対訳ノート(39) Old Devil Moon

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石川賢治氏撮影写真集「京都月光浴」より:銀閣寺にて石川賢治「月光浴」HPより転載しました。

 中秋の名月です!上の写真は「月光写真」の第一人者、石川賢治氏が撮影した京都、銀閣寺の月。美しいですね!(写真集「京都月光浴」より)   9月はOverSeasでも、「月」に因んだたくさんの名曲を寺井尚之(p)がお聴かせします。28日(土)のメインステム・トリオ(piano 寺井尚之、bass 宮本在浩、drums 菅一平)のライブ、きっと素晴らしい「月光浴」ができそうです!今日は、メインステムが演奏を予定しているジャズ・スタンダード、”Old Devil Moon”のお話を!

 <フィニアンの虹>

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 バートン・レイン作曲、E.Y.ハーバーグ作詞、この作品は、1947年から725回というロングラン記録を打ち立てたブロードウェイ・ミュージカル、『フィニアンの虹』の中のラブ・ソング。OverSeasにとっては、名盤、『Dial J.J.5』(J.J.ジョンソン5)のヴァージョンが決定版。

 ABC1, ABC2 48小節と変わった構成で、ブロードウェイの曲なのに、Verseもないユニークな曲。J.J.ジョンソンはラテンと4ビートを絶妙に組み合わせて、アウト・コーラスはCから始まる意表をついた演奏構成!これが、歌詞と曲想にぴったり!

 フランシス・フォード・コッポラの初期督作品『フィニアンの虹』の”Old Devil Moon”は夜空とボサノバのラブ・シーンですが、それよりずっと歌詞にぴったり来る感じがします。

 『フィニアンの虹』は古典的ミュージカルの名作だから、映画をご覧になった方も多いと思います。百万長者を目指し、金の壺をかかえてアイルランドからアメリカの小さな村にやってきた変なオジサン(フレッド・アステア)と美しい娘(ペトゥラ・クラーク)を中心に、壺の妖精の魔法が、村にドタバタ騒ぎを引き起こす。結局、人間の幸せってお金じゃないんだ、愛なんだ!というファンタジー系のお話、でもそのウラには拝金主義や、人種差別に対する強烈な風刺のあり、脚本には作詞のE.Y.ハーバーグが関わっていました。

 <E.Y.Harburg ファンタジーと反骨精神>

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E.Y.Harburg(1896-1981)

 エドガー・イップ・ハーバーグは開拓時代の移民の町、ロウワー・イーストサイド育ちのNYっ子。子供の頃は、夕方に街灯を点灯して回るアルバイトで小遣いを稼ぎ、シティ・カレッジ時代ではアイラ・ガーシュインと同級生でした。ジャーナリストとして活動したり、電気器具の会社を設立してみたり、色々やって、作詞家になったのは30代の後半です。

 作詞家としての最初のブレイクは1939年、ハロルド・アーレンと組んで音楽を担当した『オズの魔法使い』で”Over the Rainbow”はアメリカ準国歌と言えるほどの「みんなの歌」になりました。

 『フィニアンの虹』も『オズの魔法使い』も、子供から大人まで楽しめるファンタジーですが、どちらも、社会に対する強烈な風刺と皮肉を感じます。

 

<オールド・デヴィル・ムーンって何?>

 この”Old Devil Moon”という言葉、とてもひとことの日本語にはしにくいです。私の翻訳パートナー、ジョーイさんに伺ったらこんなアドバイスをいただきました。

「例えば“harvest moon”(中秋の名月)の夜は、魔法のようにロマンチックなムードになるでしょう。この歌の場合、主人公の女性の瞳の中に輝くロマンチックな月が、相手の男性に魔法をかけて虜にする。基本的に「月」というものは良い意味で恋の悪魔のような役割をするんです。」

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 なるほど、Max Wilk著 “They’re Playing Our Song”というインタビュー集にはこんな逸話がありました。

