トリビュート・コンサートの前にスプリング・ソングスの話をしよう。(2) They Say It’s Spring

 先週お話したビターなスプリング・ソングと違い、<They Say It’s Spring>はパステルカラーの春の歌、ブロッサム・ディアリーという歌手のおハコでした。
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 フラナガンによれば、名盤<Ballads & Blues>を録音した’78当時には、NYのクラブで彼女が歌うのをよく聴いていたらしい。

 ディアリーの歌はこんな感じです。 
 もし英語がよく判らなくても、歌詞に頻繁に出てくる、”L”とか”M”とか”F”の可愛い響きを、ディアリーはとってもうまく表現して、恋する女の可愛らしさに仕立てているのがわかりますよね。英語の歌詞はこちらにありました。

They Say It’s Spring
Marty Clark/Bob Haymes

<ヴァース>
夢見る少女だった頃、
ありそうもない伝説やおとぎ話、
私は想像の世界で暮らしてた。
正直言えば、
大人になった今でも、
現代人が声高に叫ぶ皮肉っぽい意見には、
どうも疑問を感じるの…
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<コーラス>
春だってね、
だから、羽のように
浮き浮きするんだって。
春だってね、
私たちがかかった魔法も
この季節はよくあることなんだって。

五月のせいなんだって、
ヒナゲシみたいに
チリチリ熱く燃えるのは。
五月はね、
世の中をクレイジーにして、
ぼんやりさせるんだって、

今の私は、
空を舞うヒバリや、
チカチカ光って踊る蛍みたいな気分、
だけど、私には、
この気持ちが、
単なる季節の産物とは
決して思えない。

春のせいだってね、
ウエディングベルが聞こえるのは。
そりゃ、今は春でしょうよ、
だけど、コマドリがさえずりを止め
この季節が終わっても、
私はずっとあなたと一緒。
皆は春のせいだって言うけど、
本当は、愛するあなたのおかげなの。…

 どうですか?春らしい可愛い歌詞でしょう!

bobby_jaspar1.jpg トミー・フラナガンが演奏するときには、必ず「ボブ・ヘイムズの曲…ゼイ・セイ・イッツ・スプリングを」>とアナウンスして演奏していました。
 ところで、若い皆さん、ブロッサム・ディアリーって知ってます?
  白人女性ジャズヴォーカルの一人ですが、Interludeを読んで下さっている方には、J.J.ジョンソン5のテナーサックス、フルート奏者、ボビー・ジャスパーの奥さんと言った方が判りやすいかも知れません。旧友の未亡人だから、フラナガンもディアリーの歌を良く聴きに行っていたのかも知れない。
   好き嫌いは別として、一度聴いたら忘れられない声をしてますよね。だから今でもカルト的な人気があるシンガーなんだそうです。

’70年代のNYの香りがプンプンする、ウッディ・アレンの恋愛コメディ『アニー・ホール』という映画を見たことがありますか?

  

  お笑い芸人と歌手、どちらも余り売れてない二人の、私小説的なラブ・ストーリーなんですが、ヒロインの歌手、アニーの歌を、もっと可愛く、うまく、洗練させたら、ブロッサム・ディアリーになるように思いました。アニー・ホールを演じるダイアン・キートン(実はキートンの本名がアニー・ホールなんだけど…)もディアリーがよく出演していたNYのキャバレー、『レノ・スウィーニーズ』に歌手として出演していました。
 

  ディアリーは、歌手に留まらず、この声と演技力で、アニメの声優をしたり、CMソングでヒットを飛ばしたりしました。ジャズというよりは、むしろシャンソン的な味わい深い詞の語り方で、NYではとっても評価が高いシンガーなんです。
 とはいえ、彼女の歌うThey Say It’s Springは、アメリカのケーキみたいにお砂糖を固めたアイシングがべったり付いた感じで、私にはちょっと甘すぎる。一方、フラナガンのプレイには、彼女の歌に滲み出る無邪気さや可愛さはそのままに、甘さを抑え、曲と歌唱解釈のエッセンスだけが抽出されているように感じるのです。「素材の持つ一番良いところを見抜き、最大限に引き出す。」のがトミー・フラナガン流なのだ!(エヘン)

   先週からお話してきたスプリング・ソングス、フラナガンが、その年に演奏した春の歌は、もっと色々あっただろうけど、これらの曲を聴くと、フラナガンと過ごしたNYの春の香りが甦ります。

   心臓に爆弾を抱えたトミーは、「後何回、自分は春を迎えられるだろうか…」と思いながら渾身のプレイを、毎年披露したのだろうか…

 追憶に浸る私とは違い、寺井尚之は、あの春にフラナガンから盗んだものを、20年近く熟成発酵させ、自分自身のものにしている。そして、毎年、春になると上の曲に加えて、<How High the Moon>とか<All the Things You Are>など、寺井的な色々なスプリング・ソングを聴かせてくれます。だって、春に2週間しかライブをしないトミーと違って、寺井尚之は春夏秋冬毎週4日演奏しなければならないんですから、色んな春のレパートリーが出来ました。

 土曜日はトリビュート・コンサート!フラナガンの雄姿を心に思い浮かべながら、「春」を満喫しよう!

 CU

トリビュート・コンサートの前に、スプリング・ソングスの話をしよう!(1)

 恒例、「トミー・フラナガンに捧ぐ」=春のトリビュート・コンサートがいよいよ来週に迫りました。
 寺井尚之は、他の仕事を極端にセーブし、フラナガンの演目を磨くために一日中ピアノの前。私は本番はハードだから、なるべくスタミナが付くように、香辛料たっぷりのジューシーなスペアリブやカツレツを作ってます。春の野菜と一緒に供すると、日頃あっさり和食が好きなピアニストも、この時期はおいしいと言って食べてくれる。
  何故、春にトリビュートをするかというと、トミー・フラナガンの誕生日が3月16日だから。年2回のトリビュートは、ダイアナ未亡人の要望でもあります。仏教では命日から数えて法事をするけど、西洋では「生誕○年」と誕生日から数えるんですね。先週の誕生日には、ダイアナ未亡人から電話がかかってきて、「ヒサユキに私からハグを!しっかり演奏するように!」と激を飛ばされました。
scrap_from_the_apple.JPG  私の<ヴィレッジ・ヴォイス>スクラップブックは、新聞紙の色が風化してます。
  この時期に欠かせないのが『スプリング・ソングス』とトミーが呼んだ春にちなむ一連の曲。’80年代後半から、フラナガンは、毎年春になると、地元NYのジャズ・クラブにトリオで出演するローテーションを組んでいた。この時期のギグは世界中から出演交渉にやって来るプロデューサー達と、夏期のジャズフェスティバル・シーズンの仕事について交渉するショーケースであったのです。出演場所は、移り変わりの激しいクラブ・シーンで、その時期、最も隆盛でソリッドなプレイを聴かすクラブ、<ヴィレッジ・ヴァンガード>、<ファット・チューズデイズ>、<スイート・ベイジル>、<イリディアム>など、店は年によって色々でした。私達は’91年の4月、<スイート・ベイジル>で、2週間の出演中、ほぼ全セットを聴き、スプリングソングを味わえて幸せだった。
sweetbasil-1.JPGスイート・ベイジルにて。
   NYの春、昼間はポカポカ陽気で、レストランやカフェはどこも屋外にテーブルを出して、街の人々は半袖姿、でも日没後は4月でも毛皮のコートが要るほど寒かった。
    ダイアナは、自分達のアパートから少し南に降りたリンカーン・センターの向かいにある、こじんまりした『エンパイア・ホテル』(左の写真)を予約してくれ、近所の行きつけのレストランも何軒か教えてくれた。車社会のアメリカで、トミーとダイアナにはマイカーがなかったから(それどころか、アパートには食器洗い機も、携帯電話のない頃にミュージシャンが仕事を取るのに必携のファックスすらなかった。)ハイヤーで店に出勤する途中で、私たちをピックアップしてくれた。ミッドタウンからダウンタウンまで、ずーっと皆で歌を歌いながら行くこともあったなあ。
   トリオの中で、毎晩、若手のルイス・ナッシュ(ds)が一番先に店に入って、きちっとセッティングを終えている。当時のジョージ・ムラーツ(b)はクイーンズの自宅から、釣竿やバケツと一緒にイタリア製のベースを積んだスズキのセルボでマイカー通勤していた。
   フラナガン3は、通常1週間で出し物が変わるジャズ・クラブで、異例の2週間の連続出演と決まっていた。トップ・ピアノ・トリオの出演に、他店もビッグスターをぶつける。この時期、<ヴィレッジ・ヴァンガード>はマッコイ・タイナー3、<コンドンズ>ではテイラーズ・ウエイラーズと、最高のラインナップだったけど、他店に行く余裕はありませんでした。
   2週間の間に、フラナガンのレパートリーは、一定することなく、毎晩目まぐるしく変わった。バド・パウエル、エリントニア、モンク・チューン、サド・ジョーンズ…そして、さまざまなメドレー、2週間で、のべ100曲は演ったように記憶してます。ある晩演奏したビリー・ストレイホーンの晩年の名曲、<ブラッドカウント>が余りに素晴らしく、滞在中、街中のピアニストの間でずっと話題になっていた。殆ど固定の演目で通す期間もあるのだけど、毎晩、五線紙を鉛筆を持ちながら必死で聴きこむ寺井尚之に、トミーはありったけのレパートリーを聴かしてやろうと思ったのではないかと思う。
 
