映像で観る Tommy Flanagan Trio!

gm30.jpg ムラーツのHPより 左からTommy Flanagan, George Mraz (b), Bobby Durham (ds)

 来る6月6日、Jazz Club OverSeasでトミー・フラナガン・トリオの貴重映像鑑賞会、「楽しいジャズ講座」を開催します。


Village_Voice_ad.jpg メンバーはジョージ・ムラーツ(b)、ボビー・ダーハム(ds)、場所は独ケルンの名門ジャズクラブ《Subway》。

  ムラーツは長年のレギュラー・ベーシスト、ダーハムは’70年代、エラ・フィッツジェラルドのバンドで長らく共演、’75年には、共にエラと来日ツアーを行い、その雪の京都公演の際に、寺井尚之は初めてフラナガンに弟子入り志願を直訴したのでした。’80年代後半、フラナガンはダーハムを擁したトリオでたびたび演奏していて、Village Voiceの切り抜きは’89年の春のものです。


  ダーハムの凄いところは、ギラギラとダイナミックでありながら、緩急自在!合わせるところは寸分違わず狂わない、フィラデルフィアらしい不良っぽさ、そのかっこよさは黄金のミドル級チャンピオン!

そこに、パルスとラインを兼ね備え、優美でありながらも骨太で強靭なムラーツのベース、鮮やかなコントラストを構成するリズム・チームを縦横無尽に操るフラナガンの凄さ、そのミュージシャンシップ!まさに豪華絢爛、圧倒的なピアノ・トリオの世界を、この目で観ることが出来ます。

トリビュート・コンサートでしか聴けない『デューク・エリントン・メドレー(Elligntonia)』は必見、必聴!

=演奏曲目=

 1. Raincheck (Billy Strayhorn)

2. Glad To Be Unhappy (Richard Rodgers)

3. Beyond The Bluebird  (Tommy Flanagan )

4. Verdandi /.Mean Streets  (Tommy Flanagan )

5 .Medley: Ellingtonia 

6.Bitty Ditty (Thad Jones)

7. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Dizzy Gillespie, Gill Fuller)

 

 折しも寺井尚之の誕生日、記念すべき映像をぜひJazz Club OverSeasでご一緒に!

「楽しいジャズ講座」トミー・フラナガン・トリオ 

講師:寺井尚之

日時:6/6 (土) 7pm開講 
受講料2000円(税別)
関連サイト:http://jazzclub-overseas.com/jazz__event.html

 

クラーク・テリーの福音書: ‘Keep On Keepin’ On’ を観て

 2月に94才で天寿を全うされたトランペットの神様、CTことクラーク・テリー、その晩年を描いたドキュメンタリー映画が昨年、様々な映画祭で賞を取り話題になりました。残念なことに日本未公開なのですが、持つべきものは友!米国の友達が「必見!」とDVDを送ってきてくれました。

  

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Keep On Keepin’ On()

 監督:Alan Hicks

出演:クラーク・テリー、ジャスティン・カウフリン、クインシー・ジョーンズ、ビル・コスビー、ハービー・ハンコック、ダイアン・リーヴス

製作: クインシー・ジョーンズ

   ポーラ・デュプレ・ペズマン

 

<あらすじ>

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   この映画は、テリーの輝かしい名演が随所に配置されているものの、音楽伝記映画じゃない。90才を越え、糖尿病の合併症と闘いながら音楽と共に生きるCT(クラーク・テリー)と、彼の手厚い指導を受けながら、悩み、稽古し、成長していく20代の盲目のピアニスト、ジャスティン・コーフリン(Justin Kauflin)師弟の姿を4年間に渡って捉えたドキュメント。

 師匠(mentor)と愛弟子(protégé )が、お互いの苦難に打ち克つエナジーになる、双方向のベクトルを、とても自然に描いていて感動しました。

 師弟の周りには、献身的な看護に明け暮れるテリーの妻、遺伝的な疾患で幼い時に全盲に成った息子を思いやるジャスティンの母親、けなげで表情豊かなジャスティンの盲導犬がいて、映画の中程から13才の時にCTに師事し、現在は音楽シーンのドンとなった’Q’ことクインシ―・ジョーンズが大きな役割を受持ちます。 CTの手厚い指導にも関わらず、弟子のジャスティンは、盲目28SUB-SNAPSHOT-superJumbo.jpgというハンディキャップがあり、経済的にも、日常生活の面でも、NYで生活できなくなって、ヴァージニアに帰郷します。そんな彼に「モンク・コンペの準決勝に来られたし」と連絡が入ります。CTは、練習がうまく進まずナーバスになる彼を、自宅から様々な手段で励まし続けるのですが、現実は甘くない。結局敗退…「CTに一体なんと言えばいいだろう…」と深く悩むものの、師匠は「それも勉強だ。」と一笑に付します。或る日、彼がアーカンソーの自宅にCTを見舞うと、偶然か、或いは生き神様の思し召しか、折しもQことクインシ―・ジョーンズが自分で車を運転し、みかんのいっぱい入ったビニール袋を片手にフラッとやって来た。チャンス到来!すかさずCTはジャスティンに演奏させてQに聴かせる。つまり最初の弟子と現在の弟子がCTの元で出会うのです。 Qはジャスティンの演奏を気に入って自分のツアー・バンドに加入させます。バンドでモントルー・ジャズフェスティバルに出演したジャスティンは、CTに捧げるオリジナルを演奏し、満員の聴衆から大喝采を受ける。”For Clark”とMCするクインシーの言葉は、曲目紹介でもあり、「CTへの義理は果たしたぞ!」、という独白のようにも聞こえるのです。

<弟子が撮影した!>

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 クラーク・テリーがジャズの生き神様とは知らない人も、ジャズさえ知らない人でも、大変見応えのある映画になっていて、多くの映画祭で賞に輝きました。

 意外だったのは、愛弟子のピアニスト、ジャスティンが、どうやら日本人の血を引いているらしいこと。お母さんのインタビュー場面で後ろに日本人形が飾ってあって、調べてみたら彼女は東京生まれ、そのお母さんは広島出身の日系の方のようです。アジアの血を引くミュージシャンが偉大なるCTの愛弟子とは嬉しいですね!


    CTの偉大さを知っていると、病院で主治医に両足切断を勧められ絶望する様子や、朝の4時半までベッドから稽古をつけている姿など、よくもまあここまでプライベートな撮影を許したものだと、半ば呆れ、驚愕するほどでした。映画の後で、付録に付いていた監督のインタビュー(聴き手は往年の二枚目スター、アレック・ボールドウィン)を観て、やっと納得しました。この映画はほとんど初心者の手作り、撮影、監督、制作すべてアラン・ヒックスというオーストラリア人の男の子の作品。なんとこのヒックス青年、ジャスティンの先輩格に当たるCTの愛弟子ドラマーだったんです!オージー・イングリッシュで爆笑連発のこのインタビューによると、ヒックスはジャスティンが入門する数年前からCTに師事し、CTは彼を自分のバンドに加え、世界中のギグで共演していて、ツアーの付き人として身の回りの世話もさせていた人だったんです。だから、CTの家族同然、身内として自宅でしょっちゅう寝泊まりしていたわけで、深夜のレッスンや病室も、自由に撮影するお許しをもらえたわけ。映画ファンではあったけど、作る方は全く素人だったから、「誰でも出来る映画作り」みたいなマニュアル本を読んで、バイトして資金を貯めては撮影し、お金がなくなるとオーストラリアに帰り、CTの弟子という肩書でギグを取り、またお金が貯まると渡米して撮影した。

