お盆休みはゆっくりとお過ごしですか?
こちらは、寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会が月末にあるので、それまでは休日返上、ピアニスト達は、初出場から余裕のベテラン達まで、皆とっても頑張って、良いプレイをしています!
それでお盆のお参りだけしてきました。この時期、昭和3年生まれの実家の母親は、大阪大空襲や、軍需工場からの帰り道、十三で玉音放送を聴いた話をする。誰かに話さずにはいられないのかも知れない。私がチャランポランな学生生活を謳歌した年頃に、家を焼かれ、身内を戦争に取られ、青春どころか、工場で長時間働いていたのだ。
私という人間は、大戦がなければこの世に存在していない。母の実家が焼け、郊外に転居しなければ、父と出会って、親の反対を押し切り嫁入りすることもなかったろうから、私も生まれなかったのです…
トミー・フラナガンや、サー・ローランド・ハナは、第二次大戦中は中学生だったけれど、朝鮮戦争の際はキャリアを中断し戦地に送られた。トミーにもハナさんにも、「君の家族は大戦でどんな目にあったのか?」と訊かれたことがあります・・・
<ビバップと第二次大戦>
寺井尚之とJazz Club OverSeasがこよなく愛するビバップも、第二次大戦の社会状況が大きな役割を果たしている。それまでのジャズはビッグバンド、ダンスバンドが主流だったのですが、戦時中は、ダンス・ホールに莫大な遊興税が課され、ツアーの交通手段であるバスやガソリンを調達することが困難になっていった。その上、若くて元気な楽団員はごっそり徴兵されるから人手不足。
その為に、ダンスをせず“鑑賞する為”の“シリアスな”小編成のコンボのジャズ、つまりビバップの隆盛を促進したのだと、ビバップの創始者のひとり、マックス・ローチ(ds)は語っています。
左:グレン・ミラー、右:ジャック・ティーガーデン
インディアンの血を引くトロンボーンの巨匠、ジャック・ティーガーデン(tb)は4ヶ月の間になんと17名の楽団員を徴兵されたそうです。一方、アーティ・ショウやグレン・ミラーなど白人バンドリーダーは、精力的に外地に慰問のツアーをし、海軍バンドを率いたショウは南方で日本軍から17回爆撃され、空軍バンドを率いたグレン・ミラーはご存知のように、英国海峡で消息を絶ちました。
<従軍ジャズメンとビバップ>
テナーの勇者、ズート・シムズは、戦時中テキサス、サン・アントニオで従軍中、黒人クラブでNYから演奏に来ていたビリー・テイラー(p)トリオの面々と知り合い、ビバップの虜になります。テキサスの名産品(?)マリワナと交換に、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーの新譜をNYから送ってもらいながら、新しい音楽をなんとか聴くことが出来たらしい。
アート・ペッパーは、ビバップの興隆期、ヨーロッパに駐屯し、捕虜の移送をしていた。その頃、レコードで初めて聴いたディジー・ガレスピーの“Oop Bop Sh’Bam”の余りの革新性と速さに、“ビバップ”という言葉すら知らなかったけれど「胃痛と吐き気がした。」と告白しています。
<日本人の知らない戦時中のブラック・ミュージシャン達>
大戦中の米国には、まだ人種差別が歴然としてありました。当時、徴兵された黒人達はおよそ100万人、内半数が外地の前線に派兵された。黒人は一番危険な前線に送られ、割り当てられる任務は過酷なのに、アメリカ国民として当然の権利は認められない。彼らが軍隊で受けた人種差別の過酷さが、黒人の人種意識を目覚めさせ、ジャズだけでなく、後の公民権運動を加速したと言われています。だってドイツ人捕虜が食事する出来る食堂に、有色人種のアメリカ兵は入れないのですから、どちらが味方なのかわけが判りません。
ディジー・ガレスピー(tp)は、はっきりこう言っている。
「大戦中の黒人の敵は、ドイツ人ではなかった。我々の尊厳を無視し、体力的にも倫理的にも、ダメージを与える白人達が本当の敵だった。アメリカが自国の憲法を守らず、我々を人間として扱わないのなら、アメリカの国策などくそ食らえだ!」
大都会NYで活躍する黒人ミュージシャン達も、一旦徴兵されれば、人種差別のきつい南部のキャンプ地に送られるかもしれない。その後は前線に送られ、腕や足の一本や二本なくなるかも…そんなことはまっぴらだ!
若いジャズメンたちは徴兵を免れる為に、住所変更を繰り返したり、それでもダメな時は、ホモセクシュアルや精神異常を装ったり、なんとか徴兵を免れるため、あの手この手を使った。
ジョー・ニューマンと、ビリー・ホリディ
カウント・ベイシーOrch.の花形トランペット奏者で、トミー・フラナガンがプレスティッジ時代によく共演したジョー・ニューマンは、覚醒剤と睡眠薬を両方飲んで徴兵検査で不合格になろうと試みて、副作用で死にそうになり、友人のビリー・ホリディが彼女の自宅で3日間看護してくれたおかげで一命を取り留めたそうです。
バップ・トランペット奏者、ハワード・マギーは、入隊検査で、誇大妄想の演技をして、まんまと不適格の審査を勝ち取った。
徴兵を回避し、洒落たファッションに身を包み、白人女性と交際し、ヒップな言葉を話す、そしてポケットにはお金が一杯・・・黒人ミュージシャンは、一部の白人の憎悪の対象となり、その結果バド・パウエルやセロニアス・モンクが、白人警官にこん棒で殴打されるような事件を招く遠因になったと言われています。
もちろん、全員が徴兵から逃げられるはずもなく、戦時下、米軍のフットボール選手とジャズメンは、ドリーム・チームだった。
アル・グレイ&クラーク・テリー
イリノイ州の海軍訓練センターには、フラナガンと同じデトロイト出身のアル・グレイ(tb)や、どんなややこしい譜面も即座に暗譜する達人ドラマー、オシー・ジョンソンが二段ベッドの上と下、その他、クラーク・テリー(tp)や、カウント・ベイシー楽団のメンバーがごっそり集まっていた。このセンターには、一線級のミュージシャンばかりでいくつも楽団があり、その内のひとつはグアムに送られた。
Ira Gitler著:「Swing to Bop」より: マサチューセッツで、当時の海軍バンド:アル・グレイの姿は他のトランペット奏者に隠れています。
アル・グレイ(tb)はそんな状況下、内地に留まるために、軍のバンド競技会で、何度も賞を獲得し、ボストンやミシガンのダンスバンドや軍楽隊に所属、除隊したその日にベニー・カーター楽団に入団するという離れ業をやっています。
ジミー・ヒース(ts)のお兄さんであり、モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の一員であったベーシスト、パーシー・ヒース(b)は、タスカジー飛行訓練学校という、黒人エリート学校出身の空軍パイロットでしたが、戦地に出るまでに戦争が終わり除隊したので、「一人も殺さずにすんだ。」そうです。
戦勝国アメリカとはいえ、ジャズ講座に登場する黒人ミュージシャン達は、色々苦労をしていたんですね。
戦後、米軍の占領下で、日本人のジャズメンたちは驚くほどの富を得たそうですが、ザッツ・アナザー・ストーリー。
ご先祖様の苦労のおかげで今在る自分に感謝しつつ…
今月もOverSeasは休みなく平常営業です!
CU
カテゴリー: ジャズのサムライ達、聖人達
『”King”たるもの徳ありて』 ベニー・カーターの誕生日に…(1907-2003)
先月のジャズ講座に、ベニー・カーター(as)の名盤、『The King』が登場してから、沢山の人たちがベニー・カーターに魅了されている。
8月8日はベニー・カーターの誕生日だ!
今週末には、ジャズ講座で、再びディジー・ガレスピー(tp)との大物共演盤『Carter-Gillespie Inc』が聴けます。”
『King』というニックネームは、その昔、一世代上の大王様、ルイ・アームストロングの発言に由来していますが、’70年代、何度かコンサートで観たベニー・カーターの姿は、正に『King』に相応しいものでした!
スティックを空中高く放リ投げてフィニッシュするソニー・ペイン(ds)や、ハイノートをヒットすると、顔が台形になるキャット・アンダーソン(tp)、昭和天皇を想起させるジョージ・デュヴィヴィエ(b)…空前絶後的な名手を揃えたベニー・カーター・オールスターズを従え、すくっと立つベニー・カーター、上等そうなグレンチェックのブレザーにブルーのワイシャツが褐色の肌に映える。
黄金色のアルトの先には、象牙色に輝くマウスピース!カーターが吹くと、最高のコニャックを使ったカクテルのように甘い芳香が満ちた。スイング感、ソロの長さ、フィル・イン、音量、テンポ…何もかもちょうどいい! 聴衆の心が躍り、足がダンスする!ベニー・カーターから発する光はスポットライト?それとも後光だったのか…
’20年代に、King of Jazzとして一世を風靡した白人バンドリーダー、ポール・ホワイトマン…豪華絢爛なステージ!でもどちらかといえば「王」というより、むしろ、小太りでチョビひげの「社長」というイメージだ。
昨年、ディック・カッツさんのベニー・カーターについての談話を書きましたが、巨匠達が、ベニー・カーターと共演したことを、ちょっと自慢げに話す様子は、「かわいい」とさえ感じます。
’80年代に、トミー・フラナガンが、カーネギー・ホールでベニー・カーターのスペシャル・プログラムへの出演を依頼された時も、ダイアナと二人で「名誉なことだ!」と喜んでました。他のどんなスターと共演したって、トミーが名誉(honor)と言ったのは、後にも先にもこれだけです。。
ベニー・カーター、80年間に渡る『King』の長い航路を、ちょっと観て見よう!
○ ○ ○ ○ ○
<王様は下町っ子だった>
ベニー・カーターこと、ベネット・レスター・カーターは、1907年(明治40年)8月8日、NYのサン・フアン・ヒルという地域に生まれた。丁度、現在のリンカーンセンターのある辺りで、昔は黒人の住宅街でした。リンカーンセンターなどのリンカーン・スクエア建設に伴い、消滅した幻の町です。(懐かしい当時の街の様子は、NYタイムズのヴィデオで見ることが出来ます。英語がよく判らなくても映像だけで楽しい!)
