ガーシュインやスタンダード・ソングのことなど・・・

 景気にも政治にも暗雲が立ち込め、国会中継に目をそむけたくなる今日この頃、活況なのは風邪のウイルスだけに思えることも・・・でも江戸のお客様が送って下さった美しい箱根の風景写真を眺めると少し気持ちが晴れました!・・・皆様はいかがお過ごしですか?
 告白すると、私の気が滅入っていたのは、今週のジャズ講座で使う“But Not for Me/キャロル・スローン(vo)”の対訳がはかどらないためでもありました。
niights_at_vv.jpg 今回はトミー・フラナガン・トリオのライブ盤、“Nights at the Vanguard”が何と言って目玉なので、いくら一生懸命に作っても所詮は添え物という無力感に加え、スローンは歌詞のフェイクが多く、注意深く聴き取らなければならない・・・(先月のロレツ・アレキサンドリアはその点、とっても楽だった。)静かな場所に隠遁したいけど、なかなかそうも行かず悶々としていました。キャロルはダイアナ・フラナガンの親友でもあるのですが、’70年代に生で観たときのキュートさは当然ながら失せていて、正直うんざり・・・スローンの不定期ブログ(Sloan View)の野球談義(彼女は親の代から熱狂的ボストン・レッドソックス狂)の方がよほどイケてると思ったほどです。スローンという人はトークも上手で、ラジオ番組を持っていたこともある。ライブ盤で聴くジョークもなかなかのものですが、言葉の通じない日本では、却ってイラつくのか、判らないとタカをくくってかなり辛らつなので少々鼻白むことも・・・。
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carol.jpg ところが聴き取りが終わり、日本語をつける作業に取り掛かった辺りから、がぜん楽しくなってきた・・・
 “But Not for Me”は、ガーシュイン作品集で、オリジナル歌詞を調べるにつれ、スローンが、自分のヴァージョンを創るのにかなりの努力を払っているのが判ってきたからです。
<スタンダード温故知新>
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左がジョージ・ガーシュイン(1898 -1937)、右がアイラ(1896- 1983)
 タイトル曲”バット・ノット・フォー・ミー”や”エンブレイサブル・ユー”など、ここでキャロルの歌うのはスタンダード・ソングとしてよく知られているものばかり。でもスローンは、余り歌われないヴァースをつけたり、歌詞も必ずいじる。前のパートナー、ジミー・ロウルズ(p)の指導だったのだろうか?野球に例えれば、直球勝負でなく、変化球で打たせて取る感じです。レッドソックスなら往年のフィル・ニークロかな?
 さて、ご存知のようにジョージ・ガーシュインは、アメリカの代表的作曲家、音大も出ていないのに若くから頭角を現し、映画、ミュージカル、クラシック音楽、あらゆるジャンルで名作を残し、38歳の若さ亡くなりました。
 一方、作詞家のアイラは比較的遅咲きで、若い頃はサウナ風呂のレジ係りや、デパートの店員、写真家の助手など、色んな仕事をしながら詞を書いていました。ジョージの兄と知られるのを嫌い、’24年に兄弟コンビを組むまではペン・ネームで創作していたそうです。ジョージの死後は様々な大作曲家とコラボし”My Ship”など、名曲を生み続けました。
 二人の両親はロシア系ユダヤ移民、前回対訳ノート(30)で紹介した作詞家ガス・カーンはドイツ生まれですし、映画監督、脚本家のビリー・ワイルダーはオーストリア人…完璧な英語ネイティブでない人たちが米国の言語文化に貢献しているのは、英語を母国語としない私たちにとって、大変興味深いことですね。
 このアルバムの作品は、殆どが1920~30年代、つまり大正時代から昭和初期に、NYでミュージカルやレビューなど舞台芸術用に、あるいはハリウッドで映画音楽として書かれたものです。例えば、“Isn’t It a Pity?”“How Long Has This Been Going On?”などは、ラブ・シーンの歌として、男優、女優の独唱、デュエット、など何通りものヴァースとリフレインがあり、「聴かせどころ」が点在している。キャロル・スローンは、そういうところをしっかり読み通し、自分の歌作りに一番合ったサウンドや歌詞をコラージュしているんです。
 ただし、“Oh, レディ・ビー・グッド”だけは、エラ・フィッツジェラルドのガーシュイン集のテキストに準拠していました。元々男性の歌を、敢えてエラが歌ってヒットしたのですが、録音にあたってアイラ・ガーシュインが女性用に監修しており、いじくる余地がなかったのかも。
gershwin_songbook.jpg ついでにエラのガーシュイン・ソングブックを紐解き、オリジナルLPの曲説を読んでみると、またこれが凄く面白かった!著者はローレンス・D・スチュワートという大学の先生でガーシュイン研究家。ガーシュインが好きで好きで、アイラ・ガーシュインの親交を持ち、兄弟のプライベートな草稿などを整理していた人らしく、曲説は簡潔にして新鮮!例えば、1曲目の”Nice Work If You Can Get It”のところには、“スコット・フィッツジェラルドが”ラスト・タイクーン”のアイデアを得たのは、ハリウッドでこの歌を聴いたから”とか、”皆笑った(The All Laughet)のメロディは、元来、ジョージがハリウッドのクラブでフレッド・アステアのダンスの伴奏として即興で弾いたもの”とか、ジャズエイジの栄華に興味ある人はぜひ一度読んで見てください。(ただしCDのブックレットは虫眼鏡が必要でした。)現在のジャズ界ではなおのこと、こういう面白い曲説を書いて欲しいものです。
George+Gershwin+Fred+Astaire++I.jpg フレッド・アステア(名優、天才ダンサー、名歌手)はガーシュイン兄弟を語るとき、絶対にハズせない。アステアとガーシュイン兄弟がコラボした数多くのミュージカルは先日破産申請したMGM映画の製作。

