サミー・ディヴィスJr.とビリー・エクスタインのちょっといい話。

sammy1.jpg(Sammy Davis Jr. 1925-90)

 7/5(土)「楽しいジャズ講座」は、サミー・ディヴィスJr.の至芸を寺井尚之の名解説で!

 私がジャズを好きになった頃は、毎週TVで『サミー・ディヴィスJr.ショウ』を放映してた。バックのビッグバンドはサミー専属ジョージ・ローズOrch. ダイアナ・ロスやミニー・リパートン・・・有名スターが毎回ゲストで出演して、ヒットソングやスタンダードを歌って踊る!楽団の中にハリー”スィーツ”エジソン(tp)やフランク・ウエス(ts)の姿を見つけたときは、宝くじに当たったみたいでそりゃ嬉しかった!

 
davis27n-2-web.jpg 若かりしその頃は、彼の生い立ちや人生に興味を持つことすらなかったのですが、今回の映像が余りにも素晴らしく、俄然興味が・・・ 

 サミー・ディヴィスJr.の伝記は4冊出版されていて、私が読んだのは、最も初期の”Yes, I Can”(Farrer Straus & Giroux  1965刊)、小学校にも行かずに、父親と叔父さん(のような人)のウィル・マスティンと共に、ヴォードヴィル一座の子役として、ストリップ劇場のドサ回り、従軍、激貧、想像を絶する人種差別体験、長い下積みを経て、フランク・シナトラを始め芸能界の白人の仲間達のサポートで、人種の壁を打ち破りスターになってからも、交通事故で片目を失い、結婚、宗教、政治、あらゆるところで世間の非難に晒されれながら、自分を守る術は「芸」だけだという、単なる出世物語を越えた読み物でした。

  スターの自伝ですから、勿論自筆ではなくインタビューをまとめたものですが、他人や自分の「芸」に関する論評が、スカっとしていて簡潔明瞭なところは、やっぱり天才!アメリカ文化史に興味があるなら、とっても読み応えがありました。

rat_packtumblr_mpy5qnLslm1qghk7bo1_500.jpg例えばフランク・シナトラの歌唱についてはこんな感じ。「フランク・シナトラの歌は他のバンドシンガーとは全く違ってた。彼の歌い方はとてもシンプルで簡単そうなのに、彼が歌うと、その歌詞は命を得て、もやはメロディーにくっついた”おまけ”ではなくなっていた。」

 貧乏で困った話、軍隊で想像を絶する人種差別に遭った体験は、彼に小便を飲ませ、密室に連れ込んでリンチする白人たちの憎悪の言葉や、ごく些細な仕草までが、虫眼鏡で過去を辿るように克明に書かれていて、ハリウッド映画のハッピーエンドなんてどこにもないタレント本です。

 サミー・ディヴィスJr.は勿論ジャズのカテゴリーに収まりきれる人ではなく、ジャズメンの記述はさほど多くはないのですが、寺井尚之の大好きな往年の黒人スター、ビリー・エクスタインとの人情あふれる逸話があったので、要約しておきます。

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 1946年、サミー・ディヴィスJr.のヴォードヴィル・トリオは時代の波に取り残され、仕事が入らず、家賃も食費も電気代もない、やるべき仕事は質屋とアパートの往復だけ。文字通りどん底の生活にあえいでいました。NYの寒い冬の或る日、彼が声帯模写を得意にするビリー・エクスタインがパラマンウント劇場に出演中だから、一緒に写真を撮ってもらってはどうか?記事に出来るかもしれないから、と雑誌社に勧められます。 元々知らない相手ではなかったので、恥を忍んで電話でお願いするとエクスタインは快諾してくれた。一緒にポーズを取ってもらい首尾よく2ショットを撮影。丁寧にお礼を言って退出しようとすると、Mr.B(ビリー・エクスタイン)はそれを引き止め、自分の楽屋に招き入れコーヒーをごちそうしてくれた。暮らしはどうだ?家賃は払えているのか?と親切にたずねてくれた。
 実のところ、電気代節約のため冷蔵庫は開け放したまま、家の中でコートを着て台所のオーヴンの前でかろうじて暖を取る生活。自分たちが飢えるのは仕方ないが、同居する年老いたママ(実は祖母)だけには少しでも温かい食事を食べさせたい。その一心でプライドをかなぐり捨てて、Mr.Bに頭を下げて借金を願い出ます。

 「B、悪いんだけど5ドルほど貸してくれませんか?少しづつ返します。貸していただけたら恩に着ます。どうぞお願いします。」
 Mr.Bは何も言わずに、腕時計に目をやった。500ドルはするダイヤ付きの金時計だ、
 「まあ、ついでにショウを観て行けよ。」
 サミーは舞台の袖で彼の出を待ちながら激しく後悔した。「あんなこと頼むんじゃなかった。金持ちそうに見えてるけど、彼だって実は文無しかも知れないじゃないか。それとも僕にはビタ一文貸したくないのかも・・・どうせ彼には関係ないことだ。いざ金のこととなると人間てのはわからないもんだ。写真を一緒に撮っても金はかからないもんな。内心はまっぴら御免だったのかも知れないが、まあメトロノーム誌に載っても損はないだろうし・・・」
 ビリー・エクスタインがステージに登場し、スポットライトでダイヤの指輪が輝いた。僕達があのダイヤを売れば一年は食べて行けるだろうよ。なのにたった5ドルで僕をここに引き止めてる。いい勉強をしたよ!本当に助けてくれる人間以外には悩みを打ち明けちゃいけないんだ。

 僕はこの場から立ち去ろうとした、彼のことなんか必要じゃないってことを示すために・・・でも実際はそうじゃなかった。
 僕は舞台の袖で彼の仕事振りを観た。彼は僕にはない全て持っていた。背が高くてハンサムで、自信に満ち溢れ、どんな者にでも成れた。この世界の巨人だ!トップスターだ!劇場は彼をひと目見ようとする客で満員だ。・・・そして彼のステージマナーときたら、ああ、最高のプロフェッショナルだ!


