アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(5) 母ともゑのカレッジ・ライフ

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アメリカの
国歌うたいて
育つ子に
従い行かん
母我の道

 上の一首はアキラさんの生まれる前の年、夫の任地であった日米開戦の地、オアフ島、ホノルルで詠まれた。戦時中、日本人であるが故に被った様々な苦難を乗り越えたともゑの決意が31文字に凝縮されている。深みのある彼女の短歌には、独特の清涼感が漂っていて、アキラ・タナのドラミングと相通ずるものを感じます。この短歌に感銘を受けた大歌人、斎藤茂吉は 「下の句で、アメリカの国歌を歌う子供達の幸福を願う母の心情が明瞭に浮かび上がる感動的な一首。」と評した。

<よく学び、よく教え>

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 最愛の夫、田名大正を看取り、息子たちを立派に社会に送り出した時、ともゑはすでに還暦を過ぎていた。高校時代のアキラ・タナを鮮烈に捉えたドキュメンタリー映画『マイノリティ・ユース』で、「母は英語を勉強したいと思ってるけど、なかなか余裕がない。」という独白から十年、やっと勉強のチャンスがやって来たのだ。

 
  異国の生活と太平洋戦争、夫と離れ離れで収容所に4年間、その後は家族を支え、早朝から夜中まで27年間働き続けた人ならば、「余裕」ができると同時に、エネルギーが尽き果てて、波乱万丈の人生をフィードバックさせながら余生を送るのが普通ですが、ともゑは違った。真っ直ぐな瞳は曇ることなく、妻として、母として、一人の人間として、思い出を将来の遺産にしようと、まっしぐらに進みます。何十年という苦労の蓄積をエネルギーに変えてしまう力は、一体どこから受け継いだのだろう?それとも、その歳月を苦労とも思っていなかったのだろうか?

 念願の英語習得のため、近郊の州立”フットヒル・カレッジ”に入学したのが61才。 社会人大学生なんてゴロゴロ居る米国でも、毎日バスで通学し熱心に学ぶ熟年学生であり天皇に選ばれた歌人を、コスモポリタンな気風溢れる西海岸は放っておかなかった。しばらくすると、所属大学や傍系の文化センターに請われ、習字や琴といった日本の伝統文化の教師として大活躍するともゑの姿が評判になります。

tomoe_tana_teach_stanford.jpg 左の写真はスタンフォードの”イーストハウス“というアジア文化センターで教えるともゑを報じた新聞記事。「Tomoe Tana: 学生の身でありながら、教える事多く」の見出しの元 これまでの波乱万丈の人生と、歌人としての功績とともに、「ウィークデーはフルタイムで受講と教授を続け、授業に欠席したのはたった一度だけ。毎(土)には、自宅で育てる花を山程抱えて、夫と同胞の墓参りを欠かさない。学生たちは、習字や琴、そして彼女の人生から、多くを学んでいる。  と紹介されています。一流教師であると同時に、幅広い教養と、彼女の人柄が、多くの人々を魅了したようで、これ以外にも、ともゑは地元の新聞にたびたび掲載されている。これらの学業と並行して、短歌活動と、亡夫、田名大正の「敵国人抑留所日記」の丁寧な編纂作業と自費出版を10年間続けているわけですから、彼女のパワーの凄さは、想像もつきません!

 <学問の理由>

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 ともゑは学業も、自己満足の教養では終わらせなかった。じっくり急がず、6年かけてフットヒル・カレッジを卒業、1979年には、正真正銘の名門校、サンノゼ州立大学に入学し、’82年に学士号を取得した。その頃には、ともゑの英語力は、多くの人々を前に感動的なスピーチが出来るほどになっていました。

 彼女は、LAの国際的スピーチ団体で、日系一世、69才の学士として、「父の日の輝く贈り物」という講演を行っている。

 いったい何故、この年になって学士号を取ったのか?このスピーチで、ともゑは3つの理由を挙げた。

 1. アメリカ市民である子どもたちに付き従うため。
 2. アメリカで幸福な人生を送るために、他の人々と同じ立ち位置に付きたかった。

 3. 最大の理由は19才のときに亡くなった父(享年52才)の遺志に報いるため。
  「私の父は、幼い頃病弱で、小学校5年生までしか学校に通えませんでした。中学に復学できた時、弟と同じクラスで授業を受けるのが苦痛で、学校に行かず、寺に入り学問を受けたのです。出家後は、開拓時代の北海道に赴き人々に尽くし、名僧と呼ばれるほどになりました。父には、国作りには、何よりもまず若者の教育が必要!という信念がありました。私は9人兄妹ですが、父は、さらに10人以上の恵まれない子どもたちを引き取り養育し、実技や高等教育を受けさせました。子どもたちの中には、日本やドイツで大学教授と成った者、医師となった者も居ます。それでも、父は高等教育を受けられなかったことを終生悔いていました。
 このたび私が頂いた学位は、亡父への『父の日の贈り物』です。」

  ともゑは、別のインタビューで英語習得の目標について、さらに語っている。

  「亡夫は、日記と法話の本を三冊遺しました。私は夫の哲学を子や孫に伝えたい!日系の若い世代は、どんどん日本語を話さなくなっています。私がこれらの本を英訳しなければ、夫の遺産は失われてしまいますから・・・」

 

<アメリカ発:日系短歌史>

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  卒業後、さらに上を目指し、迷わずサンノゼ大学院史学部に進んだともゑは、米国の短歌発展史という前人未到のテーマに取り組んだ。2年後、「The History of Japanese Tanka Poetry in America (アメリカに於ける日系短歌史) 」と題する論文(’85)で、修士号を授与されます。

tomoe_autograph.JPG 借り物ではない筆者自身の英語で書かれたこの論文はネット上でも読むことができます。私は幸運にもアキラさんから紺色の革で丁寧に装丁された元本をお借りしました。(左は本の内側に書かれていたサインです。) 私も時たま文学系の学術論文を読ませてもらう機会があるのですが、ともゑの著作は「修士論文」のレベルを遥かに超越しています。

 「短歌」に馴染のない読者が明瞭に理解できるように、日本書記に遡る短歌の起源や、米国でより知名度の高い「俳句」と比較し、「短歌」という詩形式を定義付けた上で、米国、南米、カナダを網羅した短歌史を明瞭に述べている。

 この論文を読んで、ジャズや短歌、スポーツ、何事でも、それがどんなものか知るには、その分野の名手で愛情と知識のある人に訊くのが一番だという事を改めて実感しました。日頃、三十一文字に全く無縁で無学な私も、この論文を読んで、「短歌」をもっと知りたくなりました。

