Live at Cafe Bohemia / J.J. Johnson 5 (その2)

Bohemia Swings Again with Dick Katz / カッツさんとカフェ・ボヘミアに行こう!
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 J.J.ジョンソン・クインテット時代、トミー・フラナガンがバリバリ弾いていた“カフェ・ボヘミア”を探索する私は、ダイアナの助言どおり、翌晩、“NYの街でふと出会う不思議な紳士”、ディック・カッツ(p)さんに電話をすることにした。
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’89 NY リンカーンセンター・ライブラリーで行われた、NPRのラジオ番組“Piano Jazz”のパーティ、ご機嫌のトミーとカッツさん。トミーがゲスト出演した当番組のインタビューは、講座本Ⅲの付録になってます。ご一読を。
 前回も書いたように、NYの街の至る所でフラナガン夫妻と私達が連れ立って歩いていると、不思議なことにカッツさんと遭遇する。
 一度、リンカーン・センターの前でばったり会った時、トミーが「ダイアナと一緒に来た。」と言うと、カッツさんは眉ひとつ動かさず、トボけたジョークで切り返した。「ふーん、そうかい。私は一人でちゃんと来れたけどな。」その時のトミーの鼻を膨らませたポーカー・フェイスはグルーチョ・マルクスそっくり!カッツさんとトミーはとても仲良しだったのだ。
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古典的コメディー・スター、マルクス兄弟はトミーのお気に入り、グルーチョの物真似も上手だったし、映画音楽をアドリブに引用したりしていた。
 カッツさんは日本のジャズ・メディアにはほとんど登場しないけど、ジャズ界ではかなりすごい人なのです。
’24年生まれ、兵役後、ジュリアード音楽院で、トミーのアイドルでもあるテディ・ウイルソン(p)に師事、パリで活動後、’54年から’55年まで、ジャズ界を風靡したトロンボーン・コンビ“J&カイ”バンドのレギュラー・ピアニストとして活動する傍ら、オスカー・ペティフォード(b)やケニー・ド-ハム(tp)などバップの親分達や、大姉御カーメン・マクレエ(vo)に可愛がられ、キャリアを重ねました。60年代には、オリン・キープニュースとマイルストーン・レコードを設立し、プロデューサーとしても活躍、ライターとしては、深い音楽知識と文章力で、モザイク・レコードなど、名ライナーノートを著しグラミー賞にノミネートされ、ジャズの伝統を伝えるAJO(アメリカン・ジャズOrch.)の編曲などを手がける一方、本業のピアニストとして’96年に、レザヴォアから2枚のCDをリリース、特にピアノトリオの“3 Way Play”はカッツさんのテイストが良く判る名盤です。80歳を超えた今も、講演や執筆、作編曲に忙しいらしい…

