<ビッグ・バンドの世界へ>
’54年、ディジーやブラウニー以上の「ジャズの救世主」として期待を集めたサド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団に入団。ミンガスのレーベルと専属契約しながら、偽名で他社に録音し裁判沙汰になるトラブルが一因だったのかも知れません。ベイシー楽団以降、ミュージシャンなら誰もが畏敬するサド・ジョーンズのプレイヤーの資質は、アレンジャーやコンダクターといった顔の陰になってしまうのが残念です。『Detroit NY Junction』など『 Motor City Scene』など、トミー・フラナガンとの幾多の共演作のことは、ジャズ講座の本を読み直してくださいね。
<カウント・ベイシー楽団>
サド・ジョーンズがベイシー楽団に在籍したのは、’54-’63までの10年間。バンドのソロイストとして活躍する傍ら、バンドの作編曲も多数手がけました。『Let’s』に収録されている気品溢れるバラード”To You”は、ベイシーとエリントンの二大ビッグバンドの夢の競演盤『First Time』で聴くことが出来ます。
ベイシー楽団のソロイストとして、最も有名なの演目は、なんといっても”パリの四月”で、アドリブの中に誰でも知ってる童謡”Pop Goes to Wiesel”の一説を挿入したものでしょう。”Pop Goes to Wiesel”は、私と同世代の方は、子供の頃ロンパールームっていうTV番組で、うつみ宮土里おねえさんが「箱の中からジャック君が・・・」って言う時に流れていたメロディとしてよくご存知ですよね!このソロでヒットしたのがサド・ジョーンズの退団の引き金になったのですから、皮肉なものです。
サド・ジョーンズはベイシー楽団独立の際、ダウンビートにこんなコメントを残しています。
「僕が”April in Paris”のレコーディングでたまたま吹いた短い童謡(Pop Goes to Weasel)の一節が良い例だ。そのレコードがヒットしたものだから、ベイシーはそのナンバーを演る時には必ず、ソロで同じフレーズを入れるように指示した。僕が一体何度そのフレーズを吹いたか判るかい?つくづくうんざりしてしまったんだが、必要不可欠だった。一度、フィラデルフィアで演ったとき、わざと全く違うソロを吹いてやった。そうしたら客席から「パリの四月」を演ってくれ!とリクエストが来たよ。あの短い童謡フレーズがなければ、同じ曲とは判らなかったんだな。それが楽団を辞めた理由のひとつだ。この曲がいやと言うわけじゃないが、もうそろそろ本当にプレイがしたい。今の苦痛からは解放されるだろうし、一旦退団して、柔軟性を取り戻したいんだ。」
優れたジャズメンを殺すのに刃物は要りません。狭い枠にむりやり押し込めて、同じプレイばかりさせると間違いなく窒息死します。サー・ローランド・ハナは同じ理由でブロードウェイの大ヒットミュージカルを降板し、アキラ・タナ(ds)は「毎日、毎日、同じがたまらなくて」超人気グループのバックバンドを辞めました。
<ドリーム・チーム!サド・メル楽団>
サド・ジョーンズが独立した’63年は米国にビートルズ旋風が巻き起こり、ジャズ・ミュージシャンは受難の時期、ヨーロッパに移住した者も多かった。(トミー・フラナガンがエラ・フィッツジェラルドの専属になる直前です。)同時に活況を呈するTV局のスタジオ・ミュージシャンとして安定した収入を稼ぐジャズメンもいました。サド・ジョーンズは、しばらくフリーランスで演奏や編曲の仕事をした後、米国TV三大ネットワークのひとつCBSに勤務、兄のハンク・ジョーンズやベイシー楽団の盟友、スヌーキー・ヤング(tp)はNBCのスタッフ・ミュージシャンとして常勤していました。一方、メル・ルイス(ds)やペッパー・アダムス(ts)たちは、スタジオ・ミュージシャンとしてポップスターのレコーディングに明け暮れていました。つまり多くの一流ジャズメンがツアーに出ずNYで高給を稼ぎ、夜になると本物のジャズがやりたくてうずうずしていたんです。伝説のビッグバンド誕生の第一要因でした。
もうひとつ直接要因があります。以前、サド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団のアルバム制作に際し、LP一枚分のアレンジを依頼されたのですが、出来上がった譜面は余りにも複雑、「シンプルでスインギーな」ベイシー楽団のコンセプトに合わないとボツにされていたのです。寛大なベイシーは、ジョーンズに譜面の使用許可を与えてくれたので、NYの町でTVやスタジオの仕事で退屈しているミュージシャンたちに声をかけると、ビッグバンドの面子はすぐに集まり、週に一度、深夜リハーサルが始まったんです。スタジオの借り賃は、見習いのエンジニアが練習で録音するのを許可する条件で無料にしてもらいました。集まったのはジョーンズ選りすぐりの一流ミュージシャンばかり!勿論ドラムはメル・ルイス(ds)、創設メンバーとして他に有名なところでは、ハンク・ジョーンズ(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)、エディ・ダニエルズ(as,cl)、ペッパー・アダムス(bs)などなど…よだれが出そうなメンツですね。
やがて噂を聞きつけた業界人が覗きに来て、その凄さに度肝を抜かれます。著名なジャズ批評家、ダン・モーガンスターンはリハについてこんな風に語っています。
「バンドのサウンドは、最初から従来のものと全く違っていた。ひとつはサドのアレンジに起因している。さらにリズム・セクションの使い方が革新的だった。サドの合図ひとつで、ソロのバックのリズム・セクションが出し入れされ、大きなコントラストが醸し出された。」(ディック・カッツさんによるモザイク盤「サド・メルOrch.」のライナーノーツより)
ジャズ系FMのDJ、アラン・グラントは「こんな凄いバンドなのに、プライベートなリハだけじゃもったいない!」と、ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンに掛け合い、一番お客の少ない月曜に出演させるところまでこぎつけました。1966年2月7日(月)初演、バンド名は「サド・メル」でなく「ザ・ジャズバンド」、初日のギャラは一人僅か15ドル!ハンク・ジョーンズやリチャード・デイビスが15ドルのギャラなんて考えられませんよね!さすがマックス・ゴードンは商売人です。蓋を開けてみれば、お客の少ないはずのマンデイ・ナイトがソールド・アウト!評判が評判を呼び、結局毎週月曜に出演することに。以来、メンバー変更を繰り返しながら、数多くのレコーディングを重ね、私の知る限り三度来日しています。来日コンサートの翌日は、陶酔しきった友達が一杯でした。サー・ローランド・ハナ、ジョージ・ムラーツ、ウォルター・ノリスなどなど、OverSeasゆかりの巨匠もサド・メル卒業生は数多い。『Let’s』に収録される“Quietude” ”Mean What You Say””Three in One”などはバンドの十八番でもありました。’78年、サドが突然脱退して以降、メル・ルイスOrch.となり、メル・ルイスの死後、月曜の夜は、ヴァンガードOrch.が現在もヴィレッジ・ヴァンガードで演奏を続けています。