   そんな中で、毎夜、一曲か二曲必ず演奏するのが、スプリング・ソングだったのです。フラナガンは必ず、「では、スプリング・ソングを一曲」と言ってからおもむろに演る。軽やかなプレイは、新緑のように爽やかで、春野菜のように精気に溢れていながら、アクが抜けていた。決して、ラスト・チューンにするような大ネタではないのだけど、忘れられないNYの思い出だ。
 この時期にフラナガンが演ったスプリング・ソングは、ビリー・ホリディのおハコ、<Some Other Spring>そして<Spring Is Here>、そして、フラナガン・ファンなら、名盤『Ballads & Blues』での名演が忘れられない<They Say It’s Spring>だ。
最初の2曲は、ふきのとうみたいに、ほろ苦い春の歌。
 
<サム・アザー・スプリング>は、テディ・ウイルソンの妻であったアイリーン・ウイルソン、後のアイリーン・キッチングスが作曲した。もう一つのホリデーのおハコ、<グッドモーニング・ハートエイク>を作曲したアイリーン・ヒギンボサムと同じ人だとずっと思っていたのですが、アイラ・ギトラー達が別人であると証言しているいます。知らなかった…
 ピアニスト、作編曲家のアイリーンはテディより年上で、先に名声を獲得していて、夫の出世に大いに貢献した。ところがテディは自分が有名になると、妻を捨て他の女性と駆け落ちしてしまう。傷心のアイリーンは、ある日、レストランで、離婚の嘆きを親友達に聞いて貰っていた。奇しくも、悩みの聞き役は、フラナガンの崇拝するビリー・ホリディ(vo)とコールマン・ホーキンス(ts)だった。その時、テーブル脇のエアコンがブンブン言う音にインスピレーションを得て、この歌が出来あがったと言われている。まあ、天才というのは、凡人にとって非音楽的極まりないものも、名曲の元にしてしまうものなんですね。真っ暗な絶望の中で、小さな小さな希望がほのかに光る、稀有な名歌はテディ・ウイルソンの裏切りのおかげ(?)で生まれたのだった。

<サム・アザー・スプリング>

Irene Kitchings(写真):曲 / Arthur Herzog Jr.:詞
いつか春が来たら、
また恋でもしてみよう、
今は終わりと知りながら、
枯れそうな花に惨めたらしく
しがみつく。
咲き誇ったその途端、
踏みつけにされた花は、
私の恋と同じ。
いつか春が来て、
黄昏が夜に変るとき
新しい恋人に出会えるかしら?
もしもそうなら、
あなたのような人でないように、
「恋は盲目」と言うけれど、
もう私には通用しない。
暖かい日光が降り注いでも、
氷のように凍てつくこの心、
恋よ、お前は一度、
私を救ってくれたけど、
新しい物語は
始まるのかしら?
いつか春が来たなら、
私の心も目覚めるの?
そして、恋の魔法の音楽を
熱く歌えるようになるかしら?
昔のデュエットを忘れ、
新しい恋人と出会うかしら?
いつか、春が来たら。

 <Spring Is Here>は、私のお気に入り、リチャード・ロジャーズ=ロレンツ・ハート作品で、春というのに、失恋に沈む気持ちを、浮揚感のあるメロディに託すバラードです。エヴァンス派が好んで演奏するスタンダードで、リッチー・バイラーク(p)を擁するジョージ・ムラーツ・カルテットがOverSeasで演奏してくれたことがある。
 上の2曲と違って、NYの洒落っ気溢れる春らしい歌が、<They Say It’s Spring>、ブロッサム・ディアリーのキュートな歌唱を聴いてレパートリーにしたとトミーが言っていました。
 ああ…また長くなっちゃった。極めつけのスプリング・ソング、<They Say It’s Spring>のことは来週の前半にお話しましょう。
CU
 

寺井珠重の対訳ノート(6)

もうひとつの”奇妙な果実”
What’s Going On / エラ・フィッツジェラルド


 今週のジャズ講座には、いよいよエラ・フィッツジェラルドの『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』が登場します。さきほど、やっと、当日にお見せする対訳や構成シートが出来上がりました。寺井尚之に何度もダメ出しされて校正をしたものです。MCまで訳したので、物凄い数のOHPシートになっちゃった…
 日本の評論では、何故かエラのライブ盤は「エラ・イン・ベルリン」と相場が決まっているようです。レコードを素直に聴けば、成熟を極めた’70年代のライブアルバム群に軍配が上がるのが自然なのになあ… 中でも、前作の『Jazz At The Santa Monica Civic ’72』と本作はコンサートのスケール自体が凄い。
 カーネギー・ホールのコンサートには、これまで毎日世界中を飛び回っていたエラが、糖尿病の合併症で視力を損い、不本意ながら取った休養中、じっくりと自分の歌を見つめ、熟成発酵させた後がありあり判る。
 詳細は、ぜひジャス講座で寺井尚之の名解説をお聞き下さるか、後に出る講座本をお待ちください。
 愛のゆくえ 今回、私がブッ飛んだこの歌は、オリジナルの2枚組LPではボツになっていた演目です。ヴェトナム戦争終盤の’71年に、マーヴィン・ゲイが大ヒットさせた反戦歌だけど、リリース時の日本名は「愛のゆくえ」だった。当時の洋楽ディレクターはとてもクレバーですね。この歌の社会性を前面に出さずにプロモートしたかったのでしょう。
 マーヴィン・ゲイやこの歌については、Interlude読者の皆さんの中に、私よりずーっと詳しい方々がおいでになると思います。トミー・フラナガン達がNYに去った後のデトロイトで、黒人が黒人音楽をビジネスにして大成功した稀有な会社、モータウン・レコードの看板スター、マーヴィン・ゲイが、モータウンの総帥、ベリー・ゴーディの反対を押し切り’71年にリリースした反戦歌です。
 ゴーディが反対したのは、売れないからではなく、反戦フォークソングがビッグ・ビジネスになった’70年代でさえ、まだまだ「黒人は政治問題にタッチするべからず。」という不文律があったからこそ、反対したのだ。
 それでもゲイ自らプロデュースし、リリースにこぎつけた<What’s Going On>はモータウン創立以来の大ヒットを記録し、批評家からも絶賛される。でも、マーヴィン・ゲイはアメリカ国税庁にマークされ、一時は破産状態となり、「薬物中毒、情緒不安定」というレッテルを貼られ、45歳の誕生日、「情緒不安定な父親」に銃殺されてしまった。
 その昔には、ジャズの世界でも似たようなことがあった。合衆国で人種の差別や区別が行われていた頃の話、’30年代のNYには、出演者もお客様も、人種の分け隔てをせず、最高のエンタテイメントを提供することで人気を博した<カフェ・ソサエティ>という革新的なナイトクラブがあった。その店のスターだったビリー・ホリディが歌って、大センセーションを巻き起こしたのが、南部でリンチによって木に吊るされる残酷な人種問題の歌「奇妙な果実」だ。これがホリディの歌の真髄かどうかは判らないけれど、彼女のレコードの内で最高のセールスを記録し絶賛された。しかし、その結果どうなったか?<カフェ・ソサエティ>の来店者は、FBIに監視され、名オーナー、バーニー・ジョセフソンは、「共産主義者で、しかも薬物中毒」であると、芸能レポーター達にバッシングされた挙句、店は閉店、ホリディ自身は麻薬所持現行犯で逮捕され、NYクラブ出演のライセンスを剥奪され、マーヴィン・ゲイより一才若く、僅か44才で亡くなった。
 本作で、エラはビリー・ホリディに捧げ、<Good Morning Heartache>の名唱を披露している。これもぜひ聴いて見てください。
カフェソサエティ
カフェ・ソサエティで歌うビリー・ホリディ
○   ○   ○   ○   ○
 ’73年当時、ジャズ・ソングの女王、エラ・フィッツジェラルドにとっても、<What’s Going On>は「取り扱い注意」であったことは明白だ。ビートルズやバカラックのヒット・ソングとは違う社会性の強い演目は、エラのマネージャー、ノーマン・グランツが薦めたとは到底思えない。浮世離れしたスター、エラは、この作品を単にヒット・ソングのうちの一つとして歌ったのだろうか?
 答えはNO! 絶対違います。 歌詞を拾って行くと、泥沼化したヴェトナム戦争終盤の’72年、<サンタモニカ・シヴィック>でのライブと、米軍がベトナム完全撤退した直後の本作では、歌詞をガラリと変え、スキャットに至るまで、真正面から楽曲と向き合って、誠心誠意、歌ってるのがよく判るのです。
 <サンタモニカ・シヴィック>のヴァージョンでは、きちんとフルバンのアレンジが出来ており、歌詞はほとんどマーヴィン・ゲイのオリジナルと同じだ。
『Jazz At The Santa Monica Civic ’72』より抄訳
サンタモニカ・シヴィック
マザー、マザー、
こんなに大勢の母親が泣いている、
ブラザー、ブラザー、
こんなに多くの兄弟達が死んでいく、
何か方法を見つけなくちゃ、
愛ってものを、ここに、
持ってくる方法を、今見つけよう!
母さん、母さん、
髪が長いって、皆はなぜ文句を言うの?
兄弟、兄弟、
なぜ、私達が間違っていると言うの?

