ビリー・エクスタイン:アイドルから伝説へ

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 9月7日(土)に「楽しいジャズ講座」で観るビリー・エクスタインは、寺井尚之が一番好きな男性ボーカリスト!バップの香り高い高度なフレージングと深い心の味わい、「智」と「情」を併せ持つ歌唱と、寺井尚之の熱い解説が楽しみです。

 その男性的な魅力に溢れるバリトン・ボイスから「セピア色のシナトラ」、その容姿から「黒きクラーク・ゲーブル」と呼ばれ、Mr.Bとして親しまれたエクスタインは、人種を越えた女性ファンに絶叫される黒人スターのパイオニアでした。

 同時にミュージシャンからも、かっこいいアニキと慕われ、パーカー-ガレスピーを始め実力者を擁するビバップのドリーム・バンドを率いて活動した3年間が、ジャズに寄与した役割の大きさは計り知れません。講座直前、戦前から80年代まで、第一線で活躍したビリー・エクスタインのことを簡単にまとめておきます。
 

 <ラブ・ソングを歌う黒人歌手>

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左から:アール・ハインズ(p)、エロール・ガーナー(p)、エクスタイン、マキシン・サリヴァン(vo)、 ピアノ前に座るメアリー・ルー・ウィリアムズ   

 ビリー・エクスタインは1914年(大正3年)に鉄鋼の街、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。同郷の先輩にはロイ・エルドリッジ(tp)が、後輩にはアート・ブレイキー(ds)がいます。
 父方の祖父はドイツ帝国に併合されたいまはなきプロイセン王国出身のヨーロッパ人で、祖母となる黒人女性と合法的に結婚しました。エクスタインのエキゾチックな容貌はそのせいなのかも… 7才の頃から歌を始め、ブラック・ハーバードと呼ばれる名門ハワード大学に進学しますが、アマチュア・タレント・コンテストに優勝したおかげで中退、本格的に歌手への道を進みます。
 1939年頃にかつてアル・カポネに愛された名門オーケストラ、アール・ハインズOrch.に専属歌手として加入、一気にトップ・シンガーに!最高のスーツでキメたゴージャスなバンドの雰囲気に、エクスタインはまさにぴったりでした。

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 アール・ハインズは最高のピアニストであると同時に、斬新なアイデアを受け容れる懐の深さがあり、その楽団.は、ビバップという新しい音楽を育むゆりかごのような場所でした。ギル・フラー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、それにマイルズが大きく影響を受けた夭折の天才トランペット奏者、フレディ・ウェブスターなどなど、キラ星のような団員で構成され、エクスタインは同僚のガレスピーにトランペットを習い、他の歌手と一線を画した器楽的なアイデアと歌唱スタイルを身につけます。

 イケメンでベスト・ドレッサーだったエクスタインが、アポロ劇場のアマチュア・ナイトで発見した逸材がサラ・ヴォーン!その頃は全く垢抜けない女子だったのですが、輝く才能を見込んだエクスタインが、容姿端麗主義のハインズに強力プッシュ、ピアニスト兼歌手として入団させたんです。当時、サラ・ヴォーンを観たエージェントは、ハインズの頭がおかしくなったのでは・・・と心配したそうですが、みるみるうちにショートカットの美女へと変身し、エクスタインからバップのコンテキストを伝授されスターへの階段を駆け上がった。サラは終生、エクスタインを兄のように慕いました。

<なんたってバンドリーダー!>

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左から:ラッキー・トンプソン, ディジー・ガレスピー, チャーリー・パーカー, エクスタイン

 当時の黒人歌手に許されたレパートリーは、コミックソングか意味のないジャンプ・チューンばかり、「黒人は道化に徹せよ」という社会で、白人客の前では、シリアスなラブソングを歌うことすらタブーだった。黒人はシリアスであってはダメという社会だった。ですからバラードで女心をメロメロにしたエクスタインの人気は、全く前例のない快挙だった。屈せず媚びない芸術家魂は、チャーリー・パーカーと共通するものがあり、若手の黒人ミュージシャンに尊敬された。その人気ぶりに、1944年、エージェントはエクスタインに自己楽団を組織して独立することを勧めます。

 ハインズ楽団で産声を上げた後にビバップと呼ばれる新しいジャズのかたちに心酔していたエクスタインは、自分のバンドをビバップのドリーム・チームに仕立て、本気で器楽演奏を主体とする活動を目指しました。トミー・ドーシー楽団から独立して、映画と歌の両方で大成功したフランク・シナトラとは、全く違う道を目指したわけです。いくら人気があっても、ハリウッドに黒人スターはあり得ない時代です。もしも、当時の映画界に有色人種をスターとして受け入れる度量があったら、ジャズの歴史はまた違うものになっていたのかもしれませんね。

 ビリー・エクスタインは自己バンド結成の理由をこんなふうに語っています。
 「バンドシンガーは楽団の使い捨てにされる。歌手としての私の自衛策は自分でバンドを持つ事だった。当時の人々は、私のような黒人歌手がバラ-ドやラブソングを歌うことをよしとしていなかった。今ならおかしいと思うかもしれないが、そんな時代だった。我々黒人は労働歌やブル-スや、アホな歌だけ歌っていればよく、愛については歌うべきではないとされていた。それにもうひとつ、私はビッグバンドが大好きだった!」
 
 billy-eckstine-orchestra-1.jpgビリー・エクスタイン楽団の在籍ミュージシャンを列記しするだけで、ドリーム・チームの様子がお分かりになるはずです。(ts)ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、フランク・ウエス、(as) チャーリー・パーカー、ソニー・スティット (tp)ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、ケニー・ド-ハム、マイルズ・デイヴィス、(ds)シド・カトレット、アート・ブレイキー・・・すごいでしょう!

メンバーたちは、仕事がはねてから次の午前中まで、ディジー・ガレスピーを中心にリハをやり、ピアノの前に集まってバップの新しいイディオムを創っていきました。ジュリアードなんて必要ない。バンドが大学だった!メンバー達はそう言いました。

エクスタイン自身もバルブ・トロンボーンを担当しました。なかなかの腕前だったけど、ビバップだけ、インストルメンタルだけというのは、世間は許さなかった。

 エクスタインの歌をフィーチュアした、A Cottage for SaleとPrisoner of Loveはミリオン・セラーになりましたが、大所帯、バンドの経営は大変です。戦時中でビッグ・バンドは遊興税を課せられ、移動手段のバスのガソリン配給もままならないイバラの道、地方巡業の公演地では、ほとんどのお客さんのお目当てはダンスとエクスタインの歌で、ビバップは理解されなかったんです。

 
1944savoy.jpg おまけに南部を旅すると、行く先々で人種差別や、ヤクザ絡みのトラブルがある。おまけに団員の音楽的な規律はビシっとしていたけれど、私生活はグダグダ。エクスタインは、上等のスーツの下にピストルを常に携帯してトラブルに備えた。それがまた「かっけえ!」と団員に慕われる!男の中の男だった。

 でも、バンド経営は別問題。あるときは公演地に譜面帳を忘れ、またある時は、チャーリー・パーカーがクスリ代のためにアルトを質入し、オカリナでソロをとる。そんなドタバタな毎日で、1947年、楽団は経済的に破綻してしまいます。

 儲からないと世間は冷たいもんだ!後に「最も過小評価されたバンド」と評したレナード・フェザーだって、その当時は、「調子っぱずれのバンド」と酷評してた。

 戦争とビッグバンドという形態の過渡期にあったドリーム・バンド!彼らの活躍ぶりをちゃんと捉えたレコーディングはないとブレイキーは残念がっています。  

<バラードを極める>


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 エクスタインはそれでもスターであり続けた。新境地はここからです。1947年 バンド解散直後、新生MGMレ-ベルと契約し、その2年後、ビリー・ホリディの献身的な伴奏者であった名手ボビ-・タッカ-を専属伴奏者し最高のバラード・シンガーとして活躍を続けました。タッカーとのパートナー・シップは、1992年、脳卒中で引退するまで終生続きました。 70年代はTVや映画などなど多方面で活躍。80年代は、ヨーロッパや、日本の「ブルーノート」にもたびたび出演し、さらに身近な存在になりました。

 2度の結婚で、連れ子を含め7人の子供のよき父親でもありましたが、そのうち、エド・エクスタインはマーキュリー・レコードの社長になり、日本公演にもドラマーとして同行したガイ・エクスタインは、プロデューサーとなり、クインシー・ジョーンズと共同で何度もグラミー賞を受賞し、現在私たちが頻繁に使うMP3の開発を手がけた音楽界の大物です。

 

 時代を先取りしながら、挫折に負けず終生「智」と「情」のある音楽を全うしたMr.B、晩年の味わいも、ビバップの土台があってこそ。その辺りを土曜日一緒に楽しみましょう!