<別天地コペンハーゲン>
’78年、サド・メルOrch.がグラミー賞を受賞した直後、サド・ジョーンズは、家族も仲間も全て残し、何も言わずに単身コペンハーゲンに移住し、ジャズ界を大いに当惑させます。それについては、「女性問題」や「メル・ルイスとの相克」とか様々な噂が飛び交いました。サドをよく知る人は、バンド経営で財産を使い果たしアメリカに留まることが出来なかったと言うのですが、本当だとしたら惨い話です。国務省から冷戦時代のソ連に派遣されたアメリカ文化を代表する楽団のリーダーですよ!クラシックの世界なら、政府や財団の助成金で決してそんなことにはならなかったでしょう。
コペンハーゲンでは、自己バンド”エクリプス”やデンマークのラジオ局のバンドで活躍、同時に王立デンマーク音楽院で教鞭を取り、現地のミュージシャンに多大な貢献を果たしました。『Flanagan’s Shenanigans』や『Let’s』に参加しているベーシスト、イエスパー・ルンゴールは当時のメンバーですから、サド・ジョーンズ音楽のエキスパートなんです。
’85年には再び米国に戻り、ベイシー亡き後のカウント・ベイシー楽団を率い、同年、再来日しています。サドはフリューゲルで最高のバラードを吹き、トランペット・セクションは、今まで何度も観たカウント・ベイシー楽団のうちで最もビシっと充実していたと思いました。厚い胸板で、ピリっとも動かず、完璧なコントロールで吹く姿は、そのまま銅像にして美術館に飾っておきたい位美しかった!しかし、すでに癌に犯されていたことは、誰も知らなかったんです。
翌1986年8月21日、サド・ジョーンズはコペンハーゲンで死去、僅か63歳でした。娘さんのThediaは小児科医、息子さんのBruce Jonesは音楽プロデューサー、コペンハーゲン時代に、サド・ジョーンズJr.という息子さんを儲け、モーター・シティでなく、コペンハーゲンの墓地に埋葬されています。
気品に溢れるデトロイト・ハードバップの創始者、サド・ジョーンズ作品集、”Let’s”by トミー・フラナガン3は6月11日(土)ジャズ講座に登場します。6:30pm- 受講料\2,625 皆様のお越しをお待ちしています!
おすすめ料理は「黒毛和牛の赤ワイン煮 北海道産グリーン・アスパラ添」です。
CU
カテゴリー: ジャズ講座 名盤名場面集
“Let’s” Talk about Thad Jones(2)
地震や台風、心が休まらない毎日ですが、皆様お元気ですか?6月11日(土)ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に名盤“Let’s”が登場するのを記念して、今日もサド・ジョーンズのお話をご一緒に!
<幼年時代>
サド・ジョーンズは、1923年、3月28日、ミシガン州ポンティアックに生まれました。トミー・フラナガンより7才上、兆速で発展した当時のジャズ史を考えると、一世代上と言えます。父は教会の助祭でギタリスト、母はピアノをたしなんだ。10人の子供達は、音楽に囲まれて育ちました。皆さんもよくご存知のように、5才上兄のハンク・ジョーンズ(p)、4才下の弟のエルヴィン・ジョーンズ(ds)と共にジョーンズ兄弟はジャズ史を語る上で欠かせません。姉のオリーブ(クラシックのリサイタル・ピアニスト)、兄のポールとハンクが順番でピアノの稽古に明け暮れ、なかでもハンクの上達は目覚しく、兄弟全員が大いに発奮したといいます。
ところが、サド坊やは、ピアノよりも何故かホーンに心引かれて、最初はトロンボーンに憧れた。やがて、デトロイトに来演したルイ・アームストロングを聴き「これだ!」と思い、叔父さんに中古のトランペットをもらって吹き始めた。でもルイのスタイルは「彼独自のもの」と判っていた。まあ、なんて生意気なガキでしょう!子供の頃から、楽団のサウンドがフルスコアで縦割りに把握できた天才なんでしょうね!因みにサドが始めて楽団の編曲したのはなんと13歳の時です。
サド・ジョーンズの証言(Downbeat 1963 5/9):「ルイ・アームストロングと同じことをしようとは思わなかった。あれは彼だけのスタイルだということに気がついたから。それにコピーするのは好きじゃなかった。おかしな話だが、今もトランペットのレコードは余り持っていない。そりゃ勿論ディジー・ガレスピーのレコードは何枚か持っているけど、殆どビッグバンドだ。なぜかピアノ・トリオのレコードばかり買ってしまう。」
まもなくコルネットに転向し、終生、主楽器としました。コルネットはトランペットより音域が高く、丸みのある明るい朗々とした音色が魅力、ビックス・バイダーベックやナット・アダレイのサウンドを思い出してみてください。
子供時代、兄弟や音楽仲間のお小遣いは、ほとんどデューク・エリントンやチック・ウエッブ、それにブルースのレコードになりました。やがて、町内の少年楽団に入団、少年といっても、きっと高レベルだったんでしょうね。一晩5$のギャラで、レコードだけでなく新品のホーンも買えました。
’30年代の終わりには兄弟バンドを結成、ソニー・スティット(as,ts)との共演を皮切りに、ミシガン州で本格的にプロ活動を始めます。
終戦近い’43年、20歳になると兵役に就きテキサスなど内地に駐屯、非公式なアーミー・バンドで断続的に演奏、’46年にアイオワ州デモインで除隊後、各地を周りバンド稼業の苦労も味わい、’50年代に故郷に舞戻ります。
<ジョーンズさんちのジャムセッションに行こう!>
サドが帰郷した時、兄ハンクはすでに街を去り、NYで売れっ子ピアニストとして活躍していました。弟のエルヴィンはギグのない夜にポンティアックの自宅でジャム・セッションを開催し、フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリス、フランク・フォスターetc…隣町デトロイトから腕に覚えのある連中がワンサカ車で押し寄せ、「ジャズ虎の穴」的様相を呈していたといいます。
なにしろジョーンズのお母さんが腕によりをかけた夜食をたっぷり用意して応援してくれるし、高度なバップ理論を学べるのですから夢のセッションです。でもセッションに参加できるのは、本当に上手な子だけ。ピアノの一番手がトミー・フラナガンでした。後輩、サー・ローランド・ハナは、クラシックからジャズに転向したばかりで”How Long Has Been Goin On?”を一緒に演らせてもらったけれど、サドがどんどんコードを変えていくのに付いていけなくて・・・』と嘆くのですから恐るべし。