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 午前2時、ミッドタウン・イーストにあるカッツさんの仕事場に電話をかけると、すぐに本人が出てきた。
「ごぶさたしています…カッツさん、あの…私、日本の大阪という土地のOverSeasのですね、タマエといいます。以前、テディ・ウイルソンのジャズ講座の時には、ヒサユキに本や資料を沢山送ってくださってありがとうござ…」
「ハーイ!タマエじゃないか!ヒサユキは元気かね?こっちは家内のジョーンも皆元気だよ。」
 カッツさんは、ちゃんと覚えていてくれた。それどころか、驚きもしない。私が電話して来る事をちゃんと知っていたみたいだ…。ダイアナが前もって彼に根回しなんてする筈はない。道でばったり会ったなら別だけど…。
 「カフェ・ボヘミアの事を知りたくて、カッツさんから現場の状況を聞きたい。」と言うと、カッツさんは、「どうかディックと呼んでくれ。」と言ってから、前もって原稿があったみたいに理路整然と、それに、店の匂いまで漂うほど活き活きと、当時の様子を語ってくれた。
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トミーが亡くなった後の寂しいNY、一緒に夕食をしてから埠頭までドライブした寒い夜。
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 トミーは、確か1956年にデトロイトからNYに出て来た、すぐに色んな店でバリバリ仕事をしていたよ。ボヘミアではもっぱらJ.J.ジョンソンと演っていた。あの頃からトミーは実にいいピアノを弾いたね… 彼のピアノ、私は大好きだったなあ…。
 私はカフェ・ボヘミアで、’56年から、ジョー・ジョーンズ(ds)オスカー・ペティフォード(b)とハウス・リズム・セクションを組んでいた。 文字通り、夢のようなリズム・チームだったよ。J.J.ジョンソンは、J&カイのコンビ時代(’54-’55)は私がレギュラーピアニストだったんだが、’55年に二人がコンビ解消をしてから、JJが、私をトミー・フラナガンと入れ替えたんだ。
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J&KAIは一世を風靡したトロンボーン・チーム。左がカイ・ウィンディング(ケヴィン・スペイシーというハリウッドの役者に似てるね。)右:J.J.ジョンソン 
 ボヘミアは多分55年ー58年頃まで営業していたのではないかな… イタリア系のイカツいギャングみたいな連中が経営していた。本物のマフィアかどうかは知らないがね。(マイルス・デイヴィス5がボヘミアから中継したエア・チェック盤で、『ボヘミアの店主、誰からも愛される男、ジミー・ジァロフォーロ』と司会者が紹介している。)ギャラの支払いが悪くてね、オスカーは連中と派手にもめていたよ。あの気性だからな。ハハハ。
 広さ? そんなに広い店ではなかったよ。店の奥に小さなステージがあり、バーが左手、テーブル席が少しあるようなところだった。場所がウエスト・ヴィレッジだし、決してゴージャスなクラブではないが、NYのトップクラスのライブを聴かせていた。雰囲気はアッパー・イーストサイドの“エンバース”と対照的な感じだったな。“エンバース”は客層がリッチで、どちらかと言えば、最高のステーキが音楽より売り物だったが、ボヘミアは飲み物しかなくて音楽主体だった。(トミー・フラナガンはトロンボーンのタイリー・グレンと“エンバース”に頻繁に出演していた。)
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“ボヘミア”があった場所で、現在営業中のバロウ・ストリート・エールハウス:ディックの言うとおり入って左手にバーがある。同じカウンターを使っているのかな?
 
 “バードランド”? あそこは、言わばメジャーリーグみたいなところさ。有名だから世界中、色んなところから客が集まった。一方、ボヘミアは地元NYのジャズファンが聴きに来る渋い店だった。(カッツさんは“バードランド”にはチャーリー・パーカーの対バンで出演していたことがある。)
 
 ピアノはね、開店当時は小さなスピネット(箱型ピアノ)しかなかったが、しばらくして改装しグランドピアノが入ったよ。(’57新年のことだ。)
 (珠)ディック、でもカヴァー・チャージはいくらかはご存知ないでしょ?
 チャージ? ハハハ、ミュージシャンでカバーチャージがいくらか知っている賢い奴なんで絶対にいないさ。アイラ・ギトラーかフィル・シャープ(どちらもジャズ評論家)の電話番号を教えてあげるから、彼らに聞くといいよ。え?個人的に知らないって?そんなの構わんさ。私がちゃんと電話をしておいてあげるから。ヒサユキと君がトミーに心酔し、クラブ経営をしてるって言ったら、喜んで何でも力になってくれるはずさ。彼らはそういう事の専門家だからね。
 だが、一度カーメン・マクレエの伴奏をしている時に彼女の友達が客席にいたので、一緒にテーブルに座ったら、『SAVE $1.50 COVER CHARGE』というカードがあったから、多分それ位かなあ…
 (珠)ディック、J.J.ジョンソンは、どんなリーダーだったの? 
 
