Red Mitchell (その3)  考えて闘ったベーシスト

 台風一過で秋本番の大阪です。今朝はJRのダイヤも大混乱でしたが、いかがお過ごしですか?皆さんの町やご家族の誰にも被害がなければいいのですが・・・
Redpromo1.jpg
<私が故国を去った理由>
 レッド・ミッチェルが住みなれたLAを離れストックホルムに転居したのは1968年ですが、初めてスエーデンを訪れたのは’54のツアーで、ビリー・ホリディも一緒だったと言います。リムジンで街を案内された時、ビリー・ホリディはてっきり景観の良い場所だけをドライブしているのだと思いこんで、「スラム街に連れて行ってよ。」と言いだしました。すると、現地の人たちはこう言って、レディ・デイを驚かせたそうです。
「この町にスラム街はありませんよ。」
「そのかわり、この国にはビヴァリー・ヒルズもありませんがね。」
 アメリカン・ドリームの裏側にある、構造的格差社会の米国に失望したミッチェルは、第二の人生の舞台に、平等社会スエーデンを躊躇なく選んだのかも知れません。
 ジーン・リース著、「Cats of Any Color」の中で、レッド・ミッチェルはスエーデン移住の動機について語っています。
レッド・ミッチェル:「二度目の妻と暮らしていた時のLAの自宅はシャロン・テートを惨殺したマンソン・ファミリーの活動場所の近所でね、近所の老夫婦が殺害され、私の家のガレージが荒らされた。彼らの仕業だと思うよ。当時、ショウビジネスの人間は戦々恐々としてしていて、スティーブ・マックイーンですら拳銃を携帯していたほどだ。だが、あの事件は米国全土に蔓延する暴力主義の氷山の一角に過ぎない。
 私がアメリカを去ったのは、ホワイトハウスから地下鉄に至るまで、全米を覆い尽くす暴力と人種差別が原因だ。具体的には、ごく短期間に続けて起こった6つの事件が、移住の理由だ。ひとつは二度目の結婚の破たん。ふたつめは、ヴェトナム戦争から街で起こる事件など様々な暴力の悪循環に加担したくなかったから。そして、僕たちが演奏する音楽にも、社会の暴力的な要素が反映されていくのに耐えられなかった・・・」
 レッド・ミッチェルの最後の妻、ダイアンはスエーデンを含め3つの大学で社会学を修め、反戦運動に関わった社会活動家ですから、実存主義的でリベラルな思想は、ひょっとしたら彼女の影響なのかも知れません。
<スエーデン時代>
NilsHenningRM.jpgペデルセンと、二大巨匠の2ショット。
 スエーデンに渡ったレッド・ミッチェルはアーティストとして大歓迎を受け、フリーランスで活動します。その頃レギュラーで共演していたのが、12月のジャズ講座に登場するテナー奏者ニセ・サンドストローム(ts)です。
 ’77年から’90年までは、毎年必ずNYに3か月間滞在し、「ブラッドリーズ/ Bradley’s」を拠点にして、トミー・フラナガン、ジム・ホール(g)、ハーブ・エリス (g)と共演。辛口コメントで知られる評論家レナード・フェザーに「ジャズ・ベース最高のソロイスト」と賛辞を献上させています。
 ベースだけでなくヴォーカルやピアノも演奏、そればかりか詩人としても活躍しました。91年にはスエーデンのグラミー賞を受賞、同年ソ連にホレス・パーラン(p)とツアーしています。演奏の傍ら、欧米をまたにかけ”Communication”, “ベース・ワークショップ” “五度チューニング・ベース” などのテーマで講義、講演し、教育者としても実績を挙げました。チャーリー・ヘイデン(b)や、モンティ・アレキサンダー(p)のレギュラー・ベーシストであるハッサン・シャカール(Hassan A. Shakur aka.J.J. Wiggins)もレッド・ミッチェルの愛弟子なんです。
<ズート、サラ、マイルス・・・レッド・ミッチェルのアイドルたち>
 音楽や社会問題、何でも徹底的に論じ尽くすレッド・ミッチェルの発言を読んでいると、もし彼が日本人なら、TVコメンテイターに成れたのに・・・と思うほどです。そんな彼の音楽的アイドルは、ベーシストでない人ばかりでした。
レッド・ミッチェル:私のアイドルは、ベーシストとは限らない。たとえばズート・シムス(ts)、それにサラ・ヴォーン(vo)だ。彼女の数え切れない美点の中でも、あのイントネーションが最高だ。彼女の音程は完璧だ。ど真ん中に命中した音程が、次にはさらにその中心に、その次には、さらにその針の穴のど真ん中にヒットしていくのが堪らない。それだけで鳥肌が立って泣いちゃうよ。
miles.jpg 自分の生徒には、ベースでなくホーン奏者を見習えと常に言っている。特に心から薦めたいのが’50~’60年代のマイルス・デイヴィスだ。
 なぜなら、マイルス・デイヴィスにはトランペッターとしての天賦の才はないからだ。マイルスはトランペットを演奏する為には、ありとあらゆる問題を克服しなければならなかった。そのため、マイルスは考えに考え抜いた。問題と闘いながら考え抜いたんだ。だから彼のプレイは実にシンプルで深みがあり、ベース奏者でも演奏できるし、オクターブ低く引けば一層深みが増すフレーズが多い。だから、ホーンならマイルスを聴けと言っている。
 マイルス・デイヴィスは自分の欠点を、最高の長所に変えた。彼の吹く音は、様々な問題と格闘した結果だ。彼が考えることなく出した音などただ一つとしてないよ!
 私にもベーシストとして致命的な欠陥がある。一番の欠陥は、極端な「右利き」であること:普通ベースの演奏は8~9割までが左手の仕事なんだよ。左手と右脳を柔軟に活用して、右手はとれとれの魚みたいなもんでいいんだ。左手を自由に使えるよう努力してみたが、どうにも無理だった。それで、「右利き」を最高に活かせるようフィンガリングを工夫して、自分の奏法を編み出した。マイルスのように欠点を長所にしようと格闘したわけだ。
<晩年>
Redpromo1983.jpg
 G先生のお話によれば、’92年にレッド・ミッチェルが故国に戻り、オレゴン州のサレムに転居したのは、ダイアン夫人のお父さんがそこに住居を持っていたのと、ストックホルムのアパートで近隣から演奏による「騒音」の苦情が来たためであるそうです。
 この頃からミッチェルはしばしば狭心症の発作が激しくなり、痛みをこらえて生活していたそうで、ひょっとすると、アメリカに帰ったのは、自分の死期が近いのを予感していたせいかも知れません。トミー・フラナガンやレッド・ミッチェル、サー・ローランド・ハナ・・皆心臓疾患を抱えていたんですね。
 帰国後、大統領選挙戦たけなわの’92年10月、ミッチェルは軽度の心臓発作で入院、リベラルでジャズ・ファンであったビル・クリントンに不在者投票しています。11月3日、心臓検査の結果は良好、またビル・クリントンが大統領に選出され、レッド・ミッチェルは最高の上機嫌でLAにいる弟のゴードン・ミッチェルと、長距離電話で互いに祝い合いました。
 その夜遅く、レッド・ミッチェルは脳卒中の発作に見舞われ5日間昏睡状態となり、1992年11月8日、帰らぬ人となりました。
 先月から、三回に分けて、レッド・ミッチェル(b)について書いてきましたが、ちょうど、この時期にレッド・ミッチェルのメモリアルサイトがオープンしていました!ダイアン未亡人が作成しているサイトで、まだ工事中の箇所もありますけれど、写真やヴィデオも沢山Upされていて、とても嬉しく思いました。「トミー・フラナガンの足跡を辿る」のレッド・ミッチェル時代にこのサイトが出来たのは、ミッチェルの言葉を借りるなら、神様ではなく”母なる自然”の思し召しかも知れません。
 今回のレッド・ミッチェルの写真はすべてhttp://www.redmitchell.com/からのものです。
 土曜日のジャズ講座では、レッド・ミッチェルの饒舌な語り口そのままのベースを楽しもう!
 お勧め料理は、レッド・ミッチェルと同じくらい饒舌なペッパー・アダムスの名盤「The Master」の中のオリジナル曲に因んで、メキシコ料理「エンチラーダ」を作ることにしました。中身はピリ辛のお肉と、あっさりマイルドなマッシュルーム&ホウレン草、ソースもホットチリ味とサワークリームの2色作って待っています。
CU