<伝説のクラブ”ブルーバード・イン”>
やがて、サド・ジョーンズはデトロイトのジャズクラブ、”ブルーバード・イン”のレギュラーバンドに入ります。メンバーは、バンドリーダーがテナー奏者、ビリー・ミッチェル(後にカウント・ベイシー楽団に入団)と、若手のトップジャズメンたち、トミー・フラナガン(p)、ジェ-ムズ・リチャードソン(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)という凄い編成で、ZecやElusiveなど『Let’s』にも収録されている作品群やパーカーやガレスピーのバップ・チューン、アフターアワーズはソウルフルなブルースまで、デトロイト・ハードバップ・ジャズの真髄が確立されたのです。
’50年代の”ブルーバード・イン”はデトロイトで最も腕の立つミュージシャンを集め、最先端のモダン・ジャズを聞かせるクラブとして内外から注目を集めていました。ミュージシャン達もリスナーも歴代のレギュラー・バンドの中で、ミッチェル&ジョーンズのこのコンボが最高だったと口を揃え、サド・ジョーンズ自身も、このコンボが最強だったと回想しています。
彼らの演奏はNYで活躍するトップ・ミュージシャンにも大きく影響を与えました。
トミー・フラナガンの証言:「マックス・ローチ(ds)とクリフォード・ブラウン(tp)は街に来るたびに、サドのアレンジを聴きに来ていた。ブラウンーローチ・クインテットのレコーディングには、サドの影響が色濃く出ている。例えば、”I Get a Kick Out of You”でワルツを入れる有名なヴァージョンがそれだ。僕達のテンポの切り替えにマックスは夢中だった。」
ドラッグのリハビリでデトロイトに滞在していたマイルス・デイヴィスは、サドのコルネットを聴き、「涙を流しながら佇んでいた」とハナさんは証言しています。(Before Motown p.130)それは感動の涙?それとも悔し涙だったのだろうか?ライバルのプレイを聴いて泣けるなんて、なんとナイーブな人だろう!私はこのエピソードを聞いてマイルスが凄く好きになりました。
<デトロイトにて:チャーリー・ミンガス >
ベースの巨匠チャーリー・ミンガスも、”ブルーバード・イン”のサド・ジョーンズに天啓とも言える強烈なショックを受けた一人でした。そして自己レーベルでサドをレコーディングすることを決意。’54年にダウンビートのエディター、ビル・コス宛てに、サドを絶賛した書簡を送ります。以下はダウンビート誌’63 5/9号に公開された文面です。
“サドは僕の人生で遭遇した内で最高のトランペッターだ。クラシック音楽の技量が完璧に備わっている。クラシックのテクニックでスイングしてみせた史上初のトランペット奏者だ。…弟のエルヴィンはドラムで双璧の実力者。サドを、仲間のミュージシャンは、「トランペットの救世主」と呼んでいる。
左:Fats Navarro(’25-’50) 右クリフォード・ブラウン(’30-’56)
サドは信じられないほど凄い。ディジー・ガレスピーやファッツ・ナヴァロさえ苦手にすることを、いとも簡単にやってのける。この二人以外ならハナから思いつかないこと、マイルズですらやったこともないことだ。ディズがバードのプレイで聴き、ファッツならば出来たのでは・・・と期待したことをだ。(ファッツの死後)我々はひたすら待ち続けた。そしてクリフォード・ブラウンが現れた。(この手紙はブラウンの早過ぎる事故死以前に書かれたものである。)ブラウニーは、もしもファッツが、麻薬に耽溺せず一週間練習していたら…と思うプレイをした。
だがとうとう出現した!ファッツが怠ける間に練習し、ブラウンがコピーにいそしむ間に考えるトランペッターが!まるでヴァルヴをつけたバルトークが、神に授かった鉛筆で譜面を書いているようなものだ。
サド・ジョーンズは、アメリカ音楽史上初めて第一コーラスをホールトーンの束から始める作曲家だ。…セカンド・コーラスはファースト・コーラスの展開型…それを聴きながら、僕達は深く息を吸う。彼が吹くのを止めてしまわないか、あるいはそれ以上続けると、がっかりさせれらはしないかと恐れながら。もしそうなら本物じゃない。その64小節はただの偶然で、僕らは、改めてバードを亡くした事を嘆くのみ。だが彼はミスしなかった!…”
ミンガスは強面(コワモテ)だけに説得力がありますね!ミンガスに「クラシックのテクニックを全て備える演奏者」と言わしめたサド・ジョーンズ、実は、初心者の時に基本的な吹き方を教わっただけで、後は全て独学だったんです。楽器はおろか、『Let’s』で聴ける時代を超えたモダンな作曲法から、ビッグバンドの編曲に至るまで、全て自分で習得したんですって!
ミンガスは’54年自己レーベル、”Debut”で、ハンク・ジョーンズ(p)、ケニー・クラーク(ds)、フランク・ウエス(ts,fl)とミンガス自身でレコーディングし好評を博します。(『The Fabulous Thad Jones 』)、ElusiveやBitty Dittyも収録されており、フラナガン・バージョンとの違いが興味深いです。ところが、このアルバムが発売された時、すでにサド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団に入団して、ソロ活動の出来ない状況になっていた。
運命の女神はいたずらですね。
(続く)
“Let’s” Talk about Thad Jones(1)
大阪も入梅です。ピアノに悩ましい季節到来。皆様いかがお過ごしですか?
来月6月11日(土)の講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、トミー・フラナガンのサド・ジョーンズ作品集”Let’s”が登場します。
このアルバムは、デンマークの「ジャズパー賞」で頂いた賞金3万ドルでフラナガンが自費制作したもの、録音もデンマークです。スタンダード集ならいいけれど、レコード会社はなかなかサド・ジョーンズ作品集という企画を通してくれなかったのでしょうね。トミー・フラナガンのファンなら、どなたも大好きなアルバムだと思います。
Thad Jonesコルネット奏者、作編曲家、バンドリーダー(1924-86)
スリル一杯で、エンディングまでドキドキしっぱなしの“Let’s”や“Elusive”は”クール”でも”ホット”でもない悪魔的な魅力を感じるし、“To You”のようなバラードを聴くと、Mellowってこういうことなのかな?かと思います。とにかくサド・ジョーンズの作品はどれもこれも、軽やかなのに力強い!まるでトミー・フラナガンのマッスルみたいです。
ではサド・ジョーンズとはどんな人なのか??