 リーダーとしてはね、完璧な人だった。
 ベニー・カーター(as,tp,作編曲家)に会ったことはある? 私はね、ベニーのレギュラーだったことが何度もあるんだ!(ディックはちょっと自慢気に、咳払いしてから、後を続けた。)ベニーは正真正銘の完璧なリーダーだった。威厳があって堂々として、汚い言葉なんか決して使わない。サイドメンへの指示も丁寧で、「こうしてくれますか?:Will you please…?」と必ず敬語だった。絶対に「こうしろ!ああしろ!」なんて命令口調はなかった。
それだけでなく、彼は自分の音楽の隅から隅まで理解していて、自分のすべきこと、メンバーに要求すべきことを、ちゃんと把握し、適切な指示のできる人だった。J.J.ジョンソンは16才くらいの小僧の時にカーターの楽団で修行して、彼の帝王学をつぶさに学んだんだと私は推測している。ジョン・ルイス(p)も同様に、ベニー・カーターからリーダーシップの何たるかを学んだ人間の一人だよ。
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“ザ・キング”ベニー・カーターはクリントン大統領から勲章を授与された。
 そうだね、君の言うようにJJは完璧主義者だったよ。彼の自殺はショックだった。(J.J.ジョンソンは’01に銃で命を絶った。一説に癌の苦しみに耐えられなかったと言われている。)それを彼の完璧主義のせいだと言う人は多いが、私にはわからんな…
 私がボヘミアで仕えたもう一人のリーダー、パパ・ジョー・ジョーンズ(ds)は、JJと正反対、マッドでワイルドなバンドリーダーだった。彼は物凄くクレイジーでマッチョな天才だったよ。え?さぞ一緒に仕事するのが難しかったろうって? NO,N0!ワイルドな人に限って、自分の気に入った相手にはとことん良くしてくれるもんさ。私はあんなにやりやすい人はなかったぞ…
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風が吹くようにようにドラムを叩いた巨匠、パパ・ジョー、背後左はアート・ブレイキー、右はエルヴィン・ジョーンズ
(珠)OPとパパ・ジョーとディックが、毎晩色んなプレイヤーと演奏するなんて、さぞ凄かったでしょうね!私もボヘミアに通って聴いてみたかったなあ!本当にダイアナがうらやましい!!
ああ、まったくだ、私だって出来るならもう一度演りたいよ。…
 … 時計を見ると午前3時をとうに廻っていた。カッツさんは、これ以外にも、ここ数ヶ月のジャズ講座に登場するラッキー・トンプソンの面白い逸話など色々な話をしてくれたけど、それは次回の講座をお楽しみに!
 ダイアナは物凄く寂しがっているから、ぜひ近いうちにヒサユキとNYに来なさい。そう言ってカッツさんは電話を切った。
 あの頃、あの街で、J.J.ジョンソンやオスカー・ペティフォード、キャノンボール、マイルス、キラ星の様なスター達と同じバンドスタンドでプレイしたカッツさんは、瞬く間に、80過ぎのおじいさんから、意気揚々とした若きモダン・ジャズの王子に変身して、真夜中の日本から、50年代のグリニッジ・ヴィレッジへ、紫煙とジンの香りが漂うカフェ・ボヘミアへと、時空を超ええた旅に連れて行ってくれた。
 受話器の前で私は密かに確信する。
カッツさんは魔法でおじいさんに変えられた王子じゃない、魔法使いはカッツさん自身だったんだ。

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さて、来週はバップのサムライ、ATことアーサー・テイラーが主役、ハーレムやグリニッジ・ヴィレッジで、私が垣間見たATの素顔を紹介します。CU
 
 

「Live at Cafe Bohemia / J.J. Johnson 5 (その2)」への7件のフィードバック

  1. カフェ・ボヘミアを尋ねるのは私たちがモカンボの場所を偲んで横浜伊勢佐木町を歩くのを数万倍スケール・アップしたので楽しいです。

  2. ヨコハマは、ジャズの旧跡がたくさんありますね。
    大阪の町には、私がガキンチョの時、ミナミに「デューク」という名店があったけど、その辺りを散策しても、ジャズの香りは・・・あまり漂ってません・・・