 最近、スタンダード曲について興味が沸いてきて、色んなことを調べています。ガーシュインの歌曲は、決してジャズ歌手のために書かれたものではありませんし、原型は想像とかなり違うかも知れない。でも、ジャズメンはジョージ・ガーシュインの死後、“I Got Rhythm”のコード・チェンジで様々なバップの名曲を創ったし、エラやサラの名唱は次の世紀も色褪せないでしょう。
 対訳係りにとってアイラ・ガーシュインの歌詞は、コール・ポーターのような毒がなく、色っぽい歌もあくまで健康的で元気の良い国民的アイドルって感じ。その韻律は斬新で、当時革新的だったスラングや口語も注目なのですがザッツ・アナザー・ストーリー。
 公私に渡り詳しく当時の状況を知る寺井尚之の名解説が楽しみ!”トミー・フラナガン3の“Nights at the Vauguard”のサイドディッシュとして、キャロル・スローンの“But Not for Me”もお楽しみいただければ嬉しいです。(先月予告していたロレツ・アレキサンドリアの写真も展示予定!)
 お勧め料理は、Jフロスト・ポテトをチキンと一緒に蒸し焼きにした”ボン・ファム”なるフレンチを作ろう!皆さん、お待ちしています。
 週末のJazz Club OverSeasにお越しいただければ最高の幸せ!アイラの歌詞に何度も登場する名文句ご存知でしょ!“Who Could Ask for Anything More?”ってね!
CU

ジミー・ヒース自伝を読みながら・・・(1)

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 台風が去り、朝晩少し涼しくなったような気がしますね。エアコンよさらば、ビールのがぶ飲みよさらば…
 そして今日はジョージ・ムラーツ(b)の誕生日、兄さんおめでとう!!お祝いで飲みすぎていないかが心配ですが。
 さて、11日(土)のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」には、ジミー・ヒース(ts,ss)のアルバム、『New Picture』が登場!
 ジミー・ヒースさんと初めて会ったのは’83年、OverSeasがアジアビルに引っ越した時のヒース・ブラザーズ(!)のコンサート。良かったな~!皆に聴かせてあげたかった~!
 最近電車で読みふけるジミー・ヒースの自伝”I Walk with Giants”には、その名のとおり、ジャズの巨人達がキラ星のごとく登場し、波乱万丈の人生の物語は、読み進むたびに感動の連続です。
 講座のまえにジミー・ヒースのバックグラウンドを少しまとめておきますね!
<兄弟愛の街 フィラデルフィア>
book_300.jpg  ジミー・ヒースは1926年10月25日、ギリシャ語の「兄弟愛」から名づけられたペンシルバニア州の都市フィラデルフィアで生まれた。いみじくもお兄さんはMJQのパーシー・ヒース(b)、弟さんは、最後のトミー・フラナガン3のドラマーとしても、また長年のOverSeasの常連様ならご存知!何度もコンサートやプライベートで来てくれたアルバート”トゥティ”ヒース(ds)、全員がジャズ史上燦然と輝く天才ミュージシャン。よく比較されるのは、ハンク、サド、エルビンのジョーンズ・ブラザーズで、こちらも天才揃いですが、個々の名声を確立した後で兄弟として音楽活動した姿を実際見ているせいか、より「兄弟」の絆を感じます。
HeathBros_.jpgオーラ溢れるヒース・ブラザーズ!左からパーシー(b)、ジミー、トゥティ(ds) 
 フィラデルフィアは独立戦争中から黒人のコミュニティ(free black community)を持つ大都市で、現在も人口の4割強がアフロアメリカンの人たちだそうです。ヒースの両親は南部ノースカロライナ州の海辺の町、ウィルミントンから幼いパーシーを連れて移住。ジミーの曾祖母は奴隷で祖母は白人との混血であったそうです。子供のころは決して裕福でなかったけれど、両親は慎ましく生活し、子供達(三兄弟と姉のエリザベス)にはありったけの愛情とお金を使ってくれたとジミーは伝記で感謝しています。ヒースbrosのアルバム『Marchin’ On』はマーチングバンドで活動してた亡き両親に捧げたものです。
<家族愛のヒース・ファミリー>
 父は自動車工、母は美容師、二人は身を粉にして4人の子供達を養いました。二人とも音楽好きで、クリスマス・プレゼントとしてパーシーはヴァイオリンを、ジミーとトゥティはサックスを贈られたそうです。ジミーが6歳の時、母親に連れられてデューク・エリントン楽団を聴き、エリントンに声をかけてもらったのが記憶に残っており、後にジミー・ヒースは自分のリーダー作には必ずエリントン・ナンバーを録音するようになりました。
 ジミーがバンド活動するようになってからは、ヒース家の地下室が練習場、地下室でレコード聴いたり、練習した後は、10人でも15人でも、ジミーのお母さんが手料理でご馳走してくれた!それは一流ミュージシャンになってからも続き、「ジミーと一度でも共演したことのあるミュージシャンで、ジミーの家に招待されない人間はいない。」という伝説があります。ジミーのお父さんは、夕食の間にチャーリー・パーカーのレコードをかけ「バードを聴いている間は静かにしなさい。」とミュージシャンたちを注意するほどビバップに敬意を持っていた。そしてご馳走の伝統はお嫁さんのモナさんにも引き継がれていて、私たちもクイーンズのヒース家でおいしい晩御飯をごちそうになったことがあります。ジミーがビッグバンドで大阪に来たときは、タクシー何台も分乗してやってきた大勢のメンバーに、ご馳走作ったこともありました。
<リトル・バード>
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 1943年に親戚の食料品店やバンドでバイトしながら工業高校の木工科を卒業し、そのままフィラデルフィアの地元の楽団に入団しプロとしてのキャリアが始まります。初期のジミー・ヒースの楽器はアルト・サックスでアイドルは勿論ジョニー・ホッジス、ベニー・カーター、それからチャーリー・パーカー!ほぼ同年輩の親友、ジョン・コルトレーンもアルト奏者として出発しています。
 独学のジミーは最初は譜面もろくに読むことが出来なかったのですが、独学でどんどん頭角を現し、’45年に中西部で人気を博したナット・タウエルズ楽団に入団、かなりの給料をもらい巡業を続け、土地の郵便局からせっせと両親に仕送りを続けます。伝記でこの辺りを読み進むと、当時ジャズの中心的フォーマットだったビッグ・バンドの世界は、例えばルーキー・リーグからMLBへとピラミッドになっているアメリカのプロ野球のように、かなりシステマティックに人材が動いていたことが判って非常に興味深い。
 そのツアー中にディジー・ガレスピー楽団に遭遇。ジミーの和声やリズムへの探究心に火が点きます。
 戦争中、数少ない黒人のエリート・パイロットとして空軍に所属していた兄パーシーが故郷に帰還し、ベーシストへと人生を方向転換。彼に呼び戻されたジミーは、20歳の若さで自分の楽団を結成します。バンドメンバーに土地一番の黒人実業家の息子を入れて、うまくビジネス展開して、2年足らずの活動期間でしたが、かなりの人気を博しました。ジミー・ヒースOrch.のサックス・セクションには、若きジョン・コルトレーンとベニー・ゴルソンが加入していたこともあり、彼らは一緒に稽古し、未来へ続くジャズの途を夜を徹して語り合ったそうです。20歳の彼らがどんな話をしていたか聞いてみたかったですね!
 当時の写真はヒース・ブラザーズのサイトにあります。
 ジミー・ヒース楽団時代のハイライトは、’47年にチャーリー・パーカーがフィラデルフィアにやって来た時です。自分の楽器を(多分質入れして)持って来なかったパーカーはジミーのアルトを借りてギグを演り、ジミーの楽団にゲスト出演します。
  「チャーリー・パーカーが吹くと、僕の楽器からあの素晴らしいサウンドが聴こえたんだ!返してもらったアルトを吹くと、バードの魔力が残っているような気がしたが、実際はそうではなかった;ジミー・ヒース自伝」
 地元の若手スター・アルトとして頭角を現したジミー・ヒースはチャーリー・パーカーの再来=“リトル・バード”の名前で各地のミュージシャンの間でも有名になっていました。
<栄光と挫折>
 好調だった自分の楽団は、マフィアがらみのクラブでギャラをもらうことが出来ずにツアー中に破綻、バンドごと人気トランペット奏者のハワード・マギーが引き継いでジミーもそこで活動し、マギーとパリにツアー時にJ.J.ジョンソンや後年、音楽的にも個人的にも親密になるマイルス・デイヴィスと共演しました。
 ガレスピーの番頭格のギル・フラー楽団を経て、’49年、いよいよ念願のディジー・ガレスピー楽団に入団。バンドには、ジョン・コルトレーン(as)や、後にエリントン楽団のスターとなるポール・ゴンザルベス(ts)など錚々たるメンバーがいました。コルトレーンやジミーが、聴衆によりアピールするテナー・サックスに転向を考え始めるのはこの時期です。
 音楽的には大きな実りの時代を迎えるジミー・ヒースでしたが、個人的には大きなトラブルを抱えていました。最初の妻が生まれたばかりの息子(後のパーカッション奏者、ムトゥーメ)を連れて、自分の楽団のピアニストと一緒になるという不幸を忘れる為に、麻薬に深く依存していったのです。そして、’51年にヘロイン中毒が原因で、ディジー・ガレスピーに解雇され、タッド・ダメロンを始めとする多くのジャズ・ミュージシャンがお世話になったレキシントンの麻薬矯正施設からペンシルバニア刑務所へと、坂を転げ落ちるように転落の時代に入っていきます。
 ジミー・ヒースに会ったことのある人なら、まさかこんな聖人みたいな人が刑務所にいたなんて信じられないでしょう。私もいまだに半信半疑です。5年も刑務所に入ってはったなんて、伝記読むまで知らなかった。というか、絶対に面と向かって聞けないようなことが本には包み隠さず書かれていて、そんな悲劇を経験したからこそ、あんな聖人になれたのかと納得しました。その歴史の影には、奥さんのモナの大きな存在があります。
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 この本には、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスの「どういうところが凄いのか?」「リハモニゼーションの本質」それに「モード・ジャズの長所、短所」などについて、いままで読んだどんなジャズ評論より説得力ある解説がされているので、いつか翻訳して載せたい。
 私はNYで演奏する銀太くんにお土産としてもらったのですが、この本は新刊で勿論入手可能!英語も比較的簡単なので、読める人はぜひ読んでみてね!講座の日はお店においておきます。
 ジャズ講座は9月11日(土)6:30pm開講!サックスの好きな方、ジャズの名盤と、楽しい解説がお聴きになりたい方、初めての方、ぜひぜひ皆様、お越しくださいませ!
 続きはまた次回に。
CU