エディ・ロック(1930-2009)告別式のお知らせ

eddie-locke-6-08.jpg
2008年6月の雄姿 撮影:John Herr
ドラマー、エディ・ロック(ds)告別式のお知らせ
日時: 11月22日(日)7pm-
場所:聖ピーターズ教会
St. Peter’s Church: 619 Lexington Avenue at 54th Street, NY.NEW YORK
tel : 212-935-2200

 エディ・ロックさんの告別式の詳細が決まりましたので、Interludeに告知させていただきます。場所は、昨年4月のジャズ講座で楽しんだライブ盤『Eddie Locke(ds)&Friends Live at St. Peter’s Church』の舞台となった聖ピーターズ教会。この教会で盛んに演奏されていたエディさんにとって文字通り「ゆかりの地」でのお別れになりました。演奏者は先日OverSeasに出演してくれたショーン・スミス(b)、ショーンと同じようにエディさんに師事したビル・シャーラップ(p)、ジョン・ゴードン(as)その他の予定です。残念ながら私たちは行くことができませんが、NYにいらっしゃる方は、ぜひ参加して、エディ・ロックというドラマーが、NYのジャズ・コミュニティでどれほど敬愛されたかを偲んでいただきたいと思います。

 レコードが少ないため、確かに日本で知名度が低く、正しい評価を頂けなかったかも知れませんが、エディ・ロックのCaravanを知らずに、NYジャズ・ミュージシャンのはしくれとは言えないでしょう。
 評論家ナット・ヘントフは、エディ・ロックについて『”活力溢れるジャズライフ”そのままの生き様だった。』と語っています。
 これを機会に、トミー・フラナガン(p)、エディ・ロック(ds)、メジャー・ホリー(b)の黄金カルテットによる一連のコールマン・ホーキンスを聴いてみて欲しいものです。

 息子代わりのショーン・スミス(b)は、先日のコンサートの後、このカルテットについて、こう言っていました。「レギュラー・バンドで、しかもプライベートでも家族同然に付き合う関係は、本当に稀なものだし、一連の共演盤には、そういうコミュニケーションがすごくよく表れているよなあ・・・。」
 ドラマー、エディ・ロックを、まだご存じない皆さんのために、ここに彼の経歴を簡単に書いておきますね。
● ● ● ● ● ● ● ● ●

 エディ・ロック Edward “Eddie” Lockeは 1930年8月2日デトロイト生まれ、デトロイト育ち。子供時代の経験については、ジャズ講座の本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第5巻の附録に肉声が載っていますので読んでみてください。
 6才頃からドラムを始め、殆ど独学で腕を磨き、オリバー・ジャクソン(ds)とヴォードビル・チーム「Bop & Locke」を結成して人気を博した。’54年、巨匠、コージー・コール(ds)の薦めでNYに進出し、アポロシアターにデビュー以後NYに留まる。当初は、パパ・ジョー・ジョーンズの住み込み”弟子”として楽器運びをしながら、舞台の袖から師匠を観て学びました。

   ロックは師匠パパ・ジョーについてナット・ヘントフにこのように語っています。
「ジョー・ジョーンズは、今まで観た全ドラマーのうち、最もクリエイティブだった。他の誰もがしていない技を次々と創り出した。彼のようなブラシュ・ワークは、他に観たことがない。」
 その他にロックが影響を受けたドラマーにはソニー・グリアー、ジミー・クロフォード、ジーン・クルーパがいる。NYでのブレイクは、’50年代、NYジャズ・クラブのメジャー・リーグとも言えるメトロポール・ジャズ・クラブだった。’58年にロイ・エルドリッジにレギュラーとして雇われ、長年に渡り共演、”Eldridge’s Swingin’ on the Town”( Verve’60録音)を始めとして数多くのレコーディングや「ジミー・ライアンズ」で共演。同時にコールマン・ホーキンス(ts)ともレギュラー活動し、’69年、ホーキンスの死去まで公私ともに親しく付き合った。 Good Old Broadway, The Jazz Version Of No Strings ( Prestige )Hawkins! Alive! At The Village Gate(Verve) Today And Now (Impulse)など数多くの共演盤を残す。 
 ロックは最高のサイドマンでしたが、’80年代にはサー・ローランド・ハナ(p)を擁した自己バンドを率いて活動し、晩年もたびたびリーダーとして演奏を続けていました。  NYのファースト・コール・ドラマーとして、ホークやエルドリッジ以外にもテディ・ウイルソン(p)ケニー・バレル(g)アール・ハインズ(p)など共演者は書ききれません。またTonight Showなど多くのTV番組のピット・オーケストラでも演奏していました。
 ジャズ評論家、故スタンリー・ダンスはスイング時代についての著作で、エディ・ロックについて次のように述べています。「ロイ・エルドリッジとコールマン・ホーキンスという2人の大巨匠の音楽を理解し、それぞれの高度な音楽的要求に応える逸材である。」

great_day_harlem.jpg
 ロックはまた、ジャズ史上極めて有名なエスクワイヤ誌に掲載された写真、「グレイト・デイ・イン・ハーレム(1958 アート・ケイン撮影)」に映る著名ジャズメンの数少ない生き残りでした。当時28歳で、最も最年少のジャズメンのひとりとして、歴史的瞬間に参加しています。きっと師匠のジョー・ジョーンズが弟子のエディをひっぱって一緒に映ったのでしょうね。もうあの写真の中で現存するミュージシャンはソニー・ロリンズ、マリアン・マクパートランド、ハンク・ジョーンズ、ベニー・ゴルソン、そしてホレス・シルバーの5人しか残っていません。
 また、ロックさんは、コールマン・ホーキンスなど巨匠たち(たぶん、トミー・フラナガンも!)の膨大な写真のコレクションを所有していましたが、現在はコロンビア大学の図書館が買いあげ所蔵しているそうなので、チャンスがあれば、ぜひ閲覧してみたいものです。
 多忙な演奏活動の合間を縫って、ロックは、音楽教師としても活動し敬愛されました。その中には現在プロで活躍している人も多く、先日OverSeasに出演したショーン・スミスやビル・シャーラップ(p)もロック門下です。
 ロックさんの遺族は、二人の息子さんと二人のお孫さんで全員ハワイ在住。昨年初めに心臓発作で救急治療を受け、ペースメーカーを装着していたものの、病院での治療を頑なに拒否し2009年 9月7日、NJの知人宅で亡くなられたということです。
左からフラナガン、コールマン・ホーキンス、メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)
エディ・ロック:「教師としての私の役目は、若い人たちを正しく成長させること。今流の音楽を演る場合も、偉大な先人やジャズの歴史を踏まえた上で演るのと、演らないのでは、全く違った出来になる。若い人に、そういう基本を伝えたい。」

