英国の”ジャズ・ジャーナル”誌2018年1月号に掲載されたアキラ・タナ・インタビューの日本語訳です。心優しき巨匠、アキラ・タナは、世界中、色んな人たちに愛されていることがうかがい知れる内容です。(インタビュアー:ランディ・スミス)

ソニー・ロリンズとの共演について: 「この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ…だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるんだから・・・

「アキラ・タナはとてつもない才能のミュージシャンだ。私を含め、仲間たちから尊敬されている。…礼儀正しく素晴らしい人物で、長年、家族ぐるみで親しく付き合っているよ。」-この賛辞は、当時89才のジミー・ヒースが、”ヒース・ブラザース”時代のアキラ・タナについて、E-mailで寄せてくれたコメントの抜粋だ。

ベテラン・ピアニスト、ジュニア・マンス(1928-2021)も、同じ質問に対して、以下のように明言する。「アキラは実に凄いドラマーだ。彼自身も最高だし、どんな最高のミュージシャンたちと一緒に演っても、しっかりタイム・キープができる名手だ。」
こういった発言からも、多くのミュージシャンたちが、ライヴやレコーディング・セッションにアキラを好んで使う理由がお分かりになるだろう。彼と共演した大物ミュージシャンのごく一部を挙げても、アート・ファーマー、アル・コーン、ズート・シムス、ソニー・ロリンズ、ディジー・ガレスピー、ジム・ホール、ジョニー・ハートマン、ジミー・ロウルズ、ケニー・バレル、ジャッキー・バイアード、クラウディオ・ロディッティ、レギュラーとしては、前述のザ・ヒース・ブラザーズ、パキート・デリヴェラ、アート・ファーマー+ベニー・ゴルソン・ジャズテット、ジェームズ・ムーディなどが続く。また、ベーシスト、ルーファス・リードとは”タナリード”を結成し、’90年代に、ほぼ9年間に渡りツアーやレコーディングを行なった。

近年のアキラ・タナの活動として“音の輪(Otonowa)”というグループがある。”Otonowa”は日本語で “sound circle”という意味だ。グループ結成のきっかけは、2011年に起こった東日本大震災だ。アキラと志を同じくするバンド・メンバーは、アート・ヒラハラ(p)、マサル・コガ(reeds)、ノリユキ・ケン・オカダ(b)である。”音の輪”は、同名タイトルのアルバムをリリース、日本ゆかりのメロディーを新鮮なジャズ・ヴァージョンに甦らせ、震災の被害にあった東北地方の慈善ツアーを何度も行なっている。
アキラ・タナが、このような活動に至るまでに、どんな経緯があったのだろう?それを解明すべく、筆者はスカイプ・インタビューを敢行。以下は、好感を抱かずにはいられない魅力あふれるジャズ・アーティスト、アキラ・タナとの楽しい邂逅のハイライトである。
インタビューを始めるにあたって、私は彼が1952年3月15日、カリフォルニア州サンホセ生まれであることを確認し、日系移民である両親の影響について尋ねてみた。
アキラ・タナ-「僕の母親は歌人で琴とピアノを弾いていました。だから、”芸術”という意味では、多分母の影響があったのだろうと思います。」
アキラにとって、生まれて初めての打楽器体験は、この母がレンタルしてくれたスネア・ドラムだった。また、彼はピアノのレッスンを受け、トランペットも少々演奏する。早くからロック・バンドでドラムの演奏を始め、『Miles Smiles/マイルス・デイヴィス』のLPを手に入れたのがきっかけで、ジャズへの興味がわいた。
「多分8年生か9年生の頃(日本の教育制度では中2か中3)、ロック・バンドをやっていたんだ。バンド仲間は皆2-3才年上でね、メンバーの一人が、このレコードを好きじゃないからと言って、僕に1ドルで売ってくれた。マイルス・デイヴィスは聞いたことがあったので興味が湧いた。何をやってるのかさっぱり理解できなかったから。でも、そのレコードのサウンドに圧倒されてしまったんだ!」
’70年代初め、ボストンのハーバード大在学中、ドラマー、ビリー・ハートと親交を持ったことから、タナのジャズ・パーカッションへの興味が生まれた。ハートは、バークリー音楽院で教えるベテラン・ドラマー、アラン・ドウソンに師事するように勧められ、1年半、ドーソンの元でしっかり研鑽を積んだ。彼から叩き込まれたテクニックと練習方法は、現在に至るまで、自身と後進の指導に活用し続けている。
1974年、ハーバード大学を卒業したタナは、ニューイングランド音楽院に入学、クラシック音楽の打楽器に関する基礎知識をしっかり身につけ、同時に、出来る限りギグに勤しんだ。
「僕は、管弦楽の打楽器の学習に時間の大部分を費やし、その傍ら、生活費を稼ぐためにありとあらゆるギグをやった。ボストンの”コンバット・ゾーン”と呼ばれる赤線地帯でストリップの伴奏もやったよ。ストリップ小屋ではオルガン・トリオを使っていたから。」

’70年代半ばから終わりにかけてのボストン時代、アキラはドラマーのキース・コープランドと親交を機に、ジャズの名手たちと単発での共演が始まる。共演者の中には、名歌手、ヘレン・ヒュームズ(写真)が居た。
タナは当時を回想する。-「彼(コープランド)は(引き受けていたのに)出演の都合がつかなくなったギグは、どんな仕事でも、僕に代役を回してくれた。その中の一本がヘレン・ヒュームズ(vo)で、バックがメジャー・ホリー(b)、ジェラルド・ウィギンズ(p)というメンバーだった。」

他にも、ソニー・スティット(ts.as)やミルト・ジャクソン(vib)といった大物達にリズムを提供する仕事があった。その中でもスティット(写真)との1週間に渡るギグは特に思い出が深い。
「ソニー・スティット!いつも彼はかなり酔っ払っていた。ベーシスト のジョン・ネヴスはソニーと同世代だが、ピアノのジェームズ・ウィリアムズと僕は、ずっと若造だった。そのせいかもしれないが、ソニーは演奏中に、何度も僕とジェームズの方へ振り返って、怒鳴りつけた。当然だけど、震え上がったよ。まず彼の才能のすごさ、そして彼の振る舞いにね。でも、ジョン・ネヴスはさすがに、そういう時はどうすればいいかを知っていた。『つけ込まれたら、やり返せ!』だ。それでソニーにこう言ってくれた。『ギャーギャー言わずに、プレイしろ!』するとソニーは彼の言う通り怒鳴るのをやめて、前を向いてひたすらプレイした。」
ボストン時代のアキラにとって最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。 (後編に続く)