ババ・マイリーはプランジャー・ミュートの神様だった。(1903-32)
ベニー少年は幼い頃、サックスではなくトランペットに憧れた。20世紀初頭にクリフォード・ブラウンの様なプレイをしていたという伝説的トランペット奏者キューバン・ベネットが従兄弟だし、デューク・エリントン楽団の花形トランペッター、ババ・マイリーは、近所のお兄ちゃんだったのだ。それで、ベニー少年も、何ヶ月か小遣いを貯めて質屋でトランペットを買ったものの、3日経っても、モノにならず、あっさり、C-メロディのサックスと交換してしまう。こっちは3日で習得できたのか、殆ど独学のまま、15歳にはプロとして稼いでいた。
ベニー・カーターは、サックスも、後に習得したペットも作編曲も全て独学、色んな人の演奏に耳を傾け、腕を磨いたのだ言いますが、人のプレイをコピーしたのは、13歳の時で、ただ一曲しかないそうです…
<若くして王になる>
1928年に初レコーディング、同年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍して、メジャーになります。新加入のカーターが手がけたアレンジは、時代を先取りした斬新さがあった。楽団がバンドリーダー不在となった期間、ベテラン揃いの団員からリーダーに選出されたのはカーターだった。若干21歳のことです。
1931年には、デトロイトを本拠に活躍した名楽団マッキニー・コットン・ピッカーズ(トミー・フラナガンの子供時代に大好きだった楽団です。)の音楽監督に就任。トランペットでも録音しており、アルトに勝るとも劣らない名演を残す。ベニー・カーターのペットはアルトサックスと同じで、メロウな甘い音色です。また、アレンジャーとしては、一曲あたり25$が相場だった編曲料の4倍の金額を取っていました。
ベニー・カーターの公式サイトで、カーターの研究者、エド・バーガーはベニー・カーターの特質は、常に全体を考える編曲者でありながら、ソロイストとして即興演奏の醍醐味を失わない点にあると述べています。
ベン・ウェブスター と 翌’32年、自己の楽団を設立、テディ・ウイルソン(p)、シド・カトレット(ds)など、後のスイング時代のスターを多く起用したものの、時代を先行する芸術の例に漏れず、経済的な理由から、楽団は1934年に解散の憂き目に会います。 <王様ヨーロッパへ> 自己楽団に失敗したカーターは、レナード・フェザーの勧めもあり、1935年、BBC放送の音楽監督として渡欧、フランス、オランダ、北欧などヨーロッパ各国を楽旅し絶賛される。 人種差別がなく、アーティストとして厚遇を受けますがが、音楽的な欲求不満を感じ、3年後に帰国する。すると、ビッグバンドのトレンドは、ちょうど渡米前の自己楽団のスタイルだった。自己バンドを率いて演奏する傍ら、エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、トミー・ドーシーなど多くの楽団にアレンジを提供し、人気ラジオ番組の編曲など、どんどん仕事を続ける。
ビバップ革命前夜の1941年頃、カーターが率いたスモール・コンボのフロントは、ディジー・ガレスピー(tp)、ジミー・ハミルトン(cl)で、ガレスピーの代表作、当店でも大人気の演目“チュニジアの夜”は実はこの時期に書かれた曲です。当時はInterludeというタイトルでした。カーターは、その頃、J.J.ジョンソン、マックス・ローチなど、後のビバップ創設者達を盛んに起用していて、すでに次の時代を予見していたんですね。
<王様ハリウッドへ>
戦争中、楽団でダンスホールを巡業するという、これまでのビジネス形態が行き詰った時代、ベニー・カーターは単身ハリウッドへ。映画音楽の世界に飛び込みます。後にJ.J.ジョンソンも同じような転身をしましたが、カーターを見習ったのかも知れません。
”Stormy Weather”(’43)を手始めに、ありとあらゆる映画、TV音楽を手がけました。ベニー・カーターとクレジットされていない映画にも、作編曲、演奏、多岐に渡って関わっている作品が沢山あるようです。同時に、音楽スタジオでは、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、レイ・チャールズ、ルー・レヴィーなど、彼がアレンジを手がけた人気歌手を挙げればキリがない。
ハリウッドの映画音楽の世界で人種の壁を初めて破ったのがベニー・カーターです。だから、黒人映画関係者の「名声の殿堂」入りもしているんです。代表作には、『キリマンジャロの雪』、『キー・ラーゴ』、TVなら『シカゴ特捜隊M』などが有名です。
映画人となったカーターですが、JATPなど様々なコンサート活動は継続、ベニー・カーター・オールスターズを率い、何度も来日公演を行った。おかげで、私達も何度か素晴らしいコンサートを拝めたんです。
<王様、教授になる>
’70年代に入ると、ベニー・カーターが現場で培った深い教養と品格ゆえに、大学へと引っ張り出されます。歴史の生き証人、カーターの人間性にすっかり心酔した名門プリンストン大のエド・バーガーの要請で、カーターはエリート学生を前に講演やキャンパス・コンサートを頻繁に行い、プリンストン大名誉博士号取得、ハーバード大でも各員講演を行いました。国務省の依頼で’75年には国務省の親善使節として中東諸国を歴訪。ジャズ講座で現在聴いているベニー・カーターのアルバム群は、映画のキャリアが一段落し、好きなジャズの仕事を選んで行っていた時期のものです。
 ;1997年の90歳の誕生日には、LAのハリウッド・ボウルと、オスロで相次いでベニー・カーターの誕生日イベントが開催。
2000年には、クリントン大統領から、米国の文化勲章と言える、The National Medal of Artsを受賞しています。
<王妃様たち>
 ;NYタイムスによれば、カーターは5度結婚しているそうです。18歳で最初の結婚をしましたが、三年後に奥さんが肺炎で亡くなりました。その後三度結婚し、最後の奥さんはヒルマ・カーターさんと言う白人の上品な女性です。最初の出会いは’40年で、お互いに惹かれあったそうですが、当時の人種の状況から結婚に踏み切れず、40年の間、社会情勢の変化を待ち、72歳、’79年に結婚し添い遂げたということです。なんとも王様らしい、壮大な物語ですね。
歴代プレズとベニー&ヒルマ・カーター夫妻
○ ○ ○ ○ ○
というわけで、殆ど1世紀のベニー・カーターの伝記を駆け足で辿りました。長くてゴメンネ。というのも、情報溢れるネットの世界なのに、日本語でベニー・カーターの生涯について克明にかかれたものがなかったからです。もっと興味のある方は、ラトガース大学からディスコグラフィーや参考文献が、また色んな出版社からカーターの楽譜が出ています。
ベニー・カーターの肉声も聞ける公式サイト。
80年間の長い間、ベニー・カーターは一貫してベニー・カーターであり続けました。王様は、「トレンド」というはかない波に汚されたことは一度もなかったんです。「邪悪」な所が全く見当たらないのに人間味に溢るベニー・カーターの音楽を聴くたび、私は人間の「品格」にというものについて考える。世間ではベニー・カーターを「王」でなく「翁」と呼ぶ人もいるけど、私には、最晩年の姿も、おじいさんには見えなません…
王様、お誕生日おめでとうございます!
CU
Star-Crossed Loversが運んだ幸運の星:Lilian Terry
A Dream Comes True/リリアン・テリー+トミー・フラナガン3(’92 Soulnote)
先日の The Mainstem Trio のライブでは、流星が降り注ぐようにロマンチックなStar-Crossed Loversが聴けました!明日の出演は再びMainstem!こんどはどんな曲が聴けるのかが楽しみ!
先日、Mainstem=7月の曲 “Star-Crossed Lovers”を紹介した際に、フラナガンと共に名唱を残したリリアン・テリーのサイトから、このレコーディングの経緯や、取り上げた歌詞について問い合わせしてみました。返事が来なくてモトモトと思っていたんですが、とっても丁寧なお返事を頂きました。
私なんか見ず知らずの日本人、大体イタリアの歌手です、英語で返事なんて邪魔臭いだろう…と思っていたらさにあらず! 頂いたメールの内容もさることながら、品のある素晴らしい英文の手紙でした。リリアン・テリーさんは、優しそうな歌のお姉さんに見えるけど、只者ではなかった…
ジュアン・レ・パンにて:’66のリリアンとデューク・エリントン
彼女のサイトから、経歴を見てみよう。
リリアン・テリーはエジプト、カイロ生(レディのサイトに生年月日はない。)一般には、英伊混血の歌手と言われていますが、お父さんは、英国人と言えどもイギリス諸島ではなく、英連邦の地中海の島マルタ共和国の人です、お母さんがイタリア人、リリアンはカイロ、フィレンツェで国際教育を受け、現在、イタリー、ニース、LAに居を構えるコスモポリタンです。
イタリアきってのジャズ歌手、イタリア・ジャズのゴッドマザーと呼ばれ、エリントンやディジー・ガレスピーなど多くのジャズの巨人達と親交を結び、ヨーロッパ全土、アメリカ西海岸などで音楽活動していますが、彼女のキャリアは単なる歌手にとどまらない。
英、伊、仏語のマルチリンガルで、各国の公館通訳、翻訳者を経て、ローマにある国連食糧農業機関本部に勤務したキャリア・ウーマンらしいから、もともと上流階級の人なのかも知れない。
歌唱以外のジャズの業績としてはディジー・ガレスピーの回想録のイタリア語訳を手がけたり、1987年から6年間、ディジー・ガレスピー・ポピュラー・スクール・オブ・ミュージックを立ち上げ、盲人コースも設立した。現在は人間ディジー・ガレスピーについての回想録を執筆中とのことです。
そんな才女、リリアン・テリーから来たEメールには、Star-Crossed Loversの歌詞や、トミー・フラナガンとの共演のいきさつが細かく書かれていました。こんな内容です。
● ● ● ● ● ●
親愛なるタマエ
私のアルバムを気に入って頂けたとは、何て素敵なことでしょう!