 「照明器具はウォールマートで買いました。」と言うのでまた爆笑!そのうちクインシ―・ジョーンズがCTの自宅に来て撮影を知り、プロデューサー役を買って出ててくれた。おかげで、サウンドトラックの著作権など、もろもろの問題が解決して、公開に至ったというわけ。 それどころか、ロバート・デ・ニーロが協賛するNYトライベッカ映画祭の新人監督賞までゲットした。何もかも、生き神様CTのシナリオだったのかも・・・

    元々ジャスティンをCTに内弟子として紹介したのもこのヒックス、理由はもちろん映画を撮るためではありません。

「CTの病状が悪化して失明の危機があると聞いたので、きっと、盲目のジャスティンが一緒に居れば、彼の力になってくれると思ったんです。」 

TERRY-master675-v2.jpg さらに、全サウンドトラックは、全てCTが日常口ずさむ歌の録音ヴァージョンだった。

「CTはいつも歌っていました。音楽はどんな時も彼と共に在ります。苦しい時ほど彼は歌うんです。病気で全身激痛に襲われると、ベッドでいつも”Don’t Worry About Me”(僕のことは心配ないよ)を歌っている。彼自身が「音楽」なんだ。映画の挿入曲は、彼が歌うメロディーを検索してレコードを見つけ、それを使っただけ。」

   当初、彼の撮影プランは、CTだけがテーマだった。ところが、撮影時も、そうでなくても、ジャスティンがいつも一緒で稽古を付けてもらっている。それなら二人共、テーマにしちゃえ!ということになり、結局、それが作品として成功する鍵になった。

<金言の宝庫>

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  テリーは、病床から様々な弟子達に愛情の籠った指導を続けます。それは、アカデミックなレッスンではなく、シンプルな16分音符のフレーズを口移しで伝え、自分と同じようにスキャットさせてから、各々の楽器で演奏させ、そのフレーズを発展させていく、その繰り返しによって、スイングするアクセントや、和声の展開が自然に身についていきます。彼は、夜を徹して行うそれらの個人レッスンに授業料を請求することはただの一度もなかった。それどころか、奥さんの心の籠る夜食付き!

 お弟子さん達はラッキーであると同時に、彼の恩義に一生かけて報いる御役目を仰せつかった事になります。この映画が捉えたCTの言葉は、ジャズに関わる人間にとって正に福音書、ジャズの生き神様からの金言だ!この映画のタイトル”Keep On Keepin’ On (しっかりコツコツやり続けなさい)”もそのひとつ。映画通でもない私が、映画を紹介したのは、これが書きたかったから。

・   「シンプルこそ、最も複雑な形式だ。私はそのことをデューク・エリントンに教わった。デュークは実にビューティフルな人間だった。あれほど誠実な人に出会ったことがない。」

・   私は老いて醜い。だから、せめて魂だけは美しくありたいと思う。

 ・   ジャスティンへのメッセージ人生には挑戦がつきものだ。判っているだろうけど、君の心が大きな力になる。その心を前向きにするのが大事だ。そうすれば、私が学んで来たことを、君自身が学べる。私は君の才能を信じる。君を信じているよ。それだけは覚えておいて欲しい。

 *CTは同様のメッセージを、何百という後輩たちに書き送ったと、奥さんが証言していました。

・   私の夢の大部分は叶えられた。この年になって夢は変わるものだと気がついたんだ。今の夢は、若いミュージシャン達の夢をかなえる手伝いをすることだ。それが至上の喜びであり、野望でもある。

・   名手と素人の違いはどこにあるのか?と聞かれて:

  一つは「向上心」、より上を目指す気持ちのあるなしだ。他の誰よりもうまくなりたいという強い思い、最善を尽くしたい、という心があるかどうか。そんなことに無頓着な連中も多い。そういう人間は稽古をしない。しっかり勉強しない。それと同時に、自分自身を研究しない。そういう連中は自分の欠点に気づかない。

 まずは自分を知ることが大切。何よりも自分の欠点を知る事。そうすれば、それを克服するために何をすべきか、どんな努力をするべきかがわかる。そこが名手と素人の分かれ道だ。

   このドキュメンタリー映画が日本未公開なのは、製作者の中に『The Cove』(和歌山太地町伝統のイルカ漁をテーマにしたドキュメンタリー)を扱った ポーラ・デュプレが名を連ねていることが、ややこしい原因になっているのかもしれない。
 映画の主人公の一人、ジャスティン・コーフリンが日本にゆかりのあるアーティストであるのですから、何とか多くの人に観て欲しい。クラーク・テリーの信者として切に思っています。

 

対訳ノート(46)Until the Real Thing Comes Along

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 月例「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に今月、来月にまたがって登場するケニー・バレburelld0d0eb87.jpgルの弾き語りアルバム『Weaver of Dreams』、名ギタリスト、バレルの歌うスタンダード・ナンバーは、どれもミュージシャンならではの音選び、正確無比な音程、それにミュージシャンらしくない男性的な甘い声は、ジャケットの姿に相応しいハンサム。バレルとフラナガンが若かりし頃、デトロイトで人気だったナット・キング・コール・スタイルの演奏活動の延長線上にあることでも意義深いこのアルバムの収録曲 “Until the Real Thing Comes Along”も、キング・コールの演目です。この歌には、「本当のことがわかるまで」という邦題もついているのですが、講座で映写する対訳作りでは、歌詞の肝心要になる英語のシンプルな言い回しをどう訳せばいいか、ほとほと困りました。

<歌のお里>

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  この歌のお里は『ラプソディ・イン・ブラック』(1931)というブロードウェイのレヴュー、ハーレム・ルネサンスの華、エセル・ウォーターズが唄った。当時の時の曲名は”Till the Real Thing Comes Along”で、おしどりコンビ、アルバータ・ニコルス(曲)、マン・ホリナーRhapsody-in-Black-05-31-1.jpg(詞)の作と記載されている。5年後、この曲はリニューアルされ”(It Will Have to do) Until the Real Thing Comes Along”と改題、サミー・カーンやソール・チャップリンといった3人の共作者の名前がドドっと付け加えられた。歌の中身に、どれほどの改訂がなされたのか?あるいは版権の分配先が増えただけなのか、全く不明。とにかく、リメイクされた1936年、アンディ・カーク楽団で大ヒット!以来、ファッツ・ウォーラー、ビリー・ホリディ、デクスター・ゴードン、ソニー・クリス、アレサ・フランクリン、そしてケニー・バレルなどなど…ジャンルを問わず多くの音楽家に愛奏された。因みにアンディ・カーク楽団は、チャーリー・パーカーやファッツ・ナヴァロが在籍した名門バンドで、ビバップ誕生のゆりかごとされる楽団です。

<ちょっと英語の話>

 けっこうな有名曲にもかかわらず、日本の対訳サイトにほとんど紹介されないのは、私も手こずった肝心要の複文パンチライン “It will have to do until the real thing comes along”の意味が、イマイチ釈然としないせいかも…

 英語を母国語としない私たちにとって、DoGetと並ぶ厄介者、「ソレハスベキデアロウ」って何だろう… 謎解きのために、まずは、このフレーズからHave toを省き更にシンプルにして、It will do. の意味を考える。これはスラングでもなんでもない、とても英語らしい一般的な表現。英語学習者には非常に重宝なBBC放送のポドキャストに紹介されています。使い勝手のある多様な言葉ですが、歌詞のwill doは、satisfactory, or acceptableと言い換えられる。ここでのwill doは「必要な要件を満たしていること、許容範囲内であること」なのでした。

 例えば、週末のデートのために、デパートでとびきり可愛くてセクシーなピンクの口紅を見つけたら”It will do!”とほくそ笑む。或いは、区役所や郵便局で「身分を証明する物を提示してください。」と言われた時、「運転免許証でいいですか?」と言ったとします。窓口の人が「はい、いいですよ」という言葉に当たる英語がwill doです。

  じゃあ”It will have to do“となるとどうなるの?

