・ムラーツが初めてトミー・フラナガンと共演したのは、彼がチェコから渡米した直後の’68で、エラ・フィッツジェラルドのバックであったそうだ。’78年にフラナガンがエラの許から独立後、’92年までコンビを組み世界中を回った。ムラーツはバークリーの卒業生だけど、入学直後から、一流どころから仕事に引っ張りだこだったから、果たして、教室でゆっくりと学ぶ時間があったのか、学ぶべきことがあったのかは判らない。
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 これは懐かしい!初めてOverSeasに二人が来たときのプレス用写真です。
 ジョージ・ムラーツとトミー・フラナガン、この二人の天才は、育った土地も環境も全く違うのに、よく似たところがある。私が近くで眺めていて「芸術家」だなあ…とつくづく思い知るのがこの二人の天才だ。大阪弁なら「けったいな人々」というのがぴったりだ。「けったい」というのは単に“変な”とか“strange”というのとは全然違うよ!もっともっとスケールが大きくて、圧倒的な個性の人、英語で言えば、“Exstraordinary Genius”か…やることなすこと全てドラマチック!
 誤解を恐れずに言えば、芸術家というものは、ある種の超能力者だ。オスカー・ペティフォード(b)が自分を「神に選ばれた者」と言ったのも当然だ。人の心を読み取ったり、言葉を使わなくても、心にダイレクトにメッセージを訴える力がある。芸術家の心の内には、途方もなく熱いマグマのようなものがある。余りに大きく熱いので、噴出を押さえるのに凡人には計り知れない苦労をしているのかなと思う。一旦それが溢れ出すと、誰にも止めることは出来ないからだ。それが芸術家のインスピレーションと呼ばれているものなのかもしれない。
 嬉しい時には太陽がさんさんと輝きそこら中に花が咲く、そうでない時には、部屋の中まで黒い雲で覆われ、嵐が吹き荒れる。まるで古代ギリシャの神々みたいな人たちなのだ。
 だからあれほど世界中の人達を感動させる音を創り出せるのに違いない。そんな時は、私はただ口をあんぐり開けて言葉もなく見とれているだけだ。
 
 
 天才音楽家同士が15年間も一緒にやってきたのは正に奇跡だ。お互いに、特別の深い共感がなければ絶対に不可能な年月だったのではないだろうか。
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’89の暮れに大阪のキリンプラザで一週間フラナガン3が来たとき、一行はOverSeasをリビングルームにしていた。
 寺井尚之はジョージ・ムラーツと一緒にプレイする時のエクスタシーについてこう言う。「演る前に言葉で説明しなくても、わしがどんな風に弾きたいのか、どこでコードを変えるのか、同時に同じところに来るんや。ジョージにはテレパシーがある。一緒に演ると、倍音がいっぱいサウンドして、ピアノごとフワっと浮き上がったような気持ちになるねん。」
 ひとりっこの寺井尚之にとって、ジョージ・ムラーツは一番大切なアニキだ。彼がOverSeasにやって来るずっと前から、理想のベーシストであり初恋の人。だからこそ、今まで非公式に何度も共演しているのに、尊敬の思いが強すぎて、未だ一緒にレコーディングをしようとはしない。私はもうそろそろやってもいいのではないかなと思うのだけど。
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 最近、ジョージ・ムラーツのHPがやっと出来た。
 スケジュールの頁もあり、「おにいちゃん、今頃どこでどうしているのかしらねえ…」なんて、柴又の『とらや』の人々みたいに心配しなくて良くなったのが助かります。
 フラナガンとの懐かしい写真が楽しいフォトギャラリーや、詳細な経歴、日本で新譜を買えるサイトへのリンクもあるのだけど、残念ながらサイトは英文。
 バイオグラフィーの頁は、字が小さくて物凄く長いのですが、ムラーツ自身のコメントや、エピソードも挿入されて、非常に良くまとまっています。そう言えば、これほど詳しく書かれたジョージ・ムラーツ伝は今までになかったのではないかしら… 
 敬遠するには余りに勿体無い内容なので、次の項にバイオグラフィーの全訳を載せることにしました。コンサート直前の参考文献としてどうぞ!