爽やかな秋の日です。皆様ご機嫌いかがですか?
本日より、かねてからInterludeでご紹介してきたビバップの聖者、ジミー・ヒースと弟のアルバート”トウティ”ヒースのヒース・ブラザーズが東京丸の内の『コットン・クラブ』に出演いたします。
大江戸のビバップ・ファンの皆様、ぜひ応援に行ってあげてください!
THE DIZZY GILLESPIE ALUMNI ALL-STARS featuring THE HEATH BROTHERS
ザ・ディジー・ガレスピー・アルムナイ・オールスターズ・フィーチャリング・ザ・ヒース・ブラザーズ
10.12.tue – 10.14.thu
Showtimes : 7:00pm & 9:30pm
メンバー:Jimmy Heath(sax), Albert ‘Tootie’ Heath(ds), Antonio Hart(sax),
Greg Gisbert (tp), Benny Green(p), John Lee(b)
ジミーはモナ夫人を同行されての来日です。バックステージに行かれたら、大阪の私達から宜しくお伝えくださいね!
神奈川のコシケン青年も、しっかり聴いてくるんだよ~
CU
カテゴリー: ジャズのサムライ達、聖人達
ジミー・ヒース自伝を読みながら・・・(3)
今年最後のSeptember in the Rainで路地裏もしっとり濡れてます。大阪も急に寒くなりました。皆様、お風邪など召されていませんか?国際事情ややこしいようで、北京駐在の常連KD氏はお変わりありませんか?
ジャズと関係ないけど「俺達に明日はない」の監督、アーサー・ペンが亡くなったそうですね。トランペットのKD(ケニー・ド-ハム)の幼少時代最も記憶に残る犯罪者だった”ボニー&クライド”の物語。スローモーションの鮮烈なラスト・シーンが忘れられません…
さて、「ジミー・ヒース伝」第3回目は、ジミーのジョン・コルトレーン観について、抜粋しようと思います。プレイも作編曲も、あくまでも端整でクリアカットなジミー・ヒースと、濃密でアヴァン・ギャルドなジョン・コルトレーンは、前のエントリーで書いたように、40年代~50年代の初めにかけて、バンド・メイトとして、友人として、一緒に稽古し、ハーモニー論議を展開した親密な間柄。初期の二人は、ほとんど同じ音楽的方向を目指していたといいます。
後にジョン・コルトレーンはBlue Noteレコードと契約し、ジミーは当時Blue NoteのライバルだったRiversideレコードに。レコード会社の資本力と命運が、批評界の評価の相違に大きく関係しているようにも思えます。
ジミー・ヒースのジョン・コルトレーン観についての項に書かれている「ジョン・コルトレーンのどこがいいのか?」は、今まで読んだどんな批評よりも「なるほど!」と納得できるものでした。
ジミー・ヒース自伝 :Second Chorus (1949-1969)より
(p.136~)
<葬儀にて>
1967年7月17日、ジョン・コルトレーンが亡くなった時、私はアート・ファーマー(tp, flh)とイースト・ヴィレッジのクラブ『Slugs』で仕事をしていた。夜遅くの出番だったので、21日に行われた葬儀の時は非常に疲れていた。場所は、レキシントンAve.54丁目にあるSt.ピーターズ教会、ルーテル派の古風なゴシック様式で、現在のシティ・コープビルに建て替わる前、ジョン・ゲンゼルが牧師を勤めている頃のことだ。告別式ではソニー・スティットが隣の席だった。私は棺を担ぐように言われたが、どうにも出来なかった。棺のトレーンを見ると涙が止まらない。死に顔はトレーンとは思えず、空気で膨らませた人形にしか見えない。そして私は手を見た。間違いなくそれはトレーンの手だった。その途端に、私はジョンの死を実感した。彼の人生が私の中でフラッシュバックし、悲しみが私を打ちのめした。ディジー・ガレスピー楽団や、様々なセッションで共演した時期は、とても近しい関係だったのだ。フィラデルフィアで一日中一緒に練習したり、遊び歩いた思い出が一気に甦った。
葬儀は盛大でアメリカ全土のみならず世界中から大勢が参列しており、私はそれまでより更に、彼が最初は私と同様、地味な存在であったと認識した。これほど大物になりながら死んでしまったトレーン、『人生は40歳から』という格言を思い出す。棺の彼は40歳で死んでしまった。彼はもうこの世にいないのだ。それは圧倒的な事実で、どうにも受け容れ難いことだった。ディジー(ガレスピー)が私の後ろに座っていて、バルコニーではフリー・ジャズが演奏されていた。
ディジーはこう言った。「もし俺がくたばって、葬式でこんな音楽を演られたら、ロレイン(ガレスピー夫人)が全員撃ち殺しちまうだろうな・・・」(中略)
<私たちのつながり>
私とコルトレーンの音楽的関係は、お互いの初期には非常に強いものだったが、私の服役中にその絆は絶たれた。私がジャズ・シーンから消えた4年半の間も、彼は自分のやるべきことを、しっかりやり続けた。常に修練を続ければ、必ず熟達する。私が戻ってきたとき、彼は大物になり、すっかり多忙になっていたが、それでも時おり会っていろんなことを話し合った。1959年に復帰してからは、私より彼の方がずっと大物になっていたので共演はしていない。そして彼の目指す音楽的方向もまた、彼を取り巻くミュージシャンたちと共に変化していた。トレーンが私を思いやって、「自分の後任はジミー・ヒースにして欲しい」とマイルス・デイヴィスに宛てて要請した葉書を、私は持っている。
後年、私はTrane Connection”と題するオリジナルを作曲し、ジョンに捧げた。彼の名声と音楽的地位は誰よりも勝っている。
彼は明らかに新しい音楽的方向の開拓者だ。つまり、彼は今までとは異なった流儀で演奏する事をめざし、紛れもなく「コルトレーン」というスタイルを作り上げた。しかし『Ascention』というアルバムは濃厚すぎて好きではない。一度に皆が口々に演奏する形式は重層に過ぎ、私個人の意見としては、どうも無秩序に聴こえてしまう。
確かにニュー・オリンズ・ジャズのスタイルで、3、4人が一度にプレイするということはあるし、J.J.ジョンソンも”clam bake”(騒々しい集まり)と名づけて、そういう形式を取り入れていた。3人が口々にプレイしても、まだ各人の相違や関連が判るが、『Ascention』では、もっと大人数で一度に演奏しているので、いささか興醒めする。
<ジョン・コルトレーンの『泣きのサウンド』について>
思うに、レコーディング内容なら『Count Down』『Giant Steps』『至上の愛』、楽曲なら『Naima』『Count Down』といった辺りが、彼の最高作ではないだろうか。特に『Naima』は他のどの作品よりもレベルが高いと思う。ただし『Naima』の後期ヴァージョンはよりフリーで濃密だ。
コルトレーンはテナー・サックスという楽器で最も説得力のあるサウンドを持っていた。だが彼のソプラノは甲高く、私は余り好きではない。いずれの楽器にせよ、テクニックも創造力も素晴らしいものだが、ここではトレーンのテナーについて語りたい。彼のテナーのサウンドには「泣き(Cry)」がある、そしてその「泣き(Crying)」には尊厳がある。「叫び」のテナーは「懇願するような趣」を持つ種類のプレイヤーがいる。ケニーG、デヴィッド・サンボーンといった人たちは,言わば「泣き虫の子供」だ。だが、コルトレーンの「泣き」はそういう種類のものではない。尊厳と品格のある「泣き」で、神々しく精神性の高いものなのだ。
それ以外の「泣き」のテナーたちは往々にしてハンク・クロフォードのような黒人ソウル系サックスの模倣だ。グローヴァー・ワシントンもそういう系統に属しているものの、サウンドはけた違いに凄い。
トレーンのサウンドは、「一緒にベッドに行こうよ」とおねだりするような種類のものではない。「好きになって欲しいとは言わないが、真実の表現なのだから、否応なしに、好きにならなければならない!」というところがコルトレーンならではだ。
テナーの歴史上そんなプレイヤーはいない。多くのテナー奏者がコルトレーンのスタイルやフレーズを模倣しているが、あのサウンドを会得した者は皆無だ。あのサウンドは、トレーンの高い精神性や音楽への献身、それに休みなく続けた修練の賜物で、彼だけのものなのだ。
彼は自分の求めるサウンドが何かをよく知っており、それを自分のものにした。初期の『Naima』を聴くと、それを実感することが出来る。彼はストレートなトーンを使っているので、冷たい印象を受けるかもしれない。しかし、ストレートなトーンから独特の「温かみ」が発散しているのがわかるだろう、後に彼が駆使するヴィブラートにも、その「温かみ」があり、それらは全て、上に書いたようなトレーンの非常に個人的な修練に根ざしたものなのだ。
皆さんはどう思われますか?My Favorite Thingsだけでは、ジョン・コルトレーンの本当の凄さは判りませんね。
OverSeasで聴く寺井尚之の『Naima』も、ぜひ一度聴いていただきたいです!