 E.Y..ハーバーグが『フィニアンの虹』に取り組んでいるとき、「オズの魔法使い」で一緒に仕事をした友人の作曲家ハロルド・アーレンが家に遊びに来た。イップがバートン・レインと一緒に取り組んでいる「フィニアンの虹」の楽譜を弾いて聴かせると、或る曲についてアーレンが、「これはイマイチだ」とダメを出した。それで、「じゃあこんなのは?」 と、バートン・レインに、彼がいじくっている曲を弾いてもらった。これが”Old Devil Moon”の原型だ。

 他の映画のために、別の歌詞を付けたんだが結局オクラになったものだった。するとアーレンはこの曲を絶賛してくれて、ハーバーグはこれまでの歌詞をボツにして新しいアイデアを探した。

「魔法っぽい感じの歌詞がいい、何となく気味が悪くて、ヴードゥー魔術を暗示するような詞にしよう!」そうして出来たのが”Old Devil Moon”。通常の32小節パターンと違う変わった構成でヴァースもない。でもこの曲は大ヒットした。オリジナルであること。それが名曲の秘密だ。

 

<オールド・デヴィル・ムーン>原歌詞はこんな感じE.Y.Hurburg / Barton Lane

わたしが…

あなたを一目見た途端、

その瞳の奥の何かの、

虜になった。

それは魔法のお月様

あなたが空から盗んできて、

瞳の中にキラキラさせてる

魔法の月。

あなたは、輝く月をチラリとさせて、

私の恋を熱くする。

夜空の星は

ピカピカ光を放つけど

あなたの魅力には

これぽっちも及ばない。

あなたは

魔法の絨毯に私を乗せて

恋の冒険に誘う、

私の心はドッキドキ!

泣きたいよ!歌いたいよ!

バカみたいにヘラヘラ笑いたい!

これはきっと

瞳の月の魔法のせいだ。

私の心が鳩のように

自由、

あなたの瞳の奥に輝く

魔法の月が

恋で私を

盲目にしたから。

 

  ハーバーグがファンタジー系の歌曲を得意としていたのは、現実のアメリカ社会にある格差や人種差別など、資本主義が生む不正に強く憤懣を思えていたからかも。

 1950年には社会主義者としてブラックリストに載せられ、電話だって盗聴されていたかも知れないけれど、うまく世渡りをして、ギリギリの「風刺」で社会の世相を判し続けました。 
 「私がグっと来るのは、本当に危険で根深い問題を、笑いによって突き崩すことが出来た時なんだ。」:E.Y.ハーバーグ。
  泣いて、歌って、笑いたい!今月今夜の中秋の名月を観て、OverSeasで聴きに来てくださいね!
オールド・デヴィル・ムーンを!
CU

Jazz it’s Magic とデトロイト・ジャズ・シーン

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Magic.jpg  シーツをかぶり、白いパンスの上に赤い水着…あまちゃん??これ誰がデザインしたの?

 『Jaz…It’s Magic』(1957年9月録音)が、14日(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場します。CD化されたときは、当たり障りのないジャケットでした。いずれにせよ、中身はれっきとしたハードバップ!

 NYっ子、ジョージ・タッカー(b)以外、全員がデトロイト出身ですから、CDのライナー・ノートに書かれているように、Savoyがら出た、もうひとつの『Jazz Men Detroit』なのかも知れません。

  

 フロントのカーティス・フラー(tb)とソニー・レッド(as)は、この年に一緒にNYに出てきたばかりの新進ミュージシャンでした。

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 フラーは、永遠の愛聴盤『Blues-Ette』など、今後の足跡講座に頻繁に登場しますが、レッドはこの一枚だけです。 

 ソニー・レッド(表記が色々ありますが、正しくはSonny Red)は、本名、シルヴェスタ・カイナー、1932年デトロイトのノース・エンドと呼ばれる黒人居住区に生まれました。フランク・ガント(ds)やドナルド・バード(tp)と幼馴染、アレサ・フランクリンやダイアナ・ロスもこの地区出身です。

