ジミー・ヒース自伝を読みながら・・・(3)

 今年最後のSeptember in the Rainで路地裏もしっとり濡れてます。大阪も急に寒くなりました。皆様、お風邪など召されていませんか?国際事情ややこしいようで、北京駐在の常連KD氏はお変わりありませんか?

 ジャズと関係ないけど「俺達に明日はない」の監督、アーサー・ペンが亡くなったそうですね。トランペットのKD(ケニー・ド-ハム)の幼少時代最も記憶に残る犯罪者だった”ボニー&クライド”の物語。スローモーションの鮮烈なラスト・シーンが忘れられません…

 さて、「ジミー・ヒース伝」第3回目は、ジミーのジョン・コルトレーン観について、抜粋しようと思います。プレイも作編曲も、あくまでも端整でクリアカットなジミー・ヒースと、濃密でアヴァン・ギャルドなジョン・コルトレーンは、前のエントリーで書いたように、40年代~50年代の初めにかけて、バンド・メイトとして、友人として、一緒に稽古し、ハーモニー論議を展開した親密な間柄。初期の二人は、ほとんど同じ音楽的方向を目指していたといいます。

 後にジョン・コルトレーンはBlue Noteレコードと契約し、ジミーは当時Blue NoteのライバルだったRiversideレコードに。レコード会社の資本力と命運が、批評界の評価の相違に大きく関係しているようにも思えます。

 ジミー・ヒースのジョン・コルトレーン観についての項に書かれている「ジョン・コルトレーンのどこがいいのか?」は、今まで読んだどんな批評よりも「なるほど!」と納得できるものでした。

ジミー・ヒース自伝 :Second Chorus (1949-1969)よりbook_300.jpg

(p.136~)

<葬儀にて>

 1967年7月17日、ジョン・コルトレーンが亡くなった時、私はアート・ファーマー(tp, flh)とイースト・ヴィレッジのクラブ『Slugs』で仕事をしていた。夜遅くの出番だったので、21日に行われた葬儀の時は非常に疲れていた。場所は、レキシントンAve.54丁目にあるSt.ピーターズ教会、ルーテル派の古風なゴシック様式で、現在のシティ・コープビルに建て替わる前、ジョン・ゲンゼルが牧師を勤めている頃のことだ。告別式ではソニー・スティットが隣の席だった。私は棺を担ぐように言われたが、どうにも出来なかった。棺のトレーンを見ると涙が止まらない。死に顔はトレーンとは思えず、空気で膨らませた人形にしか見えない。そして私は手を見た。間違いなくそれはトレーンの手だった。その途端に、私はジョンの死を実感した。彼の人生が私の中でフラッシュバックし、悲しみが私を打ちのめした。ディジー・ガレスピー楽団や、様々なセッションで共演した時期は、とても近しい関係だったのだ。フィラデルフィアで一日中一緒に練習したり、遊び歩いた思い出が一気に甦った。

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 葬儀は盛大でアメリカ全土のみならず世界中から大勢が参列しており、私はそれまでより更に、彼が最初は私と同様、地味な存在であったと認識した。これほど大物になりながら死んでしまったトレーン、『人生は40歳から』という格言を思い出す。棺の彼は40歳で死んでしまった。彼はもうこの世にいないのだ。それは圧倒的な事実で、どうにも受け容れ難いことだった。ディジー(ガレスピー)が私の後ろに座っていて、バルコニーではフリー・ジャズが演奏されていた。

 ディジーはこう言った。「もし俺がくたばって、葬式でこんな音楽を演られたら、ロレイン(ガレスピー夫人)が全員撃ち殺しちまうだろうな・・・」(中略)

<私たちのつながり>

 私とコルトレーンの音楽的関係は、お互いの初期には非常に強いものだったが、私の服役中にその絆は絶たれた。私がジャズ・シーンから消えた4年半の間も、彼は自分のやるべきことを、しっかりやり続けた。常に修練を続ければ、必ず熟達する。私が戻ってきたとき、彼は大物になり、すっかり多忙になっていたが、それでも時おり会っていろんなことを話し合った。1959年に復帰してからは、私より彼の方がずっと大物になっていたので共演はしていない。そして彼の目指す音楽的方向もまた、彼を取り巻くミュージシャンたちと共に変化していた。トレーンが私を思いやって、「自分の後任はジミー・ヒースにして欲しい」とマイルス・デイヴィスに宛てて要請した葉書を、私は持っている。

 後年、私はTrane Connection”と題するオリジナルを作曲し、ジョンに捧げた。彼の名声と音楽的地位は誰よりも勝っている。

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 彼は明らかに新しい音楽的方向の開拓者だ。つまり、彼は今までとは異なった流儀で演奏する事をめざし、紛れもなく「コルトレーン」というスタイルを作り上げた。しかし『Ascention』というアルバムは濃厚すぎて好きではない。一度に皆が口々に演奏する形式は重層に過ぎ、私個人の意見としては、どうも無秩序に聴こえてしまう。

