ジジ・グライスは何故ジャズを捨てたのか?(前編)

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Gigi Gryce(1925-1983)

 ”Jazz Lab“やオスカー・ペティフォードOrch… ここ数ヶ月、「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で、ジジ・グライス関連の名盤を聴いてきました。4/4拍子が、だしぬけに3/4に捉えなおされるメーター・チェンジや転調によるカラー・チェンジ!グライスのクリアでダイナミックなアレンジは、受講のお客様と共に、「あっ、これはきっとジジの編曲だ!」と、わかるようになりました。
  ジジ・グライスがジャズ・シーンの第一線で活躍した期間は10年あまりと驚くほど短いのです。引退後はイスラム名を名乗り、教師として第二の人生を送った。そこで彼の過去を知る人はほとんどいなかったんです。謎に包まれた彼の人生の状況証拠を集めた力作、”Rat Race Blues”( Noel Cohen, Michael Fitzgerald著)という伝記が出版されていますが、残念ながら未邦訳。

 ジジ・グライス、その引退の真相は?数奇な人生の断片を。

理論派秀才 陽の当たる場所に
 
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  Gigi Gryce(本名 George General Grice Jr.) は、1925年、裕福な家庭の次男坊として、陽光降り注ぐフロリダ州の北西端にある港町ペンサコーラで生まれました。しかし8才のときに、父が心臓病で死去、取り残された家族の収入は途絶え、家は没落します。

 一家は、山の手からゲットーに移り、貧困層のための福祉プログラムのおかげで、十代でアルト・サックスに出会いました。当時のジジは、無口で内向的な少年で、学業成績も良くなかったといいます。

 1944年、海軍入隊。歴史に名高いシカゴ海軍バンドでビバップの洗礼を受け、チャーリー・パーカーに心酔、海軍の盟友たち、クラーク・テリーやジョン・コルトレーンと、バードを目指して切磋琢磨しました。

 2年間の兵役の後、グライスはコネチカット州ハートフォードでプロ活動。そこで無名時代のホレス・シルヴァー(p)に出会います。

 自分のサウンドを構築し、第一線の音楽家になるには、ビバップを越える音楽を志すには知識が必要だ!と、退役軍人の学費免除、俗に言うGI Billを利用し、ボストン音楽院で学士取得を目指す傍ら、ジャキ・バイアードやクインシ―・ジョーンズと親交を結びました。その間、パリに入学し、ナディア・ブーランジェやアーサー・ホーネッガーたち、20世紀を代表する音楽教育者の薫陶を受けながら、留学のストレスでノイローゼになり帰国した、といわれていますが、真偽は不明です。

 ブーランジェといえば、バーンスタインからバレンボイム、ピアソラまで、ジャンルを超えた巨匠たちに「音楽の視点」を教えた教育の達人、ドナルド・バードや親友クインシ―・ジョーンズも門下生です。

 同年、ジャズ界のスター、スタン・ゲッツがグライスの曲を気に入ってごっそり録音、第一線への道がひらけます。かつての盟友、ホレス・シルバーの推薦でした。 

 丁度、この時期、グライスはイスラム教に改宗、バシール・カシム(Basheer Qusim)というムスリム名を取得し、同時に、芸名を(Gigi) GriceからGryceに変えています。

 翌1953年、タッド・ダメロン楽団で活動。憧れのダメロンの編曲法を目の当たりにした後、ライオネル・ハンプトン楽団に入団、クリフォード・ブラウン、後のパートナー、ベニー・ゴルソン、アート・ファーマーなど、ハードバップを背負って立つスターたちと海外ツアーし、パリでレコーディングも果たしました。

 上の写真はクリフォード・ブラウンと、二人の共通点は、酒やクスリをやらないクリーンなジャズメンだったこと。 

<著作権意識>

 

tommy&Thad.JPG 1954年、アート・ファーマーとタッグを組み活動後、パートナーをドナルド・バードに代えて、双頭コンボ、Jazz Labで目覚しく活動を始めます。デューク・エリントンを別として、ミュージシャンの作曲作品に発生する「著作権」の意識は、この世代から強くなりました。アカデミックな「知識」世代がジャズに登場したわけですね。

