コールマン・ホーキンス: トミー・フラナガンが観た巨匠

coleman_tommy.jpg  大型連休!いかがお過ごしですか?休日には、あれも読もう、これも観ようと企てても、なかなか思うように行きません。That’s Life。

 5月4日(土)は、正午よりコールマン・ホーキンスの映像講座開催

 3月末にリリースされた、トミー・フラナガンとジャッキー・バイアードの新譜、『The Magic of 2』の付録ブックレットにダン・モーガンスターンの、楽しくてテンポの良い名文が添えられていました。その中に「トミー・フラナガンは、コールマン・ホーキンスが亡くなるまで面倒を見た。」という事も、ちゃんと書いてありました。

 どんな世界でも、いったん落ち目になったら、それまでチヤホヤしていた取り巻きも、何じゃかんじゃ言いながら離れていく。特にDog Eat Dogの音楽や映画の世界はキツい、という話を聞きますが、コールマン・ホーキンスとトミー・フラナガン達の関係は、そんな浅はかなものではなかった。映像に薫る風格を観ると、そういうところも実感できるように思います。

 

  今年の3月に、ジャズ・ジャーナリスト、テッド・パンケンが、トミー・フラナガン・トリビュートとして、1994年に、NYのFM局、WKCRで行ったインタビューのテキストをブログに公開してくれました。嬉しいですね!この中にも、フラナガンが観た”ザ・巨匠” コールマン・ホーキンス像が活き活きと描かれていました。

 5日に映像を観て頂く前に、抜書きしておきます。いずれ、全文和訳して「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で配布したいです。

 

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 William Gottlieb - Coleman Hawkins and Miles Davis, 1947.jpg

 

 <出会い>

 私がコールマン・ホーキンスと初めて出会った場所は”バードランド”だ。

 実は、マイルズ・デイヴィスが紹介してくれた。彼は人を引きあわせる名人だ。

 マイルズが、あの独特の声で「コールマン、トミー・フラナガンを知ってるかい?」と言うと、ホーキンスは、「ああ、勿論知ってるよ。」と言ってくれた。

 実は一度もちゃんと会ったことがなかったし、私はたいそう驚いた。同時に、そう言ってもらえたのが嬉しかった。どこで私のプレイを聴いてくれたのかは知らないが、彼はデトロイトのピアニストが好きだったから。

 私は、レコードをずっと聴いてきたから、コールマン・ホーキンスのレパートリーは、かなりよくわかっていた。ロイ・エルドリッジと、7thアヴェニューにあった”メトロポール”という店でよく演奏していて、私もそこで一緒に演らせてもらった。それから、JATPで6週間の英国ツアーをした。おかげで、かなりまとまりのよいグループになったんだ。メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)と私のリズムセクションでね。(一番上の写真)

 

<若手の擁護者>

  彼の音楽力に敬服したなあ。まさに、「歩く音楽百科事典」だった。そういうところを、常に目の当たりにしたよ。市販の楽譜を、初見で録音するような仕事をしょっちゅうやったが、コールマンはどんなcolman_h.jpeg音符記号でもへいちゃらだ。瞬時に曲の隅々まで見通すことができて、パート譜が頭のなかに出来上がる。おまけに、そういう録音は1テイク録りだ。優れたテナー奏者というものは、録音の心構えというのがしっかりしていて、そういう人ほど、どんなレコーディングでも1テイク以上録りたがらないということを学んだ。コールマン・ホーキンスもそういう種類のミュージシャンだった。あの有名な”Body and Soul”もおそらく1テイクだよ。二度とはできない演奏だ。

 それにしてもすごい音楽家だ!

 もう一つ私が好きなところは、コールマン・ホーキンスのおかげで、セロニアス・モンクが、あれほど大物になれたということ。コールマンはモンクを引き立て、多くの人に聴いてもらうチャンスを作った最初の後ろ盾だ。ご存知のように、ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィスといった多くの若手にも胸襟を開いて、彼らを有名にした。

 オフ・ステージでは、人間としての手本だった。だらしなくない酒の飲み方から、服の着こなしまで教わった。彼はベスト・ドレッサーだったもの。酒の趣味も最高だ。私は音楽的にも人間的にも、たくさんのことをコールマン・ホーキンスから学んだ。

 

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 めっぽう喧嘩が強くて、ガラの悪い水兵をぶっ飛ばした!ワインやコニャック片手に、サヴィル・ロウで誂えた上等の背広とイタリアの帽子が似合う大親分、男が惚れる男の中の男!コールマン・ホーキンス「楽しいジャズ講座」は5月4日正午より開催!

 CU

林宏樹(ds)ジャズ・パーティin 四日市

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kanreki390.jpg  日頃は歩いて20歩のコンビニにも行くことなくOverSeasに籠城する寺井尚之、でも先週の日曜日は、東海のバディ・リッチ、林宏樹(ds)還暦バースデー、これはお祝いに行かねば!というわけで、ザイコウ、イッペイとThe Mainstemトリオで、林さんの本拠地、三重県四日市まで弥次喜多道中!

 「林宏樹還暦記念イベント」は、2日連続のジャズフェスティバル!土曜日はライブ(於VEEJAY)、日曜がジャズ・パーティ (於:Salaam)!「VEEJAY」さんも「Salaam」さんも名店の誉れ高い林さんのホームグランウンド、しかも両日超満員というから、恐るべし四日市ジャズ・シーン、恐るべし林宏樹!

 大阪を出発してから3時間近く・・・燃えるように咲き乱れるつつじや名残りの山桜が美しい鈴鹿山脈を越えると、そこは一面ピースフルな田園地帯。

 彼方にそびえるかまぼこ型の建物が「林宏樹還暦Jazz Party」の会場、「Salaam」さんでした。(上の写真)

 道中はほとんど人影がなかったのに、ドアを開ければ人、人、人の別世界!スタッフの美女たちも、OverSeasの林さんライブのお客様だった。地元三重だけでなsalaam_ms361.JPGく、新潟、岐阜、富山・・・全国各地から、ミュージシャンやファンがお祝いに駆けつけ、中には2泊3日の応援団も!林さんは、私にとって、高校、大学を通じ、伝説のカリスマ先輩。今でもスターなんだ!うれしいなあ、かっこいいなあ!

