明日11月16日(土)はトミー・フラナガンの命日、デトロイト・ハードバップが産声を上げたジャズクラブ “ブルーバード・イン”について書くことにいたします。フラナガンがケニー・バレルと録音した『ビヨンド・ザ・ブルーバード』は、このクラブへのオマージュです。..
地元のモダン・ピアニスト、フィル・ヒルと、NY帰りのモダン・ドラマー、アート・マーディガンから、ポスト・ハードバップのジョー・ヘンダーソン(ts)まで…デトロイトのモダンジャズの象徴的ジャズクラブ、ここしばらくは毎月の足跡講座で楽しむことが出来るデトロイト・ハードバップの基礎を構築したビリー・ミッチェル+サド・ジョーンズ+トミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズたちが出演した期間は1953年から54年と、驚くほど短いのです。でも、その間の思い出は、出演ミュージシャン達めいめいのジャズライフのハイライトを飾る重要な位置を占めています。
1948当時の”ブルーバード・イン”、玄関脇の窓際がバンドスタンドで、OverSeas旧店舗とよく似てるとフラナガンが言っていた。フィル・ヒル(p)、アート・マーディガン(ds)、エディ・ジャミソン(as)、ビーンズ・リチャードソン(b)、エイブ・ウーリー(vib)
創業1930年、”NYの名門クラブと違い、黒人の経営する黒人のためのジャズクラブ、お客の99%が黒人でしたが、店の中では驚くほど人種のこだわりがなく、気取りもない。(ペッパー・アダムス証言)とにかく別世界、最高の雰囲気!いかなる公的援助も受けず、21世紀になっても業態を変えながら営業を続けた大変な老舗でもあります。
サド・ジョーンズの曲「5021」のとおり、”ブルーバード・イン”の住所は、「5021 Tireman St, Detroit, MI 48204」いかにも自動車工業の街を思わせる”タイアマン”地区は、デトロイトのウエストサイドにあり、旧来の黒人居住区(ブラックボトム)のあるイーストサイドと反対側のの新興住宅地です。開店の1930年は、奇しくもトミー・フラナガンの生まれ年でした。
タイアマンのあるウエストサイドの黒人居住地は、第二次大戦の戦争特需で街が好景気に転じた時期に開発されました。徴兵の為に労働者が不足した結果、黒人の雇用が安定し、収入の増加を受け、黒人用一戸建て住宅が沢山建設されたと言います。
因みに、フラナガンのお父さんは景気と余り関係のない実直な郵便配達夫、生家のあったコナント・ガーデンズは、タイアマンから北東約10キロの地区でした。
<経営者たちのアウトレイジ>
銀行の援助の期待できない黒人のビジネス、”ブルーバード・イン”の創業者は町の顔役、デュボア・ファミリーのロバート・デュボアといいます。開店当時はアメリカ料理と中華料理が楽しめるレストラン・バーで、ジャズクラブではありません。
1938年、創業者ロバートは息子に殺害されてしまいます。父親殺しのバディ・デュボアが戦勝の恩赦で出所する1945年まで、子分のヘンリー・ブラックが社長代行を務めました。
デュボアは戦後のビバップ・ブームに着眼し、モダンジャズに特化したジャズクラブへ経営方針を変更、するとそれが大当たり!1948年ごろにはデトロイトでピカイチの音楽を提供するトップ・ジャズクラブとなっていました。
当時のクラブは、コミックやダンスといった他の出し物を合わせるショウバー形式か、ダンスホール兼用が多く、『聴く』を重視した”ブルーバード・イン”のジャズクラブ戦術は最も都会的でおしゃれなものだったんです。
お客は、近隣だけでなく、デトロイト中からやってきました。ミュージシャンもリスナーも、客席のほとんどがビバップ・ファッション、ディジー・ガレスピーよろしくベレーと眼鏡にヤギ髭とカーディガン・ジャケットという出で立ちで、ジャズに聴き入り、ミュージシャンを応援してくれたのです。幕間にジュークボックスでダサい音楽をかけようものなら、バーテンにまで怒られる始末でした。
当時のハウス・バンドは地元のモダン・ピアニスト、フィル・ヒル、NYから戻って来たアート・マーディガン(ds)を中心に、ワーデル・グレイ(ts)や近所の住人、ビリー・ミッチェル(ts)、それに地元の有名ミュージシャンが参加。ヒルは駆け出しのトミー・フラナガンを可愛がり、まだ16才のトミーにピアノを演奏させたことがあったそうですが、経営者のデュボアに追い出されたという証言が残っています。未成年だったからかもしれませんね。