 ところが、本作では、トミー・フラナガン3+ジョー・パス(g)をバックに、表面上は終結した戦争について疑問符を投げかける歌に仕立てている。
『Ella Fitzgerald/The Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』より抄訳

マザー、マザー、
余りにも多くの母親が泣いた、
ブラザー、ブラザー、
大勢の兄弟が死んで行った、
何とかよい方法を、見つけなくてはならなかったのに。
愛があればこんなことにはならなかったのに。


だから私は言ったのに。
さあ、兄弟達、
私にちゃんと話してよ、


お父さん、お父さん、
戦争が唯一の解決策でないと
もう判ったでしょ。
愛だけが憎しみに打ち勝つの、
暴力でなく、愛で解決する方法を
考えるべきだったのよ。

 マーヴィン・ゲイの、クールな感情表現と違って、「ヘイ、ダディ、何が起こったのか、ちゃんと話しなさいよ!」としっかり相手の目を覗き込む心でエラは歌いかける。これはCover Versionというより、お砂糖がかかった甘い薄皮を引っ剥がして曲の真髄をそのままドンと聴かすUncover-Version なのだ!
 かつてガーシュインもエラのガーシュイン集を聴いて驚いたといいます。『僕の曲が、あれほど良いものとは知らなかった!」と。楽曲の真髄を見抜き、最大限に表出するのがエラとフラナガンの音楽的な共通点なんですね!
 さらに圧倒的なスキャットで、ジャズの曲を引用しながら、畳み掛けるように歌いかける。”I’m Beginning to See the Light (だんだん真実が見えてきた)”、そして”I Cover the Waterfront(波止場にたたずみ)”を引用する。これは、第二次大戦中に、引き裂かれた恋人や家族のシグネイチャー・ソングだ!ジャズ歌手がコンテンポラリーな歌で聴かすスキャットの内で、これを凌ぐものがあるだろうか? 
 でも、当初リリースされた2枚組LPでは、このトラックは収録されていなかったし、当時のNYの批評は、大変醒めたものでした。エラ・フィッツジェラルドが、こういう社会派の歌唱で売れるのは、筋ではなかったのだ。
 
 だけどエラさん、ちゃんと判ってますからね! この歌に取り組んだあなたは真剣だった! あなたはビューティフル、あなたはアメイジングです!!
 土曜日のジャズ講座は、寺井尚之の強い要請で、MCから大向こうの掛け声に至るまで完全対訳付き。歌詞を拾うたび、エラにぶっ飛び、フラナガン達のプレイに涙して、体が揺れて総力を使い果たす私ってアホやわあ。
 
今は、ひたすら講座の解説を楽しみにするのみ!明日は、おいしいポーク・ビーンズを仕込もう。
土曜日は全員集合!
CU

寺井珠重の対訳ノート(5)

淑女の一分(いちぶん):Miss Otis Regrets (Cole Porter)

 最近のOverSeasのライブは、とっても充実していて、一昨日は、各方面で引っ張りだこ、長年OverSeasで根強い人気を持つベーシスト、鷲見和広さんの41歳のバースデイ・ライブで、大変充実した演奏が聴けました。(彼は20代初めからOverSeasで寺井とプレイして、フラナガンやムラーツにも注目されていたし、ピアノの巨匠ウォルター・ノリスとも共演した。)
 OverSeaでは、3月末に寺井尚之フラナガニアトリオにより、トミー・フラナガンへのトリビュート・コンサートも控えているし、のんびりできない日々です。
 店を開けてお客様をお迎えするまでは、仕込みや掃除に加え、来週、3月8日のジャズ講座のために、エラ・フィッツジェラルド屈指のライブ盤、『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』の対訳作りで、楽しい悲鳴をあげています。
 でも、自分が作った日本語を読みながら、エラの天才を楽しんでもらえるってスゴい!すごく光栄です。
 
 日曜になると、対訳を使う寺井尚之と近所の喫茶店で進捗状況の報告会。「(私)あの歌、エラはなぜチョイスしたんやろ?」「(私)この歌、この間のサンタモニカ・シヴィックのヴァージョンと歌詞全部変わってるねん、よういわんわ…(私)」「(寺井)この曲は、えらい変則小節や… あのナンバーでドジ踏んどる奴がおるねん…(寺井尚之)」などと、詳細なミーティング(?)を行うのが又楽しい。
 
 今回のテーマ、コール・ポーターが作った、ちょっと風変わりな歌、Miss Otis Regrets も、勿論このコンサートの収録曲。かつてElla Fitzgerald Sings The Cole Porter Songbook(’56)でもピアノとデュオで歌っているのだけれど、言うまでもなく17年後のエラの歌作りは、トミー・フラナガンの力も手伝って、何倍もスケールアップしている。
 
 昔から、なんか気になる歌だった。
 ミス・オーティスと昼食を共にするために訪問した貴婦人に、屋敷の執事が”マダム”と何度も呼びかけながら、女主人を襲った悲劇を徐々に伝えるドラマ仕立て。ビリー・ワイルダーの傑作古典映画「サンセット大通り」を想起させるコワさがあります。
porter-cole21.jpg コール・ポーター(1891~1964)
 
 下の歌詞は、講座用に製作中のものを一部出しました。完成版は来週のジャズ講座でゆっくりご覧ください!
Miss Otis Regrets 詞曲 コール・ポーター


Miss Otis regrets,

  she’s unable to lunch today, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.

She is sorry to be delayed,

But last evening down in Lover’s Lane

     she strayed, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.



When she woke up and found that her dream

 of love was gone, madam,

She ran to the man who had led her so far astray,

And from under her velvet gown,

She drew a gun and shot her lover down, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.



When the mob came and got her

and dragged her from the jail, madam,

They strung her upon the old willow

across the way, far away

And the moment before she died,

She lifted up her lovely head and cried, madam

"Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today."

残念なことに、ミス・オーティスは、

本日のお昼をご一緒できません、奥様、

お約束を延期にし、申し訳わけないと

申しております、奥様、

実は、あの方は、昨日の夕方、

恋人の小道で道に迷いました、奥様、

残念ですが、ミス・オーティスは、本日、お昼をご一緒できません。



あの方は、うたかたの夢から目覚め、

恋の終わりに気づかれました、奥様、

そして、自分を絶望させた相手に駆け寄り、

ベルヴットのドレスの下に隠した拳銃で、

恋人を撃ったのです。

ミス・オーティスは、残念なことに

本日のお昼をご一緒できなくなりました。



荒れ狂った群集が

あの方を留置場から引きずり出し、

道のずっと向こうの

あの柳の木に吊るしました、

息絶えるその時、あの方は美しいお顔を上げ、

泣きながらおっしゃいました。

「残念ながら、ミス・オーティスは、

今日のお昼をご一緒できない。」と…



 平明な言葉ばかりで、和訳がなくとも、なんとなく判るでしょう? 瀟洒なお屋敷のロビーで、使用人が穏やかな口調でマダムに語りかけます。ラストの断末魔で、昼食が出来ないことを詫びる顛末は、演劇的に過ぎて…色々揶揄する向きもあるけれど、エラが歌うと、ストーリーを損なわずに、全く自然に聴こえてしまう。
 恋に破れた淑女、ミス・オーティスは恋人を撃ち殺す。純潔を汚された淑女の一分(いちぶん)だ。寺井尚之の大好きな曲、Poor Butterflyで、帰らぬ男性を待ち続け最後に自害する蝶々夫人の悲劇が日本の淑女の一分なら、ミス・オーティスは西洋のカウンターパートだ。女性が男性を殺すと、その逆よりも、ずっと大罪だったその昔、それを知った土地の民衆が暴徒と化し、留置場のミス・オーティスを引きずり出し、町外れの柳の木に吊るして処刑しようとする。ミス・オーティスは息絶える前に、凛と顔を上げてこう言う。「残念だけど、今日の昼食は出来ないの。」
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 この歌は「西部」の感じがすると言う書物もあるけれど、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラが着るグリーンのベルベット・ガウンや、「奇妙な果実」のリンチの歌で育った私には、どうもウエスタンの『ハイヨー・シルヴァー!」の世界と言うよりは、「南部」の感じがする。
 
『コール・ポーター・ソングブック』のライナー・ノートによれば、ポーターがレストランで食事をしているとき、他のテーブルから聞えて来たウエイターの応対にピンと来て書いた曲だと言われている。
 「恐れ入りますが、ミス○○はランチにお越しになれないそうです、マダム。」の一言から、こんな刃傷沙汰(にんじょうざた)を連想するコール・ポーターは、第一次大戦中に徴兵を逃れ、パリでジャズエイジに享楽の日々を送った。 自分の生活態度は、アメリカの地方に行けば処刑に値するのではないかという、潜在的な自覚があったのだろうか?
 また、この曲は、ポーターのパリ時代に親交深かったエンタテイナー、ダンサー、シンガー、クラブ・ママでパリ社交界の華と呼ばれたアダ・ブリックトップがショウで歌う為に書かれた。
 
 昨年の秋、英国のTVドラマ、<ミス・マープル:アガサ・クリスティー>の「バートラム・ホテルにて」というエピソードの冒頭シーンに、この歌詞が使われて少し話題になった。1960年代のロンドンで、30年代のエドワード朝時代の懐古的な雰囲気で人気のホテルを舞台にした、おなじみのミステリーなのだけど、ホテルのフロント係りが、電話口で「恐れ入りますが、ミス・オーティスは本日、昼食にお越しになれません。」と話すことで、そんな時代がかったムードを表現したのだった。イギリス人らしいウィットですね!
 この曲本来の姿を探し、「最高のコール・ポーターの歌い手」と賞賛されるボビー・ショートのヴァージョンを聴くととても参考になりました。
 カーネギー・ホールでのエラの歌唱は、おそらくコール・ポーター自身も想像しなかったほど高潔だ。
 「ちょっとソフトな歌を…」と前置きしてから”Miss Otis regrets…” と歌い出すと大拍手が沸く。それほど有名スタンダードではないはずなのだけど、通の多いNYの土地柄を表しているのだろうか?
 エラは、高貴で堂々としていて、決して執事にも女中頭のようにも聴こえない。彼女がベルベットのガウン…と歌うとき、そのドレスの色は、「風と共に去りぬ」のグリーンではなく、深いブルー以外にはないと思えてしまう。私にはMiss Otisの悲劇を語るエラ・フィッツジェラルドは、女中の姿に身を変えたミス・オーティス自身の幻のように聴こえてならないのです。
 寺井尚之のジャズ講座:『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』は3月8日、来週土曜日、お近くの方はぜひどうぞ! 遠くの方はジャズ講座の本で!
 
