12月のThe Mainstemはコートにスミレで!

 今年も残りわずかになりました。皆様いかがお過ごしですか?

 daveimages.jpegOverSeasには、東京のお客様に送っていただいたラ・フランスという洋ナシの香りが漂っていい気持ちです。

 ジャズ界ではデイブ・ブルーベックが91歳で亡くなり、日本ではたった57歳で中村勘三郎が逝ってしまいました。

benkei1_2.jpg 勘三郎は、かつて船弁慶を踊ったとき、そのラストに日野皓正のトランペットを使う演出で観客の度肝を抜いたこともありました。能を題材にしたちょっとホラーっぽいストーリーだから、ジャズのトランペットに合わせてなぎなたをクルクルまわしながら下がっていく「型破り」な演出が大評判!

 「型破り」というのは、日本の文化を象徴する言葉なのかもしれません。能狂言の稽古では、最低10年間はひたすら師匠を真似て覚えるだけといいます。完全に師匠の教えを身に着けた時点で、初めて「型を破る」ことが許される。自分のイマジネーションを生かすことが可能になるというのです。勘三郎の、モダンでありながら伝統の底力で、「日本人に生まれてよかった!」と私たちに希望を与えてくれる独特の芸風も、先人の遺産を深く広く理解しているからでしょう。

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  寺井尚之というジャズ・ピアニストも、『型」を学びぬいてきたからこそ、それを破って自分のスタイルを作ってきたのかなと、日々感じています。

 今週と来週の土曜日に(多分)聴ける「コートにスミレを」は寺井尚之の名演目のひとつです。マット・デニスやビリー・ホリディの名唱で知られ、色んな解釈の出来る歌。
 場所は12月のNY、真冬の情景が、街の花屋で恋人のコートにスミレを飾った瞬間に、春に一変するというファンタジックな曲。ピアノ・トリオで表現する情景の移り変わりは、まるで歌舞伎の廻り舞台!

 冒頭のヴァースから、歌詞に因んで、宝塚歌劇団でおなじみの「スミレの花咲く頃」で、茶目っ気たっぷりの粋な幕切れまで、ちょっとした短編映画のように、弾き付けられてしまいます。

 OverSeas冬の名演目、12月15日(土)と22日(土)の寺井尚之The Mainstemトリオ、忘年会の喧騒を避けて、ぜひごゆっくりお過ごしください!

CU

週末はジャズ鑑賞で!

 先週はエコーズ最終回、最後の鷲見和広(b)さんを楽しもうと、たくさんのお客様が来てくださいました。中には、東京在住のお客様や、NYから帰国中の石川翔太くんも!

 People Come and Go…

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そして、先週末はアマチュアのトップ・ドラマー、林宏樹(ds)ライブ!寺井尚之とは学生時代から、いろんな演奏場所でブリブリ演っていたオールド・フォークス!懐かしいジャズの仲間、というか、私にとって大先輩たちがたくさん応援に来てくださって、音楽のツボをしっかり押さえて大応援!
 
trio5IMG_2194.jpg その応援ぶりを見ながら、エルヴィン・ジョーンズ(ds)がデトロイトの”ブルーバード・イン”という名クラブについて、こんなことを書いていたのを思い出しました。「”ブルーバード・イン”のお客さんは音楽をわかっている人ばかりだった。あんな店はほかにない。ひょっとしたら、全員がなにがしかの演奏をする人ばかりだったのかも・・・」

  怒涛の一週間が終わり、今週は金、土と連日講座です!

 ahmad_jamal.jpg 12/7金はピアノの魔術師、アーマッド・ジャマルがDVD講座に登場!80歳を超えても、まだ現役バリバリ、古くはマイルス・デイヴィスやオスカー・ピーターソンたちに影響を与え、現在はヒップホップのアーティストたちにこぞってサンプリングされる、そんなジャマルのボーダーレスなピアノ・マジックについて、寺井尚之が徹底解説!

 モンティ・アレキサンダー同様、欧米ではビッグ・スターなのに、なぜか日本では低評価。だから来日回数も多くありません。映像で観てこその面白さのあるジャマル!ぜひご覧あれ!

 burrell.jpg(土)は新「トミー・フラナガンの足跡を辿る」その2!トミー・フラナガンがデトロイトからNYに進出した直後の録音群を再検証していきます。

 『Jazzmen Detroit』『Introducing Kenny Burrell』そして、NYに出てきたフラナガンに注目したオスカー・ペティフォードのビッグバンド名盤『Pettiford in Hi-Fi』 どれも 寺井尚之の新しい発見いっぱいの新ラウンドになりそうです。

私は資料として、スミソニアン博物館歴史資料、ケニー・バレルのインタビューの日本語版を作ってみました。

 

Kenny Burrell

Kenny Burrell (Photo credit: Wikipedia)

デトロイトから多くの名手が輩出した土壌や、NY進出後、多数のリーダー作を出しながらも、スタジオ・ミュージシャンとして才能をすり減らした苦労話や出世話など、見かけによらず苦労人だったバレルの栄光や挫折、意外な素顔を観ることが出来ます。

 バレルの発言を逐一記録した、アーカイブ文書は、その行間や、「語られていないこと」に、より興味を惹かれて、取材を続けたい気持ちにさせられます。

 週末講座2本立て、どうぞお楽しみに!

12/7(金) 7pm- 映像で観るジャズの巨人:アーマッド・ジャマル

12/8(土) 6:30pm-  新トミー・フラナガンの足跡を辿る

いずれも受講料は2,625yen (学割チャージ半額)


 

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第21回トミー・フラナガン・トリビュートCDできました・

 トリビュート・コンサートが終わったら、あっという間に真冬に!

 今回も、録音担当してくださった 生徒会あやめ会長のおかげで、首尾よくコンサートCD完成!

