こちらは雨模様の大阪です。
今日は寺井-田中裕太(b)-菅一平(ds)のトリオ、初顔合わせでどんな演奏が聴けるか楽しみ!
トリビュート以降、ピアニストの骨密度を高めるために、鰯や鯖の骨が入った削り節でお昼ごはんのおでんを炊きながら、やっとトリビュート・コンサートの曲目説明が完成しました。
チーム・ワークを最優先事項にし稽古を重ね、その結果、個人の美技が際立ったのは、WBCのみならず、今回のトリビュート・コンサートも同じでした。
あかげで書きたいことがいっぱいありすぎ、削っているうちに早一週間経ちました。スローですみません。
トリビュートの客席から、魔法を使って名演を引き出してくださったお客様、残念ながら来れなかった皆様、トリビュート・コンサートのCDRを聴きながら静養中のトミー・フラナガン愛好会石井会長、どうぞ覗いてみてください!
第14回トリビュート・コンサートの曲目紹介はこちらです。
CU
トリビュート曲目解説もうすぐUP!
皆様、お元気ですか?
トリビュート・コンサートの後も、掲示板メッセージや感想メールなど、色々嬉しいお便りをありがとうございます!
トリビュートの曲説を書いていて、まだ皆さんにお返事しきれずすみません!
今回はThe Mainstemが、一歩空きぬけたすごい演奏をしてくれたおかげで、「これも書きたい、あれも書きたい・・・」と、寺井尚之のピアノと正反対にコーラス数ばかり増え、ミスノートではなく誤字脱字も一杯で、今スリムに読みやすくしているところです。
この二人の女の子達は、お行儀のよさと演奏を聴く真剣なまなざしでトリビュートの客席で一番注目の存在でしたね!トリビュートの常連ですから覚えておられたお客様も多かったのでは・・・お父様のKD氏は、独身時代からの常連様、はるばる埼玉からライブに来てくださっていました。
そのうち可愛い奥様とご結婚され、ベビー・カーに赤ちゃんを乗せてOverSeasのジョージ・ムラーツ・ライブに!だから小さな彼女たちはジャズ通で、ドラムやピアノも得意です。二人とも赤ちゃんの時からお行儀がいいので、私はいつも見習いたいと思ってるのですが、一旦大阪のおばちゃんに出来上がると・・・
現在KD氏は単身北京に赴任されていて、トリビュートのために北京から飛んできて、埼玉からのご家族と合流!Beijin-Saitama-Junktionは大阪だったのだ!遠いところから本当にありがとうございました!
今回のトリビュートは、演奏も良かったけど、「お客様が素敵な人ばかりだった」と、色んなお客様に言っていただけてとっても光栄です!!
トリビュート曲説は今週中にUP予定!
CU
速報:第14回トリビュート・コンサート
トミー・フラナガンの誕生月に因んで、今年も3月28日に、恒例のトミー・フラナガン追悼コンサートを行うことが出来ました。
お休みの中、フラナガンを偲ぶため、一番遠いところでは北京から(!)沢山の皆さんが、予定を繰り合わせ、オフィス街のOverSeasに集まってくださって、素晴らしい夜になりました!
 寺井尚之(p) – 宮本在浩(b)-菅一平(ds)のThe Mainstem が、この日のために用意したトミー・フラナガンの名演目、スプリング・ソングスが春の到来を告げます。トミー・フラナガンのオリジナルからエリントニアまで、それぞれに、リズムと音色の花が開き、皆の楽しい気持ちが春の香りになって、OverSeasに溢れてました。
【曲目】
<Ⅰ部>
1. 50-21
2. Beyond the Bluebird
3. Minor Mishap
4. Embraceable You~Quasimodo
5. Lament
6. Rachel’s Rondo
7. Dalarna
8. Tin Tin Deo
<Ⅱ部>
1. Bitty Ditty
2. They Say It’s Spring
3.That Tired Routine Called Love
4. Thelonica ~Mean Streets
5. Some Other Spring
6. Eclypso
7. I’ll Keep Loving You
8. Our Delight
Encore:
With Malice Towards None
=Ellingtonia=
A Flower Is a Lovesome Thing
~Chelsea Bridge
~Passion Flower
~ Raincheck
宮本在浩(b)+菅一平(ds)の演奏を久しぶりに聴いて「本当にうまくなったもんだなあ!!」と、つぶやくお客様も・・・本当に二人とも大きくなりました!