 ステージを終えて戻ってきた彼に僕は挨拶した。
「B、素晴らしいショウでした。写真のこと本当にありがとうございました。僕はこれで失礼します。」


 「ちょっと待てよ、ほら、忘れ物だよ。」エクスタインはさり気なく僕のポケットにお金を滑り込ませた。


 僕は自分の思い違いを責め、自己嫌悪で一杯になりながら劇場を後にした。そして、親しくもない人に借金を申し込むほど落ちぶれた自分を責めた。雑踏を歩きながら、僕はポケットの中に彼が入れたものを取り出した。それはなんと100ドル札だった!
 Mr.Bは僕らの窮状を察して、何も言わずに助けようとした。本当はすごく思いやりのある人で、僕のメンツを潰さないよう気遣ってくれたのだった。

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 当時の100ドルと言えば、20万円位の値打ちがあったのではないでしょうか?サミー・ディヴィスJr.に男の気遣いを見せた侠客ビリー・エクスタインの伝説のビッグバンドはこの年の暮れに破産します。

 左の写真はその後、1950年代に売れっ子になったサミー・ディヴィスJr.がビリー・エクスタインのショウに訪れたというニュース写真。

左端が、サミー・ディヴィスJr.が「叔父さん」と呼ぶ、ウィル・マスティン、ボスであり、同志、サミーに実の甥以上の愛情を注いだ「叔父さん」のことをサミーは一生面倒を見て、ディヴィス家の隣のお墓に埋葬されています。

 

7/5(土) サミー・ディヴィスJr.をOverSeasで観よう!

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 20世紀を代表するエンタテイナー、サミー・ディヴィスJr.を知っていますか?もしご存じなくても、もしジャズが好きだったら、もしマイケル・ジャクソンやレディ・ガガを好きだったら、ぜひ一度観て欲しい!

 OverSeasでは7月5日(土)「楽しいジャズ講座」で、サミー・ディヴィスJr.がドイツで行ったコンサート映像を観ながら、寺井尚之がその至芸を解説します。

 昭和時代、サントリーのCMは一世を風靡しました。

 サミー・ディヴィスJr.(1925-1990)は、初期のジャズを育んだボードビル出身、つまり歌や踊りや音楽など様々な演芸を披露する旅芸人の一座から頭角を現した人、両親もボードビリアンで、デビューは4才(!)というから歌舞伎役者並です。天才子役として5才で映画デビュー、以来、20代で声帯模写の名人として有名なった後、歌手として「自分の歌」でヒットを飛ばし、ブロードウェイ、ハリウッド映画、ラスヴェガスのショウなど、様々な分野で大活躍しました。

 その芸域はヴォーカルに留まらず、タップダンスのレジェンドとして、マイケル・ジャクソンのルーツの一人に数えられているし、声帯模写も超一流、その辺りは、寺井尚之の講義でじっくりお楽しみください。

a_man_called_adam_dvd_copy.jpg ジャズというカテゴリーを超えたエンタテイナーではありますが、サミー・ディヴィスJr.はトランペットとドラムにも長けていて、映画「アダムという男」では、ナット・アダレイに吹き替えられたものの、リアルなジャズ・トランペット奏者を演じていますし、ライオネル・ハンプトン楽団、ウディ・ハーマン楽団のギグでは助っ人としてドラムを演奏した経歴を持っているというからハンパな腕ではありません。ジョー・ジョーンズやソニー・グリア、オリヴァー・ジャクソン、エディ・ロック…名ドラマー達は皆タップ・ダンサ-でしたから、歴史的に相関関係があるんでしょうね。

 そして言うまでもなくサミー・ディヴィスJr.は、「シナトラ一家 (The Rat Pack)」の一員としても有名です。フランク・シナトラを大親分に、ディーン・マーティン、ナット・キング・コール、ディーン・マーティン、ハンフリー・ボカートなどと盛んにショウを行いました。映像では親分以外の組員をサミーが一人でやってのけています。

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 その他、映画『雨に歌えば』の名ダンス・シーンやタップ・ダンスの神様と呼ばれたビル”ボージャングル”ロビンソンに捧げる名唱”Mr. Bojangles”など、見どころが一杯!

 華やかなパフォーマンスの影で、彼の生涯は、幼い頃に育ててくれた母が実は祖母だったり、キャリアの頂点で、交通事故のために、ダンサーでありながら左目を失明するという引退の危機にさらされたり、人種隔離の時代にブロンドの白人女性と結婚したことがスキャンダルになったり、絶体絶命のピンチを乗り越えてきました。

 またいずれブログに書きたいと思います。まずは7月5日(土)の「楽しいジャズ講座」にどうぞ!

音楽や芸能に興味がある方なら、どなたも必見です!

porgy-and-bess-sammy-davis-jr-1959.jpg『楽しいジャズ講座』:サミー・ディヴィスJr.

日時:7月5日(土) 7pm- 受講料 2,000yen (税抜)

「講座」サイト

 

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(3)

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 ケニー・ド-ハム(KD)は、チャーリー・パーカーが彼を選んだ理由として「僕が彼のほぼ全演目について構成からアンサンブルに至るまで、完璧に知っていたからじゃないかな。」と語っている。ひょっとしたら前任者のマイルズから「僕が独立したら、次は君の番だから、ネタを頭に入れておいてくれ。」と言われていたのかもしれないけれど、この頃のジャズメンの掟は「譜面は門外不出」、隠し録りする機材もないし、それがどれほど難しいかは想像を絶します。とにかくKDは準備万端整えてネキスト・バッターズ・サークルに入っていた。
 そういえば、生前のトミー・フラナガンがトリオでNYのクラブに出ると、色んなミュージシャンが壁際に佇み、必死の形相で、食い入るように見つめてた。私の隣にで五線紙と鉛筆持って集中する寺井尚之もご同様、「楽しい」なんて生易しいものではありません。休憩時間になると、そんな壁際の仲間が寺井の席に来て「さっきのあれ、なんや?」と情報収集。KDもそんな表情でバードのライブを見つめていたのかな?