 確かにニュー・オリンズ・ジャズのスタイルで、3、4人が一度にプレイするということはあるし、J.J.ジョンソンも”clam bake”(騒々しい集まり)と名づけて、そういう形式を取り入れていた。3人が口々にプレイしても、まだ各人の相違や関連が判るが、『Ascention』では、もっと大人数で一度に演奏しているので、いささか興醒めする。

<ジョン・コルトレーンの『泣きのサウンド』について>

 思うに、レコーディング内容なら『Count Down』『Giant Steps』『至上の愛』、楽曲なら『Naima』『Count Down』といった辺りが、彼の最高作ではないだろうか。特に『Naima』は他のどの作品よりもレベルが高いと思う。ただし『Naima』の後期ヴァージョンはよりフリーで濃密だ。

 コルトレーンはテナー・サックスという楽器で最も説得力のあるサウンドを持っていた。だが彼のソプラノは甲高く、私は余り好きではない。いずれの楽器にせよ、テクニックも創造力も素晴らしいものだが、ここではトレーンのテナーについて語りたい。彼のテナーのサウンドには「泣き(Cry)」がある、そしてその「泣き(Crying)」には尊厳がある。「叫び」のテナーは「懇願するような趣」を持つ種類のプレイヤーがいる。ケニーG、デヴィッド・サンボーンといった人たちは,言わば「泣き虫の子供」だ。だが、コルトレーンの「泣き」はそういう種類のものではない。尊厳と品格のある「泣き」で、神々しく精神性の高いものなのだ。

 それ以外の「泣き」のテナーたちは往々にしてハンク・クロフォードのような黒人ソウル系サックスの模倣だ。グローヴァー・ワシントンもそういう系統に属しているものの、サウンドはけた違いに凄い。

 トレーンのサウンドは、「一緒にベッドに行こうよ」とおねだりするような種類のものではない。「好きになって欲しいとは言わないが、真実の表現なのだから、否応なしに、好きにならなければならない!」というところがコルトレーンならではだ。

 テナーの歴史上そんなプレイヤーはいない。多くのテナー奏者がコルトレーンのスタイルやフレーズを模倣しているが、あのサウンドを会得した者は皆無だ。あのサウンドは、トレーンの高い精神性や音楽への献身、それに休みなく続けた修練の賜物で、彼だけのものなのだ。

 彼は自分の求めるサウンドが何かをよく知っており、それを自分のものにした。初期の『Naima』を聴くと、それを実感することが出来る。彼はストレートなトーンを使っているので、冷たい印象を受けるかもしれない。しかし、ストレートなトーンから独特の「温かみ」が発散しているのがわかるだろう、後に彼が駆使するヴィブラートにも、その「温かみ」があり、それらは全て、上に書いたようなトレーンの非常に個人的な修練に根ざしたものなのだ。

jimmy_heath61.jpg○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  

 皆さんはどう思われますか?My Favorite Thingsだけでは、ジョン・コルトレーンの本当の凄さは判りませんね。

 OverSeasで聴く寺井尚之の『Naima』も、ぜひ一度聴いていただきたいです!

 明日は鉄人デュオ!お勧め料理はほっこりジャガイモ&きのこのグラタンを作ります。

CU

寺井尚之”メインステム” NEW動画UPしました。

 雨が上がり、大阪は爽やかな秋の日です。
 大好評の寺井尚之”メインステム”の新しい動画二題、YoutubeにUPされています。
 ひとつめは、「寺井尚之ジャズピアノ教室」の課題曲Ⅱ、“My One & Only Love”、絶対にブレない頭部と、絶対に鍵盤を押し込まず、一番美しくサウンドするツボを心得たソフトタッチ!背筋と腕を巧みに使う奏法は、「ピアノは指で弾くものではない。」という名言を思い出します。

 もうひとつは、バド・パウエル的秘伝奏法、“Strictly Congfidential”、バド・パウエルが残したレコードを聴かれると、パウエルはハードなタッチのピアニストだったと誤解される方がいらっしゃるかも知れませんが、実際は、アート・テイタムやテディ・ウイルソン、トミー・フラナガンたち同様、非常にタッチの美しいピアニストでした。
 端整なサウンドと、バップならではの疾走感を生み出すシフト・チェンジの面白さが、コンパクトな演奏に凝縮されてます。

 宮本在浩(b)+菅一平(ds)リズム・チームが映ってないのが非常に残念ですが、生なら観れますよ~
 ぜひライブにおいでになって、本物を味わってくださいね!
CU

9/25 Sean Smith (b) trio 沢山ありがとうございました!