 CU

寺井珠重の対訳ノート(4)

 My Funny Valentineとシェイクスピアの粋な関係
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ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616) ロジャーズ・ハート・コンビ、右のバーコードの人がロレンツ・ハートです。
 
  寺井尚之のジャズ講座が始まってから足掛け11年、毎月第二土曜は、相変わらず楽しい集い!ビリー・ホリディから始まった私の対訳歴も10年を超えてしまったのですが、今だに名歌手の歌唱解釈、名歌詞に学ぶことが一杯です。
 
  英語の歌詞を日本語に置き換える際には、ごくシンプルな一節でも、その出所や、時代、歌手の歌い方…色んなことを想う。原典の映画や原作、作者の人となりなど、とにかく調べてみる。『スタンダード』と呼ばれる歌は、殆どがジャズ用に書かれたわけでなく、芝居や映画で流行ったもの、俗にティン・パン・アレイと呼ばれるNYの音楽出版の街角が出生地だ。当時の歴史やファッションなど色々調べ回し、全てを一旦ご破算にした上で、歌手の歌唱解釈をもう一度考えてみる。出典とは全く無関係な音楽世界になっているものもあるから、歌の出身ににドップリ浸るのも問題です…
  なーんて言うと大げさですね。ガキの頃から映画好き小説好き。”Sleepin’ Bee”の訳詩の為に、カポーティ短編集一冊読むのも全く苦にならないおっちょこちょいなだけ。
  寄り道好きの私が、このところ気になってしかたないのが、歌詞の後ろに見え隠れするむシェイクスピアの影なんです。クリーム・シチューに白味噌をちょっぴり隠し味として入れるように、バッパーたちがスタンダードを土台にヒップなバップ・チューンを作ったように、フラナガンがアドリブの中にスルっと引用フレーズを織り込むように、シェイクスピアは、幾多のスタンダード・ソングの中にかくれんぼしながらウィンクしているから、発見すると嬉しくてたまらない。
 古典シェイクスピアの戯曲や詩は、著作権がないからか、大部分がネット上で読めるんです。
 
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  シェイクスピアの香り、一番判りやすい例なら、寺井尚之が騒々しい夜に愛奏し、フラナガン3が、『Magnificent』で聴かせてくれる“Speak Low スピーク・ロウ”の歌詞の冒頭部分、

Speak Low
When you speak love,
愛を語るなら小声で囁いて、

  これはシェイクスピアの有名な喜劇「空騒ぎ」第二幕の仮面舞踏会でのくどき文句と同じ。作詞のオグデン・ナッシュが、作曲のクルト・ワイルの口にした名台詞から、一編の歌詞に仕立て上げたと言われている。それ以外にも色々あるのだけど、2月にぴったりのスタンダード曲にも、シェイクスピアの影法師が見えます。
 それはMy Funny Valentine、この歌詞に16世紀の劇作家の影が、もっと巧妙に隠れてました。以前、Interludeで取り上げたThe Lady Is a Tramp同様、”Babes in Arms”の劇中歌、名コンビ、リチャード・ロジャーズ(曲)=ロレンツ・ハート(詞)の作品です。
 ”マイ・ファニー・ヴァレンタイン”は、大スタンダードなのに、とっても誤解されている。
 昔、何かの雑誌で読んだことがあります。「この歌はヴァレンタインという名の恋人へのラブ・ソングで、ヴァレンタイン・デーとは無関係な曲だ。日本人がバレンタインデーにこれを演るのはアホで的外れだ。」と…現在もそういう通念があるみたいです。どうやら”Babes in Arms”の劇中で歌うシチュエーションが、誤解の元になっているのでしょう。
 だけどね、ロバート・キンボール&ゴットリーブ・コンビが編纂したオリジナル歌詞(ランダムハウス社刊:Reading Lyricsより)を見ると、下記のようになってます。訳詩は、以前寺井尚之の生徒達が主催してくれたエラ・フィッツジェラルド講座で使ったものを元にしました。
 エラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン3が’75の2月14日、東京中野サンプラザでの名唱です。エラもバレンタインデーに歌っていたのです。

My Funny Valentine 曲:リチャード・ロジャーズ、詞:ロレンツ・ハート


My funny valentine,

Sweet comic valentine,

You make me smile with my heart.

Your looks are laughable,

Unphotographable,

Yet, you’re my fav’rite work of art.

Is your figure less than Greek?

Is your mouth a little weak?

When you open it to speak

Are you smart?

But don’t change a hair for me.

Not if you care for me,

Stay, little valentine, stay!

Each day is Valentine’s Day.
私のおかしな恋人さん、

可愛い、楽しい恋人さん、

私を心から微笑ませてくれる人。

あなたのルックスは笑っちゃう、

写真向きじゃない。

それでも、私が一番好きな芸術品。

スタイルはギリシャ彫刻に負けてるかな?

口元が弱い?

その口を開けて話したら、

あなたは野暮ったいんだもの。

でも、私を想ってくれるなら、

どんな些細な所も変えないで。

今のあなたでいて欲しい。

あなたとの毎日が私のヴァレンタインデイ。

 
 
 ほらね、個人の名前なら大文字のValentineだけど、歌詞は小文字のvalentine なんです。「a valentine」というのは、ヴァレンタイン・デーににチョコでなくともカードを送る相手、つまり恋人のこと。決して千葉ロッテ・マリーンズの監督の応援歌ではない。
  この歌は、正真正銘のラヴソングなのに、月も星も、”Love”という言葉すら出てこない。それどころか、「写真向きじゃない」とか「野暮ったい」とか、ネチネチ皮肉っぽいことばかり言う。でも、完璧でない恋人が、却って愛しくてたまらない。どうか、不完全なままでいて欲しい。野暮なままでいい!へんてこなところが好きで堪らないの!と、憎まれ口を言ってから、最後にはとっても切ない気持ちが堰を切ったように溢れる。サラ・ヴォーンが歌うと一層セクシーになって…相手へ官能的な情愛がひしひし伝わるでしょう!
  メロディも”都会的”と言うのかな… 例えば夜更けに、セントラルパークを見下ろす瀟洒なアパートの窓からカーテン越しに見える向かいの部屋の風景。薄暗いNYの照明の下で語らう年齢の離れた男女の姿…『プラダを着た悪魔』に出てくる、最新ファッションでキメたメリル・ストリープみたいな人が年下の恋人に、初老のケーリー・グラントがブラック・ドレスと真珠でキメた太眉のオードリー・ヘップバーンに歌うと、ぴったりする感じ。だって、最後の切なさは、青春を通り過ぎたことを知ってる大人が、なりふり構わず愛を告白する構図が表現されてこそ味がある。
   その反面、聴く者に、完璧な人間でもなく見た目もイマイチなこの私でも、こんな風に想ってくれる人がいるかも知れない!という希望を与えてくれる。本当に粋な詞だ!…と、私はずっと思ってた…
 ところが、この間、シェイクスピアのソネット集を読んでいると、こんなのに出会いました。『ソネット』とは、一定のアクセントを持つ14行の詩です。シェイクスピアのソネットには、愛する少年に宛てて書いた詩と、「ダークレイディ」と呼ばれる謎の黒髪の女性の恋人に宛てたものと大まかに2種類あって、この詩は、明らかに後者ですね。
 

新潮社刊:「シェイクスピアのソネット」小田島雄志訳:<ソネット130番>より抜粋
「私の恋人は輝く太陽にはくらぶべくもない。(中略)
 髪が絹糸なら、彼女の頭にあるのは黒糸にすぎない。(中略)
 香水ならかぐわしい香りを放つものがある、
 彼女の息の匂いなど、とうていそれにかなわない。
(中略)・・・・
 だが誓って言おう、私の恋人は、そのような
 おおげさな比喩で飾られたどの女より美しいと。」