合掌

レッド・ミッチェル(その2):私がチューニングを変えた理由

 お元気ですか?今日ショーン・スミス(b)夫人の安紀子さんから丁寧なお礼状をいただきました。コンサートの後、掲示板にいだだいた皆さんの感想を読んで感激して泣いてしまったそうです。「心に触れた音楽の感想が、今度は自分の心に触れた。」とメールに書かれていました。
 ショーン・スミスは自己グループで10月5日(月)にNYブルーノートに出演します。銀太くんやNYにいらっしゃる皆さんはCheck It
mitchell_small.jpg
 さて今日は、ショーン・スミスもオリジナル曲を献上しているレッド・ミッチェル(b)伝の続きです。10日(土)のジャズ講座にはトミー・フラナガンとのデュオ・アルバム、『You’re Me』が登場することですので、今回はミッチェルの「あの」サウンドを生む革新的な調弦方法“五度チューニング”について探ってみたいと思います。
 ジャズ批評家であり作詞家のジーン・リースによるインタビュー集"Cats of Any Color “の中の”The Return of Red Mitchell”を読むと、音楽ファンであり音響工学の専門家であった父にはぐくまれ、科学と芸術の両方を突き詰めるルネサンス時代のレオナルド・ダ・ビンチのようなアーティスト像が見えてきます。
<音階とは?>
  父は、「自然は必ずしもバラの花園を意味しない。」という事実を、幼い私にも、ちゃんと説明することが出来る人だった。つまり、我々が「音階 (the scale)」と呼ぶものは、「こんな音を聴きたい。」という願いの産物で、自然界のどこにも「音階 」など見つからない。「音階 (the scale)」は人間の世界にしかないものなんだ。
 弦楽器の場合、4度チューニングと5度チューニングの2種類にするとき、「音階」とは二種類の調弦の軋轢(あつれき)の妥協点だ。4度チューニングにするなら、トップノートのピッチは低く、ボトムは高くなり、物理的にスケールの音程幅は短くなる。逆に5度チューニングにすると、スケールの幅は大きくなり、トップノートは高く、ボトムは低くなる。
<コントラバス調弦史と四度チューニングの功罪>
red_mitchell_b_w.JPG
  いつか私はこのテーマについて本を書こうと思っている。その中で、何故ベーシストやチェリストで相性の良い演奏家達がいるのかを説明するつもりだ。要するに、異なったチューニングさえしなければ、皆うまくサウンドするということなんだけどね。ベース以外の弦楽器は全て五度チューニングだし、実際ベースという楽器も、最初はそうだった。
  現在のベース・チューニングの基本である四度チューニング(上からG-D-A-E)は、全ての交響楽団に於いて、ベースVS他の弦楽器の間に「戦争」を起こす元凶で、四度チューニングは、最悪の間違いだ。ベースの四度チューニングは18世紀から徐々に普及し始めたと僕は思っている。元々ベースは現在の4弦でなく3弦で、僕と同じように上からA-D-Gと五度チューニングをしていたんだ。
  当時は、ガット弦(羊の腸で出来ている弦)しかなく、それでC弦を作ろうとすると人間の親指より太くなってしまうので、C弦を作ることが出来なかった。巻線というものがなかったからね。それでベースの最低音はG(ピアノの最低音のAより7度上)、その五度ずつ上がってD、Aと、三弦をチューニングするところからベースの歴史は始まった。
   実際のところ、他にもいろいろチューニング法はあったんだが、オーケストラの音楽家たちも、まだその辺りをきっちり分析できていない。
 ロンドンのロイヤル・フィルハーモニック交響楽団がNY公演中、僕はブラッドリーズに出演中で、楽団のベース奏者が8人連れ立って三晩聴きに来た。彼らはジャズファンで、それに、僕の五度チューニングに興味を持っていた。彼らはリンカーン・センターのコンサートに僕を招待してくれた。とても良いオーケストラで良いコンサートだったよ。
 8人のベース奏者は、4種類のチューニング法を使って演奏していた。主席と副主席の奏者は、ほとんどのジャズ・ベーシストと同様、下からE-AーD-Gの順にチューニングし、次の二人は五弦ベースで、最低音の弦をCではなくBにしていた。確か、ブラームスの交響曲第一番を演奏するので、低音のBが必要だったからだったと記憶している。下のBは二人しか出さないが、いい感じだった。つまりこの二人は、B,E,A,D,Gとチューニングしていたわけだ。そして後列のベーシスト4人のうち、二人は指板の上方に、糸巻きを部分的にカットして黒壇のエクステンションを装着していて、二種類のエクステンションを二人ずつ装着していた。
<ジャズ・ベースとエクステンションについて>
rufusr.jpg    RonCarter2_300rgb.jpgエクステンションを使用するルーファス・リードとロン・カーター
 ロイヤル・フィルのベース奏者が装着したエクステンションのうち、二人はメタル・フィンガーのないもので、通常のE弦の場所に留め金がついている。エクステンションを使う時は、留め金を開ける。すると「カチン!」と大きな音がして、糸巻きを調整する。例えばロン・カーターやルーファス・リードように大きな手のベーシストなら、それを使うと、限定的ではあるが独特のパッセージを弾くことができる。だがあまり実用的とはいえない。せいぜい、ランニングで使う程度だ。エクステンションを使っても、ズート・シムスのような低音のソロは弾けない。ズート・シムズのあの低音のソロを覚えているかい?普通の音域に戻っても、それが不自然なくらい低い音だったなんて気がつかないような自然のソロだ。ズートは、そういうことをいともた易くやってのけた。だから彼は僕の永遠のアイドルなんだよ。
Zoot-Sims.jpg
  残りの二人はメタル・フィンガー付きのエクステンションを使っていた。それは最初のものより更に使いにくい。金属製のフィンガーが弦を固定し、細いチューブを通って、ネック上部にある4個の金属ノブに弦を固定してある。この装置はクラシック音楽にしか向いていない。ジャズの場合、このエクステンションで出来ることは皆無だ。まあ、しかし、クラシック作品に書かれてある無理難題を演奏する場合は使ってみればいい。
  僕がMGMのスタジオで主席ベース奏者をやっていたのは、何も僕がそこで最も優れたベーシストだったからではなく、エレキベースでロックも出来るし、クラシックも出来る器用なところを買われただけなんだけど、そのスタジオでエクステンションを必要とする超低音の指示があると、必ず「クッソー・・・」というつぶやきが聴こえて来る。つぶやきの大きさはベーシストの人数に比例する。エクステンションを装着すると面倒なことだらけなのさ。
<倍音と音階の矛盾の問題>
  弦楽器で完全五度を鳴らすと、クレッシェンドするという現象が起こる。二本の弦を鳴らすとデクレッシェンドする代わりにクレッシェンドする。僕の場合は、トップのA弦とD弦を鳴らした場合に、約10秒間、徐々に音量が増すんだ。
  僕は子供の時、本当にラッキーだったと思う。父が子供にそういうことを判り易く説明できる数少ない人間だったからね。ピアノの最低音のAの周波数は、約27.5Hz(ヘルツ)だ。その倍は55Hzでオクターブ上のAだ。110Hz、220Hz、440Hz・・・周波数が倍になるとオクターブ上になる。
 今度は最低音のAの周波数を1.5倍(1/2×3)すると、五度上の音になる。そしてGの開放弦を鳴らすと、周波数に拘わらず倍音(ハーモニクス)のDを伴う。それは、その弦が三分の一に分割されている結果だ。その倍音のDは、元の開放弦のG音からオクターブと五度上の音だ。つまり、1/2×3というところから音程間隔が決定づけられるということだ。
 父が教えてくれたことなんだが、最低音のAから倍音を辿って次のAを鳴らすと、周波数を単純に2倍に掛け算した結果得たA音とは、周波数が異なる高い音が生まれる。音痴でなければ耳でその違いは瞬時に判別できるよ。
 私がベースを始めた頃、色んな人にチューニングの方法を尋ねたが、皆、最低音のEから4度ずつ上にチューニングすると、同じ答えが返って来た。だからベースはチェロと(五度チューニング)全く違う音階の世界になってしまうのだ。とにかく私も19年間、四度チューニングで演奏を続け、様々な問題に遭遇した。しかし、チューニングを変えてからは、ほとんどの問題点が解決されたよ。私のチューニングはチェロを1オクターブ低くしたもので、最低音は通常のE音より三度下だ。
<試行錯誤の日々>
 レッド・ミッチェルが五度チューニングに転向したのは、すでにベース奏者として名前を成していた’66年のことです。早熟なジャズ・ミュージシャンなら「守り」の態勢になっても不思議でない39歳という年齢を考えるとアメイジング!ですね。
 五度チューニングに最適な弦を探して、’66 年から’77年までの間、世界中のありとあらゆる弦で、私は実験を繰り返した。一番の被害者は当時レギュラーで仕事をしていたハンプトン・ホーズ(p)だな。LAの「ドンテ」や「ミッチェルズ」に出演するときは、ベース弦の束をドサっとピアノの上に置いて、各セット違う弦で弾いていた。5年間の実験を重ねたが、「これだ!」という弦にはまだ出会えなかった。それで、ベース弦の一流メーカー『トマスティック社』に電話した。1971年のことだ。そしてトマスティックの若い社長と話をすることができた。彼はまだ29歳の恐ろしく万能な若者で、おまけにジャズファンで、僕のことを知っていたんだ。すぐに五度チューニングに最適な弦を作ることを約束してくれて、そのとおりに最高の弦を作ってくれた。今じゃ五度チューニング用の4種類のベース弦が製品化されている。
<9日間で新奏法に移行する方法>
 ’66年、チューニングを変えて演奏活動をするため、二度目の妻と連れ子を伴い、サンディエゴ近郊の浜辺のモーテルで9日間波の音を聴きながら昼夜なく練習し続けた。
 レッドの弟、ゴードン・"ホワイティ"・ミッチェルの証言: 兄は、仕事先をなだめすかし、嘘八百並べ、皆を何とか丸め込んで10日間のオフをひねり出し、あのモーテルに籠ったんだよ。そして今までの弦をはずし、自分の演奏システムをリセットし、五度チューニングに順応する演奏法を発明し稽古に没頭した。10日後、スタジオに何食わぬ顔で戻り、新しい奏法で仕事した。すごいね!!そりゃまったく週末にオーボエをマスターしちまう位すごいことだよ。
*ゴードン・ミッチェルは兄同様、ベーシストとして’60年代まで、"ホワイティ"・ミッチェルという名前でジャズ界で活躍しました。その後、ダウンビートに、ジャズマンの悲哀をユーモアたっぷりに綴る記事を寄稿したのがきっかけとなりTV界に入り、コメディ畑の脚本家やプロデューサーとして大活躍。爆笑スパイシリーズ「それいけスマート」や、ホームコメディー「パートリッジ・ファミリー」は日本でも人気があったので、覚えている人も多いかも。寺井尚之も「それいけスマート」の「盗聴防止装置」の大ファンでした。
 レッド・ミッチェル:「演奏法改造後すぐLAに戻り、五度チューニングの初仕事は、MGMのスタジオでアンドレ・プレヴィンが指揮する65人編成オーケストラだった。私は第一ベースだ。
私は思った。『初仕事はアンドレ・プレヴィンと大交響楽団か・・・まあ、いいさ。象みたいなデカ耳でなんでも聴こえるアンドレが気づかなければ、誰だって気付きっこないさ。』
 私はアンドレにチューニングを替えたことは言わなかった。セッションが始って20分ほどしてから、一瞬、以前のチューニングと間違え、全音上のミス・ノートを出しちまった。普通アンドレはそんなことをしないんだが、演奏を止めて、僕にこう言った。
『レッド、ほんとかい!もし君じゃなかったら、アウトしてるぞって言うところだったじゃないか!』
a_previn.jpgアンドレ・プレヴィン(1929-)指揮者、作曲家、クラシック&ジャズ・ピアニスト、ウィットに富むトークも最高!
 休憩中、私が事情を打ち明けると、アンドレはこう言った。
 『つまり、君はベースをチェロと同じようにしちまったってことかい?丸1オクターブ低いというわけ?』
 Yes,
 『チェロと同じように弦が渡ってるわけ?』
 Yes,
 『同じフラジオレット!?』(フラジオレット(Flageolets)とは、弦楽器のハーモニクスのこと。)
 Yes,
 『弓使いも同じなの!?』
 Yes,
 アンドレは自分の額を叩いてから、その後何人もの作曲家たちが言ったのと同じ言葉を発した。
 『ちきしょう!ベーシスト全員がそうすりゃいいのになあ・・・何でやらないんだろう!』
 ディジー・ガレスピーも即座に五度チューニングの意味を理解して同じことを言ったよ。
● ● ● ● ● ● ● ●
 8月のジャズ講座で、宮本在浩(b)さんがベースを抱えて、実地に色々教えてくださったことを、レッド・ミッチェルのインタビューで再確認することができました。
 ミッチェルは、それからチェロ奏者の技や、チャーリー・クリスチャン(g)がギターで行ったような「禁じ手」をベースに応用して、五度チューニングに適切なフィンガリングを開発して、あんなに深くニュアンスに富むプレイを自分のものにしていったのです。
 次回はレッド・ミッチェルのアイドルたちやスエーデン移住のいきさつなどについて書きたいと思います。
CU