喜んでトミー・フラナガンと共演したいきさつをお伝えしたいと思います。
この当時、私は、数年間レコーディングのブランクがありました。というのも、声帯を痛め、治療をして、何とか歌えるようにはなったのですが、わざわざ国内のミュージシャンと録音する意欲を失っていたのです。
ローマでジャズ・フェスティバルが開催され、あるディナーの席でたまたま向かいの席に座ったのがトミー・フラナガンでした。長年、私は彼の歌伴に魅了されていたので、彼にそう話すと、私が歌手なのかと尋ねられました。すると、私の長年の友人、マックス・ローチが話に入ってきて、「イタリーのトップシンガーで、ヨーロッパでも指折りの歌手だ。」と言ってくれたのです。すると、「一番最近録音したLPは?」と訊かれましたので、実はここ数年レコーディングしていないこと、でも、常々素晴らしい伴奏者を持っているエラ・フィッツジェラルドを羨ましく思っていたこと、その伴奏者、トミー・フラナガンとなら、ぜひ録音したいこと、さもなければ、私はもう二度とレコーディングしないと誓う、と言ったんです。
トミーは、喜んでくれましたが、その反面、からかわれているのではないかと思ったようです。でも、何を歌いたいのかと訊いてくれました。”I Remember Clifford”、” Round Midnight”、”Lish Life”…私の歌いたい曲を並べると、彼は更に興味を感じたようでした。
Lテリーのサイトより:左からスティーヴィー・ジョーンズ、リリアン、ビリー・ストレイホーン、キモノでくつろくデューク・エリントン (’66 ジュアン・レ・パンのホテルにて)
私は、トミーがエリントン-ストレイホーンの愛好者と知っていたので、こう言ったんです。「実はもう一曲、殆どのピアニストが演らない特別なバラードがあるんです。私は、その歌詞をビリー・ストレイホーンから特別に送ってもらったので、歌うことが出来るんです。」
トミーはますます興味を惹かれた様子だったので、私はさらに続けました。「それは何年も前に録音された組曲で、ジョニー・ホッジス(as)が最高なんです!(トミーは殆どテーブルを乗り越えそうになっていました。)『Such Sweet Thunder』 という組曲なんですけど…」私が曲の名前を言う前に、先にトミーが当てました。「“StarCrossed Lovers”だね!!!僕も大好きなんだ!それで、君にストレイスが歌詞を送ってきたの?!」
すぐさま私たちは、お互いのスケジュールをチェックし合って、1,2日間のレコーディングの日程を決めたのです。ミラノにいる私のプロデューサーと相談して、数ヵ月後に録音しました。どの曲もリハーサルは一切なし、サウンドチェックを一回しただけです。
サウンドチェックをして即本番、そして次の歌へ…今まで、こんなにリラックスして、共演者と一体感を感じたセッションはありませんでした。トミーと私は良い友達になり、私は彼に”クッキー・モンスター”とあだ名を付けました。だってレコーディングの間中、クッキーやビスケットをむしゃむしゃ食べちゃうんです。だから、私はあらゆる種類のクッキーをピアノの上に置いてあげました。
もちろん、アルバム・タイトルは「A Dream Comes True: 夢が叶う」としました。
その後、私はディジー・ガレスピー、ケニー・ドリュー、ヴォン・フリーマンたち色々なアーティストと録音しました。でも、あの時に、トミーの名人芸に応えた「私の声」を再び呼び覚ますことは叶わなかった…。
あのLPが、成功作であったかのかどうかは判りませんが、全てはトミー・フラナガンと、彼が私の歌をよく聴いてくれたおかげ、あるいは、“私と共に”そして“私のために”演奏してくれたおかげだと思っています。私達は、ぜひもう一作、と話し合いましたが、結局、彼は私を残し、他のジャズの天使達との共演のために旅立って行きました。
でも、あの作品を録音できたことだけで、私は十分に幸運であったと思います。だからこそ、あなたの心に触れて、メールを頂くことが出来たわけですしね。
ご主人にも、私のレコードを聴いてくださった日本の皆さんにも、どうぞ宜しく!
リリアン・テリー
● ● ● ● ● ●
ロメオとジュリエットに因んだ歌、「悲運の恋人達」の不幸な星は、天界を巡るうちに幸運の星と変わり、リリアン・テリーにトミー・フラナガンの名伴奏をもたらしたのだったんですね…
Good night, good night! parting is such sweet sorrow,
That I shall say good night till it be morrow.(ロメオ&ジュリエット第二幕三場より)
おやすみなさい、おやすみ・・・お別れとは、これほど切なく甘きもの、
それならいっそ夜明けまで、おやすみなさいと言い続けようか…
私もいっそ夜明けまで、このブログを書き続けたいんですが、明日は、寺井尚之The Mainstem Trio 7月第二弾!!
おやすみなさい、おやすみ・・・
CU
ギンギンギラギラ…ボビー・ダーハム(ds)追悼
Bobby Durham(1937-2008)
7月7日未明、イタリアのジェノバでドラマー、ボビー・ダーハムが亡くなった。享年71歳。肺がんと肺気腫であったとのことです。
4月からジャズ講座で毎月、彼の鮮やかなドラムを聴いていて、より身近に感じていた矢先の死去でした。
講座で聴いて来たボビー・ダーハム参加アルバムは凄いのが一杯!左から”トーキョー・リサイタル” ”エラ・フィッツジェラルド、モントルー’75″…
<ニッポンイチ!>
寺井が雪の京都で初めてトミー・フラナガンに弟子入り志願した’75年、エラ・フィッツジェラルドと来日したフラナガン・トリオのドラマーが、このダーハムだった。寺井尚之は、先日のジャズ講座で、京都会館の控え室に入ってきたボビー・ダーハムの印象を、こんな風に語っている。
「暴走族の兄ちゃんが、ヤクザの組事務所に行って、正真正銘のほんまもんの極道に初めてメンチ切られた感じ。ダーハムは、オスカー・ピーターソン・トリオですでに名を成してはったし、とにかく物凄いオーラがあった…」
そのステージのトリオ演奏は、“前座”には程遠い圧倒的にハードな演奏だった! 私は某氏の秘蔵する音質の悪いテープで聴いたのですが、演奏に負けないほどソリッドだったのは満員のお客さんの反応! …涙が出た。
まるで、背番号だけで、全選手を熟知するヤンキー・スタジアムか熱闘甲子園…
近畿一円からプロのバンドマン達も沢山来ているから、手拍子もズレないし、口笛だって最高のタイミングで入るんです。
Caravanのドラムソロでボビー・ダーハムがクライマックスに達した瞬間、すかさず大向こうから「日本一!」の掛け声がかかる!多分ダーハムは、その意味は知らないはずなのに、ハイハットの二段打ちを炸裂させて、大見得を切った。
ストレイホーンのAll Day LongからOleoまで… 天から何かが降りて来たような状態で、エラが登場するまでに、もの凄いことになっていた…
この夜に、寺井尚之も、客席にいた未来の鉄人、中嶋明彦(b)さんも、一生プロでやって行こうと思ったそうです。
私自身、JATPやオスカー・ピーターソン3で何度かボビー・ダーハムのステージを観ました。個人的には会ったことはないけど、寺井の印象はよく判る。アーサー・テイラー(ds)がサムライであり『剣豪』であるならば、ボビー・ダーハムは、無頼であり『人斬り』だ。腕はめっぽう立つし、自分の持ち場を心得て、緩急自在のツボにはまったプレイだけど、シズルの付いたシンバルもギラギラで「今宵の虎轍(こてつ)は血に飢えた」風情、絶対カタギじゃない! だからこそカッコよくて堪らないドラマーだったんです。
<かつてドラマーはダンサーだった。>
ダーハムは’37年、フィリー・ジョー・ジョーンズやヒース・ブラザーズを輩出したフィラデルフィア生まれ。両親も叔父もタップ・ダンサーの家系に生まれ、よちよち歩きの2歳から、母にタップと歌を習う。トロンボーンやヴァイブラフォン、ベースなど、色んな楽器を習得した上で、ドラマーの道を選びました。
デューク・エリントン楽団のハーレム時代の花形ドラマー、ソニー・グリアーや、ドラム・ソロが、そのままダンスだったエディ・ロック…タキシード姿でも、ドラム・スツールに座るとボロボロのダンス・シューズに履き替えたパパ・ジョー・ジョーンズ… ’昔はダンサー出身のドラマーが多かった。“華”のあるドラムとダンスには、秘密の関係があるに違いない。
ダーハムの名前を一躍有名にしたのは、何と言ってもオスカー・ピーターソン(p)トリオです。エド・シグペン(ds)の後、断続的に’66~ ’71まで在籍、モンティ・アレキサンダー(p)とも名トリオを組んだ。エラとフラナガンは言うまでもないけど、元々R & B畑のダーハムはジャズだけでなく、ジェイムズ・ブラウン、マーヴィン・ゲイやレイ・チャールズ、そしてフランク・シナトラとも録音しているらしい。具体的にどのアルバムなのか、知っていたら教えてください。
<コワモテ>
ステージでみせた「カタギでないかっこよさ」そのままに、ボビー・ダーハムは、なかなか難しい人であったらしい。アル中と噂され、トミー・フラナガンが独立後も、ボビー・ダーハムとは断続的に共演しているけど、ギグに遅刻することも、たびたびあったらしい。
私のスクラップfrom the Appleから:’89年のヴォイス誌のad.