KDandMomRoyalRoost1948.bmp1948年《Royal Roost》 にて。右端がケニー・ド-ハム夫妻、マックス・ローチ、一人置いてチャーリー・パーカー、一人置いてアル・ヘイグ、左端がミルト・ジャクソン:KDの娘さんEvette Dorhamのサイトより。

 

 マイルズからKDへのレギュラー変更は、チャーリー・パーカー・クインテット初の人事異動でした。KDは体調の波が大きいバードのために、彼が不調なとき、遅刻したときも、バンドをまとめて”チャーリー・パーカー・ライブ”のかたちを作る片腕になりました。リズム・セクションは、マックス・ローチ(ds)、トミー・ポッター(b)、アル・ヘイグ(p)、バードの天才が閃くと、その輝きを真近で享受した。入団2日目、クリスマスの夜、《ロイヤル・ルースト》で彼らが演奏した”White Christmas”のビバップ・ヴァージョンは、後にトミー・フラナガンがピアノ・トリオのヴァージョンに変換して、今では寺井尚之の演目になっています。

<ジャズでは家族を養えない>50af8aff713e2.jpg

 1950年、KDは「ジャズでは家族を養えない。」とNYを退出し西海岸に引っ越した。叩き上げの一流トランペット奏者の決断は、同年、理想の音楽家であるディジー・ガレスピーの楽団が破産の憂き目に会ったことと大いに関係があるように見えます。KDはパジェロの海軍弾薬庫や航空会社などで粛々と勤務して給料をもらった。そんな生活は、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの創設メンバーとなり、ブレイキーに「ええ加減にデイ・ギグ(昼の仕事)辞めてNYに落ち着いたらどや。」と言われるまで続きます。
 ジャズ・メッセンジャーズでは、6月18日に亡くなったホレス・シルヴァー(p)、ハンク・モブレー(ts)たちと活動、1956年に独立し、J.R.モンテロース(ts)を擁する自己バンド”ジャズ・プロフェッツ”を結成しますが、その直後にクリフォード・ブラウンが事故死、急遽マックス・ローチ(ds)に呼ばれ、ブラウン-ローチ5の後釜に入ったため、”ジャズ・プロフェッツ”はあっというまに解散。ディジー・ガレスピー楽団の崩壊とクリフォード・ブラウンの死、’50年代、ジャズの業界より、ミュージシャンを心底震撼させた2つの出来事がKDの人生に大きな影響を及ぼしています。
 

 

  ’50年代以降、フリーランス、つまり無頼派を貫いたKDは、ある時は工場で、ある時は音楽学校の教師やジャズ・モービル、ハーレムの貧困層支援プロジェクトHARYOUのコンサルタントなど、様々な活動をしています。”Quiet Kenny”というのは、ハイノートや超絶技巧を見せつけるのではなく、無駄のない抑制の効いたスタイルから、ケニー・ド-ハムについたニックネームです。名盤『静かなるケニー』を録音した’59年には渡欧し、バルネ・ウィラン(ts)やデューク・ジョーダン(p)達とリノ・ヴァンチュラ主演のフィルム・ノワール『彼奴を殺せ( Un temoin dans la ville)』の映画音楽の作曲や出演もしています。『静かなるケニー』の”Blue Spring”が映画冒頭に流れるテーマ・ソングなんですよ。

Joe_Henderson_Page_One.jpg ’62-’63年にはジョー・ヘンダーソン(ts)とコンビを組み、『ページ・ワン』を発表、”Blue Bossa”は永遠のジャズ・スタンダードとなりました。

 ’60年代の後半から腎臓病と高血圧に悩まされたKDは、だんだんトランペットを吹くことが難しくなり、ダウンビート誌で評論を書きながら、将来は教えることに専念する計画を持ち、NY大学の大学院で学び、’72年に亡くなるまで教壇に立ちました。

 KDの死後10数年経ってから、寺井尚之とNYに行くと、ジミー・ヒース(ts)は「やっとKDの譜面集が出たから、必ず手に入れて帰りなさい。」と言い、出版したドン・シックラー(tp)にその場で電話をかけてくれました。次の日シックラーのスタジオに行くと「君たちがここに来た最初の日本人だ。」と歓迎してくれました。それから数えきれない日本人ミュージシャンが、レコーディングのお世話になっています。

 <ロータス・ブロッサム>

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 KDは48年間の短い人生の中で、何度も音楽活動を休止して、音楽とは無関係な仕事に就きました。すべては妻と三人の娘さん達のためです。そんな生き方を不器用だとかB級だとか言うのはいけないと思います。彼は工場で働くことで、音楽の魂を売り飛ばさずに、信念を貫いたのではないのかな?だから、他の仕事に就いても、彼のマウスピースは錆びつかなかった。沢山の名曲も生まれた。理想を脇に置いて、コマーシャルな音楽をやり、お金と引き換えに品格を失う天才もいるし、逆に、音楽が「生活苦」という垢にまみれてしまうミュージシャンは沢山います。一方、KDは、家族への責任も、音楽に対する信念も、どちらも失わなかった。苦労を重ねるほど、作品と演奏が垢抜けするアーティストが他に何人いるでしょうか?それは、幼いころテキサスの田舎の農場で一人前に働いた体験が元になっているのかも知れません。

 KDの子供の頃は、家に新聞もなかったし、よほど大きなニュース以外全く知らなかった。5才の頃、西部で銀行強盗を繰り返し壮絶な死を遂げたカップル「ボニー&クライド」の事件が、数少ないビッグニュースで、ボニーが死に際に自分の血で書いたという詩を、自伝に引用していました。生死の間にありながら、不思議なほど静謐なこの詩は、KDの音楽と何故かとても似ている。

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 地方紙に、ボニーがありのままの人生を詠った詩を、死に際に作ったという記事が載っていた。血で書かれていたということだ。こういう詩だよ-

ジェシー・ジェームスの一生はもう読んだでしょ。
彼の生き様と死に様を
もし、他にも何か読みたいのなら
ボニー&クライドのおはなしを。

 彼の代表作”Lotus Blossom”は、泥の中から汚れのない美しい花弁を開く蓮の花、KDという人そのままです。『静かなるケニー』を聴く度に、私もがんばろう!と思います。

【参考文献】

  • Fragments of an Autobiography by Kenny Dorham (Down Beat, MUSIC ’70s 資料提供:後藤誠氏)
  • Notes and Tones : Musician To Musician Interviews / Arthur Taylor (Perigee Books刊)
  • To Be or not …To Bop / Dizzy Gillespie, Al Fraser (Doubleday and Company 刊)

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(2)

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ケニー・ド-ハム(1924-1972)

 

 1944年7月、20才を目前に、ケニー・ド-ハム(KD)はNYに辿り着いた。ビッグバンドでのツアー暮らしを辞めNYに落ち着いた理由は、理想の音楽=ビバップを極めるためだったとKDは語っている。同時に、戦時下のビッグバンド興行に対して、”キャバレー・タックス”と呼ばれる非常時特別税が新たに施行され、ダンスホール受難の時代が始まったこととも関係があるかもしれない。  