 前述のデートの当日、勝負服を着て、そのリップをつけてみた。そしたら、リップの香りが、今吹きかけたシャネル#19とはずいぶん違う。しまった!でも、そんなに強い香りじゃないし、きっと彼はそんなところまで気にしないはず。このリップで大丈夫、と自分に言い聞かせる。こういう場合の女心が”It will have to do“。つまり、100%完璧とはいえないまでも、「これで大丈夫でしょう。」という意味なんです。大阪弁なら「まあ、いけるやろ」って感じ。

 この歌のヴァースを読むと判るように、主人公は、自分がどれほど愛しているかを、いろいろ説明するけど、相手には納得してもらえない。それで、「本当のことがわかるまで(つまり、自分の愛を納得してもらえる時がきっと来るから)、それまでは、私の説明でよしとしておいてくださいな。」という歌なんです。

 この「当座しのぎ」の言い回しが、奥深い音楽表現につながることから、長らく愛奏、愛唄されているのかも。バレルのハンサムな歌を聴けば、こんな風に告白されたいと思うだろうし、ビリー・ホリディの歌を聴くと、色んな男を相手にしてきた商売女が命を賭けたラブストーリーになっている。

<Until the Real Thing Comes Along>

原歌詞はこちら

Mann Holiner, Sammy Cahn, Alberta Nichols, Saul Chaplin, L.E. Freeman

=Verse=

あなたは私にとってこの世の天国、

それをうまく説明できないの。

だって愛や、愛の深さは言葉にできないものだから、

でも本当よ、

あなたはたった一人の恋人・・・・

 

Chorus

あなたに仕え、

身を粉にして働くわ。

物乞い、悪行してみせる、

それがあなたのためならば。

それは違うと言われても、

それほど違いはないはずだから、

どうぞ愛だと思っておいて、

本当の事が判るまで。

 

愛の証になるのなら、

大地を動かすのも厭わない、

それが愛ではないにせよ、

大して変わりはないはずだから、

愛だと思って受け入れて、

本当の事が判るまで。

 

言葉を尽くして説得しても、

どうにも判ってもらえない。

たとえ何が起ころうと、

いつでも愛しているのにさ、

私の心はあなたのもの!

この上、何を言えばいい?

 

あなたに焦がれため息ついて、

あなたを思い涙する、

空の星さえ取って来る。

それが愛ではないにせよ、

ほとんど変わりはないでしょう、

だから思いを受け入れて、

本当だと判るその日まで。

 

 えっ?私のような者に、英語の意味について講釈されても納得出来ないって?そんな事言わずに、まあ、これでよしとしておいてくださいな。本当のことが判るまで、ねっ!

対訳ノート(45) Skylark : 禁じられた恋の鳥

 お久しぶりです!

  連休は楽しく過ごされましたか? こちらは4夜連続36周年記念ライブが無事終わりほっと一息。沢山のご来店、心から感謝しています。

 それぞれ趣向を凝らしてお届けしたプログラムは、各ミュージシャン達の音楽に対する見方や立ち位置が反映されていて楽しかった!

  連休前、寺井尚之メインステム・トリオがアンコールで演奏した”スカイラーク”はそよ風が吹き抜けるようで、爽やかな春の日にぴったり!ぜひ紹介したいと思っていました。

  空を舞い、美しい声で春を謳歌するスカイラーク( 雲 雀 ヒバリ)に語りかけるこの曲、アレック・ワイルダーは名著『American Popular Song』の中で、「これほど素晴らしいブリッジ(サビ)のある曲は聴いたことがない!」と絶賛しています。確かに、この間の演奏も、サビの部分で、雲雀の飛ぶ大空が、青空から燃えるような夕焼けへと鮮やかに変化していく感動にとらわれました。

<歌のお里>

johnny_mercer.jpgJohnny Mercer (1909 -76)
 

304221_actual.jpg  “Skylark”は”Star Dust”でおなじみのホーギー・カーマイケル作曲(左写真)、作詞はアメリカ・ポピュラー・ソング史上最高の作詞家とされるジョニー・マーサー、歌の誕生は、太平洋戦争直前の1941年。元々、曲が先にあり、歌詞は後付け。曲は、カーマイケルの盟友であった夭折のトランペッター、ビックス・バイダーベックの生涯をミュージカル化する企画で生まれたものです。ビックスのバンドで学生時代共演していたカーマイケルは、生前ビックスが吹いたフレーズを元に作曲したのですが、企画が流れたために、マーサBix-Beiderbecke-1924.jpgーに「詞を付けてみて」と曲を渡し、そのままこの曲のことは忘れてしまっていた。余談ですが、10年後、流れた企画はハリウッド映画に生まれ変わり、カーク・ダグラスがビックス役で、様々なジャズ・スタンダードを散りばめた『Young Man with the Horn(’50) 』としてヒットしました。この映画で、カーマイケルは音楽担当ではなく、ピアニスト役で出演。日本では『情熱の狂詩曲』というタイトルで上映され、私もTVの深夜映画で観た記憶があります。

<ジョニー・マーサー>

   “Come Rain or Come Shine””酒とバラの日々””I’m Old Fashioned”…ジャズ・スタンダードとされるジョニー・マーサーの作品を挙げるときりがない。上述のホーギー・カーマイケル、ハロルド・アーレン、ジェローム・カーンはじめ当代随一の作曲者とコラボし、”Satin Doll”など、エリントンなど黒人アーティスト達のビッグバンド曲にぴったりの歌詞を後付けした。15才の頃から作詞作曲を独学で始め、トミー・ドーシー楽団の専属歌手としても人気を博した。シンガー・ソングライター(こんな言葉は、その時代にはなかったけれど)の先駆者とも言えます。

 マーサーの言霊は、一言で言えば「ナチュラル」!トレンディな新語を作り、大都会のシックを強調するような、コピーライター的手法とは無縁な作家。それでいながら歌の空気感を鮮やかに紡ぐ歌詞は、ぽっちゃりした丸みと詩情に溢れ、耳に心地いい。アメリカ人は 「南部的」 southern) と評し、北部の水で育ったヤンキー・リリシスト達には、逆立ちしても真似が出来なかった。
 それは、マーサーがジョージアの美しい港町サヴァナ出身であるだけでなく、なにより優れた歌手であり作曲家であったからかもしれません。

 生まれは南部に代々続く指折りの名家ですが、大恐慌で家は没落、一家でNYに落ち延びた。そこでボードヴィル芸人から叩き上げ、ビング・クロスビーの後釜としてトミー・ドーシー楽団でブレイクした後、さらにハリウッドで作詞作曲家として成功、キャピトル・レコードの創始者となった音楽家です。

<国民的美少女との禁断の恋>

j_garland.jpg(Judy Garland 1922-66)