 
  ほらねっ!!アイデアが一緒でしょう!日本なら安土桃山時代か、江戸時代初期、エリザベス朝の英国人、ウイリアム・シェイクスピアの発想を、ロレンツ・ハートが取り込んでいた!大発見やー!と、愚かなる私は得意になったのですが、調べてみたら、「詞」ではなくて「詩」関連の英文サイトに同じことを書いていた人がいました。…ネイティブはエラいな…。
   “シャッキーおばさん”なる人の投稿記事を読むと、My Funny Valentineの歌詞には、『この歌はシェイクスピアのこのソネットを読んで書いたんだ』という、ロレンツ・ハートの犯行声明が潜んでいる、というのです。
   ほんまや!そのとおり、My Funny Valentineの歌詞のヴァース以降の「リフレイン」と呼ばれるコーラス部分はシェイクスピアのソネットと同じの14行詩にしつらえられていたのだった。
  ロレンツ・ハートさん、いえラリー(と呼ばせてもらいたい) ニクいね!!
  モダンでウィットに富む作風を身上にしたハートは、第二次大戦中のアメリカのムードにそぐわず、締め切りを守れない生活態度も災いし、学生時代からの相棒、ロジャーズとコンビを解消後は一層アルコールに溺れ、不遇で孤独な最期を遂げた。
  ナチ台頭時代にユダヤ民族としての悩を抱え、さして見目麗しいゲイでなく、抑圧された気持ちを酒で紛らわしていたラリー・ハートの作った、My Funny Valentineは、ひょっとしたら自分宛てのラブソングだったのかも知れない。
 
 来年のヴァレンタイン・デーには、そんなことを思いながら、この曲を聴いてみようかな。Interludeが奨めたいのは、マット・デニスのMy Funny Valentine、都会的で、シナトラほどカッコよくないけど、とっても粋で、ほんとにファニーな芸術作品なんですから。マット・デニスを聴きながらチョコレートを食べよう!(体重注意)
次回のInterludeは、多分カーネギー・ホールのエラ・フィッツジェラルドにヒーヒー言っているはずなので、エラの歌った曲から紹介する予定です。
CU

寺井珠重の対訳ノート(3)

“酒バラ”再発見!
 かつて「映画音楽」や「ポピュラー(軽音楽)」というジャンルがあった頃、「酒とバラの日々」という歌は、テレビやラジオの音楽番組で、国内外の色んな歌手がよく歌っていた。
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The Lady Is a Tramp
 今回のジャズ講座では、エラ・フィッツジェラルドの、ベオグラード(旧ユーゴスラヴィア、現セルビア共和国の首都、)での歌唱を聴くことが出来ます。’71年の録音で、丁度、私がTVでよくこの曲を聴いていたのと同じ時期でした。
 大学に入ると、先輩ミュージシャン達は「あんなもんバイショウ(コマーシャルな音楽のことを指すバンドマン用語。)や。」と、北新地やキャバレーの仕事場での演目と見做し、アーティスティックなランキングは非常に低かった。つまり、ピンからキリまでありとあらゆる演奏家たちの手垢にまみれたスタンダードナンバーという感じ。私も同じようなステレオタイプに囚われ、今回の講座の対訳準備の際も、全くノーマークでした。しかし、実際に訳を作る段になると、このジョニー・マーサーの流れるような歌詞は、非常に手ごわく奥深く、「歌詞」や「歌詞解釈」について色々と考えざるを得なかった。
 それというのもエラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン3の演奏に、しっかりと「歌の心」を聴けたからこそ、愚かなる私が、今まで見過ごしていたことを教えてもらったのです。エラってスイングしていて意味があるなあ!
  この「酒とバラの日々」は、前半と後半に分かれているABAB形式という形なのですが、歌詞には、たった二つのセンテンスしかありません。16小節分の言葉が、綺麗な韻を踏みながら一くくりに繋がっているんです。でも、日本語は英語と語順の構造が違う。歌詞を聴きながら読む為の訳は、なるべく後ろから前への「訳し上げ」を避けたいので、その特徴は残念ながら日本語では出せない。どうぞジャズ講座で、対訳OHPを見ながら、寺井尚之の楽しい解説をお楽しみください。

The days of wine and roses
Laugh and run away
Like a child at play
Through the meadow land toward a closing door,
A door marked nevermore that wasnt there before.
The lonely night discloses
Just a passing breeze filled with memories
Of the golden smile that introduced me to
The days of wine and roses and you.

 エラとトミーを聴きながら、私は歌の情景を色々頭に思い描く…

 明るい太陽がさんさんと降り注ぐ青空の下、見渡す限りの大草原を、まるでフェリーニの映画のように、「酒とバラの日々」の化身である愛らしい子供がキャッキャと笑いながら走って行く。その子を必死で追いかけるのだけど、不思議なことにどうしても追いつくことが出来ない。もう少しで捕まえられると思った途端、その子は不思議な扉に滑り込み、自分もそれに続こうとするのだけれど、扉は閉まってしまう。戸口には“nevermore”(ここから先へは行けないよ)と不思議な文字が書いてあり、自分は途方にくれてしまう。

そして後半になると、同じメロディなのに、情景はガラリと暗転する…
 ふと気が付くと、自分は現実の世界に戻り、深夜、寒々とした寝床にひとりぼっちで横たわっている。今見た情景は、追憶の気持ちが一陣の風になって吹き去った幻でしかなかったのだ。
 過ぎ去った酒とバラの日々、あの人との出会い、自分を輝かしい愛の日々に誘ったその微笑が今も心から離れない。どんなに懐かしんでも、決して輝いていた昔には戻れない。

  相似形の2つのメロディに、フルカラーとモノクロの情景が並置されて、より一層陰影のあるドラマチックな世界を作り上げている。
後半の語り口には、松尾芭蕉が最後に詠んだ俳句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を連想してしまいました。
 エラは、前半ではaway, play, またdoor,more,foreと韻を踏み、後半は有声音“z”の脚韻三連発を明快な発音で完璧にサウンドさせて行く。これは英語を母国語としない歌手には、一層至難の業。すっきり音を作らないと、マーサーの詞も生きずにイケテないバイショウの歌となり対訳を作るのが苦痛になります。
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 ジョニー・マーサー(1909-76)はCapitolレコードの創設者の一員。
 作詞はジョニー・マーサー(1909-76)、 彼をアメリカのポピュラー・ソング界最高の作詞家と絶賛する作詞家は多い。エラのソング・ブック・シリーズの内で、作曲家でなく作詞者のソングブックは、随一ジョニー・マーサー集だけだ。
 ジョニー・マーサーはジョージア州サヴァナの富裕な家庭に生まれたが、家業が没落したために、大学進学を辞め、NYに出て芸能界入り、ビング・クロスビーの後釜としてポール・ホワイトマン楽団に参加、先に歌手として名声を得た後、’30年代から、作詞家としても大活躍した。ちゃんと歌うと、丸みのある最高に美しいサウンドが作られる魔法のような歌詞は、彼自身が良い歌手であると同時に、抑揚の大きな言語文化の(大阪弁みたい)南部出身であるためかもしれません。
余談ですが、クリント・イーストウッドがマーサーの故郷サヴァナを舞台にし、彼の名曲をたっぷり使って、「真夜中のサバナ」という趣向を凝らしたミステリー映画を監督している。観ましたか?ケヴィン・スペイシーやジュード・ロウといった個性派がいい味を出してます。
 マーサーは決してマンシーニ専属ではなく、半世紀に渡る作詞活動の間、殆どの一流作曲家と共作している。マーサー自身も作曲をし“Dream”などの名曲をものにした。今回の講座では、That Old Black Magic(ハロルド・アーレン曲)がマーサーの詞です。
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左:Jazz Poetには”I’m Old Fashioned”、右:ハロルド・アーレン集には、“My Shining Hour”収録
 トミー・フラナガンの名演が印象的な“I’m Old Fashined”(ジェローム・カーン)“My Shining Hour”(ハロルド・アーレン)にもマーサーの響きのいい歌詞がついていて、フラナガンのピアノから、独特の丸いゆったりとしたサウンドが聴こえてきます。ホーギー・カーマイケル作曲の“Skylark”も響きが良くて情感が豊かな名作ですよね。講座本に収録されている曲にも、わんさかマーサー作品があります。そうそう、ビリー・ストレイホーンの超有名曲“Satin Doll”のヒップな歌詞も、マーサーがメロディに沿って付けたものだった。
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 「酒とバラの日々」のポスター、キャッチコピーは、“凍りつくような怖さ、でもこれはラブ・ストーリーだ。”
 「酒とバラの日々」は、アルコール依存症で壊れ行く夫婦の姿をテーマにした同名映画の主題歌で、マンシーニ=マーサーのコンビは’62年の「ムーンリヴァー」(ティファニーで朝食を)に続き、2年連続でオスカーを受賞した。映画は高校時代に見たのですが、余りに深刻な内容でガキにはちょっと判りづらかった。今もう一度観たら、映画の良さも判るかもしれません。
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 <ティファニーで朝食を>オードリー・ヘップバーン、この映画は当初マリリン・モンローの主演が予定されていたという。
 寺井尚之と私にとっては、元気な頃のトミー・フラナガンと過ごした日々が、「酒とバラの日々」だったかも知れない。トミーが寺井をNYに呼び寄せ、街中を食べ歩き、呑み歩き、パーティやジャズ・クラブを梯子した日々、そんな時代には決して戻れないけれど、今もそんなに悪くはない。それなりに人生を一定期間過ごせば、誰にでも、そんな戻れない日々に対する追憶は、あるはずですよね。
 毎晩自宅で晩酌をするせいで、なかなか夜中にブログを書ききれない私には、「酒バラ」は、むしろ映画の方が必見かも…
 新年ジャズ講座は1月12日(土)6:30pm開講!CU

寺井珠重の対訳ノート(2)

エラ流The Lady Is a Tramp 
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In Budapest