寺井尚之の友人、チャック・レッド(ドラマー、ヴァイブ奏者)が、その昔、NYにトミー・フラナガン3を聴きに行った時のこと。ドラムのダーハムがヴィレッジ・ヴァンガードの演奏時間になっても現れない。それで、フラナガンは客席にいたチャックに急遽代役を頼んだ。ラッキー・ガイ!チャックは、憧れのトミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツと、天にも昇る心地でプレイしていたのですが、1セット目が終わる頃に、酔っ払ったボビー・ダーハムが現れた。
ダーハムは、チャックに穴埋めの礼を言うどころか、物凄い剣幕で「おまえ何やってんだ。さっさとどけよ!」とドヤしつけたらしい。だからってチャックは、ダーハムを恨んだりする人じゃないんだけど、怖かっただろうな…
<人格者オスカー・ピーターソンの証言>
オスカー・ピーターソン時代に弾丸スピードで“Daahoud”を演っている圧巻の動画発見。ベースはレイ・ブラウン
UKの高級新聞、「インデペンデント」誌にスティーヴ・ヴォースが寄稿した追悼記事には、ピーターソンの興味深い証言が載っている。
オスカー・ピーターソン: ボビーは、初参加した時でも、まるで何年も一緒に演っているように感じた。他のプレイヤーなら、譜面に予め書いておかないと判らないような細かいところまで見越して叩いたからだ。
私がボビーに付けたニックネームは“Thug(殺し屋)”だ。フィラデルフィアでも、一番物騒な土地の出身で、昔ボクシングで鳴らしたを荒くれ男だったからね。
ダーハムは、トリオのベーシスト、サム・ジョーンズと仲が良かったんだが、スイスのツアー中、列車の中で大喧嘩をやらかした。サムは長身でダーハムは小柄なのだが、サムに乱暴しようとしたんだよ。ボビーは後から、ノッポを殴り倒す極意を、とうとうと講義していたよ…
一番左がダーハム、右端がサム・ジョーンズです。ダーハムは背伸びしているみたい…
<あのデュークがクビにした…>
ピーターソンがボビー・ダーハムを気に入ったのは、エリントン楽団の複雑なアンサンブルで、いとも易々と華のある演奏をしていたからだったと言いますが、ダーハムは、メンバーを解雇しないことで知られる名君主、デューク・エリントンからクビにされた数少ないミュージシャンの一人でもあります。(もう一人は、ベーシスト、チャーリー・ミンガスらしいです…)
息子のマーサー・エリントンの証言によると、解雇の原因は、生意気で、デュークの言う事を聞かなかったからだった。
ところが皮肉にも、「2週間後解雇の通告」を受けてからのダーハムのプレイは、あっさりトゲが取れて、エリントン楽団にぴったりのリラックスしたものになっていた…「なんだ、最初からこう演ってくれればいいのに!」ということになり、解雇の撤回を決定した時には、すでにオスカー・ピーターソン・トリオへの移籍が決まっていたんです…
プライドが高くて喧嘩っ早いけれど、超一流の腕があったダーハムには、一匹狼の板前みたいに、いくらでも職場があった。ピーターソン・トリオを退団後、即、当時売り出し中の若手だったモンティ・アレキサンダーとトリオを組み、何枚も名盤を録音、その後、エラ・フィッツジェラルドのバックに参入した。
フラナガンがエラのトリオから独立した後も、ダーハムはノーマン・グランツに可愛がられ、世界中のジャズフェスティバルに出演、特にヨーロッパで人気を博しました。
晩年のダーハムはスイスと、イタリアに住居を持ち、地元ミュージシャンと活動を続けていた。亡くなったジェノヴァの小さな村、イーゾラ・デル・カントーネでは、ここ数年間『ボビー・ダーハム・ジャズフェスティバル』というイベントが開かれ、ダーハムが亡くなる数日前にも開催されていた。
気難しいヤクザな名ドラマー、ボビー・ダーハムも、自分の天才を判ってくれる人達には、聖人のようにとことん良くした人だったのではないだろうか?と、私は思う。
晩年すごしたイタリアの村では、一肌も二肌も脱いで、アメリカのミュージシャンを呼び、村起こしに貢献したのではないだろうか?
今後のジャズ講座では、エラ・フィッツジェラルド、トミー・フラナガン3のライブ盤 <Montreux ’77 >や、 来月は、Eddie “Lockjaw” Davisのワン・ホーン作品 -< Straight Ahead>などでボビー・ダーハムのプレイを偲ぶことが出来ます。
合掌
コールマン・ホーキンスの話をしよう!(2)
撮影:Terry Cryer
<ホーク、ヨーロッパに行く>
10代でテナーの実力者と称えられたコールマン・ホーキンスは、20歳で名バンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板奏者となり、実力、名声、そしてお金を手にします。楽団の人気を分けたルイ・アームストロングは僅か2年で独立したけれど、ホークは約10年勤続、その間、スターに相応しいファッションや高級車にはお金を使っても、無駄使いは決してしなかった。
クライスラー・インペリアル’32型:友人になだめられロールス・ロイスを諦めて、こんなのを即金で買ったらしい…
当時、コールマン・ホーキンスが自分を磨くために心がけていたことが一つあります。
どこに楽旅しても、必ず「その地元の音楽を聴くこと。」
トップ・プレイヤーでありながら、常に新しいアイデアを取り入れようとしていたんですね!グローバル化されていない世界には、色んな地方に、斬新なアイデアや奏法が、ダイヤの原石の様にゴロゴロころがっていた。ホークは色んな場所で見つけたアイデアに磨きをかけ、自分のものにしたのです。
「いつか耳にしたものが、気づかないうちに、自分の中のどこかに留まっていて、忘れていても、ひょっこりと顔を出す。」と述懐しています。彼が受けた影響の内、最も顕著なのは先週書いたように、アート・テイタムだった。
やがてジャズとギャングのビッグ・タイムだった禁酒法時代が終わり、大恐慌がやって来た。楽団の凋落ぶりに失望したホーキンスは、30歳で一路ヨーロッパに向かいます。(’34)
新天地で彼を待っていたのは、一流音楽家に相応しい厚遇でした。ヨーロッパには黒人差別も区別もなかった。むしろ、肌の黒い人達は、エキゾチックで優美な美の象徴だったのです。
トップ・プレイヤーのプライドを持つ彼が要求したギャラに、ヨーロッパ人は驚いた。…安すぎたんです。ロンドン、パリ、ブリュッセル、どこに行っても、大歓迎を受けました。
サロンで催されるお昼のティーパーティなら、たった3曲演奏するだけ! 後は、バカラ・ルームで最高級のコニャックが飲み放題! 故国では、どんな豪華なボールルームで仕事をしようとも、どれほど一流でも、黒人は調理場でしか飲食は許されません。白人専用ホテルに宿泊なんてとんでもないことだった。ヨーロッパでは、そんな差別はない。彼は上流階級のエレガンスを吸収し、シックな服やクラシックの譜面を買い漁り、ロンドンを本拠にして、ステファン・グラッペリ(vln)やジャンゴ・ラインハルト(g)達とツアーもしました。
「人種差別はないが、音楽的にインスパイアされない」と、ロンドンから早めに帰国したベニー・カーターに比べ、ホーキンスは、ヨーロッパの水が合ったのかもしれない。
ベニー・カーターは今月12日(土)のジャズ講座に!
<Body & Soul>
ホークのヨーロッパ生活は五年で幕を閉じました。民族主義、ヒトラーの台頭で、黒人は、もはやドイツ国境を越える許可が下りなくなったのです。あれほど厚遇してくれた新天地に失望したホークは、’39年に合衆国に帰国。ヨーロッパで成功したアーティストとして、意外なほどの歓迎を受けましたが、トップの地位は、レスター・ヤングに変わっていた…ホーキンス35才のことです。
普通なら、音楽家としての発展はこれで一巻の終わりとなってもおかしくないんだけど、ホーキンスは非凡で運も味方した。帰国した年に、スタジオのレンタル時間が余っていたので、クラブ出演のアンコールとして愛奏していたバラードを録音してみただけの<Body & Soul>が大ヒット!
これを聴いたジミー・ヒース(ts)は、「これこそがサックス奏者のメロディ解釈の手本!」と実感したと言っています。後に、その印象を元にして<The Voice of the Saxophone>という名曲を書きました。ヒース・ブラザーズの『In Motion』というアルバムに入っているし、寺井尚之のレパートリーでもあります。
テイタムのプレイをサックスに取り込んだ和声の展開法が、間接的にビバップの誕生を促し、ホーク自ら進んでビバップに身を投じた。
<ビバップ>
ビバップの聖地52丁目のクラブ<ケリーズ・ステイブル>を根城にしたホークは、セロニアス・モンク(p)、マイルス・デイヴィス(tp)、オスカー・ペティフォード(b)など革新的な若手をどんどん起用。「まともなピアノを雇え!」とモンクに物議をかもしても、ビバップの革新性を理解するホーキンスは意に介さなかった。マイルス・デイヴィスの良さをいち早く看破したのも実はホーキンスだった。ディジー・ガレスピー、J.J.ジョンソン、ハワード・マギーといったバッパー達とどんどん共演し、モダン・ミュージックをバリバリ吹きまくるのです。
チャーリー・パーカーに影響を与え、BeBopの元になったのはレスター・ヤングというのが定説ですが、「もしホークが、アート・テイタムを聴かなかったら…、もしホークがヨーロッパから帰ってこなかったらBeBopという音楽は全く別物になっていただろう」と言うミュージシャンは多い。
<After Paris>
’50sに入ると、ロイ・エルドリッジ(tp)との双頭バンドやJATPで活躍しながら、アルコールが災いし「下降期」に入ったと、批評家達は言うけど、本当にそうだったのでしょうか?