 本論中、とても興味を惹かれたのは、米国に於ける短歌運動のパイオニアが泊良彦(とまり よしひこ)という植木屋さんだったというところ。泊は50年間、庭師として労働する傍ら、戦前から短歌会を主宰して、この詩芸術を大いに広めた。彼の非凡なところは、自分の派閥にこだわらず、他の短歌サークルからも広く秀作を集めて歌集を編纂したこと。収容所時代、自らガリ版で短歌を印刷、他の収容所にも回覧し、短歌運動を展開、先の見えない苦難の日々の中で、短歌は多くの日系人、日本人の心の拠り所となっていったというのです。そして、この時代が分岐点となり、日系人短歌の芸術性が飛躍的に向上したことを、ともゑは、様々な実例を挙げて論証していきます。「受難の時代が、芸術の開花を促す」というのはジャズの歴史と共通していて、ともゑの論文にすごく共感しました。

 論文には、ルシール・ニクソンなど、非日系アメリカ人の短歌運動史や、研究者でなくても、興味をそそるアペンディクスもたっぷり!活動範囲が広すぎて、今だ実態が掴めない伝説の文芸評論家、木村穀が企画した日系人短歌集、日米の新聞雑誌に掲載されたものの、本としては未出版の「在米同房百人一首」を、一挙日本語と英訳を合わせて付録にしている。そこには、短歌翻訳に関する留意事項もあり、翻訳者としても見逃せないコンテンツ満載の論文でした。

 ともゑはこの論文を亡き親友、ルシール・ニクソンに捧げ、結論で「短歌を詠む」という行為について、ジャズの即興演奏に通ずる見解を述べている。

 「短歌創作は決して特別な作業ではない。短歌はその人の人生であり、感じたこと、思うこと、それらが短歌として日常的に湧き上がるものである。(デューク・エリントンだ!)・・・短歌創作は、人間の隠れた一面であり、日々の仕事と離れた余暇の世界、短歌にはそれぞれの平安と喜びが表現されている。
 私は短歌が、それぞれの人の、様々な心の模様を表現するかたちであることを、このアメリカの、内に秘めた詩心が花開かずにいる未知なる人たちに知らせたい。この研究が、全人種の未知なる詩人たちにとって、真の美しい人生を送る一助になることを、そして日系人短歌活動が、アメリカの未知なる詩人たちに受容されることを祈る。」

 前人の研究や参考文献はほぼ皆無、ゼロから論拠と考察を行って自説を構築した短歌論、一体、ともゑはどれほどの努力と時間を費やしたのだろう?出来上がったアメリカの日系短歌史は、あくまで清明な筆致で、気負いや自己陶酔の痕跡は一切見つからない。でも、クリスタルで論理的な考察の行間には、短歌に貢献した亡き同胞や親友への愛が溢れていた。私は学術論文を読んで初めて泣きました。 

 この素晴らしい論文から6年後、1991年4月、ともゑは77才で、最愛の夫の元へ旅立ちました。

 ともゑの死後、遺族と友人は、ともゑの母校、“フットヒル・カレッジ”に「Tomoe and Daisho Tana Scholarship」という奨学金制度を設立。日米の相互理解の促進を目指す学生たちを支援しています。

 田名大正、ともゑの歩んだ稀有な人生、私も、このパーフェクト・カップルが差し出したバトンを受け取るために、これからも二人の歴史を調べていきたいと思っています。 ともゑさんのように、あせらず、ゆっくりと。

(この章了)

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(4) 母ともゑ:愛と気骨の人

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  意外にも、アキラ・タナは高校時代に、教育用の短編ドキュメンタリー映画に主演しています。映画のタイトルはズバリ“Akira( 照)”(BFA Education Media, ’71)で、アメリカの様々な少数派に属する若者の青春像を描く”Minority Youth”というシリーズの一編。日米二つの文化の間で戸惑いながらも、アイデンティティを確立していく日系人少年、アキラさんの姿や、両親との日常生活が描かれていて、15分の短編ながらとても心を打たれました。

映画の中で、少年時代のアキラ・タナは母、田名ともゑについてこんな風に語っています。

 「母は長い間、よその家の掃除や庭仕事をするメイドをして、僕たち家族を養ってきた。その合間に短歌を創っている。朝早くから起きて、夜中まで台所で皿洗いをやっている。母がどうやって時間をやりくりしているのか、僕にもわからないほどだ。母は結婚するまで日本で教師をしていた。だけど、英語がうまくないから、こっちでは教えられない。英語をちゃんと勉強したいと思ってるんだけど、その余裕がないんだよね。」
 アキラは日本人らしく謙遜して、お母さんのことを語ったのでしょう。実のところ、ともゑは、すでに「Tanka Poetry」として北米に大きく広がる短歌運動の担い手の一人でした。後には、「英語の習得」どころか、日米の短歌史に関する素晴らしい学術論文(もちろん英語で)を発表して修士号を取得しています!日本には、世界に誇る美女や芸術家、偉人も沢山いるけど、私は、ともゑさんのような人生の歩き方をした女性は、他に知りません。

<家政婦、青い目の歌人を育成する>

tomoe_3.png(田名ともゑ1913-1991)

  戦後、晴れて家族一緒の暮らしを再開したともゑは、仏に仕える病弱な夫と、食べ盛りの幼い子供たちの生活を支えるために、家政婦として、様々な上流家庭に出入りしました。アキラさんは、1952年、戦争を知らない末っ子としてサン・ノゼで生まれパロ・アルトで育っています。一家がパロアルトに落ち着いた頃、ともゑは、地元の教育委員会の役員であったルシール・M・ニクソンという女性宅で、毎週掃除をすることになります。このニクソン女史は町の名士、詩人でもあり、GHQ日本占領時代、少年時代の平成天皇(明仁親王)の家庭教師となったエリザベス・ヴァイニング夫人の親友でもありました。ニクソンがともゑを雇い入れたのは、このヴァイニング夫人の推薦で、おそらくは天皇の歌会始に選ばれたことを知っていたからかも知れません。