カーメン・マクレエ解説本できました!

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 8月1日の日曜セミナー、「カーメン・マクレエ講座」多数お集まりいただき、誠にありがとうございました!
 講座にお越しになれなかった方、ノートを取れなかった方々のために、解説&対訳が、それぞれ冊子になりました。OverSeasのマスコット、ビバップ・ライオンくんも嬉しそう。
 解説曲は初期のアルバム、『By Special Request』(’55)から晩年の傑作『Carmen Sings Monk』(”88)まで。ジャズ・スタンダードからポピュラー、シャンソンまで幅広いジャンルのベスト歌唱を寺井尚之が厳選!「イエスタディズ」「月光のいたずら」「思い出のサンフランシスコ」「Never Let Me Go」「サテン・ドール」「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」「わが恋はここに」「カーニバルの朝」などなど選りすぐり全34曲!
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 女優系ヴォーカリストというのは、私が勝手に作ったカテゴリーですが、それは決して女優さんのような美人ヴォーカリストということでなく、歌詞をしっかり読んで、しっかりと唄の心象風景を作り上げてから、表現する歌手ということです。その意味では、シャンソンの偉大な歌い手達と共通しているかも知れない。ジルベール・ベコーの「Too Good」が講座で大好評だったのも当然かも。カーメン・マクレエの終生のアイドル、ビリー・ホリディも、やっぱり女優系。たった数分の歌唱に、映画一本観たような余韻が残ります。逆にエラ・フィッツジェラルドは、どんな唄を歌おうとも常に「エラさん」だし、サラ・ヴォーンのアプローチは、より音楽的で官能的と思う。
 「月」や「星」や「恋」の歌でスタートした美人歌手カーメン・マクレエは、中年期から、女らしさをかなぐり捨てて、声も表現も、アンドロジナス的に変貌して行きます。ブラック・パワー・ムーヴメントが顕著になる70年代は、『月や星の唄』にはうんざりだと述懐しているけれど、’80年代の円熟期に入ると、再び『月、星、恋』のトーチ・ソングに回帰して、初期とは全く趣の異なるドラマを構築しています。
 カーメン・マクレエという不世出の歌手の変遷を一望できるカーメン・マクレエ解説本、ぜひ、唄を聴きながら読んでみてください。
 寺井尚之ジャズピアノ教室参考書のページはこちらです。
「カーメン・マクレエ歌唱 歌詞対訳書」
解説本 ¥3,150(税込)
歌詞対訳集(全34曲) ¥3,150(税込)