 <Salaam>は、2階にバルコニー席がある吹き抜けのゴージャスなスペースで、日本一の絶景ジャズクラブかも。お洒落なテラスもあって、まるでNYセントラル・パークの<Tavern on the Green>みたい!

 熊倉マスターは、優しく鋭い瞳と、サムライみたいなオーラのある素敵な方、後で知ったのですが、四日市の文化活動に貢献されている名士らしい!以前から寺井さんのCDを持っていましてね!と初対面なのに、嬉しくリラックスした気分にしてくださいました。

salaam_zaikou_ippei.JPG  ザイコウ+イッペイ・チームは、豪華なオーディオやレーザー・ターンテーブルという不思議なマシンに驚愕しつつ、トランペット奏者の唐口さんにご挨拶したりして忙しそう!

 私も大阪では滅多に会うチャンスのない高校時代の同級生(今やテナーの大御所)の宮哲之さんと、懐かしい再会ができました! 林先輩ありがとう!

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 さて、いよいよJazz Partyの始まり!

miya_tetsuyuki_karaguchi1.jpg まずは、宮 哲之(ts)、唐口一之(tp)の2管をフロントに林さんのユニット M-ARTS: 中丸雅史さん(p) 大村守弘さん(b) で、「4月の思い出」や「Shiny Stockings」のスインギーな演奏。東海のハンコックと評判高い中丸さんのプレイ、ワイルドで楽しかった!

 そして、寺井尚之メインステム登場!林さんなしのメインステムは完全アウエーかも・・・と密かに心配しましたが・・・

 おなじみ”Eclypso”から”With Malice Towards None”、宮本在浩(b)をフィーチュアした” Passion Flower”、タッド・ダメロンの”Our Delight” まで、じっくり楽しく聴いてくださって、四日市のジャズ・コミュニティを拝みたくなりました。

 hisayuki_terai_salaam1.jpgラストは林さんを引っ張りだして、超速”チュニジアの夜”、ピアノとドラムのコミカルなコール&リスポンスに会場大爆笑、林さんは朝4時まで飲み明かした疲れもなく、ドラムソロは絶好調!四方八方から口笛の大歓声が湧きました。

 最後は寺井尚之の祝辞、いつもの調子で、ぶっきらぼうにお祝いの言葉を述べた後、ダークスーツでキメた主役に向って「還暦祝いやから、せっかく赤いセーター来てきたのに、どないしてくれんねん!?」と、やっぱり毒舌炸裂。

 ピアノの左のパネルは皆のメッセージ、寺井の言葉は「ジャズ・ミュージシャン、60歳は成人式」でした。

 その後はビッグ・バンド、”サウンドクルーズ・ジャズOrch.”やジャムセッションでさらに盛り上がり、私たちは途中で帰路についたのですが、最後は林さんが奥様と感極まって涙するクライマックスになったとか..

 

 雨上がり、さんさんと日光が差し込む素晴らしいジャズ・クラブ<Salaam>は、とっても明るい文化の都、四日市のジャズ・ワールドと、林さんの人気にひたすら驚愕した最高の休日でした。皆に好かれる人柄と、何よりも、プレイが凄いことが、還暦になっても人気が衰えない理由なんだと思います。

 四日市の皆様、ナニワの路地裏から来た寺井尚之メインステムを温かく迎えてくださって、本当にありがとうございました。今度はゆっくりうかがいたいです!

 え?大阪でも林さんのドラムを聴いてみたいって?6月22日土にOverSeasに来演します。どうぞお楽しみに!

 CU

 

日本屈指のジャズ理論家&ギタリスト、布施明仁 壮行ライブ開催!

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  布施明仁さんは、関西大学では私の大先輩、寺井尚之にとっては、軽音楽部というよりも、キャンパス外の、クラブやキャバレーで共演した仲間です。

 関大卒業後渡米、名門ニュー・イングランド音楽大学 ジャズ学部に入学、ジャズ・ギターを専攻、音楽理論では、ジャズ界を代表する理論家、ジョージ・ラッセルに可愛がられ,ラッセルのビッグ・バンド”Living Time Orchestra”、また、トミー・フラナガンとのデュオ・アルバムがリリースされ、最近再び注目を集める奇才、ジャッキー・バイアード主宰の”Apollo Stompers”でギタリストとして活躍しました。

 ニュー・イングランド大では、ラッセルの秘蔵っ子的存在、他にもバリー・ガルブレイス、チャック・ウエインなどギターの名手や、ジミー・ジュフリー、アーニー・ウィルキンスなど、数えきれない巨匠から薫陶を受けました。学友の中には、フレッド・ハーシュ(p)やアキラ・タナ(ds)、それにキャブ・キャロウエイのお孫さんたちと親交を温めました。

index.gif 帰国後は、「4ギター・アンサンブル」というユニークなバンドで人気を博し、演奏の傍ら、在学中から恩師ジョージ・ラッセルの依頼を受け、翻訳に勤しんだ名著「Lydian Chromatic Concept」の日本語版を成就し、リディアン・クロマチック・コンセプトとバークリー・システム、両理論に精通する「日本唯一のバイリンガル・セオリスト」(菊池成孔)と称賛されています。

 ”TOKYO JAZZ”のためにラッセルが来日した時は、リハーサルからセミナーの通訳まで七面六臂の大活躍ぶりがNHKで報道されているのを観ましたが、布施さんは文字通り「ラッセル先生の懐刀」のオーラが漂っていたなあ・・・

 帰国後は『4ギター・アンサンブル』や寺井尚之と一緒に、OverSeasで定期的に演奏していただいていました。初めて聴いた7弦ギターや、ニューイングランド仕込みのコードワークが印象的だったし、「奥様は魔女」のようなTV映画のテーマソングをレパートリーに入れたジャズ・ミュージシャンは、布施さんが日本初だったかもしれません。

 近年は教育者として、日米アジア諸国を、忙しく飛び回っておられたので、なかなかリユニオンがかなわなかったのですが、5月5日の日曜日に、やっと念願が叶います。

 というのは、マレーシアの音楽大学から、熱いラブコールを受け、6月からクアラルンプールに引越しされることになったためです。日本のジャズ界には大きな損失ですが、アジア全体からは、ジャズの未来に希望が持てるグッド・ニュースですね!