<ポスト・ファッツ・ナヴァロ>

 KDは、手始めにハーレムの”ミントンズ・プレイハウス”を訪れた。マンデイ・ナイトのジャム・セッションは新mintons_playhouse.jpg旧のミュージシャンが火花を散らしてしのぎを削る道場だ。そこにチャーリー・パーカーが現れると、バンドスタンドにひしめくホーン奏者達は敬意を表して退き、一心に聴く側に回った。バードとセッションができるホーンはディジー・ガレスピーかファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィスくらいのものだった。やがてKDはプレイはそんなトップ・ミュージシャンに注目されるようになる。

 NYに来た翌年、ディジー・ガレスピー・ビッグバンドのオーディションに見事合格、ガレスピーの弟子という扱いでヴォーカルを兼任しながら修行した。ガレスピーはKDを第二のファッツ・ナヴァロしようと厳しく育て、KDもディジーに選ばれた弟子であることを誇りに精進した。『静かなるケニー』の悠然として隙のないプレイの源だ。

 当時のジャズ界には、徒弟制度が歴然と存在し、「バンド」という集団の中で、伝統や技量の継承が行われていたのは興味深いですね。

 翌年、KDは文字通りナヴァロの後任として、伝説のオールスター・ビバップ・ビッグバンド、ビリー・エクスタイン楽団に入団することになります。

 <ゴーストライター> 

DIZZY GLLESPIE GIL FULLER AND DICK BOCK.jpg左から:ディジー・ガレスピー、ギル・フラー、西海岸のレコード・プロデューサー、リチャード・ボック

  「ビバップでは食えない。」これは(私共を含め)古今東西のジレンマで、例えビバップの神様、ディジー・ガレスピーの弟子であっても、例外ではなかった。まして娯楽産業は肩身の狭い戦時中、歴史的ビッグバンドに在籍していても、ピッツバーグに妻子を持つKDは、実に色々なアルバイトで稼いだ。軍需産業や砂糖工場、ギグが空っぽの時期は、NYを離れて数ヶ月出稼ぎに行った。

 1970年に書いた自伝で彼はこう付け加えてる。 こんなこと言ったって、今の若い奴らは信じないだろうがね。」

 同時にKDは内職もやった。それはバンドの編曲、ディジー・ガレスピー楽団の番頭格、ギル・フラーは他の楽団のレパートリーもごっそり請負って数人のミュージシャンをゴーストライターとして抱えていたんです。KDが手がけたのは、ハリー・ジェームズ、ジミー・ドーシー、ジーン・クルーパー…錚々たる楽団の編曲でした。

 ギル・フラーはウォルター・フラーともクレジットされ、ビバップ時代のフィクサーとされる謎の多い人物。ジミー・ヒースもフラーから編曲のABCを習ったそうですが、とにかく沢山のクライアントを抱えて、時代の先端を行くモダンな編曲を提供するディレクターのような存在。昨今話題のゴースト・ライターも、ジャズ界では別に珍しいことではなかったんです。

 <栄光のビリー・エクスタイン楽団> 

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  ビリー・エクスタイン楽団は、パーカー、ガレスピー、ソニー・スティット、ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、ファッツ・ナヴァロ、アート・ブレイキーなどなど…キラ星のようなメンバーを揃えたビバップ・ビッグバンド!余りに時代の先を行ったモダンさゆえに短命に終わり、真の姿を捉えた録音も少ない伝説のバンドですが、このバンドのメンバーになることは黒人ミュージシャンの誇りだった。KDはお呼びがかかるとすぐさまNYから南部(!)の公演地まで長時間汽車に揺られて駆けつけます。

 ビリー・エクスタインやオスカー・ペティフォード、ディジー・ガレスピー、革新的なミュージシャンが組織した夢の楽団は、それに見合ったブッキングが叶わず解散の憂き目にあったんですね。

 KDは意気揚々とスーツを新調し、ベレー坊にサングラス、それにワニ皮のコンビの靴というバッパーの出で立ちで汽車に乗り込みます。目的地はルイジアナ州モンローという街、セントルイスを過ぎると車両に農夫たちが続々乗り込んできて、彼らの抱えた麻袋の中から、生きたニワトリや豚、リスやフクロネズミの鳴き声や臭いが旅のお供だった。どうにか目的地に到着したものの迎えが来ません。KDは入団初日の情景をこんな風に書いている。

artboo.jpg  本番ギリギリになってやっと迎えが来た。最初に挨拶したのがアート・ブレイキーだ。『おーい、ここだ!』と彼が叫び、初対面・・・というか、初めて間近で見るMr.B(ビリ-・エクスタイン)に紹介され、彼の楽屋に同行した。Mr.Bが着替えを始めると38口径のコルトが露わになった。楽屋を見回すと、武器が沢山あったが、テキサス出身の僕はそんなに気にはならなかった。

 舞台に上がると、僕の座席はブレイキーの隣だ。初日のこの夜、彼のドラムで僕の鼓膜は破れそうになった。だが、その晩まで、こんなに素晴らしいコントロールとドライブ感のあるドラムは聴いたことがない!それは生涯の思い出になる夜だった。”ラブ・ミー・オア・リーブ・ミー”では、4小節のブレイクが僕に回ってきた。ファースト・トランペットのレイモンド・オールから送られた合図で、僕の人生は物凄く大きな一歩を踏み出したんだ。その4小節を難なく吹き切った途端、メンバー達の歓声が湧き上がり、ブレイキ-得意のあのプレスロールが炸裂した。それはみんなが僕を仲間として受け入れてくれたしるしだった。殆ど23年経った今も耳に焼きついている。」

 エクスタインはKDを弟のように可愛がってくれました。ピッツバーグの自宅でごちそうしてくれたり、クリスマスには上等のレザーのジャケットをプレゼントしてくれた。ところがKDはその恩に背くことをやらかした。日米限らずバンドマンは「呑む、打つ、買う」、KDもギャンブル三昧で生活が荒れ、Mr.Bにもらった大切なジャケットも手放した。挙句の果てに、楽屋でバンドのメンバーと拳銃がらみの暴力沙汰を起こし解雇された。在籍期間丸一年。やれやれ…

<チャーリー・パーカーとパリへ>

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 ビリー・エクスタイン楽団の経歴でハクが付いたKDは、様々なバンドを渡り歩くようになります。そんななか、1948年12月、”ロイヤル・ルースト”でチャーリー・パーカーと共演していたハリー・ベラフォンテがやって来て「バードが君に会いたがってる。」と言付けをもらった。