明日は鉄人デュオ!お勧め料理はほっこりジャガイモ&きのこのグラタンを作ります。
CU
ジミー・ヒース自伝を読みながら・・・(2)
このあいだのジャズ講座で聴いたジミー・ヒース(ts, ss)は良かったですね!ジミーならではの、すっきりしたアレンジと、豪放で優しいテナーと、色っぽいけどベタベタしないソプラノの音色はジミー・ヒースだけのヴォイス!今の心の中に響いてます。
ジミー・ヒースさんは文字通りハッピー・セイント!ハードバップ全盛期の50年代にレコーディングがないのは、麻薬が原因で5年間刑務所に服役していたためでした。
自伝には、話したくないはずの最悪の時期について克明に書かれています。.読み応えがありすぎて、ここで安易に抄訳するのは控えておきますが、伝わってくるメッセージは、「人間は一人では生きていけない」ということ。はるばる面会に通う家族の愛情。強い父親が面会で号泣する姿。マイルス・デイヴィスが何度もくれた励ましの手紙。ルイ・アームストロングの慰問演奏の癒しの力などとともに、獄中に届いたチャーリー・パーカー、クリフォード・ブラウン、リッチー・パイエルなど、尊敬してきたミュージシャンや、仲間の訃報を聴いたショックなど・・・塀の中の人種差別のエピソードと共に、苦境に陥ったとき、人間はどうあるべきか、色々考えさせられました。
あの頃のジャズ界は石を投げればヘロイン中毒に当たるほど・・逆に絶対に薬をやらないという天才は、ディジー・ガレスピー、パーシー・ヒース、ミルト・ジャクソン、ハンク・ジョーンズくらいしか伝記には出てきません。なのに、なんでジミー・ヒースだけが・・・と感じずにはいられませんが、ジミーの文章は潔い。その後の人生は、公私ともに過去の「負」の部分を償う以上に実りあるものだったからでしょう!
1959年出所の翌日、ジミー・ヒースは運命の女性と出会うことになります。なんてラッキーな人でしょう!自宅で催された、ささやかな復帰パーティで、ジミーは無口な白人アーティストと運命的な出会いをします。それがモナさん。学校で建築デザインの勉強をしたモナ・ブラウンは、フィラデルフィアの博物館でマヤ遺跡の研究アシスタントとして働き、ジャズ・ファンだったので、弟のアルバートに招待されたんです。ジミーとモナは、僅か一年後に結婚。私が出会った黒人ミュージシャンの奥さんのほとんどは白人ですが、それはずっと後の話。公民権運動以前の人種隔離時代、大都市フィラデルフィアですら、白人と黒人のカップルはジミーを含めたった三組しかいなかったそうです。
当然のことながら、モナさんは両親に結婚の意思を伝えると、即勘当!ゆえに上の結婚式の写真はジミーの両親しか写ってない。
ジャズ界に復帰したジミーはフィラデルフィアの外に出るには大変な規制があり、楽旅ができません。そのため、人気のあるマイルスのバンドを辞めざるを得なかった。役所のコネを使い四方八方手を尽くすマイルス・デイヴィスや、復帰直後に、各方面にジミーを推薦する手紙を書いたジョン・コルトレーン、常日頃、余り馴染みのない二人の歴史的アイコンが、この本のおかげで身近に感じるようになりました。
さて二児をもうけ、NYに引っ越すまで、フィラデルフィアの黒人居住地域にあるヒース家に同居していたモナさんは白人故、地域をパトロールする警察官に「お嬢さん、大丈夫ですか?」と何度もたずねられたそうです。食生活や、肌や髪の手入れなど、黒人と白人の生活スタイルはかなり違っていたという話を聞いたことがあるし、順応するには大変だったかも知れませんね。いつまでも育ちの良いお嬢さんみたいで、「意地悪」なんてしたことないようなモナさんには、ジミーとの結婚で苦労した痕跡など微塵にも感じられません。きっとヒース家のご両親も、すごく良い人だったんだろうね!
ジミーの作品のうちでも特に有名な曲、”ジンジャー・ブレッド・ボーイ”、どこにでも売ってる生姜味のクッキーのことですが、モナさんが長男のジェフリー君がお腹の中にいる時、夫婦で近所のクラブにジャズを聴きに行ったそうです。すると、ばったり出会った地元の伝説的サックス奏者ジミー・オリヴァーが、モナのお腹に気付き、「可愛いジンジャーブレッド・ボーイが生まれるんだね!」と祝福してくれたのがきっかけで、あの名曲が創られたのだそうです。つまり、”ジンジャー・ブレッド・ボーイ”は、子供の肌の色を示唆しているのですね!
上の写真はフィラデルフィアのヒース家の近く。モナさんと、ジミーのスポーツカーで運転ごっこをする長女ロスリンちゃん。下は、’64年、NYクイーンズに移ってからの写真。ヒース夫妻とロスリンちゃん、ジミーに抱かれているのがジンジャ^ブレッド・ボーイことジェフリー。大人になってからの子供さんたちにお目にかかったことがあります。
私がモナさんと初めて出会ったのは’90年代、その頃は、高齢の自分のお母さんの世話をするために、週のうち何日かNY-フィラデルフィアを往復していらっしゃったから、後にご両親と和解したのでしょう。よかったです!