サド・ジョーンズを身近に知るミュージシャンは、ハンク、エルヴィンのジョーンズ兄弟の一員である以上に、皆が口を極めて「天才」と言う。どれほどの天才かというと、モーツアルトやデューク・エリントンと比較して、「どっちの方が天才か?」という議論になるのです。そして、NYの仲間にサヨナラも言わず移住して、デンマークで客死したことを嘆く。(サドのお墓は故郷のポンティアックでなくコペンハーゲンにあるらしい。)
ビッグバンド・ファンにとっては、朗々とした高揚感のあるコルネットでカウント・ベイシー楽団の忘れがたいソリストでありアレンジャー、そして伝説のビッグバンド、サド・メルOrch.のリーダーだ。ベイシー楽団時代に「複雑すぎて楽団のカラーに合わない」とお蔵入りになっていたアレンジを、サドメルでモダンに復活させて聴く者の心を根こそぎ掴んだ。
ところがジャズ系ブログを閲覧すると、「愛すべきB級」なんて呼ぶ人もいる。きっと人気投票やブルーノート盤の売り上げ枚数のことを言ってるのかな?
私の手元にはダウンビート誌のバックナンバーなど様々な資料が手元にあるのですが、どれもこれも、サド・ジョーンズの一側面だけクローズアップしたものばかり。
これから講座まで少しずつ資料を整理して、公開しようと思っています。
今日はとりあえず、予告編として、トミー・フラナガンが’96年にコロンビア大のFM番組で語ったコメントを和訳しておきます。
『サド・ジョーンズの作風は、メロディがシンコペートしているという点で、セロニアス・モンクと似ている。
もしサドの曲を演奏することができるなら、プレイヤーとして自分のスタイルを構築する道のりを順調に歩めているということだ。
彼の作品自体に大きな力強さがあり、演奏すると、自然にその力が表れてくる。
例えば、ビリー・ストレイホーンの”ラッシュライフ”は、テーマ1コーラスに全てが完結しているだろう。アドリブの必要なんてない。曲の中に必要なファクターが全部組み込まれているのだ。サドの作品も同じだ。だが逆に、リズミックな作品は、演奏するほどリズムに引き込まれてしまう。「もっとソロを取れよ!」と曲が誘いかけてくるんだ!ともあれ、サドの曲はどれも奥深く、全体を把握するのは大仕事だ。サドの曲に秘められた全ての音を理解するのは大変なんだよ。』
ジャズ講座、『Let’s』は6月11日です。ぜひお越しくださいね!
CU!
対訳ノート(31)Don’t Explain
皆様、お元気ですか?先週はGW講座で連日名唱を聴きました!ビリー・ホリディ、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、のべ100曲が登場したことになります!
スタンダード曲やブルースは言うに及ばず、ビバップ、シャンソン、ボサノバ、ステファン・ソンドハイムまで!ビリー・ホリディ、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエという3人の歌手を取り上げて、寺井尚之が絶好調の解説を聞かせました。(解説書があります。)
3人ともデビュー当時は美人歌手、でもきれいなだけでは終わらない。年齢を重ねるにつれ、それぞれのスタンスで、歌に新しい命を吹き込む姿に感動!聴きながら目を真っ赤にしているお客様が多く、私もウルウル・・・やっぱり皆で一緒に聴くといいなあ。講座やってよかった!
今も、私の頭の中では、GWに聴いた色んな歌が響いています。「幸せ」にも「不幸せ」にも、本当に色んな切り口や表情があるんだ!
今日は、講座で聴いた歌の中で、日本の歌謡曲と一番似ていた歌、ビリー・ホリディとカーメン・マクレエで聴いた“Don’t Explain”のことを書いてみたいと思います。
<私小説的ソング>
レディ・デイは、僅か44年間の壮絶な人生と歌が同一視されることによって、カリスマ化された。“My Man”では「何人もの女を操り、金を絞り上げ、時には殴るヒモ男でも、抱かれるだけで苦労を忘れる」可愛い女、”Fine and Mellow”では「恋をすると、賭け事や深酒に溺れる」破滅型の女・・・ビリー・ホリディには、歌の主人公と実像の境目が見つけられません。現実は必ずしもか弱い女性ではなかったとしても、それが名人芸!
“Don’t Explain”は、男運に恵まれなかったホリデイを象徴する歌。ホリディの夫、ジミー・モンローが帰宅すると、ワイシャツの襟に口紅がついていたという実際の出来事を元にしてビリー・ホリディ自身が作った歌です。
ホリディは”Don’t Explain”誕生秘話についてこんな風に語っています。
「夫の襟についた口紅が目にとまった。すると夫が私の視線に気づき、延々と弁解を始めたの。私が最も耐え難いのは“嘘”、嘘をつかれるくらいなら、浮気されるほうがずっとまし!だから「風呂にお入んなさい!」と話をさえぎって言ったのよ。「Don’t Explain(言い訳はやめなさい)」って。
その言葉(Don’t Explain)が、ずっと私のへっぽこ頭の中で響き続けていた・・・何とかこのいやな科白を忘れてしまいたい!そう思いつめるうち、醜い思い出が悲しい歌に変身して、知らず知らずに口づさんでいた。あっという間に歌が出来上がったのよ。それから、作曲家でブレーンだったアーサー・ヘルツォグが、私の歌うのを聴きながら、ピアノで音を拾い、歌詞を書きとめた。そして2,3箇所のフレーズを修正して、ソフトな感じに仕上げてくれた。」
こういう現象を哲学者は「昇華」と呼ぶんですね!