 「マイルズが自己バンドを率いて独立することになった。もしよかったらうちで演らないか?」

 KDは次の日からチャーリー・パーカー5のレギュラーとして”ロイヤル・ルースト”に出演。1948年のクリスマス・イヴでした。KDは翌年の春、バードとフランスの国際ジャズ・フェスティヴァルに出演。一旦、レッド・ロドニーと交代するものの、断続的に共演を続け、バードの死の一週間前、最後の演奏でもバンドスタンドを分け合いました。

 ツアーを共にし、毎夜共演していてもバードはミステリアスな存在でありつづけました。とにかく性格的に暗いところは微塵にも見せない天才音楽家だったけれど、在籍中たった一度のリハーサルを除き、本番以外に顔を合わせたことがなかったというのです。プラベートな時間はどこで何をしているのか全くわからなかった・・・

(つづく)

 

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(1)

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6月「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、ハードバップの味わいがぎゅっと詰まった永遠の愛聴盤『静かなるケニー』登場!濃密なのに、こんなに誰にも愛されるアルバムも珍しい。「完璧」ではありながら、やりすぎない「程のよさ」!粋だ!しかもレーベルは”New Jazz”=つまりプレスティッジですから、このきめ細かく行き届いた名盤はほとんどぶっつけ本番のワン・テイク録りで生まれたということになります。 Kenny Dorham 2.jpg 大都会の「粋」と「憂愁」が漂うKDのトランペットですが、意外にも彼が生まれたのは、NYから遠く離れた西部の大平原でした。彼の幼少時代に聴いた音が、彼のプレイに大きく反映しているといいます。  KDは音楽だけでなく、並外れた文才があり、ミュージシャンの視点から鋭いツッコミを入れるレコード評やエッセイもとてもおもしろい。彼が晩年、晩年(’70)にダウンビート誌に寄稿した自伝的エッセイ”Fragments of Autobiography in Music”には、ビバップやハードバップの中には、彼が幼いころに聴いた大自然の音が取り込まれていると書いてあります。 KDことケニー・ド-ハムの生い立ちをちょっと調べてみることにしました。 この自伝は、現在ではなかなか入手困難、ジャズ評論家の後藤誠氏にコピーを頂いて読むことができました。後藤氏に感謝!

 

<大いなる西部>

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  ケニー・ド-ハムが生まれたのは大正13年=1924年、テキサス州のポスト・オークという土地。街でも村でもなく、土地だった。そこには大きな樫の木が群生し、オールトマンという一家の農場があったので便宜上そう呼ばれていただけ、地図にない地名だった。 『名前の無い場所に住むっていうのがどんなものか想像してみてくれ。』と彼は書いています。20kmほどいくとやっとフェアフィールド市という人里がありますが、その街ですら現在も人口2000人足らずという大西部!両親は農場の小作人で、KDも幼い頃から、白人の農場主の息子たちと一緒に仔馬を乗り回し、家畜の世話や農作業をして育った。そんな彼が最初に親しんだ音楽が自然の音、つまり鳥や動物の声だった。モッキンバード(!)を始め、カラスやキツツキ、夜鷹、ウグイスなどの鳥の声や虫の声、それにコヨーテやガラガラヘビ…それらの生き物の声と、テキサス東部を横断する鉄道の汽笛のハーモニーを楽しんだ。夜汽車の汽笛の哀愁はドーハムの記憶に大きく残っているといいます。そういえば「静かなるケニー」の”Alone Together”にも、そんな静けさと哀愁が漂っていますよね。

<ビバップとヨーデルの不思議な関係> 

 blackcowboys.jpgジャズと出会う前、KDが憧れた音楽家は、夜汽車やヒッチハイクで放浪し、民家に食べ物や一夜の寝床を恵んでもらってはブルーズを歌って聴かせる流れ者(Hobo)、それに農作業をしながら巧みなヨーデルを聴かせるカウボーイ達。 

ケニー・ド-ハムはヨーデルの歌声とビバップのフレーズの関係を、こんな風に語っています。

  「 ヨーデルというのは、カウボーイや農夫が、初期の西部のフォークソング・スタイルで即興演奏をする道具だった。これぞ西部の上流生活!綿摘み農夫がその日の最後の綿を袋に詰め終わったとき、彼がヨーデルを歌うのが聞こえるよ。後になって、チャーリー・パーカーやキャノンボール・アダレイが、ホーンでそんなヨーデルと同じメロディを吹くのを聴いたことがある。 

   カウボーイがひとりぼっちで牧場で作業していると、一日の終わりに歌うヨーデルが聞こえる。仕事を終えて、囲い檻で馬の鞍を外す間、カウボーイはヨーデルを歌うんだ。カウボーイっていうのは、見せたり聞かせたりする芸当を色々持っていて、それらはしっかり仕事と結びついていた。芸はどうやら彼らの生活の一部になっているようだった。」

  KDもそんなカウボーイに倣って、いろんな芸を身につけ、5才の頃には見よう見まねで、ピアノを両手で弾いてみせることが出来たそうです。

<ルイ・アームストロングは大天使に違いない> 

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  人里離れた農場で育ったKDがジャズと出会ったのは12才と遅い。ジャズは、ポストオークから車で一時間ほどの街に住んでいた姉から伝わった。年の離れた姉さんは、やはり音楽の才能があり、ピアノと歌で学費を稼ぎ、結婚してパレスタインという街に住んでいた。その姉が実家に帰ってくると、街で流行する「ジャズ」という音楽のこと、そしてルイ・アームストロングの話をしてくれた。

 姉さんによると、ルイ・アームストロングは本当に素晴らしくて、聖書に出てくる「大天使ガブリエルに違いない。」というので興味が湧いた。 

archangel_gabriel_blowing_trumpet_relief_color_lg.jpg ガブリエルは、神の使いとしてマリアさまに受胎告知した天使で、ラッパを持っていて、神のお告げを伝えるのです。ラジオから流れるルイ・アームストロングのペットも歌も、ガブリエルそのままに神々しいものだと、街で評判だと言うのです。そして姉さんは、まだヨーデルとウエスタンと讃美歌以外に音楽を聴いたことのない弟の将来について予言した。 

 「この子が音楽を聴いて飛んだり跳ねたりするのを見たでしょう!この子は、きっと音楽家になるわ。ルイ・アームストロングみたいな偉大なミュージシャンにね!」 

 同年KDは、ハイスクールで教育を受けるため、親元を離れテキサス、オースティンの親戚の家に下宿し、姉さんが両親を説得してKDにトランペットを買い与え、正式なレッスンを受けることになります。

Clark_Terry_copy1.jpg テキサスはフットボールが盛んな州、アメフトの応援に欠かせないのがチアリーダーとブラスバンド!だからトランペット奏者の層は厚くレベルがとても高かった。全米各地のハイスクール・ブラスバンドの交流も盛んでした。才能のある学生トランペッターがいると、プロのスカウトマンやミュージシャンがゲームにやってきて、青田刈りするということが、フットボール選手だけでなく、応援するブラスバンドの団員にも行われていたのです。なかでも遠く離れたセント・ルイスに、恐ろしくうまい神童が2人いるという噂が鳴り響いてた。それがクラーク・テリーとマイルズ・デイヴィス!