 次回日曜セミナーは9月19日(日) 「JAZZ初心者のための講座」 まだ観ぬ初心者の皆さんにぜひご参加いただきたいです!神奈川県の若きピアニスト、コシケン君も待ってるよ!皆様もぜひぜひご来場くださいませ。
CU

日曜セミナー:カーメン・マクレエを聴く

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 酷暑の毎日、心より暑中お見舞い申し上げます。ビールを沢山飲んでから、熟睡できずに夜明けに目覚めると汗ぐっしょり・・・グッドモーニング・ハートエイクというより、グッドモーニング・ナイトスエットって感じです。
 日曜日に開催された寺井尚之ジャズピアノ教室生徒会主催セミナーで聴いたカーメン・マクレエは、哀しい歌でも不思議にメソメソした趣がなく、それ故怖くもあります。でも寺井尚之の解説と共に、皆さんと一緒に聴けるのはほんとうに幸せなことですね!
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 寺井尚之はマクレエの歌唱に於ける「温度」の低さと、年齢を重ねるにつれて男性へと変化していく「セクシュアリティ」を強調していましたね。
gardenia.jpg ビリー・ホリディを「理想の歌い手」として、彼女の芸風を学び尽くし、自分の「個性」を作り上げたことへの共感にはとても納得。寺井はセミナー終了後、今回紹介した34の歌唱のうち、一番良かったのは、晩年のアルバム、”For Lady Day”からのトーチソング・メドレー(If You Were Mine~It’s Like Reaching for the Moon)だったと述懐してました。
 セミナーの付録として訳した、アーサー・テイラー(ds)著”Notes and Tones”のインタビューの中で、当時48歳の彼女は、スタンダード曲の歌詞が「月と星と恋愛」ばかりでうんざりしていると語っています。ところが、このメドレーはどちらも「月+星+実らない恋愛」の歌、それ以外には何もない、シンプルなトーチソングでした。模索を続け、結局、最初に戻るというのはマクレエのみならず、トミー・フラナガンもそうだった。アーティストの変遷を考える上で非常に興味をそそられます。なお、このインタビューは、現在カーメン・マクレエのサイトにフルテキストが掲載されています。和訳をご希望の方はどうぞ。
 不思議なことに、マクレエ・セミナーの直前はトラブル続き、寺井尚之が指を怪我したり、製氷機が故障したり、挙句の果てにセミナーで対訳を映写するプロジェクターのランプが開講30分前に切れてしまったり・・・一方、対訳を作っている私は、愛を失うこと=「死」であるような、壮年以降の瀬戸際的な歌詞解釈と、自分の母親が抱えている哀しさが、奇妙に相互リンクを張ってしまい、胸が痛くて壊れそうになりながら仕事してました。
 何はともあれ、セミナーで皆さんとご一緒にカーメン・マクレエ芸術を鑑賞することで、禊(みそぎ)になったような気がしています。
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 参加してくださった皆様、心よりありがとうございました。
 音源や情報を提供して下さったG先生は、セミナー前日に元マクレエの伴奏者だったウラジミール・シャフラノフ(p)さんにお会いして、色んな裏話を仕入れてくださっていたので、また別の機会にゆっくり皆でお話聞きたいです。おやつのさしいれもありがとうございました。
 メインステムの宮本在浩(b)、菅一平(ds)両氏もありがとう!
 またジャズ講座発起人、ダラーナさま、来週(土)のジャズ講座の為に大急ぎでプロジェクター・ランプ調達してくださってありがとうございました!
 参加してくださった京都のKMさん、ダグのライブはベーシストのピーター・ワシントンが良いアルバムと言っていたそうですので、元気出してください!
 そして生徒会あやめ会長、むなぞう副会長、セミナーのプロデュースありがとう!土壇場のコピーなど、大変お疲れ様でした!
 なお、セミナーの模様は後日冊子になる予定です。どうぞお楽しみに!
 明日は鉄人デュオ!皆で聴きましょうね!
CU

