トリビュート・コンサート近し。
3月に入るとピアノがやたらに良く鳴って、サウンドミキサーを先月と同じ設定にしていると、ハウリングが起こるという不思議な現象が現れています。
トミー・フラナガンのコンサートを一度でも聴いたことのある方なら、よくお解かりだと思いますが、そののプレイは、いつでも起承転結があり、落語のオチのようなものさえ付いていて、その時わからなくても、3日後にハタと気づいて大笑いすることすらありました。
片耳だけで心地よく聴くうちにフェイドアウトしてしまうような、ぬるい演奏は聴いた事がありません!ジェットコースターみたいに山あり谷あり、しっかり掴まっていないと、翻弄されて振り落とされそうになる、スリルに満ちた音楽でした!
ソフト・タッチの囁きから、怒涛のように、クライマックスへとワープしていくフラナガンの名人芸を回想する時、ある思い出が心をよぎります。それが音楽と関係があることなのか?私だけの無理な「関連付け」なのか・・・自分でも良く判らないのですが、皆さんにお話してみようと思います。
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殆どのインタビューや書物では、トミー・フラナガンを、”物静かな巨匠””温厚な紳士”として紹介しています。そのとおりで、私も公の席で、トミーが大声を出したり、人に文句を言ったのを見たことがありません。子供の頃から、すごく無口で、トミーの両親は、「この子は、ちゃんとものを言うようになるだろうか」と心配したほどだったそうです。
だけど本当は、誰よりも気性の激しい人だったのではないかしら? 自分の感情が一旦爆発すれば、核爆弾のように、周囲に被害が及ぶのと判っていて、常にポーカー・フェイスを装っていたのではないかと、思えてならないのです。
それは、’80年代半ば、初めてNYのフラナガン宅に招待されたときのことです。寺井と私の他に、トミーと親しいマーシャル・ソラールの紹介で、フランス人のエリート・ピアニストの女の子達が来ていて、昼から夕食まで一緒に楽しく過ごしました。やがてマドモアゼル達が帰った頃には、とっくに10時を回っていました。
ロイヤルブルーに統一された薄暗い居間に私達4人だけ、コニャックや、フランスのきつい食後酒を飲みながら、寺井がピアノを弾いたり、トミーにピアノを聴かせてもらったり、それから夫妻に、色んな話をしてもらいました。 フラナガン・トリオの色んなメンバー達についてどう感じているか? トミーの若い頃の話、デトロイトの親類や、娘さんたちや息子さんの話、そしていよいよ話題はビバップへと移り、トミーが高校時代にチャーリー・パーカーと共演した喜びを語ってくれました。今から思えば、寺井が受けた最初で最高の「ジャズ講座」であったかも知れません。するとダイアナが、「高校生がバードと共演するというのが、どれほど凄いことか!バッパー達が街を歩くとどれほどの人だかりになったか!」と詳しく補足してくれるので、私は「無邪気に」質問しました。
「それじゃあ、バッパー達は、ビートルズやストーンズとか、今のロック・ミュージシャンみたいに熱狂的に受け容れられていたんですか?」
ところが、この不用意な質問から、すごい夫婦喧嘩になってしまったんです。
ダイアナがにこやかにYeah・・・と言って続けようとしたその瞬間、トミーが遮りました。
「No, No! そんなんじゃない。Absolutely Not.」
ダイアナ「そうよ! ロックみたいに人気があったじゃない。」
「No!! そういう流行とは違うんだ。根本的に違う!精神的に違う!」
ダイアナ 「だってスイートハート、世間に受け容れられるって点では同じじゃない!」
「Nooooo!!! ビバップは我々の精神と生き方そのものを、根本的に変えたんだ!ビバップは、精神的にも音楽的にも、もっと高度な革新性があるんだ!ロックなんぞとは、根本的に違うんじゃ!」・・・
「チャーリー・パーカー達の頭の中は、そんな薄っちょろいものではないっ!!絶対に絶対に違う!!」
いつもデトロイト訛りで「ホニャララ…」と静かに話すトミーの声は、大ホールのスタインウエイ以上の大音響になり、広い部屋の中に、物凄い空気が充満していました。初めて見るトミーの激昂は、恐いというよりも、夜空につんざく稲妻の如く見事で、多分、私は口をポカンと開けて眺めていたように覚えています。
いつもはトミーよりずっと口の立つダイアナも、すすり泣きを始め降伏です。確かにトミーの大声は、目に沁みるものでした。しばらくすると、トミーはいつもの温厚なフラナガンに戻り、私たちを深夜のヴィレッジ・ヴァンガードに連れて行ってくれました。そこでも色んな事件に遭遇するのですが、ザッツ・アナザー・ストーリー。
以降、長いお付き合いの間で、私たちは、何度か雷の落ちる場面に居合わせることになります。いつも私達だけしかいない場所に限られていました。いついかなる場合も、トミーは汚い言葉で罵ったりすることはなかったし、常に論理的でした。ですから、「キレる」という形容詞は全く当てはまらないし、むしろ、感情のダムがドンと開き、一気に流れてくる感じ、ギリシャ神話のジュピターの雷みたいなものかも知れません。心の中の雷を、トミーは必死で抑えていたのではないかと思えて仕方がないのです。例えばコミック映画で、超能力のあるヒーローが、ひたすら普通の人であろうとするように、トミーも苦労していたのでは…と、そして、その雷を自由自在に放電できるのがピアノの前であったのではないかと思ってしまうんです。
Tin Tin Deoや、Our Delight…怒涛のように盛り上がる寺井尚之のプレイを聴く時、私は、No! と、激しくまくし立てたトミー・フラナガンの怒声を思い出す。そして、スプリング・ソングスのように、心躍るグルーヴを感じる時には、色んな時のフラナガンの喜びの表情が蘇るんです。
トミー・フラナガンの生演奏は勿論もう聴くことは出来ませんが、28日のトリビュート・コンサートで、私も色んな時のフラナガンの表情を味わいたいと思います。
CU
この1つ目の写真ですが、大師匠が師匠を見ているときの”目”が、何だかすごくギロっとしているようで、凄みがあります!
ライブで師匠の演奏を聴いている時に、フっと大師匠の写真を見てしまうことがあります。このOverSeasの空間全体を見守っているような、演奏者と観る者を見つめているような不思議な気がするのです。
いつもクールに演奏して、汗もかかない寺井師匠も、ジャズ講座や、いろんな話のときに、バチっと火花というか、すごく熱くなることがあり、こちらがビックリして、「おわっっ」となったりします。
ただ、言葉で伝えるだけでなく、自分の音楽(曲)への想いを、ピアノで表す、一番最初の授業で教えていただいたことを思い出しました。
シャイな人も、熱い人も、ただ素直に表現することができるピアノ(音楽)って、やっぱり素晴らしいですね!
MainStemのトリビュートで、どんな想いが伝わってくるのか、楽しみにしております!!
寺井尚之より
すずこちゃん:あの写真はな、師匠がわしのライブを観に来たとき、「お前なんでそのネタちゃんとできるんや? また内緒でわしのを録音したやろ?」
「いいえ、紙と鉛筆でメモして一生懸命覚えただけです。」
・・・と、言うときの模様を捉えたものです。
おわり