どこかのお家におよばれすると、モナさんは、必ず手作りのブラウニーをお土産にに持ってきたりする珍しいアメリカ人!最高に家庭的で、ミア・ファーローみたいに可愛くて知的な女性!70歳を越えても写真の愛らしさは失われていません。全米オープンのテニスコートが見渡せるジミーのお家のキッチンで、一緒におしゃべりしながら洗い物するのが、すごく楽しかったです。
いつまでも輝きを失わない天才ミュージシャン、ジミー・ヒースの陰にモナさんあり!また一緒に夕ご飯食べたいです!
次は、ジミー・ヒースのジョン・コルトレーン観や、モード・ジャズについての感想など、書き留めておきます。
CU
ジミー・ヒース自伝を読みながら・・・(1)
台風が去り、朝晩少し涼しくなったような気がしますね。エアコンよさらば、ビールのがぶ飲みよさらば…
そして今日はジョージ・ムラーツ(b)の誕生日、兄さんおめでとう!!お祝いで飲みすぎていないかが心配ですが。
さて、11日(土)のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」には、ジミー・ヒース(ts,ss)のアルバム、『New Picture』が登場!
ジミー・ヒースさんと初めて会ったのは’83年、OverSeasがアジアビルに引っ越した時のヒース・ブラザーズ(!)のコンサート。良かったな~!皆に聴かせてあげたかった~!
最近電車で読みふけるジミー・ヒースの自伝”I Walk with Giants”には、その名のとおり、ジャズの巨人達がキラ星のごとく登場し、波乱万丈の人生の物語は、読み進むたびに感動の連続です。
講座のまえにジミー・ヒースのバックグラウンドを少しまとめておきますね!
<兄弟愛の街 フィラデルフィア>
ジミー・ヒースは1926年10月25日、ギリシャ語の「兄弟愛」から名づけられたペンシルバニア州の都市フィラデルフィアで生まれた。いみじくもお兄さんはMJQのパーシー・ヒース(b)、弟さんは、最後のトミー・フラナガン3のドラマーとしても、また長年のOverSeasの常連様ならご存知!何度もコンサートやプライベートで来てくれたアルバート”トゥティ”ヒース(ds)、全員がジャズ史上燦然と輝く天才ミュージシャン。よく比較されるのは、ハンク、サド、エルビンのジョーンズ・ブラザーズで、こちらも天才揃いですが、個々の名声を確立した後で兄弟として音楽活動した姿を実際見ているせいか、より「兄弟」の絆を感じます。
オーラ溢れるヒース・ブラザーズ!左からパーシー(b)、ジミー、トゥティ(ds)
フィラデルフィアは独立戦争中から黒人のコミュニティ(free black community)を持つ大都市で、現在も人口の4割強がアフロアメリカンの人たちだそうです。ヒースの両親は南部ノースカロライナ州の海辺の町、ウィルミントンから幼いパーシーを連れて移住。ジミーの曾祖母は奴隷で祖母は白人との混血であったそうです。子供のころは決して裕福でなかったけれど、両親は慎ましく生活し、子供達(三兄弟と姉のエリザベス)にはありったけの愛情とお金を使ってくれたとジミーは伝記で感謝しています。ヒースbrosのアルバム『Marchin’ On』はマーチングバンドで活動してた亡き両親に捧げたものです。
<家族愛のヒース・ファミリー>
父は自動車工、母は美容師、二人は身を粉にして4人の子供達を養いました。二人とも音楽好きで、クリスマス・プレゼントとしてパーシーはヴァイオリンを、ジミーとトゥティはサックスを贈られたそうです。ジミーが6歳の時、母親に連れられてデューク・エリントン楽団を聴き、エリントンに声をかけてもらったのが記憶に残っており、後にジミー・ヒースは自分のリーダー作には必ずエリントン・ナンバーを録音するようになりました。
ジミーがバンド活動するようになってからは、ヒース家の地下室が練習場、地下室でレコード聴いたり、練習した後は、10人でも15人でも、ジミーのお母さんが手料理でご馳走してくれた!それは一流ミュージシャンになってからも続き、「ジミーと一度でも共演したことのあるミュージシャンで、ジミーの家に招待されない人間はいない。」という伝説があります。ジミーのお父さんは、夕食の間にチャーリー・パーカーのレコードをかけ「バードを聴いている間は静かにしなさい。」とミュージシャンたちを注意するほどビバップに敬意を持っていた。そしてご馳走の伝統はお嫁さんのモナさんにも引き継がれていて、私たちもクイーンズのヒース家でおいしい晩御飯をごちそうになったことがあります。ジミーがビッグバンドで大阪に来たときは、タクシー何台も分乗してやってきた大勢のメンバーに、ご馳走作ったこともありました。
<リトル・バード>
1943年に親戚の食料品店やバンドでバイトしながら工業高校の木工科を卒業し、そのままフィラデルフィアの地元の楽団に入団しプロとしてのキャリアが始まります。初期のジミー・ヒースの楽器はアルト・サックスでアイドルは勿論ジョニー・ホッジス、ベニー・カーター、それからチャーリー・パーカー!ほぼ同年輩の親友、ジョン・コルトレーンもアルト奏者として出発しています。
独学のジミーは最初は譜面もろくに読むことが出来なかったのですが、独学でどんどん頭角を現し、’45年に中西部で人気を博したナット・タウエルズ楽団に入団、かなりの給料をもらい巡業を続け、土地の郵便局からせっせと両親に仕送りを続けます。伝記でこの辺りを読み進むと、当時ジャズの中心的フォーマットだったビッグ・バンドの世界は、例えばルーキー・リーグからMLBへとピラミッドになっているアメリカのプロ野球のように、かなりシステマティックに人材が動いていたことが判って非常に興味深い。
そのツアー中にディジー・ガレスピー楽団に遭遇。ジミーの和声やリズムへの探究心に火が点きます。
戦争中、数少ない黒人のエリート・パイロットとして空軍に所属していた兄パーシーが故郷に帰還し、ベーシストへと人生を方向転換。彼に呼び戻されたジミーは、20歳の若さで自分の楽団を結成します。バンドメンバーに土地一番の黒人実業家の息子を入れて、うまくビジネス展開して、2年足らずの活動期間でしたが、かなりの人気を博しました。ジミー・ヒースOrch.のサックス・セクションには、若きジョン・コルトレーンとベニー・ゴルソンが加入していたこともあり、彼らは一緒に稽古し、未来へ続くジャズの途を夜を徹して語り合ったそうです。20歳の彼らがどんな話をしていたか聞いてみたかったですね!