  3. コメントをいただき、
    ありがとうございます。
    jazzはずぶの素人ですが,
    学生時代に、
    キースジャレットのピアノに熱中していた頃がありました。
    最近、
    郡上八幡のお店にて、
    jazzライブをやっているのを知り、
    ちょっとだけ覗いてきました。
    「Jazzyに耽る夜」
    http://blog.so-net.ne.jp/takagakigumi/2007-08-14-29

  4. DICK KATZはただ一度LEE KONITZのバンドで来日していて、東京の郵便貯金ホールと都市センターホールの2回聴きました。
    メンバーはコニッツの他、Marshal Brown(vtb)、Katz(p)、Michael Moore(b),Jimmy Madison(ds)でしたが、どちらのコンサートも客席がすきすきで、ステージからコニッツが「もっと前で聞いてください。それともこちらがそっちへ出向いて演奏しましょうか?」と行っていましたが、これは一般的に人気の薄かったコニッツの常套ジョークだったのでしょう。
    両夜とも最も印象に残っているのがコニッツとベース、ドラムスだけで演奏された”I REMENBER YOU”で昔日のコニッツの素晴らしさを垣間見た思いがしましたが,これがトリオの編成であったのは皮肉でした。Katzの風貌は大学教授風で、そのプレーも品のよいものでした。リザヴォアから発売中のCDもとても良いですね。

  5.  上不さま、コメントありがとうございました。
     カッツさんは、この日本ツアーがとっても楽しかったそうです。大阪のリーガロイヤルの喫茶ラウンジで、キモノの女性に抹茶を立ててもらって感動したと言ってました。
     今回電話でお話させてもらった時、’50年代にコニッツのバンドに誘われたのだが、その時には断ったそうです。 「僕は4ビートでスイングするのが好きなんでな。」と笑っていました。

  6. 先ほどベーシスト鷲見さんをフューチャーした愛すべきバースデーライブを楽しんできました。同行した娘には気品のある演奏ってこのような演奏なのですと言い伝えたのです。
    キャットマンという曲を聞かせていただきましたが、カッツというとあのドイツワインの黒猫のラベルを思い出すのは私だけでありますまい。
    今回も古い話になりますが、ディックカッツ氏の演奏を聴く機会に出会ったのです。場所はイーストビレッジにある伝道をするような建物で、緞帳もないシンプルなホールでした。確かクーパーユニオンという建物です。たまたまトニーべネットが出るという情報を聞いて、お昼間にチケットを買いに行き、ひと寝入りしてからコンサートに参加しました。バンドはオールアメリカンジャズオーケストラと言い、ジョンルイスが主宰していたビッグバンドなのです。幸か不幸かルイス氏はMJQのツアーで日本に行っていて、替わりディックカッツさんがリーダー兼ピアニストを勤めていたのです。まさにラッキー。
    この日のレパートリーはフレッチャーヘンダーソンやサイ・オリバーがトミードーシーにアレンジしたのスコアーを忠実になぞった懐かしい演奏でした。ドボルザークのユモレスクも演奏されたと記憶しています。カッツ氏のほかフランク・ウエス、ジミー・ネッパー、ケニーワシントンなど、私の知っている?(聞いたことのあるミュージシャンはそれだけだったかも知れませんが・・・)セカンドステージは御大トニーベネットんの登場、リトルイタリーに近いホールでの想い出のサンフランシスコの快演は大いに盛り上がった事いうまでもありません。

  7.  ジャックフロストさま、ジャズ好きなお嬢様と、はるばる摩周湖からお越しくださって、今夜のライブも歴史的な思い出の夜になりました。
     ディック・カッツさんや、ダイアナ未亡人に、ぜひMr. フロストのことを伝えます。
     もっとゆくりお話を聴きたかったのですが、ばたばたしていて、叶わず残念です。
     また、大阪に来られるときは、ぜひお立ち寄りくださいませ。寺井尚之ともども、ぜひお待ち申し上げます!!

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