 

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<Disk 1>
1. Beats Up
(ビーツ・アップ) / Tommy Flanagan
2. Out of the Past  (アウト・オブ・ザ・パスト) /Benny Golson
3. Minor Mishap (マイナー・ミスハップ)/ Tommy Flanagan
4. Embraceable You (エンブレイサブル・ユー) /Ira & George Gershwin
Quasimodo (カジモド) /Ira & George Gershwin
5. Good Morning Heartache(グッドモーニング・ハートイエク) / Irene Higgibotham, Ervin Drake, Dan Fisher
6. Mean Streets (ミーン・ストリーツ 旧名ヴァーダンディ)/ Tommy Flanagan
7. Dalarna (ダラーナ) / Tommy Flanagan
8. Tin Tin Deo (ティン・ティン・デオ) /Chano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespie

<Disk 2>
1. When Lights Are Low
(灯りが暗くなったとき)/ Benny Carter
2. That Tired Routine Called Love (ザット・タイヤード・ルーティーン・コールド・ラヴ) /Matt Dennis
3. Beyond the Bluebird (ビヨンド・ザ・ブルーバード) / Tommy Flanagan
4. Rachel’s Rondo (レイチェルのロンド) / Tommy Flanagan
5. Smooth As the Wind (スムーズ・アズ・ザ・ウィンド) / Tadd Dameron
6. Eclypso (エクリプソ)/ Tommy Flanagan
7. That Old Devil Called Love (ザット・オールド・デヴィル・コールド・ラブ)/Allan Roberts, Doris Fisher
8. Our Delight (アワー・デライト)/ Tadd Dameron

<Disk 3>
Encore:
1.With Malice Towards None
(ウィズ・マリス・トワーズ・ノン) /Tom McIntosh

2. Ellingtonia デューク・エリントン・メドレー
Chelsea Bridge (チェルシーの橋) / Billy Strayhorn
Passion Flower (パッション・フラワー) / Billy Strayhorn
Black and Tan Fantasy(黒と茶の幻想) / Duke Ellington

 

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 コンサート全プログラム中、フラナガンのオリジナル曲は7曲。 オープニングの”Beats Up“は『OVERSEAS』に収録されているフラナガンのオリジナル、トリビュート・コンサート初登場!The Mainstemのレギュラー・トリオとしての充実ぶりが、最初の2小節バース・チェンジから窺えます。

 エラ・フィッツジェラルドの音楽監督から独立後、ピアノ・トリオを率いて活躍した全盛期のフラナガンのレパートリーは、Bebop黄金時代のビッグ・バンドのナンバーを、すっきりとピアノ・トリオ用にまとめ上げ、ビッグバンドよりダイナミックに演奏することで、世界中のバップ・ファンを興奮のるつぼに巻き込みました。Bebopの立役者、タッド・ダメロンの”Smooth As the Wind“や”Our Delight “、ディジー・ガレスピー楽団の”Tin Tin Deo“、サウンドのカラー・チェンジ、スピード感の変化が生み出すスリルは、高級スポーツカーかジェット・コースター!トミー・フラナガンが青年時代に味わったBebopの感動が、そのまま凝縮されたアレンジなのかもしれません。

 トミー・フラナガンが幼いころ、デトロイトのトップ・バンド、「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ」で活躍したベニー・カーターの代表曲 ”When Lights Are Low “(灯りが暗くなったとき)は、フラナガンがYAMAHAの自動演奏ピアノのために遺したソロ・ピアノ・ヴァージョンのRiffが聴けます。詳しい曲説はHPをご覧ください。

 トリビュート・コンサートも21回目を数えますが、フラナガンの愛奏曲は、どれもこれも超難曲揃い、なかなか涼しい顔ではできない演目ばかり、フラナガンに「捧げる」という責任も大ですが、お客様のおかげで、だんだんとリラックスしていく様子もまた楽しい!録音されている拍手や掛け声は、私にとってビタミン剤より効きます!

本日ダイアナ未亡人に CDが出来上がったことを報告したら、とても喜んで、トリビュート・コンサートに来てくださった皆さんに、もう一度よろしくね!と何度も言っていました。

第21回トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートCDは3枚組です。ご希望の方はOverSeasまでお問い合わせください。

Black and Tan Fantasy 幻想の時代

allIMG_1518.JPG第21回トリビュート・コンサート開催!

 久々に駆けつけてくださった懐かしいお顔、初めてのお客様、いろいろ楽しいご縁ができるのも、トリビュート・コンサートご利益です!

 皆様、応援ありがとうございました。

 『OVERSEAS』でおなじみの”Beats Up”から、アンコールのエリントン・メドレーまで、フラナガンの演目は、所謂スタンダード・ソングが少ないので、毎回、曲目説明をHPに出しています。ぜひご一読ください。

 今回は、ジャズ評論家&名カメラマン、後藤誠氏の写真のおかげで、かっこよくUPできました。後藤先生ありがとうございます!

 
 
 
<黒と茶の幻想って?>
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 トリビュート・コンサート、アンコールで聴いた、”Black and Tan Fantasy”がまだ耳にこだましています。この曲は「黒と茶の幻想」というアートな邦題。デューク・エリントン・コットン・クラブOrch.のヒット曲、短編映画では、美しいダンサーが、病を押して愛するエリントンのためにダンス踊り死んでいく・・・ああ、美人薄命・・・という半分悲劇仕立て。幻想的ではあるけれど、”ブラック&タン”の意味はあまりよくわからなかったのです。

 最近、モータウン以前のデトロイトのジャズ史、”Before Motown”のBebop以前の章を詳しく読むと、“Black and Tan” という言葉の意味が詳しく書かれていて目からうろこでした。

<Black and Tan>

harlem_nocturne.jpg  “Black and Tan “という言葉は、この曲が生まれた1920年代にできた言葉だそうです。“Black”は「黒人」、そして茶色というよりはむしろ「小麦色」、「褐色」を意味する“Tan”は、「褐色の美女」ではなく「白人」を指す。すなわち“Black and Tan “ は「黒人&白人」だというのです。現在は米国人にもわからない言葉です。

  1920年代以前は、売春宿のサロンではない一般社会では、”ジャズ”のような音楽さえ、白人の聴衆は白人の演奏を聴くのがふつうでした。それが、第一次大戦後に、「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれる黒人文化の開花期が訪れ、白人の間でも、ジャズや文学など、黒人の文化がとてもかっこいい、おしゃれなものとしてもてはやされるようになり、白人客のために、黒人たちのダンスや音楽を聞かせるキャバレーやバーが流行しました。それが“Black and Tan “ なんですって!

 フラナガンの生地、デトロイトでも、 第一次大戦後、“Black and Tan “の店は、パラダイス・バレーで繁盛しましたが、なんといっても全米一の“Black and Tan “ はNYハーレムの”コットン・クラブ”、そこで“Black and Tan Fantasy”が生まれた!  当時“Black and Tan “の主役は、楽団ではなく、褐色の踊り子たちが繰り広げるセクシーなショウでした!衣装は限りなく裸に近く、ジャングルをイメージしたもの。  白人にとっては、黒人=アフリカのジャングルというステレオタイプを逸脱すると、売れなかった。だから、エリントンもジャングル・ミュージックを演るしかなかったんですね。

 エリントンという人は、最初は春歌みたいなのを演っていて、だんだん「芸術家」に化けていく。それも桁外れの芸術家に化けるのだからモンスターですね!エリントン楽団は“Black and Tan “仕様 、白人のお客向けのレパートリー・ブックと、同胞の黒人向けのブックの二通りのレパートリーを装備して、演奏活動を行っていたのです。

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 視点を変えると、”Black and Tan”こそが、ジャズ芸術が一般社会に認知される出発点であったのだと”Before Motown”は結論付けています。”Black and Tan”の営業形態はさまざまで、「コットンクラブ」は白人専用高級クラブ、有色人種はお客になれなかった。でも、客席も人種混合というのも数多くあったそうです。

 エリントンは、白人社会の偏見を受容しながら、芸を荒らすどころか、逆に新しい「芸術」を作っていったというのが、すごいですね! 