 ある日、ニクソンが、ともゑに自作の詩を見せると、「あなたの詩は日本の短歌ととても似ていますね。」と言われた。どこまでも嘘のない誠実な瞳を持つともゑの言葉に、ニクソンの知的好奇心は否応なく刺激されます。たちまち二人は意気投合!いつしか、女主人が在宅している時は、ともゑが掃除機を動かす暇はなくなっちゃった。ともゑは家庭教師として、彼女に請われるまま、日本語と短歌を教えることになり、掃除は彼女が留守の時しかできなくなってしまったのだそうです。
 いつしか、二人は無二の親友となり、「日本書紀の時代から受け継がれてきた独自の詩形式、短歌を米国に広めよう!」という共通の目標を持つようになりました。英語の短歌創作、在米日本人の詠んだ短歌の味わいを、そのまま生かした英訳、という課題に取り組み、パロアルトの公立小学校のカリキュラムに短歌を導入するという事もしています。ニクソンは、一方で、日本語による短歌創作にも励みました。

lucileAS20140124002490_comm.jpg 1957年、ニクソンは日本でも大注目されることになります。新年の宮中歌会始に彼女の作品が見事選出されたのでした!高額な渡航費にも、地元有志や短歌会から寄付が集まり、ニクソンは儀式への参列をすることに!その年の歌の御題は「ともしび」で、ニクソンの歌は日本への想いを綴ったものでした。

「あこがれの
うるはしき
日本法隆寺
ひるのみあかし
いつまたとはむ」
(大意:私は憧れの日本にやっと来ています。法隆寺に入ると、昼間からともされる灯明に、浮かび上がる荘厳な伽藍の様子に心打たれます。いつかまた、この光景を見ることはできるのでしょうか・・・)

 昭和天皇より「日本と米国の文化の懸け橋になってください。」とお言葉を賜ったニクソンのニュースは「青い目の歌人、宮中歌会始へ!」と、当時の日本のメディアで大きく報道されました。 (左写真)

 8年前、同じように選出の光栄に浴したともゑは、宮中に参じることはできなかったけれど、親友の快挙を自分のことのように喜んだのでしょう・・・

 この後も、二人は自分たちが英訳編纂した短歌を一冊の本にして出版しようと仕事を続けます。この計画が成就する目前の’63年、ニクソンは鉄道と自分の車が衝突するという事故によって不慮の死を遂げ、彼女が保管していた校正原稿が紛失するという憂き目に遭ってしまいます。

 でも、ともゑは決してくじけなかった。

<友情と不屈の精神>

 ともゑは、ニクソンの死によって失われた校正原稿を、独力で復元し、英語で読め4193CUpobbL._SY344_BO1,204,203,200_.jpgる日系人短歌集『Sounds from the Unknown (未知の響き)』として出版にこぎつけ、ニクソンへの追悼としました。一言で「復元」といっても、パソコンもワープロもない時代、それがどれほど忍耐力と知力の要る大変な作業であったのか・・・想像することすらできません・・・

 ともゑの情熱は、衰えることなく、1976年には、亡きニクソンの短歌と彼女の伝記を『Tomoshibi』という本にして、自費出版を成し遂げます! この本に感銘を受けたのが、アーカンソー州立大の教授で詩人でもあるウェズリー・ダンで、『Tomoshibi』は、彼の授業の教科書として採用されます。ともゑの友情が、短歌をひとつの文学スタイルとして最高学府に認知させたわけです。これらの出版物の収益は、さらに夫の「勾留所日記」4巻の自費出版資金にもなっていきます。

  51549-TWJGL._SL500_SX314_BO1,204,203,200_.jpg これらの短歌集にせよ、夫、大正の「抑留所日記」の編纂にせよ、どの作業も途方も無い労力と心配り、そして時間が必要です。どの仕事も、自分の功名のためではなく、短歌への愛情、夫や親友への愛情、そして後の世代へ伝えたいという不屈の熱意によって実現したものばかり。彼女の愛の大きさと、しなやかで鋼のように折れない意志に、ほんとうに心を打たれます。

 もし、私が入稿寸前に、パートナーと原稿の両方を失ってしまったら、どうしただろう?

 もし私が、朝から晩まで、家族の世話と、他のお宅の掃除に明け暮れていたら、短歌の創作だけでなく、他人の作品まで愛情をこめて、英語で編纂することなんかできただろうか?

 田名ともゑさんの愛の力は底知れないほど凄い!

  そして、映画でアキラさんが語っていた、ともゑの「英語習得」の熱意もまた、息子達への深い愛に根ざしたものでした。末息子のアキラさんをハーバード大学に遣り、4人の息子全員が立派なアメリカ市民として独立したのを見届けたともゑは、とっくに還暦を過ぎていましたが、迷わず地元の大学に入学します。(つづく) 


 Special thanks: 短歌の大意について助言してくださった Wakamiya Makiko様、ありがとうございました!

秋のトミー・フラナガン・トリビュートは11/28(土)に!

tribute _27th-2015.jpg 毎年3月と11月に開催するOverSeasの恒例ビッグ・イベント、「トミー・フラナガン・トリビュート・コンサート」、秋のトリビュート・コンサートを11月28日(土)に開催します。

 毎回、フラナガン生前の名演目をずらりと並べてお聴かせするのは、寺井尚之(p)メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)。寺井尚之は、すでにプログラムの準備に入り、皆さんにお楽しみ頂けるよう、ザイコウ、イッペイと共々、稽古を重ねる毎日です。それにしても、このトリオは、本当に稽古が大好き。本番をどうぞ楽しみにしてください!


 フラナガンが亡くなってから早14年になろうとしています。トリビュートでお聴かせする演目の数々、フラナガンのアレンジを引き継ぐ者は、ここ大阪の寺井尚之だけになってしまいました。 ピアノを初めて60年、フラナガンと出会って40余年、寺井の愛情と情熱は、色褪せるどころか、燃え盛るばかり!それに応えるように、愛器のピアノの音色も、粒立ちと輝きを一層増して、生音を聴きに来てくださるお客様を驚かせています。

 初めてのお客様も大歓迎です。ぜひデトロイト・ハードバップの真骨頂を聴いてみてくださいね!