 

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アポロ劇場主の息子ジャック・シフマン著:<ハ-レム ヘイデイ>より:
 「終戦後の芸能界の変革期に躍り出たニュ-スタ-は、ハンサムで才能あるビリ-・エ クスタインであった。Mr.Bは戦後初の真のス-パ-スタ-であった。・・・彼の発散する強烈なセックス アピ-ルは、黒人エンタテイナ-として初めて、アメリカ白人社会に受け入れられた。そのセクシ-さとは、ずば抜けた容姿だけでなく彼の音楽性、ショウマンシップ、人間性から出る魅力であった。」

パノニカに夢中 (4): ロスチャイルド家の女


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dvd28470096718934.jpg 先日、英国BBC放送のドキュメンタリー番組「The Jazz Baroness(ジャズ男爵夫人)」を観ました。The Jazz Baronessとは、言うまでもなく、パノニカ男爵夫人、数年前に出た「三つの願い」は、パノニカの孫娘によって編纂されたものでしたが、この作品は、パノニカの実家、兄の孫娘である放送作家、ハナ・ロスチャイルドが、パノニカ本人や、自分の一族、モンクゆかりの人々を入念にリサーチしながら、ヨーロッパの名家、ロスチャイルドの親族としてまとめ上げた興味深いドキュメンタリーでした。

 

 ハナ自身がナビゲーターとして、ヨーロッパ大富豪の末裔であるニカと、西アフリカ出身の黒人奴隷の子孫である天才音楽家セロニアス・モンクの生い立ちをシンクロさせながら、二人の結びつきが必然的なものだったことを暗示していきます。
 以前、パノニカ夫人、Kathleen Annie Pannonica de Koeningswater について散々書いたのですが、この番組を観たら、また話題にしたくなりました。
 
 証言者として登場するのは、パノニカの姉(昆虫学の世界的権威 ミリアム)や甥(ハナの父)、デヴォンシャイア公爵夫人といった上流階級、そして、セロニアス・モンクの息子、TS.モンク、クインシ―・ジョーンズ、ジョージ・ウエイン、アーチー・シェップ、ロイ・ヘインズ、チコ・ハミルトン、それにモンクのドキュメンタリー、『Straight No Chaser』を作ったrクリント・イーストウッドなどなど。ヨーロッパ、米国、色んな立場の証言で、一見かけ離れた二人の接点を見事に浮き彫りにしていました。
<ヒントは『Thelonica』に!>
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 ハナは1962年生まれ、私のように出来の悪い子は「名門ロスチャイルドの一員としてふさわしくないのではないか?」というプレッシャーを常に抱えてきた女性。彼女にとって大叔母であるパノニカ(1913-88)は家の恥、下品な女、はみ出し者として、話題にすることすらタブーだったのですが、自分と似ているように直感し、強い興味と親近感を覚えるようになります。パノニカを探る旅は、作者ハナ自身を探す旅でもあります。
 
 パノニカを訪ねて、彼女がロンドンから初めてNYに旅をしたのが1984年。偶然にも私がヴィレッジ・ヴァンガードでニカを観たのと同じ年でした。

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 NYに着いたハナはニカに電話をかけます。
「大叔母様、私は今、NYにおります。ぜひお目にかかりたいのですが。」
 「それじゃ、真夜中にダウンタウンのジャズクラブにいらっしゃい。」とニカは神経質そうにクラブの住所だけ言った。
 「住所だけで判るのですか?」 物騒なNYの町で右も左も分からないハナが不安気に言うと、
 「目印はベントレー。」それだけ言って電話は切れた。
  地下組織で活躍したニカらしい逸話です。
 毛皮のコートに真珠のネックレスのニカは、お決まりのテーブルに陣取り、いかにもくつろいだ雰囲気だった。71才の大叔母はジャズのために、家族を捨てた人。彼女は初対面のハナにこう言います。
「覚えておおき。人生は一度しかないのよ。」

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Brilliant Corners (Photo credit: Wikipedia)

 ニカに会って、ハナはますます興味を掻き立てられます。そんな彼女の元に、ニカは2枚のLPを送ってきた。一枚は、”Pannonica”を収録したモンクの『Brilliant Corners』、そしてもう一枚がトミー・フラナガンの『Thelonica』だった。

 ホレス・シルヴァーやソニー・クラーク、ジジ・グライス・・・数多の音楽を献上されたニカは、多くのレコーディングの中から『Thelonica』を選んだ訳は、音楽を聴けばよく分ります。フラナガンが、モンクとニカの関係を、最善の形で音楽として表現していたということに違いありません。
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ニカとその兄弟:(左から、ヴィクター、ミリアム、リバティ、パノニカ)

220px-Narranga_tessularia_male.jpg “パノニカ”という名前が、父の発見した新種の「蝶」に因んだものだということは、以前Interludeに書きましたが、このドキュメンタリーでは、実際の”パノニカ”は美しい蝶ではなく「蛾」だった。英国王立自然史博物館に所蔵される標本を観たハナは、その蛾の色を、ヒトラー以前、ロスチャイルド家のハウス・ワインであった、「シャトー・ラフィット・ロートシルトに浸したような色と表現している。

 
 

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 その逸話が象徴するように、令嬢パノニカの子供時代は決してバラ色でなかった。一家の住居は、人里離れた丘の上に建つ ワデスドン・マナーと呼ばれる城、英国王や首相を始め各国の要人が客として訪れる。ロココ風の豪奢な調度品や、当主が集めた珍しい動物の剥製の数々!
 
 紅茶に入れるミルクだって、3種類の牛からお好みの乳を選ぶんですから、私のようなドブ板庶民には想像もできない世界。
 でも、子どもたちにとって、その城は、おとぎの国どころか、息の詰まる場所だった。清潔過ぎる部屋、看護婦や召使に囲まれて、鬼ごっこすら出来ないし、好きな洋服も食事も選べない。
 女の子はドレスのリボンの色まで決められていた。
 母親ロジツカに会えるのは寝る前に、お祈りする時だけ。
 そして何よりも驚くべきことは教育。女の子には高等教育が許されなかった。美しく成長したら、社交界にデビューし、よき伴侶をゲットし、多くの子供を作ることが女の努め。
 ロスチャイルド家だけでなく、名家というものはそういうものだったそうです。
 <モンクとロスチャイルドの共通点>

  

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nica (Photo credit: ChrisL_AK)

 女性の教育を嫌ったロスチャイルド家ですが、ニカの姉上、ミリアムは「蚤の研究家」として生物学史に名を残しているし、父チャールズ、兄ヴィクター、銀行家として投資に勤しむ傍ら、科学の研究でも成果を残しています。彼らのペットがフクロウで、まるでハリー・ポッターの魔法学校!

 パノニカだって英国女性として初めてA級パイロット免許を取得しています。(だから、兄ヴィクター・ロスチャイルドは、ニカの結婚祝いに飛行機(!)をプレゼントした。) 脳のCPUが並外れた家系なのかも知れません。

 その反面、パノニカの姉、リバティは統合失調症で苦しみ、父チャールズはうつ病のために自分の喉をナイフで掻き切ったという負の歴史を背負っています。

 チャールズ・ロスチャイルド卿の自殺のニュースは国中を駆け巡りましたが、母ロジツカは子供達にその不幸な事実を隠して、病死を偽った。子供達が成長して、悲惨な事実を知った後も、家庭でその話をすることはなかったといいます。パノニカが家庭を捨てて、ジャズメンと人生を共にした遠因はそこにあったのでは、とハナは感じています。
 
 一方、セロニアス・モンクの父親も警察署長になったほどの優秀な人でしたが、後に精神を病み療養所で亡くなり、モンク自身も精神を蝕まれて亡くなった。
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 ニカの子どもたちの親権は全てケーニグスウォーター男爵に。

<ニカはモンクの愛人だったのか?>

   

round_midnight_single.jpg パノニカがモンクに惚れこんだのは1948年、まだモンクが無名の頃、兄のピアノ教師であったテディ・ウイルソンに”Round Midnight”のレコードを聴かされたのがきっかけでした。それからニカは20回以上立て続けにこのレコードを聴き続けたと言います。モンクの音楽のおかげで、彼女はアルコール中毒から立ち直った。
 ニカの非凡なところは、その時の思いを一生持ち続けたところ。
 ニカはモンクのためなら何だってやってのけた。自らマリファナ所持の罪をかぶって拘置所に入った。何故ならモンクは黒人で無防備なアーティスト、自分は白人女性で金持ちだからダメージは少ないと。チャーリー・パーカーが彼女の住むホテルの部屋で「変死」し、黒人と共に逮捕されたパノニカは、変態、淫乱男爵夫人として、マスコミから大バッシングを受け、ロスチャイルド家からも見放され、夫から離婚を言い渡されても、モンクとジャズへの愛情は揺るがなかった。
 ニカはモンクだけでなく多くのジャズ・ミュージシャンの面倒を観ていました。
 ハナは、彼女の信念が、ロスチャイルド家で父を亡くした生い立ちと、ホロコーストにつながったユダヤ人差別に密接に関わっていることを映像で証明していきます。
 
 モンクにはジャズ界で良妻の誉れ高いネリーといういう妻と子供がいましたが、ニカとの関係は男女のものだったのか?これまでの伝記と違って、ハナはその辺りを興味本位でなく、真摯にクローズアップしています。
 
  晩年、ネリーは精神に以上をきたしたモンクに付き添い、ニカの邸宅”キャット・ハウス”に移り住み、葬儀には、ネリーとニカが並んで参列者に挨拶をした。 妻妾同居?  息子のTSモンクは、「そりゃニカはモンクに惚れてたんだ。」とシニカルにコメントしています。一番上の写真でも、ニカのモンクに対するまなざしは愛情に溢れています。  それでも、三角関係のややこしさの痕跡はどこにもありません。夫や子供を犠牲にしてモンクの元に走った女なら、それこそ財力にモノを言わせて、モンクを離婚させる事だって出来たかもしれない。  でもそんなことは全然起こらなかった。確かに愛していたのでしょうが、私たちの定規を越えた愛だったに違いない。 
 トミー・フラナガンの名作『Thelonoca』の硬質なバラードを聴くと、二人の稀有な友情が、色恋を超えたものだったことが、何となく分るように思えます。  私も、まだまだパノニカに夢中、今度はハナ・ロスチャイルドの書いた伝記本も読んでみよう!  
 