 
 
<ブラック・ビューティ、フレディ・ワシントン>tumblr_lfc7tbNiU31qgtqgzo1_500.jpg

  余談ですが、短編映画のヒロインを勤めた美しい女優さんはフレディ・ワシントン(1903-1994)といい、ブラック・ビューティの草分け的な女優さんです。ブロードウエイのダンサーであった彼女の映画デビューが『Black and Tan』でした。当時の映画界で黒人の役といったら、ほとんど「召使」、美貌ゆえ、却って役柄に苦労した。エージェントは「あんたの外見は白人で通るのだから、仕事のために自分を白人といいなさい。」と勧めたけれど、「私は黒人です!」と、人種的なプライドから、ガンとして首を縦に振らず、いろいろ苦労をしたといいます。
 
 映画『Imitation of Life』では、黒人の血を引くことを隠して生きる、自分とは逆のヒロインを演じたため、バッシングを受けるという目にもあいましたが、のちにアカデミー賞にノミネートされました。
 
 私生活では、エリントンと浮き名を流しながら、楽団のトロンボーン奏者、ローレンス・ブラウンと結婚、目の覚めるような美男美女の二人がハーレムを闊歩すると、町が騒然としたという伝説もあります。
 
 その肌の白さゆえ、さまざまたな苦難にあったワシントンは、後年、黒人俳優のコンサルティングを務め、公民権運動にも大きな貢献をしたといいます。
 
 日本も外国も、明治の女はエライ!
 
 そんなことを思い返しつつ、私の耳にはトリビュート・コンサートでThe Mainstemが演奏した“Black and Tan Fantasy”がこだましています。
 

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 コンサートのCD(三枚組)がもうすぐできる予定ですので、ご希望の方は、当店までお申し込みください。
 
CU 
 

 

 

タブロイド的 ”ブルーバード・イン”考

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  明日11月16日(土)はトミー・フラナガンの命日、デトロイト・ハードバップが産声を上げたジャズクラブ “ブルーバード・イン”について書くことにいたします。フラナガンがケニー・バレルと録音した『ビヨンド・ザ・ブルーバード』は、このクラブへのオマージュです。..

   地元のモダン・ピアニスト、フィル・ヒルと、NY帰りのモダン・ドラマー、アート・マーディガンから、ポスト・ハードバップのジョー・ヘンダーソン(ts)まで…デトロイトのモダンジャズの象徴的ジャズクラブ、ここしばらくは毎月の足跡講座で楽しむことが出来るデトロイト・ハードバップの基礎を構築したビリー・ミッチェル+サド・ジョーンズ+トミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズたちが出演した期間は1953年から54年と、驚くほど短いのです。でも、その間の思い出は、出演ミュージシャン達めいめいのジャズライフのハイライトを飾る重要な位置を占めています。

 

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 1948当時の”ブルーバード・イン”、玄関脇の窓際がバンドスタンドで、OverSeas旧店舗とよく似てるとフラナガンが言っていた。フィル・ヒル(p)、アート・マーディガン(ds)、エディ・ジャミソン(as)、ビーンズ・リチャードソン(b)、エイブ・ウーリー(vib)

 

 

 

  創業1930年、”NYの名門クラブと違い、黒人の経営する黒人のためのジャズクラブ、お客の99%が黒人でしたが、店の中では驚くほど人種のこだわりがなく、気取りもない。(ペッパー・アダムス証言)とにかく別世界、最高の雰囲気!いかなる公的援助も受けず、21世紀になっても業態を変えながら営業を続けた大変な老舗でもあります。

 サド・ジョーンズの曲「5021」のとおり、”ブルーバード・イン”の住所は、「5021 Tireman St, Detroit, MI 48204」いかにも自動車工業の街を思わせる”タイアマン”地区は、デトロイトのウエストサイドにあり、旧来の黒人居住区(ブラックボトム)のあるイーストサイドと反対側のの新興住宅地です。開店の1930年は、奇しくもトミー・フラナガンの生まれ年でした。

 タイアマンのあるウエストサイドの黒人居住地は、第二次大戦の戦争特需で街が好景気に転じた時期に開発されました。徴兵の為に労働者が不足した結果、黒人の雇用が安定し、収入の増加を受け、黒人用一戸建て住宅が沢山建設されたと言います。

 因みに、フラナガンのお父さんは景気と余り関係のない実直な郵便配達夫、生家のあったコナント・ガーデンズは、タイアマンから北東約10キロの地区でした。

<経営者たちのアウトレイジ>

 銀行の援助の期待できない黒人のビジネス、”ブルーバード・イン”の創業者は町の顔役、デュボア・ファミリーのロバート・デュボアといいます。開店当時はアメリカ料理と中華料理が楽しめるレストラン・バーで、ジャズクラブではありません。

 1938年、創業者ロバートは息子に殺害されてしまいます。父親殺しのバディ・デュボアが戦勝の恩赦で出所する1945年まで、子分のヘンリー・ブラックが社長代行を務めました。

 デュボアは戦後のビバップ・ブームに着眼し、モダンジャズに特化したジャズクラブへ経営方針を変更、するとそれが大当たり!1948年ごろにはデトロイトでピカイチの音楽を提供するトップ・ジャズクラブとなっていました。

 当時のクラブは、コミックやダンスといった他の出し物を合わせるショウバー形式か、ダンスホール兼用が多く、『聴く』を重視した”ブルーバード・イン”のジャズクラブ戦術は最も都会的でおしゃれなものだったんです。

bebop_look.jpeg お客は、近隣だけでなく、デトロイト中からやってきました。ミュージシャンもリスナーも、客席のほとんどがビバップ・ファッション、ディジー・ガレスピーよろしくベレーと眼鏡にヤギ髭とカーディガン・ジャケットという出で立ちで、ジャズに聴き入り、ミュージシャンを応援してくれたのです。幕間にジュークボックスでダサい音楽をかけようものなら、バーテンにまで怒られる始末でした。

 当時のハウス・バンドは地元のモダン・ピアニスト、フィル・ヒル、NYから戻って来たアート・マーディガン(ds)を中心に、ワーデル・グレイ(ts)や近所の住人、ビリー・ミッチェル(ts)、それに地元の有名ミュージシャンが参加。ヒルは駆け出しのトミー・フラナガンを可愛がり、まだ16才のトミーにピアノを演奏させたことがあったそうですが、経営者のデュボアに追い出されたという証言が残っています。未成年だったからかもしれませんね。