 マーサーのキャリアは、晩年に至るまで順風満帆そのもの、そんな彼が果たせなかった夢が二つ、一つはブロードウェイのヒット・ミュージカルを書く夢、もう一つは運命の女性と結ばれる夢だった。その女性とは『オズの魔法使い』のドロシー役で映画史に残る女優、エンタテイナー、ジュディ・ガーランドでした。
 二人が恋に堕ちた時、すでにガーランドは、『オズの魔法使い』で国民的美少女、まだ18才の若さでした。一方マーサーは30才、年の差はともかく、れっきとした妻帯者。清純少女スターと30男の不倫は、いくら自由奔放なハリウッドでも都合の悪い真実、この不倫はアカン!業界だけでなく、友人たちも口を揃えて猛反対!だけど、恋は理屈じゃないんですよね。

 結局、お互いのためと、引き離されたものの未練は募るばかり。マーサーは家庭を守り酒に溺れた。ガーランドは結婚離婚を繰り返し薬に溺れた。二人はそれからもしのび逢い、ガーランドが亡くなるまで、二人の密やかな炎は消えることがなかったのだそうです。

 マーサーの名歌の数々は、断ち切れない恋のカタルシスと言われ、しみじみと心に染み入る言霊に、叶わなかった恋への静かな炎が見え隠れしています。

 中でもガーランドへの慕情が最も直接的に語られているのは GWに末宗俊郎+The Mainstem も演奏していた”I Remember You”だと言われていて、マーサーの死後に出た伝記には、未亡人、ジーン・マーサーの強い希望で、この曲についての言及は一切ありません。

  ”Skylark”は、二人の出会いの翌年に作られた詞、小さな体で空を舞い、歌う雲雀が誰なのかは、もうお分かりですよね!

 うつくしや雲雀の鳴し迹の空 小林一茶

<Skylark>

Hoagy Carmichael/ Johnny Mercer (原歌詞はこちら

雲雀よ、
何かいいたいことがあるのかい?
恋人はどこにいるの?教えてくれないか。
霧に煙る草原で、
愛のくちづけを待っているのかな?

雲雀よ、
泉に潤う緑の谷を見たことがあるかい?
そこは僕の心の旅の先、
暗くても、雨が降っても、負けずに進む、
そうすりゃ花咲く小道に辿り着く。

一人ぼっちで飛ぶ間、
夜の調べを聴いたことはない?
それは素敵な音楽なんだ、
鬼火のようにひそやかで、
水鳥みたいに狂おしく、
月夜のジプシー音楽みたいに切ないよ。

雲雀よ、
ほんとにそれが見つかるかどうかは分からない。
でもね、君の翼に乗って僕の心も旅をする。
だからね、もしも旅の途中で僕の心の風景を見ることがあったら、
どうか一緒に連れて行ってくれないか?

GWはOverSeas開店36年周年記念LIVEに!

 若草萌ゆる候、皆様いかがお過ごしですか?

 当店、OverSeasは5月の連休、5/2(土)~5/5(火)の4日間、スペシャル・ライブを開催いたします。

 どの日も趣向を凝らしたプログラム!おいしいお料理やお飲物と共に、ゆったりとお楽しみください!

 

5/2(土)

寺井尚之3 ‘The Mainstem’

Plays STANDARDS

宮本在浩-bass,菅一平-drums

Live Charge ¥2500

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 ザ・メインステムは、寺井尚之が、宮本在浩(b)、菅一平(ds)とチーム・ワークを培って、デトロイト・ハードバップを追求する強力レギュラー・トリオ、日頃は滅多に聴けない寺井尚之の極上のジャズ・スタンダード集を披露します。

 思えば、トミー・フラナガンがライブでさりげなく聴かせるスタンダードは極上でした。

 一旦演るとなると、徹底的に弾けます。鉄壁のピアノ・トリオで、あの曲、この歌、ピアノから歌詞の聴こえてくる最高のスタンダード集を!

5/3(日)

末宗俊郎(g) with Mainstem trio

Live Charge ¥3000 

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 浪速のケニー・バレルと呼ばれる末宗俊郎が、超タイトなリズムセクションをバックに縦横無尽にスイング!ブルース心溢れるギター・ジャズの真骨頂を!

5/4(月)

岩田江(as) with Mainstem trio

Live Charge ¥3000

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 本格派ビバップ・アルト奏者、岩田江(いわた こう)がメインステムをバックに朗々と吹きまくる魅惑のBOP SESSION! 素晴らしいアルトの音色で歌心が溢れてきます。

5/5(火)

“Echoes” リユニオン 

Live Charge ¥2000

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寺井尚之(p)+鷲見和広(b)、名コンビがGWに復活。往年の笑って泣けるデュオローグ!

『ポーギーとベス』やビリー・ホリディの名曲などなど、”エコーズ”の名演目が蘇ります。時にはロマンチックに、時には漫才ばりのユーモラスな音楽の掛け合いを、二人の音楽の会話を、心行くまでお楽しみください。

 

 (各日とも)開場:6pm-  演奏時間:7pm- / 8pm- / 9pm-  

*料金はライブ・チャージにご飲食代をプラスしたものになります。(表示は税抜です)

翻訳ノート:ウエス・モンゴメリー『アーリー・レコーディングス・フロム1949-1958 イン・ザ・ビギニング』

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キング・インターナショナルHPより:

驚愕の未発表音源!!<<ウエス草創期の一大アンソロジー>>

オクターブ奏法, ベースを弾くウエス, クインシー・プロデュース音源・・

『エコーズ・オブ・インディアナ・アヴェニュー』を凌ぐ作品の登場!!

 

  先月、日本先行発売、まもなく本国米国で発売される、ウエス・モンゴメリー話題の未発表音源『アーリー・レコーディングス・フロム1949-1958』、私の周りでも、ジャズにかぎらずロックやクラシックを主に演奏しているミュージシャン達も、すぐにチェックして愛聴しているみたいです。

 このアルバムは地元インディアナポリスの人気ギタリストとして活躍した時期、26才から33才のライブ、スタジオから、プライベートなジャム・セッションでのエレキベースまで、さまざまなシークエンスのプレイを収録したものです。ウエスが遅咲きであった理由は、家の生活を守るため、俗にデイ・ギグと呼ばれる工場勤めをしながら、地元に留まって音楽活動を続けたというのは有名ですよね。でも、ここでの演奏を聴くと、すでにウエスのあのスタイルは出来上がっていたことを、自分の耳で確かめられるのが嬉しいです。

 NYの一流ミュージシャンの間では、「インディアナポリスにウエスあり!」と口コミで噂は伝わっていて、楽旅でインディアナポリスを訪れると、こぞって、彼の出演場所にやって来た。本作は、そんなミュージシャン達の気持ちを共有できます。ウエスと共演している地元ミュージシャン、プーキー・ジョンソン(ts)、ソニー・ジョンソン(ds)も並々ならぬ実力派です。

 2枚組CDには、当時の貴重な演奏写真と共に、当時のウエスの実像に迫る様々なエッセイがぎゅうぎゅう詰めになった小冊子付き。この辺りが、「ジャズ発掘人」として名高いゼヴ・フェルドマンらしいアルバム作りですね!小冊子の冒頭には、「ジャズ発掘人」と呼ばれるフェルドマン自身が語るアルバム誕生秘話。世界中から情報を集め、良いアルバム作りに邁進するのプロジェクトXに血沸き肉踊ります。続いてウエスの家族たち、22才の若さでウエスをプロデュースしたクインシ―・ジョーンズ、ロック畑のウエス・ファン代表、ピート・タウンゼント、さらには、2月に『オファリング:ライブ・アット・テンプル大/ ジョン・コルトレーン』のアルバム・ノート執筆者としてグラミー賞を勝ち取ったアシュリー・カーンなどなど、音楽解説だけでなく、その当時のインディアナポリスのジャズ・シーン、歴史や社会状況が手に取るように見えてくる高内容の一冊!