 今回、貴重なDVD、『The Jazz Baroness』を見せてくださったサックス奏者、高橋氏に心より感謝します。  
 
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MR. PC: 素顔のポール・チェンバース

paul1.gif   左から:ポール・チェンバース(b)、クリフォード・ジョーダン(ts)、ドナルド・バード(tp)、トミー・フラナガン(p) 『Paul Chambers 5』(BlueNote)のセッションにて。撮影:Francis Wolff


 今週(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に『Paul Chambers Quintet (Blue Note BLP 1564) 』が登場します。
 
 高校入学した頃、ジャズ評論家、いソノてるヲ氏と懇意だった従姉のお姉さんの部屋に行くと、いつも『Kind of Blue』がかかっていたので、ポール・チェンバースは、ごく当たり前のベーシストという感じでした。だってそれしか知らないから。OverSeasに来てしばらくした頃の大昔、寺井尚之が、ジョージ・ムラーツ(b)に「好きなベーシストは?」と訊いたら、ポール・チェンバースとレイ・ブラウンという返事で、なんか「当たり前やん・・・」と思ったけど、ジャズの歴史を調べると、スラム・スチュアートと共に、ジャズ史上、初めてピチカートと弓(アルコ)を併用したベーシスト。当たり前どころか革新者!
 

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 Paul Laurence Dunbar Chambers, Jr. デトロイトで育ち、NYで開花したベーシスト、Mr. PCは、僅か33才と8ヶ月の人生を、太いビートで駆け抜けた。
Paul Chambers Quintet

Paul Chambers Quintet (Photo credit: Wikipedia)

 デトロイト出身の名手に数えられるMr.PCことポール・チェンバース、でも生まれは母方のピッツバーグ、13才の時、お母さんが亡くなって、お父さんの住むデトロイトに移ってきた。最初はチューバを吹いていて、チャーリー・パーカーやバド・パウエルを聴いてからベースに転向したのが14才頃、体育会系のお父さんは、ベーシストに成るのに猛反対したといいます。

 チェンバースは1935年生まれで、トミー・フラナガンより5才年下、あの頃のデトロイトの音楽年齢を考えると、完全に一世代下の異次元世代と言えます。20才になるかならないケニー・バレルとフラナガンが、十代の学生たちのパーティで演奏(バンド用語なら「ショクナイ」という営業か?)しているところに、「すみません、一曲演らせてもらえませんか?」と飛び入り志願したのが中学生のチェンバース少年、バレルは大学でセカンド・インストルメントとしてベースを勉強していたので、「ベース奏法のABCを最初に教えてあげた師匠は私だ!」と自慢しています。

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 チェンバースとダグ・ワトキンス(b)が従兄弟同士であったことは有名ですが、血縁関係はないらしい。異なるDNAでも、この二人は親友で、デトロイトの黒人街に同居し、多くのジャズの偉人を輩出したカス・テクニカル高校に通いながら、現在の音大に優るクラシックの高等教育を受け、お互いのベースの腕を磨きあったといいます。
 学校ではデトロイト交響楽団のコントラバスの名手が、そして放課後は、ご近所の住人、ユセフ・ラティーフやバリー・ハリスがジャズ理論をしっかり教えてくれて、ホーム・ジャム・セッションまであったんだから、モーターシティはジャズ・エリート養成所でもあった!
 『Paul Chambers Quintet』の参加ミュージシャンは、テナーのクリフォード・ジョーダン以外、全員デトロイターで、トランペット奏者の、ドナルド・バードはカス・テック高の同窓生です。ティーン・エイジャーながら、ピンホール・カラーのワイシャツがトレードマークで、デトロイトのジャズクラブに盛んに起用されました。デトロイト時代に儲けた息子さん、ピエール・チェンバースは、現在歌手として活躍中です。
 
 1955年、レスター派でVice Prez(副大統領)と呼ばれたテナー奏者、ポール・クイニシェットにスカウトされてNYへ。ジョージ・ウォーリントンや、J.J.ジョンソン & カイ・ウインディグの双頭コンボを経て、マイルズ・デイヴィスのバンドでブレイクします。
 <アイドルか?ニュー・スターか?>

paul-chambers.jpg マイルズ・デイヴィスやジョン・コルトレーンとの活躍は名盤と謳われるアルバム群が示すとおりですが、ライブのステージでも、チェンバースのベース・ソロは、いつでもお客さんの喝采と掛け声が凄かったと、マイルズ・バンドでしばらく共演していたジミー・ヒースが驚いています。それほど大きなベース・サウンドで『掴み』のあるプレイだったんですね。
 
 丸顔で愛らしい風貌と、マッチョな体躯とファッション・センス、そして痺れるビートで、どこに行っても女性にモテモテだったそうです。
 
 でもチェンバースは、クラシックの地道なトレーニングをコツコツやると同時に、激しいデトロイトの競争社会を勝ち抜いて、真面目に下地を作ったプレーヤーですから、チヤホヤされても努力は怠らなかった。しこたま飲んだ翌日も、デトロイト時代からお世話になっているカーティス・フラーの家に、朝の10時ころから、ライブで演奏する曲を予習したいと、出稽古に押しかけて、そのうち、ジョン・コルトレーンやクリフ・ジョーダンも加わって、夕方までずっと練習三昧の生活をしていた。音楽も快楽も、子供のようにむさぼって、並の人間よりも、人生を疾走しすぎたのかもしれません。
 <Big P>
 
  
 ジミー・ヒース(ts)は、麻薬で服役した後に、ジョン・コルトレーンの後任者としてマイルズ・デイヴィス・クインテットに入団。当時の同僚は、ウィントン・ケリー(p)、ジミー・コブ(ds)、そしてチェンバース(b)でした。コブは、前任者フィリー・ジョー・ジョーンズと対照的に、空手もたしなむ礼儀正しい優等生タイプ、後の二人は天才肌で大酒呑みだった。ケリーは酒好きでも、自分をコントロールする術を知っていたけど、チェンバースは赤ちゃんみたいに無邪気で、ブレーキをかけることが出来ないタイプだったそうです。だからツアーともなると、しばしばベロベロになってステージに上がるというようなことがあったらしい。そうなると、リーダーのマイルズは、わざと、早いテンポで出たり、ベースのイントロが要の”So What”を演ってお仕置きした。ベロベロのチェンバースが、噛むわ、滑るわで凹んだ時には、マイルズが、あの嗄れ声で囁きかけた。
 
 ”OK、ポール、もういいよ。今夜は飯を食いに連れてってやろう。”
 
 マイルズにご馳走してもらうと、ポールは子供みたいに無邪気な顔で、パクパクと食べ物にむしゃぶりついた。ツアー中、ジミーとホテルのバーに行くと、まるで駄菓子屋にいる子供みたいに、あれも、これもと飲みまくる。
「後にも先にもあんな奴、観たことない・・・」
 
latepaulchambers.jpg マイルズ・バンド時代、チェンバースは、尊敬するチャーリー・パーカーの三番目の妻だったドリス・シドナーと同棲していた。ドリスは13歳年上だったらしいけど、ポールのような無邪気な天才には、ベスト・マッチだったのかも知れないですね。
 
 
 その間、クスリと酒は彼の強靭な体をゆっくりと蝕み、結核を患ってから、半年余りで、あっけなくこの世を去りました。
 ビートも、その生き様も、文字通り”BIG P”の名前に相応しいサムライ!
 