Clarence_Eddins1950s.jpg 1953年、実業家クラレンス・エディンズ(左の写真)が共同経営者として本格的に参入。ちょうどフラナガンが朝鮮戦争から帰還し、テリー・ギブズ(vib)にスカウトされNYに進出したテリー・ポラードの後任としてハウス・ピアニストになった頃です。エディンスはクリーニング屋や食堂などを経営していましたが、本業はナンバーズ賭博の胴元です!恐らくはデュボア・ファミリーに資金を提供していたのかもしれません。エディンスはジャズを愛し、マイルズ・デイヴィスの後援者として有名でした。マイルズが麻薬と縁を切るためデトロイトで滞在したときには、彼に様々な便宜を図り、”ブルーバード・イン”に出演させ、ホテルを世話し、自分のワードローブさえ自由に使わせる寛大なタニマチでした。

ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、マックス・ローチなどNYSugar-Ray-Robinson.jpgのトップ・ジャズメンはデトロイトに来ると必ず”ブルーバード・イン”に顔を出して、サド・ジョーンズのアイデアを吸収し、見込みのあるミュージシャンをチェックして行きました。デトロイト出身の大チャンプ、シュガー・レイ・ロビンソンも”ブルーバード・イン”のセレブな常連でした。

 やがて第二の凄惨な事件が起こります。1956年、バディ・デュボアが店から僅か数ブロック離れたところで待ち伏せにあい殺されたのです。事件は迷宮入り、エディンスが名実ともに唯一の経営者となったわけです。この頃には、トミー・フラナガン、ケニー・バレル、サド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルは皆NYに進出していました。

 

<ブルーバードの変貌>

  フラナガンが「OVERSEAS」をスエーデンで録音する頃、”ブルーバード・イン”は改装、窓際にあったバンドスタンドは店の奥に移り、NYのトップ・グループを出演させるブッキング、いわばデトロイト版「ブルーノート」となり、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズと言ったハードバップ・バンドがライブ・スケジュールのラインナップを飾っていました。

 SonSti.gifところが、再び暴力沙汰が起こります。”ブルーバード・イン”に頻繁に出演していたソニー・スティットと店が揉め、エディンスがショットガンでスティットを脅した挙句、大事なサックスを壊すという事件が起こり、スティットはAFM(アメリカ事件音楽家協会)に提訴。結果、”ブルーバード・イン”はAFMのブラックリストに入り、会員の出演を禁止する事態に。スターの出ない”ブルーバード・イン”の客足は遠のいて行きました。

 時代は変わり、デトロイトの治安が悪化する’70年代初めにライブを中止。店はそのままに守られていましたが、エディンズは1993年に死去。

 その後、夫の愛した”ブルーバード・イン”の歴史を守るため、未亡人のメアリー夫人が、サンデイ・ジャムセッションなど、様々なイベントを主催しましたが、彼女も2003年に亡くなり、2008年に店舗は競売にかけられました。

 デトロイトでは、”ブルーバード・イン”を史跡として保存しようという声もあるそうですが、時節柄、実現していません。

 上の荒れ果てた店舗の写真を見ると、諸行無常の響きが聞こえて来ます。往時はNYのジャズクラブのようなテントが通りに張り渡してあった玄関口。ブルーの塗装はフラナガンが居た頃にはなかったものでしょう。

 デュボア・ファミリーの抗争も、お客たちの歓声も、窓から漏れ聴こえるライブに耳を澄ます未来のミュージシャンたちの輝く瞳も今はありません。 

 トミー・フラナガンたちの演奏するサド・ジョーンズのオリジナル曲、聴きなれなくとも受け容れて、大きな拍手で応援してくれた”ブルーバード・イン”の陽気で音楽をよく知っていたお客さんたちは、その後どんな人生を送ったのでしょうか? 

 

 土曜日は、トリビュート・コンサート!精一杯お客様に楽しんでいただけますように!まだ少し席はありますので、どうぞ沢山お越しください!

 

CU

 

デトロイト:モーターシティ創世記

 オバマ再選!少なくともジャズに関係ある米国人なら、人種や居住地に関係なく、共和党ロムニー候補に投票した人は、まずいなかったでしょう・・・

 このロムニーさんは意外にもデトロイト出身、一方オバマ大統領が属する民主党から 1930年代に出馬したフランクリン・ルーズベルトの大統領就任に一役買ったのは、自動車産業に従事するデトロイトの黒人労働者たちでした。

 米国中西部有数の大都市、モーターシティ、デトロイトは、言うまでもなくトミー・フラナガンだけでなく数えきれないほど多くのジャズ・ミュージシャンを輩出しました。またビバップ時代、ディジー・ガレスピーが本拠地に選び、マイルズ・デイヴィスが長期滞在した場所です。

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 フィラデルフィアやシカゴなど、ジャズ・ミュージシャンを多数輩出した他の都市とデトロイトはどう違うのでしょう?

 昔、トミー・フラナガンと一緒にリンカーン・センターの図書館に行った時、私の見慣れない人たちの古めかしい写真にフラナガンが大喜びしたことがありました。(下の写真)

  「マッキニー・コットン・ピッカーズ(McKinney Cotton Pickers)!わたしはこの人たちを聴いて育ったんだよ!デトロイトから有名になった。ベニー・カーターもここにいたんだよ。」
???

 Cotton Pickers (綿摘人夫さんズ)……人種差別に対しては、物凄い大声で怒るリベラルなトミーにしては、いかにも不釣り合いな名前やん・・・私は昔のデトロイトにとても興味を持ったのでした。

 というわけで、土曜日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、そして17日(土)のトリビュート・コンサートまでに、トミー・フラナガン以前のデトロイトをざっと駆け足で辿っておきます♪

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  <移民と黒人の街> 

 モダン・ジャズにとって、もうひとつの重要な街:フィラデルフィアが18世紀からの歴史的な大都市であったのに対し、デトロイトは自動車産業というものが出来てから急激に大きくなりました。
 1900年までのデトロイトは、さしたる産業もなく人口は30万人弱、それが自動車産業のおかげで、僅か20年後に、全米第4位の100万人都市となり、1920年代には、更に50万人が流れ込んできました。デトロイトにやってきた人たちのほとんどが製造業に従事。彼らの多くは外国からの移民、あるいは南部からやってきた黒人達でした。黒人労働者の大部分はジョージア、アラバマ、テネシー、サウスキャロナイナ、ミシシッピー州といった南部の農村地帯から流入した人々で、フラナガンの両親も同様です。

