ラジオ・プラハで聞くジョージ・ムラーツ。



 10日ほど前に、ジョージ・ムラーツのアシスタント、しょうたんからムラーツ師匠のインタビューがラジオ・プラハのWEBで聞けますよ、とメールをもらいました。
 私がブックマークしているトニー・エマーソン氏のジャズブログ、“Prague Jazz”と同じ日の知らせだった。しょうたんの調査力恐るべし!
 早速、聞いてみると、故国で語るジョージ・ムラーツは日米のメディアとは違っていて、日本のイチローみたいに、ジャズのメジャー・リーガーとして活躍するチェコ人としての顔が垣間見える興味深いものでした。
 インタビュアーのイアン・ウィロービの英語はヨーロピアン・イングリッシュでなく、アメリカンで凄く上手!一方ムラーツ兄さんは、いつものベランメエ・イングリッシュじゃなく、東欧紳士風でかっこいい!
 ラジオ・プラハの英語テキスト&音源はここにあります。
 日本語にしたので、お楽しみください。
『現代のチェコを代表する名士に、くつろいだ雰囲気で話を聞くインタビュー番組One on One: より:』
<ジョージ・ムラーツ・インタビュー>
インタビュアー:Ian Willoughby イアン・ウィロービ
 ジョージ・ムラーツ(本名イルジ・ムラージュ、南ボヘミア地方、ピーセック生)氏は、少なくとも、彼が共演して来たミュージシャンの顔ぶれから考えれば、ジャズ史上最も成功したチェコ人と言えるだろう。ベースの巨匠、ムラーツの共演者リストは、ディジー・ガレスピー、スタン・ゲッツ、オスカー・ピーターソン、チェット・ベイカー、そしてチャーリー・ミンガスなど、正にジャズ人名辞典の様相を呈している、
   更に氏は千枚以上のアルバムに参加。ニューヨークを本拠に活躍するジョージ・ムラーツが最近プラハに滞在して機会に、ジャズとの出会いなど、色々なお話を伺いました。