’60年代、コールマン・ホーキンス・カルテットの一番手のピアニストだったトミー・フラナガン、二番手のサー・ローランド・ハナ…レギュラー・ベーシストのメジャー・ホリー、最後を看取ったエディ・ロック(ds)、晩年のホークを慕うミュージシャンは批評家達には賛成しない。
ホークは、第一人者であったのに、新しい音楽に心を開き続け、自分の演奏する姿を見せることによって、後輩達に立派なミュージシャンの姿を示したと口を揃えて言うのです。
60年代後半からは、アルコール依存症で内臓をやられ、レスター・ヤングがそうだったように、食事が摂れず痩せこけ、やつれを隠す為に口髭を生やした。思えばトミーもハナさんも、晩年は口髭を蓄えてたなあ…パノニカ夫人は独り暮らしのホークを気遣って、体調が悪くなったらすぐ電話できるよう、彼のアパートの至る所に電話を備え付けたと言います。
「その頃のホークは本当にアル中だったの?」とダイアナに尋ねたら、彼女は即座にこう切り返した。
「タマエ、歴史上のジャズの巨匠で、アル中でない人はいる?いたら言ってみなさい!」
ハナさんがホークに捧げた作品“After Paris”は、自宅の壁に掲げたパリの地図を懐かしそうに眺めていた最晩年のホークのイメージ。
最晩年、コールマン・ホーキンスは、体調を押してヨーロッパにツアーし、ヴィレッジ・ヴァンガードに定期的に出演したが’68年になるとさすがに仕事を控えた。それでも、サド・メルOrch.のライブはしっかり客席で見守っていたそうです。母親が96歳で天寿を全うした4ヵ月後、ホークは巨木が朽ちるように’69年5月に静かに亡くなりました。享年64歳。葬儀には、NY中のありとあらゆるミュージシャンが駆けつけたと言います。
BeBopの土壌を耕し、フラナガン達のミュージシャン・シップを育てたテナーの父、コールマン・ホーキンス。ぜひ、『At Ease』や、『No Strings』『Good Old Broadway』を聴いて見て欲しい。トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナがホークに見た「父親像」は、この二人のピアニストが身をもって寺井尚之に見せてくれた姿でもあったんです。
口髭を蓄えたトミー、’99 OverSeasにて。
コールマン・ホーキンスをもっと知りたければ、講座本第5巻を一度読んでみてください!
CU
コールマン・ホーキンスの話をしよう!(1)
コールマン・ホーキンス(1904-69)
コールマン・ホーキンスの名演は、ジャズ講座で大反響を呼びました。
それを言い換えれば、私たちには当たり前のコールマン・ホーキンスの素晴らしさが、忘れられつつある証拠なのかも知れない。
今、このブログを訪問して下さっているあなたが、最近ジャズに興味を持ったのなら、「ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンなら知ってるけど、ホーキンスて誰やねん?」と思っても、ちっとも不思議じゃない。
だけど、ソニー・ロリンズだって、少年の頃は、サイン欲しさに、ホークの家の前で、毎日待ち伏せしてたんですよ。
この間、お店で新じゃがをボイルしながらダイアナ・フラナガン未亡人と電話でおしゃべりしていたら、’60年代に友人に連れられてホークのアパートに何度か行ったことがあると自慢していました。
ダイアナ: 「まだトミーと親しくなる前のことだった。コールマンは、“パークウエスト・ヴィレッジ”という、当時新しく出来た高層アパートに住んでいてね、窓からセントラルパークが一望できる部屋に暮らしていた。だいたいは独りでね。家にはピアノがあって、クラシックのLPのコレクションが凄かった。」
珠:あなたから見て、コールマンはどんな人だったの?
ダイアナ:「正に巨匠(a great master)って感じ。容易に人を寄せ付けないオーラがあって、誰にでも気さくというタイプじゃない。だけど、とっても優しい人だってことは、よく判るのよね。
無口だけど、何か自分の意見を言うときはズバっと言った。当たり障りのないものの言い方をしない人よ。でも、奥の深い言葉だった。トミーはコールマンが大好きだったけど、別にトミーだけじゃないわ、ジャズマンなら、誰だってコールマンのことは大好きだったのよ!」
近寄りがたいオーラがあって、優しくって、奥の深いことをズバっと言う巨匠?ダイアナ、それじゃあトミーと同じじゃないの!
だから、ちょっとホークの話をしてみよう。
<テナーサックスの父>
“Hawk”や“Bean”という愛称で親しまれたコールマン・ホーキンス(1904 – 1969)は、日本なら明治37年生まれの辰年で、カウント・ベイシー(p)やファッツ・ウォーラー(p)が同い年。シュール・レアリズムの鬼才、サルヴァトーレ・ダリとか、名優、笠智衆、「歌謡界の父」古賀政男もこの年に生まれた。
ホーキンスには、“テナーサックスの父”という名前もある。
というのも、この楽器は19世紀中ごろにベルギーのアドルフ・サックスによって発明されたのだけど、ブーブーと変てこりんな音を出す『三枚目役』専門だった。幅広のマウスピースと、堅いリードを用い、重厚な音色を開発して、音楽史上初めて、テナーサックスを、シリアスな主役を張れる『二枚目』に仕立て上げたのがコールマン・ホーキンスだからなんです。
コールマン・ホーキンスの写真を見ると、今では過去の遺物かも知れない『父』の風格が漂う。家の中で、一番偉くて、恐くて、頼り甲斐があって、信念に溢れる家長の姿だ。
普通『父』は、子孫を沢山作ると、『爺さん』になり、お役目御免となるのが常ですが、ホークは違った。自分の蒔いた種から育った子孫と共に、更に音楽を開拓したんです。
トミー・フラナガンは郵便配達夫であった父について、「ちゃんと労働をし、家庭を守り、人間としてやるべきことをきちんと子供達に教えた人」と言っていた。フラナガンのホーキンスに対する敬愛の念は、このお父さんの印象とオーバーラップする。
スタジオ入りしてからレコード会社が決めた曲目のメモと市販の譜面だけを頼りに、その場でどんどんアレンジして、後世の私達を魅了する名盤を数多く録音した巨匠…フラナガンにとっては「音楽家としてやるべきことを、きちんと教えてくれた」音楽の父ではなかったろうか?
コールマン・ホーキンス、どんな生い立ちだったんだろう?
<ミズーリの天才少年>
コールマン・ホーキンスの生地は、ミズーリ州のセント・ジョセフという町で、音楽家の母と、電気工事作業員の父の間に生まれた一人息子、大事にされました。
西部劇でジェシー・ジェームズという銀行強盗を見たことがありますか? ブラット・ピットも演じたアメリカン・ヒーローです。彼が、賞金稼ぎと撃ち合いの末、壮絶な死を遂げた町がセント・ジョセフ。ホーキンスが、銀行を信頼せず、長年、全財産をポケットに入れ持ち歩いたのは、そのせいなのかも…。
コールマンは5歳からチェロとピアノをみっちり稽古し、9歳の時に、たまたまプレゼントにもらったCメロディのサックスが気に入って独学で習得してしまった。
つまり10才かそこらで、譜面が完璧に読め、ピアノもチェロもサックスも演奏できた! 即戦力!子供のときから、劇場のオーケストラに駆り出され仕事をしていた。
後に、多くのミュージシャン達が、彼のピアノやチェロが、プロ並の腕前だったと証言している。サー・ローランド・ハナが、チェロで活動していたのも、ホーキンスの影響に違いない!
<一流ヴォードヴィルから一流楽団へ!>
それは、ラジオすらない時代、庶民の娯楽として大人気だったのが、旅回りのヴォードヴィル・ショー。ダンスや歌、お芝居に手品やアクロバット、何でもありのヴァラエティ劇団で、サーカスみたいに巡業します。黒人のヴォードヴィルで最も人気を博していたのが、『マミー・スミス&ジャズハウンズ』という一座でした。
12歳になると、女座長マミー・スミスさんが、ホーキンス少年のサックスの腕を見込んでスカウトにやって来ます。彼は体が大きかったので、そんな子供とは知らなかったんだって。さっき書いたように、サックスは、サーカスや、ヴォードヴィルのような演芸には重宝されたんです。
“マミー・スミス&ジャズハウンズ”真ん中の女性がマミー・スミスで右がホーク、左から二人目のトランペット奏者が後にエリントン楽団のスターとなった、ババ・マイリーです。
息子を音楽学校に通わせて、立派なチェリストにしたいと思っていたお母さんは断固断り、黒人でもちゃんと教育が受けられる大都会シカゴへ息子を送り出した。その後、カンサス州都トペカのハイスクールに進学、トペカから車で1時間ほど飛ばすと、そこはジャズのメッカ、享楽の都カンサス・シティ!内地留学は、檻の中のライオンをジャングルに放つような結果となった。コールマン少年は、ルイ・アームストロングやキング・オリヴァー達がニューオリンズから持ってきたジャズのエッセンスを吸収し、どんどん実力を高める。カンサス・シティでは大学まで行ったと言われていますが、本当のところは判りません。演奏に忙しく、学費はあっても、そんな暇なかったじゃないかしら?
18歳になると、青田刈りされていたマミー・スミスの人気一座に入り、たちまち高給取りとなります。
フレッチャー・ヘンダーソン楽団(’24) 左から2番目がコールマン・ホーキンス、3番目がルイ・アームストロング、真ん中で腰掛けているのがフレッチャー・ヘンダーソン。アメリカの人気ジャズサイト:Jerry Jazz Musician.comより。
20歳になると、メジャーに移籍! 当時、エリントンと人気を競い合ったフレッチャー・ヘンダーソン楽団に入り、更に給料が上がった。サックスを手にして僅か10年、この楽団で、ホーキンスは豪快なテナーの音色を開発し、NYに進出、ハーレムのキングの一人になったのです。
この楽団でオハイオに旅した時に、あのアート・テイタム(p)を聴いた事は、ホーキンス自身だけでなく、それ以降のジャズの変遷を決定付ける運命的なものになります。 ホーキンスは、テイタムのハーモニー感覚とバーラインを超えたフレージングをテナーのプレイに取り込んで、新境地を開拓したのです。その革命的なスタイルが、後にビバップが芽吹く土壌を作ったと、多くのミュージシャンは言う。
<好敵手登場!>
ホーキンスをテナーサックスの東の正横綱とするなら、西の横綱はレスター・ヤング! 性格も、演奏スタイルも、ファッション感覚も、何もかも対照的なレスター・ヤングはホークより5才年下で、何につけてもホークと比較され、辛酸をなめた。メディアは二人を「仇同志」にしたがるけど、実際はそうではなかったらしい。
レスター・ヤング(1909-59)
カッティング・コンテストと呼ばれるジャムセッションの勝負が盛んに行われたカンザス・シティで、夜明けから昼過ぎまで、二人が死闘を繰り広げ、結局レスターに軍配が上がったという伝説のセッションは、後に映画になったけど、真偽はよく判ない。タイムスリップできるなら、自分の耳で確かめたい!
文字通り相撲の横綱のように、20代前半に頂点に上り詰めたコールマン・ホーキンス、続きはまた来週!