 前売りチケットは当店にて好評発売中です!

a0107397_23132084.jpg=第27回 Tribute to Tommy Flanagan=

日時:2015年 11月28日(土) 
会場:Jazz Club OverSeas 
〒541-0052大阪市中央区安土町1-7-20、新トヤマビル1F
TEL 06-6262-3940
チケットお問い合わせ先:info@jazzclub-overseas.com

出演:寺井尚之(p)トリオ ”The Mainstem” :宮本在浩(b)、菅一平(ds)
演奏時間:7pm-/8:30pm-(入替なし)
前売りチケット3000yen(税別、座席指定)
当日 3500yen(税別、座席指定)

 

新刊紹介:「ルポ風営法改正: 踊れる国のつくりかた」

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  先日ご紹介した、長年、ダンス営業を規制してきた風営法改正関連のウエブ・ニュース、この法改正の動きを3年間に渡って内外で取材した神庭亮介さんが、今度はこの話題を一冊の本として、河出書房新社より上辞されました。

  何故政府は一般市民が「踊る」という行為を規制しようとするのか?何故、日本ではダンス・クラブが「風俗」のカテゴリーに成るのか? この法律を、クラブ経営者や利用者の多くの人が立ち上がり、改正法が成立するまでの記録です。

 本の中には、英国の「クリミナル・ジャスティス法」など、海外のクラブ事情に関するダンス規制法も詳しく紹介されていて、「NYキャバレー法」の章では、不肖当ブログも紹介してもらってます。思えば、私の人生最初の文学全集は旧河出書房版、「少年少女世界の文学」でしたから、とっても名誉に感じてます。

 ダンスと日頃無縁な私にもとっても面白く読みやすいルポルタージュです。

書名:『ルポ風営法改正 踊れる国の作り方』 著者:神庭亮介 2015年9月 河出書房新社刊
ISBN 9784309247267 (4309247261) 

全国の書店、Amazon などで好評発売中です!

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(3) 母ともゑ:しなやかな人生

daisho_tomoe_tana_berkeley_buddhist_church5.jpgカリフォルニア州バークレー仏教会にて (1941) Photo from “A Century of Gratitude and Joy”

:Courtesy of Akira Tana

  アキラ・タナの音楽に導かれて知った、米国の日本人達の苦難と再生の姿は、自分の両親が体験した色々なことと重なり合って、興味は尽きません。上の写真は、アキラさんからいただいたご両親の写真です。前列中央、黒っぽい洋装のカップルが、田名大正、ともゑ夫妻。これは太平洋戦争直前戦前、人種差別のため住む場所に困る日系青少年のために、二人が資金集めに奔走して、カリフォルニア、バークレーの仏教教会に併設した学生寮(自知寮=Jichiryo)で寮生たちと記念撮影したもののようです。

 西海岸の陽光に負けないみんなの晴れ晴れとした笑み!この場面から、わずか数カ月後に太平洋戦争が始まり、「自知寮」はおろか、仏教教会も、日本人の町もあっというまになくなった。大正は他の日系リーダーと共に検挙され拘留所へ、身重のともゑと息子達は、大正と引き離され、アリゾナ砂漠の収容所で4年以上の歳月を送りました。ともゑは収容所内で三人目の男の子を出産し、何百キロも離れた夫との文通が二人の愛をさらに強く深いものにしました。二人が交わした手紙は800通近くに上ります。大正は結核に倒れますが、心は病むどころか、家族愛によって宗教家としての新たな展望を開きます。勾留所生活と病気という二つの苦難を抱えた大正は、次世代の日系人のために法話を書き続け、それを受け取ったともゑがガリ版で印刷して同胞達に回覧しました。同じ施設に拘留された位の高い僧侶達の中には、本道を忘れて野球やギャンブルに没頭する者も多かった中、病気の大正が常に前向きで居られたのは、ともゑの手紙の力であったかも知れません。

 激動の歴史を生きたアキラ・タナの母、田名ともゑはどんな女性なのだろう?

 調べていくと、ともゑは、大正の日記の他に、何冊もの短歌集を編纂し、出版していました。子育てを終え、60歳をすぎてから英語を学び、大学から大学院に進んで修士号を取得しています。
 晩年は地元パロアルトの名士として、尊敬された田名ともゑ、この人の業績は多岐に渡っていて、もう、どこから手を付けていいかわからないほどです。

 田名ファミリーのご厚意で、近いうちに大正の「抑留所日記」は原文で読むことが出来そうですので、後でゆっくりと調べることにして、その他の彼女の半生について書いてみます。

  <自分の道を拓く人>

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Tana Family (circa ’54 or ’55): photo courtesy of Akira Tana
田名大正師を中心に、ともゑさんと膝に抱っこされている幼いアキラさんと3人の兄(Yasuto, Shibun,Chinin: 敬称略)

 田名ともゑ(1913-1991)は北海道の寺の娘、父は名僧の誉れ高く、姉妹兄弟全て仏教に仕える家系の出身で、ともゑ自身は小学校の教諭をしていました。開教使仲間で、渡米後、大正の親友となったともゑの兄、早島ダイテツ(漢字不詳)が、二人の仲を取り持ち、ともゑと大正は祝言の後すぐに、赴任地に赴きました。1938年、ともゑ25才、大正37才、カリフォルニアに着いた翌朝、大正は新妻にこう言いつけたそうです。

 「これからは自分で正しい道を見つけなくてはならない。さあ、まず手始めに、サンフランシスコまで一人で行って帰ってきなさい。」

 ともゑは夫の言葉どおり、英語が全くできないままに、初めての土地でサンフランシスコ湾を渡り町を目指し一日がかりで歩き回った。まさに”ロスト・イン・トランスレーション”!でもちゃんとシスコの町までたどり着き、夫が帰宅する夕方にはちゃんと家に戻っていた。

 このエピソードは、少年時代に田名家の子どもたちと交流し、ともゑさんに習字と短歌を教わったアーティスト、ゲイリー・スナイダー修士論文「A Profile of Tomoe Tana」で見つけたものです。困難に遭遇しても、打ち克つのではなく、受け容れて、慌てることなく、素直に努力する。そのうちに、いつの間にか新しい道が拓けている。これこそともゑ投げ!それは北海道の開拓者魂と、仏教のこころに裏打ちされた比類ない資質を象徴した話のように感じます。

<肝っ玉母さん>

 収容所を出てから半年、やっと家族の再会が叶った後、ともゑは病弱の夫を支え、4人の息子を米国市民として立派に育て上げた。

 長男 Yasutoは名門公立大学、カリフォルニア州立バークレー校卒業、軍人となり米国海軍少佐まで出世しました。(日系社会に詳しいお客様によると、少佐にまで昇進できる日系人は極めて少ないらしい。)次男、Shibunはサンホセ州立大からIBMへ、三男、Chininは、ハーバード法科大学院(ロースクール)から弁護士になった。三兄弟から10歳以上年の離れた末っ子がアキラ・タナ、彼もまた全額奨学金でハーバード大学から法科大学院を卒業していますから、どれほど秀才の兄弟なのかは私にも想像がつきます。アキラは、ほかの兄弟と同じようにエリートとして安定した生活が保証されているのに、家族の猛反対を押し切って、音楽に方向転換、名門ニューイングランド音大の打楽器科に在籍中、すでに世界的なミュージシャンと共演を重ねていました。そのあとは皆さんご存じのように、在米日本人ではなく、メジャーの檜舞台に上る日系人ミュージシャンのパイオニアとなりました。

 アキラさんの「道の拓き方」もまた、両親の影響なのかも知れません。

 それにしても、夫の大正は、宗教家として余りにも誠実な人だった。常に、己よりも他の人々の利益を優先させ、法務のお布施で家族の生活を賄うことに常にジレンマを感じる僧侶、そして病弱でもありました。4人の男の子をおなかいっぱい食べさせて、一流大学に行かせるための生活費はどうしていたのだろう?