トリビュート常連のお嬢ちゃんたちも、Our DelightやRaincheckに体がスイング!
今回はジャズ評論家のG先生も東京から撮影係を兼ねて来て下さったので、良い写真を沢山いただきました。(G先生レポートはこちらです。)上の写真も全て後藤誠氏撮影です。
コンサートに来て下さった皆様、心よりお礼申し上げます!今回のトリビュートにお越しになれなかったお客様からも、いろいろ激励いただき、ありがとうございました!皆さんのおかげで、素晴らしい集まりになりました。
今回の曲目説明には、G先生にいただいた写真を沢山載せようと思います。乞うご期待!
CU
春のトリビュート:特別メニュー
トリビュートの前に「青い鳥」の話をしよう:The Blue Bird Inn
“ビヨンド・ザ・ブルーバード&ジャケットにあった”ブルーバード・イン”の写真
春のトリビュート・コンサートが間近になり、今も寺井尚之が稽古するピアノの音色がキラキラと響いています。毎週必ず演奏を聴きに来て下さる山口マダムも、すぐ気づかれて「すごいわねえ!力強い音やねえ...ピアノにも超常現象っていうのがあるのかしら・・・」と少女のように目をクリクリされていました。お客様の耳って本当に鋭いですね!
世界中を回って演奏していたトミー・フラナガンは、「オマエたちのクラブは良いお客さんが一杯いるなあ。デトロイトの“ブルーバード・イン”にもこんな温かさがあったんだ・・・」とよく言ってました。
トミー・フラナガンが「その頃」を懐かしみ一枚のアルバムまで作ってしまった”ブルーバード・イン”ってどんなクラブだったのでしょう?1950年代のデトロイトにちょっとタイムスリップしてみませんか?
<タイヤマン5021番地にジャズを聴きに行こうか?>
トミー・フラナガンの少年時代、デトロイトは活況を呈する自動車産業に従事する黒人の人口が急激の増加し、’50年代には街の総人口の60%を占めて、黒人のコミュニティが確立していたそうで、黒人の経営する商店や会社も何百とあったそうです。
左:1950年のデトロイトの街、右:パラダイス・シアター
上右のパラダイス・シアターは、デトロイト銀座とでも言うべきウッドワード・ストリートにあり、黒人が入れる数少ない劇場&映画館、フラナガンがビリー・ホリディやディジー・ガレスピー、ビリー・エクスタイン楽団を観に行っていた場所です。“ブルーバード・イン”は、このウッドワードからずっと西の方で、黒人街のウエスト・サイドTiremanの5021番地にありました。サド・ジョーンズの”50-21″は、この番地なんです。「タイヤマン」とはいかにも自動車の街:モーターシティらしい地名ですよね!
<黒人の経営する黒人のためのジャズクラブ>
“ブルーバード”の玄関にて:歴代オーナーの一人、クラレンス・エディンス
“ブルーバード・イン”がいつ頃オープンしたのかは、私の集めた資料ではよく判りませんが、戦中の1940年頃にはもう営業していたようです。タイヤマンは中流の黒人層の住宅地のはずれにあり、オーナーも黒人、客層も殆ど黒人という、アメリカでも特異なジャズクラブでした。お客さんたちも通ぞろいで、ジャズのことをよく知っていたそうです。
NYのメジャーなジャズクラブは、客席の7-8割が観光客、地元の人は少ないし、ミュージシャンでない黒人も少ない。それに経営者は昔から白人ばかりです。”ブルーバード”はかなり違った雰囲気だったんでしょうね!