当時の写真はヒース・ブラザーズのサイトにあります。
ジミー・ヒース楽団時代のハイライトは、’47年にチャーリー・パーカーがフィラデルフィアにやって来た時です。自分の楽器を(多分質入れして)持って来なかったパーカーはジミーのアルトを借りてギグを演り、ジミーの楽団にゲスト出演します。
「チャーリー・パーカーが吹くと、僕の楽器からあの素晴らしいサウンドが聴こえたんだ!返してもらったアルトを吹くと、バードの魔力が残っているような気がしたが、実際はそうではなかった;ジミー・ヒース自伝」
地元の若手スター・アルトとして頭角を現したジミー・ヒースはチャーリー・パーカーの再来=“リトル・バード”の名前で各地のミュージシャンの間でも有名になっていました。
<栄光と挫折>
好調だった自分の楽団は、マフィアがらみのクラブでギャラをもらうことが出来ずにツアー中に破綻、バンドごと人気トランペット奏者のハワード・マギーが引き継いでジミーもそこで活動し、マギーとパリにツアー時にJ.J.ジョンソンや後年、音楽的にも個人的にも親密になるマイルス・デイヴィスと共演しました。
ガレスピーの番頭格のギル・フラー楽団を経て、’49年、いよいよ念願のディジー・ガレスピー楽団に入団。バンドには、ジョン・コルトレーン(as)や、後にエリントン楽団のスターとなるポール・ゴンザルベス(ts)など錚々たるメンバーがいました。コルトレーンやジミーが、聴衆によりアピールするテナー・サックスに転向を考え始めるのはこの時期です。
音楽的には大きな実りの時代を迎えるジミー・ヒースでしたが、個人的には大きなトラブルを抱えていました。最初の妻が生まれたばかりの息子(後のパーカッション奏者、ムトゥーメ)を連れて、自分の楽団のピアニストと一緒になるという不幸を忘れる為に、麻薬に深く依存していったのです。そして、’51年にヘロイン中毒が原因で、ディジー・ガレスピーに解雇され、タッド・ダメロンを始めとする多くのジャズ・ミュージシャンがお世話になったレキシントンの麻薬矯正施設からペンシルバニア刑務所へと、坂を転げ落ちるように転落の時代に入っていきます。
ジミー・ヒースに会ったことのある人なら、まさかこんな聖人みたいな人が刑務所にいたなんて信じられないでしょう。私もいまだに半信半疑です。5年も刑務所に入ってはったなんて、伝記読むまで知らなかった。というか、絶対に面と向かって聞けないようなことが本には包み隠さず書かれていて、そんな悲劇を経験したからこそ、あんな聖人になれたのかと納得しました。その歴史の影には、奥さんのモナの大きな存在があります。
この本には、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスの「どういうところが凄いのか?」「リハモニゼーションの本質」それに「モード・ジャズの長所、短所」などについて、いままで読んだどんなジャズ評論より説得力ある解説がされているので、いつか翻訳して載せたい。
私はNYで演奏する銀太くんにお土産としてもらったのですが、この本は新刊で勿論入手可能!英語も比較的簡単なので、読める人はぜひ読んでみてね!講座の日はお店においておきます。
ジャズ講座は9月11日(土)6:30pm開講!サックスの好きな方、ジャズの名盤と、楽しい解説がお聴きになりたい方、初めての方、ぜひぜひ皆様、お越しくださいませ!
続きはまた次回に。
CU
ハンク・ジョーンズ氏 告別式
去る5月17日に他界されたピアノの巨匠、ハンク・ジョーンズ氏、先週のジャズ講座で聴いたトミー・フラナガンとのデュオ作品、『I’m All Smiles』では気品と獰猛さを兼ね備えた肉食系の老獪なプレイに感動しました!
ジョーンズ氏の告別式がやっと決まったようです。
Memorial Tribute for Jazz Great Hank Jones
日時:6月26日(土) 2pm-5pm
場所:Abyssinian Baptist Church, 132 Odell Clark Place NY, NY.
アビシニアン・バプティスト教会は、NY最古の黒人教会、日曜日のゴスペル礼拝はハーレム・ツアーの目玉として各国からの観光客で溢れているそうですね。偉大なる黒人音楽家ファッツ・ウォーラーのお父さんはこの教会の牧師でした。
昨年他界したフレディ・ハバートの告別式もたしかこの教会で行われたとか・・・
恐らく大勢のファンがつめかけ、多くのミュージシャン達が演奏を捧げることになるでしょう。勿論入場無料ですがあくまでお葬式です。日本と同じ、ショート・パンツやタンク・トップなど肌を露にした服装はNG、当たり前のことですが、教会内で許可なく写真撮影することも禁止ですので宜しくお願いします。
ハンク・ジョーンズさんのご冥福を改めてお祈りします。
合掌
追記:今しょうたんから連絡がありました。当然ながらジョージ・ムラーツもメモリアルに出演予定なので、しょうたんも付き人として告別式に参列するそうです。
ちなみにしょうたんは夏休み帰国の、8月13日(金)&9月4日(土)に、OverSeasに出演予定です。Check It!
NYタイムズ巨匠ハンク・ジョーンズ追悼報道に非難轟々
先週の寺井尚之バースデイは、色々お心遣いありがとうございました。摩周湖からジャック・フロスト氏が差し入れしてくださったスーパー・グリーン・アスパラはパスタに添えて皆で楽しみました。ごちそうさまです!!
6月12日(土)のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」のOHP準備もなんとか出来てほっと一息、今回はトミー・フラナガン+ハンク・ジョーンズの最後のピアノ・デュオ・アルバム『I’m All Smiles』が登場いたします。「ジャズピアノの系譜」では同じ流派の中に併記される二人の巨匠、でも、同じ地方の同じ水から作られた極上の純米大吟醸も杜氏によって、味も香りも違うもの。火花散るセッションを寺井尚之の実況中継でお楽しみくださいね! ジャズ講座:6月12日(土) 6:30pm- 受講料2,625yen 要予約
<電子版NYタイムズ”或るジャズマン、終の隠れ家”>
NY在住のジャズ・ミュージシャンが亡くなったと知らせが来ると、まずチェックするのが電子版NYタイムズの”お悔やみ欄(Obituaries)“のページです。2001年にトミー・フラナガンが亡くなった時はささやかな報道でしたが、昨年グラミーの「特別功労賞(Lifetime Achievement Award)」を受賞したハンク・ジョーンズさんの扱いはだいぶ大きなものでした。ピーター・キープニューズによる、よくまとまった追悼記事が掲載された翌日、NY市の色々なニュースをブログ形式で紹介する”City Room”のページに、ハンクさんが倒れる前に住んでいた部屋の様子が写真入りで掲載され、大きな波紋が広がりました。