 

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 レッドは、デトロイトの若頭的存在だったバリー・ハリス(p)の指導をうけ、一人前のバッパーに成長、1954年になるとハリスやフランク・ロソリーノ(tb)と共演、同僚にはダグ・ワトキンス(b)がいました。一足先にNYに進出し、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの創設メンバーとなったワトキンスの推薦だったのか、同年、NYで短期間、メッセンジャーズで活動し、’57年に再びフラーとNY進出することになるわけです。

 この年、レッドはフラーのリーダー作『New Trombone』や、ポール・クイニシェットのアルバム『On The Sunny Side』 に参加し、快調なスタートを切るのですが、レッドには肺疾患の持病があり、ホーン奏者として致命的な問題でした。

 レッドは翌1958年、父が亡くなったのを機に一旦デトロイトに活動の拠点を移します。トミー・フラナガンやサド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルなど、デトロイト・ハードバップを牽引した天才たちがNYに去った後の、”ブルーバード・イン”やデトロイトのジャズ・シーンはどんな様子だったのでしょう?


<トミー・フラナガン後の”ブルーバード・イン”> 
sonny_redSCN_0017.jpg“ブルーバード・イン”にて:NYのから帰郷後のソニー・レッド (1932-1981) 

 

 OverSeasで寺井尚之が演奏を続けているデトロイト・ハードバップの基礎を作った、トミー・フラナガンやサド・ジョーンズでおなじみの“ブルーバード・イン”、サド&エルヴィンのジョーンズ兄弟やトミー・フラナガンは、いわば楽天イーグルスのマーくんのようにメジャー行きが約束される別格的存在でした。

 彼らが去った後、後輩ミュージシャンを指導し束ねるボス的な役割は、自宅で私塾的セッションを開催するバリー・ハリス(p)や、昼間はクライスラーの工場で働きながら、精力的に演奏していたユセフ・ラティーフ(ts,ss,etc…)が果たしていたようです。

  

tommy5994508.jpg ”ブルーバード・イン”は地元の精鋭でハウスバンドを組織し、そこに一流ゲストを組み合わせることで人気を博しましたが、そのためにハウス・ミュージシャンがNYにスカウトされ流出するという図式になっていたのかもしれません。 1957年、店は一旦改装、再オープンのときには、全国区クラスのモダン・ジャズ・バンドをブッキングする方針に転換。経営者、クラレンス・エディンスが、マイルズ・デイヴィスやミルト・ジャクソン、ソニー・スティットなどのスターと特に懇意なタニマチで、比較的安いギャラで導入できる利点があったためでした。以後2年間はデトロイトで唯一ビッグ・ネームを出演させるクラブとして君臨。再オープンした年は、モダン・ジャズ界で人気ナンバー1を誇るジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイを擁するマイルズ・デイヴィス・セクステットを始め、スターの公演が目白押し、さらにカウント・ベイシー・オール・スターズとして、サド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルが里帰り公演を行い、大盛況であったといいます。

 この時期の”ブルーバード・イン”で、ハウス・バンドというのは大物ローテーションの谷間を埋める役割で、インターナショナル・ジャズ・バンドというグループ名。アリス・コルトレーン(p)の義兄となるアーニー・ファーロウ(b)がリーダーで、フロントに、帰郷したソニー・レッド(as)が、そして ヒュー・ロウソン(p)、オリヴァー・ジャクソン(ds)というメンバーでした。(上の写真) レッド以外のメンバーは3人とも、ユセフ・ラティーフの舎弟といえるミュージシャンたちです。


 デトロイトで唯一、大物が出演するジャズ・クラブとして再び隆盛を誇るった“ブルーバード・イン“ですが、そのうち、同じような業態のライバル店が出現、そんな状況で、ミュージシャンの出演ギャラが高騰、やがて満員になってもペイできない状況になり、モータウン・ミュージックへの流行の移り変わりで、ジャズ・シーンは衰退していきます。

 だんだん身につまされてきたので、今日はここまで!