 南部から流入する黒人の人口の急激な増加は、KKKの襲撃といった深刻な人種対立を生んだ一歩で、黒人コミュニティの発展につながっていきます。

<黒人による黒人の街>

  モーターシティとなったデトロイトは、黒人の社会的階層に大きな変化をもたらしました。大部分が掃除人や日雇い人夫といった最低賃金の職業で形成されていた階層が、自動車工場に従事する新しい労働者層と入れ替わり、彼らを顧客にする商店や食堂、質屋、下宿屋、医者などの自営業が増えます。自営業者は、19世紀には、ごく少数の超エリートだったのですが、そういう黒人中産階級が増えて行きました。つまり、モーターシティの黒人労働者層が、黒人エリートを支えることになったのです。
  1919年、デトロイトに出現した黒人の劇場経営者、エドワード・ダドリーは、全米の黒人メディアにヒーローとして絶賛されています。ダドリーは、デトロイトの黒人街にあるユダヤ人経営の劇場のマネージャーを歴任した後、ヴォーデッド・シアターという劇場のオーナーとなり、それはシカゴやフィラデルフィア、どこにも例のない快挙でした。

 黒人コミュニティの繁栄は、歓楽街の発展や音楽の充実、そして何よりも黒人のプライドを鼓舞しました。その結果、ミシガン州では1937年に人種平等を推進する強力な公民権法が成立、人種混合かつ、黒人師弟の将来に手厚い公立学校教育がフラナガン世代に大きな影響をもたらしたのです。でも、その反動として強い人種間の軋轢が続きました。

 
<デトロイト・ジャズ誕生!>

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 黒人コミュニティの中心的な繁華街はパラダイス・バレーと言われました。そこには劇場や映画館、ナイトクラブが集中し、それらの遊興施設の大部分は黒人の経営だったそうです。
ラジオのない時代、20世紀初頭、”ジャズ”と呼ばれたデトロイトの黒人音楽は、南部から流入してきたブルース・スピリットと、従来的なワルツやクラシック、ラグタイムなどの軽音楽が融合した、多様というかアバウトな形態でした。演奏場所は映画館、劇場、ボール・ルーム、バンドも客と同じ人種、白人、黒人が分割され、両方とも隆盛だったといいます。バンドリーダーにはバイオリニストが多く、編成は、クラシックのオーケストラを模したものから、吹奏楽的なものまで様々でした。
 ラジオもなく、無声映画の時代ですから、それぞれの地方によって様々な楽団があったのでしょうが、残念ながらほとんど記録は残っていません。

pyramid.ai.jpg  やがて、ラジオが普及し、映画がトーキーになってからは、楽団が淘汰され、いわゆるスイング・ジャズを演奏する楽団だけが生き残ります。

 無声映画の劇場付の古い楽団は一掃され、人気楽団は各地を巡業をする”テリトリー・バンド”になります。さらに人気のある楽団は、ラジオやレコードを通じて全国的な人気を博する”ナショナル・バンド”としてNYや放送局にひっぱりだこになりました。デューク・エリントン、カウント・ベイシー、白人ならベニー・グッドマンの率いる全国的な楽団を頂点に、”テリトリー・バンド”、地元のローカルなバンドが底辺を支えるピラミッド型の楽団階層になり、実力のあるミュージシャンは上に上っていくわけです。ビリー・ミッチェルやサド・ジョーンズはテリトリー・バンドでキャリアを積み、デトロイトの”ブルーバード・イン”で開花し、カウント・ベイシーというナショナル・バンドに落ち着きました。

 楽団が巡業することで、各地の音楽性が融合し、化学反応を繰り返しながらジャズは発展していったのです。

 トミー・フラナガンが親しんだマッキニー・コットン・ピッカーズという楽団はデトロイト初の黒人”ナショナル・バンド”として、ドン・レッドマンやベニー・カーターたちのNY的なジャズの要素を取り込みながら、デトロイトの音楽を洗練させていったのです。1920年代に結成されたこの楽団、街の育ちでも、黒人は「南部」のイメージがなければ売れなかったので、こんな名前になったのですが、そのアンサンブルの優雅でスイングすることは、どんなNYの楽団にもひけを取らなかったといわれています。

Jeangraystoneorchpostcardsmall.jpg コットン・ピッカーズに比肩する白人楽団もデトロイトにはありました。ジーン・ゴールドケット楽団は、白人モダンジャズの「祖父」といわれる夭折のトランペット奏者、ビックス・バイダーベック(tp)、レスター・ヤングが憧れたというサックス奏者、フランキー・トラムバウワー、トミー&ジミーのドーシー兄弟tといった白人のジャズスターの宝庫だったのです。客層の人種は隔絶されていましたが、楽団同士の音楽交流はデトロイトの劇場の裏庭で、密造酒片手に頻繁に行われたといいます。そのため、「スイング時代はNYではなくデトロイトから始まった」と主張する評論家(ジーン・リース)もいるのです。

 デトロイトでは、黒人テリトリー・バンドのプロモーターも黒人、彼らはボクシングの興行を正業としていたのでした。

 

<黒人が経営する歓楽街、パラダイス・バレー>

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 ジャズ・エイジの後にやってきた大恐慌、自動車工業の労働者の半数が失業しても、スイング・ジャズとダンスホールの流行で、パラダイス・バレーは盛況を続けました。
  

 ダンスホールが下火になり、ナイトクラブ時代には、ハーレムの「コットン・クラブ」同様、白人客向けに、黒人音楽やダンスのショウを供するクラブがパラダイス・バレーに沢山出来ました。そのオーナーの多くがまた黒人であったのは、デトロイトだけの状況です。NYハーレムのコットン・クラブは白人のマフィアのものでした。デトロイトだけに黒人経営者がいたのは、デトロイトの黒人ギャングたちが”ナンバーズ賭博”で莫大な利益を得たおかげだと言われていますが公式な記録はもちろん残っていません。

billy_mitchell_PIC.jpg サド&エルヴィンのジョーンズ兄弟、ビリー・ミッチェル、そしてトミー・フラナガンが切磋琢磨した“ブルーバード・イン”も、もともとは黒人のデュボア・ファミリー が新興の黒人地区タイヤマンに開店したレストランで、デュボア・ファミリーは息子が父親を殺害すると言う凄惨な事件を経て、クラレンス・エディンス(上の写真)という経営者に変わり、デトロイト・ハードバップの華が開くのです。

 土曜日の「新・トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、その辺りの社会状況や、公民権運動盛んなデトロイトの充実した黒人教育について、寺井尚之が音楽内容と一緒に楽しく解説したします。どうぞお気軽に覗いてみてくださいね!