 当時のインディアナポリスで黒人たちが直面していた人種差別からは、ウエスが、パノニカ男爵夫人の「三つの願い」で、『No discrimination whatever いかなる差別もなくなること。』 と願っているのが深く頷けました。そして、その差別をウエス達が音楽の力で正す痛快な事件のことも書かれています。

 初期ウエスの貴重なレコーディング、それに、まつわる音楽史の興味深い断面を、ぜひご一読ください!日本語訳は不肖私が担当させていただきました。King e-SHOP

 下のヴィデオは、ゼヴさんがホスト役で登場する、アルバム制作ドキュメンタリーです。

CU!

4/10(金)アキラ・タナ、楽しかった!すごかった!

hisayuki_terai_akira_tana_zaikou_miyamoto_ippei_suga1.JPG   待ちに待ったアキラ・タナ(ds)ライブ。4月に不似合いな冷たい雨でしたが、昨年に引き続き、「楽しい!」「すごいっ!」の歓声が口々に漏れる最高の演奏が聴けました。

akiraP1090110.JPG アキラ・タナさんと寺井尚之のお付き合いは、もう30年になります。でも、最初に彼の演奏を聴いたのはもっと前、寺井も私も二十代でした。大学時代の寺井の盟友ギタリスト、現在マレーシアでギター・レジェンドとして活動し、あちらの音大で教鞭を取る布施明仁さんが、その頃ボストンのニューイングランド音大に留学中で、「同じクラスにソニー・スティットと一緒に演っている奴が居ます。」といって彼の地のジャズクラブでライブ録音したカセット・テープ(!)を送ってくださったのがアキラさんとの最初の出会いでした。

 初めてOverSeasにお招きしたのは、Walter Bishop Jr.のトリオで’80年代中盤、それからコンサートで、プライベートで何度演奏していただいたか数えきれません。

 今回の来日も公私ともに超多忙スケジュールの合間を縫っての出演でしたが、譜面を一瞥した途端に、曲の構成がズバッと頭に入る感じ、イントロなしで寺井の首振りから始まる曲、超変則のBeyond the Bluebirdなど、どの曲もリラックスしてこなれた印象に。やっぱりアキラさんが加わったジミー・ヒース作品は、格別の味わいです。

 アキラさんを聴きにきてくれたロック・ミュージシャンのお客様を紹介すると、次のセットではすかさず8ビートでソロを取る茶目っ気も素敵でした。寺井尚之(p)は得意のポーカーフェイスですが、とっても気持ちよさそうにアキラさんと音楽でジョークを言い合っているし、宮本在浩(b)も本当に楽しそう!「ザイコウ、最高!」と声が掛かるソロを出してベテラン二人に強烈アピールしています。


ippeiP1090120.jpg  ラスト・チューンのA Sassy Sambaでは、アキラさんの傍らで食いつくように聴いていたメインステムの菅一平(ds)さんが、隠し持っていたパーカッションでジョイント、すると会場に居た先輩ミュージシャン達の応援が甲子園の外野席のようで、場内は興奮の坩堝に!

 アンコールは前回大好評の「どんぐりころころ=リズムチェンジ」に続き、今回は「七つの子」ジャズヴァージョン。最近大阪環状線が駅ごとに発車メロディーを鳴らすのにインスパイアされた寺井が、ここぞとJRのホームで耳にした色んなメロディーを、最高のピアノタッチで繰り出すのに、皆大爆笑。最後まで笑顔の絶えないライブになりました。 

 「楽しい」を生み出すためには日頃の厳しい修練が必要なんだ!改めて実感したコンサート。またの再会を約束し、アキラさんは明日帰国の途につきます。

 アキラ・タナ(ds)ライブ、次回も宜しくお願い申し上げます!

terai_akiraP1090117.JPG=演奏曲目=

<1st Set>

1. Ladybird (Tadd Dameron)

2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)

3. Mean What You Say (Thad Jones)

4. If You Could See Me Now  (Tadd Dameron)

5. Minor Mishap (Tommy Flanagan)

<2nd Set>

1. Suddenly It’s Spring (Jimmy Van Heusen)

2. They Say It’s Spring (Bob Haymes)

3. Bro’ Slim (Jimmy Heath )

4. The Voice of the Saxphone (Jimmy Heath )

5. Rifftide (Coleman Hawkins)

<3rd Set>

1. What Is Thing Called Love? (Cole Porter)

2. Quietude (Thad Jones)

3. Stablemates (Benny Golson)

4. I’ll Keep Loving You (Bud Powell)

5. A Sassy Samba  (Jimmy Heath )

Encore: 七つの子:環状線メドレー

第26回トリビュート・コンサートCDできました。

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 3月のトミー・フラナガン・トリビュート・コンサートの3枚組CDが出来上がりました。

 巨匠フラナガンが最も好んだピアノ・トリオというフォーマットで培った名演目、そのアレンジを受け継ぐ弟子、寺井尚之が手塩にかけたメインステム・トリオ(宮本在浩-bass、菅一平-drums)で、渾身のプレイを披露しています。

 コンサートにご参加いただいたお客様にも、お越しになれなかったお客様にも、OverSeasならではの演奏風景を感じていただける逸品になりました。

 録音からCD製作まで、毎回ボランティアでお世話くださる福西You-non+あやめ夫妻に感謝。
お申込みはメールでお願い致します。すでにご予約いただいているお客様は次回ご来店の際にお渡しいたします。
応援くださった皆様、心よりお礼申し上げます。

トリビュート・コンサート!

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第26回トミー・フラナガン・トリビュート・コンサート、おかげさまで盛況で開催することができました。

 今年でフラナガン没後14年、客席に生前の勇姿を生で知るお客様は少なくなっていきますが、新旧のお客様に支えられ、26回のコンサートが出来たと思うと感慨もひとしおです。

zaiko_miyamoto_26th.jpg 寺井尚之のレギュラー・トリオも、当初のフラナガニア・トリオ(宗竹正浩-bass、河原達人-drums)から、現在のザ・メインステム (宮本在浩-bass、菅一平-drums )に衣替えして、今回で14回目、トリビュートの過半数のコンサートをメインステムで演ったことになります。稽古が三度のご飯より好きな寺井がこれまで8年の歳月をかけてトリオとしてのサウンドを磨いてきたわけですから、メンバーはさぞ大変だったろうと思いますが、長年の常連様から「いやあ、よくなったねえ。」声をかけられると、疲れも吹っ飛んだのではないでしょうか。

 トリビュート・コンサートのプログラムは、毎回、フラナガンが愛奏した名演目と呼ばれるものから、寺井がセレクトして起承転結のあるひとつのコンサートにまとめていきます。今回は、故郷デトロイト時代からフラナガンが大きな影響を受けたサド・ジョーンズ作品で始まり終わるプログラム。ippei_suga_26thtribute.jpgその間にフラナガンが理想としたデューク・エリントン+ビリー・ストレイホーン作品、バド・パウエル、タッド・ダメロンなどのビバップの名曲、フラナガンが春になると奏でたスプリング・ソングたち、それにフラナガン・ライブの最大の聴きどころだったメドレーを織り交ぜ、このコンサートがひとつのフラナガン音楽史というか、読み応えのある「物語」になったと、初めて感じることが出来ました。

 ピアノの鳴りは息を呑むほど美しかったし、 宮本在浩(b)、菅一平(ds)のふたりも存在感を見せつけてくれました。お客様からもらったコンサートの感想メールを引用させていただきます。

「ザイコーさん、一見控えめに見えて、実はしっかり師匠のピアノに絡みつつ、菅さんとはお互いに支え合って、というのがよく見えました。」

「菅さんのプレーは、師匠から次から次に来る暗黙の要求に穏やかな表情で応えられている姿がカッコ良かったです。」

 「冒頭のLet’sが始まった途端、2000年の大阪ブルーノートのフラナガン・トリオの演奏を思い出して涙が出た。」と言ってくれた人も居ました。

 前回のフラナガン・インタビューにこんな発言があったのを覚えていますか?