ショーン・スミス(b)+寺井尚之(p)デュオ:Kindred Spirits

sean_rehearsal6.JPG
 NYからやって来た実力派ベーシスト、ショーン・スミスと寺井尚之のデュオ・コンサート、遠くから近くから、沢山お越しくださってありがとうございました!
 サド・ジョーンズの悪魔的難曲「Elusive」の譜面が縁で始まったお付き合いも、早いものでもう10年を超えました。イタリアにルーツを持つショーンは物静かでにこやかな人。NYから日本に向かう飛行機で運命的な出会いをした安紀子さんと結婚してからは、見た目も含めて日本化しているみたい。料理上手な夫人のおかげで、今の好物は納豆やお好み焼き、お箸も完璧に使ってご飯粒ひとつ残さずに、何でもきれいに食べちゃったのにはびっくり!
sean_hisayuki_rehearsal31.JPG
 今回のリハーサルはAt Ease! 通訳なしで瞬く間にサウンドがまとまってしまいました!でも、それはショーンが日本化したためではなく、二人ともが、この日のコンサートを大切に思って、しっかりと宿題をやっていたからだと思います。
 前回同様、ショーンは宮本在浩(b)さんのコルシーニとアンプを借りて演奏しましたが、弦高はかなり高くしてました。大事な楽器を快く提供してくれるミュージシャンシップに感激したショーンは、ザイコウさんが右手指切断寸前の大怪我を克服したこともちゃんと調べていて、ベーシスト同士の話題で盛り上がっていました。

