ジジ・グライスは何故ジャズを捨てたのか?(後編)

*ブログにコメントが入らず、ご迷惑おかけしていましたが、昨日うまく修復してもらったのでコメントが入るようになりました。海外からも大丈夫!どうぞ宜しくお願い申し上げます。


grycebook.jpg 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で聴いたジジ・グライスとトミー・フラナガンの共演盤は’57年の作品ばかり。この年がグライスにとって最も実り多い年でした。

 尊敬するチャーリー・パーカーは自宅にしょっちゅうやって来て、ギグがあるとグライスのアルトを持っていく付き合い。故クリフォード・ブラウンとは、ドラッグ+アルコール・フリー同志で、グライスはブラウニーの息子のゴッドファーザーになった。

 ドナルド・バード(tp)との双頭バンド《Jazz Lab》で名門コロンビアを始め、様々なレーベルからアルバムをリリースし、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに楽曲を提供したグライスは、この年紛れもなくハードバップの寵児だった。
 でも、この後の足跡講座にジジ・グライスが登場することはありません。フラナガンがコールマン・ホーキンスと、名作『Good Old Broadway』を録音した1962年には、グライスの名前はジャズ・シーンから完全に消滅していました。

 

プレスティッジ創業者、ボブ・ワインストックは言う。

「グライスは、ファンキーじゃなかったからね。僕もたくさんプロデュースしてやったけど、うまくいかなかった、流行とズレていたんだ。」

 ほんとかしら?

 <家庭生活>

gigi.jpg  ジジ・グライスが、いわゆる「一般女性」エレノア・シアーズと結婚したのは1953年。トランペット奏者、Idrees Sulieman(イドリース・スリーマン or イドレス・スーレマン)のガールフレンドだった姉の紹介で知り合った。(スリーマンのトランペットは、土曜日の足跡講座に登場する『The Cats』で要チェック!)”Sulieman”もイスラム名ですが、グライスもちょうどこの頃イスラム教に改宗し、Basheer Qusim(バシール・カシム)というイスラム名をもらっていました。人種差別を禁ずる預言者ムハンマドの教えに共感し改宗する黒人は多い。アーマッド・ジャマルは言うまでもなく、ハードバップ時代になると、アート・ブレイキー、ケニー・ド-ハム、ジャッキー・マクリーンなど極めて多くのスターが回教徒になっていたのですから、キリスト教の女性と結婚するのも決して珍しいことではありません。
 でも女性の私から観ると、グライスは少し思いやりが足りなかったのかも… まず結婚式の当日、仕事優先のグライスは花嫁を放ったらかしてギグに行っちゃった。いくら地味婚でも、それはアカンでしょう!ここからボタンの掛け違い。さらにイスラム教徒のグライスはキリスト教の行事を否定した。夫がポークを食べなくてもいいけれど、クリスマスや感謝祭といった家族の集まりに参加しないとなると、キリスト教の妻は困りますよね。それでも自分の選んだ亭主にエレノアは尽くした。社会保険庁に勤め生活費を補填します。やがて長男誕生、グライスはその子にBashirというイスラム名を付けます。エレノアは育児のために仕事を辞めざるを得なかった。収入が激減したからこそ、父親に成った喜びと責任感がグライスの音楽を充実させたのかもしれません。それが豊穣の1957年なんです。

 
<不幸な出来事>
 

 打って変わって、翌年は悲しみの年になった。次男が生後わずか15日で医療ミスの為に急死してしまいます。エレノアは悲しみのあまり体調を崩し、しばらく別居した後、翌1959年に今度は女の子リネットを授かります。でもこの頃からグライスの仕事は減って行きました。被害妄想的な性癖が強くなり、友人や家族を不必要に疑うようになってしまいます。
 エレノアは昼は育児、夜は夫に子供を託して銀行のデータ処理する夜勤の仕事に就き、必死になって働きますが、夫ジジは妻も信じられなくなり、自分の殻に閉じこもってしまいます。家の中に囲いを作って、家族から離れた。在る夜、3時に帰宅したエレノアを締め出します。

 そんな夫に二人の子供を託していても大丈夫かしら?悩んだ彼女は社会福祉事務所に相談、ソーシャルワーカーに、子供を連れて家を出なさいと勧められ、別居を決意。

 繊細なグライスが、極端な被害妄想に陥ったのは、それなりの理由がありました。

 