“カシモド”のエントリーにも登場した私の愛するミュージシャン&コメンテイター、ペッパー・アダムス(bs)の”ブルーバード”評をちょっと読んでみましょう。
“ザ・ブルーバード・イン”は素晴らしいクラブだった。ある意味、特異なジャズクラブだ。絶頂期には、理想のジャズクラブだったと思うよ。
すごい店だった!雰囲気が良かった。気取りが全然なくてさ。
見掛け倒しでなく、本当にスイングする音楽があった。クレインズ・ショウ・バー(デトロイトにあった別のジャズクラブ)もちょっと似た感じだったけど、あっちの方が少し高級だったなあ。… ”ブルーバード”のお客さんは99.5%が黒人で、純黒人向けジャズクラブだった。だけど白人の僕でも、居心地が悪いなんて事は全くなかった。
【デトロイトのジャズ史、Before Motown より】
フラナガンが出演していた頃の”ブルーバード”は、一番上の写真の小窓の内側がバンドスタンドで、入店できない未成年の少年達は、この窓にへばりついて生演奏を必死で聴いたそうです。その後改装して小さな円形のバンドスタンドに変わったのですが、ピアノはグランド・ピアノでなく小さなスピネット型のピアノでした(!)それでも、フラナガンが最も愛したクラブであったというのは、演奏と125あった客席に座る方々がよほど良かったに違いありません。
“ブルーバード”の向かうはNY
トミー・フラナガンが”ブルーバード・イン”のハウス・バンドとして出演していたのは、1951年の終わり頃から約2年間のことです。バンド・マスターはビリー・ミッチェル(ts)、そしてサド・ジョーンズ(cor)をフロントに、ベースはアリ・ジャクソン、またポール・チェンバース(b)やダグ・ワトキンス(b)たち、そしてドラムはエルヴィン・ジョーンズ(ds)というドリーム・バンド、ピアノはフラナガンの他に、やはりNYに進出したテリー・ポラード(p)やバリー・ハリス(p)が出演していました。
ビリー・ミッチェルとサド・ジョーンズ(’56) Francis Wolff撮影
ビリー・ミッチェル(ts)は15歳でプロデビューし、映画に出演したほどの男前で、当時は、デトロイト・ビバップ・シーンの”最高幹部=エグゼクティブ”と呼ばれていました。フラナガンのアルバム、『Let’s』や、『Detroit-New York Junction』に収録されている”Zec”という軽快な作品は、EXecutiveのヒップな略語なんだよとトミーが教えてくれました。余談ですが、ミッチェルはジャズ以降のモータウンで、スティーヴィー・ワンダーの音楽監督を務めていたこともあります。
ハウスバンドに加えて、このお店は常にNYで活躍する全国区のゲスト・ミュージシャンが入れ替わり立ち替わりハウスバンドとセッションを繰り広げていました。上のチラシはマイルス・デイヴィス(tp)とソニー・スティット(ts,as)のダブル・ビルになっているでしょう!聴いてみたいですね!マイルス・デイヴィスは、麻薬中毒から立ち直る為にしばらくデトロイトで住み、”ブルーバード”に出演していたので、NYに出て来たフラナガンを即戦力としてすぐに雇ったんです。
それ以外にデトロイトからディジー・ガレスピーにスカウトされてNYで成功した、「デトロイト・ジャズ界のイチロー」とも言えるミルト・ジャクソン(vib)やJ.J.ジョンソン(tb)、アート・ブレイキー(ds)など数え切れないほどのジャズメンがゲスト出演していました。同時に、ツアー中で他の劇場に出演しているミュージシャンも、必ず”ブルーバード”に立ち寄り、演奏をチェックして、使えそうなミュージシャンには電話番号を教えてコネをつけて行きました。
“ブルーバード・イン”は文字通り、デトロイト-NY・ジャンクション(合流点)だったんです!
円形ステージで演奏するソニー・スティット、白いTシャツで恥ずかしそうにしている青年は、未来の巨匠チャールス・マクファーソン(as)!
デトロイトの他のクラブでは、ミュージシャンに服装規定があったり、演奏レパートリーもお店から指定があったりしたそうですが、”ブルーバード・イン”では、店の方から音楽に干渉されることは一切なかったそうです。何故ならお客様たちが、バップをこよなく愛し、演奏者を応援して良い音楽が育つように見守ってくれていたからなんです!