 ゲストには関西大学時代からの仲間で、甲陽音楽院では同僚のテナーの名手、荒崎英一郎(ts)さんをお迎えし、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、菅一平(ds)が、盛り立てます!

 

 7弦ギターの第一人者、布施明仁を聴ける貴重なチャンス!ぜひお越しください!

 

<布施明仁 マレーシア壮行LIVE>

  • 日時 2013年5月5日(日)正午~3pm
    (開場11:30am)
  • 場所:Jazz Club OverSeas
  • LIVE CHARGE ¥2,625

ご予約はOverSeasまで!

ボビー・ジャスパー:サックスの国から来た男

 bjimages.jpeg 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、フラナガンがNY進出後、最初にレギュラーとして活動したJ.J.ジョンソン・クインテットによる名盤群を解説中。

 13日(土)に取り上げるのは、『Live at Cafe Bohemia』(Marshmallow)、『Overseas』の録音が近づく1957年のライブ録音、J.J.ジョンソンとボビー・ジャスパーと、フラナガン、ウィルバー・リトル(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)による一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルの上で、縦横無尽のアドリブが繰り広げられるダイナミズム、すごい!の一言です。

 

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 今回は、このコンボのテナー奏者、また寺井尚之が最も愛するフルート奏者、わずか37才で早すぎる死を遂げたボビー・ジャスパー(1926-63)について調べてみました。

 ボビー・ジャスパー(本名 Robert Jaspar)は、ベルギー東南部にある、フランス語圏の中心都市、リエージュの生まれ。『Dial J.J.5』や『カフェ・ボヘミア』で聴けるジャスパー・オリジナル”In a Little Provincial Town”(小さな田舎町)は、故郷のリエージュに因んだ曲です。日本では、川島永嗣GKなどが活躍するサッカー・チーム、「スタンダール・リエージュ」の街として有名らしい。
 
 元来、サックスという楽器はベルギー発祥、19世紀にアドルフ・サックスというベルギー人が発明したものですから、、ベルギーとフランスでは、サックスを「いろもの」扱いにするドイツ圏に比べ、サックスはずっと「偉い」楽器で、サックスの為に書かれたクラシック曲が沢山あるそうです。同時に、フランスとベルギーは、ヨーロッパの中でもとりわけジャズを愛好する文化がありました。ジャスパーは、そういう土壌から生まれたミュージシャンだったんですね。

 幼い頃からクラリネットとピアノを学び、19才でプロ・デビュー、24才で、パリを拠点として活動しました。戦時中ナチの占領下であった「花の都」では、ジャズは、自由を象徴する芸術、ジャスパーはレスター・ヤングばりのリリカルなブロウイング・スタイルで、またたく間にトップ・ミュージシャンに踊り出ました。

 

<ジャズのゴーギャン>

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 ジャスパーのパリ時代からの友人で、クラシック畑からジャズまで幅広く活躍するフレンチホルン奏者、デヴィッド・アムラムは、彼について「物静かで内向的な性格だが、音楽への情熱と探究心が人並み外れて強かった。」と語っています。ジャズ・ブロガー、マイク・マイヤーズのアムラム・インタビューによれば、ジャスパーは自分と向き合うため、パリに移る前に一旦活動を休止し、一年間タヒチで暮らした時期があったそうです。『自分の目指すサウンドは何なのか?』 完璧なテクニックを持つ演奏家ゆえの悩みなのか?ジャスパーには、ソニー・ロリンズと共通する、とことん内省的な面があったのかもしれません。

 

<ディアリー・ビラヴド>

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 花の都で6年間、ジャズ界の若き第一人者として君臨したジャスパーは、その地で米国人歌手、ブロッサム・ディアリーと出会い’55年に結婚しました。ディアリーは’52年からNYを離れ、ベルリッツのパリ校でフランス語を勉強する傍ら、高級クラブの弾き語りとして活躍、アニー・ロスとジャズ・コーラス・グループ”Blue Stars of Paris”を結成(ダバダバ・コーラスでお馴染み、スウィングル・シンガーズの前身です)”バードランドの子守唄”のフランス語ヴァージョンをヒットさせています。

 ’56年、夫妻はNYに移り、グリニッジ・ヴィレッジに新居を構え、ジャスパーのNY進出が始動。二人の結婚生活は2年で終わってしまいましたが、終生、友達として親しく付き合い、レコーディングも一緒にしています。

 

<ジレンマ>

  ジャズのメッカ、NYの街で、ジャスパーがびっくりしたのが、街が石畳ではなくアスファルトで覆われていること、そして憧れのジャズの巨人達がうようよ居ること、そして何よりもジャズメンの現実でした。多くの素晴らしい芸術家が生活に困っているなんて、ヨーロッパ人のジャスパーには、全く受け容れがたいことだったんです。
 
 パリからやってきた外人テナー奏者にいち早く注目したのがJ.J.ジョンソン、完璧なテクニックと、クリアで、心に響く歌心は、ジョンソンの最も愛するレスター・ヤングを彷彿とさせ、その持味を最大限に生かしたアレンジを整えて、レギュラーに迎え入れ、ライブやレコーディングに起用、北欧ツアーにも同行し、名演を繰り広げたおかげで、ジャスパーは、ダウンビート誌の批評家投票でテナーの「注目すべき新人部門」第一位を獲得しています。それに目をつけた《SAVOY》《Prestige》などのレーベルもこぞって録音し始めました。ジャスパーはJJバンドの若い同僚、エルヴィン・ジョーンズの演奏に大感動し、フランスのジャズ雑誌「Jazz Hot」にエルヴィン・ジョーンズ論を寄稿したほどでした。フランス語の辞書と首っ引きでも、何が書いてあるか読んでみたいですね!