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 土曜日のショーン・スミス3、はるばる香川県や和歌山県、琵琶湖やスカイマーク・スタジアム、千里山などなど、沢山応援に来て下さってありがとうございました!いつもと違って、カップルやご家族連れのお客様が目立つ客席、ブーツ姿や秋色のファッションの女性方もいい感じ、拍手や掛け声上手なお客様が沢山でショーン・スミスさんの顔色も紅葉、或いは高揚!おかげで、倍音炸裂!気持ちよかった~

セットリスト

1. Bitty Ditty (Thad Jones)
2. Out of the Past (Benny Golson)
3. Poise (Sean Smith)
4. Minor Mishap (Tommy Flanagan)

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1. Blues for Beans (Sean Smith)
2. Mean What You Say (Thad Jones)
3. Homemade Japanese Folk Song(Sean Smith)
4. Our Delight (Tadd Dameron)

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1.That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)
2. Smooth As the Wind (Tadd Dameron)
3. Japanese Maple (Sean Smith)
4. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Dezzy Gillespie, Gill Fuller)
Encore: Elusive (Thad Jones)

sean_hisayuki_1.JPG サド・ジョーンズに始まり、サド・ジョーンズに終わるOverSeas的正道プログラム。当初「軽~く一時間ほど」予定していたリハーサルは、2倍強の超ハード・リハになっちゃいました。
 ショーンのオリジナル作品をしっかり稽古して、曲の強さや美しさを出した寺井尚之あっぱれ!日ごろ演らない、デトロイト・バップの難曲を正攻法で弾ききったショーン・スミスあっぱれ!ショーン+寺井の濃密なインタープレイを、あの手この手でしっかり盛り上げた菅一平あっぱれ!!
 ショーンさんのプレイを毎回お聴きの常連さまにとっては、”Japanese Maple”は殆どスタンダード・ナンバー!今回のハーモニーの美しさは、水面を照らす壮大な紅葉の趣!老獪なる寺井尚之は、イントロに「秋の夕日に照る山 もみじ~♪」の唱歌を、エンディングには「ちいさい秋みつけた♪」をサプライズ挿入して、サトーハチローの名詞が皆の心に甦りました。リハでは一切あの挿入句はなく、私も本番まで知らなかったマル秘作戦!
 年に一度の顔合わせと思えない親密なインタープレイに、やっと巡ってきた秋の雰囲気を楽しむことができました。
 大事な楽器をショーンさんに提供して下さったザイコウさんは、この日は縁の下の力持ちに徹して、楽器の駒を調整してあげたり、演奏風景を撮影してくださったり、リハーサルからラストまで、徹底サポートありがとうございました!
 ショーンさんとのお付き合いは、もう10年近くになると思いますが、音楽に対する情熱や、まじめな人柄は少しも変りません。この日も終演後は、今後ジャズの進むべき道や、コツコツした稽古なしに短時間で結果を求めようとする昨今の気風などをメインステム諸氏と座談会。論議が決して「いまどきの・・・」的ボヤキに終わらず、将来の展望を求める力を感じて、嬉しかった~ やっぱりショーン・スミスは同志です。
 夫妻はもうNYに帰ったようで、「アリガト!皆さんによろしく!」とメールが届きました。今後とも応援お願いします!
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 なお、宮本在浩さんは、メインステム&毎週火曜日にOverSeasで演奏しているので、こちらは更に応援よろしくお願いします!
左から、宮本在浩(b)、Sean Smith、寺井尚之、菅一平(ds)、安紀子夫人
CU

10月イベント「楽しいJAZZ噺とライブの夕べ」

 やっと来ました。秋が来た!芸術の秋、ジャズの秋!
 10月5日の火曜日に、初めてのイベント開催。
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<楽しいJAZZの講座とライブの夕べ>
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 「これからジャズを聴いてみようかな・・・」「ジャズについて、もっと知りたいんだけどなあ・・・」という皆様に、ジャズピアノの名手、寺井尚之が、トークとライブで道案内いたします。
 通常のジャズ講座のレクチュアでは聴けない、間口の広いジャズ噺や、あっと驚くレパートリーが聴ける予感です。
<strong【日時】10月5日(火)7pm~9pm 
【講師】トミー・フラナガン唯一の弟子、OverSeasオーナー、 寺井尚之
【受講料】One Drink付 ¥2,500 (税込¥2,625)  要予約

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 関西弁の爆笑トーク炸裂!品格溢れるピアノが音色が冴え渡る!楽しい秋色のひととき!日ごろジャズクラブに来たことのない皆様も、ぜひひご参加ください!
  定員40名様で締め切ります。ご予約はJazz Club OverSeasまで。(TEL 06-6262-3940)
CU

発表会レポートUP

 昨夜は中秋の名月、雲が切れて顔を出した満月の輝きと、傍らの金星が余りにも美しくて、狼男みたいに遠吠えしそうになりました。そして未明の雷雨は、暗い夜空にスパークする稲妻はヴァンパイア映画みたいだった~ 寝汗かいて喉か乾いて、怪物に変身しそうでコワくなり、トマトジュースじゃなくて水を沢山飲みました。昨夜、スポーツニュース観てヤケ酒しすぎたみたいです・・・
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 さて、先週You-non氏撮影の演奏写真を頂いて、本日やっと出来上がりました。第19回「寺井尚之ジャズピアノ教室発表会」レポート!