「演奏するからには、しっかり準備をして、そこに或る思いを込めたい。」

 そんなフラナガンの心は確かに受け継がれているなあ。そんな風に感じることができました。

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<曲目>

《第Ⅰ部》

1. Let’s /Thad Jones

 作曲者はコルネット奏者としても、バンドリーダーとしても天才的な手腕を発揮したサド・ジョーンズ。ジョーンズの作品は一筋縄ではいかない難曲が多いために、沢山の演奏者に取り上げられるスタンダードは少ない。だがフラナガンは終生彼の作品を掘り下げた。

 「サド・ジョーンズ作品には強力なパワーを内蔵していて、演奏すると、自然にそのパワーが発散する。彼の作品を演奏できるならば、演奏者として順調な道を歩んでいる証だ。」トミー・フラナガン

 

 

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2.Beyond the Blue Bird /Tommy Flanagan

 青年時代のフラナガンがサド・ジョーンズ(cor.tp)と共に、毎夜、デトロイトの黒人居住地で熱い演奏を繰り広げた場所《ブルーバード・イン》を偲んで作ったオリジナル。本曲は若き日へのノスタルジーに溢れている。

 生前のフラナガンは、《ブルーバード・イン》と《OverSeas》の雰囲気は、よく似ていると言ってくれた。

 デトロイトのお家芸である左手の”返し”が印象的、親しみやすいメロディでありながら、、転調が多く弾くのは大変むずかしい。寺井尚之はリリース前に、この曲を写譜して、演奏を許されたことが誇りだ。

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3. Mean What You Say  /Thad Jones

 ゆったりしながら、爽快なスピード感が味わえるサド・ジョーンズ作品、サド・メルOrch.の十八番でもあった。’Mean what you say(ズバっと、相手に伝わるように言え!)’はジョーンズの口癖らしいが、デトロイト・ハードバップのモットーとも言えるだろう。

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4.メドレー: Embraceable You  
/George Geshwin

        Quasimodo /Charlie Parker

 ガーシュインの有名なバラード(抱きしめたくなるほど愛らしい君)、そのコード進行を基にして作ったバップ・チューンに、チャーリー・パーカーは「カジモド」という醜い「ノートルダムのせむし男」の名前を付けた。原曲とバップ・チューンを絶妙な転調で結ぶ意表をついたメドレーには、パーカーの真意を読み解いたフラナガンの深い洞察力が見える。 ライブで、フラナガンのメドレーは最高の聴きどころだったが、これは数あるメドレーの内でも白眉だった。残念なことにレコーディングは遺されておらず、トリビュート・コンサートでその素晴らしさを偲ぶしかない。関連ブログ

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5. Sunset & the Mockin’ Bird / Duke Ellington, Billy Strayhorn

  エリントン&ストレイホーン作品、エリントン・ミュージックはフラナガン終生の理想だった。この曲はフラナガン67才のバースデイ・コンサートのライブ盤(右写真)のタイトルになっている。エリントンの自伝『Music
is my mistres』によれば、フロリダ半島をハリー・カーネイ(bs)運転の車で移動中、夕焼けの中で耳にした不思議な鳥の鳴き声に霊感を得て、瞬く間に書き上げた曲とある。後にエリントンは、この曲を含めた「女王組曲」を収録し、たった一枚プレスして英国のエリザベス女王に献上品とした。フラナガンは、FMラジオのジャズ番組のテーマ・ソングとして毎週流れるのを聴き覚え(!)レパートリーに加えたと言う。

 トリビュート・コンサートでは息を呑む寺井尚之のピアノタッチの至芸で。

 

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6.Raincheck  / Bily Strayhorn

 ビリー・ストレイホーンが第二次大戦中、カリフォルニアで作ったと言われている作品。雨雲を吹き飛ばすような颯爽とした雰囲気に溢れている。

  フラナガンは、ジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)との黄金トリオで、名盤『Jazz Poet』に収録している。スピード感と品格を併せ持つフラナガン流ヴァージョンで。

 

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7. Dalarna / Tommy Flanagan  

 ”ダラーナ”は、『Overseas』を録音したスウェーデンの風光明媚な地域の名前を冠した初期のオリジナル。転調の奥義や印象派的な曲想に、心酔していたビリー・ストレイホーンの影響が垣間見える。

 『Overseas』以降、フラナガンが演奏することはほとんどなかったが、寺井尚之のアルバム『ダラーナ』(’95)の演奏に触発され、寺井のアレンジを使って『Sea Changes』(’96)に再収録した。

 

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8. Tin Tin Deo / Chano Pozo, Dizzy Gillespie, Gill Fuller

 フラナガンは、ビッグバンドの演目を、コンパクトなピアノ・トリオ編成でダイナミックに料理するのを得意にしていた。この曲は、哀愁に満ちたキューバの黒人音楽と、ビバップの洗練されたイディオムが見事に融合したブラック・ミュージックだ。

 ディジー・ガレスピー楽団がこの曲を初録音したのはデトロイトで、フラナガンの親友、ケニー・バレル(g)が参加した。フラナガンにはその当時の特別な思い出があったのかもしれない。

 現在は寺井尚之The Mainstemがそのアレンジをしっかりと受け継いでいる。

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 《第Ⅱ部》

1. Eclypso  /Tommy Flanagan

 フラナガン作品中、最も有名なのがこの曲かも知れない。『Overseas』(’57)や『Eclypso』(’75)を始め、フラナガンは繰り返し録音している。、”Eclypso”は「Eclypse(日食、月食)」と「Calypso (カリプソ)」の合成語。トミー・フラナガンを含めバッパーは、言葉の遊びが好きで、そんなウィットがプレイにも反映している。

  フラナガンが寺井尚之をNYに呼び寄せ、別れの夜にヴィレッジ・ヴァンガードで寺井のために演奏してくれた思い出の曲。

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 2. They Say It’s Spring  / Bob Haymes

 フラナガンが”スプリング・ソングス”と呼んで愛奏した季節の演目。

 ’50年代中盤に、ブロッサム・ディアリーのキュートな歌声でヒットした。彼女の夫は、当時J.J.ジョンソンのバンド仲間であったボビー・ジャスパー(ts.fl)であったことから、フラナガンはディアリーのライブで、この曲を聴き覚えレパートリーに加え、フラナガンの演奏を聴いたダグ・ワトキンス(b)も愛奏するようになったという。NYのジャズシーンでは口コミで音楽が広まっていったのだ。