 

<In New York, You’re Just Another Cat>

 

bobby_jaspar1.jpg 「NYじゃ、誰だってただのキャットさ。」ジャスパーが、友人のアムラムやアッティラ・ゾラ―に、ふと漏らしたのがこの言葉。J.J.ジョンソンの許で15ヶ月活動後、ジャスパーはマイルス・デイヴィスのバンドに起用されています。その後、新進ピアニストだったビル・エヴァンスやジミー・レイニー(g)など、、幅広く活動しますが、パリよりもNYの方が、ずうっとジャズでは食えない土地だった。

 最も耐え難いことは、ヨーロッパでは「鑑賞すべきアート」であるジャズメンの演奏中、大声で話をするガサツなNYのお客!余りのリスペクトのなさに堪忍袋の尾が切れて、ヨーロッパに戻り、古巣の仲間と演奏すると、今度は音楽的に満足が行かない。バンドスタンドでは、アメリカのミュージシャンの方が自分の音楽言語を理解してくれる同胞であり、ヨーロッパのミュージシャンの方が、自分の言語を理解しない音楽的外人だった。聴衆のレベルとミュージシャンのレベルが反比例するどうにも困った状況だ。

 そんなジレンマが災いしたのでしょうか?62年、心臓発作で倒れ、心内膜炎という難病と診断されます。唯一生き延びる選択肢は、当時、大手術であった心臓バイパス手術でした。手術に耐えられる体力をつけるためには6ヶ月間の休養が必須と言われ、精神的にも経済的にも困難でしたが、ジャズパーは平静さを失わず、健康なときと変わらない物静かな人柄だったと多くの友人が証言しています。手術は1963年2月28日に行われ、20リットルの大量輸血をされました。それほどの時間と労力をかけたにも拘らず、術後の合併症で、ジャスパーは3月4日に死去。37才の誕生日からわずか2週間後の早すぎる最後でした。 

 

 晩年は、バリトンサックスやバス・フルートなど、様々な楽器を意欲的に取り組んでいたボビー・ジャスパー、どんな楽器を吹いても、そのサウンドには磨きあげた上等のクリスタルみたいに曇りがありません。超絶技巧なのに、温かく心に語りかけてくるプレイは、レスター派とかいったカテゴリーに入れたくない個性的なものだった。 もしも手術が成功していたら、またタヒチで暮らして、新しいサウンドを見つけたのだろうか?

 

 

sawano_jaspar.jpg 土曜日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」をお楽しみに!CU

 

在NYベーシスト、ヤス竹田 名門”カフェ・カーライル”に出演!

 春です! OverSeasニューヨーク支部長、YAS TAKEDAこと竹田康友が、先月”カフェ・カーライル”に出演したという嬉しいニュースが飛び込んできました!

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 写真は随分前にOverSeasで帰国ライブをやった時の竹田くん、長らく会ってないけど今もほとんど変わってないと思います。

 

cafe7984B288DA315.JPG“ヴィレッジ・ヴァンガード”や”カーネギー・ホール”に出演した日本人ミュージシャンは多くても、”Cafe Carlyle”に出演した日本人は竹田君が初めてかもしれません、
  “Cafe Carlyle”は億ションの立ち並ぶマンハッタンのセレブな街、アッパーイーストサイドのホテル”ザ・カーライル”にあります。このホテル、古くはリチャード・ロジャーズが常宿とし、JFケネディがマリリン・モンローと逢引したという由緒正しき老舗。パリの香りが漂うマルセル・ヴェリテのロマンティックな壁画が印象的な”Cafe Carlyle”は、ジャズ・クラブというよりは、キャヴィアを肴にドンペリをさり気なく傾けながら、セレブなショウを楽しむ高級キャバレーといった趣。

 かつてコール・ポーター・ソングスの第一人者と言われたボビー・ショート(p.vo)が看板スターで、現在は毎週月曜日、”ニュー・オリンズ・ジャズ・バンド”でクラリネットを吹いているのがウディ・アレン!(『ハンナとその姉妹』という映画の中にカフェ・カーライルのシーンがありました。)!NFL(全米アメフト・リーグ)開幕の夜には、マライヤ・キャリーがイヴニング・ドレスで現れて”サマータイム”を飛び入りで歌ったり…。私なんか裏口からでも入ったことのないセレブなクラブです!そんなら来週行こうと思ってるあなた、ちゃんと上着を来て革靴履いていってくださいね。

 

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 ヤス竹田がカーライルに出演したのは3/21-30、伝説的な弾き語りスター、ジョー・トンプソン・トリオの一員として白羽の矢が立ちました。チャンスが到来したのは、当初余予定のベテラン・ベーシスト、カルヴィン・ヒル(ジュニア・マンス・トリオでOverSeasに来演したことがあります。)の都合がつかなくなったからで、デトロイトといえ、カルヴィンといえ、不思議な縁を感じます。

 トンプソンはブラック・ビューティのさきがけとしてレナ・ホーンと縁の深い人。’50年代にデビュー、フランク・シナトラにその実力を認められメキメキ頭角を現しましたが、クライスラーの重役に見初められ結婚し専業主婦となり、3人の息子をプリンストンやコーネルといった一流大学に入学させてからカムバック!ライブ主体のキャバレー・シンガーゆえに、日本では余り知られていませんが、ライオネル・ハンプトンに絶賛されるなど、未だ美貌と人気が衰えない文字通りの「美魔女」です。