 一家の生計を支えるために、ともゑは家政婦として働いた。

 真面目で清潔好きな日本人のハウスボーイやメイドを置くことは、ビヴァリーヒルズはもちろん、当時の米国上流家庭の一種のステータスだったそうですが、元敵国人への憎悪や人種差別もあからさまな時代、短歌や琴や習字も教えることのできる女性の適職というわけじゃない。ともえは30年近く、色んなお家の掃除をして働いていた。家の用事は深夜に済ませ、夫や子どもたちにも不自由な思いをさせないスーパー肝っ玉母さんです。この家政婦の仕事が、ともゑの短歌の業績につながっていくのだから面白い!

 子育てと家政婦の傍ら、彼女は日系人の短歌サークルを主催し、創作を続けています。ほんとに、どうやって時間を工面したのか、息子のアキラさんにも謎だったと言います。とにかくエネルギーと知性と心身の健康がなければ、そのうちのどれひとつもちゃんとできませんよね。三千年の歴史を持つ「短歌」という詩の形式は俳句よりもっと認知されるべき日本の文化だ!ともゑの夢は「短歌」の素晴らしさを日系の次世代に伝え、さらに英語のTankaとして、米国で広めることだった。

 1949年、ともゑが詠進した短歌は宮中歌会始に入選を果たします。

 その年のお題は「朝雪(あしたのゆき)」 ともゑの作品は現在も宮内庁HPで読むことが出来ます。

アメリカ合衆国カリフォルニア州 田名ともゑ
ふるさとの朝つむ雪のすがしさを加州にととせこひてやまずも

  (カリフォルニアで十年の歳月を経ても、故郷で朝に積もる雪の清々しさ、その情景が恋しくてたまらない。)

 故郷、北海道の「朝つむ雪のすがしさ」は、無垢な少女時代への憧憬かも知れない。ただ残念なことに、ともゑは宮中でこの作品の詠唱を聴くことは出来なかった。入選の通知が届いた頃には、歌会始の儀はとうに終わっていたからだ。ただ、もしちゃんと知らせが届いたとしても、日本への往復の渡航費を捻出できたかどうかは分からない。

 夫の赴任先ハワイでの2年間の生活の後、’51年、一家は再びサンフランシスコに戻り、ベイエリアの町、パロアルトの寺に落ち着きました。その間も、ともゑは家政婦として働き続けます。平安の昔、上流階級の遊びであった短歌が、米国で庶民の文化になったことを、ともゑは身を持って示した。やがて、家政婦としてともゑを呼んだ女流詩人、ルシール・ニクソン(1908-63)と運命的な出会いを果たすことになります。(つづく)

 

lucileAS20140124002490_comm.jpg Lucile Nixon はカリフォルニア州パロアルトの教育者、詩人、ともゑに短歌を師事、1956年

宮中歌会始に入選し「青い目の歌人」として日本でも大きな注目を浴びた。

  

 

 

 

 

シルバーウィーク営業します。

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 大型連休19(土)~21日(月)もOverSeasは営業します。

遠方のお客様も、ご来阪のせつはぜひOverSeasにお立ち寄りください!

9/15(火) 寺井尚之+宮本在浩(b)デュオ: Live Charge 1500yen
9/16(水)寺井尚之+宮本在浩(b)デュオ: Live Charge 1500yen
9/17(木) 寺井尚之ジャズピアノ&理論教室
9/18(金)末宗俊郎(g) トリオ with 寺井尚之(p)+坂田慶治(b): Live Charge 1800yen

9/19 (土) 寺井尚之メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums): Live Charge 2500yen
9/20(日)岩田江(as)& The Mainstem Plays BeBop: Live Charge 3000yen
9/21(月)The Mainstem Plays Standards! : Live Charge 2500yen

演奏時間:7pm-/ 8pm- / 9pm- (入れ替えはありません)

*料金はライブ・チャージにご飲食代をプラスしたものになります。(表示は税抜です)

アクセスはこちらです。

ライブ・レポート:Akira Tana at OverSeas, 2015 9/8

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左から:寺井尚之(p)、アキラ・タナ(ds)、宮本在浩(b)

 東日本大震災復興チャリティのために結成した日系人+在米邦人のスーパーバンド、「音の輪」を率いて第三回東北応援ツアーを敢行した後、関西、東京と、様々なフォーマットで連日演奏、各地で大きな感動を巻き起こしたドラムの巨匠、アキラ・タナ。

 9月8日は、OverSeasに詰めかけた沢山のアキラ・タナ・ファンのために、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)とのトリオで出演!OverSeasのライブ史に残る名演奏になりました。

 口コミで評判が広がり場内は超満員、中には遥か熊本からのお客様も。現在、外務省の招聘教員として、神戸で

rp_primary_Tana_UAA_2-24-14.jpg教鞭をとるアキラさんの愛息、Ryan さんがジャズピアノ修行中の友人達を伴って、応援にやってきました! トランペット奏者でもあるRyan Tanaさんはアジア系アメリカ人 アスリートの名鑑に載っていて、ついこの間まで、全米有数の名門校NYU(ニューヨーク大)の強豪バスケ・チームの主将として大活躍していた名選手です! 