ビリー・ホリディとジミー・モンローは1941年から44年まで結婚しています。モンローはトロンボーン奏者で、兄はハーレムのクラブ、ビバップの生地、”モンローズ”の経営者、クラーク・モンロー。ジミーは兄の店で演奏活動をしていましたが、ヘロインの密売容疑で逮捕され、ホリデイが多額の弁護費用を払う羽目になりました。男で苦労する彼女の姿と歌がシンクロして、この歌も大ヒットしたんですね。森進一の「おふくろさん」とか、昭和の歌謡曲もそういうのが多かった・・・
「女を作ってもいい、一緒にいてくれるなら・・・」という切ない切ない歌、ホリディの歌には、男なしには生きていけない女の弱さや哀しさが漂います。
「いい、悪いはどうでもいい。私にはあなたしかいない。」殿方は、そう言うホリデイに観音菩薩を観る。男性でなくても、「赦し」を感じるのは、私だけではないでしょう。歌詞はいくつかヴァージョンがありますが、要約するとこんな感じ。原歌詞を読みたい方はこちらをご参照ください。
ネット上で聴くことも出来ます。
<Don’t Explain>
Billie Holiday, Arthur Herzog
言い訳はいいの、
ただ、このまま一緒と言って。
帰ってくれて嬉しいの、
だから言い訳は止めて。
静かにして、
言い訳しても何もならない、
口紅の話はよしましょう、
言い訳は止めて。
人の噂に泣かされて、
あなたの浮気はお見通し、
いい悪いはどうでもいい!
一緒に居てさえくれるなら。
・・・
あなたは私の喜び、そして苦しみ
私の命はあなたのもの、
だから言い訳はやめて。
しかし現実は違っていて、ビリー・ホリディ自身、夫がありながら、トランペット奏者のジョー・ガイと関係していた。この彼氏もモンロー同様、ヘロイン中毒、ホリディ自身がヘロインの虜になったのもこの時期でした。
ビリー・ホリディは、トラブルを起こすホットな男ばかりを選んで付き合ってた。相手をわざと挑発して、自分からなぐられるような状況を作り出す癖があったと、伝記では言われています。
「恋すると、いけないことと、判っているのにしてしまう・・・」”Fine and Mellow”より。
<マクレエの凄み>
一方、カーメン・マクレエ晩年の”Don’t Explain”は、歌の印象が激変します。NYブルーノートのライブ盤“For Lady Day Vol1,2″はマクレエの最高作と言えるかもしれません。
63歳のマクレエが歌う”Don’t Explain”に「女性のか弱さ」や「菩薩」の姿は、これっぽっちも感じられません。淡々としながら、恋に命を賭けた「覚悟」というか「凄み」が出ています。この歌が終わったら、主人公は夫をズドンと一発で殺して、自分も一緒に死のうとしているんだ!と、聞き手に確信させる瀬戸際の迫力があります。殆ど同じ歌詞を歌っているのに「女の性」が影を潜めて、人生の「覚悟」がクローズアップされるんです。
マクレエはビリー・ホリディを愛して尊敬して、一挙一動をみつめながら成長した歌手、その結果、全く違う歌の世界を作り出した。本当に凄いことです。
寺井尚之がトミー・フラナガンを見つめ続け、自分のスタイルで演奏していることを思うと、二つの『言い訳しないで』は、とても興味深く思えて仕方がありません。
CU
GW講座:Billie Holiday
GW講座初日、初めてのお客様や常連様、ふらりとお立ち寄りくださったお客様、ビリー・ホリディの名唱を、一緒に聴けて幸せでした~!
寺井尚之がいとおしむビリー・ホリディ像、トミー・フラナガンがこよなく愛したビリー・ホリディ、色んな姿、色んな歌の表情が見れました。
トミー・フラナガンのハートをバクバクさせた美女、レディ・デイ、ライブはどんなんやったんやろう・・・昨日、ダグ・ラムゼイという米国のジャズ評論家のブログを数ヶ月ぶりに覗いてみたら、亡くなる直前の動画が紹介されていました。滅多にラムゼイのブログは観ないのに、とても不思議です。
ホリディの十八番のひとつ”Travelin’ Light”は、今日も色々聴き比べましたね!このレディ・デイはとても美しい!国民的美少女、後藤久美子さんに少し似てるなあ。亡くなった年1959年、パリで撮影された映像です。ピアノは残念ながら、今日聴いたウィントン・ケリーではありません。
明日のGW講座はサラ・ヴォーン!寺井尚之の解説にご期待ください!不肖私は、給食係&指し棒でお待ちしています。
CU
<ゴールデンウィーク楽しいJAZZの講座>予告編:サラ・ヴォーン
大阪の街は造幣局「桜の通り抜け」が始まりました。皆様はいかがお過ごしですか?
連休中、5月4日(水)のお昼、OverSeasでは、寺井尚之がサラ・ヴォーン選りすぐりの歌唱を、不肖私の作った<ゴールデン・ウィークの楽しいJAZZの講座>を開催いたします。ジャズ初心者大歓迎!ぜひご予約の上お越しくださいね!
エラ・サラ・カーメンと称される、ヴォーカルの御三家の一人サラ・ヴォーンは、ハリウッドの” ウォーク・オブ・フェイム”に名前が刻まれる数少ないジャズ歌手の一人。現代もビールや乗用車のCMで「ラヴァーズ・コンチェルト」など、サラの歌声が使われるのは、きっとハイクラスでセクシーなインパクトのせいですね!