 作曲者、ボブ・ヘイムズは人気歌手ディック・ヘイムズの弟、俳優、歌手、TV番組タレントとしても有名だった。

 ’70年代にジョージ・ムラーツ(b)との名デュオ・アルバム『Ballads & Blues』に収録されている。
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 3. Rachel’s Rondo  /Tommy Flanagan

 最初の妻、アンとの間に生まれた美しい長女レイチェルに捧げた作品。フラナガンは『Super Session』(’80)に収録したが、ライブでは余り演奏することはなかった。

 一方、寺井はこの曲を大切にして長年愛奏し、『Flanagania』(’94)に収録している。

 冴え渡るピアノのサウンドがこの曲の気品を遺憾なく発揮する。

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 4. A Sleepin’ Bee  / Harold Arlen
 これも、春にNYでフラナガンがよく演奏したスプリング・ソング。Aペダルの軽快なヴァンプが春の浮き浮きした気分にぴったりだ。ライブで演奏していくうちに、’78『ハロルド・アーレン集』に収録したヴァージョンからどんどんアップデートしていて、トリビュートで演奏するのは進化ヴァージョンだ。

 元々「A House of Flowers」というハイチを舞台にしたブロードウェイ・ミュージカルの劇中歌。「蜂が手の中で眠ったら、あなたの恋は本物」というハイチの言い伝えを元にした可愛らしいラブ・ソング。 

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5.Passion Flower  / Bily Strayhorn

 フラナガンがジョージ・ムラーツ(b)の弓の妙技をフィーチュアして盛んに演奏したビリー・ストレイホーンの名曲。ムラーツはフラナガン・トリオを離れてからも、自分のグループで愛奏し続けている。

 パッション・フラワーはトケイソウのこと。ビリー・ストレイホーンは花を題材にした作品を好んで作っているが、その中でも、この曲を最も愛奏している。

 今夜は、宮本在浩が秀逸な演奏で大きな存在感を示した。

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6. Mean Streets  /Tommy Flanagan

  元々”Verdandi”という曲名で、エルヴィン・ジョーンズのドラムソロをフィーチュアし『Overseas』(’57)に収録、20年後、レギュラー・ドラマーに抜擢したケニー・ワシントン(ds)のフィーチュア・ナンバーとして盛んにライブで演奏し、ケニーのニックネーム、”ミーンストリーツ”と改題し『Jazz Poet』に収録。

 トリビュートでは、菅一平(ds)が細部まで神経の行き届くダイナミックなドラムソロで、大きな成長ぶりを見せつけた。

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 7. I’ll Keep Loving You  /  Bud Powell

   バド・パウエルが歌手の女友達の持ち歌に書き下ろしたとされる作品で、凛とした美しさがみなぎる硬派のバラード。フラナガンは、ビバップのアンソロジー集、『I
Remember Bebop』(’77)に収録。フラナガンを愛し続ける寺井尚之の心が溢れる名演となった。

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 8.Our Delight  / Tadd Dameron

 

 ビバップの立役者の一人、ピアニスト、作編曲家、タッド・ダメロンの代表作。フラナガンはダメロン作品には「オーケストラの要素が内蔵されているので非常に演りやすい。」と言い、ライブを最高に盛り上げるラスト・チューンとして盛んに愛奏した。それにもかかわらず、レコーディングはハンク・ジョーンズとのピアノ・デュオしか残されておらず、バップの醍醐味が炸裂するスリリングなフラナガンのアレンジを再現できるのは寺井しかいない。

 

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collar.jpg《アンコール》

1. With Malice Towards None  / Tom McIntsh

  フラナガンが、真の「ブラック・ミュージック」として愛奏したトム・マッキントッシュ初期の作品。

 「誰にも悪意を向けずに」という題名は、エイブラハム・リンカーンの名言で、メロディは賛美歌を基にしたスピリチュアルな曲。

 この曲が生まれた頃、マッキントッシュとフラナガンは住まいが近所で親しく行き来しており、フラナガンはこの曲の創作過程に立ち会って、自分のアイデアを盛り込んだ。様々な編成で多くの録音があるものの、フラナガンのスピリチュアルな演奏解釈が傑出している。その中でも最も心を打たれるのは、フランク・モーガン名義のアルバム『You Must Believw in Spring』に収められたソロピアノの演奏だ。

 

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2. Like Old Times  / Thad Jones

 

 フラナガンがアンコールで頻繁に演奏した作品。サド・ジョーンズ名義の『Motor City Scene』(’59)や、ヴィレッジ・ヴァンガードのライブ盤(’87 右写真)に収録されている。「昔のように」は、デトロイトの《ブルーバード》のアフターアワーズの楽しさを指すのかもしれない。

 今夜のコンサートでは、昔のフラナガンのように、寺井が隠し持っていたホイッスルを、絶妙のタイミングで吹き鳴らし大喝采を浴び、文字通り「昔のように」笑いが溢れる楽しい締めくくりとなった。

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トリビュート・コンサートの演奏を演奏をお聴きになりたい方へ:3枚組CDがあります。

OverSeasまでお問い合わせ下さい。

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(3)

 朝鮮戦争から故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード・イン》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。そこは 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

<ブルーバード・イン>

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《ブルーバード・イン》、デトロイトの史跡として保存を望む声もありますが今は廃墟に…

  フラナガンは《ブルーバード・イン》を懐かしむ。「もう閉店しています。あんなクラブは、国中探してもないでしょう。NYでさえ、見たことがありません。地元愛と同時に、ジャズクラブには不可欠な支援や応援がありました。デトロイトの至るところからジャズ・ファンが集まってきました。出演バンドも素晴らしかった。サドとエルビンのジョーンズ兄弟、それにベーシストはジェームズ・リチャードソン(カウント・ベイシー楽団に在籍したベーシスト、ロドニー・リチャードソンの兄弟)でした。

  《ブルーバード》では、我々バンドの演りたい音楽を演奏することができて、お客もそれを気にいってくれました。客入りも良かったし、バンドとしての一体感が高まって行くことを実感しました。サドとビリー(ミッチェル)は、当時すでに自分の演奏スタイルを確立していたと思います。エルヴィンのプレイも、今とさほどかけ離れたものではなかった。エルヴィンはバンドの中で、常に最も面白い存在でした。デトロイトにあんなプレイをするドラマーは居ません。(最初は違和感があっても)共演を重ねれば重ねるほど、うまくいくようになる。彼はそういうドラマーです。約一年位その店のハウスバンドとして出演し、客離れが始まると、他所の店に移りました。」

<いざNYへ>

tommyatartsession.JPG 1956年、ケニー・バレルとフラナガンは車でNY見聞に向かった。滞在資金節約のために、最初の数週間はバレルの叔母の家に居thad-jones-during-his-the-magnificent-thad-jones-session-hackensack-nj-february-2c2a01957-photo-by-francis-wolff.jpg候したが、一足早くNY入りしていたデトロイト同郷のサド・ジョーンズとビリー・ミッチェルが、あちこちのバンドリーダーに彼等を推薦してくれたおかげで、新参者は2人とも、すぐに自立することができた。フラナガンはレコーディングに参加し、コンサートに出演、それに今は亡きベース奏者、オスカー・ペティフォードのスモール・グループでライブをこなしている。
 その頃、エルビン・ジョーンズは、バド・パウエルと《バードランド》に出演中であった。ところが、フラナガンがギル・フラーとのコンサートに出演後、そこへ行ってみるとパウエルの姿はなかった。おかげでフラナガンは、仕事をすっぽかしたパウエルの代役として、2週間のギグをこなすことになる。その直後、エラ・フィッツジェラルドから初めて仕事を頼まれ3週間共演。状況は好転していく。デトロイト時代に《ブルーバード》で共演した縁で、マイルズ・デイヴィスとのレコーディングにも呼ばれた。ドラムのケニー・クラークからも声がかかり、演奏場所に行くと、当のクラークはギグにやって来なかった。だが、そのバンドでソニー・ロリンズと出会い、後の共演へとつながっていく。フラナガンはNYのジャズの高波に乗り、多忙を極めながらも、ここぞというチャンスは決して逃さなかった。