カーメン・マクレエ・セミナー対訳準備中

macrae_seminar.JPG 今週は大荒れのお天気でしたね。昨日は通勤時に物凄い雨が降ったようです。夜中に大雨が降るので熟睡できないし、皆様バテバテになっていませんか?
 8月1日の日曜セミナーの為に、講師:寺井尚之が厳選したカーメン・マクレエの歌唱は若き日のディック・カッツ(p)さんが伴奏する『By Special Request』(’55)から、晩年のビリー・ホリディ集『For Lady Day』まで、カワイコちゃんシンガー(a girl singer)と言われていた時期から、”おっさん”と間違えられる時代まで、今のところ、全34曲。「いつ対訳くれるねん?」というドスの効いた取立てに泣きながら、さきほどようやく初稿の紙出しが終わったところです。
sammy_carmen.JPG 寺井尚之が解説しやすいように、草稿に加筆していくので、対訳作業はここからがやっとスタート地点。初期のレコーディングには、サミー・デイヴィスJr.との漫才みたいに楽しい掛け合いが聞ける「お目にかかれてうれしいね」など明るいものもあるのですが、マクレエの本領は、やはりトーチソングの悲劇性。何でもなさそうな「一言」に、強い痛みや、皮肉を込めるのがカーメンの必殺技なので、対訳を作っていると、私まで失恋したみたいな気持ちになって胸が痛~くなってしまうのです。
 仕事や勉強以外で毎日2時間以上インターネットを使っていると、ネット依存症(Digital Addiction)になってしまうそうですが、このまま毎日何時間もマクレエの歌詞を翻訳していると「失恋依存症」になってしまいそう・・・
 マクレエが歌を一生の仕事に選んだきっかけは、譜面がだめなビリー・ホリディの為に、新曲を歌って聞かせる「下歌い」をしたことから、弟子として、友人として彼女の一挙一動を見習ったことだったそうです。ところが、ビリー・ホリディの十八番を歌う時でさえ、ホリディ・フレーズのコピーはどこにも見つかりません。逆に、8月のジャズ講座で取り上げる阿川泰子さんのアルバムでは、慣れ親しんだホリデイの節回しがモロに出てくるので、二つの講座で聞き比べると面白いかも知れません。ホリディに心酔して、身も心もどっぷり浸かったカーメン・マクレエの歌には、表面的なスタイルでなく、そのエッセンスが昇華されているように思えます。
 寺井尚之のプレイにも、フラナガンのコピー・フレーズはほとんどないですから、その辺りもたいへん興味深い。
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 カーメン・マクレエの歌詞解釈が判っていただけるような対訳を目指して、これからさらに磨きをかけていく予定です。
 ぜひ、日曜講座にお越しください!
<Carmen McRae講座>
日時:2010年8月1日(日)
時間:正午~3:30予定
受講料:2,500円

 今週土曜日は寺井尚之メインステム3!お勧め料理は「蒸豚&チヂミの盛り合わせ」を!
CU
 
 

対訳ジゴク Again・・・

 日本列島がW杯に熱狂してるうちに7月到来!皆様、寝不足と暑さでバテていませんか?野球は好きでも、サッカーは全く音痴の私、やっと「オフサイド」の意味が判った夜に、岡田ジャパン惜敗、「よく頑張った!」と激励したいけど、疾走する選手達の一瞬の動きが和音なのか不協和音なのかよく判らないし、まだまだサッカー本来の「醍醐味」は味わえてません。
 ジャズも然り、ジャズに興味を持ち始めた方が、ジャズ本来の「醍醐味」を味わうためには、ライブや名盤を聴くときに、音楽の仕組みや、曲やミュージシャンの背景など知っていたら、余計に楽しいですよね!
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 ジャズの醍醐味、トミー・フラナガンの醍醐味を味わうには、ジャズ講座は絶好の機会、私の対訳業務はジャズ講座から始まりました。現在「トミー・フラナガンの足跡を辿る」はエラ・フィッツジェラルドの音楽監督時代を過ぎ、対訳の仕事は一段落だったのですが、ジャズピアノ教室生徒会の要望で、8月にカーメン・マクレエのセミナーをやることに決まり、思いがけなく対訳に明け暮れる恐ろしい日々復活。
 講師、寺井尚之がカーメン・マクレエの全ディスコグラフィーから選りすぐったのは目下34曲、実は、ずっと昔のジャズ講座創世記にカーメン・マクレエを取り上げたことがありました。その時聴いたカーメンの“Never Let Me Go”は本家ナット・キング・コールのロマンティックな味わいとは正反対と言っていい痛切なもので、頭をガツンと殴られたほど大ショックでした。「歌詞解釈」というコンセプトが身に染みたのは、その時が初めて、以来、歌詞対訳する際は、歌手の表現しようとしている意味を少しでも日本語にしてあげたいと思いながら訳しています。歌詞解釈の貧しい歌手の歌は訳していてもつまんない…そういう意味でカーメン・マクレエは最も『やりがい』のある歌い手です。嗚呼…伴奏者だったディック・カッツさんにもっとマクレエの話を聴いておけばよかった…後悔先に立たず。richard_katz.jpg
 鬼講師、寺井尚之の催促が恐ろしい…という訳で今週はブログを書く暇がない位切羽詰った状況になってしまいました。
カーメン・マクレエの前にエラ・フィッツジェラルドのサンタモニカ・シビックの未発表テイク3曲も通常ジャズ講座の為に作らなくちゃ…こちらはエラが歌詞をトチった為にオクラになっていたトラックです。歌詞をトチることでは定評のあるエラの豪快なトチリぶりも、皆で一緒に楽しみましょう!歌詞をトチっても音楽的には全くトチらないエラ・フィッツジェラルドの言葉を超える凄さが味わえると思います。
 ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」
日時:7月10日(土) 6:30pm開講 受講料 2,500円
今月の名盤:『Blues in the Closet』(The Master Trio)
 未発表テイク from 『Aurex Jazz Festival ’82 All-Star-Jam』『Live at Santa Monica Civic』

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 ;生徒会日曜セミナー「カーメン・マクレエ講座」
日時:2010年8月1日(日) 正午~3:30(予定)
受講料:2,500円(要予約)

 因みに日曜セミナーでは、久々に牛スジカレーやパウンドケーキ作る予定です!どちらも初めての方大歓迎!皆さん、ぜひお越しくさだいね。
 明日の鉄人デュオもよろしく~
 じゃあ、またカーメン姐さんの元に戻ります。CU