《コンサート曲目》
<1st>
1.50-21(Thad Jones)
2.Lawn Ornament ローン・オーナメンツ(Sean Smith)
3.Poise ポイズ(Sean Smith)
4.Minor Mishap マイナー・ミスハップ(Tommy Flanagan)
<2nd>
1. Mean What You Say ミーン・ホワット・ユー・セイ(Thad Jones)
2. Strasbourg ストラスブール(Sean Smith)
3.If You Could See Me Now イフ・ユー・クッド・シー・ミー・ナウ (Tadd Dameron)
4, Blues for Beans ブルース・フォー・ビーンズ:父に捧ぐブルース(Sean Smith)
<3rd>
1. Bitty Ditty ビッティ・ディッティ (Thad Jones)
2. Minor Piece マイナー・ピース (Sean Smith)
3. もみじ~Japanese Maple ジャパニーズ・メイプル(Sean Smith)
4. You’d Be So Nice to Come Home to~Hitting Home ヒッティング・ホーム(Sean Smith)
Encore: Elusive イルーシブ (Thad Jones)

 作曲家としてグラミー賞にノミネートされたこともあるショーンさんのオリジナルは200を超えるほどあるそうですが、その中でも最高に難しい曲をセレクトして寺井に送ってきました。彼の譜面は音楽ソフトで作ったものではなく、寺井と同じ全て手書き、寺井尚之ジャズピアノ教室の初レッスンで教わるとおりの書き方で書かれています。
sean_smith_duo_1.JPG
 オリジナル曲中心のライブは難曲であればあるほど、時に難解で退屈になるものですが、仕込み充分の演奏は、さりげなく楽しい味わいになっていて「さすが!」と言った感じ。
 昨年も演奏してくれた「Japanese Maple」をコールすると客席から拍手が湧いたのにショーンがニコニコしていたのが印象的です。
sean_P1020848.JPG  セットを重ねるたびに、演奏は熱いものになっていきました。顔を紅潮させて、唸り声を上げながらプレイするショーンの姿は、オフの時の物静かな表情からは想像すらできません。
 一方、寺井尚之は対照的な涼しいポーカー・フェイスで対抗、だけどポーカー・フェイスのためには、「なんちゅうややこしい曲や・・・」とブツブツ言いながら、相当の稽古をしていたことを、こっそりここに書いておきます。
 ラスト・セットの「Japanese Maple(もみじ)」「Hitting Home」は、この夜のコンサートで特に好評でした。寺井はリハで、「イントロちょうだい」と言われて、普通にイントロを出していましたが、本番になると、「Japanese Maple」には文部省唱歌の「もみじ」を、「胸にグっと来る」と「お家に着く」のダブル・ミーニングがある「Hitting Home」には、ショーンさんがよく伴奏をしているヘレン・メリルのおハコ「You’d Be So Nice to Come Home to」を、何食わぬ顔でイントロに使い、ショーンはニンマリ。
 終演後、改めて「秋の夕日に、照る山もみじ~♪」と夫人に歌ってもらっていたので、今後ショーン・スミス・カルテットの定番になるかもしれません。
 アンコールは「出来るも出来ないも時の運ですが・・・」と、二人の記念すべきサド・ジョーンズ作品「イルーシブ」で大団円、1年半ぶりの共演と思えないほど、こなれたコンサートになりました。
 ショーン・スミスと寺井尚之、互いの演奏スタイルは違っても、気心の知れたキンドレッド・スピリッツ!それは、ザイコウさんが掲示板に書いていらっしゃったように、「二人が先人を尊敬してお互いに尊敬しあっているからこそできた演奏」だったからに違いありませんね。
 終演後は、エディ・ロックさん(ds)や、トミー・フラナガン、レッド・ミッチェルなど、尊敬する先人たちの話題で時間の経つのを忘れるひとときでした。エディさんに息子のように可愛がってもらったショーン・スミスは、兄弟分のビル・シャーラップ(p)やジョン・ゴードン(as)と一緒に、エディ・ロックゆかりの聖ピーターズ教会でトリビュート・コンサートを開催する計画を立てているそうです。11月末を予定しているそうなので、また決まったらお知らせします。
 おつかれさま、ショーン・スミス!来てくださった皆さま、重ねてありがとうございました。
 また来年のお彼岸辺りにコンサートができればいいなと思っています。その節はよろしく~! CU
after_the_show.JPG
左から寺井、宮本在浩(b)、ショーン・スミス(b)、安紀子夫人

レッド・ミッチェル:発明家かジャズ・マンか?