サラ・ヴォーンは、日本の大女優、高峰秀子さんと同じ、1924年3月27日生まれ、生地はNYマンハッタンからハドソン川を渡ったNJのニューアークという街です。
18歳の時、ハーレム・アポロ劇場のアマチュア・コンテストに優勝し、歌手兼ピアニストとしてアール・ハインズ楽団に入団、スター街道が始まりました。その頃のサラ・ヴォーンは、左の写真のように、歯並びが悪く、やせっぽちのいかり肩、歌はうまいが、美人とは程遠かった。アール・ハインズ楽団はゴージャスな一流バンド、音楽だけでなく、ルックスの良さでもトップを誇った。ですからサラの入団が決まったとき、アール・ハインズは気が狂ったんじゃないかと噂になったそうです。楽団一の男前で女性ファンを熱狂させたのが、専属歌手のビリー・エクスタイン、サラは彼からバップ的奏法を習得、エクスタインはサラにとって、生涯の師でありアニキとなったのです。
<醜いアヒルの子から美人歌手へ>
独立後、タッド・ダメロン書き下ろしの名バラード”If You Could See Me Now”など、多くのヒットを飛ばし、ライブ・シーンでは、「人種混合」のリベラルなポリシーで、流行のさきがけとなった<カフェ・ソサエティ>(ビリー・ホリディに「奇妙な果実」を歌わせたのもこのクラブです。)を本拠に、どんどん知名度を上げます。
ニューアークのイモねえちゃんは、華やかなスポットライトを浴び、見違えるように垢抜けて行きます。それは、最初の夫ジョージ・トレッドウエルの功績でもありました。トランペット奏者であったトレッドウエルは’47年に結婚してから、マネージャー兼財務管理者に専念、サラの収入から大枚$8000投資して、サラ・ヴォーン改造計画を実行したのです。まず鼻と歯を整形し、発音レッスンを受けさせ、見た目も歌唱も洗練させた。トレッドウエルはなかなかセンスの良い人で、彼女の髪をショートカットにし、ゴテゴテしたドレスの代わりに、NYっぽいスッキリしたファッションにスタイリング、お洒落で憎らしいほど歌のうまい美人歌手、”サッシー”を作り上げたジャズのピグマリオンでした。19世紀の伝説的名女優、サラ・ベルナールから、”The Divine Sarah”(聖なるサラ)というキャッチフレーズもちゃっかり拝借しています。
<夫は変われど、歌唱は不変>
サラ・ヴォーンの私生活はエラ・フィッツジェラルドと対照的に「遊び好き」、酒も煙草もガブガブ、スパスパ、その上、マリワナはおろか、コカインの量もハンパじゃなかったといいます。サラにマリワナやコカインを教わったという後輩ミュージシャンはジャズ界にたくさんいるみたい!結婚離婚歴は公式には4回、ミュージシャン、ヤクザ、会計士など、職種も人種もさまざまです。サラは、例え稼ぎをピンハネされようとも、その時々のダーリンに誠心誠意マネージメントさせる主義、ジョージ・ウエインたち大物からオファーがあっても全て断った。ノーマン・グランツに一切の仕事を任せたエラとは、ビジネスセンスも正反対ですね。
レコーディングの第一期黄金時代は、’50~’60年代の”マーキュリー””エマーシー””ルーレット”からの録音群、”Poor Butterfly”、”Misty” クリフォード・ブラウン(tp)との”バードランドの子守唄”、ビリー・エクスタインとのデュエット集など、歴史的名唱を残しました。’70年代以降は、レコーディングよりコンサート活動に主体を置きましたが、CBSの”ガーシュイン・ライブ”や、「枯葉」など一連のパブロ盤は、生で観たサラ・ヴォーンとオーバーラップして、思い出深いものばかりです。
<ミュージシャンはサラが大好き!>
サー・ローランド・ハナ(p)は’60年代中盤にサラの伴奏者として活動し、’70年代サラが自分でプロデュースした名盤『枯葉』でもリユニオンしています。
「普段、歌手の伴奏は好きではないが、サラはミュージシャンとして素晴らしかったから、金のためでなく、心から喜んで共演した。」
ハナさん以外にもサラ・ヴォーンを崇拝するミュージシャンは、たくさんいます。レッド・ミッチェル(b)、ジミー・ヒース(ts)、ウォルター・ノリス(p)・・・枚挙にいとまがありません。ジミーは、サラ・ヴォーンを聴くと、「テナーなんか辞めて歌手になりたいと思うほどだ。」と言っている。
それは、彼女がピアニストとして器楽的な思考が出来ることと無関係ではないように思えます。マルチオクターブの豊かな声を、ビバップの高度な理論に裏打ちされたハーモニー感覚で、器楽奏者が舌を巻くようなフレージングを実現した。
譜面が読めないのに、ミュージシャンに大きな影響を与えたビリー・ホリディ(5/3)と、聞き比べれば更に面白いですね!
<終生美人歌手>
寺井尚之は、「声だけ聴いてたら、どんな美人やろう!!と、判っていてもダマサレる」と言う。
対訳係りとして、もうひとつ強調したいのは、彼女の官能的な魅力です。それは、ナンシー・ウィルソンとかダイアナ・ロスみたいな「ウッフン」系のセクシー・ヴォイスとは違う。もっとハードでヘヴィー級!『枯葉』に収録されている”アイランド”で、R-15指定のエロスを感じてください!
私が観たステージ上のサラ・ヴォーンは、「デラ・リーズ(同輩の黒人ヴォーカリスト)です」と可愛く自己紹介し、ハンカチーフではなくティッシュで、グリースみたいな汗をぬぐいまくった。伴奏が気に入らないと「ギャラあげないわよ」とジョークを言い、客席のリクエストには「Not Tonight!」とすごむ。
だけど、ひとたび歌い出せばアンコールの”Send in the Clowns”まで、絢爛たる美人に変身、圧倒的歌唱力で終生「美人」を貫いた稀有な歌手。彼女の愛称Sassyは、「小生意気な娘」の意味だった。死ぬまで、Sassy でDivineだったサラ・ヴォーンよ、永遠に!
ヴォーカル通もオペラ・ファンも、まだ聴いたことがない人も、ぜひ5月4日、来て見てください!
<ゴールデン・ウィークの楽しいJAZZの講座>
【日時】2011年5月4日(水)
正午~3:30pm
【講師】トミー・フラナガンの唯一の弟子 寺井尚之
【受講料】各日¥3,150 (税込) 要予約
CU
ペッパー・アダムス追記
先日のジャズ講座、沢山お越しくださってありがとうございました。
バリトン奏者、ゲイリー・スマリヤンが、尊敬するペッパー・アダムスにトリビュートしたアルバム、”Homage”は、トミー・フラナガン(p)やケニー・ワシントン(ds)の凄いプレイも聴けましたね。”Homage”(「礼」、「敬意」)というタイトルに相応しい、礼節と潔さのあるハードバップが気持ちよかった!講座の前の「相撲」の心の解説と、「ここぞ!」というバップの聴き所をジャストサイズで教えてくれるアルバム解説、一見無関係に見えるトピックが絶妙のハーモニー、この辺りが寺井尚之のジャズ講座の醍醐味です!