 出場者の皆さん、ビューティフルな演奏が聴こえてくるような写真満載!
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ぜひご覧くださいませ。
 You-nonさま、お忙しい中、どうもありがとうございました!
 明日は寺井尚之(p)3、ただいま絶好調、宮本在浩(b)と、今月は一本勝負の今北有俊(ds)でお送りします。
CU

ジミー・ヒース自伝を読みながら・・・(2)

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 このあいだのジャズ講座で聴いたジミー・ヒース(ts, ss)は良かったですね!ジミーならではの、すっきりしたアレンジと、豪放で優しいテナーと、色っぽいけどベタベタしないソプラノの音色はジミー・ヒースだけのヴォイス!今の心の中に響いてます。

 ジミー・ヒースさんは文字通りハッピー・セイント!ハードバップ全盛期の50年代にレコーディングがないのは、麻薬が原因で5年間刑務所に服役していたためでした。

 自伝には、話したくないはずの最悪の時期について克明に書かれています。.読み応えがありすぎて、ここで安易に抄訳するのは控えておきますが、伝わってくるメッセージは、「人間は一人では生きていけない」ということ。はるばる面会に通う家族の愛情。強い父親が面会で号泣する姿。マイルス・デイヴィスが何度もくれた励ましの手紙。ルイ・アームストロングの慰問演奏の癒しの力などとともに、獄中に届いたチャーリー・パーカー、クリフォード・ブラウン、リッチー・パイエルなど、尊敬してきたミュージシャンや、仲間の訃報を聴いたショックなど・・・塀の中の人種差別のエピソードと共に、苦境に陥ったとき、人間はどうあるべきか、色々考えさせられました。

 あの頃のジャズ界は石を投げればヘロイン中毒に当たるほど・・逆に絶対に薬をやらないという天才は、ディジー・ガレスピー、パーシー・ヒース、ミルト・ジャクソン、ハンク・ジョーンズくらいしか伝記には出てきません。なのに、なんでジミー・ヒースだけが・・・と感じずにはいられませんが、ジミーの文章は潔い。その後の人生は、公私ともに過去の「負」の部分を償う以上に実りあるものだったからでしょう!

<トレーンもマイルスもええ人や!そして運命の女性!>jimmy-mona-1.JPG

 1959年出所の翌日、ジミー・ヒースは運命の女性と出会うことになります。なんてラッキーな人でしょう!自宅で催された、ささやかな復帰パーティで、ジミーは無口な白人アーティストと運命的な出会いをします。それがモナさん。学校で建築デザインの勉強をしたモナ・ブラウンは、フィラデルフィアの博物館でマヤ遺跡の研究アシスタントとして働き、ジャズ・ファンだったので、弟のアルバートに招待されたんです。ジミーとモナは、僅か一年後に結婚。私が出会った黒人ミュージシャンの奥さんのほとんどは白人ですが、それはずっと後の話。公民権運動以前の人種隔離時代、大都市フィラデルフィアですら、白人と黒人のカップルはジミーを含めたった三組しかいなかったそうです。

 当然のことながら、モナさんは両親に結婚の意思を伝えると、即勘当!ゆえに上の結婚式の写真はジミーの両親しか写ってない。

 ジャズ界に復帰したジミーはフィラデルフィアの外に出るには大変な規制があり、楽旅ができません。そのため、人気のあるマイルスのバンドを辞めざるを得なかった。役所のコネを使い四方八方手を尽くすマイルス・デイヴィスや、復帰直後に、各方面にジミーを推薦する手紙を書いたジョン・コルトレーン、常日頃、余り馴染みのない二人の歴史的アイコンが、この本のおかげで身近に感じるようになりました。

 さて二児をもうけ、NYに引っ越すまで、フィラデルフィアの黒人居住地域にあるヒース家に同居していたモナさんは白人故、地域をパトロールする警察官に「お嬢さん、大丈夫ですか?」と何度もたずねられたそうです。食生活や、肌や髪の手入れなど、黒人と白人の生活スタイルはかなり違っていたという話を聞いたことがあるし、順応するには大変だったかも知れませんね。いつまでも育ちの良いお嬢さんみたいで、「意地悪」なんてしたことないようなモナさんには、ジミーとの結婚で苦労した痕跡など微塵にも感じられません。きっとヒース家のご両親も、すごく良い人だったんだろうね!