「A Jazzman’s Final Refuge (或るジャズマンの終の隠れ家)」と題されたこのブログ記事は、先日91歳で死去する直前まで現役だった伝説的ジャズ・ピアニスト、ハンク・ジョーンズの賛美から始まっています。その華やかなキャリアと裏腹に、彼の私生活はアッパー・ウエストサイドの公団アパートのそのまた一部屋を間借りし、三食出前で済ます寂しい独居生活だったことに焦点を当てています。寄稿したタイムズの記者、コリー・キルガノンは、たまたま筋向いに住んでおり、亡くなった翌日に、ハンクさんに自宅の一室を貸していた大家さん(写真の人物)が掃除をするために部屋の点検をした時に立ち会って取材したということになっています。この大家さんはハンクさんの友人でもあり、現在もアップステイトの施設で暮らしていらっしゃるジョーンズ夫人の許に、ハンクさんを車で送ってあげたりするなど、色々面倒を見ていた方らしい。
ハンマーなどの工具を使ってドアをこじ開け入ってみると、世界的なピアニストの居室は散らかっていた。ベッドは整頓されておらず、その周りにスーツケースや譜面、クラシック音楽のCD、シャーロックホームズの本などが乱雑に置かれていた・・・世界的なピアニストは、写真に写っているヤマハのキーボードで練習していたであろうことも書かれています。クローゼットをあけると、その中には、予備の電球、ブランド物のネクタイやスーツ、最高級シャンペンや、ピアノトリオ用のパート譜のファイルなどがあったということまで書かれています。(寺井尚之は「ハンク・ジョーンズほどの名手なら練習は安物のキーボードで問題ない!頭の中にサウンドがあるから、例え紙に鍵盤を書いただけのものでも、充分練習できるんや。」と言ってます。)
それ以外にも、「TVでスポーツ観戦しようと誘っても、一日中練習していた。」「クラシック音楽のファンだった。」というような大家さんの談話も紹介されていて、NYならではの記事からという印象でしたが、高齢でもお元気なハンクさんのことをよく聞いていた私たちには、少し意外な感じもありました。
<覗き見趣味はやめろ>
このブログにはコメント欄があり、最初のうちは「伝説的な巨匠の素顔が垣間見れてよかったです。」みたいなポジティブなものが多かったのですが、関係者達が寄稿するにつれて様相が変っていきました。ハンクさんを個人的によく知っており、彼の公式サイトを運営するウエブ・デザイナー、マイルス・モリモト氏のコメントがきっかけになって風向きはガラリと変わります。
「こともあろうにNYタイムズのような一流メディアがハンク・ジョーンズを孤独な老いぼれのように報道するとは何と嘆かわしいことか!彼は心臓のバイパス手術を受けてから、ハートウィックの農場に一人で住むことが出来なくなったりマンハッタンで間借りしていた。認知症の奥さんをケアするには医療設備が整った施設に入れなければならない。その費用が非常に高額なため、自分は狭い部屋でつつましく生活していたのだ。
キーボードで練習していたのは、アパートにあるピアノの調律がひどくて練習にならないのと、近所迷惑にならないように配慮していただけ。・・・自分のバイパス手術や家族の病気、弟のサドやエルヴィンに先立たれても、彼は最後までユーモアと品格を失わず、演奏で皆を楽しませたのに・・・
さあ、タイムズさん、お次はどうする?最近なくなったレナ・ホーンのクローゼットを覗いて、整頓されているかどうかチェックするのかい?」
これが発火点となり、共演歴のあるチャーリー・ヘイデン(b)夫妻や、ハンク・ジョーンズのマネジャーが「プライバシーの侵害、人種差別では?」と声を上げ、ボルテージは高まる一方、とうとう沈黙を守っていたハンク・ジョーンズの甥、姪にあたるサド・ジョーンズの息子さんと娘さんが「自分たちは叔父の私室の鍵を預かっていたが、部屋を開ける際、何の断りもなかった。叔父は私生活を大事にした人だったから、こういう形の報道は好まなかったはず。」
と発言。
ハンク・ジョーンズを撮影した写真家キャロル・フリードマンたちは実名で「プライバシー侵害!大新聞がタブロイド紙みたいなことするな!!」と大合唱、ついにパブリック・エディターと呼ばれる監査役的な編集者、クラーク・ホイトがこの件について寄稿「報道というものは、常にプライバシー侵害と切っても切れない宿命がある。しかし今回はウエブログということで、紙面の記事と比較すると、編集に甘さがあったのではないか?」と今後の課題を提起して一件落着を図りましたが、実名匿名、賛否両論、どさくさに紛れてちゃっかり自己宣伝したり・・・現在もコメントは続いています。
ハンクさんは体調を崩し、この部屋からホスピスに移られたのだから、部屋は散らかっていて当然ですよね。自分の部屋の惨状を省みると、写真の部屋は別に乱雑にも見えません。キルガノン記者は、バド・パウエルをモデルにした映画”‘Round Midnight”の冒頭シーンなど、悲惨な死を遂げたジャズメンたちの歴史にステレオタイプされているところがあったのかもしれない。
最後の住み家が大邸宅でも四畳半でも、ハンク・ジョーンズさんが巨匠であったこととは全く関係ありません。
最後に生前のハンクさんがアップステイトの自宅でビバップについて語っている映像を見ながら、土曜日のジャズ講座を楽しみにしておいてくださいね!数年前の「敬老の日」特番で、NHKが同じこのおうちで撮影したドキュメンタリー番組を観たのが懐かしいです。こっちのほうがずっと散らかっているようにも見えますが・・・
CU
Have You Met Mr. Jones? 追悼 ハンク・ジョーンズ
Hank Jones (1918-2010)
5月17日(日)大巨匠ハンク・ジョーンズさん永眠。91歳、亡くなる直前まで現役というのは本当に素敵で凄い!心からご冥福をお祈りいたします。
学生の頃から何度生演奏を聴きに行ったか数え切れません。OverSeasにお迎えしたことはありませんが、オフ・ステージでもお目にかかるチャンスに恵まれてラッキーでした。ハンクさんはいつも笑顔でした。笑顔だからこそ、却って近寄りがたい威厳を醸し出す師匠だった。
<生い立ち>
ハンク・ジョーンズは1918年というから大正7年生まれ、トミー・フラナガンより一回り上の午(うま)年です。ミシシッピー州に生まれ、多くの黒人達がそうであったように、台頭する自動車産業の地に移り、デトロイトに近いポンティアックで育ちました。
10人兄弟の大家族で、5人の姉妹を含め兄弟全員が音楽をたしなんだといいます。弟にサド・ジョーンズ(cor)とエルヴィン・ジョーンズ(ds)がいるのはもうご存知ですよね。
13歳で牧師のお父さんの反対を押し切ってジャズの道に入り、80年近くの間にジャズの名盤だけでなくありとあらゆるジャンルで数え切れない録音を残したピアノ人生でした。
米国では、チャーリー・パーカーやベニー・グッドマンの歴史的録音の共演者としてではなく、マジソン・スクエア・ガーデンのジョンFケネディ大統領の誕生日(’62 5月)セレモニーでマリリン・モンローが歌ったバースディ・ソングの伴奏者として有名らしい。その時すでに45歳。
日本では「ヤルモンダ!」というパナソニックのCMも有名だったし、関西には特にご友人が多く、お忍び来日の噂もよく聴きました。NYでは運転手つきの大きなアメ車で移動しておられたのが印象的。ジャズメンで運転手付きの車に乗っている人はベニー・カーターとハンク・ジョーンズ以外見たことない。