 
 「スイングの定義?それはポール・チェンバースが繰り出す二つの連続音である。」
Joel Di Bartolo、ベーシスト
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ジジ・グライスは何故ジャズを捨てたのか?(後編)

*ブログにコメントが入らず、ご迷惑おかけしていましたが、昨日うまく修復してもらったのでコメントが入るようになりました。海外からも大丈夫!どうぞ宜しくお願い申し上げます。


grycebook.jpg 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で聴いたジジ・グライスとトミー・フラナガンの共演盤は’57年の作品ばかり。この年がグライスにとって最も実り多い年でした。

 尊敬するチャーリー・パーカーは自宅にしょっちゅうやって来て、ギグがあるとグライスのアルトを持っていく付き合い。故クリフォード・ブラウンとは、ドラッグ+アルコール・フリー同志で、グライスはブラウニーの息子のゴッドファーザーになった。

 ドナルド・バード(tp)との双頭バンド《Jazz Lab》で名門コロンビアを始め、様々なレーベルからアルバムをリリースし、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに楽曲を提供したグライスは、この年紛れもなくハードバップの寵児だった。
 でも、この後の足跡講座にジジ・グライスが登場することはありません。フラナガンがコールマン・ホーキンスと、名作『Good Old Broadway』を録音した1962年には、グライスの名前はジャズ・シーンから完全に消滅していました。

 

プレスティッジ創業者、ボブ・ワインストックは言う。

「グライスは、ファンキーじゃなかったからね。僕もたくさんプロデュースしてやったけど、うまくいかなかった、流行とズレていたんだ。」

 ほんとかしら?

 <家庭生活>

gigi.jpg  ジジ・グライスが、いわゆる「一般女性」エレノア・シアーズと結婚したのは1953年。トランペット奏者、Idrees Sulieman(イドリース・スリーマン or イドレス・スーレマン)のガールフレンドだった姉の紹介で知り合った。(スリーマンのトランペットは、土曜日の足跡講座に登場する『The Cats』で要チェック!)”Sulieman”もイスラム名ですが、グライスもちょうどこの頃イスラム教に改宗し、Basheer Qusim(バシール・カシム)というイスラム名をもらっていました。人種差別を禁ずる預言者ムハンマドの教えに共感し改宗する黒人は多い。アーマッド・ジャマルは言うまでもなく、ハードバップ時代になると、アート・ブレイキー、ケニー・ド-ハム、ジャッキー・マクリーンなど極めて多くのスターが回教徒になっていたのですから、キリスト教の女性と結婚するのも決して珍しいことではありません。
 でも女性の私から観ると、グライスは少し思いやりが足りなかったのかも… まず結婚式の当日、仕事優先のグライスは花嫁を放ったらかしてギグに行っちゃった。いくら地味婚でも、それはアカンでしょう!ここからボタンの掛け違い。さらにイスラム教徒のグライスはキリスト教の行事を否定した。夫がポークを食べなくてもいいけれど、クリスマスや感謝祭といった家族の集まりに参加しないとなると、キリスト教の妻は困りますよね。それでも自分の選んだ亭主にエレノアは尽くした。社会保険庁に勤め生活費を補填します。やがて長男誕生、グライスはその子にBashirというイスラム名を付けます。エレノアは育児のために仕事を辞めざるを得なかった。収入が激減したからこそ、父親に成った喜びと責任感がグライスの音楽を充実させたのかもしれません。それが豊穣の1957年なんです。

 
<不幸な出来事>
 

 打って変わって、翌年は悲しみの年になった。次男が生後わずか15日で医療ミスの為に急死してしまいます。エレノアは悲しみのあまり体調を崩し、しばらく別居した後、翌1959年に今度は女の子リネットを授かります。でもこの頃からグライスの仕事は減って行きました。被害妄想的な性癖が強くなり、友人や家族を不必要に疑うようになってしまいます。
 エレノアは昼は育児、夜は夫に子供を託して銀行のデータ処理する夜勤の仕事に就き、必死になって働きますが、夫ジジは妻も信じられなくなり、自分の殻に閉じこもってしまいます。家の中に囲いを作って、家族から離れた。在る夜、3時に帰宅したエレノアを締め出します。

 そんな夫に二人の子供を託していても大丈夫かしら?悩んだ彼女は社会福祉事務所に相談、ソーシャルワーカーに、子供を連れて家を出なさいと勧められ、別居を決意。

 繊細なグライスが、極端な被害妄想に陥ったのは、それなりの理由がありました。

 

<著作権会社の崩壊>

quincy_jones0.jpg グライスが音楽出版会社”Melotone Music”を設立したのは1953年で、黒人ミュージシャンの先駆者です。会社設立に必要な弁護士費用もグライスの生活を圧迫したのに違いありません。彼に倣い著作権を自己管理したミュージシャンは、グライスの仲間だったホレス・シルヴァー、クインシー・ジョーンズ、ハンク&サド・ジョーンズ兄弟などですが、グライスが彼らとと違うのは、自分だけでなく黒人ミュージシャン全員の権利を守ろうしたところ。「著作権」という権利が、ミュージシャンにとって当然のもので、それは将来にわたって大きな利益と安定をもたらすことを仲間に啓蒙し、他のミュージシャンの著作の管理も請け負った。

 「著作権」は摩訶不思議な利権で、いわばジャズ業界の伏魔殿、レコード会社だけでなく、マフィアのような反社会的組織も一枚噛んでいたらしい。マイケル・ジャクソンの死が、ビートルズの著作権に関係があるという憶測が飛んだのも記憶に新しいですよね。そこで思い出すのが「”Walkin'”の作曲者」、ということになっているリチャード・カーペンターなる人物。おたまじゃくしも読めないこの男は、ジャンキーのミュージシャンから、僅かな現金で曲の権利を買ってやるともちかけ、拒否しようものなら、脅迫して権利を手に入れていたということを、ずっと前にブログに書きました。カーペンターのような連中なら「なめた真似しやがって、ジジの奴、ただじゃあおかねえぞ、覚えてろ!」と思ったって不思議じゃない。
 ハードバップの名曲がスタンダード・ソングになった時代、「搾取と闘うミュージシャン」は、グライスが想像していた以上に脅威だったのかも。グライスと同時期に出版会社を作ったラッキー・トンプソンがヨーロッパに渡ったのも、著作権に手を出したのが原因で、仕事をホサれたからと、『Rat Race Blues』の著者、Noel Cohenは断言しています。類まれな才能を持つジャズの巨人、ラッキー・トンプソンの晩年はホームレスだった・・・

 グライスは”Melotone Music””Totem Music”と2つの会社を設立し、当時大変高価だったコピー機まで購入し、著作権の行使に努力しました。グライスが質素な生活を強いられたのは投資のためだったのかもしれない。でも、音楽はプロでも、ビジネスはド素人だった。会社を立ち上げても、専従スタッフを雇う運営資金も、妨害をかわすノウハウもなかった。
 結局、パートナーのベニー・ゴルソンも、グライスの被害妄想に振り回されてパートナーを降り、”Moarnin'”を作曲したボビー・ティモンズや、”Comin’ Home Baby”を作曲したベーシスト、ベン・タッカーというドル箱ミュージシャンが次々と解約し、1963年に会社は倒産。ミュージシャンの権利を守るどころか、却って利益を損なう結果となってしまった。
 ベニー・ゴルソンの証言では、ある日、事務所に顔を出したら、一見してヤクザと分る連中が押し入って、契約ミュージシャンの連絡先をチェックしていたといいます。

<第二の人生>

BasheerQusimSchoolx053.jpg 結局、グライスは見せしめとなり、ジャズ界を追われた。妻子も去り、財産もなく、仕事もなくなったグライスは、失意のうちに人生を終えたのか?

 ところがどっこい、そうじゃなかった!会社とジャズ界から解放されて、心的なプレッシャーがなくなると、彼はイスラム名、バシール・カシムを名乗り、学士号を生かし、中学の非常勤教師として再出発した。教科はなんと数学!!そして1974年には、NYブロンクスの小学校に正規採用され、亡くなるまで、音楽を教え教職を全うしました。

 ブロンクス区立第52小学校は、有色人種が半分以上で、裕福でない子供の多い小学校、カシム先生は、合唱団の顧問となり、ジャズ・ミュージシャン時代の手腕を生かし、あまりやる気のない子どもたちに愛情と厳しさを込めて指導しました。バラバラだった合唱隊は、ステージマナーも、ハーモニーも、南部の名門クワイヤーに匹敵するほどに見違えてPTAも教育委員会も驚愕するほどの実力を得て、地域イベントに引っ張りだこになった。子どもたちのユニホーム代など、色んな経費は、しばしばカシム先生のポケットマネーで賄われていたそうです。 地域に受け入れられたカシム先生は、1972年に職場結婚しましたが、第二の妻にも、過去の自分についてはほとんど語らなかった。学校関係者で彼がジジ・グライスと知っていたのは、補助教員で元ミュージシャンだったピアニストと教育委員の元ボーカリストだけだったそうです。NYの街で、ばったり昔のジャズ仲間に会っても、彼は挨拶するだけで足早に去っていった。

 彼は独自の音楽システムを開発し、教育委員会を説得し、通常の授業に役立てています。それは現在各地の音大で使用されるカリキュラムと似たものであったそうです。忍耐強い教育者として、生徒や父兄に大変敬愛されたカシム先生は、1980年に前の妻エレノアと和解、自分の子どもたちとも交流できるようになりました。体調を崩し故郷フロリダ州、ペンサコーラで心臓発作の為死去。彼の死後、彼が教鞭を取った区立小学校は、カシム先生を記念して”PS53 バシール・カシム小学校”と校名変更し、現在に至る。

 ここまでは、ジジ・グライス伝『Rat Race Blues』や、色んなアーカイブに点在するアート・ファーマー、ベニー・ゴルソン達のインタビューを参考にしました。ジジ・グライスについて徹底取材して「Rat Race Blues」をまとめた伝記作者、Noel CohenとMichael Fitzgerald両氏の努力に敬服です。

 

tommy&Thad.JPG さて、ジジ・グライスの数奇な生涯から、私たちは何を学ぶべきなのでしょう?アレンジャーとして、転調や拍子の変化を使いながら、”Lover”を”Smoke Signal”に変えてみせた鮮やかな「時間」の魔法を、自らの人生に応用したのかも知れないですね。

 そんなことを想いながら、グライス作品を聴くと、またまた面白いものですね!