<GINGER BREAD BOYの語源>gingerbread-cookie-main.jpg

 ジミーの作品のうちでも特に有名な曲、”ジンジャー・ブレッド・ボーイ”、どこにでも売ってる生姜味のクッキーのことですが、モナさんが長男のジェフリー君がお腹の中にいる時、夫婦で近所のクラブにジャズを聴きに行ったそうです。すると、ばったり出会った地元の伝説的サックス奏者ジミー・オリヴァーが、モナのお腹に気付き、「可愛いジンジャーブレッド・ボーイが生まれるんだね!」と祝福してくれたのがきっかけで、あの名曲が創られたのだそうです。つまり、”ジンジャー・ブレッド・ボーイ”は、子供の肌の色を示唆しているのですね!

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上の写真はフィラデルフィアのヒース家の近く。モナさんと、ジミーのスポーツカーで運転ごっこをする長女ロスリンちゃん。下は、’64年、NYクイーンズに移ってからの写真。ヒース夫妻とロスリンちゃん、ジミーに抱かれているのがジンジャ^ブレッド・ボーイことジェフリー。大人になってからの子供さんたちにお目にかかったことがあります。

 私がモナさんと初めて出会ったのは’90年代、その頃は、高齢の自分のお母さんの世話をするために、週のうち何日かNY-フィラデルフィアを往復していらっしゃったから、後にご両親と和解したのでしょう。よかったです!

 どこかのお家におよばれすると、モナさんは、必ず手作りのブラウニーをお土産にに持ってきたりする珍しいアメリカ人!最高に家庭的で、ミア・ファーローみたいに可愛くて知的な女性!70歳を越えても写真の愛らしさは失われていません。全米オープンのテニスコートが見渡せるジミーのお家のキッチンで、一緒におしゃべりしながら洗い物するのが、すごく楽しかったです。

 いつまでも輝きを失わない天才ミュージシャン、ジミー・ヒースの陰にモナさんあり!また一緒に夕ご飯食べたいです!

 次は、ジミー・ヒースのジョン・コルトレーン観や、モード・ジャズについての感想など、書き留めておきます。

 CU

日曜セミナー「初心者のための講座」

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 情報溢れる世の中で、判りそうで判らないのがジャズ、即興演奏のメカニズムを、寺井尚之が、おもしろく判りやすく説明する「初心者のための講座」が9月19日(日)に開催されました。
 初めての企画だったので、「誰も来てくれなかったらどうしよう」と心配でしたが、ジャズ通の常連様から、アマチュア・ミュージシャンの皆さんや、知識欲旺盛な学生諸君たちが参加してくださった、寺井尚之の弁舌絶好調!
event-1P1030822.JPG ジャズ史の発展を俯瞰するため、歴史的音源をサラリと聴いたあと、12の音でアドリブするために、避けて通れない「音楽理論」は、「趣味としてのジャズ教室」では、堅苦しくて敬遠されがちですが、ぶっちぎりトークの寺井尚之、ギリシャ七旋法について明快に解説!一見同じに見える7つのたこ焼きが、それぞれ違っていることを、OHPを使いながらズバリと解説して、皆大笑いしながら、スケールやコードについて勉強できました。
 演奏しない純粋なリスナーの皆さんも、繊細な耳が捉えるジャズのツボの仕組みがわかって、ニコニコでした!
&nbsp寺井尚之の;ぐっとくだけたジャズ「高座」、おもしろくてためになりますよ!好評につき、今度は10/5 (火)7pm-、ライブ付きで開催します。
「楽しいJAZZの講座とライブの夕べ」 詳細はhttp://jazzclub-overseas.com/jazz__event-2.htmlをご覧ください。
 はるばる神奈川県からジャズ修行に来てくれた若きピアニストは、バド・パウエルの解説本を購入したために、大阪土産なしで帰ったらしい・・・某SNSの”つぶやき”欄に「土産なかったら、帰ってくるな~」とか書かれていましたが、無事に帰れたのかな?コシケンくん、HP掲示板か、ここのコメント欄に、石投げられなかったかどうか教えてね!
CU

9/18(土) 寺井尚之メインステム! 予告プログラム

 にわか雨、通り雨、小雨、大雨・・・昨日から大阪は色んな雨が降り、酷かった夏の疲れを洗い流し、また少し秋に近づいた気分・・・
 9月は一回のみの寺井尚之”The Mainstem”ライブ:宮本在浩(b)、菅一平(ds)は今週の土曜日!
 予定プログラムをUPしておきますね。