<著作権会社の崩壊>

quincy_jones0.jpg グライスが音楽出版会社”Melotone Music”を設立したのは1953年で、黒人ミュージシャンの先駆者です。会社設立に必要な弁護士費用もグライスの生活を圧迫したのに違いありません。彼に倣い著作権を自己管理したミュージシャンは、グライスの仲間だったホレス・シルヴァー、クインシー・ジョーンズ、ハンク&サド・ジョーンズ兄弟などですが、グライスが彼らとと違うのは、自分だけでなく黒人ミュージシャン全員の権利を守ろうしたところ。「著作権」という権利が、ミュージシャンにとって当然のもので、それは将来にわたって大きな利益と安定をもたらすことを仲間に啓蒙し、他のミュージシャンの著作の管理も請け負った。

 「著作権」は摩訶不思議な利権で、いわばジャズ業界の伏魔殿、レコード会社だけでなく、マフィアのような反社会的組織も一枚噛んでいたらしい。マイケル・ジャクソンの死が、ビートルズの著作権に関係があるという憶測が飛んだのも記憶に新しいですよね。そこで思い出すのが「”Walkin'”の作曲者」、ということになっているリチャード・カーペンターなる人物。おたまじゃくしも読めないこの男は、ジャンキーのミュージシャンから、僅かな現金で曲の権利を買ってやるともちかけ、拒否しようものなら、脅迫して権利を手に入れていたということを、ずっと前にブログに書きました。カーペンターのような連中なら「なめた真似しやがって、ジジの奴、ただじゃあおかねえぞ、覚えてろ!」と思ったって不思議じゃない。
 ハードバップの名曲がスタンダード・ソングになった時代、「搾取と闘うミュージシャン」は、グライスが想像していた以上に脅威だったのかも。グライスと同時期に出版会社を作ったラッキー・トンプソンがヨーロッパに渡ったのも、著作権に手を出したのが原因で、仕事をホサれたからと、『Rat Race Blues』の著者、Noel Cohenは断言しています。類まれな才能を持つジャズの巨人、ラッキー・トンプソンの晩年はホームレスだった・・・

 グライスは”Melotone Music””Totem Music”と2つの会社を設立し、当時大変高価だったコピー機まで購入し、著作権の行使に努力しました。グライスが質素な生活を強いられたのは投資のためだったのかもしれない。でも、音楽はプロでも、ビジネスはド素人だった。会社を立ち上げても、専従スタッフを雇う運営資金も、妨害をかわすノウハウもなかった。
 結局、パートナーのベニー・ゴルソンも、グライスの被害妄想に振り回されてパートナーを降り、”Moarnin'”を作曲したボビー・ティモンズや、”Comin’ Home Baby”を作曲したベーシスト、ベン・タッカーというドル箱ミュージシャンが次々と解約し、1963年に会社は倒産。ミュージシャンの権利を守るどころか、却って利益を損なう結果となってしまった。
 ベニー・ゴルソンの証言では、ある日、事務所に顔を出したら、一見してヤクザと分る連中が押し入って、契約ミュージシャンの連絡先をチェックしていたといいます。

<第二の人生>

BasheerQusimSchoolx053.jpg 結局、グライスは見せしめとなり、ジャズ界を追われた。妻子も去り、財産もなく、仕事もなくなったグライスは、失意のうちに人生を終えたのか?

 ところがどっこい、そうじゃなかった!会社とジャズ界から解放されて、心的なプレッシャーがなくなると、彼はイスラム名、バシール・カシムを名乗り、学士号を生かし、中学の非常勤教師として再出発した。教科はなんと数学!!そして1974年には、NYブロンクスの小学校に正規採用され、亡くなるまで、音楽を教え教職を全うしました。

 ブロンクス区立第52小学校は、有色人種が半分以上で、裕福でない子供の多い小学校、カシム先生は、合唱団の顧問となり、ジャズ・ミュージシャン時代の手腕を生かし、あまりやる気のない子どもたちに愛情と厳しさを込めて指導しました。バラバラだった合唱隊は、ステージマナーも、ハーモニーも、南部の名門クワイヤーに匹敵するほどに見違えてPTAも教育委員会も驚愕するほどの実力を得て、地域イベントに引っ張りだこになった。子どもたちのユニホーム代など、色んな経費は、しばしばカシム先生のポケットマネーで賄われていたそうです。 地域に受け入れられたカシム先生は、1972年に職場結婚しましたが、第二の妻にも、過去の自分についてはほとんど語らなかった。学校関係者で彼がジジ・グライスと知っていたのは、補助教員で元ミュージシャンだったピアニストと教育委員の元ボーカリストだけだったそうです。NYの街で、ばったり昔のジャズ仲間に会っても、彼は挨拶するだけで足早に去っていった。