トミー・フラナガンは、その端整なタッチやエレガントな芸風、多くの歴史的レコーディングの名脇役という共通点から、デトロイト時代の若い頃からハンク・ジョーンズに大きな影響を受けたように言われているけれど、実際はそうでもない。確かに弟のサドやエルヴィン・ジョーンズとはデトロイト時代から頻繁に共演した間柄だけど、ハンクさんはトミーが14歳の時にNYに進出しているし、それまでの数年間は地元の楽団に加入してミシガンやオハイオ方面をツアーしていたから、影響されようにもデトロイトでは殆ど面識がなく、ラジオでしか聴いたことがなかったそうです。
ハンク・ジョーンズは40年代から50年代にかけて、NYジャズ・シーンで引っ張りだこの最も忙しいピアニストだったが’59年代の終わり、CBSのスタッフ・ミュージシャンとして安定した道を選ぶ。テレビ時代の幕開け!エド・サリバン・ショウなどCBSネットワークの人気番組では、姿を見ることは出来ないけれど、ハンクさんのピアノの音を聴くことは出来る。そして、コールマン・ホーキンスのグループやエラ・フィッツジェラルドなど、一流のポジションの多くは、ハンクさんのCBS加入と相前後してNYに進出したトミー・フラナガンが引き継ぐ形となった。
ハンクさんはCBSのスタジオ・ワークの合間に、弟サド・ジョーンズ(cor)とメル・ルイス(ds)の歴史的名バンド、サド・メルOrch.など、断続的にジャズの仕事を続ける。業界で知らぬ者のない名手であるにも関わらず、脇役に徹したハンク・ジョーンズさんが主役を張ることになったのは、CBSが’70年代中盤、経営難から音楽部を解散したことがきっかけだった。’76年に、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムズ(ds)と”グレート・ジャズ・トリオ”を結成し、一躍人気ピアニストとして脚光を浴びることになる。トミー・フラナガンも同時期にエラ・フィッツジェラルドの音楽監督から独立してリーダー作を立て続けに録音した時代、寺井尚之のいう「日本のジャズ黄金期」のことです。
そしてファッツ・ウォーラーの音楽を元にしたブロードウェイのレビュー”Ain’t Misbehaven'”の音楽監督兼ピアニストとして大当たりを取り、’80年代からつい先日まで人気ピアニストとして、またジャズ界の無形文化財として活躍を続け、グラミー賞など多数の賞や勲章を授与されています。
エルヴィン&ハンク・ジョーンズ
そんなジョーンズ師匠にまつわる伝説は数多い。例えば「ハンクは家でもスーツを着ていて、背広とタキシード以外にはパジャマしか着ない。」とか、「ツアーに必ずキーボードを持参してホテルの部屋でず~っと練習している。」そういう伝説は、徹頭徹尾プロの顔を崩さなかった名手ならではの伝説だ。日本でもコンサートの後、舞台の撤収を誰よりも真っ先に手伝う巨匠の姿に感動した人は多い。また「キャンセル魔」という伝説もあった。昼間には決めていたギグを夕方に「他に仕事が入った」とキャンセル出来るというのは、本当に仕事が多い人しか出来ないことですよね。
ジョーンズ師匠が亡くなる直前までレギュラーで共演していたジョージ・ムラーツはこんなことを言っていた。「レコーディングでスタンダード・ナンバーを指定されると、演奏しすぎてイマジネーションが沸かないからと言って、とんでもないキーで演ることがしょっちゅうあった。」
左からジョージ・ムラーツ(b)、ハンク・ジョーンズ(p)、ジョー・ロヴァーノ(ts)、ポール・モティアン(ds)
トミー・フラナガンは寺井尚之に会うたびにこんな質問をした。
「ヒサユキ、おまえハンク・ジョーンズのことどない思う?」
私が一緒にいる時だけでも最低4回はそのセリフを耳にしたことがあります。常に同じ「くくり」で認識されることにトミー・フラナガンはひそかに抵抗を感じていたのかもしれません。
6月12日(土)のジャズ講座にはタイムリーなことに、トミー・フラナガンとハンク・ジョーンズのピアノ・デュオの名作『I’m All Smiles』が登場いたします。寺井尚之はペダル使いの名手ハンク・ジョーンズのコンサートで「足」ばかり観ていたこともあるらしい・・・寺井だから語れるトミー・フラナガンとハンク・ジョーンズ丁々発止のピアノ・デュオ・バトル、血沸き肉躍る実況中継をお楽しみに!
次回はハンク・ジョーンズさんの訃報にまるわるNYタイムズの報道にまつわり、現在も続くゴタゴタについて紹介しておきますね。
CU
追記:Emil Viklicky:遠くて近いモラヴィア&ジャズ
5月も終盤、季節外れの風邪も流行っているようですが皆様いかがお過ごしですか?明日のメインステムに来て爽やかな5月らしいプレイをお楽しみください!
先ごろ亡くなったハンク・ジョーンズの話題など色々書きたいことはあるのですが、まず先日のEmil Viklickyさん祝賀会で学んだことを書き留めて、次回の参考にします。
在外チェコ/スロバキア人のポータルサイト、krajen.org のカルチャー欄にOverSeasでのライブ情報やザイコウ+イッペイさんとの写真が掲載されています! レポーターは不肖私。
<モラヴィアてどこやねん?>
先日OverSeasでヴィクリツキーさんが演奏した曲は、殆どがモラヴィア民謡やヤナーチェク作品のジャズ・ヴァージョンで、私達のよく知ってる曲は殆どありませんでした。それでも充分楽しいコンサートでしたが、ヴィクリツキーさんがモラヴィア音楽や歴史について共演者や寺井尚之に説明して下さった事がたいへん興味深く、ぜひ皆さんにもお話したくなりました。
私自身、チェコはおろかヨーロッパに行ったこともありませんが、ジョージ・ムラーツを愛するベーシストでチェコ旅行する人いますね~。
大まかに言うと「モラヴィア」はチェコ共和国の東部、西部が「ボヘミア」です。(上の地図参照) モラヴィア民族はスラヴ系で、9~10世紀頃にはモラヴィア王国という単独国家がありましたが、後にハンガリーやオーストリアの支配下となりました。20世紀になって、やっとチェコスロヴァキアとして独立、その後もナチス・ドイツやソ連など大国に翻弄された歴史があります。二部のラストで演奏された曲、「アウストレリッツの戦」は、オーストリア軍に徴兵されたモラヴィア人の弟の戦死を悼む激しく悲しい曲でした。寺井尚之の大阪弁MC覚えていますか?
<ボヘミア+モラヴィア=チェコ>
古都モラヴィアの風景!
「ボヘミア」と「モラヴィア」が統合したものが「チェコ」なんですね。民族的には「ボヘミア」がチェック人、「モラヴィア」がスラヴ系のモラヴィア人の地方で、言葉や文化もかなり違うようです。首都プラハやムラーツの生まれたピーセックの街はボヘミア、チェコ第二の都市ブルノや、ヴィクリツキーさんが生まれたオムロウツはモラヴィアです。でもジョージ・ムラーツのお父さんはモラヴィア人だし、ビクリツキーさんのお爺さんはオーストリア人、ヨーロッパ大陸はハイブリッドです。ビクリツキーさんによれば、宗教的にはどちらも比較的鷹揚で、カトリックの隣国オーストリアとはだいぶ違うらしい。ただし、文化的にはボヘミアやスロヴァキアよりも、オーストリアに近いところも多いらしいです。”ウエザー・リポート”のキーボード奏者、ジョー・ザヴィヌルはオーストリア人と思っていたけど、本当はモラヴィア人なんだって!