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1. Let’s レッツ (Thad Jones)
2. Beyond the Bluebird ビヨンド”ザ・ブルーバード”(Tommy Flanagan)
3. Strictly Confidential ストリクトリー・コンフィデンシャル (Bud Powell)
4. Warm Valley ウォーム・ヴァレー (Duke Ellington/Bob Russell)
5. Bouncing with Bud バウンシング・ウィズ・バド (Bud Powell)
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1. Yours Is My Heart Alone 君は我が心のすべて (I.Herzer,F.Loehar,B.Loeher)
2. Love, Your Spell Is Everywhere ラブ・ユアスペル・イズ・エヴリホエア(Edmund Goulding/Elsie Janis)
3. Love You Madly ラブ・ユー・マッドリー (Duke Ellington)
4. I Didn’t Know About You アイ・ディドント・ノウ・アバウト・ユー (Duke Ellington)
5. Cup Bearers カップ・ベアラーズ (Tom McIntosh)

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1. That Tired Routine Called Love ザット・タイアード・ルーティーン・コールド・ラヴ (Matt Dennis)
2. Maybe September メイビー・セプテンバー (Ray Evans, Percy Faith & Jay Livingston )
3. Stablemates ステイブルメイツ (Benny Golson)
4. I’ll Keep Loving You アイル・キープ・ラヴィング・ユー (Bud Powell)
5. Our Delight アワ・デライト (Tadd Dameron)

let's.jpg オープニングのLet’s から、ラストはOur Delight ・・・サド・ジョーンズに始まり、タッド・ダメロンで締めくくる。そして間にはエリントニアが・・・超ハードな選曲ですね!「プログラムは諸事情により、予告なく変更されることがありますのでご了承ください。」と書いておいたほうがいいような・・・
bennett_movie_song.jpg 「旬」な曲は”Maybe September”、『Confirmation/トミー・フラナガン3』や、フラナガン音楽監督時代のトニー・ベネット作品『Movie Song Album』が忘れられませんね!Yes! 昔は「映画音楽」というジャンルがあったんだ!”Maybe September”は、’66年の映画「オスカー」の音楽。映画界の内幕を描く映画で、ベネットも出演してました。
picasso-6.jpg エリントニア”Warm Valley”は、アメリカ音楽を代表する二人の天才音楽家、エリントン+ストレイホーンの共同作業の典型と言われています。デューク・エリントンがオレゴン州楽旅中に眺めたカスケード山脈に、まるで横たわる女性のヌードのようなエロスを感じたエリントンが曲想を思いつき、NYにいるストレイホーンがジョニー・ホッジスの官能的なアルトを想定しながら仕上げたそうな・・・携帯電話やネットなどない時代、二人の天才は長距離電話でどんなやり取りをしたのでしょうか?ピアノトリオであるメインステムが「サウンド・オブ・ミュージック」とジミー・ヒースが呼ぶ、ホッジスの官能的な音色や、エリントンの分厚く深いサウンドをどのように表現してくれるのかが楽しみですね!
 バップの疾走感や、エリントニアの独特の浮揚感、スタンダードやクラシック歌曲まで、カラフルな、寺井尚之ピアノ・トリオ The Mainstemのライブは18日(土)7pm開演!
 お勧め料理は、おいしくなってきた鳴門金時や根菜をあしらった、ポークのクリーム・ソースを作ろう!
CU

メインステム動画追加!

 昨日のジャズ講座、ジミー・ヒースやペッパー・アダムス、サックスの名演と解説が楽しかったですね!
kamonasu_special.JPG 加茂ナス料理や八丁味噌を隠し味に使ったボローニャ・ソース作りでヘトヘトになったけど、「おいしい!」って言ってもらえて嬉しかった~
 日曜日、私がヘトヘトになっている間に追加されてました!先日ご紹介したメインステム動画のコンプリート・ヴァージョンです。
 先日UPしたハイライト・ヴァージョンが思った以上に好評だったので、OverSeas撮影部が、定期的に動画をUPする計画中。


1. Syeeda’s Song Flute (John Coltrane)  サイーダス・ソング・フルート
2. Central Park West (John Coltrane) セントラルパーク・ウエスト
3. High Seas (Kenny Dorham) ハイ・シーズ
4. I Cover the Waterfront (Edward Heyman / Johnny W. Green) 波止場に佇み
5. Manteca (Dizzy Gillespie)  マンテカ
Encore: Easy to Remember (Richard Rodgers Oscar Hammerstein II ) イージー・トゥ・リメンバー

 YAS竹田(b)もハイライト動画を観てくれて、「I Cover the Waterfront」が良かったと、NYからメールくれました。「男はつらいよ」のイントロ判ったかな?私のお気に入りは、上に貼り付けたHigh Seas、KDの曲はいつも大好きです!
 路地裏から愛を込めて!でもライブの方が絶対良いですからね!次回メインステムは9月18日(土)です。来てね!
CU