なんとなく親近感を感じるなあ・・・
<トミー・フラナガンの証言>
トミー・フラナガンは’66年にダウンビート誌のインタビューで”ブルーバード・イン”について、映画『オズの魔法使い』で、ドロシーがオズの国に飛んできた時に口にする名台詞を使いながら、こんな風に語っています。
“ブルーバード・イン”は素敵なクラブだった!何ともいえない良い雰囲気でね、『もうここはデトロイトじゃないみたいね・・・』みたいな場所だった。というか、アメリカ中探しても、あんなクラブは他になかったろう。NYにもないなあ・・・近所同士の親しさや、ジャズクラブにはなくてはならない『応援してやろう』という温かさがあった。デトロイトの街でジャズが好きな人なら、皆が聴きに来てくれた。そこでやっている音楽は非常に先鋭的なもので、演奏者がケタはずれに良かった。
“ブルーバード・イン”では、我々が演りたい音楽を演奏することができたし、それを、お客さんが心から楽しんでくれたんだ!
カウント・ベイシーにスカウトされる前のサド・ジョーンズの凄さにはメジャーなジャズメンが圧倒されました。マイルス・デイヴィスは店の片隅で涙を流し、チャーリー・ミンガス(b)は、「やっと天才を見つけた!」興奮してナット・ヘントフに手紙を書きました。
デトロイト1の若手ピアニストとして”ブルーバード・イン”で演奏した期間はせいぜい2年ほどですが、そこで得たものは計り知れません。そんな頃に朝鮮戦争への召集礼状が来て、フラナガンと「青い鳥」は決別します。
“ブルーバード・イン”はタイヤマンの5021番地で業態を変えながら営業を続け、1990年代にもフラナガンは何度か里帰り公演を行いましたが、現在のFlicker.comに、人気のない様子の写真が載っていました。でもかつて演奏が漏れ聴こえた窓はそのままです。
やっぱりジャズクラブというものは、お客様の応援がなければ「良いクラブ」になれないんだと、改めて思います。
サド・ジョーンズが、”ブルーバード・イン”の住所から名前をつけた“50-21”や、フラナガンの“ビヨンド・ザ・ブルーバード”・・・幾多の名曲を生んだ”ブルーバード・イン”で生まれた様々なドラマに思いを馳せながらトリビュートの演奏を楽しみたいですね!
CU
速報:今夜のエコーズ
毎週水曜日のお楽しみ”エコーズ”!今夜は、客席に来られていた河原達人(ds)さんが急遽参加のハプニング!
EnigmaやI Wants To Stay Hereなど、おなじみのエコーズのレパートリーやスタンダード・ナンバーなど、2nd セットから飛び入りとは思えない肩の力の抜けたドラミングで、春らしい華やかな彩りを添えてくれて、大いに盛り上がりました。
「WBC優勝記念セッション」・・・というわけではではありませんが、昨日は一日シビれて仕事にならなかったという常連様も来られていて、連日連夜の大喜び!ビールかけが始まりそうな雰囲気になりました。
楽しいリユニオンに片隅の私も元気をもらいました!
皆さま、ありがとうございました。
CU
トリビュートの前にメドレーの話を!”エンブレイサブル・ユー~カジモド”
トミー・フラナガンの生演奏をお聴きになった事がある方なら、忘れられないのがメドレー!