講座に来られる皆さんがすでにペッパー・アダムスを聴き込んでいらっしゃるのを知り、一層嬉しかったです。
Pepper Adams (1930-86)
コオロギみたいな風貌、小柄な体に似合わぬ豪放な音色と、切れ味鋭いソリッドなプレイから、”ナイフ”と呼ばれるペッパー・アダムス、出生地、ミシガン州ハイランドパークは、デトロイトの隣町、トミー・フラナガンとは亡くなるまで親友でした。トミーが心臓発作の直後に”Homage”にゲスト出演したもの、亡きペッパーのために一肌脱いだわけだったんですね。
‘若きペッパーやトミーが切磋琢磨した50年代のデトロイトは、自動車産業に多数の黒人労働者が従事しており、労働組合も人種隔離されており、人種間の軋轢から何度も暴動が起こりました。
ジャズ・シーンも大差なく、モーターシティの「白人」ジャズメンはスタン・ゲッツを、黒人たちは、言うまでもなくチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーを崇拝し、活動場所は分かれていたそうです。ペッパー・アダムスは、アイルランド系だったけれど、彼のヒーローはハリー・カーネイ(bs)やチャーリー・パーカー!故にブラック・コミュニティに入り、信条を貫いた。サー・ローランド・ハナによれば、そのためにペッパーは「何度もひどい目に遭った。」そうです。
そんな人だから、ジャズの巨人達には大変に可愛いがられた。
ペッパーの兵役中、「チャーリー・パーカーが彼をギグに連れ出すため、ペッパーの母親の主治医になりすまし、「母危篤」の電話をしてまんまと休暇を取ってくれた。」とか、「ワーデル・グレイの葬儀で、棺の担ぎ役になった。」とか、サイドメンに鉄拳制裁を食らわし、白人への暴言で有名なミンガスも「ペッパーだけにはいつも優しかった。」とか、色んな伝説があります。
逆にペッパー自身も、男気があって面倒見がよく、多くの後輩に慕われていました。
サド・メルOrch.時代の盟友、ジョージ・ムラーツ(b)も、その一人、英語が不自由だった頃、大変お世話になったそうです。後に、彼の複雑なフレージングをそっくりそのまま”Pepper”という曲に仕立て、ベースでスイスイ弾いてます。
ミュージシャンには絶大な尊敬と人望があったペッパー・アダムスですが、批評界は、必ずしもそうではなかった。故に、なかなかまとまった資料がなく、私もG先生から戴いた「ダウンビート・マガジン」そのほかのインタビュー記事しか持っていなかったのですが、昨年ついに、ある研究家の手でペッパー・アダムスのサイトが完成!
<ペッパー・アダムスの足跡を辿る>
ペッパー・アダムズ・ドット・コムの管理人はジャズ史家のゲイリー・カーナー(Gary Carner)、学生時代からペッパーを尊敬し、修士論文のテーマを「ペッパー・アダムス」にし、ペッパーが骨折のため自宅療養している間、せっせとブルックリンの家を訪ねてインタビューをしていました。
ペッパーの死後、カーナーは、トミー・フラナガンと会い、トミーからこんなことを言われました。
「亡くなる4日前にペッパーを見舞いに言ったら、傍らのテーブルに君の原稿を山のように積み上げてあった。意識が混濁しているのに、その原稿の束を指差して、しきりになにか言おうとしていたよ。本にしろって言ってたんじゃないかな・・・」
トミーの言葉に衝撃を受けたカーナーは、ペッパーの遺した音楽的遺産を守ることに、人生を捧げようと決意したそうです。
ペッパーの名盤群は例に漏れず廃盤が多い。彼の業績を守るため、オリジナル曲、全43曲を現在のミュージシャン(4枚のアルバムがありゲイリー・スマリヤンも参加しています。)で再録音しました。
伝記はスミソニアン協会より出版予定ということですが、出来たら絶対に読みます!とりあえずはペッパー・アダムス・ドット・コムディスコグラフィー、作品データ、詳細な年表など貴重な資料がどッとUPされています。
不景気だ、ジャズ斜陽だ・・・何のかんの言っていても、すごい研究者は突然表舞台に出てくるものですね!
私の手元にある様々なインタビューを読むと、ギネスを痛飲し、文学に精通していたペッパーの発言はすごく面白い!多くの文学者や詩人を生んだアイルランドのDNAを感じます。ただ演奏と同じで、言葉の洪水!草稿をまとめるのは、よほど大変だろうと思います。
最後に、ペッパーが最高に尊敬するチャーリー・パーカーに関するコメントを引用しておきますね。’86の”Cadence(ケーデンス)”というジャズ雑誌に掲載されたもの。インタビューは、カーナー氏です。この発言から、チャーリー・パーカーとトミー・フラナガンの共通点や、デトロイト・バッパーたちの方向性が感じ取れます。
「ああ、クソッ! 彼は最高のプレイヤーだ。
だが、彼の音楽はまだ充分には認められていないと思う。世間の連中が彼を「名手」と言ったところで、その革新性と尊厳を充分理解している人間がどれほどいるのか疑問だ。
チャーリー・パーカーは非常に多面的な音楽家だ。ある時はむき出しの荒々しさを愛し、わざと雑なアクセントやフレージングでと吹いてみせる。そうかと思えば、いきなり自分本来の洗練されたアクセントとフレージングへ戻って行く。それが彼流なんだ。
バードは、自分のプレイの中に20世紀音楽の全歴史を構築した。彼の演奏は、クラシックから、初期のジャズ、サックスの教則本(笑)まで、ありとあらゆる音楽要素を取り入れている。
それも、わざとらしいやり方でなく、あくまでさりげなく、包括的な音楽言語、文脈にしている。それこそ、僕が目指すところさ。
僕も利用可能な全ての音楽言語でアプローチしたいと思ってる。・・・ただしそれで生計を立てようとすると問題だ。生計のために頼るべき人たちの大半は、そういう音楽を理解できないから。」
来月のジャズ講座ではトミー・フラナガンの白眉のソロ・プレイが聴けますよ!ぜひお楽しみに~
CU
講座本8出版 ハイライト講座のお知らせ
ジャズ講座の本、第8巻出来ました!
今日も寒いですね!OverSeasの入っている新トヤマビルは全館いつも暖かいのに、薄着で廊下に出たらひや~っ・・・、超低湿度なので、寺井尚之はピアノの周りで霧吹きに余念なし。
さて、お電話やメールで「まだですか~?」とお問い合わせいただいているジャズ講座の本、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第8巻がやっと出来上がりました。
<フラナガン独立の真相>
今回はフラナガンがエラ・フィッツジェラルドの音楽監督から、リーダーとして独立する節目の時期、’76年から’78年の録音作品を掲載しています。当時のジャズ・メディアでは、フラナガンが独立した理由は、心臓病のためと盛んに報道されていましたが、本当のところは、フラナガンが、自分自身の音楽活動に専念したくなり、同時にエラが糖尿病で、仕事をキャンセルすることが増えたことが原因であったようです。
トミー・フラナガンは、「自分は良い伴奏者ではない。」とよく寺井に言っていました。謙虚な発言と解釈することも出来ますが、真意は「自分は伴奏者である以前にピアニストなんだ!」というプライドの婉曲語法だったのでないかと、私には思えます。
トミーは歌手としてのエラを絶賛していましたが、エラはジャズのカテゴリーではくくりきれない歌手、「喝采こそ命」の大スターであり、ストレート・アヘッドなフラナガンには、流行のポップ・ソングを積極的に取り上げるエラの姿勢は必ずしも本意に合うものではなかったのは自明。DVDなどでエラのコンサート映像を見ると、コマーシャルな題材を伴奏しているときのトミーのちょっとした表情に、そんな思いを汲み取ることが出来ます。
第8巻には、エラ+トミーのコラボレーションの最終章、『Montreux’77』が掲載。長年培われた二人のコラボの集大成を解説で実感することができます。’60年代の共演盤では聴けないスリリングなアレンジと、掛け合いの凄さは、「歌手と伴奏」なんていう概念を遥かに超えたもの!不肖私の作った歌詞対訳も併せて、どうぞお楽しみくださいね!ジャズ・スタンダードは勿論素晴らしいし、コマーシャルな歌、S.ワンダーの”You Are the Sunshine of My Life”の中に、ポップ・ソングの”小さな青リンゴ”をドカンと引用して、「お客様が私の太陽です!」とオチをつけて大喝采を頂くあたりは、正に「喝采こそ命」の面目躍如!やっぱりフラナガンと一緒のエラは凄かった!