ジミー・ヒース自伝を読みながら・・・(1)

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 台風が去り、朝晩少し涼しくなったような気がしますね。エアコンよさらば、ビールのがぶ飲みよさらば…
 そして今日はジョージ・ムラーツ(b)の誕生日、兄さんおめでとう!!お祝いで飲みすぎていないかが心配ですが。
 さて、11日(土)のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」には、ジミー・ヒース(ts,ss)のアルバム、『New Picture』が登場!
 ジミー・ヒースさんと初めて会ったのは’83年、OverSeasがアジアビルに引っ越した時のヒース・ブラザーズ(!)のコンサート。良かったな~!皆に聴かせてあげたかった~!
 最近電車で読みふけるジミー・ヒースの自伝”I Walk with Giants”には、その名のとおり、ジャズの巨人達がキラ星のごとく登場し、波乱万丈の人生の物語は、読み進むたびに感動の連続です。
 講座のまえにジミー・ヒースのバックグラウンドを少しまとめておきますね!
<兄弟愛の街 フィラデルフィア>
book_300.jpg  ジミー・ヒースは1926年10月25日、ギリシャ語の「兄弟愛」から名づけられたペンシルバニア州の都市フィラデルフィアで生まれた。いみじくもお兄さんはMJQのパーシー・ヒース(b)、弟さんは、最後のトミー・フラナガン3のドラマーとしても、また長年のOverSeasの常連様ならご存知!何度もコンサートやプライベートで来てくれたアルバート”トゥティ”ヒース(ds)、全員がジャズ史上燦然と輝く天才ミュージシャン。よく比較されるのは、ハンク、サド、エルビンのジョーンズ・ブラザーズで、こちらも天才揃いですが、個々の名声を確立した後で兄弟として音楽活動した姿を実際見ているせいか、より「兄弟」の絆を感じます。
HeathBros_.jpgオーラ溢れるヒース・ブラザーズ!左からパーシー(b)、ジミー、トゥティ(ds) 
 フィラデルフィアは独立戦争中から黒人のコミュニティ(free black community)を持つ大都市で、現在も人口の4割強がアフロアメリカンの人たちだそうです。ヒースの両親は南部ノースカロライナ州の海辺の町、ウィルミントンから幼いパーシーを連れて移住。ジミーの曾祖母は奴隷で祖母は白人との混血であったそうです。子供のころは決して裕福でなかったけれど、両親は慎ましく生活し、子供達(三兄弟と姉のエリザベス)にはありったけの愛情とお金を使ってくれたとジミーは伝記で感謝しています。ヒースbrosのアルバム『Marchin’ On』はマーチングバンドで活動してた亡き両親に捧げたものです。
<家族愛のヒース・ファミリー>
 父は自動車工、母は美容師、二人は身を粉にして4人の子供達を養いました。二人とも音楽好きで、クリスマス・プレゼントとしてパーシーはヴァイオリンを、ジミーとトゥティはサックスを贈られたそうです。ジミーが6歳の時、母親に連れられてデューク・エリントン楽団を聴き、エリントンに声をかけてもらったのが記憶に残っており、後にジミー・ヒースは自分のリーダー作には必ずエリントン・ナンバーを録音するようになりました。
 ジミーがバンド活動するようになってからは、ヒース家の地下室が練習場、地下室でレコード聴いたり、練習した後は、10人でも15人でも、ジミーのお母さんが手料理でご馳走してくれた!それは一流ミュージシャンになってからも続き、「ジミーと一度でも共演したことのあるミュージシャンで、ジミーの家に招待されない人間はいない。」という伝説があります。ジミーのお父さんは、夕食の間にチャーリー・パーカーのレコードをかけ「バードを聴いている間は静かにしなさい。」とミュージシャンたちを注意するほどビバップに敬意を持っていた。そしてご馳走の伝統はお嫁さんのモナさんにも引き継がれていて、私たちもクイーンズのヒース家でおいしい晩御飯をごちそうになったことがあります。ジミーがビッグバンドで大阪に来たときは、タクシー何台も分乗してやってきた大勢のメンバーに、ご馳走作ったこともありました。
<リトル・バード>
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 1943年に親戚の食料品店やバンドでバイトしながら工業高校の木工科を卒業し、そのままフィラデルフィアの地元の楽団に入団しプロとしてのキャリアが始まります。初期のジミー・ヒースの楽器はアルト・サックスでアイドルは勿論ジョニー・ホッジス、ベニー・カーター、それからチャーリー・パーカー!ほぼ同年輩の親友、ジョン・コルトレーンもアルト奏者として出発しています。