 寒くなったので、お勧め料理はRoaring Twentiesならぬロール・キャベツにする予定です。

CU

御礼&ハリケーンのことなど

11月17日(土) 7pm- トリビュート・コンサート開催
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 今年も釧路から、黄金色のジャガイモをお供えに頂戴しました。北海道摩周湖、スェーデンのダラーナ地方を思わせる風光明媚な天然川湯温泉から届きました!御園ホテルのジャックフロスト氏、毎年ありがとうございます!
 トミー・フラナガンと一緒に、御園ホテルのかけながし温泉に入りたかったです!
 3日(土)のDVD講座「映像で偲ぶトミー・フラナガン」から。トリビュートまで、最高のジャガイモを使ったお料理でおもてなしいたします! 
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 NYを襲った想定外のハリケーン、上はFBで回覧されていた昨日のマンハッタン島、半分がブラックアウト!
 ミッドタウンにある「バードランド」は営業再開されているようですが、「ジャズ・スタンダード」や、ダウンタウンの「ヴィレッジ・ヴァンガード」、「ブルーノート」などNYの一流ジャズクラブも3日連続で休業を余儀なくされている模様です。
 老舗ヴィレッジ・ヴァンガードは路上にある階段を下りたところにある地下店舗ですので、ピアノや什器など、水害に遭っていないように祈るばかり・・・
 トミー・フラナガンの未亡人、ダイアナさんの住むアッパー・ウエストサイドは被害をまぬかれてた模様。
 「台風をサンディって気安く呼ぶからいけないのよ。ちゃんとサンドラと本名で呼ばなくちゃ。」と冗談をいいながら、トリビュート・コンサートを楽しみにしてくれていました。
cars_n.jpg ジョージ・ムラーツ夫妻は、自宅の周りの樹木がなぎ倒されていたけれど、住居は大丈夫だったそう、日本のファンの皆さんによろしくとのことです。
 ムラーツ兄さんの近所に住む、石川翔太君(b)も無事です。
 OverSeasの常連様に来日を待望されているベーシスト、Yas竹田氏はブルックリン在住、インターネットが数日間つながらなかったこと以外は数年前の竜巻のときの方が被害甚大だったということです。ただ、息子さんの学校は今週いっぱいは休校かもしれないということですから被害は推して知るべし。
 デトロイト・ハードバップの社会的背景について書く予定だったのですが、予定を変更して、御礼&安否情報となってしまいました。
 NYの皆さま、どうぞお大事に!地震大国日本も、注意を怠らないようにしなければ!
 台風や地震のない時は、ぜひOverSeasに来てください。
CU

対訳ノート(36)Autumn in New York 「NYの秋」

autumnny4047517899_6b2c555a90.jpg  秋深し!急に寒くなって風邪などお召しになっていませんか?ジャズ講座新開講で、ミシガン州を始めとする米国のブラック・コミュニティに、どっぷり浸っていました。Interludeは気分を変えて、27日(土)に寺井尚之The Mainstem(宮本在浩 bass 菅一平 drums)が演奏を予定している”旬”なバラ―ド、”Autumn in New York”を。

<ロシア貴族のNY観>

duke3.jpg  そこで生まれて育ったわけでなくたって、大都会NYは傷心のあなたを受け容れてくれる…嫌な街だけどほっとする・・・やっぱり大好き!“Autumn in New York”はコスモポリタンなほろ苦い歌詞と、A-B-A-Cのメロディがドラマチックで胸にしみます。作詞作曲はヴァーノン・デューク(1903 – 1969)。カウント・ベイシー楽団でサド・ジョーンズのオハコだった「パリの四月」やアイラ・ガーシュインと組んだ「言い出しかねて」など、ガーシュインやポーターと一味違って、大人っぽいというのか、洒落たムードが漂っています。

  ヴァーノン・デュークの本名は、ヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ・ドゥケーリスキー(Владимир Александрович Дукельский)と超ややこしい…祖母がロシア帝国の王女という貴族の御曹司!キエフ音楽院でクラシックを学び、同級生にヴラジーミル・ホロウィッツがいました。ところが、ロシア革命を逃れ、イスタンブールから合衆国に家族で亡命、ガーシュインの勧めでポピュラー音楽の世界に入ってからはヴァーノン・デュークというペン・ネームでブロードウェイの曲を書き、クラシック界では本名を英語読みにして、ウラディミール・デュケルスキーとして活躍、パリで大ブームを巻き起こしたディアギレフのロシア・バレエ団のために作曲しています。

ellalouis00.jpg 祖国ロシアを追われたデュークは、ロンドン、パリ、NYを股にかけた文字通りの国際人!芸術やファッションの先端を行くセレブと親交を結びました。友達の中には、ピカソやジャン・コクトー、それにココ・シャネル!音楽ではプロコフィエフにクラシックを決して辞めないよう激励されたとか…この曲にも、コスモポリタンならではの、リッチなニューヨーク観が反映されていますよね。

 「NYの秋」は、デュークが、コネチカットで休暇を過ごしていたときに書いた曲といわれています。1934年にブロードウェイで初演されたレビュー”Thumbs Up!”のラスト・チューンになりましたが、時代を先取りし過ぎだったのかも・・・ショウは5か月間続いたというから、まあまあの成績、フランク・シナトラが歌って大ヒットしたのは、13年も後のことでした。

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「NYの秋」、私が一番親しみを感じるのは『Ella and Louis』、そしてディアギレフの天才ダンサー、ニジンスキーにも決して負けない舞踏性と芸術性、どれを取っても最高と思えるのは『Charlie Parker with Strings』、どんな歌手よりも、はっきり歌詞が聞えてきます。

Autumn in New York

written by Vernon Duke

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<Verse>
It’s time to end my lonely holiday
And bid the country a hasty farewell.
So on this gray and melancholy day
I’ll move to a Manhattan hotel.
I’ll dispose of my rose-colored chattels
And prepare for my share of adventures and battles.
Here on the twenty-seventh floor,
Looking down on the city I hate
And adore!
寂しい休暇はもうお終い
この国に急いでお別れを。
曇り空の陰気な日、
マンハッタンのホテルに移る。
バラ色の家財道具は処分して、
冒険の戦場へ!
ここは摩天楼の27階
見下ろす街は大嫌いだけど、
だ・い・す・き!
 <Refrain 1>
Autumn in New York,
Why does it seem so inviting?
Autumn in NewYork,
It spells the thrill of first-nighting.

Glittering crowds and shimmering clouds
In canyons of steel,
They’re making me feel
I’m home.

It’s Autumn in New York
That brings the promise of new love;
Autumn in New York
Is often mingled with pain.

Dreamers with empty hands
may sigh for exotic lands;
It’s Autumn in NewYork,
it’s good to live it again.