下の写真が、若かりしミス・トンプソンとトニー・ベネット。

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 リハーサルに行ったYAS竹田は、年齢にかかわらず、ミス・トンプソンのリズムがしっかりしているので、演り易いやん!とびっくりしたそうです!プロは凄いね。

 リハーサルで演らなかった曲をいきなり始めたり、リハとは異なるキーで演ったりというハプニングも、NYで年輪を重ねたYAS竹田には想定内、ヤスヤスと楽しく共演できたそうです。! 公演後は 「ぜひ次回も一緒にやって欲しい」と言われ、双方実りある楽しい仕事になったようです。

 

   日本で、田村翼(p)トリオのレギュラーなど大阪ジャズの第一線で活躍後渡米、ニュー・スクールからクイーンズ・カレッジで特待生としてジミー・ヒースやサー・ローランド・ハナに師事、学生オールスター・バンドで渡欧、ジャッキー・バイアードやブラッド・メルドーなどジャズ最前線から、NYの名ダンスバンド”Joe Battaglia &the NY Big Band”のレギュラーまで、活動範囲はジャズ・クラブから、フォー・シーズンズまで、幅広くギグを続けながら20余年が経ちました。

 ハッタリがなく、地道で着実な仕事ぶりで大きな信頼を得るというのは、ある意味日本的なジャズマンなのかもしれない。もっと注目されて良いNYの日本人ベーシストだと思います。この人、寺井尚之と一緒で、HPもないしFBもないアナログな人です。(追記:こう書いたら、竹田くんから、「最近はツイッターを始めたし、寺井さんと一緒にしないでほしい」と断固としたクレームが来ましたが・・・)帰国したらライブやって欲しいのに、長らく帰ってこないNYのベースマン、YAS竹田をこれからも注目していきたいと思います。皆さんもどうぞよろしく!

第22回トミー・フラナガン・トリビュートCDが出来ました。

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 3月ももう終わり、東京のお客様たちから満開の桜の写真が届きますが、大阪のソメイヨシノは五分咲きといったところです。

 さて、先日のトミー・フラナガン・トリビュート・コンサートのCD(3枚組)が出来上がりました。 

 演奏を盛り上げて下さった拍手や掛け声、曲にまつわるフラナガンのエピソードを語る寺井尚之のMCなど、Jazz Club OverSeasならでは、トリビュートならではの楽しい雰囲気が味わえます。

 トミー・フラナガンのオリジナル曲もそれぞれに精彩を放っていたし、寺井尚之がNYの春に聴いたスプリングソングの感動が、色褪せることなく、お伝えできたように思えます。特に”A Sleepin’ Bee”の独特の「温もり」感が印象的でした。

 実は第一部のTin Tin Deo” の演奏中に、寺井尚之の指が内出血するという大アクシデントがありました!今回の演奏が、良い出来になったのは、「それにもかかわらず」なのか、「それだから」なのかは判りません。The Mainstem、宮本在浩(b)と菅一平(ds)が頑張ってくれたし、お客様の応援が、なんといっても大きな力になりました!トミー・フラナガンも応援してくれたのかな?

 トリビュートCD、お申込みはOverSeasまで。すでにご予約くださっている常連様は、ご来店の際にお渡しいたします。

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【収録曲】

<第一部>

1. The Con Man (Dizzy Reece)
2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)
3. Minor Mishap (Tommy Flanagan)
4. メドレー: Embraceable You (Ira& George Gershwin)
~Quasimodo (Charlie Parker)

5. Sunset & the Mocking Bird (Duke Ellington)

6. Rachel’s Rondo (Tommy Flanagan)
7. Dalarna (Tommy Flanagan)
8. Tin Tin Deo (Chano Pozo,Gill Fuller,Dizzy Gillespie)

<第二部>

1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)
2. They Say It’s Spring (Marty Clark/Bob Haymes)

3. A Sleepin’ Bee (Harold Arlen)

4. Eclypso (Tommy Flanagan)

5. Spring Is Here ( Richard Rodgers)

6. Mean Streets (Tommy Flanagan)
7. But Beautiful (Jimmy Van Heusen)
8. Our Delight (Tadd Dameron)

<Encore>

With Malice Towards None (Tom McIntosh)

メドレー Ellingtonia
 Chelsea Bridge (Billy Strayhorn)

 ~Passion Flower (Billy Strayhorn)

~Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)

第22回トリビュート・コンサート 皆さんありがとうございました。

triflowerP1060107.JPG 3月16日、トミー・フラナガンが生きていたら、83歳の誕生日に、OverSeasでトリビュート・コンサート開催!

 ダイアナ・フラナガンのお達しで、トリビュートには必ず花を飾ります。今回は、フラナガンの大好きだった白いカラーを活けました。

 トミーは華麗なバラやランの花より、カラーは白ユリといった清楚な花が好きで、よく花を携えてOverSeasに現れました。「僕は園芸の才能があって、緑の親指だ!」と自慢してたっけ。(ほんとかな?)

 

 

 

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 春らしい日和に、フラナガンが得意としたスプリング・ソングの数々や、今や寺井尚之しか演奏することのないフラナガン作品、デトロイト・ハードバップとはこれや!というフラナガン・ミュージックの集大成を、多くのお客様と一緒に楽しむことが出来ました。

 トリビュートの目的は、何と言っても、フラナガンの音楽を楽しんでいただくこと! コンサートに来て下さった新しい仲間のために、曲の合間に、寺井尚之の楽しいMCも挟まれ、それに対して、常連様が絶妙のレスポンスを入れてくださるのが最高です!ヒップなリスナーが客席にいると、フラナガンはいつも大喜びしていたなあ・・・実は「トリビュート・コンサートにレパートリーの説明を入れればどうか?」というのも、お客様のアイデアでした。(初期のトリビュートでは、フラナガン的「間合い」をそのままに演奏するので、殆どMCはなかったんです。)ヒップなアドバイスのおかげで、スタンダード曲の少ないフラナガンのレパートリーがぐっと身近に感じられるようになってよかった!