1953年、実業家クラレンス・エディンズ(左の写真)が共同経営者として本格的に参入。ちょうどフラナガンが朝鮮戦争から帰還し、テリー・ギブズ(vib)にスカウトされNYに進出したテリー・ポラードの後任としてハウス・ピアニストになった頃です。エディンスはクリーニング屋や食堂などを経営していましたが、本業はナンバーズ賭博の胴元です!恐らくはデュボア・ファミリーに資金を提供していたのかもしれません。エディンスはジャズを愛し、マイルズ・デイヴィスの後援者として有名でした。マイルズが麻薬と縁を切るためデトロイトで滞在したときには、彼に様々な便宜を図り、”ブルーバード・イン”に出演させ、ホテルを世話し、自分のワードローブさえ自由に使わせる寛大なタニマチでした。
ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、マックス・ローチなどNYのトップ・ジャズメンはデトロイトに来ると必ず”ブルーバード・イン”に顔を出して、サド・ジョーンズのアイデアを吸収し、見込みのあるミュージシャンをチェックして行きました。デトロイト出身の大チャンプ、シュガー・レイ・ロビンソンも”ブルーバード・イン”のセレブな常連でした。
やがて第二の凄惨な事件が起こります。1956年、バディ・デュボアが店から僅か数ブロック離れたところで待ち伏せにあい殺されたのです。事件は迷宮入り、エディンスが名実ともに唯一の経営者となったわけです。この頃には、トミー・フラナガン、ケニー・バレル、サド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルは皆NYに進出していました。
<ブルーバードの変貌>
フラナガンが「OVERSEAS」をスエーデンで録音する頃、”ブルーバード・イン”は改装、窓際にあったバンドスタンドは店の奥に移り、NYのトップ・グループを出演させるブッキング、いわばデトロイト版「ブルーノート」となり、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズと言ったハードバップ・バンドがライブ・スケジュールのラインナップを飾っていました。
ところが、再び暴力沙汰が起こります。”ブルーバード・イン”に頻繁に出演していたソニー・スティットと店が揉め、エディンスがショットガンでスティットを脅した挙句、大事なサックスを壊すという事件が起こり、スティットはAFM(アメリカ事件音楽家協会)に提訴。結果、”ブルーバード・イン”はAFMのブラックリストに入り、会員の出演を禁止する事態に。スターの出ない”ブルーバード・イン”の客足は遠のいて行きました。
時代は変わり、デトロイトの治安が悪化する’70年代初めにライブを中止。店はそのままに守られていましたが、エディンズは1993年に死去。
その後、夫の愛した”ブルーバード・イン”の歴史を守るため、未亡人のメアリー夫人が、サンデイ・ジャムセッションなど、様々なイベントを主催しましたが、彼女も2003年に亡くなり、2008年に店舗は競売にかけられました。
デトロイトでは、”ブルーバード・イン”を史跡として保存しようという声もあるそうですが、時節柄、実現していません。
上の荒れ果てた店舗の写真を見ると、諸行無常の響きが聞こえて来ます。往時はNYのジャズクラブのようなテントが通りに張り渡してあった玄関口。ブルーの塗装はフラナガンが居た頃にはなかったものでしょう。
デュボア・ファミリーの抗争も、お客たちの歓声も、窓から漏れ聴こえるライブに耳を澄ます未来のミュージシャンたちの輝く瞳も今はありません。
トミー・フラナガンたちの演奏するサド・ジョーンズのオリジナル曲、聴きなれなくとも受け容れて、大きな拍手で応援してくれた”ブルーバード・イン”の陽気で音楽をよく知っていたお客さんたちは、その後どんな人生を送ったのでしょうか?
土曜日は、トリビュート・コンサート!精一杯お客様に楽しんでいただけますように!まだ少し席はありますので、どうぞ沢山お越しください!
CU