 

 <ドラムは歌う>

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 さて、今夜の演奏曲目は、ピアニスト、寺井尚之ゆかりのデトロイト・ハードバップ、アキラさんと共演したジミー・ヒース、J.J.ジョンソン、ベニー・ゴルソンたちのオリジナル、それに緩急自在のスタンダード曲、そしてアンコールは「音の輪」に因んだ日本のメロディー。アキラさんの実力をよーく知っている寺井尚之が、一夜限りの自由闊達な即興演奏のグラウンドになるようなプログラムを虎視眈々と組み立てていました。

  過密スケジュールで約3週間、ゆっくりする間のないアキラさんの為にリハーサルは一切しません。だって、並のプレイヤーなら崩壊不可避のややこしい小節の曲もノー・プロブレムの名手ですからね。「ドラムが演奏を作る」というマイルズの言葉通り、各人にスーパープレイ続出、笑顔でプレイするアキラさんの度肝を抜いたろう、とばかりに、演奏曲に因んださまざまなリフを入れて仕掛ける寺井尚之、返す刀で悠々と続きを叩くアキラさん、倍音に満ちたフォルテッシモから、ピアニッシモの囁きまで、ダイナミクスも三位一体!子犬のようにじゃれ合っていたずらを繰り返す二人の会話は、往年の浪速のお笑い芸術、やすきよ漫才を思わせる歯切れの良さ、華麗なドラミングの最中にも、ピアノのほんとうに小さな一音もかき消されることなくクリアに聴こえてくるのがミラクル!ベテランの間に挟まれたベーシスト、宮本在浩ならではのクールな仕切りも見事で、久々に来てくださったお客様は、彼の成長ぶりに舌を巻いていました。

 今回、最も印象に残ったナンバーは、3rd Setの”It Don’t Mean a Thing (スイングしなけりゃ意味が無い)“、意表を突く超スロー・テンポでスタートして、倍ノリ⇒倍テンポ⇒4倍ノリ⇒4倍テンポから逆方向へ、次から次へのシフト・チェンジ、まるでスイング感のジェット・コースター!満員の客席がどよめきました。

akira_tana_ippei_suga98_n.jpg 一方、ドラムに一番近い席で見ているメインステムの菅一平(ds)さんの横顔は、表情のデパート。演奏テクニックとドラムの”耳”の使い方、音楽の組み立て方・・・どれほど沢山学べたことでしょう。今回一番お得だったのはイッペイさんかも・・・(左写真)

 ””Project S”や”Sassy Samba” といったヒース・ブラザーズのナンバーがコールされるだけで大拍手、それはジミー・ヒースの音楽を聴きこむお客様。ミュージシャンが多いOverSeasならでは!ということで、私もちょっぴり鼻が高いです。(下右の写真は。ヒースBros時代のアキラ・タナ)

 アンコール”どんぐりころころ”は、「リズムチェンジで演るとおもしろいんだよ~!」というアキラさんの一言からレパートリーになった曲、寺井は「こういう曲こそ、大阪ならではのヴァージョンにせないかん。」と、歌詞が大阪弁に聞こえるメロディーになるよう少し修正して音楽劇に仕立ててしまいました。”どんぐり”=宮本在浩(b)、”どじょう”=アキラ・タナ(ds)、”横で見てるおっちゃん”=寺井尚之(p)という配役で、ベースの弓が”どんぐりころころ どんぐりこ”とおごそかに歌い出すと、会場は大爆笑!テーマが終わると、ピアノのシングルトーンが真珠の粒のように転がりだして、切れのよいドラムのビートが噴出、童謡の世界が、ビバップのロマン派世界に一変!コンサートもめでたし、めでたしでした。

 最後に ”OverSeasはHome Away from Home”とアナウンスをしてくれたアキラさんに喝采は止まず。

 次回は来年の4月頃にまたOverSeasで名演奏が聴けそうです。次回もどうぞ宜しくお願い申し上げます。 

 

=演奏曲目=

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  • Bitty Ditty (Thad Jones)
  • Out of the Past (Benny Golson)
  • Epistrophy (Thelonious Monk)
  • Lament (J.J.Johnson)
  • Eclypso (Tommy Flanagan)

<2nd>

  • Beats Up  (Tommy Flanagan)
  • Beyond the BlueBird  (Tommy Flanagan)
  • For Minors Only (Jimmy Heath)
  • If You Could See Me Now (Tadd Dameron)
  • Project ‘S’ (Jimmy Heath)

<3rd>

  • Perdido (Juan Tizol, Duke Ellington)
  • It Don’t Mean a Thing (Mercer Ellington)
  • Commutation(J.J,Johnson)
  • In a Sentimental Mood (Duke Ellington)
  • A Sassy Samba (Jimmy Heath)

Encore: どんぐりころころ@大阪 version:2015 9/8

ジャズファン注目:NYキャバレー法と日本の風営法

 8/19付:朝日新聞「withnews」、ジャズ史と関わりの深い「NYキャバレー法」の歴史と、日本の”クラブ”に於けるダンスの規制についての裁判や法改正でマスコミを賑わした「風営法」を比較検討した記事が話題になっています。

 

   朝日新聞デジタル編集部の神庭さんは、風営法の取材を通じ、一般の人が”ダンス”をするという娯楽を規制するNY市の「キャバレー法」に注目、現地で綿密な取材を行った上で記事にまとめていて、”クラブ”やダンスには全く無縁な私にとっても、とても興味深い考察が行われています。

 結婚してからダンス・クラブに行ったのは20世紀、トミー・フラナガンに連れられてイースト・ヴィレッジの”CAT CLUB”に行っただけ。普段はディスコだけど、その夜は、Swing Dance Societyという団体が、メル・ルイス(ds)やジョン・ファディス(tp)といった超豪華メンバーによるビッグバンドで催したダンス・イベントだった。フラナガンは見た目通り、踊るのは嫌い。小さなテーブルに座って、プロのダンサー達が見せつけるアクロバティックなリンディ・ホップそっちのけで、バンドばっかり必死で観察してました…

SCN_0034.jpg 「NYキャバレー法」から派生した「キャバレー・カード法」は、’40年代以降、ビリー・ホリディやチャーリー・パーカー、セロニアス・モンクなど幾多の天才達の生活の糧を奪ってきた法律。人種隔離政策を背景に持つシーラカンスのようなこのキャバレー法にチャレンジを続けるNYの名弁護士、大ジャズファンでもあるポール・シェヴィニーのインタビューや、NY市政史がスカっとまとめられているのも、私たちにとっては嬉しい記事です。

 私がこのブログで紹介したJ.J.ジョンソンのキャバレー・カード裁判にも言及してくださっています。

 ジャズ史の視点からも楽しく読める記事、ぜひご一読を!