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 とにかく難しいフラナガンの演目は、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、菅一平(ds)のThe Mainstemが、血のにじむような稽古をしようとも、アット・イーズにはいきません。でも、トリビュートも22回を数えるところまで来ると、「フラナガンの名演目」の中に、演奏する寺井尚之の「生き様」みたいなものが見えてきた!そしたら、なんか堅苦しかったところがふっと消えて、楽しかったり、哀しかったり・・・トミー・フラナガン一筋に還暦過ぎても研鑽を続ける、寺井自身の幸せだったこと、苦労したことの独白みたいなものが聴こえてきました。凄いな!この人すごいなあ!身内ながら感動しました。

 それには、トリオの宮本在浩、菅一平の熟成が大きいんだと思います。自分の親くらいのピアニストと演りながら、デトロイト・ハードバップという枠の中で、フリーダムが見えてきた!「この一瞬、このハーモニーに命賭けるんだ!」という集中力が付いてきた!こうなったらシメたもんだ!The Mainstemはもっともっと面白くなりますよ。

 

310.JPG そして、なにより、コンサートを創るのは、長年、トリビュート・コンサートを忍耐強く応援し続けてくださるお客様、フラナガンのトリビュート、面白そうやから聴いてみたろう、と思ってくださったお客様の力です。本当に感謝の言葉もありません。

 ”というわけで、HPにトリビュート・コンサートのプログラムと、演奏曲目の説明をUPいたしました。

http://jazzclub-overseas.com/tribute_tommy_flanagan/tunes2013mar.html

 コンサートのCDをご希望の方はOverSeasまでお申し込みください。

今週(土)には、トリビュート・イベントとして、御大トミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ、ルイス・ナッシュ)の全盛期のお宝映像を観る講座、ぜひご一緒に!

 心よりありがとうございました。

トミー・フラナガン:思い出の種

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 3月16日は トミー・フラナガンの誕生日で、第22回トリビュート・コンサート開催です。

 昨夜は、「ずっと来たかったでんです。」と、OverSeas初見参のグループが!ハードバップ大好き、トミー・フラナガン大好き!と言う言葉に偽りなし!寺井尚之と宮本在浩のデュオで、”They Say It’s Spring”に”Joy Spring”の一節が挿入されると、大きく頷いてニッコリ!音楽をとてもよくご存知なお客様が楽しんでくださる様子を観るのは最高!生きてて良かった、と思える瞬間です。マナーも紳士的な方々だと思ったら、英国のジェントルメン!「フランスのマルシアックでフラナガンを聴き、原宿のビー・フラットで、ジョージ・ムラーツやサー・ローランド・ハナを聴いた。」とヒュー・グラントみたいなかっこいいクイーンズ・イングリッシュで言われると、良い音楽に国境はないんだ… と改めて感じます。

 1984年に初めて演奏アーティストとしてお迎えした頃、フラナガンは、日本→西海岸→NYに帰ったと思えば、その翌週からヨーロッパ・ツアーと慌しく世界中を駆け回っていました。

 

<温厚紳士>

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 トミー・フラナガンは、”Soft-spoken”=物静かで温厚な紳士という風に評された。確かに、普段の話し声は低くて、”WOW!”なんて言うのは、めったに聞いたことがない。

 NYに行っても、信号無視が普通のマンハッタンの街を、トミーが赤信号で渡ったのを観たことない。私達が大阪流に渡っても、トミーは無表情で、青信号になるまで悠然と待っている。食事に行っても、ウエイターに注文をつけたり、急がせたりすることは絶対になかった。そういうことは、全部、奥さんのダイアナがするのです。

 楽団の元歌手で、ビッグバンド時代が終わると、国語の先生になったダイアナは、’70年代にトミーと再婚し、彼がエラ・フィッツジェラルドの許から独立してからは、トミー・フラナガンのパーソナル・マネージャーになった。トミーが独立後、フリーランスでありながら、あれよあれよという間に名実ともにトップ・ピアニストになれたのは、ダイアナの敏腕のおかげだったかどうかは別として、とにかくフラナガンが表に出さない強い自我の代弁者として、ダイアナを憎まれ役にしていたことは確かです。J.J.ジョンソンが、2度目の結婚の直後、それまでジャズに無縁な保険会社のOLだった新譜をマネージャーにしたのは、元レギュラー・ピアニストで親交厚かったトミーの成功を見倣ったということです。

<寺内貫太郎一家>

 デトロイト・ジャズ史、『Before Motown』には、フラナガンを、数多くのデトロイト・ジャズメンの内でも、コマーシャリズムを徹底的に拒否する、並外れたビバップ原理主義者だったと書いてある。身内だけしかいない時のトミー・フラナガンは、Before Motownに書かれた20代の血気盛んな青年と全く違わない。

 フラナガンは並外れて「情の深い」人だったのだと思います。言葉や文化が違っていても、人生を賭けて慕う寺井尚之を、真正面から受け止めて、自分の手の内を全部見せてくれました。

 寺井尚之に対しては日常とても優しかったけど、私に対しては、時にはとても厳しかった。だいたい、ヒサユキは「息子」と呼びながら、なぜか私は「娘」じゃなくて「シスター」で、「行儀」や「礼儀」、ジャズ界の「掟」を守れるよう、厳しく仕込んでくれました。理由はここで言えないけど、目に染みるくらい電話で怒鳴られたこともあります。その時は悔しかったけど、今では怒ってくれたことを、とても感謝しています。

 日本のバブルが弾けて、景気が落ち込んだ時は、深夜送っていったホテルで、「ヒサユキに手紙を書いたから渡してくれ」と封筒を預かり、持って帰ると、綺麗な文字で、長い励ましの言葉を書き綴った便箋と一緒にお金が入っていたこともあった。

 フラナガンは、何かにつけ、そういう人だった。演奏も、言葉も、行動も、口先だけのものは何一つないリアルな人。

 その反面、大きなジャズクラブに出演した時は、わざと「OverSeasの寺井尚之さ~ん、どこにいらっしゃいますか?フラナガンさんが楽屋でお呼びです。」と、スタッフに大声で言わせてPRをしてくれるようなイタズラなところもありました。

 情が深くて、自我が強くて、それでいて、ピアノにも世間様にもソフトタッチであった巨匠。だから心臓を悪くして早く亡くなったんだと、私は固く思ってます。

 決して器用な生き方ではなかったけれど、真のバッパーは器用なだけではなれないのだ!