<リーダー作に思いを込めて>

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 「エラと共演した後、私はJ.J.ジョンソンのバンドに入りました。1956年から’58年迄、約3年dial_jj5.jpg間です。J.J.はカイ・ウィンディングとコンビ別れして、クインテットを新編成し、かなりきっちりした音楽を目指していました。結成後、たちまちバンドのサウンドは良くなった。メンバーは、エルビン・ジョーンズ、ホーンにボビー・ジャスパー、ベースがウィルバー・リトルです。1957年にスウェーデン・ツアーをしましたが、素晴らしい体験でした。ツアー中、 現地の”メトロノーム“というレーベルで、初リーダー・アルバムを作り、後にプレスティッジがそれを買い上げました。私は、ああいう種類の音楽がとても好きなんです。まもなく、もう一枚トリオのアルバムを作る予定です。ちゃんと用意をして、何らかの想いを込めたアルバムにしたいですね。」

 J.J.ジョンソンのバンドを辞めた時、フラナガンは楽旅に疲れ果て、NYの街に落ち着きたいと思っていた。’58年後半には《ザ・コンポーザー》にトリオで出演、トロンボーン兼ヴァイブ奏者、タイリー・グレンのバンドでは《ラウンド・テーブル》に2年間断続的に出演している。

「まあ、私にとっては良い時期でした。何とか食べて行く収入があり、レコーディングも数多くこなすことができました。ジャズの録音依頼は、おおむね偶発的に舞い込むものでしたから、何をするのか分からぬままスタジオ入りしなくてはなりません。現場に入るや否やリーダーに、『イントロをくれ!』と指示されます。出やすいイントロをあれこれ考えて作るのは好きな方ですが、スタジオに入るなり、イントロ、イントロと言われると、いい加減うんざりします。時にはエンディングまで、こっちで考えて作らなければいけません。だから、世間で”ブロウイング(吹きまくる)セッション”と呼ばれる録音も、私にとってはむしろ”シンキング(考える)セッション”でした・・・

 『予め譜面に書かれた』ことより高内容なことを、ささっと考えて、その場で演奏することは可能です。しかし、即興のアイデアに対する所有権はありません。現場で、そういうことをやればやるほど、同じ成果を繰り返し要求されることになります。「こいつはアレンジがなくても演れる奴だ」と判ると、ずっとあてにされることになるのです。

<コールマン・ホーキンスとの至福の時>

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 フラナガンは《ラウンド・テーブル》に数ケ月出演した後、NY周辺でフリーランスとして活動した後、コールマン・ホーキンスとの最初の共演作を録音した。ホーキンスとの共演は、まさに至福の音楽体験であった。

Editor~~element63.jpg 「ホーキンスは素晴らしくて、一緒に演ることがいつも楽しかった。彼の方も、まあまあ私のプレイを気にいってくれていたと思います。私は、クラリネットとサックスを演っていましたから、彼が名手であることがよくわかります。それに、もの凄く良い耳をしていました。あの年齢で、彼のような思考が出来る人はいません。2枚目のアルバムを録音した後は、ライブも一緒に演るようになりました。彼とロイ・エルドリッジの2管バンドで《メトロポール・カフェ》へ出演したり、コネチカットのハートフォードや、NY州北部のスケネクタディー、果ては南アメリカやヨーロッパまでツアーしました。ライブがない時は、もっぱらスタジオで一緒に演奏していました。ヨーロッパから帰国後は、カルテット編成に縮小しました。ホーキンスのワン・ホーンで一緒に演るのは最高です!彼との共演は本当に楽しかったですし、今もそれは変わりありません。とにかく一緒に居るのが好きなんです。」

1963-02-04.png コールマン・ホーキンスとの活動が小休止すると、フラナガンはギタリストのジム・ホールの誘いを受けた。ちょうど《ファイブ・スポット》が移転し、キャバレー・ライセンスを取得していなかった頃である。ライセンスがなければ、ドラムを入れることができない。そこでホールとフラナガンはベースのパーシー・ヒースと共にドラムレス・トリオで出演することになった。

「こんな編成は、デトロイト以来初めてでした。」と彼は言う。

 「私は、このフォーマットの演奏に夢中になりました。ジムは素晴らしいリズム感があるので、ドラムレスがいい感じでした。出演後2週間ほど経った頃に、レコーディングしておくべきでした。演奏の熱が冷めず、トリオで何が出来るのか、どこまで行けるのかが把握できた時期にね。やがて、二人目の子供が生まれたので、私はエラ・フィッツジェラルドとの仕事を再開しました。」

 伴奏者としてのフラナガンの実力は、数多くのレコードで証明されているが、伴奏の役目は彼に充足感を与えることはなかった。

「最近の自分の演奏は、もうひとつ気に入りませんね。」と彼は言う。

<目指すはエリントン!>

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coleman7.jpg 「伴奏の仕事を少しやり過ぎてしまいました。それが自分のやりたいことならいいんですが・・・ 私の音楽的な理想はエリントンの様なアプローチです。いつか、あれほど聴き手の心を掴む音楽を書ければと思います。つまり、編曲ではなく作曲です。これまで、自分で誇りに思えるような曲は何一つ書いたことがありません。でも、今まで演って来たことを発展させれば、オーケストラ的なものになります。自分で聴きたいと思う音のイメージを、そのまま譜面に書き下ろす能力は、充分身についたと自負しています。例えば、コールマン・ホーキンスのためのバックを書きたいんです。彼をインスパイアするようなリズム・セクションなら書けると思います。私が提供したアイデアを気に入ってもらえれば、きっと凄いことを演ってくれますよ!

 無論、そういう音楽を独力で作るには時間が必要です。これまでは、そういう時間がありませんでした。誰だって即興演奏を重ねていくと、プレイの先が読めるようになるものです。前もって、あれこれ考えるのと同じようにね。何事も、行き当たりばったりに生まれることはありません。頭より指のほうが先に動くということは往々にしてあります。でも、指なりのフレーズは、過去に学習したパターンの反復なんです。実際、そういうことが多すぎます。でも指がたまたま間違った所に行ってしまうと、頭がシャキっと動いて、考えながら弾くようになります。」

 ことによると、将来のフラナガンは作・編曲に向かうのかもしれない。しかしいずれにせよ、これ程妥協をせず、短期間のうちに素晴らしい業績を達成したにも拘らず、現状に満足していない、こんな人物がいるとは思いもしなかった。今回のインタビューでそれが判っただけでも良かったと感じる。

聴き手:Stanley Dance / ダウンビート ’66 1/13 flanagan1164.jpg

(了)

 35才のトミー・フラナガンの発言は、現在の「足跡講座」で寺井尚之が展開するフラナガン論と、驚くほど合致していました。このインタビュー、皆さんはどう読み解きますか?