 ジャズ史上初めて、個人的な出版社を設立したミュージシャンが、このジジ・グライス。それまでは、誰も彼もこぞってデューク・エリントンが帰属するMills Musicに著作権を委任した。だってエリントンを見習っておけば間違いないもん、というブランド志向の軽いノリ。さもなくば、レコード会社が録音曲の著作権を自動的に管理して、「おまけ」感覚で、忘れた頃にミュージシャンに支払うか、あるいは担当者がネコババして知らんぷりというケースも少なからずあったといいます。

 1955年、楽譜出版社を設立したグライスニベニー・ゴルソンも参入、自分たちのオリジナル曲や、ジョン・ヘンドリクス、ボビー・ティモンズといった仲間のミュージシャンの版権も管理して、レコード業界を震撼させたのでした。

 
 ビジネス感覚にたけ、楽器の腕前はチャーリー・パーカー直系の名手、初見の譜面もなんなくこなす読譜力と、クラシック音楽の基礎の上に生む斬新なアイデア!グライスは、チャーリー・ミンガスやオスカー・ペティフォード、アート・ブレイキーといった、ウルサ方に重宝され、めきめき頭角を現します。

  

<天才のストレス>

 

Gigi Gryce

Gigi Gryce (Photo credit: Wikipedia)

 

  クスリどころか、酒も煙草もやらない超堅物、才能も実力もあり、版権も確保したのに、なかなか金持ちなれないのがバッパーならでは!著作権事務所を作る手続きには、多額の弁護士費用が必要だったからかも知れません。

 グライスの妻は、元々ジャズ・ファンというわけでもないカタギの女性、たまたまジャズクラブに行ったとき、グライスに見初められた。彼女の名前はエレノア・グライス、’53年に結婚、社会保障庁に努め、夫のジャズライフを懸命に支えますが、子供が生まれると、共働きというわけにいかない。そこで、たちまち生活苦に。グライスは一時期、食堂でコックのアルバイトをしながら生活費を稼いでいたほどです。

 そんなストレスのためか、あるいは子供の頃、父の死や、貧困で味わったトラウマが原因なのか、物静かな性格とは裏腹に、グライスには異常に疑り深く、被害妄想的な性癖があった。Nica’s TempoやSmoke Signalのスカっとしたサウンドからは信じがたいことですね。

 例えば、自作の譜面を演奏者に配って本番を終えると、翌日も同じ曲を演るのに、譜面を各ミュージシャンから厳しく撤収する。そんな細かいところがあり、おまけに酒も一緒に飲まないから、心底打ち解けられる仲間は少なかった。アート・ファーマーがグライスとコンビ解消したのは、そんな理由だったそうです。

 50年代の終わりが近づくと、グライスの人生行路は、鉄壁の音楽と裏腹に、大きくほころんでいきます。

 負けるなジジ・グライス!

 続きは次週・・・

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「ジジ・グライスは何故ジャズを捨てたのか?(前編)」への2件のフィードバック

  1.  tamae さまこんにちは.
     初コメです (笑)
     Gigi の曲で “Blue Lights” は大好きな曲です.
     ”When Farmer Met Gryce” 、 “Jazz Lab” 、 ” The Talented Touch / Hank Jones” などでも演奏しているように彼の代表曲ですが、ボクが一番好きな演奏は “Blowing In From Chicago / Clifford Jordan” だったりします (笑)
     とてもいい曲書いていますよね.
     表記は “Blue Light” や “Blue Lights” だったりしますが、Nat King Cole ほどのこだわりはあったのでしょうか・・・・・・・

  2. la_belle_epoqueさま、こんな奥地にようこそ!
     
     表記の件ですが、ジャズ・レーベルはほんとにいい加減!ミュージシャンの「こだわり」がキングコールのように反映されることは難しかったのではないでしょうか。”Blue Lights”だったら、色んな「青」の相が重なる美しさがイメージできるから、やっぱり複数形だったのでは?と推測してしまいます。いろんな名曲ありますよね!
     私の好きな曲といえば、寺井尚之がよく演奏するので、Nica’s Tempoが一番親しみがあります。MinorityやSocial Call、どれも一緒にハミングしたくなるなあ・・・
     これからブログ原稿書かなければ・・・空クジもいっぱいあるエントリーですけど、またなんか読んでもらえる値打ちのあるものが書ければラッキーです。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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