 

  一方、KDのブラバン活動は神童と言えるほどのものではなかった。耳の良いKDは、ラジオで聴いたジャズのメロディーをすぐに吹けてしまうものだから、練習の合間に、ついつい聞き覚えのフレーズを吹いてみる。それが体育会系のバンマスの逆鱗に触れてあえなく登録抹消。KDはさっさとボクシング部に転向し、そこでもなかなかの成績を上げ、同時にジャズに対する興味は衰えず下宿先の納屋で一人練習、化学専攻でウィレイ・カレッジに進学しますが、大学では音楽理論の授業ばかり受け、その頃にはピアノもトランペットも相当な腕前になっていた。

 <ビバップ開拓時代の夜明け> 

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 KDは1942年に徴兵され、陸軍のボクシング・チームに入った。マイルズといい、KDといい、トランペットとボクシングにはなにか密接な関係があるのかもしれません。ボクシングの合間には、同じ隊にいたデューク・エリントン楽団のトロンボーン奏者、ブリット・ウッドマンとジャズ三昧!そんなときに出会ったの音楽がビバップで、KDはこの新しい音楽に夢中になりました。 

 1944年に除隊した後は、ジャズ修行に各地を転々とし、カリフォルニアまで行きますが、自分の求める音楽は西海岸にはなかった。そこで東に進路を変えNYに、翌年、ディジー・ガレスピーの弟子としてガレスピー楽団に入団。ここからKDのハードバップ開拓時代が始まります。(つづく)

 

 

翻訳ノート:ジョン・コルトレーン 『オファリング(魂の奉納)ライヴ・アット・テンプル大学』

33526.jpg  後期 ジョン・コルトレーンの最も濃密な演奏、40歳という早すぎる死の8ヶ月前、故郷フィラデルフィアで行ったコンサートの貴重な全貌を捉えた未発表音源、『オファリング(魂の奉納)ライヴ・アット・テンプル大学』の日本盤がリリースされます。(キングインターナショナルより7月21日発売予定)

 私が訳したのは、本作のプロデューサーであり、JAZZ歴史家としてNY大学で教鞭をとるジャーナリスト、アシュリー・カーン氏による骨太のライナー・ノートです。

 これまで音質の悪い海賊盤しかなく、多くのコルトレーン研究者が血眼で探すそのマスターテープを米国で発掘したトレジャー・ハンターはなんと大阪人!岩波新書「ジャズの殉教者」の著者として、コルトレーン書の金字塔『ザ・ジョン・コルトレーン・リファレンス』の研究チームの一員として多くの受賞歴を持つ藤岡靖洋氏でした。コルトレーン関係の史料を求め、年がら年中、和服で世界を飛び歩き、サンタナやハンコック、TSモンク達と太いパイプを持つ藤岡氏がかっ飛ばした満塁ホームラン。今回、日本語盤の監修にあたり、光栄なことに、ライナー・ノート翻訳のお声をかけていただき感謝。 

 これは、コルトレーンの実家からほど近くにある、全米有数の名門テンプル大学で学生が主催したカレッジ・コンサート、商業的な興行ではなかったため、PRが行き届かず「空席が多かった」というのが驚きです。地元パーカッション・グループを始め、外部ミュージシャンの飛び入りがあり、コルトレーンがホーンを置いて雄叫びを発するという異例なパフォーマンス、それらを、息子さんのラヴィ・コルトレーンや、共演ミュージシャン、客席に居合わせた人々に詳細な取材をしながら、コルトレーンの「真意」がどこにあったのかを解き明かし、音楽に対する情熱の炎を燃やし続けた巨匠の姿を浮き彫りにしていくドキュメンタリーになっています。 

  演奏や、時代についての考察も読み応えがありますが、感動的なのは、コルトレーンが若手、無名のミュージシャンにとても優しく接したという証言の数々で、10代のコルトレーンがフィラデルフィアに来たチャーリー・パーカーに、デトロイト時代のトミー・フラナガンがアート・テイタムに励まされたエピソードを彷彿とさせるものでした。ジャズにかぎらず、巨匠として、人間としてのあるべき姿なんですね。また、コルトレーンの崇拝者だった故マイケル・ブレッカーの高校時代、このコンサートを契機にミュージシャン人生を歩もうと決意したという証言も必読です。私の身近にいる寺井尚之も、大学時代に観たエラ・フィッツジェラルド+トミー・フラナガン3のコンサートが天啓となったわけで、とても共感しました。

 歴史的発掘音源のお供に、藤岡氏が書き下ろしたエネルギッシュな解説文と併せて、ぜひご一読を。

88a2efab.jpgチラシは藤岡氏のブログより

 

 

 

 

NYアンダーグラウンド・レジェンド、東出(あずま いづる)さんの思い出

 OverSeas創立35周年、ここまで支えて来て下さった新旧のお客様、本当にありがとうございます。思い起こせば、数えきれない出会いと別れがありました。

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旧店舗にて、東出(as)ピアノは寺井尚之(念のため)

 かつてインターネットもない時代、OverSeasに、東出(あずま いづる)さんというアルト奏者が出演していました。NYと日本を往来しながら活躍していたバッパーで、日米共通のあだ名は”Del /デル”さん。でも私たちは尊敬を込めて東さんと呼んでいた。目にも耳にも、正真正銘のバッパー!1958年頃の生まれだったと思います。現在OverSeasに出演しているアルト奏者、岩田江さんは一世代下の後輩で、20年以上前、OverSeasで東-岩田コンビを聴いたこともあります。岩田さんもすごいプレイヤーになったなあ!