最後にこの映像をぜひ観て欲しい。1945年のミステリー映画「クリムゾン・カナリー」という日本未公開のミステリー映画の一シーンです。撮影用ですが、オスカー・ペティフォード(b)、デンジル・ベスト(ds)、ハワード・マギー(tp)、サー・チャールズ・トンプソン(p)という顔ぶれの中でブロウするホーク!テナーサックスの父でありながら、若手に引けをとらないモダンなかっこよさ!バリバリのバッパーです。
CU!
FlanaganiaからMainstemへ:寺井尚之の旅立ち
Jazz Club OverSeasの看板として、15年間の長きに渡り、皆様にご愛顧頂いたフラナガニアトリオが、先日5月30日のライブを区切りに活動休止となりました。最後の演奏曲は奇しくも“Caravan”、長い旅路への乾杯の歌か…粋だね!
横浜フラナガン愛好会から贈られたワインで乾杯!
このトリオのレギュラー・ドラマーとして絶大な人気を誇った河原達人(ds)さんと寺井尚之の共演歴は33年だから半端ではない。レギュラーとしての活動期間はバリー・ハリス(p)とリロイ・ウィリアムス(ds)もかなわないだろう。
右側の2枚は、埼玉から駆けつけてくださったKD氏から送って頂いたショットです!ありがとうございました!!
税理士として多くのクライアントを抱え、山のようなアポイントとデスクワークをこなす傍ら、15年間、毎回、曲目を総入れ替えするフラナガニアのライブに付き合い、年2回のトリビュート・コンサートをこなすのは、並大抵のことではなかったはずです。
以前は、月2回ペースで行っていたフラナガニアも、ここ半年は月一回のみのお楽しみ。リハーサルすらままならなくなっていました。それでも、あれだけの演奏レベルを保つことが出来たのは、「二人が過ごした歳月」のおかげだったのだろう。
最後の舞台挨拶:「50歳になってドラムを叩くのは大変なことです。皆さんも50になったら判るでしょう。」は、同い年として深く受け止めました。
河原達人:スタンダードの歌詞の「美の壺」を、音楽的にも文学的にも正しく理解した稀有なドラマー、寺井尚之のフレーズを先読み出来た理解者。巧みなタムの使い方や、音量のコントロール、「可愛い」という日本語の最良の意味での装飾音の数々に、他のドラマーは驚愕した。テクニックをひけらかす「目立ちたがり屋」でなく、アニタ・オデイ(vo)の最良のパートナー、ジョン・プール(ds)のように、聴く者の心をそっと静かに揺さぶり、コンサートが終わっても、温かく爽やかな余韻が尾を引くプレイだった。
フラナガン愛好会からワインと共に贈られたユニフォームに手を通す河原達人氏
私にとって河原達人は、一緒にお酒を飲んで一番楽しくおもろい人!ガサツではなく繊細な、真の意味での関西人!「教養」というものが、「知ってても知らんでも、実生活に全くカンケーのない素敵なもの」であるならば、河原達人ほど教養のある人を私は知りません。もしも突然に、和田誠と三谷幸喜から「飲みに行こう」と誘われたって、迷わず私は河原達人と飲みに行く!自分の美点を、決してひけらかしたり、威張ったりしないところは、彼のドラミングと同じだ。河原さんが、人知れず、「こいつ嫌いや」と思う人はいるかも知れないけど、河原さんのことを「嫌い」な人なんてこの世にいないはずだ。
遊びに来たトミー・フラナガンと一緒にセッションした後に。(’93)
良き父であり夫であり、税理士の先生でありながら、音楽しか頭にない独立独歩の無頼派ピアニストで天衣無縫の変わり者、寺井尚之と、よくぞこれまで付き合っていただいたと拝みたい。これからは、気の向いたときに、OverSeasで気楽なセッションを続けながら、菅一平さん(ds)たち後輩の教科書役、お目付け役でいてほしい!
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
今月からは、新ユニット、“The Mainstem”(メインステム)で、スマートで集中力に溢れる斬新な演奏をお聴かせします。
ベースは、このところ逞しさが付き、大化けしてきた宮本在浩(b)と、折り目正しい性格が、そのままビートに反映する菅一平(ds)。
”The New Trio” で、ビバップのビッグバンド時代の大ネタ、“ラ・ロンド・スイーツ”(別名 Two Bass Hit)や“マンテカ”、ファッツ・ウォーラーの古典をビバップで疾走する“ジターバグ・ワルツ”など、大胆にスイングするピアノ・トリオの斬新さは、すでに新局面を予感させ、新しいお客さまのハートを掴んでいる。
“メインステム”という名前は、ジャズの深いリズムとハーモニーを、大河の潮流や、大木の逞しい幹に例えたデューク・エリントンの曲に因んだものです。
“The Mainstem”、今日、56歳になった寺井尚之のデトロイト・バップ大行進はどんどん続く!
寺井の口癖は、「季節の懐石」のようなプレイ。だけど、どこぞの老舗のように使いまわしはしないよ! だいたい、お客様に食べ残しされるものなんて、絶対に作らない所存。「ご立派なお献立でございました」なんて言われるのはイヤだ!
「あー、おいしかった!明日も元気モリモリや。」と言っていただけるものをお聴かせします!
記念すべき初演は6月28日(土)7pm- 勿論Jazz Club OverSeasにて!
CU
寺井珠重の対訳ノート(9) <Caravan>
無声映画の大美男スター、ルドルフ・ヴァレンティノで大当たりした「キャラヴァン」映画、“熱砂の舞”
<キャラバン>は、寺井尚之の隠れた18番、ピアノとドラムのスリリングな掛け合いから、あのテーマが始まると、いつもお客様は大喜び!
今月のジャズ講座では、トミー・フラナガン3の傑作アルバム『トーキョー・リサイタル(A Day in Tokyo)』の<キャラバン>が聴けた。キーター・ベッツ(b)の地響き立てて唸るようなビートと、ギラギラ光ってズバズバ時空を切る、黒澤映画のチャンバラみたいな、ボビー・ダーハム(ds)のスティックさばき、トミー・フラナガンが二人の持ち味を生かし、息を呑むようなトラックだった。
来月のジャズ講座では、このアルバムから5ヶ月後、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルで同じトリオをバックにエラ・フィッツジェラルドが歌う<キャラバン>が次回のジャズ講座で聴けます。
モントルーはスイス、レマン湖畔の高級リゾート、このジャズ・フェスは当時カジノの中で行われていたのです。
後で付いた歌詞は、砂漠を行く愛と冒険の旅路、レマン湖でヴァカンスやつかの間のロマンスを楽しむお客様にぴったり!下はエラが歌った1コーラス目です。
Night And stars above that shine so bright, The mystery of their fading light, That shines upon our caravan. Sleep Upon my shoulder as we creep Across the sand so I may keep This mistery of our caravan. You are so exciting, This is so inviting, Resting in my arms As I thrill to the magic charm of you With me here beneath the blue My dream of love is coming true Within our desert caravan… |
夜の砂漠、 輝く満天の星、 流れて消える神秘の流星は、 キャラバンに降り落ちる。 私に肩にもたれて、 眠っておいで。 砂漠を進む、キャラバンの 長き旅路に、 愛の魔法から醒めぬよう。 ときめく心、 わが腕に休む君、 君の妖しい魅力に囚われる。 空の下、君と寄り添い、 恋の夢は叶う、 愛の砂漠、二人のキャラバン… |
星降る夜空、砂漠の海、静かに進むキャラバン隊…異国の地に繰り広げられる愛と冒険のスペクタクル!歌詞のムードは、第一次大戦後に大流行したルドルフ・ヴァレンチノのサイレント映画(上の写真!)や、後に「アラビアのロレンス」として日本でも有名になった、砂漠の英雄、T.E. ローレンスの実話などの「砂漠ブーム」を強く意識したものです。
実際の作曲者、フアン・ティゾールは、エリントン楽団のバルブ・トロンボーン奏者です。20歳の時、プエルトリコから第一次大戦後の好景気に沸く本土に渡って来た。それは、はラジオがやっと出来た頃、間違ってもTVなんかない! 当時、庶民の娯楽は、劇場に行って、サイレント映画と“実演”つまりバンド演奏やショーを楽しむことくらい。劇場のピットOrch.の楽員がとにかく足りなかった時代。
プエルトリコは、本土よりずっとハイレベルの音楽教育で知られ、即戦力で使える音楽家の宝庫だった。だから、大勢のプエルトリカンがスカウトされてやって来た。ティゾールもその一人です。彼も劇場映画館のオーケストラ・ピットで、ヴァレンチノが砂漠の首長(シーク)として活躍する大スペクタクル映画、「血と砂」や「熱砂の舞」に女性達が失神するほどうっとりするのを観ていたに違いない。
フアン・ティゾール(1900-84)
ティゾールは、<キャラバン>(’36)の他にも<パーディド>など、楽団の為にたくさん作曲している。エリントンやストレイホーンだけでなく、こういう作品を総括したのがエリントニアなんです。
’29年に入団し、15年間在籍した後、ハリー・ジェームズ楽団に破格の報酬で引き抜かれましたが、’51年、ジョニー・ホッジス(as)達、主力メンバーがドドっと退団した楽団の危機に、助っ人として再加入した。
楽団での彼の役割は、アドリブで魅了するソロイストではなく、しっかりとしたテクニックでエリントン・サウンドを支える縁の下の力持ち。ヴァイオリン、ピアノetc…あらゆる楽器に習熟していたから全体を考えプレイした。
勿論バルブ・トロンボーンでは、どんなに速く広く音符が飛び回るパッセージでも容易く吹ける名手であったから、エリントンは彼の為に、普通のスライド・トロンボーンでは到底演奏不能なパートを書きまくった。そんなティゾールの複雑なラインとサックス陣のとのコントラストが、随一無比のエリントン・サウンドを生んだのです。
ティゾールの長所はそれだけではありません。「規律」という楽団にとって最も大切なものを守った。本番でもリハーサルでも、仕事場に、誰よりも早く入ってスタンバイしている人だった。アメリカの一流ジャズメンは、日本よりずっと体育会系で、ファーストネームで呼び合っていても、上下関係が凄いのです。先輩が早く入っていたら、いくら「飲む=打つ=買う」三拍子揃ったバンドマンでも、おいそれ遅刻など出来ません。こういうメンバーがいると、バンマスはどんなに楽でしょうか!