ものの本によれば、「モラヴィア」と「ボヘミア」の相違を一言で表すなら「モラヴィア人はワインを飲み、ボヘミア人はビールを飲む。」ふ~む・・・ムラーツ・アニキはウオッカや麦焼酎も飲んでますが・・・
<モラヴィア音楽とジャズの距離>
Leoš Janáček レオシュ・ヤナーチェク(1854~1928)
音楽ならドヴォルザークがボヘミア、ヤナーチェクがモラヴィアのアイコンと言えるでしょう。
村上春樹の「1Q84」で一躍有名になったレオシュ・ヤナーチェクはモラヴィアの各地に伝承される民謡を「長崎ぶらぶら節」のようにフィールドワークで蒐集研究、自作品にモラヴィア的要素をどんどん取り込んでいきました。ビクリツキーさんに伺ったのですが、ヤナーチェクはモラヴィア民謡の和声が当地の方言と密接に関わっていることに注目していたそうです。音楽に於ける「訛り」を重視する寺井尚之とよく似ています。ヤナーチェクは街の騒音を元に作曲するという時代に先んじた作曲法で、当時の批評界にこっぴどく叩かれたそうです。Yes Sir! 街の中や自然界にある音を音楽にするのは、デューク・エリントンが最も得意としたものですよね!ブラック・ミュージックとスラブ系のモラヴィア音楽は案外遠くて近いものだったんだ。
掲示板で何人かのお客様が「印象的だった」とコメントしていたオリジナル、「ファノーシュ」も、モラヴィア訛の酔っ払いの掛け声がそのままメロディになっていました。
リズムにもモラヴィア音楽とジャズの共通点はありました。1部のラスト・チューン”Wine, Oh, Wine”は、とてもジャズっぽい曲でした。もともとモラヴィアのダンスは手と足で違ったリズムを刻むポリリズムが特徴、つまりアフロアメリカンのジャズと共通点があるんですね。ビクリツキーさんのレギュラー・ドラマーのラコ・トロップはモラヴィア・ダンサーからミュージシャンになった人で、このあたりの盛り上げ方が非常にうまいとヴィクリツキーさんが言ってました。
そのほかにも、親愛なるエミルさんからは、良いピアノがないだけでなく、ピアノ自体ないところもあるし、お客様は殆どが年配の男性だというチェコのジャズクラブ事情や、共産主義時代の苦労など、色々なお話が聴けてチェコへの興味は尽きません。
当日同行されていた子息のロバートさんは、医学の勉強の傍ら夜学(ご本人が「ヤガク」と言ってた・・・)で日本語の読み書きを習得されたそうですし、世界は狭い!
なお、今回の祝賀会をWEB上で色々応援してくださった「日本ヤナーチェク友の会」の幹事さんのブログには、エミル・ヴィクリツキー3の『シンフォニエッタ』やイヴァ・ビトヴァとの『Moravian Gems』のエントリーがありました。モラヴィア民俗音楽に精通した方の視点から誠実な感想が述べられています。幹事さんによれば、チェコから来日したクラシック音楽家の間でもビクリツキーさんの評価は非常に高いということで、ビクリツキーさんとジョージ・ムラーツとの来日を切望されていました。
ぜひ実現するといいですね!
明日はメインステム、ビクリツキーさんと共演した宮本在浩(b)さんに旬のえんどう豆を沢山いただいたので、チキンやパスタと一緒にお料理します!
CU
あなたの中のビリー・ホリディ(1)
例えばもしも、恋人の心変わりに気づいたとき、あなたなら、別れようと言われる前に潔く身を引く事ができるだろうか?夫のワイシャツに口紅がついていても「言い訳しないで」と赦すことができるだろうか?帰って来ない恋人を人気のない夜の港で待ち続けることができるだろうか?
先週のジャズ講座で聴いたリリアン・テリー(vo)+トミー・フラナガン3の“You’ve Changed”、主役の座をさらうトミー・フラナガンの間奏に、ビリー・ホリディの精髄を感じて、今までなかなか書けなかったレディ・デイのことを少し書いてみたくなりました。
Billie Holiday (1915-’59)
トミー・フラナガンの青春時代のアイドル且つ音楽的ルーツ、それだけでなく器楽奏者であるバッパー達がこぞって崇拝する歌手、ビリー・ホリディ。一般的には、ヘロイン中毒、男性遍歴、レズビアン・・・などスキャンダラスなタグラインか、「奇妙な果実」が象徴する社会派のイメージが強調され、チャーリー・パーカー同様、破滅型の天才ということになっていますよね。でもバッパーを虜にするのは、レディ・デイの音楽表現の素晴らしさ。器楽奏者にこれほど影響を与えた歌い手は、ビリー・ホリディの他にはちょっと思いつきません。彼女が譜面を読めない音楽家であったことを考えると、とても興味深いのですが、それは次のお楽しみとして、今日は、ジャズ講座対訳係りの立場からお話してみます。
<レディ・ディ:虚像と実像の間で>
対訳を作る時、歌詞解釈がちゃんと出来ている歌唱は訳も作りやすい。だって何を言いたいのかはっきりしているから、そこを日本語にすればいいのです。この間のリリアン・テリーの対訳もAt Easeでした。“Lover Man”や“You’ve Changed”でも32小節ドラマのシナリオと絵コンテをリリアンが作っていて、それを実現できるようにフラナガンが「伴奏」というより、むしろリードしたという印象です。
ホリデイは完全な女優型歌手、聴き手にとって、歌い手と歌の主人公の区切りが判らなくなるような歌手です。ですからエラ・フィッツジェラルドのように男性の歌、”Lady, Be Good”をそのまま歌うタイプではありません。ホリデイのブレーン達は、ホリデイの私生活スキャンダルと、歌唱の個性をうまく使って、“Good Morning Heartache”や“Don’t Explain”など、ホリデイ自身を想起させるシグネーチュア・ソングを次々とヒットさせたんですね。日本の歌手にも、私生活を想起させる歌でヒットを飛ばした歌手は沢山いますが、死後50年以上経っても「私だけに歌いかけてくる」ような錯覚を与えるほどのリアリティはあるのかな?ビリー・ホリディの歌う歌はどれを聴いても、私宛ての親展メッセージのようで、不思議に心を捉えます。寺井尚之は、「そんな状況やったら、わしが何とかしたるやないか!」と一肌脱ぎたくなるらしい。
<レディ・ディ菩薩:赦しの美学>
そして、ビリー・ホリディの歌唱の稀有なところは、歌を聴いているだけで、自分の過ちが「赦された」ような気持ちになれること。
例えば、前述の“Don’t Explain”は、夫のワイシャツについた口紅で浮気に気づいた妻の歌、普通ならワイシャツだけでなく、旦那の顔までズタズタになってしまうかも知れないところですが、歌の主人公は「言い訳しなくてもいいの」と言う。極めつけはこのライン〝Right or wrong don’t matter when you’re with me, Sweet〟(善悪なんてどうでもいい、愛するあなたが一緒なら)これは、正義と真実が最優先のアメリカでは、ほとんど反社会的かも知れない。〝Right or wrong don’t matter〟タイガー・ウッズやビル・クリントンでなくても、人はWrongなことをしでかすのもの、レディ・デイは菩薩のように、許しと癒しを与えます。
Lady In Satinの 録音に参加したベーシスト、ミルト・ヒントンは、プレイバックを聴いて声の衰えを痛感する悲痛な表情をカメラで捉えた。
先週リリアン・テリーで聴いた“You’ve Changed”はホリディ晩年のLP『Lady in Satin』に収録されています。当時のホリデイには往年の輝く声は失われているけれど、逆に歌詞表現のニュアンスは声を補って余りあるほど甘くて苦い。聴くたびに感動してしまいます。ホリデイの崇拝者、カーメン・マクレエは生前このレコードを絶賛していて「LPが擦り切れるから、予備に何枚も持っている。」と言ってたっけ。彼氏の心変わりを嘆きながら、最後の節でこう歌う。〝あなたは変わった、もう私が知ってた天使じゃない。今更別れようと言う必要なんてない。終わったのよね。〟別れにつきもののゴタゴタもなく、向こうの方から終結宣言してくれる。だからと言って、彼女のところに舞い戻ったとしても、「言い訳なしで」元の鞘に戻れそう。
きっと”You’ve Changed”の主人公は、別れた後、この後で”落ち葉を焼く煙の臭い”や”船の汽笛”に彼を思い出しながら”These Foolish Things”を歌うんだろうな!