 寺井尚之は、そういうところも受け継いでしまったんだなあ・・・そう思うトリビュート前、思い出の種が一杯です。

   

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J.J.ジョンソンをもっと楽しむためのキーワード

 

jjwithhat.jpgJ.J.ジョンソン (1924-2001)

  大阪は急に暖かくなりました!「ブログずっと読んでますよ。」とOverSeasに来て下さったお客様、ありがとうございます。おかげで気分は「春の如し」!
 
 小鳥のさえずりに『Dial J.J.5』の “Bird Song”や、ボビー・ジャスパーの”It Could Happen to You”が重なります。

 3月9日、「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」用『Dial J.J.5』の構成表も、ようやくPCファイルに転写できました。
 J.J.の「理にかなった明快さ」、レコードを聴きながら構成表を見れば、一目瞭然!リスナーもミュージシャンも、一緒に楽しめるよう、寺井尚之が解りやすく図解しています。複雑だけどすっきり明快なリズムの割り振り、プレイヤーの個性を生かしたアレンジにのけぞりましょう!
 
 トミー・フラナガンでさえ、「J.J.ジョンソンがバンドスタンドでミスをしたことは、一度もない。私は間違ってばかり。ただただ粛々と演奏するのみ・・・」と信じられないことを言っていました。実際にお目にかかった時の眼光の凄さが忘れられません。
 コルトレーンがGiant Stepsを録音する8年も前、J.J.ジョンソンは、”サークル・オブ・4th”の進行を取り入れた”Turnpike”(’51)という曲をさり気なく作ってた!なんというメティキュラスな天才!私のようなチャランポラン人間には、アンビリーバブルな雲の上の遠い人・・・今回のプリント資料のために、色んな伝記的インタビューを読んでみても、「こんなに私は練習した」とか「こんなに私は勉強した」とか、音楽的な発展という意味での苦労話は全く見当たらない。J.J.ジョンソンの「苦労」は、むしろビジネスの方だったのかも知れません。

 『Dial J.J.5』は永遠の愛聴盤、同じくらい人間として、親しみを持てるようなキーワードを列挙しておきます。

 

<Naptown>

 ”ナップタウン”とは米国中西部、インディアナ州、インディアナポリス(Indianapolis)のこと。J.J.ジョンソンはこの街で生まれ、NYやLAと東西の大都会で暮らした後、この街に戻り、自ら命を立つまで暮らした。

  父は地元の人間で貨物運送の労働者、母はミシシッピからやって来た。両親とも、教会の聖歌隊の他には、音楽とは無縁だったとJJは言う。普通高校を卒業後、すぐにプロ活動。正規の音楽教育は受けなかった。「音楽理論」は、ジュリアード音楽院で勉強したマイルズ・デイヴィスから教えてもらったそうです。多分、実地体験として、知ってることばかりだったのかも知れないけど。

<レスター・ヤングとフレッド・ベケット>

  lester.jpeg「音楽的な影響」を問われれば、必ず挙げるのが、テナー奏者、レスター・ヤング と、夭折の天才トロンボーン奏者、フレッド・ベケット、レスターからは、「一音一音、隅々までを追求する『理に適った』アドリブの姿勢」を、ベケットには、レスター的な要素を、トロンボーンに置き換えた「かたち」として影響を受けた。ベケット(Fred Beckett: 1917- 1946)は、ジミー・ヒースはじめ多くの名手が在籍したテリトリー・バンドNat Towles楽団やライオネル・ハンプトン楽団などに在籍していましたが、残念ながら、J.J.の発言を私たちが実感できる録音は見つけることが出来ませんでした。

 

 

 

<ベニー・カーター>

benny_carter50wi.jpg J.J.ジョンソンは、多くの楽団で活躍しましたが、憧れのレスター・ヤングが仕えたカウント・ベイシーよりも、「The King」 ベニー・カーターは、J.J.にとって、とても特別な存在!プロとしての手本だった。ミュージシャンたるものはこうでなくては!バンドリーダーとしての帝王学、そして、作編曲の面でも大きな影響を受けたと言っています。J & Kai時代.のピアニスト、ディック・カッツさんも、同じ事を言ってました。ミュージシャンにとってベニー・カーターの存在は、私たちが思うよりずっと大きいんですね。

<ディジー・ガレスピー>

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   1946年、カウント・ベイシー楽団と共にNYにたどり着いたJ.J.ジョンソンは、楽団を去り街に落ち着いて、52ndストリートで活躍、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンクたちと盛んに共演、彼らの創った新しい「ビバップ」のイディオムをトロンボーンに充当して、モダン・トロンボーンの開祖に成長します。
 ステージで彼らと共演しながら、耳にした新しいサウンドを、幕間にせっせと書き留めているジョンソンを、常に励ましたのがガレスピーだった。

  「俺は、トロンボーンが従来とは違う可能性があると判っていたよ。いつか、きっと誰かがそれをやってのけるってね。J.J.、お前が、その『お役目』を授かったんだよ。」

  J.J.ジョンソンはディジー・ガレスピーについてこう言っています。

 「ディジー・ガレスピーをビバップという狭いカテゴリーに押し込めてはいけない。彼の才能は、それをはるかに超えている!」

  
 