NYの秋、
この魅力は何故?
NYの秋、
舞台の初日のときめき。

 ビルの谷底を動く
着飾った人々や、
頭上の光る雲を眺めると、
「ただいま」って気分。

NYの秋は
新しい恋の予感。
NYの秋は
心の痛みが混じる。

実りのない夢想家が
遠い異国に憧れても、
NYの秋は格別、
またここに住むのが嬉しい

<Refrain 2>
Autumn in New York,
The gleaming rooftops at sundown.
Autumn in New York,
It lifts you up when you’re rundown.
Jaded rues and gay divorcees
Who lunch at the Ritz,
Will tell that “it’s
Divine!”

This Autumn in New York
Transforms the slums into Mayfair;
Autumn in New York,
You’ll need no castle in Spain

Lovers that bless the dark
On benches in Central Park
Greet Autumn in New York,
It’s good to live it again.

NYの秋、

夕焼けが屋根を染める、
NYの秋、
くたくたでも元気回復!
リッツホテルでランチを楽しむ人たち、
人生に疲れた人も、陽気なバツイチも、
口をそろえて言うでしょう

 「最高!」

ってね。

今年のNYの秋は
スラム街も、5月の祭りに変身!
NYの秋はロマンティック、
スペインの古城なんて要らない。

恋人達は夕暮れを祝う、

セントラル・パークのベンチで、

NYの秋よ、こんにちは!

また住めて嬉しい!

  デューケリスキーさんのように貴族の末裔でもなく、大阪でドブ板踏んでるだけの私でもOK!NYの秋の香りを満喫させてくれる名歌です。NYの街は、知らない人でも声をかけて来るので大阪と似ています!  ぜひともライブで聴きたいですね。寺井尚之なら、ベニー・カーターの名曲、”オータム・セレナーデ”をヴァースの代わりにするのかも?みなさんも一緒に聴きませんか?

CU

新シリーズに向けて!「トミー・フラナガンの足跡を辿る」完遂記念パーティ~!

 先週の土曜日、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」完遂を記念してパーティ開催!

 懐かしいお客様から、講座に長期間出席いただいている皆さま、それに、パーティの機会に初めてお目にかかれたみなさままで、沢山お越しいただきありがとうございました! 

  <メニュー>写真は常連Noda氏の撮影! 料理写真  

  •  *オードブル:生ハム&いちじく、セサミ・チキンのカナッペ、スタッフド・エッグ、オイルサーディンのカナッペ、
  •  * 自家製ローストビーフ
  •  * 鶴橋名物 蒸し豚プレート
  •  * カリカリ・ベーコンと胡桃のウォルドフ・サラダ
  •  * シュリンプ・カクテル
  •  * 寺井ママお手製 バラ寿司
  •  * 特製ビーフ・シチュー
  •  * メダリオン・ビーフ・ステーキ、アンチョビ・ソース
  •   * トマト&きのこのパスタ
  •  * デザート: レモン・マーマレードのレア・チーズケーキ
  •    いろいろフルーツ&2色アイスクリームケーキ etc,,,

いかきri-kinohikari-yoko-411e0.jpg 講座の権威、後藤誠先生が差し入れしてくださった、東京赤羽の”どら焼き”もサプライズで大好評!

 お飲物も色々とり揃えましたが、なんといっても一番人気は、ダラーナ氏が差し入れてくださった生原酒や純米大吟醸の名酒コレクション。 ダラーナ氏はOverSeasジャズ講座の発起人、音楽の耳味覚も並々ならぬテイスト!バブリーでフルーティな日本酒の芳香は、まさにFragrant Times!でした。

 楽しいメンバーが揃い和気藹々でも、食べて飲むだけじゃないというところが、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」パーティです!

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 パーティ特番、ミニ足跡講座として、トミー・フラナガン3(キーター・ベッツ bass, ジミー・スミス drums)の、’78年6月 カーネギーホールに於ける演奏の超レアな音源を、寺井尚之が解説!

 普段の講座と同じように寺井尚之の解説を聴きながら、構成表を目で辿り、絶好調のトミー・フラナガンのプレイにうっとり!キーター・ベッツ(b)をフィーチュアした”カン・フー”も渋かったです!

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 セミナー講師としてトークはお手の物のあやめ会長は、「寺井尚之のジャズ講座の変遷」を、超懐かしいヴィデオや、NYの巨匠たちの素顔の写真とともに、整然とした語り口で見せてもらいました!

 模造紙に手書きした資料を掲示して、今は亡きワルツ堂のミムラさんがディスコグラフィーを作ってくださっていた頃から、ダラーナ氏に機材を提供していただいて、近代的な今のスタイルになったことがよくわかって、改めて感謝でした。初代のOHP映写係、Annさんも来られていて嬉しかったです!どうもありがとうございました!

 

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 フィナーレは足跡講座皆勤賞、寺井尚之のレギュラー・ベーシスト、宮本在浩さんが手紙を朗読してくださって、しみじみ秋の夜が更けて行きました。

 

 ご出席いただいたお客様、おひとり、おひとりのおかげで、OverSeasにとって思い出に残るパーティになりました。心よりお礼申し上げます。

ito_kana.jpg  司会は、寺井尚之ジャズ理論教室生、プロのアナウンサー、伊藤加奈さんが担当!本業はハーモニカ奏者、”ミネストローネ”というハーモニカ・トリオで東京を中心に活躍中!

 仕事の合間を縫って、寺井ジャズ教室生として、一肌脱いでくれました。今週は東京で、一連のコンサートに出演中です。

 

さて 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、11月10日(土)から新開講!

 モーターシティ、デトロイトで開花したデトロイト・ハードバップ・ジャズ、その町で最も実力ある若手と言われたトミー・フラナガンとケニー・バレル(g)は、1956年の春、二人で車に乗ってNYにやってきました。その直後に、Blue Noteに録音したアルバム、 『Kenny Burrell Vol.2』から新講座が始まります。kburrell_vol2.jpg

  ポップ・アートの王様、アンディ・ウォーホールが無名時代に手がけたジャケットも印象的ですが、それ以上に20代のフラナガン、バレルたちの貫録が素晴らしい!

 今回は、モーターシティ、デトロイトの社会的、音楽的な土壌も、しっかり解説。デトロイト市の驚愕の音楽教育事情や、世界史を俯瞰すると、音楽もよく見えてきます!

 よく、「ジャズは初心者ですが、大丈夫でしょうか?」とお問い合わせをいただくのですが、そんなの全然関係ないと思います。私だって、最初は、な~んにも知りませんでした。でも、音楽がお好きなら、どなたでも楽しんで頂けると思います。

 ジャズ・ミュージシャンである寺井尚之が、半世紀近く、誰よりも楽しんできたものについて語るのですから、面白くないはずがありません。

 ひょっこりご参加大歓迎!新 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」どうぞお待ちしています!

CU

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ブルース・リーが寺井尚之を聴くと・・・

 大阪もやっと涼しくなりました!土曜日のパーティで、寺井尚之が紹介するトミー・フラナガンのマル秘音源の構成表もやっと完成!楽しい集まりになりそうです!