NYタイムズ巨匠ハンク・ジョーンズ追悼報道に非難轟々

 先週の寺井尚之バースデイは、色々お心遣いありがとうございました。摩周湖からジャック・フロスト氏が差し入れしてくださったスーパー・グリーン・アスパラはパスタに添えて皆で楽しみました。ごちそうさまです!!
 6月12日(土)のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」のOHP準備もなんとか出来てほっと一息、今回はトミー・フラナガン+ハンク・ジョーンズの最後のピアノ・デュオ・アルバム『I’m All Smiles』が登場いたします。「ジャズピアノの系譜」では同じ流派の中に併記される二人の巨匠、でも、同じ地方の同じ水から作られた極上の純米大吟醸も杜氏によって、味も香りも違うもの。火花散るセッションを寺井尚之の実況中継でお楽しみくださいね! ジャズ講座:6月12日(土) 6:30pm- 受講料2,625yen 要予約
<電子版NYタイムズ”或るジャズマン、終の隠れ家”>
 NY在住のジャズ・ミュージシャンが亡くなったと知らせが来ると、まずチェックするのが電子版NYタイムズの”お悔やみ欄(Obituaries)“のページです。2001年にトミー・フラナガンが亡くなった時はささやかな報道でしたが、昨年グラミーの「特別功労賞(Lifetime Achievement Award)」を受賞したハンク・ジョーンズさんの扱いはだいぶ大きなものでした。ピーター・キープニューズによる、よくまとまった追悼記事が掲載された翌日、NY市の色々なニュースをブログ形式で紹介する”City Room”のページに、ハンクさんが倒れる前に住んでいた部屋の様子が写真入りで掲載され、大きな波紋が広がりました。
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 「A Jazzman’s Final Refuge (或るジャズマンの終の隠れ家)」と題されたこのブログ記事は、先日91歳で死去する直前まで現役だった伝説的ジャズ・ピアニスト、ハンク・ジョーンズの賛美から始まっています。その華やかなキャリアと裏腹に、彼の私生活はアッパー・ウエストサイドの公団アパートのそのまた一部屋を間借りし、三食出前で済ます寂しい独居生活だったことに焦点を当てています。寄稿したタイムズの記者、コリー・キルガノンは、たまたま筋向いに住んでおり、亡くなった翌日に、ハンクさんに自宅の一室を貸していた大家さん(写真の人物)が掃除をするために部屋の点検をした時に立ち会って取材したということになっています。この大家さんはハンクさんの友人でもあり、現在もアップステイトの施設で暮らしていらっしゃるジョーンズ夫人の許に、ハンクさんを車で送ってあげたりするなど、色々面倒を見ていた方らしい。
 ハンマーなどの工具を使ってドアをこじ開け入ってみると、世界的なピアニストの居室は散らかっていた。ベッドは整頓されておらず、その周りにスーツケースや譜面、クラシック音楽のCD、シャーロックホームズの本などが乱雑に置かれていた・・・世界的なピアニストは、写真に写っているヤマハのキーボードで練習していたであろうことも書かれています。クローゼットをあけると、その中には、予備の電球、ブランド物のネクタイやスーツ、最高級シャンペンや、ピアノトリオ用のパート譜のファイルなどがあったということまで書かれています。(寺井尚之は「ハンク・ジョーンズほどの名手なら練習は安物のキーボードで問題ない!頭の中にサウンドがあるから、例え紙に鍵盤を書いただけのものでも、充分練習できるんや。」と言ってます。)
 それ以外にも、「TVでスポーツ観戦しようと誘っても、一日中練習していた。」「クラシック音楽のファンだった。」というような大家さんの談話も紹介されていて、NYならではの記事からという印象でしたが、高齢でもお元気なハンクさんのことをよく聞いていた私たちには、少し意外な感じもありました。
<覗き見趣味はやめろ>
 このブログにはコメント欄があり、最初のうちは「伝説的な巨匠の素顔が垣間見れてよかったです。」みたいなポジティブなものが多かったのですが、関係者達が寄稿するにつれて様相が変っていきました。ハンクさんを個人的によく知っており、彼の公式サイトを運営するウエブ・デザイナー、マイルス・モリモト氏のコメントがきっかけになって風向きはガラリと変わります。
「こともあろうにNYタイムズのような一流メディアがハンク・ジョーンズを孤独な老いぼれのように報道するとは何と嘆かわしいことか!彼は心臓のバイパス手術を受けてから、ハートウィックの農場に一人で住むことが出来なくなったりマンハッタンで間借りしていた。認知症の奥さんをケアするには医療設備が整った施設に入れなければならない。その費用が非常に高額なため、自分は狭い部屋でつつましく生活していたのだ。
 キーボードで練習していたのは、アパートにあるピアノの調律がひどくて練習にならないのと、近所迷惑にならないように配慮していただけ。・・・自分のバイパス手術や家族の病気、弟のサドやエルヴィンに先立たれても、彼は最後までユーモアと品格を失わず、演奏で皆を楽しませたのに・・・
 さあ、タイムズさん、お次はどうする?最近なくなったレナ・ホーンのクローゼットを覗いて、整頓されているかどうかチェックするのかい?」


 これが発火点となり、共演歴のあるチャーリー・ヘイデン(b)夫妻や、ハンク・ジョーンズのマネジャーが「プライバシーの侵害、人種差別では?」と声を上げ、ボルテージは高まる一方、とうとう沈黙を守っていたハンク・ジョーンズの甥、姪にあたるサド・ジョーンズの息子さんと娘さんが「自分たちは叔父の私室の鍵を預かっていたが、部屋を開ける際、何の断りもなかった。叔父は私生活を大事にした人だったから、こういう形の報道は好まなかったはず。」
と発言。
 ハンク・ジョーンズを撮影した写真家キャロル・フリードマンたちは実名で「プライバシー侵害!大新聞がタブロイド紙みたいなことするな!!」と大合唱、ついにパブリック・エディターと呼ばれる監査役的な編集者、クラーク・ホイトがこの件について寄稿「報道というものは、常にプライバシー侵害と切っても切れない宿命がある。しかし今回はウエブログということで、紙面の記事と比較すると、編集に甘さがあったのではないか?」と今後の課題を提起して一件落着を図りましたが、実名匿名、賛否両論、どさくさに紛れてちゃっかり自己宣伝したり・・・現在もコメントは続いています。
 ハンクさんは体調を崩し、この部屋からホスピスに移られたのだから、部屋は散らかっていて当然ですよね。自分の部屋の惨状を省みると、写真の部屋は別に乱雑にも見えません。キルガノン記者は、バド・パウエルをモデルにした映画”‘Round Midnight”の冒頭シーンなど、悲惨な死を遂げたジャズメンたちの歴史にステレオタイプされているところがあったのかもしれない。
 最後の住み家が大邸宅でも四畳半でも、ハンク・ジョーンズさんが巨匠であったこととは全く関係ありません。
  最後に生前のハンクさんがアップステイトの自宅でビバップについて語っている映像を見ながら、土曜日のジャズ講座を楽しみにしておいてくださいね!数年前の「敬老の日」特番で、NHKが同じこのおうちで撮影したドキュメンタリー番組を観たのが懐かしいです。こっちのほうがずっと散らかっているようにも見えますが・・・
CU