 独学のジミーは最初は譜面もろくに読むことが出来なかったのですが、独学でどんどん頭角を現し、’45年に中西部で人気を博したナット・タウエルズ楽団に入団、かなりの給料をもらい巡業を続け、土地の郵便局からせっせと両親に仕送りを続けます。伝記でこの辺りを読み進むと、当時ジャズの中心的フォーマットだったビッグ・バンドの世界は、例えばルーキー・リーグからMLBへとピラミッドになっているアメリカのプロ野球のように、かなりシステマティックに人材が動いていたことが判って非常に興味深い。
 そのツアー中にディジー・ガレスピー楽団に遭遇。ジミーの和声やリズムへの探究心に火が点きます。
 戦争中、数少ない黒人のエリート・パイロットとして空軍に所属していた兄パーシーが故郷に帰還し、ベーシストへと人生を方向転換。彼に呼び戻されたジミーは、20歳の若さで自分の楽団を結成します。バンドメンバーに土地一番の黒人実業家の息子を入れて、うまくビジネス展開して、2年足らずの活動期間でしたが、かなりの人気を博しました。ジミー・ヒースOrch.のサックス・セクションには、若きジョン・コルトレーンとベニー・ゴルソンが加入していたこともあり、彼らは一緒に稽古し、未来へ続くジャズの途を夜を徹して語り合ったそうです。20歳の彼らがどんな話をしていたか聞いてみたかったですね!
 当時の写真はヒース・ブラザーズのサイトにあります。
 ジミー・ヒース楽団時代のハイライトは、’47年にチャーリー・パーカーがフィラデルフィアにやって来た時です。自分の楽器を(多分質入れして)持って来なかったパーカーはジミーのアルトを借りてギグを演り、ジミーの楽団にゲスト出演します。
  「チャーリー・パーカーが吹くと、僕の楽器からあの素晴らしいサウンドが聴こえたんだ!返してもらったアルトを吹くと、バードの魔力が残っているような気がしたが、実際はそうではなかった;ジミー・ヒース自伝」
 地元の若手スター・アルトとして頭角を現したジミー・ヒースはチャーリー・パーカーの再来=“リトル・バード”の名前で各地のミュージシャンの間でも有名になっていました。
<栄光と挫折>
 好調だった自分の楽団は、マフィアがらみのクラブでギャラをもらうことが出来ずにツアー中に破綻、バンドごと人気トランペット奏者のハワード・マギーが引き継いでジミーもそこで活動し、マギーとパリにツアー時にJ.J.ジョンソンや後年、音楽的にも個人的にも親密になるマイルス・デイヴィスと共演しました。
 ガレスピーの番頭格のギル・フラー楽団を経て、’49年、いよいよ念願のディジー・ガレスピー楽団に入団。バンドには、ジョン・コルトレーン(as)や、後にエリントン楽団のスターとなるポール・ゴンザルベス(ts)など錚々たるメンバーがいました。コルトレーンやジミーが、聴衆によりアピールするテナー・サックスに転向を考え始めるのはこの時期です。
 音楽的には大きな実りの時代を迎えるジミー・ヒースでしたが、個人的には大きなトラブルを抱えていました。最初の妻が生まれたばかりの息子(後のパーカッション奏者、ムトゥーメ)を連れて、自分の楽団のピアニストと一緒になるという不幸を忘れる為に、麻薬に深く依存していったのです。そして、’51年にヘロイン中毒が原因で、ディジー・ガレスピーに解雇され、タッド・ダメロンを始めとする多くのジャズ・ミュージシャンがお世話になったレキシントンの麻薬矯正施設からペンシルバニア刑務所へと、坂を転げ落ちるように転落の時代に入っていきます。
 ジミー・ヒースに会ったことのある人なら、まさかこんな聖人みたいな人が刑務所にいたなんて信じられないでしょう。私もいまだに半信半疑です。5年も刑務所に入ってはったなんて、伝記読むまで知らなかった。というか、絶対に面と向かって聞けないようなことが本には包み隠さず書かれていて、そんな悲劇を経験したからこそ、あんな聖人になれたのかと納得しました。その歴史の影には、奥さんのモナの大きな存在があります。
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 この本には、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスの「どういうところが凄いのか?」「リハモニゼーションの本質」それに「モード・ジャズの長所、短所」などについて、いままで読んだどんなジャズ評論より説得力ある解説がされているので、いつか翻訳して載せたい。
 私はNYで演奏する銀太くんにお土産としてもらったのですが、この本は新刊で勿論入手可能!英語も比較的簡単なので、読める人はぜひ読んでみてね!講座の日はお店においておきます。
 ジャズ講座は9月11日(土)6:30pm開講!サックスの好きな方、ジャズの名盤と、楽しい解説がお聴きになりたい方、初めての方、ぜひぜひ皆様、お越しくださいませ!
 続きはまた次回に。
CU