 東さんは、いつもきれいに髪を撫で付け、細身の体にビシっと上等のスーツ姿でバンドスタンドに現れました。カットタイムで足カウントを取りながら、濃密で艶のある音色、疾走感いっぱいプレイは、バップの魔力が一杯で、Now’s the Time、Mama Duke、Donna Leeで激しくスイングするかと思えば、”アダルト・タイム~”なんて言ってからBody and Soulで泣かせた。スーツでプレイしていたのは、NYの長老ジャズマンに「バッパーはギグのときはネクタイしてきっちりした格好やないといかん!」と言われたからだそうです。

azumaSCN_0051.jpg 寺井尚之も東さんが大好き!だってバッパーだから!バップの言葉で音楽の会話ができるから。いつも共演するのを楽しみにしていました。その頃はバブル時代で東出(as)さんの出演日はいつも満員!

 日本でのホームグラウンドの京都では、市川修(p)さんと盛んに共演、数々の武勇伝が大阪まで聞こえてきて、とにかく伝説の多い人だった。

 高校中退でNYに飛び出したストリート・スマート、師匠は、”チャーリー・パーカーとオーネット・コールマンの接点”と言われたポスト・バップのアルト奏者、クラレンス”C”シャープ(Cシャープ)。その師匠は「セントラルパークに住んであるねん!」と言っていた。つまりホームレス。一流なのに、おそらくはクスリの問題もあって、アンダーグラウンドの伝説的ミュージシャンだった人。NYでは、フランク・ガント(ds)やフレディ・レッド(p)、ギル・コギンズ(p)、ジャズ通ならあっと驚くような渋いミュージシャンと共演してた。アート・ブレイキーの長女でヴォーカリストのイブリン・ブレイキーが来日公演中、わざわざ東さんを訪ねてOverSeasにやって来たこともあります。

 当然東さんはバイリンガルでしたが、「八百屋」を「野菜屋」と言ったり、日本語のほうが少したどたどしかった。でも噂によれば、お父さんは立派な学者さんらしい。とはいえ、気取ったところはなく、腰が低く、後輩に優しい。ちなみに、お兄さんは京都のTボーン・ウォーカーと言われる伝説のブルーズ・ギタリスト、ますます不思議な人だった。 7月にOverSeasにやって来る名ドラマー、田井中福司さんのNY仲間でもあります。

 どんなに貧乏していても良い音楽さえ出来れば幸せ!そんな彼にとって、日本のジャズ・シーンは少々窮屈なものだったのかも知れない。かぐや姫みたいに、長く日本にいると、元気がなくなるように見え、そうすつとNYに旅だった。そんな事が何度かあって、とうとう阪神淡路大震災の前日、東さんは家族を残しNYに・・・それっきり20年が経ちました。

 東さんのことを懐かしく思うのは私たちだけではなく、実際にNYまで探しに行った人がいた!

1619215_317237571734394_2314342218057315847_n.jpg左:東出さん、中央:写真提供感謝!DJ有田弘慶氏、右:unknown 

 
 関西でDJとして活躍している有田弘慶さんは何度か渡米して、二年越しで東さんを発見!東さんは、あれからずっとNYのディープな場所でセッションし、ストリートで演奏を続けていた!これまでの人生で、今が一番最高の音を出せるようになったと充実しているらしい。

その間に、私も東さんの近況をよく知る方と出会い、とても不思議なめぐり合わせを感じました。

 有田さんがFBにこの写真をアップした数日後、こんどは東さんの奥さんとお会いした!彼女はとても素敵なお顔で、素晴らしい人だった。なんかすごく懐かしく、親戚に出会えた気分になりました!あの頃幼子だった息子さんは、一流大学を卒業後、現在は大きな会社に勤務されていて、何度もNYで家族の再会をしていると伺い嬉しかった!

 この出会いをお膳立てしてくれたのが、東さんのお弟子さんのアルト奏者で時計修理のエキスパート。腕時計と心の時計を同時に修理してもらって感謝するのみです。

 東さんゆかりの方々は、彼がもうすぐ帰ってきそうな予感がすると言います。東さんがインターネットでこの記事を見ることはないでしょうが、もしも帰ってきたらまたOverSeasで寺井と一緒に共演してくれる日が来ますように!

*6/12 更新記録:東さんのご家族に頂いた情報を元に、フリガナ表記(あずま いずる いづる)など若干修正を加えました。東出さんのジャズライフについては、今後も書いていきたいと思います。

速報: 7/29(火) 田井中福司(ds) vs 寺井尚之(p)夢の共演!

lou-donaldson_10.pngGood News!

 来る7/29(火)、長年、NYのジャズ・シーンで傑出したバップ・ドラマーとして存在感を示す田井中福司と、寺井尚之(p)の共演が実現します。カミソリのように切れの良いドラムと、ソフトタッチで疾走する寺井が四つに組んだ強烈なハードバップ・セッション!これは絶対聴き逃せません。

 田井中福司さんは1954年滋賀県出身の関西人、1980年以降、しっかりNYジャズシーンに根を下ろし、チャーリー・パーカー直系の巨匠アルト、ルー・ドナルドソンから最も信頼されるレギュラー・ドラマーとして、「日本人ジャズマン」のラベルを超越し、長年に渡り米国、ヨーロッパ、日本と国際的に活躍しています。

<Musician’s Musician>

lou-tainaka.jpg 国内外のバップ系ミュージシャンが絶賛する田井中さんのドラミングは、大吟醸みたいにスッキリした味わいで、凄みだけでなく、思わずニンマリするユーモアもあります。寺井尚之の芸風と似ていますよね!

 メインステムのリズム・チーム、宮本在浩(b)、菅一平(ds)、ふたりとも田井中さんの大ファンで、ライブがあると必ず聴きに行って、勉強を重ねていました。2人の今があるのも、田井中さんから色々盗ませてもらったおかげと言えるかも知れません。

実は、今回のライブが実現したのも、宮本在浩の尽力のおかげなんです。

 前々から、メインステムの菅一平(ds)は、事あるごとに、「田井中さん、いっぺん聴いてみ。人生変わるで!」と啓蒙して回ってる。音楽を演っている人たちが田井中さんの良さを一番良く知ってる- いわゆるMusician’s Musician!

 私が評判に聞く田井中さんのドラムに初めて接したのは1991年、ルー・ドナルドソン4がOverSeasに来演した時です。勿論見た目は日本人なのに、出てくる音は紛れもなく洗練された黒いビートだったので、「こんな人がいるんや・・・」と、ただただ驚くばかりでした。その後、盲目の名ピアニスト、ハーマン・フォスター(p)3など、何度が来演してもらって、寺井も長年惚れ込んで、ずっと一緒にやりたかった人、今回の共演をとても楽しみにしています。

 これまで、日本でも沢山の一流ミュージシャンと様々なフォーマットで楽歴を重ねて来た田井中さんですが、OverSeasでは、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)とピアノ・トリオでセッションを繰り広げます。

 絶対お聴き逃しなく!ご予約はお早めに。

私もすごく楽しみです! 