メインステムが奏でる「地中海の情景」

  デトロイト・ハードバップの名演目と季節に因んだ”旬” の名曲をお聴かせするメインステム、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)菅一平(ds)の3人が集まって、稽古に没頭してるのが、サー・ローランド・ハナの名作”Mediterranean Seascape (地中海の情景)”です。

 この作品は、”New York Jazz Quartet”時代のもの。このグループは、度々メンバーが入れ替わるのですが、ハナさん、フランク・ウエス(soprano sax)、ロン・カーター(b)、ベン・ライリー(ds)での来日コンサートで、素晴らしい演奏を聴くことができました。レコーディングは上のYoutubeで聴ける『Live in Tokyo』(CTI)と、もうひとつ、ハナさん自身がとても気に入っていたソロ・アルバム『Round Midnight』で演奏されています。今この曲をレパートリーにしている演奏家はいるのかな?

 c58315h7107.jpg情熱のロマン派、ハナさんのオリジナル曲には、いつも物語があります。この「地中海の情景」はアフリカ、中近東、ヨーロッパに囲まれた地中海のハイブリッドな文化圏を音楽で俯瞰する趣き、アフリカのリズム、中近東のエキゾチックな旋律、クラシカルなハーモニー、曲の中に様々な民族の文化と歴史が走馬灯のように現れては消えていき、ジャズに通じる海路を思わせます。イントロはアルゴー船の櫂の音?それともローマ軍の足音か、ハナさんならではの壮大な歴史ロマンが聴こえてきます。

 もう随分前になりますが、OverSeasでコンサートを終え、ディナーを楽しんだ後のハナさんのために、寺井尚之が鷲見和広さん(b)とデュオでこの曲を演奏し、大変喜んでもらったことがあります。あれからもう15年以上の歳月が経ちました・・・

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 ハナさんとトミー・フラナガンは兄弟みたいに仲良しで、弟分のハナさんは、寺井尚之を甥っ子みたいに可愛がってくれました。

 そんなハナさんを偲ぶ「地中海の情景」、ぜひご一緒に聴いてみませんか?

「一般に、音楽は色々なカテゴリーに分割して捉えられている。しかし、私は違う。私にとって音楽とは食物と同じだ。これはリンゴだ、梨だと、いちいち区別をする必要はない。」-サー・ローランド・ハナ(1932-2002)

もしサー・ローランド・ハナ(p)をご存じない方は、このブログに色々と書いています。

戦争とリトル・トーキョーのチャーリー・パーカー

 暑中お見舞い申し上げます。

 下町の市場に買い出しに行くと、商店街のあちこちから「大阪大空襲」「学童疎開」や「学徒動員」といった言葉が聞こえてくる暑い夏、否応なしに青春を戦争と過ごした両親や、さらに祖父母の世代の苦労を想います。

  第二次大戦以前、米国に出かけていった日系移民の方々の主な出身地は、広島、山口、岡山などの中国地方、長崎、佐賀、熊本などの九州、そして和歌山だった。一世の子弟達は、れっきとした米国市民であったのに、原爆をわざわざ広島と長崎に投下したのは何故だったのだろう?

 <キャバレー税とBebopの関係>

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 さて、数年前、ウォール・ストリート・ジャーナル電子版に、私達がこよなく愛するビバップ芸術は、第二次大戦の産pyramid.ai.jpg物、つまり「キャバレー税」という戦争税の産物であるという説が掲載されていました。

 戦前、ジャズの本道として人気を博したスイング・ジャズはビッグバンド形式のダンス音楽として発展した。楽団は全米津々浦々、星の数ほど存在し、「National Band (全米的な名楽団)」「Territory Band (米国の決まった地方を巡業する楽団)」「Local Band(地元で活動する楽団)」というサッカーや野球のリーグに似たピラミッド型の構成の住み分けが確立し、各層がそれなりの安定収入を確保していた。演奏家は様々な土地を巡りながら、その土地の音楽を吸収し、上の階層を目指し切磋琢磨することによって、ジャズ音楽は有機的な発展を続けたわけです。

 ところが、第二次大戦が勃発すると、ガソリンやタイヤは配給制となり、巡業の要であるバスの調達が困難になります。同時に若手ミュージシャンは次々と徴兵されていった。さらに1944年、「キャバレー税」という連邦税の施行はビッグバンド界へのとどめの一撃となったのです。

 「キャバレー税」は、飲食を含むダンスホールの勘定書の20%。課税対象は、ステージのあるなしに関係なく、とにかくダンスをさせる店、そして、歌を聴かせる店だ。戦争特需の好景気とはいえ、20%という重税で全米のダンスホールは閑古鳥、ビッグバンドを支える営業システムは崩壊してしまったのです。ダンス音楽の代わりに台頭したのが、ダンスせずに「聴く」ことを目的としたスモール・コンボ、しかも歌手のいないインストルメンタル・ジャズ、つまりビバップだったのです。強烈な個性と洗練、ハーレムのヒップな香り一杯の音楽とファッション、ミュージシャンが大きく注目を浴びるようになりました。

charlie_parkerdizzy_gillespie.jpg バップ時代の立役者の一人、マックス・ローチ(ds)は語る。

「誰かが席を立ってダンスをすれば、勘定書きに20%の税金がプラスされた。誰かが立ち上がって歌ったら、また20%。…しかし器楽奏者の発展には素晴らしい時期だったな・・・」
 

 一方で、ビバップは、レコーディング禁止令のおかげで、最良の録音が少ないと言われています。

 できることなら、タイムマシンに乗って’40年代初期にタイムスリップして、52丁目でチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーのライブを聴きに行きたいなあ!

 ところがどっこい、もしタイムマシンが出来たって、時は太平洋戦争中。日本人がNYの街を闊歩できるようになるのは、’50年代まで待たなければ・・・

<リトル・トーキョーのチャーリー・パーカー> 

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 終戦直後、1945年12月、NYジャズシーンの寵児となったチャーリー・パーカー-ディジー・ガレスピー・バンドは本拠地NYの52丁目を離れ、西海岸LA、ハリウッドのど真ん中にある有名クラブ、《Billy Berg’s(ビリー・バーグス)》に8週間出演した。「ビバップ旋風」が西に!地元のミュージシャン達は熱狂したものの、輝く太陽とパームツリーと夜間外出禁止令・・・西の文化は、東のNYとはずいぶん違っていた、というか、遅れていた。結局、娯楽性が少ない先鋭的な黒人音楽は、ハリウッドのリッチな娯楽嗜好と合わず興行は大コケになった。麻薬の調達が困難なために、パーカーが度重なるすっぽかしをやらかしたのも火に油。やっとギグを終え、NYに帰る飛行機に、パーカーの姿はなかった。どうやら飛行機代は、いつのまにかクスリに替わっていたらしい…ディジー・ガレスピーの忍耐もジ・エンド。ジャズ史上最高の名コンビは、袂を分かつことになります。

 パーカーにとっては住み難い土地柄であったはずなのに、彼はそのまま居残って活動を続け、心身ともにボロボロになり、滞在ホテルでボヤ騒ぎ、ロビーに全裸で現れて、カマリロ病院送りになります。この悲劇の舞台がLAの日本人街、リトル・トーキョーであったことは、余り知られていません。でもなぜリトル・トーキョーなんでしょう?