<珠玉のピアニストからダイヤモンドに!>
第8巻で、最も人気のあるアルバムは『Eclypso』でしょう。デトロイトの旧友エルヴィン・ジョーンズ(ds)とのリユニオン、「講座本」初登場(!)の我らがジョージ・ムラーツ(b)が織り成す、超大型ピアノ・トリオ作品は、リリース時にジャズ喫茶を席巻しました。
エラのもとから離れ、フリーランスのピアニストとしてジャズ・シーンに帰って来たトミー・フラナガン、ソロ作品、『Alone Too Long』、キーター・ベッツとのデュオでバド・パウエル作品をより洗練させる『I Remember Bebop』、もう一人の名手、ハンク・ジョーンズとの真剣勝負に手に汗握るピアノ・デュオ、『Our Delight』『More Delight』は「喜び」というよりガチンコ対決ということも、解説を読めばよく判る!この頃になると、フラナガンは「珠玉」というより、もっとアグレッシブに、大粒のダイヤモンドの輝きで聴く物を圧倒します。
リーダー作でのレパートリーに対するフラナガンのこだわりや、繊細なアレンジなど、本書を読めば、レコードをかけるのが一層楽しくなることでしょう!
寺井尚之のジャズ講座の本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第8巻新発売!購入後希望の方はHPをご覧の上お申し込みください。
明日はメインステム!おすすめメニューは、ポークのグリル、粒マスタードソース、クリーミーでほくほくした出来上がりにする予定です。
CU
Jazz Poet →The Mainstem
新春ジャズ講座に遂に待望の『Jazz Poet』が登場!寒い夜にも拘らず、沢山お集まり頂きありがとうございました。
- Raincheck
- Lament
- Willow Weep for Me
- Caravan
- That Tired Routine Called Love
- Glad to Be Unhappy
- St. Louis Blues
- Mean Streets
- *I’m Old Fashioned (add)
- *Voce A Buso(add)
ジャズ詩人”Jazz Poet”という言葉は、元々、雑誌”The New Yorker”でトミー・フラナガンの特集記事が出た時の見出しでした。”The New Yorker”は「知的で洗練されたNY」を具現する大人の雑誌。長年ジャズコラムを担当していたホイットニー・バリエットが名付け親。フラナガン夫妻は、コマーシャリズムの影響を受けない”The New Yorker”のバリエットの評論と、このニックネームをとても気に入っていて、自己プロデュースのこのアルバムのタイトルにしたんです。
日本では、フラナガンの代表作は今も『Overseas』ですが、米国では『Jazz Poet』の方がずっと評価が高い。メジャーのレコード会社製作でないのに、ビルボード誌「最優秀ジャズ・アルバム」やグラミーにノミネートされ、ダウンビートやジャズ・タイムズの人気投票で一位になった。’90年代の新しいジャズ・ファンに、フラナガンのバップの香りと、気品ある演奏スタイルが受け容れられたのだと、ジャーナリストのM.J. Andersenは述べています。
上のオリジナルLPのジャケット写真は、数あるトミー・フラナガンのポートレートの中でも最もトミーの個性が出ていて素敵ですよね。実はこのポートレートを撮影したのはジャズ写真家ではなく、リチャード・デイビス(!)というモード系フォトグラファー、落ち着いた錆色のプリントとパノニカの令嬢ベリットの特徴あるレタリング、すっきりしたジャケットデザインも、フラナガンの音楽スタイルにしっくり合っています。
リチャード・デイビスの撮影したファッション写真はRichard Avedonをガサツにした感じ。Poetのポートレートの方がよく見えるのは被写体のせいなのかな・・・
講座では、寺井尚之がトミー・フラナガンに頂いた原盤のLP、その後出たCD、フラナガンの意に反して発売されてしまった『Please, Requeat Again』というタイトルの日本盤のジャケット・デザインや曲順を比較しながら、タイムレス原盤LPには、フラナガンの配慮が隅々に行き届いていたことを実感できました!掲示板にむなぞうくんが書いていたけど、曲順は本当に大切ですね!
エリントン楽団やマット・デニスなど、収録曲のオリジナル・ヴァージョンと『Jazz Poet』を聴き比べ、フラナガンがどの部分を取り入れてアレンジしているのか、録音後『Jazz Poet』の収録曲が、バンドスタンドでどのように発展していったのかを見つめていた寺井尚之の解説を聞いていると、フラナガンのアートはピカソやダ・ビンチに負けないほど、日々進化していると判り、面白かった~
演奏は、どれもこれも肩の力が抜けていて、いとも容易に聴こえるけれど、実際は各メンバー(ジョージ・ムラーツ、ケニー・ワシントン)に卓抜した技量があり、レギュラーで活動しているからこそ出来るプレイであることが、講座で改めてよく判りました。
「灼熱の砂漠をエアコン完備の駱駝に乗って旅をしているように爽快なCaravan」という寺井尚之の名言に場内爆笑!
来月の講座は『Beyond the Bluebird』をたっぷり解説いたします。当時のフラナガンを公私に渡って知っている寺井尚之だからこその、面白くてためになる解説が聞けますよ。2月12日(土)は予定を空けておいてくださいね!
そして今週(土)は寺井尚之The Mainstemのライブです。『Jazz Poet』の名曲の数々を演奏予定!こちらも絶対聴き逃せません。こちらもぜひお待ちしています!
CU