Have You Met Mr. Jones? 追悼 ハンク・ジョーンズ

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Hank Jones (1918-2010)
 5月17日(日)大巨匠ハンク・ジョーンズさん永眠。91歳、亡くなる直前まで現役というのは本当に素敵で凄い!心からご冥福をお祈りいたします。
 学生の頃から何度生演奏を聴きに行ったか数え切れません。OverSeasにお迎えしたことはありませんが、オフ・ステージでもお目にかかるチャンスに恵まれてラッキーでした。ハンクさんはいつも笑顔でした。笑顔だからこそ、却って近寄りがたい威厳を醸し出す師匠だった。
<生い立ち>
hank_jones_094_depth1.jpg  ハンク・ジョーンズは1918年というから大正7年生まれ、トミー・フラナガンより一回り上の午(うま)年です。ミシシッピー州に生まれ、多くの黒人達がそうであったように、台頭する自動車産業の地に移り、デトロイトに近いポンティアックで育ちました。
 10人兄弟の大家族で、5人の姉妹を含め兄弟全員が音楽をたしなんだといいます。弟にサド・ジョーンズ(cor)とエルヴィン・ジョーンズ(ds)がいるのはもうご存知ですよね。
 13歳で牧師のお父さんの反対を押し切ってジャズの道に入り、80年近くの間にジャズの名盤だけでなくありとあらゆるジャンルで数え切れない録音を残したピアノ人生でした。
 米国では、チャーリー・パーカーやベニー・グッドマンの歴史的録音の共演者としてではなく、マジソン・スクエア・ガーデンのジョンFケネディ大統領の誕生日(’62 5月)セレモニーでマリリン・モンローが歌ったバースディ・ソングの伴奏者として有名らしい。その時すでに45歳。
 日本では「ヤルモンダ!」というパナソニックのCMも有名だったし、関西には特にご友人が多く、お忍び来日の噂もよく聴きました。NYでは運転手つきの大きなアメ車で移動しておられたのが印象的。ジャズメンで運転手付きの車に乗っている人はベニー・カーターとハンク・ジョーンズ以外見たことない。
 トミー・フラナガンは、その端整なタッチやエレガントな芸風、多くの歴史的レコーディングの名脇役という共通点から、デトロイト時代の若い頃からハンク・ジョーンズに大きな影響を受けたように言われているけれど、実際はそうでもない。確かに弟のサドやエルヴィン・ジョーンズとはデトロイト時代から頻繁に共演した間柄だけど、ハンクさんはトミーが14歳の時にNYに進出しているし、それまでの数年間は地元の楽団に加入してミシガンやオハイオ方面をツアーしていたから、影響されようにもデトロイトでは殆ど面識がなく、ラジオでしか聴いたことがなかったそうです。
 ハンク・ジョーンズは40年代から50年代にかけて、NYジャズ・シーンで引っ張りだこの最も忙しいピアニストだったが’59年代の終わり、CBSのスタッフ・ミュージシャンとして安定した道を選ぶ。テレビ時代の幕開け!エド・サリバン・ショウなどCBSネットワークの人気番組では、姿を見ることは出来ないけれど、ハンクさんのピアノの音を聴くことは出来る。そして、コールマン・ホーキンスのグループやエラ・フィッツジェラルドなど、一流のポジションの多くは、ハンクさんのCBS加入と相前後してNYに進出したトミー・フラナガンが引き継ぐ形となった。
 ハンクさんはCBSのスタジオ・ワークの合間に、弟サド・ジョーンズ(cor)とメル・ルイス(ds)の歴史的名バンド、サド・メルOrch.など、断続的にジャズの仕事を続ける。業界で知らぬ者のない名手であるにも関わらず、脇役に徹したハンク・ジョーンズさんが主役を張ることになったのは、CBSが’70年代中盤、経営難から音楽部を解散したことがきっかけだった。’76年に、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムズ(ds)と”グレート・ジャズ・トリオ”を結成し、一躍人気ピアニストとして脚光を浴びることになる。トミー・フラナガンも同時期にエラ・フィッツジェラルドの音楽監督から独立してリーダー作を立て続けに録音した時代、寺井尚之のいう「日本のジャズ黄金期」のことです。
 そしてファッツ・ウォーラーの音楽を元にしたブロードウェイのレビュー”Ain’t Misbehaven'”の音楽監督兼ピアニストとして大当たりを取り、’80年代からつい先日まで人気ピアニストとして、またジャズ界の無形文化財として活躍を続け、グラミー賞など多数の賞や勲章を授与されています。
hank and elvin john_abbot.jpgエルヴィン&ハンク・ジョーンズ
 そんなジョーンズ師匠にまつわる伝説は数多い。例えば「ハンクは家でもスーツを着ていて、背広とタキシード以外にはパジャマしか着ない。」とか、「ツアーに必ずキーボードを持参してホテルの部屋でず~っと練習している。」そういう伝説は、徹頭徹尾プロの顔を崩さなかった名手ならではの伝説だ。日本でもコンサートの後、舞台の撤収を誰よりも真っ先に手伝う巨匠の姿に感動した人は多い。また「キャンセル魔」という伝説もあった。昼間には決めていたギグを夕方に「他に仕事が入った」とキャンセル出来るというのは、本当に仕事が多い人しか出来ないことですよね。
 ジョーンズ師匠が亡くなる直前までレギュラーで共演していたジョージ・ムラーツはこんなことを言っていた。「レコーディングでスタンダード・ナンバーを指定されると、演奏しすぎてイマジネーションが沸かないからと言って、とんでもないキーで演ることがしょっちゅうあった。」
hank_george_jo_paul.jpg左からジョージ・ムラーツ(b)、ハンク・ジョーンズ(p)、ジョー・ロヴァーノ(ts)、ポール・モティアン(ds)
 トミー・フラナガンは寺井尚之に会うたびにこんな質問をした。
 「ヒサユキ、おまえハンク・ジョーンズのことどない思う?」
 私が一緒にいる時だけでも最低4回はそのセリフを耳にしたことがあります。常に同じ「くくり」で認識されることにトミー・フラナガンはひそかに抵抗を感じていたのかもしれません。
 6月12日(土)のジャズ講座にはタイムリーなことに、トミー・フラナガンとハンク・ジョーンズのピアノ・デュオの名作『I’m All Smiles』が登場いたします。寺井尚之はペダル使いの名手ハンク・ジョーンズのコンサートで「足」ばかり観ていたこともあるらしい・・・寺井だから語れるトミー・フラナガンとハンク・ジョーンズ丁々発止のピアノ・デュオ・バトル、血沸き肉躍る実況中継をお楽しみに!
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 次回はハンク・ジョーンズさんの訃報にまるわるNYタイムズの報道にまつわり、現在も続くゴタゴタについて紹介しておきますね。
CU