 米公共放送の「Piano Jazz」というラジオ番組にゲスト出演したトミー・フラナガンは、エラ・フィッツジェラルドとのコラボ時代を回想し、「彼女がヴァース(本コーラスに入る前の、歌の前置きの部分)を歌う時が、特に楽しかった。」と語った。(番組のインタビュー全文は講座本Ⅲに載ってます。)

 “The Lady Is a Tramp“は’70年代のおハコの一つだ。この歌のヴァースだけで、エラ&トミーは、なんと6パターン持っていたという。歌伴なのに飽きない仕事、これが根っからのバッパーであるフラナガンをエラの伴奏者の位置に引き止めた最大の理由だと思う。
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 今週のジャズ講座に登場する、《Ella in Budapest》のアルバム中、一番対訳に苦労したのがこの曲。(オリジナル歌詞はこちら。)寺井尚之がエラの講座をやるのは、初めてではないので、今まで何度もこの対訳を作っていますが、その度に少しずつ手直ししています。
 余り対訳が説明的になると、エラの楽しさが表現できない。だけど、意味をなおざりにして、何となくやりすごすと、やっぱり楽しさが出ない。

 この曲はロレンツ・ハート(作詞)&リチャード・ロジャーズ(作曲)の名コンビによる作品、1937年というから昭和12年の作品です。”Babes in Arms”というミュージカルで、当時17歳の子役スター、ミッチ・グリーンが歌いヒットしたといいます。

 ブロードウエイで芝居見物するのに、精一杯着飾り、目立ちたいから、わざと開演時間に遅れて劇場に入ったり、ハーレムで夜遊びし、口先だけの社交辞令ばっかりのNYの上流レイディ達、取り澄まして、いけ好かない気風を皮肉った歌詞は、エラのヴァージョンでなく、オリジナル歌詞を読むだけでも充分楽しめる。

 この歌を書いた夭折の作詞家、ロレンツ・ハートは同時代の大ソングライター、コール・ポーターや、この曲のヴァースにも登場するマルチタレント、ノエル・カワードと同じくゲイであったそうだ。この歌にも、ゲイの人特有の、お洒落で鋭い風刺のセンスが感じられる。それが70年経った現在も、古臭く感じない理由かも知れない。私の対訳サポーター、ダイアナ・フラナガンは、この歌詞の視点から、ずっとポーターの歌と思いこんでいたそうだ。

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 左からリチャード・ロジャーズ、ロレンツ・ハート、コール・ポーター、そしてノエル・カワード、カワードは日本では後の二人に比べて有名じゃないけど、劇作家、作詞作曲家、歌手、役者と様々な肩書きを持つイギリス人で、スパイという説があり、007ジェームズ・ボンドのモデルと言われている興味深い人です。

 
 対訳係りとしては、そのお洒落なところを何とか日本語にしたいのだけど…

だけど、”ザ・レイディ・イズ・ア・トランプ”のトランプは、日本語で何と言ったらよいのだろう? 辞書をひいてみようか…(因みに、ポーカーやババ抜きをするトランプはtrampでなくtrumpです。)
  ● 研究社「カレッジ・ライトハウス英和辞典」で名詞の”tramp”の項には、①【主に英】浮浪者、放浪者、④【主に米】〔軽べつ的〕ふしだらな女 :と書いてある。
  ●Merriam-Webster Dictionaryに書いてあることを日本語にすると、①徒歩で旅行する人 ②浮浪者、放浪者、③不道徳な女性、売春婦…と続く。

ダイアナ・フラナガンは、「a trampとは、a hoboであり、同時にa woman (who) sleeps aroundである。」と教えてくれたから、やはり辞書と一緒だ。でも、「寝まわる」なんて…、英語はオモシロイね。

 何故、浮浪者と不道徳な女が、同じ言葉なんだろう?
 ややこしいやん、どないなってんねん?対訳係の心は千路に乱れる。

 ”a tramp”で、思い出すのは、20世紀米文学を代表するJ.D.サリンジャーの初期(’48)の短編”A Perfect Day for Bananafish(バナナフィッシュにうってつけの日)”だ。ケッタイな題名は、ここでは気にしないでください。
 この短編の主人公は、第二次大戦中、戦地で精神を病み、戦後帰還するものの、「戦争なんてアタシにはカンケーない」と、ノー天気でチャランポランな妻を『1948年度のMiss Spiritual Tramp』と呼び、自分がエラい目に会った戦争に無関心な周囲とのギャップを埋められず、ピストル自殺してしまう。この小説の翻訳者の人たちも、”Tramp”の日本語には手こずっているようで、”1948年度ミス精神的るんぺん”とか”放浪者”とか”あばずれ”とか、本によって色々変わっているようです。

 だいたい、日本には、放浪者と性的にふしだらな女をひとくくりにして、一つの言葉で表す文化がないのです。となると、翻訳者は辛い。”Tramp”はステディな相手を定めず、男から男へと放浪する女を軽蔑する英語なのですね。

 この曲のヴァースの、“メイン州からアルバカーキまでヒッチハイクしてたから、大きな舞踏会に出損ねた”、”Hobohemiaこそが、私の居場所”のくだりの“Tramp”なら「放浪者」でしょ。

 1番の歌詞に入り、”嫌いな連中とは付き合わない”つまり、口先だけの社交生活をしないという“Tramp”は、”あばずれ”であるかも知れないけど、”浮浪者”じゃない。

 2番に入ると、エラ流の歌詞となり本領発揮、上流とは程遠く、男にだらしない、いわゆる「あばずれ」の面を、歌詞を変えてわざと強調し、歌の書かれた時代でなく、”現代”のタッチと、歌の楽しさを前面に出して、圧倒的にスイングして行く。

 シナトラの青い目にシビレて見せた後、オリジナル詞の“I’m all alone when I lower my lamp=ランプを暗くして寝る時、私はひとりぼっち”のラインを、エラは、意図的に、こう変える。
“I’m always happy when I lower my lamp. =私がランプを暗くする時は、いつでもハッピーよ。” わざと男性との情事を匂わせて、「あばずれ度」をアップしてから、そういう手合いは”tramp”って言うの!なんか文句ある?と高らかに「寝まわる女」! こう言う歌詞を歌って、品を失わず、楽しくて、スカっと胸のすく印象を与えるのは、エラのキャラクターと歌唱力とのなせる業。これがアニタ・オデイとか、正真正銘のトランプっぽい姐さんだと、こういう風にはいきません。

 サビになると、バンドと一緒にエラは歌全体のカラーを一層すがすがしくさせる。とりすました世間に”Tramp”と軽蔑される女は、髪を風になびかせたり、顔に雨が降りかかるのが気持いい、なんてホザく。ヘアメイクで自分を作りこまない自然体、風が吹いても、ヘアスタイルは崩れないし、雨が降ってもマスカラが落ちてタヌキのような顔にはならないから、気持ちがいいのです。“Tramp”とは、「周囲や既成概念に左右されず、自分に正直な女のこと。」というオチが一層明確になる。だから、平成の時代に聴いても充分共感できる歌になっている。

 
 エラの歌を聴いていると、日本女性でThe Lady Is a Trampと言えば、「男はつらいよ、フーテンの寅」に登場するマドンナ、日本中を旅回りするクラブ歌手、リリーさんが思い浮かびます。(ちょっとメイクはキツいですが、心根が似てます。)
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  エラ・フィッツジェラルドは、歌っている言葉の意味が判らなくとも、充分楽しめる超一流の大歌手だけど、歌の意味だけでなく、歌詞解釈が判って来るとさらに楽しいものですね。

ジャズ講座:Ella in Budapestは12月8日(土) 6:30開講、寺井尚之の名解説に乞うご期待!CU

寺井珠重の対訳ノート(1)

何故対訳を作るのか?
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ワシントンDCスミソニアン博物館にあるブダペストでのエラ・フィッツジェラルド・コンサートのポスター、この前年に同地で開催されたコンサートの模様は次回講座で!
 ジャズ講座が来週に迫って来ました。いよいよトミー・フラナガンのディスコグラフィーが’70年代に入り、しばらくはエラ・フィッツジェラルドとの共演作が続くので、私はサラ金地獄のように、対訳に追われる毎日が続いてます。’97年第2学期のビリー・ホリディ講座以来、今までのジャズ講座の為に、何曲の対訳を作ってきたのか到底数え切れません。今月だけで約35曲は作る予定です。
 現在は書店にジャズのスタンダード曲の出版物や、ネット上に訳詩サイトも数多くあるのに、何故私はいちいち対訳を作っているのでしょうか? 
 第一の理由として、書物やネット上の訳詩は、スタンダード曲の元の形、ブロードウェイや映画などに公開された際のオリジナル歌詞の「意味」を伝えるニュートラルな「情報」となっています。
  
 ジャズであろうとなかろうと、名歌手なら、その歌で何を表現したいのかという「狙い」をドーンと打ち出してくるのですから、ニュートラルな訳では、表現しきれないところが当然出てきます。私はそこのところを、講座のOHPをみてもらいながら一緒に楽しみたいのです!
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左、フラナガンがこよなく愛した歌手ビリー・ホリディ、右、ホリデイに強い影響を受け独自の境地を作ったカーメン・マクレエ
 例えばビリー・ホリディなら、歌詞の歌いまわし一つで、「可愛さ」や「男の罪を赦す女心」ひいては「自分の罪も聴く者の罪も赦す」観音様のような境地を、歌によって色々と出し方を変え、聴くものの心を揺さぶります。逆にカーメン・マクレエなら、可愛さを隠し、人間の「業」というか、瀬戸際の情感をガチンコでぶつけてくる。歌詞自体を変える場合も変えない場合も同じです。講座の日本語訳では、それを出したい!と思いながら、いつも作っています。
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 さて、来週の講座に登場するエラ・フィッツジェラルドはどうでしょう? 彼女の歌詞解釈は寺井尚之の名解説を聞いていただくのが一番ですが、ジャズ講座で取り上げるフラナガンとのコラボ盤の殆どがライブ盤、故に同じ曲でも彼女の歌う歌詞は、9割以上どこか違っています。ステージの流れや、バックとのやりとりで変わったり、伝説となっている「歌詞を忘れちゃった」現象が、逆に凄いアドリブを生み出したりして、歌詞の聞き取り作業は楽しくて仕方ありません。それに加えて、エラはその時代のヒット曲をどんどん取り上げて、自分の歌のしてしまうところも楽しんで欲しい!
 