故に、ティゾールはエリントンの代わりにコンサート・マスターとして、リハーサルを仕切るほど重用されました。ですからずっと後から来て側近となったビリー・ストレイホーンと確執があったのは、むしろ当然のことですよね!
<キャラバン>のエキゾチックなサウンドは、サハラ砂漠ではなく、西インド諸島で生まれたフアン・ティゾールのものだった! エリントンは『ビバップとは、ジャズの西インド的な解釈である。』と言っている。
この作品にも、ビバップを予見するように、オルタードと呼ばれるスケールが多用されています。
それは、ティゾールをエリントンに結びつけた第一次大戦から、社会の変化につれて、ビバップへと連なって行く。
その道筋もまたInterludeにとっては、愛と冒険の一大スペクタクル!
次回のジャズ講座は6月14日(土)、ジャズ講座の本第5巻も新発売!
CU
ビリー・ストレイホーン(1915-67) 生涯一書生
トミー・フラナガンは、ある午後、OverSeasで『Tokyo Recital』を聴きながら、寺井尚之に向かって言った。『ビリー・ストレイホーンは、一生エリントンの書生(a boarder)だった。そうとは書いていなくても、ストレイホーンが作ったものには、こっそりと自作と「ハンコ(stamp)」が押してあるのだ。』
Boarder…どういうこっちゃ? フラナガンの言うBoarder…には、[下宿人]や、「寮生」というよりも、『書生』に近い意味合いが聞き取れた。そんなもんアメリカにあるのかしら?
ビリー・ストレイホーン…OverSeasのスタンダードナンバー、<チェルシー・ブリッジ>や<レインチェック><パッション・フラワー>の作者、なんと言っても有名なのは <A 列車で行こう>や<サテン・ドール>だ。
トミー・フラナガン青年が、『Overseas』の録音前、街で見かけたビリー・ストレイホーンに、「今度あなたの曲を録音させていただきます。」と挨拶したら、出版社までトミーを誘い自作の譜面の束をどさっとくれた紳士だ。エリントン楽団は何度もTVで観たけど、ストレイホーンは映ってなかった…「書生さん?」どんな人なんやろう?
それから私は、ストレイホーンの関連する文書を手当たり次第に読んだ。丁度、’92年頃に、米ジャズ界でストレイホーン・ブームが起こり、色んな雑誌でストレイホーンの特集が組まれた。数年後、音楽ジャーナリスト、David Hajdu (日本ではデヴィッド・ハジュだけど、本当はハイドゥと読むらしい。)が書いたストレイホーン伝、『ラッシュ・ライフ』が、ジャズ界で大センセーションを巻き起こした。
何故なら、ビリー・ストレイホーンはゲイの市民権のない時代、ホモセクシュアル故に、正当な評価を得られなかった孤高の天才音楽家として、偉大なるデューク・エリントンの実像は、彼の天才を踏み台にして名声を得たバンド・リーダー、という構図で描いていたからだ。
ジミー・ヒースやサー・ローランド・ハナ達、良識派は『あんな本あかんっ!』とカンカンになっていた。だけど、こっそり読みました。
『生涯一書生』とは禅の言葉、楽天の監督、野村克也はそれに倣い「生涯一捕手」と言うけど、ストレイホーンは禅の境地だったのだろうか?それとも…
<いじめられっ子とヒーローの出会い>
ビリー・ストレイホーンは、エリントンより16才年下だ。お坊ちゃん育ちのエリントンと違い、生活は苦しかった。生まれつき体が弱く、母と祖母からは溺愛されたが、アル中で工場労働者の父から虐待され、学校では、Sissy(女っぽい男)といじめに合ったという。ただし、音楽の才は並外れていて、ピッツバーグの高校時代には、楽器なしに考えるだけでオーケストラのフルスコアを書き、いじめっ子も「天才」と一目置いた。
ビリーはクラシック音楽家を志すのですが、黒人学生には音大への奨学金は出ない。将来の道を閉ざされたビリーは高校を中退、ジャズにクラシックと同じ美点があるのに気づき、ドラッグ・ストアでアルバイトしながら、地元でミュージシャンとして活動していた頃、エリントン楽団が町にやって来た。
それは、ビリーが23歳の時。ビリーを応援するバンド仲間が、ツアー中のエリントンにアポを取ってくれたのだ。ピアノの腕と作詞作曲、編曲の才能に驚いたエリントンは、即編曲の仕事を与えた。<Something to Live For>は、その時に持参した作品です。
翌年から、ビリーはNYで、エリントンの助手として仕える。エリントン楽団のテーマ、ハーレムの香り漂う<“A”列車で行こう>は、NYのエリントンを訪ねた時、手土産代わりに持参した作品で、ピッツバーグで、A列車に乗ったことのないビリーが書いたもの、最初は作風がエリントンのイメージと違うと、ボツになった作品だったのです。
<“A”列車で行こう>
師匠であるエリントンが修業中のビリーに命じたことは唯一つ。「観て覚えろ (Observe)」だったと言います。
最初は、下働きのストレイホーンの存在感が一挙に高まったのは、’42年アメリカで起こった音楽戦争、『録音禁止令』のおかげだった。『録音禁止令』(Recording Ban)とは大手著作権協会ASCAPが、著作料の大幅値上げを一方的に決めた為に、音楽家協会とラジオ局が、ASCAPに属する楽曲の放送や録音を、全面的にストップしたという事件です。エリントンの曲は全てASCAP帰属だから、レコーディングもラジオ放送もできない。ところが、録音禁止令の直後にラジオ出演が入っていた。どうしても48時間以内に、エリントン名義でない大量の楽団スコアを用意しなければならない。絶体絶命だ!
ストレイホーンと、エリントンの息子、マーサーが、不眠不休で仕事をして、何とかレパートリーの準備をする。今までの楽団のテーマ・ソング<セピア・パノラマ>に替わって使われたのが<“A”列車で行こう>で、世界中でヒットした。その間、エリントンはどうしていたかって?もちろん楽団を率いて仕事です。だからバンドリーダーであり、大作曲家というのは、例外中の例外なのです。
<スイーピー&モンスター>
自作曲が楽団のテーマになり、全幅の信頼を置かれたビリーは、文字通りエリントンの影武者として、演奏に多忙なエリントンの代わりに、作曲、編曲、映画やショウの監督、レコーディングのピアノ演奏に至るまでエリントン名義で担当する。寺井尚之ジャズピアノ教室で配布しているエリントン著の「ブルース教本」も実はストレイホーンの執筆だ。モンスター、スイーピーと呼び合うエリントンとストレイホーンの仕事は、どこからどこまでが区切りか本人すら判別出来ない程緊密で、今も音楽史上最高の共同作業と言われる。その事実は業界の人だけが知ることで、一般には公表されていなかったのです。
スポットライトが当たらない代わりに、ビリーは自由気ままな生活を享受します。兵役を免れ、偽装結婚をする必要もなく、ボーイフレンドと豪華なアパート暮らし、高価な美術品を集め、創作活動に没頭した。多くの州で同性愛が逮捕された時代、公民権法もなかった時代のことです。
おまけに、多額の生活費用は、全てエリントン自身が決済していた。つまり、ストレイホーンに給料はなく、エリントンがポケット・マネーで彼を養っていた。フラナガンの言うように、雇用関係のない『書生』だったのです。彼がこのまま世間知らずで一生送れたらどんなに良かっただろう。
レナ・ホーンとストレイホーン
<迷子のスイーピー>
スイーピーとモンスターの稀有なパートナーシップは、実の息子、マーサー・エリントンや、生え抜きのファン・ティゾールなど、多くの取り巻きとストレイホーンの間に軋轢を生じ、状況は変わっていきます。
反面、ストレイホーンの味方には、クラーク・テリーやジョニー・ホッジス達がいた。意外にも男臭さ溢れるテナー、ベン・ウェブスターや、夭折のベーシスト、ジミー・ブラントンも親友だ。中でも仲良しだったのが絶世の美人歌手、レナ・ホーンだ。
彼女と夫の編曲家レニー・ヘイトン(マーサー・エリントンの同窓生)は、ストレイホーンに音楽出版会社を作ろうと独立を誘う。著作権が莫大な金額を生むと教えた。世間知らずのビリーは、自分に著作権がないことに初めて愕然とするのです。まるで、リンゴを口にしたアダムとイヴの話の様に、ビリーは、気楽に思えたエリントンの庇護から独立を望むのです。
それを知ったフランク・シナトラも、音楽監督としてビリーを好条件で引き抜こうとしますが、エリントンは、裏で手を回して計画を阻止していく。楽団のスター・プレイヤーは放出しても、スイーピーを外に出すことは徹底的に拒否したのです。時は’48年、ビッグバンド凋落の時代でエリントンが経済的に難しい時代というのを忘れてはいけません。結局、ビリーは楽団を離れて活動するのけれど、ブロードウエイも、歌の世界でも、「知名度が低い」という現実をつきつけられ挫折。放蕩息子の帰還のように、’51年にはエリントンの元に戻ります。
<ラッシュ・ライフ>
再び二人の共同作業が始まって、更にエリントンはステイタスを高めるのですが、今度はビリー・ストレイホーンを出来るだけ前面に出して気遣いを示します。二人の第二期黄金期の代表作、『くるみ割り人形のジャズ・ヴァージョン』のジャケットに、二人の顔写真が並んでいるのは、エリントンの気遣いを象徴したものだ。それでも、抵抗勢力との確執は続いた。エリントンという大所帯にはビリー・ストレイホーンの名声は別不要なものだった。ストレイホーンが終生、名声を得られなかったのは、人間としてのエリントンより、エリントンが抱える組織の事情が大きかった。
ナット・キング・コールがヒットさせた<ラッシュ・ライフ>には、そんな彼の行き場のない思いが感じられます。
焦燥感を紛らわせるために、父親同様、酒に溺れそうになるストレイホーンにとって、希望を与えてくれたのが、キング牧師と自由公民権運動です。フラナガンや寺井の得意とするU.M.M.Gは、同じキング牧師の支援者で、ボランティア活動に貢献したエリントンの主治医に捧げた曲なんです。でも、ワシントン大行進の頃にはストレイホーンは食道がんに侵され、今までのような享楽の生活は叶わなくなっていた。
エリントンは、病魔と闘うストレイホーンの最期まで、経済的な援助を続けた。リノのカジノで悲報を受けた時には、その場で泣き崩れたと言う。ストレイホーンの葬儀でのエリントンの表情、エリントンの音楽と同じように、言葉では言い表せない深い思いが読み取れて、どんな名画のシーンよりも心を打たれます。
ハイドゥの言うようにエリントンはストレイホーンを利用した打算的な人間だったでしょうか?私にはそう思えない。エリントン楽団が亡くなったストレイホーンに捧げたアルバム、『And His Mother Called Bill』(’67)を聴くと、どうしてもそうは思えないのです。
エリントンやストレイホーンを知らない人も、このアルバムは一度聴いてみて欲しい!