Emil Viklickyさん、土曜日に会いましょう!& 「究極トリオ」動画など

emil_viklicky-4.jpgのサムネール画像

 「エミル・ヴィクリツキー訪日記念祝賀会」が二日後に迫り、何やかんやドタバタしております。エミル・ヴィクリツキーさんは、明日、広尾のチェコ大使館で開催される、非公式の歓迎レセプションで演奏、「ジャズのヤナーチェク」と称されるヴィクリツキーさんの演奏を聴きに各界の著名人も来られるという噂です。
 17日は上海万博の「チェコ・ナショナル・デー」でチェコ共和国を代表する世界的なアーティストとして、バレー、クラシック音楽、人形劇などと共に出演されるそうです。
 つまりEmil Viklickyを大阪で聴けるということは、非常にラッキーなことですよ!ぜひ皆様おいでください!
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「究極」の夢から覚めていない皆様へ
 先週の「セロニカ」講座にお越しになった皆様、あの「究極」フィナーレは感動しましたね!最近私事に忙しく、インターネットを観る余裕がなかったのですが、久々にジョージ・ムラーツの助手である有望ベーシスト、しょうたんくんがSNSに投稿している日記を覗いたら、あのトリオのyoutube動画が埋め込まれているのを発見してぶっ飛びました。

 演奏は言うまでもなくトミー・フラナガン(p)、ジョージ・ムラーツ(b)、アーサー・テイラー(ds)、1985年7月 オーストリア北西にある都市、ホラブルンで3日間開催されたジャズフェスティバルの映像です。“Theme for Ernie” をピアノ・ソロで演ってから”If You Could See Me Now”をトリオでというメドレーになっています。あの頃のムラーツ兄キとA.Tの姿が懐かしい!お気に入りの白ジャケット姿、トミーの肌もツヤツヤしていて元気そう!A.Tのマドラス・チェックのシャツも見覚えがあります。あの「究極」はこんな風に演ってたと確認できるだけでも、お宝ものの映像でした。このヴェニュー、ホラブルンはエミル・ヴィクリッキーさんの故郷、モラヴィアと19世紀からオーストリア北西部鉄道でつながっていることを想うと土曜日のコンサートがますます楽しみになってきました!
 しょうたん、ええもん載せてくれてありがとう!25日からムラーツはジョー・ロヴァーノとNYバードランドだよね!しょうたんの縁の下の力持ち助かってます。よろしくね!
 もうひとつ発見したのが、トミー・フラナガン・トリオに名手アルヴィン・クイーン(ds)が加わった”Mr. PC”の映像です!

 一説に、アルヴィン・クイーンはエルヴィン・ジョーンズの隠し子とも言われていて、そうであっても不思議でないほどの実力者です。それほど知名度がないのは長年スイス在住のせい。トミーが欧州楽旅する際は、よくアルヴィンを現地採用してツアーしていました。昔、ジョー・パス、ニールス・ペデルセン、ケニー・ドリュー(p)のカルテットで来阪されたときに楽屋でお会いしたことがあります。OverSeasのボトル棚の左上に寺井尚之がアルヴィン・クイーンから送られたメッセージ入りの大型ポートレートを飾ってあるので、見覚えのあるお客様も多いかも・・・風のようにスイングする凄いドラマーでしょう!決してエディ・マーフィーじゃありませんからね!
 というわけで、忙しいといいながら動画に興奮して、時間を費やしてしまいました。
 土曜日のエミル・ヴィクリッキーさんは、残席僅かになってきました。お越しになりたい方はOverSeasまで必ずご予約お願いいたします。
CU

“セロニカ”に燃えたジャズ講座!

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 Rainy Days and Mondays always get you down…とはいえ今日から連休明けという、羨ましい方もいらっしゃるでしょうね!
 私もドタバタしていますが、先週土曜日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、フラナガン究極の名盤『セロニカ』だったので、ブログを更新せずにはいられません。
 『セロニカ』には、トミー・フラナガンが周到に用意した芸術的な意図が沢山詰まっていて、寺井尚之がとても示唆に富む丁寧な解説をしました。いずれ講座本になりますので、どうぞご期待ください。
 『セロニカ』のヴァージョンはなぜ二つあるのか?フラナガンの意図は? 
 LP、CD、色んな曲順がある中で、どれが一番大切なのか?その理由は?
 トミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツ、アーサー・テイラーの超美技についての解説 etc…
 身振り手振りやATのドラム・フレーズのコピーを口で再現する寺井尚之はとても嬉しそう!
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 当然のことながら、沢山のジャズ通のお客様と共に、客席にはミュージシャンの姿も・・・
ippei_thelonica-2.JPG  ATの神業にのけぞる菅一平(ds)、宮本在浩(b)、あやめ会長
imaky_thelonica_2.JPG 録音時にはこの世に存在していなかった今北有俊(ds)の至福の表情、コック服の似合うピアニスト、絹こしくんもうっとり!
 講座の締めくくりには、寺井尚之の超秘蔵音源を聴き、皆で「あの頃」にタイムスリップ、究極のフラナガン・ミュージックにシビれて椅子から立ち上がれなくなった人もいました。
 感想メールも沢山頂戴して、どうもありがとうございました。
 来月はトミー・フラナガンとハンク・ジョーンズのピアノ・デュオ、『I’m All Smiles』やマスター・トリオを聴きましょうね!
CU