 毎週第二土曜は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」 どうぞよろしく!

 

ジジ・グライスは何故ジャズを捨てたのか?(前編)

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Gigi Gryce(1925-1983)

 ”Jazz Lab“やオスカー・ペティフォードOrch… ここ数ヶ月、「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で、ジジ・グライス関連の名盤を聴いてきました。4/4拍子が、だしぬけに3/4に捉えなおされるメーター・チェンジや転調によるカラー・チェンジ!グライスのクリアでダイナミックなアレンジは、受講のお客様と共に、「あっ、これはきっとジジの編曲だ!」と、わかるようになりました。
  ジジ・グライスがジャズ・シーンの第一線で活躍した期間は10年あまりと驚くほど短いのです。引退後はイスラム名を名乗り、教師として第二の人生を送った。そこで彼の過去を知る人はほとんどいなかったんです。謎に包まれた彼の人生の状況証拠を集めた力作、”Rat Race Blues”( Noel Cohen, Michael Fitzgerald著)という伝記が出版されていますが、残念ながら未邦訳。

 ジジ・グライス、その引退の真相は?数奇な人生の断片を。

理論派秀才 陽の当たる場所に
 
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  Gigi Gryce(本名 George General Grice Jr.) は、1925年、裕福な家庭の次男坊として、陽光降り注ぐフロリダ州の北西端にある港町ペンサコーラで生まれました。しかし8才のときに、父が心臓病で死去、取り残された家族の収入は途絶え、家は没落します。

 一家は、山の手からゲットーに移り、貧困層のための福祉プログラムのおかげで、十代でアルト・サックスに出会いました。当時のジジは、無口で内向的な少年で、学業成績も良くなかったといいます。

 1944年、海軍入隊。歴史に名高いシカゴ海軍バンドでビバップの洗礼を受け、チャーリー・パーカーに心酔、海軍の盟友たち、クラーク・テリーやジョン・コルトレーンと、バードを目指して切磋琢磨しました。

 2年間の兵役の後、グライスはコネチカット州ハートフォードでプロ活動。そこで無名時代のホレス・シルヴァー(p)に出会います。

 自分のサウンドを構築し、第一線の音楽家になるには、ビバップを越える音楽を志すには知識が必要だ!と、退役軍人の学費免除、俗に言うGI Billを利用し、ボストン音楽院で学士取得を目指す傍ら、ジャキ・バイアードやクインシ―・ジョーンズと親交を結びました。その間、パリに入学し、ナディア・ブーランジェやアーサー・ホーネッガーたち、20世紀を代表する音楽教育者の薫陶を受けながら、留学のストレスでノイローゼになり帰国した、といわれていますが、真偽は不明です。

 ブーランジェといえば、バーンスタインからバレンボイム、ピアソラまで、ジャンルを超えた巨匠たちに「音楽の視点」を教えた教育の達人、ドナルド・バードや親友クインシ―・ジョーンズも門下生です。

 同年、ジャズ界のスター、スタン・ゲッツがグライスの曲を気に入ってごっそり録音、第一線への道がひらけます。かつての盟友、ホレス・シルバーの推薦でした。 

 丁度、この時期、グライスはイスラム教に改宗、バシール・カシム(Basheer Qusim)というムスリム名を取得し、同時に、芸名を(Gigi) GriceからGryceに変えています。

 翌1953年、タッド・ダメロン楽団で活動。憧れのダメロンの編曲法を目の当たりにした後、ライオネル・ハンプトン楽団に入団、クリフォード・ブラウン、後のパートナー、ベニー・ゴルソン、アート・ファーマーなど、ハードバップを背負って立つスターたちと海外ツアーし、パリでレコーディングも果たしました。

 上の写真はクリフォード・ブラウンと、二人の共通点は、酒やクスリをやらないクリーンなジャズメンだったこと。 

<著作権意識>

 

tommy&Thad.JPG 1954年、アート・ファーマーとタッグを組み活動後、パートナーをドナルド・バードに代えて、双頭コンボ、Jazz Labで目覚しく活動を始めます。デューク・エリントンを別として、ミュージシャンの作曲作品に発生する「著作権」の意識は、この世代から強くなりました。アカデミックな「知識」世代がジャズに登場したわけですね。

 ジャズ史上初めて、個人的な出版社を設立したミュージシャンが、このジジ・グライス。それまでは、誰も彼もこぞってデューク・エリントンが帰属するMills Musicに著作権を委任した。だってエリントンを見習っておけば間違いないもん、というブランド志向の軽いノリ。さもなくば、レコード会社が録音曲の著作権を自動的に管理して、「おまけ」感覚で、忘れた頃にミュージシャンに支払うか、あるいは担当者がネコババして知らんぷりというケースも少なからずあったといいます。

 1955年、楽譜出版社を設立したグライスニベニー・ゴルソンも参入、自分たちのオリジナル曲や、ジョン・ヘンドリクス、ボビー・ティモンズといった仲間のミュージシャンの版権も管理して、レコード業界を震撼させたのでした。

 
 ビジネス感覚にたけ、楽器の腕前はチャーリー・パーカー直系の名手、初見の譜面もなんなくこなす読譜力と、クラシック音楽の基礎の上に生む斬新なアイデア!グライスは、チャーリー・ミンガスやオスカー・ペティフォード、アート・ブレイキーといった、ウルサ方に重宝され、めきめき頭角を現します。

  

<天才のストレス>

 

Gigi Gryce

Gigi Gryce (Photo credit: Wikipedia)

 

  クスリどころか、酒も煙草もやらない超堅物、才能も実力もあり、版権も確保したのに、なかなか金持ちなれないのがバッパーならでは!著作権事務所を作る手続きには、多額の弁護士費用が必要だったからかも知れません。

 グライスの妻は、元々ジャズ・ファンというわけでもないカタギの女性、たまたまジャズクラブに行ったとき、グライスに見初められた。彼女の名前はエレノア・グライス、’53年に結婚、社会保障庁に努め、夫のジャズライフを懸命に支えますが、子供が生まれると、共働きというわけにいかない。そこで、たちまち生活苦に。グライスは一時期、食堂でコックのアルバイトをしながら生活費を稼いでいたほどです。

 そんなストレスのためか、あるいは子供の頃、父の死や、貧困で味わったトラウマが原因なのか、物静かな性格とは裏腹に、グライスには異常に疑り深く、被害妄想的な性癖があった。Nica’s TempoやSmoke Signalのスカっとしたサウンドからは信じがたいことですね。

 例えば、自作の譜面を演奏者に配って本番を終えると、翌日も同じ曲を演るのに、譜面を各ミュージシャンから厳しく撤収する。そんな細かいところがあり、おまけに酒も一緒に飲まないから、心底打ち解けられる仲間は少なかった。アート・ファーマーがグライスとコンビ解消したのは、そんな理由だったそうです。

 50年代の終わりが近づくと、グライスの人生行路は、鉄壁の音楽と裏腹に、大きくほころんでいきます。

 負けるなジジ・グライス!