 彼は独自の音楽システムを開発し、教育委員会を説得し、通常の授業に役立てています。それは現在各地の音大で使用されるカリキュラムと似たものであったそうです。忍耐強い教育者として、生徒や父兄に大変敬愛されたカシム先生は、1980年に前の妻エレノアと和解、自分の子どもたちとも交流できるようになりました。体調を崩し故郷フロリダ州、ペンサコーラで心臓発作の為死去。彼の死後、彼が教鞭を取った区立小学校は、カシム先生を記念して”PS53 バシール・カシム小学校”と校名変更し、現在に至る。

 ここまでは、ジジ・グライス伝『Rat Race Blues』や、色んなアーカイブに点在するアート・ファーマー、ベニー・ゴルソン達のインタビューを参考にしました。ジジ・グライスについて徹底取材して「Rat Race Blues」をまとめた伝記作者、Noel CohenとMichael Fitzgerald両氏の努力に敬服です。

 

tommy&Thad.JPG さて、ジジ・グライスの数奇な生涯から、私たちは何を学ぶべきなのでしょう?アレンジャーとして、転調や拍子の変化を使いながら、”Lover”を”Smoke Signal”に変えてみせた鮮やかな「時間」の魔法を、自らの人生に応用したのかも知れないですね。

 そんなことを想いながら、グライス作品を聴くと、またまた面白いものですね!

 毎週第二土曜は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」 どうぞよろしく!

 

「ジジ・グライスは何故ジャズを捨てたのか?(後編)」への6件のフィードバック

  1. tamae様、今晩は。
    待ちに待った続編、とても興味深い内容でした。
    前週は、残念なことにコメント欄に反映されないでしたが、今日はもう一度トライしますね。
    tamae様の講義は本当に読んでいるとぐいぐいと惹きつけられます。
    次が早く読みたいと思わずにはいられませんでした。
    先週ダウンタウンに行ったら、ジジのCDセットが売っていたので買うかどうしようか迷っていたのですが、今度行った時に是非購入しようと思います。このトピックを読んだらますます聴きたくなりました。

  2. クミさま、忍耐強くコメント入れてもらって平身低頭、ありがとうございました。ちゃ~んと入っておりました。
     流麗なグライスのアルトや、タイムやハーモニーを自由自在に変幻させる手法は、頭でっかちなところがなくて、冴え冴えした気分になります。そんな人が何故被害妄想に追い込まれたのか?当然の権利を行使して、めった打ちにされたのか?色んなことを考えさせられました。
     音楽でも美術でも落語でも、なんでもそうだと思いますが、予備知識なくても楽しいし、色々知ると、また楽しい!
     私も一度トロントでジャズが聴きたいです~
     クミさん、ありがとうございました。

  3. 興味深く読んでいたら、途中から小学校教師になるという展開で驚愕!。小学校教員の私には二重に感慨深いお話でした。グライスに親しみが湧きました。

  4. ハナ&ムラーツ同志、ポロロンパさま:お久しぶりです!
     グライスの物語、童謡をお作りになって、小学校で日々子どもたちを教えておられるポロロンパ先生なら、グライスの第二の人生を、私よりもずっと身近に捉えられますよね!
     教師としてのパートも、もっとくわしく書けばよかったなと悔やまれます。  合唱隊には、お辞儀の仕方やアクションなど、隅々まで気を配ったパフォーマンスができるように指導していたというようなことが書いてありましたが、伝記には残念なことに、教え子たちの証言がありませんでした。
     離婚後、自分の子供達に会うことが叶わなかった父親の思いと、教師としての熱意には、何か関係するところがあったのでしょうか?
     また色々教えて下さいね。コメントをありがとうございました!

  5. はじめまして、素晴らしいブログに当たることができて、大変感謝しております。
    わたしは広島で演奏活動をしておりますが、このように大変に平易かつ、詳細に足跡を辿り、考察をしていらっしゃることに感銘を受けました。
    是非、今後とも勉強させていただけましたらと思っております。
    差し支えありませんでしたら、facebook などにリンクをさせていただけましたら幸いです。
    よろしくお願い申し上げます。

  6. 藤井様、はじめまして!HP拝見しました!広島を中心に大活躍されているのですね!いつか演奏聴かせてください。
     
     「勉強」なんてお恥ずかしいです。音楽が大好きなので、一緒に楽しんでいただければ嬉しいです。FBでもぜひお友達になってください。
     これからどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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