<ジャズとの出会い>
ジョージ・ムラーツ(以下GM):「ターボルのハイスクールに通っていた頃、幸運にも学校にジャズバンドがあったんです、当時ジャズバンドがあったなんて不思議だね。プラハ音楽院に入学した頃は、市内にジャズクラブが三軒あり、ほとんど毎晩演奏していました。」
聴き手:イアン・ウィロービ(以下IW):「当時のジャズは、ビッグビット(’60年代にチェコで流行したギター主体のポップ・ミュージック)以前の、かっこいい若者向け音楽だったのでしょうか?
GM:「まあ、そういうことですね。」
IW:「あなたがジャズに魅了されたきっかけは?」
GM:「13歳くらいだったと思うんだけど、日曜になると(ラジオで)オペレッタなどの軽音楽の放送があってね、どういう風の吹き回しか、ある日ルイ・アームストロングの1時間番組があったんだ。勿論、あの独特の歌も放送されました。いつもはクラシックの声楽ばかりなのに、よくこんな声がラジオ放送されたもんだ!と子供心に不思議でね。(笑)
  でも、その日に聴いた音楽のうちで一番気に入ってしまって、それを機にジャズにのめりこんだんです。
IW:「では、ムラーツさんの楽器はアコースティック・ベースですが、ベースを演奏されるようになったのは、どうしてなんですか?」
GM:「それも単なる偶然だったんです。7歳の頃からバイオリンを習っていたんですが、その後は専らクラリネットやサックスを演ってたんです。ところが、バンドのベーシストときたら…名前は言いませんが、良い奴なんだけど、常にミスノートだけを選んで弾くという、ある意味天才だったんだ。偶然でもいいから、一度くらいは、まともな音が弾けるだろう?ってくらい凄まじいものだった。
  それで僕が、練習の合間に彼のベースを拝借して弾いてみたら、意外に難しくなかった。ベースの音色が気に入ってしまって…それでベース奏者になったんです。」
vaclav_havel.jpgハヴェル前大統領(1936-)は、劇作家としても欧米で絶大な人気のある文人政治家
 IW:「何かの本で読んだのですが、カレル橋の脇にあるカフェ・バー・シアター『欄干の上』劇場で、ハヴェル前大統領が舞台監督していた時期、ムラーツさんもそこで演奏されていたそうですね。ハヴェル前大統領とは、個人的にお付き合いされていたんですか?」
GM: 「ええ、ええ、そうです!当時僕はバーの方で演奏していてね、僕達が延々と演奏を続けるもんで、酒場のおばさんがカウンターで仕事するのに疲れきっちゃうと、彼が交代してバーテンをやっていました。
 それ以来、僕は彼に頼まれてよく演奏していたんですが、昨年久しぶりで再会できて、とても嬉しかったです。その時は、彼の著書を頂きました。今でもファースト・ネームで呼び合う仲です。」
Na_zabradli.jpg由緒ある文人カフェ・シアター、「 Divadlo Na zábradlí 欄干の上劇場」
<渡米して>
IW:「では、あなたが渡米されNYにお住まいになったいきさつについてお話を伺いたいのですが。」
GM:「渡米する前はドイツに住み、ミュンヘンにあったジャズクラブ、”ドミシル”で演奏していました。そのうち、ボストンにあるバークリー音楽院から奨学金が出ましてね。丁度あのロシア人達が戦車で侵攻してきた時です。’68年の8月でした。それで、奨学金を使ってあちらに行ったんです。まあ、行った甲斐がありました。」
IW:「当時はアメリカに滞在していただけなんですか?」
GM:「ええ、まあそうです。」
IW: 「アメリカでミュージシャンとして名を成すというのは大変でしょう?私などには音楽の世界、ましてニューヨークでは、よほど激しい競争に勝ち抜かないといけないだろうと思えるのですが。」
GM;「僕の出発点はNYでなくボストンだったんです。幸いにも向こうの人たちは、すでに僕のことを知ってくれていました。というのも、留学前にすでに何枚かレコードを録音していましたから。それに、ウィーンでフリードリヒ・グルダ(訳注:ウィーン生まれのピアニスト、作編曲家、クラシック音楽家ながらジャズにも造詣深かった。)が主催するコンクールにも出場していたし。おかげでキャノンボール・アダレイ、J.J.ジョンソン、ロン・カーター、ジョー・ザヴィヌル、メル・ルイス、アート・ファーマー・・・色んな人たちに出会えました。
 実のところ、渡米後すぐに演奏活動を始めました。’69年にはディジー・ガレスピーのバンドに入り、やがて、オスカー・ピーターソンから誘われ、約二年間、彼のトリオで演奏しました。」
IW:「ムラーツさんの共演者リストを拝見すると、ジャズ人名辞典さながらですね。そのキャリアのうちで、”自分は成功したんだ!これが頂点だ”と思われた瞬間はありますか?」
GM;「いや、そういうのは特にないですよ。これが頂点だ!みたいに思ってしまうと、もうバタンキューで、その先に進めなくなりますから。(笑)達成感なんて持っちゃいけません。」
<膨大なレコーディング>
IW:「これも何かで読んだんですが、ムラーツさんはなんと約900枚のアルバムに参加しておられるそうですね。数十年も経つとご自分のレコーディングについて記憶は曖昧になるものでしょうか?」
GM: 「レコーディングについては、僕自身よりもずっと詳しい人たちがいますからね。僕は今までの録音アルバムを全部所有していませんしね。全く覚えていないアルバムが出てくることはしょっちゅうです。
  多分900枚以上あるのじゃないかな?千枚よりはずっと多いですよ。現時点で1100~1200枚だと思います。WEB上に僕のディスコグラフィーが載っていたんだけど、10年ほど前で、はっきりは覚えていないが確か880か860枚ほど掲載されていたなあ。
  勿論、そのリストから脱落しているアルバムもあったし、それ以降何枚もレコーディングしているから、千枚以上はあると思います。」
IW: 「その内、ムラーツさんにとって特に意義深いアルバムはありますか?」
GM :「幸運なことに、僕は非常に多くの巨匠達と共演することができました。特に楽しかったのは、ジョー・ヘンダーソン(ts)のピアノレス・トリオ、ドラムがアル・フォスターだった時。それにトミー・フラナガンかな…僕は今、断続的にハンク・ジョーンズ(p)と活動していますけどね。勿論、ビッグバンドも思い出に残っています。サド・ジョーンズ-メル・ルイスOrch….いいバンドでした。」
gallery9.jpg  スタン・ゲッツ、チェット・ベイカーと;G.Mraz公式サイトより。
IW: 「本当に多くの人たちと共演されていますよね。各ミュージシャンのスタイルや音楽に順応するというのは難しいですか?」
GM: 「いや、それほどでもありません。ただ、共演者が一つのスタイルに固執している場合は問題です。僕がそれ以外のことを演ると当惑させていまいますからね。色んなことを演ってみるのが好きなたちだから。」
IW:「ムラーツさんはご自分のカルテットも率いておられますね。いわゆるサイドマンと、リーダーで自分の音楽を演るという、二つの仕事のバランスをとるというのは難しいことですか?」
GM: 「ある意味、大変ですね。僕自身は、サイドマンでいる方がずっと気楽ですよ。ビジネスについてあれこれ苦労しなくてもいいですから。サイドマンとしての仕事の依頼は多いですしね。
 しかし、再びリーダーとしての活動も始めるつもりです。いろいろのアイデアもあるし、新曲もいくつか用意しているしね。自分の音楽が出来るうちに、やっておくのがよいと考えています。」
<チェコ名を変えたのは何故?>
IW:「これだけはお伺いしたかったのですが、ムラーツさんがご自分の名前を”ジョージ”にされたのはいつだったんですか?」
GM:「いやあ、この名前も私のアイデアではないんです。英語名の”ジョージ”にしたのは二つの理由があります。第一の理由は、ギャラは大体小切手で受け取るでしょう。その場合、あっちで僕の名前を正しいスペルで書いてくれる人がいないので、何度も小切手を切りなおしてもらわないと、ギャラをもらえないという状況だったんです。
 おまけに、ボストン時代にシティ・バンクに口座を開こうとした時なんか、名義人を記載するのに”Mraz”という苗字だけで15分もかかってしまったんです。ファースト・ネームの”Jiri”(イルジ)に至っては、どうしても正しく書いてもらえず、とうとう諦めました。『Georgeでいいです。』ってね。(笑)」
IW:「アメリカ人には、”Jiri”というのが、そんな難しい名前なんですか?」(訳注:チェコでは”Jiri”は、例えば一郎のように、最もありふれた男性名。)
GM:「難しすぎるね。僕が親しくなった女の子達を別にすれば(笑)、アメリカ人でこの名前を完璧に判ってくれたのは、ウィリス・コノーヴァー(米国の海外向け放送、VOAのジャズ番組のアナウンサー兼プロデューサー)だけだよ。彼だけは正しくJiriと言ってくれたんだけどなあ。」
(了)
○ ○ ○ ○ ○
 ファンの皆さんならご存知のエピソードが多いけど、故郷で語ると少し趣が違っていて、楽しめたのではないでしょうか?
 チェコの盟友ピアニスト、エミル・ヴィクリッキー(p)のHPに、日本のヴィーナス・レコードプロデゥースで、ジョージ・ムラーツ、ルイス・ナッシュ(ds)とトリオのアルバムをNY録音したニュースが出ていたと後藤誠氏よりお知らせいただきました。ジョージ・ムラーツ兄さんのプレイはチェコ訛りかNY訛りかどっちやろ?興味津々です。
 明日はThe Mainstem!
 ブログを読んでくださっている寺井ファン、ジャック・フロスト氏よりの差し入れ=北の大地のアスパラガスや、箕面マチルダ農園の豆類をパスタにして待ってます。
お楽しみに~!
CU