 おハコの「マック・ザ・ナイフ」にしても、講座に登場するものは、巷で代表作と言われる『エラ・イン・ベルリン』から10年以上経過し、おまけにトミー・フラナガンがバックなのですから、当然、数段スケールの大きな歌唱になってます。
 また、エラには“メドレー”という伝家の宝刀があります。これはトミー・フラナガンが音楽監督になってから、公演を重ねるたびに、どんどん内容が濃くなっていくのを聴くのがまた楽しい!ボサノバ、コール・ポーターもの、デューク・エリントンものなどメドレーと銘打ったもの以外にも、How High the Moonなど、あれよあれよと言う間に何曲登場するか… 替え歌まで入ってくるエラの歌唱、これも対訳を見ながら楽しんで欲しいところです。
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 対訳を作る場合に一番参考になるのは、ロバート・ゴットリーブとロバート・キンボールが編纂した『Reading Lyrics』という、ポピュラー・ソングの歌詞集。何がよいかと言うと、歌詞にカンマやピリオドの「句読点」が記されているのです!これがなくては、正しい日本語訳は絶対に出来ません。ジャズの訳詩の書物やサイトに、句読点がないのはちょっと不思議です。それでも判らないところは、アメリカ人の友達に聞くのが一番手っ取り早い。持つべきものは友!東京で、企業の翻訳の仕事をしているバリトン奏者、ジョーイ北村氏と、元ジャズ歌手のダイアナ・フラナガンが私の一番のサポーター。それ以外にチャック・レッド(ds)やウォルター・ノリス(p)先生など、私の質問に悩まされた人は世界中に数多い。
 今回の講座に登場する“The Lady Is a Tramp”の対訳では、ダイアナに1時間以上付き合ってもらいました。“Tramp”も、ほんま日本語に逐語訳しにくいですね。アバズレでも浮浪者でも、しっくり来ないのがコマる。ダイアナにTrampの意味をしつこく追求したら「ともかく、私のことだって思っときゃいいのよ。」なんて言ってましたが、対訳にうまく反映できたらおなぐさみ。
 ベニー・グッドマンは、ホイットニー・バリエットのインタビュー集でこう言っていました。「アドリブの行方に迷ったら、歌詞を読めばいい。歌詞は最高のナビゲーターだ。どう行けば良いか、そこに全てが記されている。」
 エラ・フィッツジェラルドがわんさか登場するジャズ講座は、12月8日(土)から数ヶ月間続きます。CU!

ジョージ・ムラーツが来るまえに(2)

George Mraz 公式HPより
<バイオグラフィー>
《チェコ時代》
 1944年、チェコ共和国生まれ、7歳でヴァイオリンを始め、高校時代にアルトサックスでジャズを始める。61年プラハ音楽院入学、66年卒業。
 恐らく、彼が若いうちにヴァイオリンやサックスなどのメロディ楽器に親しんだことは、後にベーシストとして叙情的な資質を成熟に関連しているのであろう。
 ムラーツは回想する。「高校の頃、僕は週末になるとビッグバンドの仕事をしていた。このバンドのベーシストが今ひとつうまくなかった。下手なのか天才なのかどちらかだった。」彼はそう言って笑った。「だって、彼はいつでも間違った音ばかり弾いているように聴こえたからだ。まぐれでもいいからたまには「正しい音」を弾いてくれよって感じだった。でもまぐれ当たりもなかったんだ。それで僕は休憩時間に彼のベースをちょっと借りて、正しい音を弾いてみることにした。そうしたら、『そんなに難しくないじゃないか。』と思ったんだ。それで、ベースを少しやり始めたんだ。気が付けば、プラハ音楽院に入学していた。」
 学生時代から、ムラーツはプラハの一流ジャズグループで活動、卒業後ミュンヘンに移り、ベニー・ベイリー、カーメル・ジョーンズ、レオ・ライト、マル・ウォルドロン、ハンプトン・ホーズ、ヤン・ハマー達とドイツ全土のクラブやコンサートで共演、中央ヨーロッパにツアーをする。
 当時、アメリカ合衆国の国際放送、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)が世界中に発信するウィリス・コノーバーのジャズ番組に大きな影響を受ける。それは彼に、海の向こうの新世界への大きな可能性を示唆するものだった。
「僕が初めて聴いたジャズはルイ・アームストロングだった。地元プラハの軽いオペレッタ放送の間にアームストロングの特別番組が一時間放送されたんだ。僕は、サッチモのへんてこな声に大きなショックを受けた。最初は、なんでこんな変な声でうまく歌えるんだろう?と不思議だったけど、一時間番組が終了する頃には、この日僕が聴いた音楽のうちで、これが一番好きだという結論に達したんだ!それでジャズに興味を持ち始めた。
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ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:ズート・シムス(ts)と
「VOAは深夜一時間ほど放送されていたんだけど、僕のラジオは上等じゃなかったから、ベースの音を判別するのは一苦労だった。仕方なく、ベースばかり聴くのでなく、全部の楽器を聴き、サウンド全体がどういう様に関連しているのか耳を傾けた。だから楽器の種類にかかわらず、色んな楽器から影響を受けた。もちろん、レイ・ブラウン、スコット・ラファロ、ポール・チェンバース、ロン・カーターは、必死になって聴いたよ。」
 このように、ムラーツは、自然に音楽の世界に引き寄せられ、彼の想像力を毎晩出し尽くすクラブで、味のあるベテランに成長して行く。
 「音楽院を卒業できたのは、ある種の奇跡と言えるけど、その後、ミュンヘンでベニー・ベイリーやマル・ウォルドロンと仕事を始めた。しばらくして、バークリー音楽院から奨学金をもらえることになった。丁度、ソ連の戦車がプラハに侵攻したのと同時期のことだ。奨学金を利用する絶好のタイミングだと思った。」
《新世界アメリカへ》
 1968年、ジョージ・ムラーツはバークリー音楽院の奨学生となるや否や即、当地の有名クラブ、レニーズや、ジャズ・ワークショップでクラーク・テリー、ハービー・ハンコック、ジョー・ウィリアムズ、カーメン・マクレエなど一流どころと共演した。
 翌’69年冬、ムラーツはディジー・ガレスピーからNYに来て彼のバンドに加入するよう要請され、ディジーと共演して僅か数週間後、オスカー・ピーターソンと約2年間ツアーをすることになる。その後、サド・ジョーンズ-メル・ルイスOrch.のレギュラー・ベーシストとして6年間活動、70年代後半には、スタン・ゲッツ、サー・ローランド・ハナとのニューヨーク・ジャズ・カルテット、ズート・シムス、ビル・エヴァンス、ジョン・アバクロンビー達と、その後、いよいよトミー・フラナガンとの10年間の共演期を送る。
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ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:トミー・フラナガンと
 ジョージ・ムラーツはアコースティック・ベースへの完璧な資質を持って生まれたアーティストだ。故郷チェコスロヴァキアから、米国に上陸した瞬間から、ミュージシャンの間で大きな評価を得て、確固たる存在感を確立した。それに比べて一般的には過小評価されている気味がある。恐らく、ステージ上でも私生活でも物静かな彼の性格を反映して、バンドスタンドでも、自分の実力をひけらかそうとしないせいかもしれない。
 この無欲な性格ゆえに、ムラーツは素直に、今まで自分が決してリーダーとして活動することを恥ずかしがって避けていたわけではないと認める。
 「ただ、その暇がなかったんだ。」つまり、この30年間、ジャズ界の人名辞典に載る一流ミュージシャン達(サドーメルOrch.、ディジー・ガレスピー、カーメン・マクレエ、クラーク・テリー、スタン・ゲッツ、スライド・ハンプトン、エルヴィン・ジョーンズ、ジョー・ヘンダーソン、ジョー・ロヴァーノetc…)がこぞって、ずっと彼をファースト・コールのベーシストにしていることが、リーダー活動を阻止した主たる原因であることは驚きに値しない。「’92年にトミー・フラナガンのトリオを退団してからは、かなり時間の余裕が出来たよ。」ジョージは微笑みながら付け加えた。「もっと色々なことをやって行っても大丈夫だよ。」
フラナガンの許を去った後、ジョージは、ジョー・ヘンダースン、ハンク・ジョーンズ、グランドスラム(ジム・ホール、ジョー・ロヴァーノ、ルイス・ナッシュ、DIM(ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴ)、マッコイ・タイナー、ジョー・ロヴァーノ+ハンク・ジョーンズ4、マンハッタン・トリニティなど、多岐に渡るフォーマットで活動。
 加えて、リッチー・バイラーク、ビリー・ハート、リリカルなテナー、リッチ・ペリーを擁する自己カルテットを率いている。(このカルテットは、マイルストーン・レコードの一連のアルバムで聴くことが出来る:当レーベルでの第一作“ジャズ”、1997年に、ムラーツが自己作品や、ベーシスト仲間(ジャコ・パストリアス、ロン・カーター、マーカス・ミラー、チャーリー・ミンガス、バスター・ウィリアムス、スティーブ・スワロウ)ばかりを取り上げたアルバム“ボトムライン”で、また、バイラークとハートとのトリオは、“マイ・フーリッシュ・ハート”で堪能することが出来る。
 