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  【寺井尚之(p)トリオ featuring 田井中福司(ds) Live at OverSeas】

日時:7/29 (火) 開場6pm Music 7pm-/ 8pm-/ 9pm (入れ替えなし:要予約)

Live Charge : 3,000yen (税抜)

 

GW35周年記念LIVEレポート

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 ゴールデン・ウィークはリラックス?静養?それともお仕事?皆様、いかがお過ごしでしたか?
 Jazz Club OverSeasは創立35周年を記念し、色々な趣向でライブ3連投、オフィス街の路地裏に、全国から新旧のお客様が演奏を聴きに来てくださいました。

 第一夜は、寺井尚之(p)メインステム・トリオ(宮本在浩 bass, 菅一平 drums)のスタンダード集!
 ”二人でお茶を“や”スターダスト“、寺井が超ブラックに魅せる圧巻”モーニン”など、通常のデトロイト・ハードバップとはガラリと違うスタンダード・オンリーのプログラム!美しいピアノ・タッチと、ザイコウ&イッペイ阿吽の呼吸のトリオ・プレイで、ひと味も二味も違ったスタンダードの夕べになりました。

 
 アンコールは当ブログで予告していたように、“As Time Goes By”に乗せて、ナット・キング・コールに始まり、ビリー・エクスタイン、若きビリー・ホリディ、晩年のホリディ、微妙なフレージングのアニタ・オディ、朗々たるトニー・ベネット、トミー・フラナガンとコラボしたエラ・フィッツジェラルドまで、ピアノで聴かせる声帯模写に、会場大爆笑!
 
 余りにウケたので、「ベースは宮本在浩、ドラムは菅一平、そしてピアノは桜井長一郎でした。」なんて自己紹介して超ゴキゲンでした。あれっ?桜井長一郎って知らない?若い皆さんは無理ないですよね。昭和の偉大なモノマネ芸人で、長谷川一夫や美空ひばりさんのモノマネを得意としていたレジェンドです。

 第二夜は、浪速のケニー・バレルという異名を持つバップ・ギタリスト、末宗俊郎とメインステムが繰り広げる最高にブルージーなジャズの世界。
ギタリストのお客様が沢山詰めかけて、末宗俊郎さんの持ち味であるスイング感のブルース・フィーリングが全開!
 ホスト役のメインステムと、寺井尚之の爆笑MCで、超絶技巧のギター・プレイが一層冴えました。

 セカンド・セットは”Four on Six” ”Road Song” ”Unit Seven”と、ウェス・モンゴメリーの名演目がズラリ!OverSeasは歓声に溢れました。ウェスの曲は下手に演ると目も当てられないほどダサいのですが、この夜のプレイの輝きは天からジャズの神様が微笑んでくれたみたい!

 あんまり楽しかったので、今も鼻歌でロード・ソングを歌いながら台所に立ってます。

 アンコールは、サド・ジョーンズの”Like Old Times”、学生時代から気心知れた寺井と末宗俊郎!やっぱデトロイト・ハードバップすきやねん!とばかりの名演になりました。(末宗俊郎さんと宮本在浩さんの演奏写真は、お客様のカツミ・イワタ氏撮影)

 第三夜は、本格派ビバップ・アルト奏者として寺井尚之が惚れこむ岩田江の出番。”Parker’s Mood”や”Begin the Biguine”といったバードゆかりの名曲が一杯!艷やかな岩田さんの音色で翼を得た感じ!関東から来てくれた若いミュージシャン達も真剣に耳を傾けてくれました。

 35周年のライブでは、懐かしい方々と思いがけない再会も多かった!旧店舗のおとなりにあった牛乳屋さんで家庭教師をしていた学生さんが、なんと30年ぶりに、ご家族で来てくださった!また以前は学割でよく聴きに来てくれた学生君たちが、立派な紳士になった今もジャズを愛し、お互い名刺交換していたり・・・

 長年経ってもジャズを楽しんでくださる姿を見ていると、オバンになるって、そんなに悪いことじゃないな・・・という気持ちになりました。
 
 お祝いのお花を下さったNさんご夫妻、3日通しの常連様、大学時代(!)のクラスメート、GWライブに来てくださった全ての皆様のおかげで沢山元気をいただくことができました!
 
 これからも、OverSeasが続けられますように、どうぞ応援宜しくお願い申し上げます。

 ありがとうございました!

 

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ピアノで奏でるジャズ・ヴォーカリスト達!

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皆様、大型連休いかがお過ごしですか?行楽地からのお便りや、E-mailの結びが《Happy Golden Week!》だったり、How Nice! OverSeasは5日まで毎日ライブ営業しますので、ぜひ遊びに来てください。
 連休中のライブ・スケジュールはこちらです。

 5月3日(土)は”The Mainstem Plays Standards”、昨日リハーサルを何気なく聞いていたら、寺井尚之(p)がどえらい事を演っていた!

 映画『カサブランカ』の主題歌、“As Time Goes By”で、名歌手達の声帯模写をピアノでやっちゃうんです。どうやら、先日TVで懐かしい大エンタテイナー、サミー・ディヴィスJr.が、伝家の宝刀、ジェリー・ルイスやキングコールの物真似やってるのが気に入って、密かに稽古したみたい・・・

 寺井のアイドルたち、ビリー・エクスタイン、ナット・キング・コール、トニー・ベネット、メル・トーメ、女性歌手ではカーメン・マクレエ、アニタ・オディ、ビリー・ホリディ、それにエラ・フィッツジェラルド・・・強烈なキャラクターをピアノで再現!繊細なタッチと「息」や「間」の取り方、フレージングで「あ~っ、似てる~!!」と爆笑!そんな芸を、私の知らないうちにいつの間にか会得していた・・・

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 以前、桂南光師匠が「ジャズ講座」を「文化漫談」と評してくださったことがありましたが、これも立派な「ピアノ演芸」だ!

 寺井尚之The Mainstem究極の声帯模写、乞うご期待!

5/3(土) 寺井尚之メインステム Plays Standard 7pm-/ 8pm- / 9pm- : Live Charge 2,500yen