年月が経ち、改訂を加えて以下のURLに再掲しました。
http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2015/11/-embraceable-you30youtube.html
ジョージ・ムラーツ、ヨーロッパ・ツアー中
現在、ジョージ・ムラーツ(b)はピアノのニュー・スター、リン・アリエールのカルテット、“ニュアンス”に参加してヨーロッパ各地をツアー中。
ムラーツ兄さんに加え、ランディ・ブレッカー(tp)を擁した“ニュアンス“という名前のカルテットを組むリン・アリエールは、今年、大きく注目されそうな存在です。
赤毛と青い瞳でプレス写真もとっても魅力的な熟女リン・アリエールさん・・・どっかで観たことあるなあ・・・と思ったら、1990年頃に富士通100GOLD FINGERSでトミー・フラナガンと一緒に来日していた、リン・バーンスタインだった!当時は全く無名で、マリアン・マクパートランドが腰痛で降板し急遽代理で出演したはず...私と同い年だったと思います。あれから20年たって、大学で教鞭を取りながらデビューとはやるなあ・・・
“ニュアンス”はすでにレコーディングを済ませており、5月発売予定。ツアーは、オランダ、ドイツ、イタリアなど、3月19日からヨーロッパ各地を回り、4月にはフロリダに出演予定だそうです。
往年のジョアン・ブラッキーンをシックにしたような感じのプロモーションヴィデオがネット上にありました。ムラーツ兄さんの深遠なる賛辞も聞けますよ!いずれ日本にも来るかもしれませんね!
明日はお店がお休みなので、フラナガンの遺した名演目、Embraceable You-Quasimodoについてちょっと書いてみる予定です。
CU
ジャズ講座こぼれ話:Something Borrowed, Something Blue
先週のジャズ講座も楽しかったですね!
裏話の数々や、スタジオ内のミュージシャンたちのプレイ上のやりとりから判る様々な事実・・・身振り手振りもつけながら、寺井尚之が見事に大阪弁に通訳してしまうので、お店の中は大爆笑!ホワイトデーにも拘わらず駆けつけてくださったみなさま、どうもありがとうございました!
<借りものと青いもの は花嫁の父の歌?>
講座発起人で、音楽をすごくよく判っている男、ダラーナ氏から、『サムシングボロウド~はエレピということもあり、あんまり聞かなかったんですが、やはり名盤!(dsは別にしても・・・) また、ジックリ聴きます。』 とメールを頂戴♪ 確かに、今回登場した『Something Borrowed, Something Blue』はトミー・フラナガン・リーダー作のうちで最も売れなかった作品だそうです。原因は、パームツリーのジャケットや、エレクトリック・ピアノでの演奏が2曲入っているのが、正統派ピアニストのイメージにそぐわなかったからかも知れません。アルバムはオリン・キープニュースとエド・マイケルの共同プロデュースなっています。エド・マイケルは同じギャラクシー・レーベルで、スタンリー・カウエルのアルバム“Waiting for the Moment”をプロデュースしていて、やはりピアノだけでなくフェンダー・ローズやシンセサイザーなどをカウエルに弾かせているからエド流なのかも・・・
寺井尚之が解説していたように、エレピで演奏したフラナガンのオリジナル曲、”Something Borrowed, Something Blue”は、後にグローヴァー・ワシントンJr.が『Then and Now』というヒット・アルバムでフラナガンと演奏したおかげで、思いがけない多額の印税をもたらしてくれたそうです。 「借りものに青いもの」とは、英国の格言で花嫁さんが幸せになれるよう、嫁入り道具として持っていくものなんです。
Something old, something new
Something borrowed, something blue
And a silver sixpence in her shoe.
講座のOHPにも使った上の写真は、英国の婚礼用品サイトから拝借しました。欧米では、花嫁さんに、古いものと新しいもの、借りものと、青いもの、そして靴の中に銀貨を入れて嫁入りすると幸せになれる。という言い伝えがあるそうです。つまり、嫁入りしても、実家の歴史や家風を忘れるな(Old)、初心を保ち未来への志を持て(New)、困った時には、人生の先輩達の知恵を借りろ(Borrowed)というわけです。そして、ブルーという色は処女と貞節の象徴、夫に貞節であれ。靴の中の銀貨は、嫁入りしてもお金の苦労をせぬようにという親心ですね。
寺井尚之が推測するように、トミーの娘さんが嫁入りしたときに作曲したのかも知れないし、当時流行のソウルフルな雰囲気を取り入れて作ってみた実験的作品なのかも知れません。講座で、皆と一緒に改めて聴くと、ダラーナ氏の言うとおりフラナガンは、スイッチがどこにあるかも全くチンプンカンプンなフェンダー・ローズでも、ピアノと変わらない歌い上げ方で、心に沁みたなあ・・・
<「偶然の旅人」を産んだPeace>
同アルバムに収録されたバラード、“Peace”では、フラナガンの意図を汲むことが出来なかったジミー・スミス(ds)のおかげで、思わぬ演奏展開になってしまったことが手に取るように判りました。そして2月29日(金)のThe Mainstemのライブでは、その時にフラナガンの意図していたアレンジで演奏したことを種明かしされて、ナルホド!と思ったお客様も多かったのではないでしょうか?