「ラジオ・プラハで聞くジョージ・ムラーツ。」への3件のフィードバック

  1. 珠重さん、こんばんは。
    ジョージ・ムラーツさんのインタビューのお話たくさん書いて下さってありがとうございます!
    ジョージ・ムラーツさんが本名ではなかった事も初めて知り、びっくりしました。
    Balla’s & Bluesでトミー・フラナガン大師匠とジョージ・ムラーツさんの演奏を聴いて、とても感動しました。
    おととい火曜日、師匠がカジモドのお話を詳しく教えて下さって、その中で
    トミー・フラナガン大師匠とジョージ・ムラーツさんがアドリブの中でHow About Youで音の会話をパッとされた事を教えて下さって、アドリブで急にそんな事が出来るなんてすごいなあと感動しました。
    師匠もこの前5月のライブでStar Eyesのアドリブで「竹くらべ」を演奏して下さったり、Strode Rodeの事を教えて下さった後に、イントロでStrode Rodeのフレーズを弾いて下さったり、おととい火曜日もStar Eyesのアドリブでカジモドのフレーズを弾いて下さったり、いつもパッと、しかもハーモニーやリズムもとてもかっこよくて、本当に感動します!!!
    (いつも私、弾いてくださった時後でわかって、その時すぐにわからなくて、すみません。。。)
    ジョージ・ムラーツさんのインタビューのお話、いろんな事がわかってとても嬉しかったです!!
    珠重さんたくさんの事を教えて下さっていつもありがとうございます!!!
    今日のレッスンもとても嬉しかったです!!
    師匠、いつも本当にありがとうございます!!
    明日、師匠の演奏を目の前で聴く事が出来るのを、師匠ファンクラブ会員☆みゆき(会長希望!!)はとても嬉しいです!!!
    とても楽しみにしています!!!
    珠重さん、パスタのお話もありがとうございます!
    パスタ予約お願いします☆
    珠重さんのブログいつもとても楽しみにしています!!
    いつもありがとうございます!!!

  2. みゆきさま
    いつも温かい励ましのお言葉&パスタ一丁予約ありがとうございます。
     明日は気合を入れて仕込みます。とはいっても、何もしなくてもおいしい野菜なので、演奏の次にご期待ください。

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