 続きは次週・・・

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前略ホーキンス殿:ソニー・ロリンズ拝

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 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」が始まり、フラナガンが共演した巨匠達のことを再び調べてます。先週、ジジ・グライス関連で魅了されたS.ニール・フジタのアート・ライフについて書いたら、思いがけず、プロのアート・デザイナーの方から励ましのお便りを頂き、とても嬉しかったです。ありがとうございました。

 今回も、講座に関連して、私が感動したものをご紹介します。
 それは1962年10月、ソニー・ロリンズが10代の頃から尊敬するコールマン・ホーキンスに宛てて書いた手書きの書簡で、ロリンズの公式HPの中で偶然見つけました。ロリンズがしばらく第一線から離れ、ロウワー・イーストサイドのウィリアムズバーグ橋で研鑽を積んだ末、『Bridge』をひっさげてジャズ・シーンに劇的なカムバックを果たした数ヶ月後に書かれた書簡です。
 手紙はたいへん丁寧な言葉で綴られており、当時のミュージシャンの上下関係は、相撲の世界にも似た固い絆で結ばれる縦社会であることを実感しました。

 

810_rollinslettertohawkins_page_12.jpg 原文はここにあります。なにしろ手書きなので、Google翻訳も無理ですから、和訳をつけました。

 

 ’62年10月13日

 親愛なるホーキンス様

  先日《ヴィレッジ・ゲイト》で聴いた演奏は最高でした!!”ジャズ界”という激しい競争社会の中、トップであり続け、今なおリーダーシップを堅持されていることよりもなお、長年磨きぬかれた音楽が、あなたの人格と品位の副産物であることの方に、ずっと大きな意味があると思いました。
 
 若手プレイヤーの中には、不幸にも、音楽の才能があるのに人間的に未熟な者が数多くいます。そしてオフ・ステージでの未熟な人格は、プレイに表れます。
 やがて彼らは、自分に音楽を創造する能力がないことに気がついて愕然とするものの、いったいどうして音楽的なパワーが、またたく間に失われてしまったのか、その理由には気が付きません。
 あるいは、自滅しないためにどうすれば良いかを分かりつつも、自分の生き方を変えられない弱虫で、一人前じゃないのかもしれません。

 はっきり言えるのは、人格や知識、そして美徳といった資質は、”音楽”に優る、ということです。そして真の”成功”は、それらの資質を高めることができるかどうかにかかっています。その努力を続けてきたコールマンは、我々の誇りです。あなただけでなく、我々仲間全体の名誉です。あなたのおかげで、私を含めた多くの後輩も高い志を持つことができるのです。あなたは”たゆまぬ努力の素晴らしさ”を教えてくれる、生きた手本です。

 私はずっと、この意義ある事を発言せねばと感じていました。
このたびのライブを聴いて、私がなぜあなたのことを強く尊敬してきたのか、その理由がわかりました。
 
 ツアーのご成功をお祈りし、あなたのテナー・サックスの演奏を再び聴くことができるよう願っています。
 
 ソニー・ロリンズ拝

 

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 ロリンズにとってホーキンスは、左の写真みたいな少年の頃、サイン欲しさに、一日中家の前で待ちぶせした大ヒーロー。その純粋な心は、自分の成長につれ、ドラッグに依存したり、音楽的な壁にぶつかり、自分を見失いそうになるたびに、一層深い尊敬と理解に変化していったのかもしれません。

  「英雄は英雄を知る」

 一方、コールマン・ホーキンスは、この年57歳、トミー・フラナガン、メジャー・ホリー、エディ・ロックとレギュラー・カルテットを組み、ライブやレコーディング、テレビなど精力的に活動していました。

 トミー・フラナガンが全キャリアを通じて、最も敬愛したボスがこのコールマン・ホーキンス!トミーがソニーと仲良しだったのは、ホークへの想いを共有する同志愛だったのかも。名盤『Hawkins ! Alive ! at the Village Gate』(V6-8509)が同年8月録音ですから、手紙に書かれたホークの演奏もフラナガン達がバックを務めていたに違いありません。

 

 ロリンズ自ら、敢えてHPに公開したこの手紙は、ロリンズを理解する一つの鍵であると同時に、新しいサウンドを模索するアーティスト達の姿勢を教えてくれる宝の地図なのかもしれません。

 寺井尚之の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、これからどんどんおもしろくなります!乞ご期待!

CU

アルバム・デザインのパイオニア、S・ニール・フジタ

 
   Modern_Jazz_Perspective.jpg先日「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で聴いたジジ・グライスのJazz Labと『Jazz Omnibus』のノネット、余りにも鮮烈なアレンジとプレイが忘れられません。グライスはあの時代のバッパーに珍しく、酒もタバコもクスリもやらず、音楽一筋。著作権意識を持つ明晰なアーティストが、あんなに早く引退したのは何故?興味は尽きず、音楽を聴きながら伝記”Rat Race Blues”を読んでいたら、コロンビア盤『Modern Jazz Perspective』のモダンなジャケット・デザインに目を惹かれました。デザイナーはS.Neil Fujitaと書いてある。日系二世、S.ニール・フジタ、ポップ・カルチャーの隠れたヒーローだ!

 

 

 

s-neil-fujita-circa1960s-294px.jpgSadamitsu Neil Fujita (1921-2010)

 フジタは、ハワイ日系2世、鍛冶職人の息子として、ハワイ、カウアイ島のサトウキビ農園で生まれました。美術の才があったサダミツは単身本土に渡り、ロスアンジェルスで画家を目指します。

 

 

<強制収容所から激戦地へ>

 第二次世界大戦が勃発したのは、フジタが美術学校に通っている時だった。米国市民にも拘らず、彼はワイオミングの強制収容所に送られ、日系人で組織された第442連隊戦闘団に従軍、玉砕した沖縄の悲惨な戦場を目の当たりにしました。歴史的に有名な第442連隊は主に激戦地で活動したために、3割の兵士が戦死している!復員後も、敵国にルーツがあるからと、功を讃えられるどころか、仕事も財産も家も失ったまま不遇の生涯を送った人が多かったと言います。しかし、フジタは逆境に耐えながら、美術学校を卒業、フルブライトでイタリアに留学できるチャンスがあったのに、生活の為と、絵を断念し、グラフィックデザインの道に進みました。 

 因みに、学生結婚で結ばれた奥さんのアイコ・フジタはコスチューム・デザイナー、ブロードウェイのヒット・ミュージカル、”ラ・カージュ・オ・フォール”、”コーラス・ライン”などの衣装を手がけた人、ワダエミよりもずっと早く活躍した人です!
 

<コロンビア・レコード、初代チーフ・デザイナー>

 当時のメディアや広告業界はリベラルな体裁と裏腹に、他の業種より、ずっとずっと白人優位主義、フジタは、JapやNipと呼ばれ、人種的なハラスメントを受けますが、それにもめげず、普通の人の何倍も努力した。その結果、コロンビア・レコードの初代主任デザイナーに抜擢!以降、クラシックからジャズまで、幅色いジャンルで、名盤の「顔」を創っていきました。

 milesmidnight.jpgマイルズ・デイヴィスの『’Round Midnight』もフジタのデザイン、彼にしてはコンサバティブな作風といえるかもしれませんが、夕焼けのようなダーク・レッドのマイルズと、小さなロゴタイプが、音楽のムードをそのまま表していますよね!

 フジタはコロンビアに入社すると、まずデザインルームではなく、レコードの製造工場に直行。そこで数ヶ月間、レコードの製造過程を観ながら、最適なパッケージを考えた。そして、自分が手がける音楽を、聴き漁り、それぞれの音楽に、どんなデザインが適しているのかを、探っていったんです。

 当時のアルバム・デザインは、このマイルズのアルバムのように、演奏者の写真と作品名のタイポグラフィーのコンビネーションで味を出すのが常套手段でした。

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 左は、無名時代のAウォーホールを起用したクラシック作品、BLUENOTEが彼を起用したのと同じ’56年の作。右はエリントンのLP。

 

 

  フジタは、名門コロンビア・レコーのブランド力を出すために、アートを感じさせるるカバーを作った。モーツァルトはソフトに、でもグレン・グールドは写真家を録音セッションに立ち会わせて天才の素顔を捉えた。モダン・ジャズはシャープで知的な現代性を視覚的に表現しよう!それにはアブストラクトなアートを使えばいい!と、自作の絵画をデイブ・ブルーベックのアルバムに使い大ヒット!彼のデザインした『Time Out』で”Take5″は一斉を風靡することになります。

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 この色彩感覚はフジタ的エスニック、ブルーベックが録音前に、アジアをツアーしたと聴き、彼が戦時中、第442連隊で駐留した、カルカッタやフィリピンで目にした色彩を使ってアジア的な香りを表現してみたんだそうです。

 フジタは自作の絵画だけでなく、様々なアーティストや写真家を起用。その中には、全く無名だったアンディ・ウォーホールやベン・シャーンといった20世紀を代表するすることになるアーティストがいました。

 彼が個人的に気に入っているデザインは左の”Time Out”とジミー・ラッシングの『James Rushing ESQ』、ベン・シャーンとコラボした『三文オペラ』だと語っています。

 やがて’60年代になると、フジタはコロンビアに慰留されながらも独立してデザイン事務所を設立。

「私がピアノや他の楽器を弾けたり、歌がうまければ、もう少しこの仕事を続けていたかもしれない。」とフジタは語っています。音楽の真髄を視覚的に反映しきれないジレンマが大きくなったのかもしれませんね。

 

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<ゴッド・ファーザー>

godfatherjpeg.jpegcoldblood.jpg 独立後、ポップ・カルチャーの騎手として、フジタの守備範囲は更に広がります。人気テレビ番組”Tonight Show”や”ローリングストーン”誌のロゴタイプも彼のデザインだし、なにより出版業界で引っ張りだこになりました。

 ジョン・アップダイク、トルーマン・カポーティ、当代の一流作家が、彼のグラフィックに惚れこみ、表紙や装丁に直接指名。著者と相談しながら作品のイメージをに表出する醍醐味は、デザイナー冥利に尽きるものだったようです。米国ではカポーティの「冷血」の表紙が有名。黒枠の囲みと右上のマッチ棒の古い血の色が、ストーリーを物語っています。カポーティの「ティファニーで朝食を」に出てくる日本人「ユニオシ」のモデル(あくまで原作の)はフジタだったのかしら?