<中毒>

 
 
 数あるJ.J.ジョンソンのインタビュー記事を読んでいて、最も頻繁に出てくる言葉ベスト1が先週書いた「logic and clarity」、そしてベスト2は、「中毒」を表す、「addict」や「・・・holic」という言葉、「レスター・ヤング中毒」「MIDI中毒」「ストラビンスキー中毒」などなど・・・「好き」なものには「中毒」するほどのめりこむのがJ.J.ジョンソン流なのかも・・・あるいはJ.J.にとって、何かを徹底的に追求するためのロジカルな方法として「中毒」することをためらわなかったのかも・・・

 並外れてクールなJ.J.が立派なヘロイン中毒だったというのを知って、私はびっくり仰天したけれど、サウンドへの集中力をぎりぎりまで高めるための、「理詰め」の選択であったのかしら? ジャズ界のオスカー・ワイルドのような人だったのかも知れません。

<J.J.ジョンソンの死>

 

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 J.J.ジョンソンは、2001年2月4日、自宅で拳銃自殺をした。J.J.ジョンソンの二度目の奥さんでマネージャーでもあったキャロラインによれば、J.Jは、家族や親友を亡くした寂しさから、過去にも自殺を真剣に考えたことがあったそうだ。

 死の理由は様々な憶測を生んでいる。公共放送のケン・バーンズのジャズ・ドキュメンタリーでJ.J.のことが全く語られなかったからと言う人もいる。(まさか!)

 或いは、前立腺がんの痛みに耐えかね、24時間付き添い看護が必要だと医師に告げられたため、家族のお荷物にならないように死ぬことを選んだ。最初の理由よりはもっともらしい。・・・でも、亡くなる直前まで、自宅のスタジオで過ごしたり、トロンボーンの教則本を書いたりしていたと言います。トミー・フラナガンやジミー・ヒースたちは、みんな「わからない」としか言いません。

 では、3月9日(土)は『Dial J.J,5』を聴きながら、J.J.ジョンソンの、徹頭徹尾「理詰め」なところと、熱く燃えるジャズ魂を味わいましょう!

「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は6:30pm開講、受講料は2,625yen

CU

 
 

 

J.J.ジョンソンのアドリブ学:「論理性と明瞭さ」

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  3月9日(土)、「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に永遠の名盤 『Dial J.J.5』が登場!

 もしも、J.J.ジョンソンが科学者であったら、ノーベル賞をもらったかも・・・ 怖いほど冷静沈着でありながら悠々とスイングし、緻密な構成でも息苦しくならない。生前のフラナガンは、J.Jのコンボについて「言われる通り、粛々と演奏していただけ。」と言ったけど、メンバーたちは清流の鮎の如く、フリーにプレイしているように感じます。何度聴いても飽きない演奏!

 講座で配布用の資料として、講座の為にJ.J.ジョンソンの、インタビュー(1995年)の日本語訳を作ってみました。そこで何度も登場する言葉は、「論理的で明瞭であること」〔with logic and with clarity ]  『Dial J.J.5』でも「論理性」と「明瞭性」が、そのまま音符になってスイングしてますよね!ディジー・ガレスピーの依頼で作編曲した大作『Perceptions』にせよ、スモール・コンボにせよ、曖昧さを徹底的に排除する「論理性」&「明瞭性」は終始一貫しています。

 足跡講座で映写する、寺井尚之特製「構成表」を見ても、J.J.ジョンソンの音楽が、とても複雑でありながら、実にすっきりした幾何学的な美しさを持っていることが判ります。

 J.Jの発言は、先月の足跡講座で配布したソニー・ロリンズ・インタビューでの、トランス状態至上主義と対照的で、とても興味深く読みました。

 J.Jは、自分の目指すのは、決して「超絶技巧」などではない!と言い切ります。トロンボーンを始めてから、アドリブのアプローチで、最も影響を受けたのがレスター・ヤングであるというのが鍵のようです。

 J.J.が最も忌み嫌うのが「あいまいさ」。エルヴィン・ジョーンズ(ds)を、「リズム・キープができない(!?)」と解雇したのも、ボビー・ジャスパーをレギュラーに起用したのも、なんとなく納得。

 彼が何度もジャズjjimages.jpegサヨナラし、転業したのも、そしてライフル自殺をしたのも、理に合わないことには我慢が出来ない完全主義のせいだったのかも・・・私のようなチャランポラン人間は軽蔑されたろうな・・・

 これほどクリアでクリーンな天才、それにもかかわらず、というべきか、それゆえ、なのか、チャーリー・パーカー、ソニー・スティット、ロリンズ、ジミー・ヒース、マイルズ・・・彼の仲間と同様に、J.J.ジョンソンもジャンキーだった。

 そのため、当局からキャバレー・カードを剥奪され、NYのクラブ出演は極端に制限されていた。『Dial J.J.5』でフラナガンが共演していた頃は、NYではマフィア経営の”カフェ・ボヘミア”に土壇場のライブ予告という形で、不定期出演するのみ、通常はNYの川向う、ニュージャージーの『Red Hill Inn』を本拠にしていました。

 まっとうに仕事をこなし家族をきちんと養っていたJ.J.ジョンソン、ジャンキーとはいえ、スタン・ゲッツのように窃盗をしたわけでもない、キャバレーカードを取り上げるのは論理に合わない!とばかりにNY地方裁判所に告訴!1959年には、首尾よくカードを取り戻します。この裁判が契機となり、警官汚職の温床でもあったキャバレー法が改正。この徹底的な姿勢が、彼のプレイにも作品にも反映されているように感じます。

 寺井尚之が音楽とその構成、プレイと人間性を徹底解説する「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、Dial J.J.5は3月9日(土)に!

 CU