Right or Wrong doesn’t matter・・・恋に落ちること自体、善悪や理屈とは関係のないものかも知れない・・・
昨年秋のトリビュート・コンサートで聴けた“Easy Living”も、勿論ホリデイ的「赦し」の歌です。傍目には男に利用されているとしか見えない女性が主人公、彼女は愚かな自分と恋した相手を同時に赦す。「あなたの為に生きることこそ気楽な人生(Easy Living)…惚れた人のために苦労しても構わない。愛する人に尽くすと生きることが楽になるから…」
どんな過ちを犯しても、観音さまとビリー・ホリディは赦してくれる。レディ・デイの唄を聴いていると、そんな気持ちになります。とはいえ、私生活の彼女は、必ずしもそうではなかったようですが、ザッツ・アナザー・ストーリー。
トミー・フラナガンがこよなく愛し、大きく影響されたビリー・ホリディ、トリビュート・コンサートでも、ホリデイゆかりのレパートリーが聴けるでしょう。
トリビュート・コンサートは残席わずかですので、お早めに!
明日は末宗俊郎(g)トリオ!そしてあさって土曜日は久々のSFT。KG&イマキーが寺井尚之と共にフレッシュなプレイをお聴かせいたします。
CU
ジョージ・ムラーツの盟友、エミル・ヴィクリツキーさん(p)のこと
地震や津波も怖い季節の変わり目ですが、皆さんいかがお過ごしですか?OverSeasではスプリング・ソングもチラホラ聴こえて、27日(土)のトリビュート・コンサートが待ち遠しいな!
NYのジョージ・ムラーツ兄さんも、何とか寒い冬を乗り切って元気にしているようです。先月末には、NYのチェコセンターで、リッチ・ペリー(ts)、ジョーイ・バロン(ds)と組んだ自己トリオで特別コンサートを開催した模様。もうすぐ発売される同メンバーでの新譜とDVDが楽しみ!春にはハンク・ジョーンズとアルゼンチンに旅した後、ヨーロッパ各地を色んなフォーマットでツアーします。
<チェコのスター・ピアニスト>
ところで、最近、ムラーツ兄さんをWEB検索していたら、うちのHPに行きあたったと、チェコからEメールが来ました。丁寧な英文で友人のジョージ・ムラーツや、尊敬するトミー・フラナガンの写真が色々載っていて楽しかったと書いてあります。
送信者のお名前にはEmil Viklicky(エミル・ヴィクリツキー)とあり、なんとムラーツ兄さんが、チェコ大統領主催プラハ城コンサートや、チェコのスター・ミュージシャン、イヴァ・ヴィトヴァと組んだアルバム、『モラヴィアン・ジェムズ』などで頻繁に共演している、チェコの第一人者でした!上のポートレートはMartin Zeman撮影、バロック的な陰影があって、いかにもヨーロッパのピアニストという雰囲気ですね!ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画みたい!
シカゴにて:ヴィクリツキー(p)、ムラーツ(b)、ビリー・ハート(ds)
エミル・ヴィクリツキーさんは、1948年、チェコのモラヴィア地方の生まれのピアニスト、作編曲家。ヴィクリッキーと表記されることも多いですが、ご本人に確認したらヴィクリツキーの方が近いそうです。ムラーツ兄さんより4歳年下、寺井尚之より4歳年上です。ヨーロッパ各国のジャズのコンペを総ナメし、共産党支配が強化される直前の’77年に米バークリー音楽院に奨学生として入学、ビロード革命後はチェコ・ジャズ界のリーダーとして活躍を続けるトップ・ミュージシャンです。クリアな音色とオスカー・ピーターソンばりのダイナミックなプレイは、寺井尚之を唸らせる紛れもない正統派、一方、モラヴィア地方の民謡をジャズとして演奏するなど、チェコのアイデンティティを失わない音楽性から、ヨーロッパでは『1Q84』(村上春樹)のずっと以前から、「ジャズのヤナーチェク」と呼ばれているそうです。
<友達の友達はともだち!>
ジョージ・ムラーツとエミル・ヴィクリツキーさんとの出会いは、’76年、ユーゴスラビアのジャズフェスティバルだったそうです。以来、アメリカのトップ・ベーシストとなったムラーツがチェコにお里帰りする際に共演するピアニストは、本国のトップであるヴィクリツキー!ということになっているみたい。普段は、ベース: Frantisek Uhlir (フランティセック・ウーリール)とドラムス:Laco Tropp (ラコ・トロップ)という長年のレギュラー・トリオで活動しているようです。特に、ベースのウーリールは、ムラーツばりのテク二シャンで、Youtubeを観てびっくりしました。ヴィクリツキーさんによれば、彼はチェコのナンバー1ベーシストで、特に弓の技量はずば抜けてすごいらしい・・・
昨年、ジョージ・ムラーツ、ルイス・ナッシュ(ds)との最強メンバーで日本制作のリーダー・アルバム 『シンフォニエッタ/エミル・ヴィクリッキー・トリオ』をリリースしており、日本での人気も高まるかも知れませんね。
なぜか別府温泉でポーズを取るレギュラー・トリオ:左からヴィクリツキー、ウーリール(b)、トロップ(ds)
ヴィクリツキーさんは、今までにも政府から派遣され、愛知万博などで演奏していて、日本のジャズファンの前で演奏したくて堪らないそうです。息子さんは腎臓移植の権威ですが、やはり親日家で日本語に堪能とのこと!5月に中国に飛び、上海万博で演奏予定があるのですが、その際、寄り道をして、ぜひジョージ・ムラーツと懇意なJazz Club OverSeasで演奏したいと切望しています。プラハの宮殿と余りにも違うヴェニューだけど、いいのかしら・・・
チェコを代表する巨匠ピアニストのプレイが、間近で聴けそうな予感がします!
詳細は近々お知らせいたしますのでご期待下さい。
明日は鉄人デュオ!スタンダード・ナンバーをベテランの懐の深さでさりげなく料理するのが聴きどころ!私も鼻歌でハッシャ・バイでも歌いながら、シーフード・グラタンでも作ろうかな・・・
CU