 そして、私たちにとって一番おなじみなのは、なんといっても『ゴッドファーザー』(マリオ・プーゾ)ですね!操り人形の糸と、GodfatherのGとdが結ばれたタイポの組み合わせ、これを上回るデザインはない!と、映画にそのまま使われました!

 

<晩年>

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 old_fujita.jpg晩年のフジタは、ゴーギャンやマティスを想起するヌードを多く描きました。それらの作品は、かつてのエッジーなアブストラクトではなく、故郷ハワイや、日本の情緒を感じさせる、温かでしなやかな画風です。

 S.ニール・フジタ、レオノールではなく、日本にルーツを持つ、もう一人のフジタ。私たちの音楽に彩りを与えてくれたポップ・カルチャーの偉人として、もっと覚えておきたい名前です。

CU 

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コールマン・ホーキンス: トミー・フラナガンが観た巨匠

coleman_tommy.jpg  大型連休!いかがお過ごしですか?休日には、あれも読もう、これも観ようと企てても、なかなか思うように行きません。That’s Life。

 5月4日(土)は、正午よりコールマン・ホーキンスの映像講座開催

 3月末にリリースされた、トミー・フラナガンとジャッキー・バイアードの新譜、『The Magic of 2』の付録ブックレットにダン・モーガンスターンの、楽しくてテンポの良い名文が添えられていました。その中に「トミー・フラナガンは、コールマン・ホーキンスが亡くなるまで面倒を見た。」という事も、ちゃんと書いてありました。

 どんな世界でも、いったん落ち目になったら、それまでチヤホヤしていた取り巻きも、何じゃかんじゃ言いながら離れていく。特にDog Eat Dogの音楽や映画の世界はキツい、という話を聞きますが、コールマン・ホーキンスとトミー・フラナガン達の関係は、そんな浅はかなものではなかった。映像に薫る風格を観ると、そういうところも実感できるように思います。

 

  今年の3月に、ジャズ・ジャーナリスト、テッド・パンケンが、トミー・フラナガン・トリビュートとして、1994年に、NYのFM局、WKCRで行ったインタビューのテキストをブログに公開してくれました。嬉しいですね!この中にも、フラナガンが観た”ザ・巨匠” コールマン・ホーキンス像が活き活きと描かれていました。

 5日に映像を観て頂く前に、抜書きしておきます。いずれ、全文和訳して「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で配布したいです。

 

○ ○ ○ ○ ○

 William Gottlieb - Coleman Hawkins and Miles Davis, 1947.jpg

 

 <出会い>

 私がコールマン・ホーキンスと初めて出会った場所は”バードランド”だ。

 実は、マイルズ・デイヴィスが紹介してくれた。彼は人を引きあわせる名人だ。

 マイルズが、あの独特の声で「コールマン、トミー・フラナガンを知ってるかい?」と言うと、ホーキンスは、「ああ、勿論知ってるよ。」と言ってくれた。

 実は一度もちゃんと会ったことがなかったし、私はたいそう驚いた。同時に、そう言ってもらえたのが嬉しかった。どこで私のプレイを聴いてくれたのかは知らないが、彼はデトロイトのピアニストが好きだったから。

 私は、レコードをずっと聴いてきたから、コールマン・ホーキンスのレパートリーは、かなりよくわかっていた。ロイ・エルドリッジと、7thアヴェニューにあった”メトロポール”という店でよく演奏していて、私もそこで一緒に演らせてもらった。それから、JATPで6週間の英国ツアーをした。おかげで、かなりまとまりのよいグループになったんだ。メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)と私のリズムセクションでね。(一番上の写真)

 

<若手の擁護者>

  彼の音楽力に敬服したなあ。まさに、「歩く音楽百科事典」だった。そういうところを、常に目の当たりにしたよ。市販の楽譜を、初見で録音するような仕事をしょっちゅうやったが、コールマンはどんなcolman_h.jpeg音符記号でもへいちゃらだ。瞬時に曲の隅々まで見通すことができて、パート譜が頭のなかに出来上がる。おまけに、そういう録音は1テイク録りだ。優れたテナー奏者というものは、録音の心構えというのがしっかりしていて、そういう人ほど、どんなレコーディングでも1テイク以上録りたがらないということを学んだ。コールマン・ホーキンスもそういう種類のミュージシャンだった。あの有名な”Body and Soul”もおそらく1テイクだよ。二度とはできない演奏だ。

 それにしてもすごい音楽家だ!

 もう一つ私が好きなところは、コールマン・ホーキンスのおかげで、セロニアス・モンクが、あれほど大物になれたということ。コールマンはモンクを引き立て、多くの人に聴いてもらうチャンスを作った最初の後ろ盾だ。ご存知のように、ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィスといった多くの若手にも胸襟を開いて、彼らを有名にした。

 オフ・ステージでは、人間としての手本だった。だらしなくない酒の飲み方から、服の着こなしまで教わった。彼はベスト・ドレッサーだったもの。酒の趣味も最高だ。私は音楽的にも人間的にも、たくさんのことをコールマン・ホーキンスから学んだ。

 

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 めっぽう喧嘩が強くて、ガラの悪い水兵をぶっ飛ばした!ワインやコニャック片手に、サヴィル・ロウで誂えた上等の背広とイタリアの帽子が似合う大親分、男が惚れる男の中の男!コールマン・ホーキンス「楽しいジャズ講座」は5月4日正午より開催!

 CU

ボビー・ジャスパー:サックスの国から来た男

 bjimages.jpeg 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、フラナガンがNY進出後、最初にレギュラーとして活動したJ.J.ジョンソン・クインテットによる名盤群を解説中。

 13日(土)に取り上げるのは、『Live at Cafe Bohemia』(Marshmallow)、『Overseas』の録音が近づく1957年のライブ録音、J.J.ジョンソンとボビー・ジャスパーと、フラナガン、ウィルバー・リトル(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)による一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルの上で、縦横無尽のアドリブが繰り広げられるダイナミズム、すごい!の一言です。

 

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 今回は、このコンボのテナー奏者、また寺井尚之が最も愛するフルート奏者、わずか37才で早すぎる死を遂げたボビー・ジャスパー(1926-63)について調べてみました。

 ボビー・ジャスパー(本名 Robert Jaspar)は、ベルギー東南部にある、フランス語圏の中心都市、リエージュの生まれ。『Dial J.J.5』や『カフェ・ボヘミア』で聴けるジャスパー・オリジナル”In a Little Provincial Town”(小さな田舎町)は、故郷のリエージュに因んだ曲です。日本では、川島永嗣GKなどが活躍するサッカー・チーム、「スタンダール・リエージュ」の街として有名らしい。
 
 元来、サックスという楽器はベルギー発祥、19世紀にアドルフ・サックスというベルギー人が発明したものですから、、ベルギーとフランスでは、サックスを「いろもの」扱いにするドイツ圏に比べ、サックスはずっと「偉い」楽器で、サックスの為に書かれたクラシック曲が沢山あるそうです。同時に、フランスとベルギーは、ヨーロッパの中でもとりわけジャズを愛好する文化がありました。ジャスパーは、そういう土壌から生まれたミュージシャンだったんですね。

 幼い頃からクラリネットとピアノを学び、19才でプロ・デビュー、24才で、パリを拠点として活動しました。戦時中ナチの占領下であった「花の都」では、ジャズは、自由を象徴する芸術、ジャスパーはレスター・ヤングばりのリリカルなブロウイング・スタイルで、またたく間にトップ・ミュージシャンに踊り出ました。

 

<ジャズのゴーギャン>

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 ジャスパーのパリ時代からの友人で、クラシック畑からジャズまで幅広く活躍するフレンチホルン奏者、デヴィッド・アムラムは、彼について「物静かで内向的な性格だが、音楽への情熱と探究心が人並み外れて強かった。」と語っています。ジャズ・ブロガー、マイク・マイヤーズのアムラム・インタビューによれば、ジャスパーは自分と向き合うため、パリに移る前に一旦活動を休止し、一年間タヒチで暮らした時期があったそうです。『自分の目指すサウンドは何なのか?』 完璧なテクニックを持つ演奏家ゆえの悩みなのか?ジャスパーには、ソニー・ロリンズと共通する、とことん内省的な面があったのかもしれません。

 

<ディアリー・ビラヴド>

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 花の都で6年間、ジャズ界の若き第一人者として君臨したジャスパーは、その地で米国人歌手、ブロッサム・ディアリーと出会い’55年に結婚しました。ディアリーは’52年からNYを離れ、ベルリッツのパリ校でフランス語を勉強する傍ら、高級クラブの弾き語りとして活躍、アニー・ロスとジャズ・コーラス・グループ”Blue Stars of Paris”を結成(ダバダバ・コーラスでお馴染み、スウィングル・シンガーズの前身です)”バードランドの子守唄”のフランス語ヴァージョンをヒットさせています。