有体に言えばミス・テイクであったはずの“Peace”ですが、このトラックは米国ニューイングランドでは非常にポピュラーなんです。というのも、ボストン地域のラジオ局、WGBHの人気ジャズ番組、“Jazz with Eric in the Evening”という番組のテーマソングとして、1981年から現在に至るまで、ウイークデイの午後8時から毎日放送されているんです。番組のサイトを見ると、様々な企画やゲストのインタビューがあり充実した内容です。ホストのエリック・ジャクソンはニューイングランド地域のジャズコミュニティのボス的存在で、ジャズ・アナウンサーとしても、プロモーターとしても非常に有名な人です。トミー・フラナガンが、ケンブリッジのチャールズ・ホテルにあるレガッタ・バーで頻繁に演奏していたのも、この番組に効用があったのかも知れません。やがて、90年代にケンブリッジに客員教授として滞在していた村上春樹が、そこでトミーのライブを聴き、名作「偶然の旅人」が生まれたんですね!
そういえば、トミーはレガッタ・バーで、必ず“Peace”を演奏していたと、ダイアナも言っていたっけ・・・
今回、トミー・フラナガンの”Peace”をネット検索してみると、ボストン方面の色んなブログに言及されていました。政治経済を主なテーマにしているブログにも、「トミー・フラナガンの演奏するテーマソングは、上質のワインの最初のひとくちのように心地よい」と書かれていて嬉しかった。
決してトミー・フラナガン屈指の名演ではなかった“Peace”ですが、今でもレッドソックスのお膝元で親しまれているのは嬉しいことですね。
トミー・フラナガンの誕生日に心をこめて!
CU
トミー・フラナガンの思い出:「喜」力と「怒」力のダイナミクス
トリビュート・コンサート近し。
3月に入るとピアノがやたらに良く鳴って、サウンドミキサーを先月と同じ設定にしていると、ハウリングが起こるという不思議な現象が現れています。
トミー・フラナガンのコンサートを一度でも聴いたことのある方なら、よくお解かりだと思いますが、そののプレイは、いつでも起承転結があり、落語のオチのようなものさえ付いていて、その時わからなくても、3日後にハタと気づいて大笑いすることすらありました。
片耳だけで心地よく聴くうちにフェイドアウトしてしまうような、ぬるい演奏は聴いた事がありません!ジェットコースターみたいに山あり谷あり、しっかり掴まっていないと、翻弄されて振り落とされそうになる、スリルに満ちた音楽でした!