エリントンは自伝にこんなことを書いています。
「芸術家たるもの、自分の信条は、言葉であれこれ言うべきものではない。自分の作品で表現することこそ芸術家の使命なのだ。」
トーキョー・リサイタルとデューク・エリントン
今週の土曜日のジャズ講座には、(別名 A Day in Tokyo)が登場します。
’75年2月録音、フラナガンがエラ・フィッツジェラルドとの日本ツアーのオフ日に東京で録音したアルバム。当時大学3回生の寺井尚之は、その4日後に、最終公演地の京都で、トミー・フラナガンに初めて弟子入りを志願し、「人に教える暇があったら、自分の練習をしたい。」と見事に断られた。もし、フラナガンが調子よく「よっしゃ、今日から君は僕の弟子だよ!」と、言っていたら、寺井尚之の今はなかったかも知れない。
当時のスイングジャーナルを読むと、このアルバムの実質的な製作者であった日本ポリドールが『スタンダード集』を要望したにも関わらず、フラナガンの強弁な主張に押し切られた形で、『エリントン-ストレイホーン集』に成ったと書いてありました。恐らくトミー・フラナガンは、来日前に「リーダー・アルバムを」とだけの録音オファーを受け、長年温めていたエリントン集の構想を、映画の絵コンテのようなしっかりとしたイメージを準備して、東京で録音に臨んだに違いないのです。
それが土壇場になって、「トミーさん、エリントン集なんたって、そんなもの売れませんや。何とかスタンダードでお願いしますよ。」とか言われたに違いない。フラナガンという人は、そんな時、ピストルで脅されたって札束を積まれたって、、テコでも動かない人ですからね。No!と言ったはずだ。頭から湯気を出しためちゃくちゃコワイ顔が想像できる。
<Tokyo Recital>が、どれほどの名作かは、ぜひジャズ講座に来て寺井尚之の話を聴いて楽しんで頂きたいと思います。
ところが、最近は、ジャズが好きでも、デューク・エリントンという名前も”A列車で行こう”も聴いたことがないと言う、若い方々が増えている。時代が変わるという事は、こう言うことなのでしょうか? Oh, My God, 神様、仏様、こりゃ、困った。
だから、ちょっとザ・デュークとストレイホーンの話をしてみよう!
とは言え、経歴だけでも、アメリカ音楽史となり、楽団メンバーの変遷だけでも、ジャズ人名辞典になる。楽曲を並べると、アメリカン・ヒットパレード。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの世界は、アマゾンの熱帯雨林より奥深い。だから、本当に少しだけ。
ピアノとワードローブに囲まれたデューク
撮影ハーマン・レオノール
(その1)デューク・エリントン
<明治のぼんぼん>
“デューク”こと、エドワード・ケネディ・エリントンは、日本で言えば明治32年生まれ。”アンタッチャブル”でおなじみのギャングのボス、アル・カポネ、日本なら川端康成、笹川良一と同い年だ。当時全米で最大の黒人人口を誇った都市、ワシントンDCに生まれた。 父親は、裕福な医師の邸宅の食事やパーティを仕切る有能な執事だった。エリントン少年は、アメリカに人種差別があることも知らず、お坊ちゃまとして何不自由なく育ち、幼少からピアノを習ったが、発表会では片手を先生に手伝ってもらわなければ満足に弾けない劣等生、野球の方がずっと好きだったと自伝に書いている。
エリントンの天才仲間、ファッツ・ウォーラー(p)
ハイスクール入学後のエリントン少年は、“ぼんぼん”の例に漏れず、夜遊びを覚えた。プールバーや、浅草ロック座のように、綺麗なお姉さんがしどけなく踊るバーレスクの劇場に出入りする。そのうち、生演奏するピアニストの脇には、必ず美人がはべるという法則を発見し、初めてピアノへの情熱が生まれたのだった。エリントン少年の非凡な点は、女性を追い掛け回すだけでなく、ハスラー達のいかさまの極意や、お客に喜んでチップを払ってもらう術を、即座に会得したところです。例えばピアノ演奏のエンディングでは、わざと腕をオーバーに上げると喝采とチップが増えると言うような実践的テクニックを次々に身につける。電話帳に「芸能なんでも承り」と、一番大きな枠の広告を張り、自分で演奏するだけでなく、芸能事務所や広告代理店など多角経営を行い、破格の収入を得て、高校中退。そんなエリントンにNY進出を薦めたのはファッツ・ウォーラー(p)だ。’23年、エリントンが故郷を出る時に持っていた有り金は、全て道中で散財し、NYに着いた時は一文無しだったが、蛇の道は蛇、天才的な要領の良さで、酒場からコットン・クラブやブロードウエイへと、天井知らずにどんどん出世して行く。
<禁酒法に学ぶ>
エリントンがブレイクしたのは禁酒法時代。第一次大戦後、バブル景気に沸くアメリカで施行されたけったいな法律、禁酒法は、結果的にギャングと娯楽産業を大儲けさせた。だって非合法ビジネスは税金を払わなくていいから儲かります。客席は白人オンリーのハーレムの名店《コットン・クラブ》は、毎夜、富豪やセレブで大繁盛、専属バンドのエリントン楽団は全米にラジオ放送され、海外にも名声が轟いた。ジョニー・ホッジス(as)の官能的な響きやクーティ・ウィリアムス(tp)の野生的なプランジャー・ミュートは、絢爛たるハーレム・ルネサンスの栄華と、エキゾチックな肢体をさらすコーラス・ガールなしには生まれなかったのだ。
エリントン達は、もぐり酒場(スピーク・イージー)で密造酒の作り方も会得した。
非合法のもぐり酒場で提供される密造酒は、同じ中身でも、A.Bとランク付けされていた。豪華なカップで供されるAは値段が倍違う。大阪人なら、「Bでええわ」と言うところですが、景気の良いお客さんは、例え中身は同じでも、“A下さいっ”と高い方を注文し、女性達に羽振りのよさを見せ付けたのです。容器が違うから、高価な飲み物とそうでないのはひとめで判るのです。(今ならキャバクラのドンペリか?)エリントンは、それを観て「これだ!」と膝を打ったと言います。
エリザベス女王に謁見するエリントン
<音楽にジャンルなし。良い音楽とそうでないものだけ。>
中身は同じでも、ステイタスを付けよう。 故にエリントンは、ハーレムの一流で終わることなく、禁酒法でギャングが没落し、ハーレムが廃れても、どんどん出世した。ギャングとの黒いつながりも、エリントンは巧みに避ける処世術を持っていた。 ヨーロッパでは、英国皇太子(後のウィンザー公)が“追っかけ”となり、一晩中バンドの近くから離れない。そしてエリントンが出演するイギリスの晩餐会でダイヤのイヤリングを落とした高貴なレディの名文句は世界に発信されたのだ。
「ダイヤはいつでも買えるけど、エリントンは今しか聴けないのですよ。皆さん、どうぞ、ダイヤなんてお気になさらないで。」
’38年にビリー・ストレイホーンと出会い、二人の非公式な共作活動が始まってからは、組曲やクラシックのエリントン・ヴァージョン、バレーに至るまで、創作スケールは更に拡大を続ける。ビートルズやロックに主役の座を奪われたジャズ界から超越した存在になることで生き残りを図り、ジャズの枠に囚われることを徹底的に避けたのだ。
<エリントンの楽器はオーケストラだった。>
エリントンの革新的な和声解釈はジャズだけでなく、ジャンルの区別なく20世紀の音楽に大きな影響を与えた。エリントンは、楽団メンバーの持ち味を最高に生かした楽曲を創り、自分のピアノのサウンドを絶妙に生かす楽曲を作った。
留学時にエリントンへの弟子入りを熱望した武満徹は、こんなことを言っている。「エリントンは常にこの音を誰が弾くのかと常に考えて作曲することが出来た。あれほど作曲家冥利に尽きる贅沢はありません。クラシック界では、夢のまた夢のようなことです。」
以前、ジャズ界のサギ師としてセロニアス・モンクの事を書きましたが、モンクが一番尊敬したのがデューク・エリントンだった。エリントンの痛快なサギ師ぶりは、またいつか書いてみたいけど、それは決して音楽家の内容のなさを小手先の術で補ったのではないのです! むしろ、自分の音楽の崇高さを、正しく世間に認めさせるために使った、「ちょっとした魔法」ではなかったか?
トミー・フラナガンが3つの時の、デトロイトでの公演ポスター
ビッグバンド時代の終焉後も、エリントンは作曲の印税を、ほとんどバンドの給料に宛てて維持したと言いますが、主要なバンドメンバーが抜けても、エリントンは決して動じず、新しいメンバーで新しいバンドの醍醐味をどんどん創って行った。それほど懐の深いエリントンが、ただ一人、独立を徹底的に阻止したスタッフが、ビリー・ストレイホーンだったのです。
次回はビリー・ストレイホーンの天才について、少し話そう!
その前にジャズ講座は10日です。皆さん、どうぞいらっしゃい!
CU