<戦時敵性外国人強制収容>

Instructions_to_japanese.png  1941年12月、日本海軍による真珠湾攻撃によって太平洋戦争が起こり、翌42年2月、フランクリン・ルーズベルトは大統領令9066号を発令。「特定地域を軍の管理下に置く」という法令の元に、敵性外国人である日系人のほとんどが、「保護」の名目の元、家も財産も放棄させられ、家族離散、コロラドやアリゾナ砂漠など人里離れた辺境地域にある粗末な強制収容所に移送された。その数12万人!鉄条網と監視兵に囲まれた劣悪な環境の中、ある者は、日系人の米国に対する忠誠の証に志願兵として前線に赴き、ある者は日本に引き揚げた。広島で被曝した日系米人の数は3000人に上ると言われています。

 強制収容は最長4年に及び、戦争が終わると収容所は閉鎖、日系人は市民権を剥奪され、着の身着のままで、「解放」された。そこから、元の生活に戻るまで、日系の方々が、どれほどの時間と労力を費やされたのか、想像もつきません。チャーリー・パーカーの滞在した町は日本人のいないリトル・トーキョーだったんです。

<リトル・トーキョー/ブロンズヴィル>

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  元来、ロスアンジェルスは、日系人や黒人といった「特定」の集団の住居所有を制限する居住隔離の町であり、リトル・トーキョーもまた、日系人に特化した人種隔離の町であったそうです。第二次大戦中、戦争特需の好景気に湧くLAには、南部から多くの黒人労働者が流入してきました。戦前から、リトル・トーキョーの南方に位置する、セントラル地区、ワッツ地区が黒人の居住地域として割り当てられていましたが、黒人人口の爆発的な増加で、従shepps-ad-1-31-46.jpg来の地区には収まりきれず、必然的に、日系人が退去させられゴーストタウンとなったリトル・トーキョーの空き家を急ごしらえの生活の場とし、瞬く間に「ブロンズヴィル」という名前の黒人の町に変貌します。

 「ブロンズヴィル」は、治安が悪く、不衛生なスラム街であったと言われる一方、24時間体制のシフトで働く黒人労働者が溢れる町には「ブレックファスト・クラブ」と称し、朝食を提供するという建前で、深夜営業をする非合法クラブが乱立し、ジャズやダンスの娯楽の殿堂として活況を呈します。中でも最も有名だったのは、パーカー-ガレスピーをLAに招聘したkawafuku-menu-1_jpg_515x515_detail_q85.jpg張本人、ビリー・バーグが出資した《Shepp’s Playhouse》で、《川福》という日本料理店であった場所にオープンしたクラブ。コールマン・ホーキンスやTボーン・ウォーカーといった人気ミュージシャンを出演させ、ハリウッドからジュディー・ガーランドといったセレブが通うほど繁盛した。 

 <ザ・フィナーレ>

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 一方、チャーリー・パーカーの出演場所は《The Finale》というクラブ、1944年にオープンしてから、度々経営者が代り、神出鬼没で、店の住所は転々とした。モグリ営業であったことは明らかですが、チャーリー・パーカーは1946年3月ころからハワード・マギー(tp)のバンドに飛び入りし、やがて20才のマイルズ・デイヴィス、ジョー・オーバニー(p)、アート・ファーマーの双子の兄弟アディソン・ファーマー(b)、チャック・トンプソン(ds)とバンドを組んで出演。おかげで《The Finale》はバップの聖地の様相を呈したそうです。『Dilal』というマイナー・レーベルを起こしたばかりのロス・ラッセルは、ここに足繁く通って録音契約を取り付け、演奏の模様はLAやパサデナのラジオ局が中継放送していた。怪しげな『Charlie Parker at the Finale Club and More』というCDはエアチェック盤ですね。

 バードの出演当時、実質的な経営者は兄弟分のハワード・マギーであったと言われています。上の写真でサングラスをかけたアルト奏者がバードです。

 その当時の《The Finale》の場所は、日本文化協会のビルの一室にあり、入り口はOverSeasの裏口のようなビルの廊下にあった。ライブは午前一時より、もとより「ブレックファスト・クラブ」にリカー・ライセンスなどないので、客は酒のボトルを持ち込んで、トニックやソーダや氷を店で買うシステムだった。 

 

 1st_and_San_Pedro.jpg7月29日、『Dial』の録音セッションでLover Manの演奏中、バードの心身のバランスはとうとう限界点に達し、ヒステリー症状に陥りました。

 数時間後、心神喪失のチャーリー・パーカーは、滞在ホテルのロビーを全裸で徘徊し、それどころかタバコの火の不始末で火事を起こし、大騒ぎになり、カマリロ病院に収容されることになります。

 そのホテルは、サンペドロ・ストリートと1st Avenueの交差点にあった「シヴィック・ホテル」、当時、巡業した多くのミュージシャンの滞在地であったと言われていますが、ここも元は「ミヤコホテル」として、リトル・トーキョーを代表する一流ホテルだったのです。

  8週間のはずのLAの滞在は、バードにとって地獄の14ヶ月となったのでした。

 一方、戦後この街に帰還した日系の方々が、それまでブロンズヴィルとして住み着いた黒人コミュニティとの協調と軋轢を繰り返しながら、リトル・トーキョーを再建するまでには、さらに何年もの歳月を要することになります。

 日本の経済白書に「もはや戦後ではない」という文言が入ったのは1956年、米国政府が日系人に対する非人道的な強制収容についての謝罪と倍賞がなされたのは、1980年代以降のことです。 

参考資料:How Taxes And Moving Changed The Sound Of Jazz
 
多人種都市ロスアンジェルスと環太平洋の想像力/南川文里
Little Tokyo / Bronzeville, Los Angeles, California / 日系アメリカ人資料館「伝承」
Memories of Bronzeville, a Forgotten Downtown Era 
Boronzeville, Little Tokyo, Los Angels 
Bronzeville Gypsy: How Charlie Parker lit up Little Tokyo 
Azusa Street to Boronzeville, Black History of Little Tokyo 

Miles: The Autobiography / Miles Davis, Quincy Troup (Simon and Schuster) Courtesy of Michiharu Saotome
Swing to Bop / Ira Gitler (Oxford University Press)