 今月は、これまでインターネットでしかお付き合いのない方々と出会えることができました。まるでPCのディスプレイからリアルな人が飛び出してきたようで不思議な体験!

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 今週の火曜日デュオには、ジャズ・ファンなら誰でも知ってる人気ブログ「お気楽ジャズ・ファンの雑記帳」の著者、azumino氏が、長野県からご出張で、OverSeas初見参!安曇野はフラナガンが感動したスエーデンのダラーナの風景に似ていますね。美しい自然と、ジャズへの想いが溶け合って、azuminoさんならではの独特な優しい世界が味わえる素敵なブログですね。

 azuminoさん、宴会を抜けて、寺井尚之と宮本在浩(b)ラスト・セットに駆けつけてくださってありがとうございます!ウディ・アレンの映画「カイロの紫のバラ」みたいなひとときをご一緒出来ました。話をするのに夢中で写真を撮り忘れたのが残念!!ぜひ再会できますように!

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 そして先週は、長崎より、フェイスブックでお付き合いさせていただいているジャズ・ファン、光崎さんご夫妻が、仲睦まじく大阪に休暇でお越しになりました。

 光崎さんは、地元のFM局でジャズ番組のパーソナリティを務めたジャズ通。ご自分のプログラムでは、ジャズ・スタンダードの訳詩の紹介で好評だったそうです。

 お帰りになってから、OverSeasの印象をFBに書いて下さっていました。
 寺井ママに「こないだ来てはった光崎さんって、ジャズ評論家の先生なん?」と訊かれるほどの名文、それで、お許しを得て当ブログに転載させていただきます。

 演奏は10月2日(火):メンバーは寺井尚之(p)+宮本在浩(b)+ゲスト:アルト・サックスの岩田江(as)さんが遊びに来てくれていました。チャーリー・パーカーを愛するバッパー、岩田さんは来年からOverSeasに定期的に出演予定ですので、どうぞご期待ください。

 

≪光崎 聡氏 フェイスブックより 10/4付≫

mitsuplate8.jpg ピアニストはこう言った。自分はデトロイト・ハードバップ・ロマン派だからお望みのチェット・ベイカーのネタは残念ながらリクエストにお応えできない。
成程然り。女房のリクエストは受けてもらえなかったけどよくその意味は後になって分かった。

最高に吟味されたピアノが今日調律された状態で計算され尽くされた場所に置かれ、奏者が静かにそこに座っている。
ベース奏者の楽器を見るとサイドとバックの美しいトラ目が見える。
  アルト奏者の持つ楽器は完全に音がヌケた状態の一種の「オールド」らしいと分かる。
 演奏は一定の法則に従った曲の配列通り淡々と行われた。
 音像はややタイトにまとまり一切の歪みがない。天井、壁などもほぼ完璧にエコーフラッター対策処理されているようだ。

 「全ての芸術は音楽の状態に憧れる」のであると聞いたことがあるが、さらにその論を展開させれば
「全ての音楽はOverSeasの音に憧れる」のかも知れないとさえ思った。

  ピアノは豊かな倍音成分を伴った音なのに、かと言って余計な装飾はなく「音域全域」が綺麗に聴こえる。テクニックは無論世界トップレベルと伺われたが特筆するべきは、結果としてその音楽ぜんたいの美しさ。どのフレーズもハードバップ・ジャズの持つスリルとユーモアに溢れ、全曲通して奏者の「美学」が香り高く感じられる。
 デトロイト・ハードバップをロマン豊かに語り継ごうという確固たる決意。
一音一音が絹の帯のように綺麗に繋がりキラキラと輝く。



  堅苦しさはまるで無く全ての音が美しく奏でられ、余韻を残して淡雪のように消えていく。音の消え際が殊更美しい。
  低音部から高音部までどんなピアニシモの音までハッキリと美しい音で聴き取れるものだから急に自分が耳が良くなったのかと一瞬錯覚させられそうになるが、それは奏者の凄まじい集中力と豊かな音楽性によるもの。重ねて言えば自分の哲学に従った音しか出さないという美学に基づく演奏なのかも知れない。

  指盤に弦が当たる音を有りがたがる録音技師が、それをリアルさと意味を間違えて多々存在する現在だけども、もっともっと真のベースの音を聴かせて欲しいといつも願っていた。
ラファロは弦が低かったのかも知れない。ルーファス・リードの音は深々としてるがやや緩い。
ジョージ・ムラーツ、ニールス・ペデルセンあたりの達人の音が本物だ。真芯を捉えた太い音だ。
この夜のベースそんな良い音だった。内容も素晴らしいプレイだったと思う。

  アルト奏者もフルトーンで楽器が鳴りながら音が軽やか。これは得がたい資質だと思う。キリッとしていてスマートなフレーズの起承転結には納得。

 演奏後に無口なピアニストがお喋りにつきあってくれた。
  世界トップ中のトップ・ジャズピアニストに弟子入りを志願、何年も何回もかけてそれを果たした後も波乱の人生だったはずだ。
師匠は厳しい方だったと話したピアニストは師匠とは逆のタイプなのかも知れない。
 綺麗な音しか出さないピアニストは最後まで優しく話をしてくれた。
うん、確かに間違いなくこの世界最高のひとりであるジャズ・ピアニストはロマン派だ(笑)

  尚、ワンステージ一回40分弱の演奏時間は、美味しいものはやや少なめに、と考える私の好み通り。料理も一品毎にジャズ・クラブとしての矜持があり気が利いている。無論ママさんはこの店にこの人無しでは有り得ないと思う。
無口なお方にも同意していただきたい(笑)

 あまりに褒めすぎでサクラと思われても困るので、ひとつ申し添えよう。
 ビールはキリンのラガーを頼んだ。小瓶だった。これも正解。大瓶はルックス的にこんな洒落たジャズ・クラブに合わない。
  ただし・・・・・・・・グラスがやや大き過ぎたようだった。

  ジャズとは難しい音楽でなく誰もが楽しめる音楽です、と個人的に市民FMジャズ番組で喋りCDを回し続けてきた私に、ではそんなジャズってどこにあるの?と訊かれれば自信を持ってお答えしたいと思う。
ブルース・リーのような顔で
「考えるんじゃない。感じるんだ。大阪のOverseas でね」と。

 上の写真はお土産に頂いたハンドメイドの革細工。地元のアトリエ、中山智介さんというクラフトマンがプレスティッジのジャケットをアレンジして作ってくださったものです。レジの横に置いてありますよ!光崎様、本当にありがとうございました!

 
 でも、皆さんはどうぞ手ぶらで、気軽に来てくださいね!ご近所でもご遠方でも、演奏を楽しんでいただけるのが、私たちは一番幸せ!
これからもOverSeasをどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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