 「ジョージはいつも、正にこっちが欲しいと思う音をドンピシャリと弾いてくれるんだ。」 リッチー・バイラーク(p)はムラーツについてこう語る。「それに、まるで彼自身がベースっていう楽器を発明したんじゃないかという位、楽器を知り尽くしたプレイだ。」だが、ムラーツはそれをわざとひけらかすようなことはしない。縁の下の力持ちとして、何をすべきかしっかりと感知しながら、わざと自らの存在を透明なものにしてしまう。「例え、四分音符のランニングしかしなくとも、彼の音の選択は完璧だ。まるで、ソロイストの後ろで、素敵な物語を語っているかのようだ。」彼のプロデューサー、トッド・バルカンは熱っぽく語る。
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ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:フィリップ・モリス・オールスターズで世界ツアーをした時、モンティ・アレキサンダーが若い!(ジョージの左手前)
《レコーディング歴》
 
 ジョージ・ムラーツのレコーディングの共演者は膨大だ。:オスカー・ピーターソン、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、ハンク・ジョーンズ、チャーリー・ミンガス、サド-メルOrch.、NYJQ、ライオネル・ハンプトン、ウッディ・ハーマン、秋吉敏子、ケニー・ドリュー、バリー・ハリス、テテ・モントリュー、ジミー・ロウルズ、ラリー・ウィリス、リッチー・バイラーク、マッコイ・タイナー、アダム・マコーウィッツ、ジミー・スミス、スタン・ゲッツ、ズート・シムス、ペッパー・アダムス、アート・ペッパー、ウォーン・マーシュ、フィル・ウッズ、グローヴァー・ワシントンJr.、アーチー・シェップ、デイブ・リーブマン、ジョー・ロヴァーノ、ジム・ホール、ジョン・アバクロンビー、ケニー・バレル、ラリー・コリエル、ディジー・ガレスピー、チェット・ベイカー、アート・ファーマー、ジョン・ファディス、ジミー・ネッパー、ボブ・ブルックマイヤー、ジョン・ヘンドリクス、カーメン・マクレエ、ヘレン・メリル、エルヴィン・ジョーンズ他書ききれない。
 リーダー作としては、アルタ・レコードから“キャッチング・アップ”、マイルストーン・レコードから、“ジャズ”“ボトムラインズ”“デュークス・プレイス”などがある。
《チェコへの回帰:最新作 Moravian Gems》
 ジョージ・ムラーツの最新作は「モラヴィアン・ジェムズ(モラビアの至宝たち)」だ。モラヴァ民謡を題材とし、鋭いリズム、面白いハーモニー、様々なメロディが、ジャズのスイング感、洗練さ、即興演奏の独創性と合体し新しい世界を構築している。ムラーツは成長期を父の生地で過ごした、西欧では『モラヴィア』と呼ばれる地方だ。彼の心に残る「モラヴァ」の思い出は、緑生い茂る草原、そして陽気で心温かい人々、メリハリの効いた方言で歌われる民謡の数々だ。その思い出が本作でのムラーツのプレイの中に生きている。
 ピアニスト、エミール・ ヴィクリツキーは、本作で一曲以外の全ての作編曲を担当している。もう一人のパートナー、ラツォ・トロップは、ヴィクリツキー・トリオの長年のドラマー、ここに驚異的な才能を誇るシンガー、イヴァ・ビトヴァが加わる。
 ムラーツとヴィクリツキーは、1976年、ユーゴスラビアのジャズフェスティバルで知り合った。ムラーツがNYに移り、世界で最も多忙なベーシストとして、スタン・ゲッツ・カルテットなどで共演をし、一方ヴィクリツキーはボストン、バークリー音楽院卒業後、チェコに帰国しカレル・ヴェレブニー(vib)のSHQアンサンブルに参加して、ピアニストとしての評価を確立していた頃だ。ムラーツ自身は、それに遡り、プラハ音楽院の学生時代にヴェレブニーのバンドで活躍していた。初顔合わせから20年後の1997年、再び二人の大きな出会いが始まった。プラハを訪問した時、ムラーツがエミールに、モラヴィア民謡とジャズを融合した音楽を創るというプロジェクトを提案したのだ。本CDはこの二人のコラボレーションの産物だ。
  二人は、モラヴィア音楽特有のリリシズムと深いエモーションの伝え方や、ジャズのアドリブのポテンシャルなど、モラヴィア音楽の持つ広範な可能性について深く考えていった。
 
 本アルバムのプロデューサー、ポール・ヴルセックは、モラヴィア民謡、特に南モラヴィア地方の音楽のモーダルな特性を指摘する。地理的に孤立していた為だけでなく、その音楽が土地の人に愛され、歌い継がれてきたために、時代や流行の変遷に影響されず、何世紀の年月を経ても、音楽の美質が損なわれずに守られてきたのだ。本能的にモーダルな和声進行を感知する鋭敏な耳を持つモラヴィア人達にとっては、これらの民謡を歌い奏でたり、ちょっと風変わりなものであっても、自然に音楽を作るのはいとも容易いことなのだ。モラヴィア人でない者にとっては、それらの音楽は予想もつかない斬新なものだ。
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ジョージ・ムラーツHPより:イヴァ・ビトーヴァはヨーロッパでは凄いスターらしい。クラシックからアヴァンギャルドまでボーダレスな凄い音楽家だそうだ。
本作のヴォーカルとして、エミールはチェコのみならずヨーロッパ全土で活躍するスター、イヴァ・ビトヴァ を推薦、並外れて清らかな声と、あらゆるフォーマットに対応する柔軟さを持つ大歌手であり、ヴァイオリニストとしても一流、しかも映画界では主役を何本も勤める名女優でもある。ビトヴァは1958年北モラヴィアの街ブルンタル生まれ、母、リュドミラ・ビトヴァは教師で歌手、父、コロマン・ビトヴァは、多数の楽器を演奏し、中でもダブル・ベースの名手である。
 ビトヴァは語る、「私は今回のマテリアルが大好きです。録音前、エミールやラコと一緒にリハーサルをした時は、気楽だったんだけど、ジョージとは初めてだったし、ジャズバンドとレコーディングするのも全く初めてだったの。でもジョージのベースからは、同じ楽器を演奏した私の父コロマンの心臓の鼓動が聞こえてくるようでした。父は素晴らしい音楽家だったんですが、’84年に54歳の若さで亡くなりました。ジョージの演奏には心の底から感動しました。それで、レコーディングではヘッドフォンやモニターは一切使わず、その瞬間の波動を直接感じながら歌うことにしたんです。この方法は私に凄い刺激を与えてくれました。」
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 ジョージとイヴァ・ビトヴァは、今後、本アルバム『モラヴィアン・ジェムズ』からのレパートリーやオリジナル曲を、デュオで演奏する予定。演奏スケジュールはイヴァ・ビトヴァのHPを参照されたい。
水曜日コンサートなので、Interludeで速報をお届けする予定です。CU

“CAPTAIN BILLY”後日談

 INTERLUDE 増刊号
 8月に、私に英語特訓してくれたビリー・ルーニーと美人妻ジュリーのことを書き、チック・コリアのHPを覗いてみたら、写真を配信するプレス担当のメルアドがジュリーになっていた。それで、本ブログに書いたことをメールしたら、自分と娘さんの写真を送ってきてくれました。
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左が長女エミー、右がママのジュリーです:念のため
 化粧っ気のない美貌もスリムな肢体もぜんぜん変わってません。美人は得だネ!
 このメールが来たのは数週間前だけど、奇しくも12日に皮膚ガンの為、故国オーストリアで他界したジョー・ザヴィヌルとのスリー・ショットも送られて来た。
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左からビリー、チック・コリア、故ジョー・ザヴィヌル
 ザヴィヌルは、フュージョンの旗手として有名だけど、彼のルーツはBeBopだったことを知っていて欲しい。キャノンボール・アダレイ(as)5でデビューしアレサ・フランクリンの初期の作品などにも、ファンキーなバックを聴かせている。
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テナーサックスの父:コールマン・ホーキンス
 忘れてならないのは、フラナガンやハナさん同様、コールマン・ホーキンスを尊敬する若手ミュージシャンの一人であったこと。
 ウィーン音楽院を卒業しNYに来たサヴィヌルはホークのアパートに集い、彼のヨーロッパ仕込みの手料理をごちそうになった後は、ホークに乞われるまま、ショパンやブラームスを弾いて食後のひとときを過ごしていたのだった。
合掌
次回は、ジャズ講座名場面集、トロンボーンの神様J.J.ジョンソンの『ダイアルJJ5』『ライブ・アット・カフェ・ボヘミア』を聴きながら、’57当時、グリニッジ・ヴィレッジで盛況を極めたカフェ・ボヘミアをInterlude的に探索してみます。
CU