 ’56年、夫妻はNYに移り、グリニッジ・ヴィレッジに新居を構え、ジャスパーのNY進出が始動。二人の結婚生活は2年で終わってしまいましたが、終生、友達として親しく付き合い、レコーディングも一緒にしています。

 

<ジレンマ>

  ジャズのメッカ、NYの街で、ジャスパーがびっくりしたのが、街が石畳ではなくアスファルトで覆われていること、そして憧れのジャズの巨人達がうようよ居ること、そして何よりもジャズメンの現実でした。多くの素晴らしい芸術家が生活に困っているなんて、ヨーロッパ人のジャスパーには、全く受け容れがたいことだったんです。
 
 パリからやってきた外人テナー奏者にいち早く注目したのがJ.J.ジョンソン、完璧なテクニックと、クリアで、心に響く歌心は、ジョンソンの最も愛するレスター・ヤングを彷彿とさせ、その持味を最大限に生かしたアレンジを整えて、レギュラーに迎え入れ、ライブやレコーディングに起用、北欧ツアーにも同行し、名演を繰り広げたおかげで、ジャスパーは、ダウンビート誌の批評家投票でテナーの「注目すべき新人部門」第一位を獲得しています。それに目をつけた《SAVOY》《Prestige》などのレーベルもこぞって録音し始めました。ジャスパーはJJバンドの若い同僚、エルヴィン・ジョーンズの演奏に大感動し、フランスのジャズ雑誌「Jazz Hot」にエルヴィン・ジョーンズ論を寄稿したほどでした。フランス語の辞書と首っ引きでも、何が書いてあるか読んでみたいですね!

 

<In New York, You’re Just Another Cat>

 

bobby_jaspar1.jpg 「NYじゃ、誰だってただのキャットさ。」ジャスパーが、友人のアムラムやアッティラ・ゾラ―に、ふと漏らしたのがこの言葉。J.J.ジョンソンの許で15ヶ月活動後、ジャスパーはマイルス・デイヴィスのバンドに起用されています。その後、新進ピアニストだったビル・エヴァンスやジミー・レイニー(g)など、、幅広く活動しますが、パリよりもNYの方が、ずうっとジャズでは食えない土地だった。

 最も耐え難いことは、ヨーロッパでは「鑑賞すべきアート」であるジャズメンの演奏中、大声で話をするガサツなNYのお客!余りのリスペクトのなさに堪忍袋の尾が切れて、ヨーロッパに戻り、古巣の仲間と演奏すると、今度は音楽的に満足が行かない。バンドスタンドでは、アメリカのミュージシャンの方が自分の音楽言語を理解してくれる同胞であり、ヨーロッパのミュージシャンの方が、自分の言語を理解しない音楽的外人だった。聴衆のレベルとミュージシャンのレベルが反比例するどうにも困った状況だ。

 そんなジレンマが災いしたのでしょうか?62年、心臓発作で倒れ、心内膜炎という難病と診断されます。唯一生き延びる選択肢は、当時、大手術であった心臓バイパス手術でした。手術に耐えられる体力をつけるためには6ヶ月間の休養が必須と言われ、精神的にも経済的にも困難でしたが、ジャズパーは平静さを失わず、健康なときと変わらない物静かな人柄だったと多くの友人が証言しています。手術は1963年2月28日に行われ、20リットルの大量輸血をされました。それほどの時間と労力をかけたにも拘らず、術後の合併症で、ジャスパーは3月4日に死去。37才の誕生日からわずか2週間後の早すぎる最後でした。 

 

 晩年は、バリトンサックスやバス・フルートなど、様々な楽器を意欲的に取り組んでいたボビー・ジャスパー、どんな楽器を吹いても、そのサウンドには磨きあげた上等のクリスタルみたいに曇りがありません。超絶技巧なのに、温かく心に語りかけてくるプレイは、レスター派とかいったカテゴリーに入れたくない個性的なものだった。 もしも手術が成功していたら、またタヒチで暮らして、新しいサウンドを見つけたのだろうか?

 

 

sawano_jaspar.jpg 土曜日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」をお楽しみに!CU

 

在NYベーシスト、ヤス竹田 名門”カフェ・カーライル”に出演!

 春です! OverSeasニューヨーク支部長、YAS TAKEDAこと竹田康友が、先月”カフェ・カーライル”に出演したという嬉しいニュースが飛び込んできました!

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 写真は随分前にOverSeasで帰国ライブをやった時の竹田くん、長らく会ってないけど今もほとんど変わってないと思います。

 

cafe7984B288DA315.JPG“ヴィレッジ・ヴァンガード”や”カーネギー・ホール”に出演した日本人ミュージシャンは多くても、”Cafe Carlyle”に出演した日本人は竹田君が初めてかもしれません、
  “Cafe Carlyle”は億ションの立ち並ぶマンハッタンのセレブな街、アッパーイーストサイドのホテル”ザ・カーライル”にあります。このホテル、古くはリチャード・ロジャーズが常宿とし、JFケネディがマリリン・モンローと逢引したという由緒正しき老舗。パリの香りが漂うマルセル・ヴェリテのロマンティックな壁画が印象的な”Cafe Carlyle”は、ジャズ・クラブというよりは、キャヴィアを肴にドンペリをさり気なく傾けながら、セレブなショウを楽しむ高級キャバレーといった趣。

 かつてコール・ポーター・ソングスの第一人者と言われたボビー・ショート(p.vo)が看板スターで、現在は毎週月曜日、”ニュー・オリンズ・ジャズ・バンド”でクラリネットを吹いているのがウディ・アレン!(『ハンナとその姉妹』という映画の中にカフェ・カーライルのシーンがありました。)!NFL(全米アメフト・リーグ)開幕の夜には、マライヤ・キャリーがイヴニング・ドレスで現れて”サマータイム”を飛び入りで歌ったり…。私なんか裏口からでも入ったことのないセレブなクラブです!そんなら来週行こうと思ってるあなた、ちゃんと上着を来て革靴履いていってくださいね。

 

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 ヤス竹田がカーライルに出演したのは3/21-30、伝説的な弾き語りスター、ジョー・トンプソン・トリオの一員として白羽の矢が立ちました。チャンスが到来したのは、当初余予定のベテラン・ベーシスト、カルヴィン・ヒル(ジュニア・マンス・トリオでOverSeasに来演したことがあります。)の都合がつかなくなったからで、デトロイトといえ、カルヴィンといえ、不思議な縁を感じます。

 トンプソンはブラック・ビューティのさきがけとしてレナ・ホーンと縁の深い人。’50年代にデビュー、フランク・シナトラにその実力を認められメキメキ頭角を現しましたが、クライスラーの重役に見初められ結婚し専業主婦となり、3人の息子をプリンストンやコーネルといった一流大学に入学させてからカムバック!ライブ主体のキャバレー・シンガーゆえに、日本では余り知られていませんが、ライオネル・ハンプトンに絶賛されるなど、未だ美貌と人気が衰えない文字通りの「美魔女」です。

下の写真が、若かりしミス・トンプソンとトニー・ベネット。

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 リハーサルに行ったYAS竹田は、年齢にかかわらず、ミス・トンプソンのリズムがしっかりしているので、演り易いやん!とびっくりしたそうです!プロは凄いね。

 リハーサルで演らなかった曲をいきなり始めたり、リハとは異なるキーで演ったりというハプニングも、NYで年輪を重ねたYAS竹田には想定内、ヤスヤスと楽しく共演できたそうです。! 公演後は 「ぜひ次回も一緒にやって欲しい」と言われ、双方実りある楽しい仕事になったようです。

 

   日本で、田村翼(p)トリオのレギュラーなど大阪ジャズの第一線で活躍後渡米、ニュー・スクールからクイーンズ・カレッジで特待生としてジミー・ヒースやサー・ローランド・ハナに師事、学生オールスター・バンドで渡欧、ジャッキー・バイアードやブラッド・メルドーなどジャズ最前線から、NYの名ダンスバンド”Joe Battaglia &the NY Big Band”のレギュラーまで、活動範囲はジャズ・クラブから、フォー・シーズンズまで、幅広くギグを続けながら20余年が経ちました。

 ハッタリがなく、地道で着実な仕事ぶりで大きな信頼を得るというのは、ある意味日本的なジャズマンなのかもしれない。もっと注目されて良いNYの日本人ベーシストだと思います。この人、寺井尚之と一緒で、HPもないしFBもないアナログな人です。(追記:こう書いたら、竹田くんから、「最近はツイッターを始めたし、寺井さんと一緒にしないでほしい」と断固としたクレームが来ましたが・・・)帰国したらライブやって欲しいのに、長らく帰ってこないNYのベースマン、YAS竹田をこれからも注目していきたいと思います。皆さんもどうぞよろしく!