  シルバー・ウイークは楽しく過ごされましたか?寺井尚之は、土曜日のショーン・スミス(b)とのコンサートのレパートリーをプラクティス、プラクティス、ショーンの東京ライブ(守屋純子3)の模様はG先生のブログに載っていましたが、こちら大阪のライブは、一味違ったものになりそうです。 どうぞご期待ください!
 なお、当日は通常通りお食事も召し上がっていただけますのでご安心ください。お勧め料理は寺井尚之特製:「牛肉の赤ワイン煮込」です!
red_mitchell_in_black.jpg
  ところで、8月からジャズ講座で注目されているベーシスト、レッド・ミッチェル、チェロやヴァイオリンと同じ5度チューニングを使って、ホーン奏者やボーカリストのように歌うサウンドが心の中で響いています。来月10月10日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェルのデュオ名盤、“You’re Me”が登場しますので、ぜひ来てくださいね!
  レッド・ミッチェルさんには生前何度もお目にかかったことはあるのですが、タートル・ネック姿のにこやかな瞳の奥に一体何が隠れているのか、仙人のようで正体がさっぱり掴めません。ずーっと興味津津だったのですが、最近ネット上に、インタビュー記事を発見、直後にG先生の蔵書から、インタビューの元本("Cats of Any Color / The Return of Red Mitchell” Gene Lees 著)のコピーもちゃっかりゲットして、思いがけず連休中に、空気のきれいな屋外でゆっくりと読むことが出来ました。
 少年時代は発明家を志し、名門コーネル大に入学したものの、兵役後、ベーシストへと人生航路を舵取りし、ジュリアードで破門されてもへこたれず、独自の5度チューニングを開発したレッド・ミッチェルは結婚歴4回、スエーデンに移住し、米国に戻り没しました。ジーン・リースが晩年のミッチェルに訊いたインタビュー、「レッド・ミッチェルの帰還」から、類まれな巨匠、論客の足跡を少し辿ってみましょうか。
<レッド・ミッチェル、そのキャリア>
 レッド・ミッチェルこと、キース・ムーア・ミッチェルは1927年9月20日NY市に生まれ、川向うのニュージャージー州に新興住宅地として作られた町で育ちました。ミッチェルをあまりご存じない方の為に、初期の共演者をメモしておきます。
red_mitchell.jpg  ’48年、ジャッキー・パリス(vo)、マンデル・ロウ(g)と共演、’49年、チャビー・ジャクソン(b)楽団にピアノ兼ベース奏者として加入、’49-’51ウディ・ハーマン楽団に加入しレコーディングする。’52-’54人気ヴァイブ奏者レッド・ノーボのトリオに加入し、ビリー・ホリディ(vo)や、ジミー・レイニー(g)とレコーディングの後、ジェリー・マリガン(bs)4で活動、’57、ハンプトン・ホーズ(p)3で活動した後、自己カルテットを結成する。’59にはオーネット・コールマン(as,tp,vln)と共演。ジャズだけで生活するのが困難になった’50年代終盤からはハリウッドMGMのスタジオOrch.で主席ベース奏者として10年間勤務する傍ら、名指揮者、ピアニストであるアンドレ・プレヴィンのジャズ・トリオなど、西海岸で活動した後スエーデンに移住し、帰米前にはスエーデン王立アカデミーから勲章を授与。
<父の肖像>
 「貧富に関係なく、ジャズ・ミュージシャンの殆どは、大なり小なり、両親の応援のおかげで今の地位がある。」:レッド・ミッチェル
 こう語るレッド・ミッチェルの音楽性には、お父さんの影響が色濃く出ています。
Redbaby_father.jpg  そkっくりなお父さんに抱かれたBaby Red Mitchellhttp://www.redmitchell.com/より。
 ミッチェルの父、ウイリアム・ダグラス・ミッチェルは米国の大手電話会社、AT&T社の重役でした。技術畑の人でしたが、三度のごはんより好きだったのがクラシック音楽でリンカーン・センターのオペラハウスの特等席を50年近くの間、年間予約し、自らクワイヤーを設立し声楽をたしなみました。あらゆるオペラを正しく歌うために6ヶ国語を習得していたといいます。ステレオ以前の時代からオーディオ・マニアで、幼いレッド・ミッチェルにクラシック音楽を盛んに聴かせ、ピアノを習わせました。
 このお父さんが、一般的な音楽マニアと一線を画している点は、音響工学についての科学的な知識が豊富で、それを幼い息子に判り易く伝授したところです。レッドの証言によれば、自宅にパイプオルガンまで手作りして設置したほど凝り症で、その際にしたためた、「パイプオルガンのチューニング」に関する論文は、精度と詳細さで、音響工学の決定版とされ広く紹介されたそうです。ハンパじゃないですね。
 また、レッド・ミッチェルが後の五度チューニング奏法に向かう下地となるような父親とのエピソードが本に紹介されています。
heifetz.jpg ハイフェッツは20世紀を代表するヴァイオリニスト(1901- 87)
 レッド・ミッチェル:「私が、まだほんの子供の頃のことだ。ある日、父親がラジオでヤッシャ・ハイフェッツ(vln) の演奏を聴かせた。父は「ハイファイ」という言葉が出来る前から、高性能のオーディオ装置を持っていた。まだ’30年代初めで、モノラルだったけど、とても良い音質だった。ハイフェッツを聴きながら、父は言った。「これこそ最高だ。彼は巨匠だよ。」
「確かにいいとは思うよ、パパ、だけど、こう言っちゃなんだけど、この人ちょっと音程がはずれてところがあったよ。そこと、あそこと・・・」
父:「なるほど、それが判るとは嬉しいね。お前は平均律を基準にしてるいるからアウトして聴こえたんだよ。ハイフェッツは自然音階を使っているからね。」
「父さん、自然音階って何?」
  またもや僕はラッキーだった。だって父は自然音階と平均率の違いを説明することが出来たんだから。ハイフェッツの三度の音程は、その時、少し「いやらしい」ものに聴こえてしょうがなかったんだけどね。
<発明狂時代>
&nbsp子供の頃から、レッドは発明家を目指し様々な製品を発明しました。最大のヒット商品は、洋服のハンガーの針金で作ったゴム仕掛けの6連発拳銃で、1丁10¢払って近所の子供たちは全員購入したそうです。するとお父さんは、このゴム拳銃で特許を取得するための方法を色々伝授してくれて、レッドに製品化する為の材料やマーケティングを勉強させました。その煩雑さのおかげで、レッドは発明で一攫千金することの難しさを自覚したと告白しています。つまりお父さんは息子に「発明家」という職業の困難さを上手に教えたわけですが、やがてレッドはジャズの即興演奏を通じて、新たな「発明」の喜びを味わうことになります。
<ジャズとの出会い>
 幼い頃から9年間クラシック・ピアノの稽古を続けたレッドでしたが、ピアノの恩師が突然亡くなります。そんな時に出会ったのがジャズ!レッドは大きな衝撃を受けます。
 レッド・ミッチェル:「ラジオで偶然カウント・ベイシー楽団を聴いて、すっかりジャズの虜になってしまった。楽団全体から愛のメッセージが発信されているような音楽だったよ!ダンスなんて今でも出来ないけど、とにかく踊りだしちゃってね、居間で踊りまくった。そして「こういう音楽を演らなくちゃ!」とひそかに誓ったんだ。そして、テナー・ソロが聴こえて来た。その時は、それがテナーサックスかどうかも知らなかったんだけど、すぐにこれこそが世界最高の演奏者だと思った・・・レスター・ヤングだよ。人生の決定的瞬間だ、12才か14才かその辺りだ。
 ベースを演るようになったのは19才の時で、それまではクラリネットやアルトなど、色んな楽器をかじった。」
 その頃のレッドは、まだ発明と音楽の志が相半ばしていて、ホーボーケン(NJ)の工業高校から奨学金を取得し名門コーネル大学へと進学し、学業の傍らピアニストやクラリネット奏者としてジャズの仕事もしていました。
<兵役そして破門>
Red_Armywbass.jpghttp://www.redmitchell.com/より。
 コーネル大では、宿題はサボるものの、結構優秀な生徒であったミッチェルですが、2回生で徴兵されドイツに駐留、その間ピアノ兼ベースでアーミーバンドとはいえ、ジャズ専門の楽団で活動します。そのバンドはトニー・ベネットなどが在籍した名バンドで、レッド・ミッチェルの人生は急速にジャズ・ベーシストとして転換していくのですが、思わぬ難関に遭遇します。
レッド・ミッチェル: 「任期満了で帰国した1947年、私は両親にジャズ・ミュージシャンになるつもりだと話した。それは確かに風変わりな決意だったね。コーネル大に復学すれば奨学金とGI特典によって無料で卒業できることは判っていたのだが、復学するつもりはなかった。当然、家族、友人はこぞって忠告した。
 "もしも音楽家になりたいのなら、少なくともジュリアード音楽院に通って学位を取得しなさい。万一演奏家として成功しなくとも、教師として生活していけるように。"
 それでジュリアードには3ヶ月間通った。私は音楽鑑賞とベース演奏の二つのコースを選択した。私のすぐ後にフィル・ウッズ(as)が入学している。私の成績は音楽鑑賞で最高点のA、ベースでは最低のCだった。3ヶ月間師事したのはあいつだよ。NYでベースを勉強するならあいつしかない。誰かって?フレデリック・ジマーマンだ。ジマーマンはNYフィルの次席奏者で、彼はそのポジションを非常に不服に思っていた。巨匠コントラバス奏者、ヘルマン・ラインスハーゲンのスター格の弟子で、最初は首席奏者だったのに降格されたんだ。ヘルマンは文字通りNY中のベース奏者のボスで、NYフィルのトップ・プレイヤーだった。良い学生も、良い仕事も、全てが彼のものだったんだ。引退時、ヘルマンは自分が持つ全ての権力をジマーマンに譲ったんだ。ところがそれもつかの間で、上層部がフレデリック・ジマーマンを降格した。何故なら、彼にはセクションのリーダーシップがなかった。もちろん優れたベース奏者だったんだがね。私は彼のアパートで演奏を聴いた事がある。私なら彼が私にくれたのと同じCの点をやるよ。
1941_zimmerman-3rd_from_left.jpgミッチェルを破門したジマーマン先生は左から3人目です。
 ここで言っておかなければならないのは、当時私はジュリアード入学前、たった三ヶ月しかベースを練習していない初心者だったということだ。色んな楽器にトライしてみたけど、どれもうまく行かず、だんだんベースが一番向いていることが判ってきた程度だったんだ。単細胞で、常に事物の根底を掘り下げるタイプだからね。月並みに聴こえるかもしれないが、そういう事はとても深い関係があるんだよ。とにかく3ヶ月フレデリック・ジマーマンに師事し、挙句の果てに彼はこう言ったよ。
 「坊や、もう止めとけよ。世の中にベーシストは掃いて捨てるほどいるんだよ。この世界は厳しいぞ。ベースの他にやりたいことは何かね?」
 『発明家です。』私は答えた。
 「Yeah、そいつはいい!ベーシストより儲かるぞ。」
 名門音楽院のベース教師から破門されてから5年後、レッド・ミッチェルはプロのベーシストとして、人気ヴァイブ奏者レッド・ノーヴォ3で活動していました。
その事件はロサンジェルスのクラブで起こります。
<真のベース教師と出会う>
レッド・ミッチェル: 「私がノーヴォやタル・ファーロウと演奏していると、ロマンスグレーの年配の夫婦が現れた。1セット目が終わると、私は彼らに紹介された。なんとそれがベースの巨匠ヘルマン・ラインスハーゲンと奥さんのミュリエルだったのさ!二人は私の評判を聞いて、わざわざ聴きに来てくれたんだ。奥さんがとてもいい人で、僕の車の中でこんな風に耳打ちしてくれた。
 「ハーマンは引退していて、お弟子さんはもう取っていないの。でもね、あなたが頼めば、きっと教えてくれると思うわよ。」僕は、奥さんに礼を言って、そのとおりにした。そして、僕は6ヶ月間に師事することになったんだ。全く素晴らしい先生だった。」
 ジュリアード音楽院でジマーマンに冷たく破門を宣告されたレッド・ミッチェルの才能を一瞬に看破し、弟子に迎えたのは、そのジマーマンの師匠だったんです。人生ってほんとに不思議ですね!
続きは次回!CU