ソフト・タッチの囁きから、怒涛のように、クライマックスへとワープしていくフラナガンの名人芸を回想する時、ある思い出が心をよぎります。それが音楽と関係があることなのか?私だけの無理な「関連付け」なのか・・・自分でも良く判らないのですが、皆さんにお話してみようと思います。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
殆どのインタビューや書物では、トミー・フラナガンを、”物静かな巨匠””温厚な紳士”として紹介しています。そのとおりで、私も公の席で、トミーが大声を出したり、人に文句を言ったのを見たことがありません。子供の頃から、すごく無口で、トミーの両親は、「この子は、ちゃんとものを言うようになるだろうか」と心配したほどだったそうです。
だけど本当は、誰よりも気性の激しい人だったのではないかしら? 自分の感情が一旦爆発すれば、核爆弾のように、周囲に被害が及ぶのと判っていて、常にポーカー・フェイスを装っていたのではないかと、思えてならないのです。
それは、’80年代半ば、初めてNYのフラナガン宅に招待されたときのことです。寺井と私の他に、トミーと親しいマーシャル・ソラールの紹介で、フランス人のエリート・ピアニストの女の子達が来ていて、昼から夕食まで一緒に楽しく過ごしました。やがてマドモアゼル達が帰った頃には、とっくに10時を回っていました。
ロイヤルブルーに統一された薄暗い居間に私達4人だけ、コニャックや、フランスのきつい食後酒を飲みながら、寺井がピアノを弾いたり、トミーにピアノを聴かせてもらったり、それから夫妻に、色んな話をしてもらいました。 フラナガン・トリオの色んなメンバー達についてどう感じているか? トミーの若い頃の話、デトロイトの親類や、娘さんたちや息子さんの話、そしていよいよ話題はビバップへと移り、トミーが高校時代にチャーリー・パーカーと共演した喜びを語ってくれました。今から思えば、寺井が受けた最初で最高の「ジャズ講座」であったかも知れません。するとダイアナが、「高校生がバードと共演するというのが、どれほど凄いことか!バッパー達が街を歩くとどれほどの人だかりになったか!」と詳しく補足してくれるので、私は「無邪気に」質問しました。
「それじゃあ、バッパー達は、ビートルズやストーンズとか、今のロック・ミュージシャンみたいに熱狂的に受け容れられていたんですか?」
ところが、この不用意な質問から、すごい夫婦喧嘩になってしまったんです。
ダイアナがにこやかにYeah・・・と言って続けようとしたその瞬間、トミーが遮りました。
「No, No! そんなんじゃない。Absolutely Not.」
ダイアナ「そうよ! ロックみたいに人気があったじゃない。」
「No!! そういう流行とは違うんだ。根本的に違う!精神的に違う!」
ダイアナ 「だってスイートハート、世間に受け容れられるって点では同じじゃない!」
「Nooooo!!! ビバップは我々の精神と生き方そのものを、根本的に変えたんだ!ビバップは、精神的にも音楽的にも、もっと高度な革新性があるんだ!ロックなんぞとは、根本的に違うんじゃ!」・・・
「チャーリー・パーカー達の頭の中は、そんな薄っちょろいものではないっ!!絶対に絶対に違う!!」
いつもデトロイト訛りで「ホニャララ…」と静かに話すトミーの声は、大ホールのスタインウエイ以上の大音響になり、広い部屋の中に、物凄い空気が充満していました。初めて見るトミーの激昂は、恐いというよりも、夜空につんざく稲妻の如く見事で、多分、私は口をポカンと開けて眺めていたように覚えています。
いつもはトミーよりずっと口の立つダイアナも、すすり泣きを始め降伏です。確かにトミーの大声は、目に沁みるものでした。しばらくすると、トミーはいつもの温厚なフラナガンに戻り、私たちを深夜のヴィレッジ・ヴァンガードに連れて行ってくれました。そこでも色んな事件に遭遇するのですが、ザッツ・アナザー・ストーリー。
以降、長いお付き合いの間で、私たちは、何度か雷の落ちる場面に居合わせることになります。いつも私達だけしかいない場所に限られていました。いついかなる場合も、トミーは汚い言葉で罵ったりすることはなかったし、常に論理的でした。ですから、「キレる」という形容詞は全く当てはまらないし、むしろ、感情のダムがドンと開き、一気に流れてくる感じ、ギリシャ神話のジュピターの雷みたいなものかも知れません。心の中の雷を、トミーは必死で抑えていたのではないかと思えて仕方がないのです。例えばコミック映画で、超能力のあるヒーローが、ひたすら普通の人であろうとするように、トミーも苦労していたのでは…と、そして、その雷を自由自在に放電できるのがピアノの前であったのではないかと思ってしまうんです。
Tin Tin Deoや、Our Delight…怒涛のように盛り上がる寺井尚之のプレイを聴く時、私は、No! と、激しくまくし立てたトミー・フラナガンの怒声を思い出す。そして、スプリング・ソングスのように、心躍るグルーヴを感じる時には、色んな時のフラナガンの喜びの表情が蘇るんです。
トミー・フラナガンの生演奏は勿論もう聴くことは出来ませんが、28日のトリビュート・コンサートで、私も色んな時のフラナガンの表情を味わいたいと思います。
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