楽しい連休を!

 巷はシルバー・ウィーク・・・OverSeasも明日22日(火)、23日(水)は休業させていただきます。

 25日(金)はSuper Fresh Trio :寺井尚之(p)、坂田慶治(b)、今北有俊(ds)、7pm~/8pm~/9pm~(Liveチャージ 1,890yen)
 26日(土)は、いよいよスペシャル・ライブショーン・スミス(b)+寺井尚之(p)デュオ 7pm~/8pm~/9pm~(当日 6,300yen)
CU on 週末~!

 

Autumn Kisses:George Mraz 叙勲!

george_mraz_05_milano2008.jpg
 秋深し、ショーン・スミス&寺井尚之デュオも近づき、スミス夫妻が楽しみにしている「たこやき」を、余りにたこやき屋さんが多くすぎて、どこで調達しようかと思い悩む今日この頃です。
 そういえば、ショーンが「モンスター」と畏敬をこめて呼ぶ巨匠、ジョージ・ムラーツ兄さん、今年はどうしているのでしょう?以前なら、フーテンの寅さんの妹のように心配したものですが、今は公式HPにスケジュールが出ているし、東海岸のギグには必ず付き人のしょうたんがお世話してくれているので、とても安心です。
<しょうたんのムラーツ情報>
 しょうたんによれば、先月はNYのジャズクラブ、「バードランド」で、リッチー・バイラーク(p)5とハンク・ジョーンズ(p)・グレート・ジャズ・トリオに立て続けに出演し、相変わらずの凄腕を発揮、会場をどよめかせたらしい。
 ドイツ在住の旧友、バイラークとのリユニオン・ギグでは、長年のファンの皆さんにはお馴染みの、イタリア製の楽器を久々に弾いたそうです。”カナリア”と呼ばれる、あの明るく饒舌なサウンドは健在だったらしい。ドラムはビリー・ハート、旧店舗のOverSeasでやった時と同じメンバー、あのコンサートも凄かったですね。聴きたかった~!

maestro_george_mraz_shota_ishikawa.jpgNYジャズ業界で、ムラーツの公認アシスタントとして名を馳せるしょうたん、冬休みの年末には、OverSeasに帰って来る予定。土産話と師匠直伝のプレイを楽しみにしよう!
 次のハンク・ジョーンズ、グレイト・ジャズ・トリオのギグには、フランク・ウエス(ts)、ジミー・ヒース(ts)、バリー・ハリス(p)など著名ミュージシャンが多数駆けつけ、会場は超豪華ジャムセッションなったらしい。でも、そういうのが余り好きじゃないアニキは、しょうたん坊やに、ベースを渡そうとして、あわや、《しょうたん、NYデビュー!》の歴史的事件になりそうだったのですが、「ムラーツをはずしてなるものか!」と間髪入れずウイントン・マルサリスが吹き始めたので、タイミングを逃しちゃったらしい・・・でも、しょうたん、またチャンスはきっと巡ってくるからね!
Medal.jpg
 永遠の不良少年だったアニキも、9月9日で65歳(!)。愛娘サルカちゃんも結婚したそうで、ムラーツ兄さんがムラーツじいちゃんになる日も近いのか・・・
 そんな中、アニキからビッグ・ニュースが来ました。チェコ共和国のクラウス大統領から直々に、65歳になったジョージ・ムラーツに勲章を贈呈するという知らせが届いたそうです。この賞は、チェコ語で”Zlatou plaketu prezidenta republiky“日本語にすると「大統領黄金名誉賞」というところでしょうか。
 色々調べてみたら、日本なら芸術部門の文化勲章に匹敵する賞で、チェコ共和国の芸術に貢献したパフォーマンス・アーティストに、大統領権限で叙勲するもののようです。
 今回の受賞者は、僅か三名、ムラーツ兄さん以外の受賞者は、ドヴォルザークの曾孫にあたる、「ボヘミアの森の音色」で名高いヴァイオリンの巨匠、ヨセフ・スーク(80歳)と、チェコ演劇界を代表する女優(75歳)ということで、ムラーツは快挙!最年少受賞者でした。
 ムラーツのオリジナルに「Autumn Kisses」というのがあるけれど、今年は大統領からのビッグなキスをもらえるようで、私も誇りに思います。
 OverSeasで商店街のコロッケを頬張るアニキは仮の姿、本国では民主化されたチェコ文化を代表する大文化人であることを、しっかり肝に銘じることにしよう・・・
 ジョージ・ムラーツは10月2日はマサチューセッツ州アムハーストにて、イヴァ・ビットヴァ(vo,vln)とデュオ・コンサート、その後、ハンク・ジョーンズ3で渡欧し、フランス、トルコ、ドイツ、ポルトガルなどをツアーする模様です。
 アニキ、おめでとう!むさくるしいところですが、またいつかOverSeasで演奏してください。
CU
mraz2008in_studio.jpg

Sean Smith Live 情報


 9月26日のショーン・スミス(b)との共演を控えて、寺井尚之は稽古に余念がありません。秋に相応しいよいコンサートになりそうです。
 チケットは残りわずかになってきましたので、ぜひお早めにお買い求めください。
 なお、ショーン・スミスを聴きたいけど、大阪は遠すぎて・・・と言う皆様。ショーン・スミスは、東京と岡山で演奏を予定しております。お近くの方はぜひどうぞ!
《ショーン・スミス公演日程》

  • 9月21日(祝) 東京 

Tokyo TUC ”Special Event/守屋純子 Special Trio”
メンバー: 守屋純子(p)
、ショーン・スミス(b), 小山太郎(ds)
開場 4:00pm 開演 4:30pm  (終演予定 7:00pm)
Music Charge: \3,500
(ご予約 3,000yen   学生 2,000yen 消費税込み、その他のチャージ一切なし)

  • 9月26日(土) 大阪

 jazz club OverSeas ”Sean Smith Duo with 寺井尚之”
前売りチケット 5,775yen (座席指定、消費税込み)

  • 9月27日(日) 岡山

  ルネスホール 開場 7:00pm   開演7:30pm
メンバー 松本和将(p), ショーン・スミス(b), 北村吉彦(ds)
全席自由  一般前売り 4,500 yen  一般当日 5,000yen  学生前売り 3,000 yen 学生当日 3,500yen
Check It!
 

忘れられない微笑み <Too Late Now> 対訳ノート(20) 

 大阪の町の片隅にもコオロギが鳴き始め、秋の気配を感じます。皆さん、寝冷えしていませんか?
super_session.jpg
 今週土曜日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」 は、ヘヴィー級作品、“Super Session”が登場します。’80年当時盛んに共演したベースの異才、レッド・ミッチェル、フラナガンが十代から共演した兄弟分ドラマー、エルヴィン・ジョーンズ!横綱級のミュージシャンの三つ巴で、『Minor Mishap』、『Rachel’s Rondo』などフラナガンの代表的オリジナルを含め選曲もヘヴィー級。
 その中で、今日吹く風のように爽やかな余韻を残してくれるバラードが、『Too Late Now』、一昨日のOverSeasでの演奏があまりに素敵だったので、この曲のことを書きたくなりました。
<歌のお里>
Royal Wedding.jpg
 バートン・レイン作曲、アラン・ジェイ・ラーナー作詞のバラード、『Too Late Now』は歌って踊って恋をするミュージカル映画《Royal Wedding (邦題:恋愛準決勝戦 )》(’51)のサブ・テーマでした。主演フレッド・アステア、ジェーン・パウエル、アメリカで活躍する兄妹ダンス・デュオ・チームがエリザベス現女王のご成婚に湧くイギリスに渡って繰り広げるロマンチック・コメディです。主演のアステアは事実、妹のアデールとコンビで売り出し、妹はイギリス貴族と結婚したという実生活を連想させる映画でもあります。
 なぜ邦題が《恋愛準決勝戦》なのかというと、兄妹二人のロマンス故、人員が計4名なので「準決勝」になったというシンプルな理由が最高!気色の悪いカタカナの羅列ばかりの最近の洋画にも、素敵な邦題を付けてほしいな。
 作曲のバートン・レインは『カシモド』の名引用句としてOverSeasで人気高い『How About You?』や、寺井尚之が大好きなビリー・エクスタイン(vo)のオハコ『Everything I Have Is Yours』などで有名ですね!一方、アラン・ジェイ・ラーナーは脚本家と作詞家の二刀流で筋の通ったミュージカルを作る巨匠、《マイ・フェア・レディ》が余りにも有名です。
 《Royal Wedding》を観たいと思った方は、インターネット・アーカイブというサイトで、最初から最後まで観れます。(ただし字幕はないけど、あまり気にならないかも・・・)ネット社会恐るべし…
 『Too Late Now』はオープニング・タイトルの後半にも使われていますし、上のアーカイブで57分35秒くらいから、妹のエヴァに扮するジェーン・パウエルが歌うオリジナルを観ることができます。  ジャズで演るサイズより最後のA-3部分が2小節多い34小節で歌われています。
 それだけでなく、壁や天井をフレッド・アステアがダンスするシーンや、船上のジムの中のタップは、後のハリウッド映画で何度もリメイクされた歴史的名シーン、ダンサブルなソロを目指すドラマーは必見(16分すぎからは、ジムの中でのダンスシーンが。1時間6分くらいのところからは、壁や天井で踊る圧巻のアステアが。)。
<微笑みを忘れるにはもう・・・>
220px-Jane_Powell_in_Royal_Wedding.jpg
 『Too Late Now』は、妹のエヴァと英国貴族、ジョン・ブリンデイル卿の愛のテーマとして、繰り返し流れます。人気ダンサーのエヴァは、アメリカでは次から次へとボーイフレンドをとっかえひっかえしている無邪気な天然プレイガール、でもロンドンに来て、今まで会ったことのない誠実で上品な貴族の青年と恋に落ち、奔放だったエヴァが一途な愛に目覚めたことを告白する歌だったんです。アレック・ワイルダーは著書「American Popular Song」の中で、”シンプルなA部と対照的なサビのB部は驚嘆に値する発明だが、決して小賢さはなく、一度聴くと、これ以外にはない!と思うほど完璧なものだ。”と論評しています。

<Too Late Now トゥ・レイト・ナウ>
Alan Jay Lerner / Burton Lane

あなたの微笑みを
忘れるには遅すぎる。
抱き合い踊ったひととき、
それを忘れて、
誰ともダンスは出来ないの。

忘れるには遅すぎる、
一言で私を喜びで満たす
あなたの声を。
あなたのいない私など、
思うことすら出来ないの。

離れている間は、
二人でしたことを、
指折り数えて思い出す、
優しく楽しい思い出が、
心の中にずっとある。

心の扉を閉じれない。
昔の私に戻れない。
だってもう遅すぎるから。

 作詞者が脚本も同時に担当しているだけあって、歌詞もストーリーに沿ったものになっています。とはいえ、対訳を作っていると、恥ずかしくなるほど甘い甘い歌詞です。ジャズ・ヴォーカルで演っているものは案外少ないし、決定版と言えるものを私はまだ聴いたことがありません。器楽奏者がうまく演ると、却って歌詞の良いところだけが抽出されるのかも知れません。
 歌詞のパンチラインは、冒頭2小節(2行)の”Too late now to forget your smile”に尽きると思う。このインパクトをずっと引っ張って、最後まで持っていくところが凄い。
 一瞬の微笑みで人生がガラリと変わる、そんなことがあるんだ・・・
 土曜日の講座は、人生を色々想いながら、楽しい解説でフラナガンの足跡を辿ろう。
 秋が深まりそうなので、私はチキンと茸を色々使ってクリーム煮を作ります。
 ジャズ講座は9月12日(土)6:30pm~ 受講料:2,500yen (ご予約はOverSeasまで。)
CU

さよなら EDDIE LOCKE (1930-2009)


 私たちが心から愛するドラマー、エディ・ロックさんが昨日逝去されたそうです。
 18歳の時からエディさんを尊敬し親交深かったショーン・スミス(b)(26日にOverSeasで演奏します。)から訃報が来ました。数日前にショーンがエディさんをお見舞いに行った時には、もうほとんど口がきけない状態であったとメールには書いてありました。
 寺井尚之を始めとしてOverSeasのミュージシャン達がエディさんから身をもって教えてもらったことはどれほどあるでしょう。デトロイト出身、パパ・ジョー・ジョーンズの弟子として叩き上げたあのドラミングが今も熱く鳴っています。
 頑固一徹で音楽に対する愛情が溢れていた巨匠、エディさんが初めてOverSeasに来た日のことは一生忘れません。コールマン・ホーキンスのことを熱く語ってくれたエディさん、心からありがとう!もしもジャズ講座の本第5巻をお持ちなら、巻末に彼のインタビューが載っています。

 エディさん、さようなら。そしてありがとう。心からご冥福を祈ります。