 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は毎月第ニ土曜日 6:30pm- OverSeasにて開催中!

受講料2,625yenです!(学割半額)

ビリー・エクスタイン:アイドルから伝説へ

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 9月7日(土)に「楽しいジャズ講座」で観るビリー・エクスタインは、寺井尚之が一番好きな男性ボーカリスト!バップの香り高い高度なフレージングと深い心の味わい、「智」と「情」を併せ持つ歌唱と、寺井尚之の熱い解説が楽しみです。

 その男性的な魅力に溢れるバリトン・ボイスから「セピア色のシナトラ」、その容姿から「黒きクラーク・ゲーブル」と呼ばれ、Mr.Bとして親しまれたエクスタインは、人種を越えた女性ファンに絶叫される黒人スターのパイオニアでした。

 同時にミュージシャンからも、かっこいいアニキと慕われ、パーカー-ガレスピーを始め実力者を擁するビバップのドリーム・バンドを率いて活動した3年間が、ジャズに寄与した役割の大きさは計り知れません。講座直前、戦前から80年代まで、第一線で活躍したビリー・エクスタインのことを簡単にまとめておきます。
 

 <ラブ・ソングを歌う黒人歌手>

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左から:アール・ハインズ(p)、エロール・ガーナー(p)、エクスタイン、マキシン・サリヴァン(vo)、 ピアノ前に座るメアリー・ルー・ウィリアムズ   

 ビリー・エクスタインは1914年(大正3年)に鉄鋼の街、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。同郷の先輩にはロイ・エルドリッジ(tp)が、後輩にはアート・ブレイキー(ds)がいます。
 父方の祖父はドイツ帝国に併合されたいまはなきプロイセン王国出身のヨーロッパ人で、祖母となる黒人女性と合法的に結婚しました。エクスタインのエキゾチックな容貌はそのせいなのかも… 7才の頃から歌を始め、ブラック・ハーバードと呼ばれる名門ハワード大学に進学しますが、アマチュア・タレント・コンテストに優勝したおかげで中退、本格的に歌手への道を進みます。
 1939年頃にかつてアル・カポネに愛された名門オーケストラ、アール・ハインズOrch.に専属歌手として加入、一気にトップ・シンガーに!最高のスーツでキメたゴージャスなバンドの雰囲気に、エクスタインはまさにぴったりでした。

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 アール・ハインズは最高のピアニストであると同時に、斬新なアイデアを受け容れる懐の深さがあり、その楽団.は、ビバップという新しい音楽を育むゆりかごのような場所でした。ギル・フラー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、それにマイルズが大きく影響を受けた夭折の天才トランペット奏者、フレディ・ウェブスターなどなど、キラ星のような団員で構成され、エクスタインは同僚のガレスピーにトランペットを習い、他の歌手と一線を画した器楽的なアイデアと歌唱スタイルを身につけます。

 イケメンでベスト・ドレッサーだったエクスタインが、アポロ劇場のアマチュア・ナイトで発見した逸材がサラ・ヴォーン!その頃は全く垢抜けない女子だったのですが、輝く才能を見込んだエクスタインが、容姿端麗主義のハインズに強力プッシュ、ピアニスト兼歌手として入団させたんです。当時、サラ・ヴォーンを観たエージェントは、ハインズの頭がおかしくなったのでは・・・と心配したそうですが、みるみるうちにショートカットの美女へと変身し、エクスタインからバップのコンテキストを伝授されスターへの階段を駆け上がった。サラは終生、エクスタインを兄のように慕いました。

<なんたってバンドリーダー!>

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左から:ラッキー・トンプソン, ディジー・ガレスピー, チャーリー・パーカー, エクスタイン

 当時の黒人歌手に許されたレパートリーは、コミックソングか意味のないジャンプ・チューンばかり、「黒人は道化に徹せよ」という社会で、白人客の前では、シリアスなラブソングを歌うことすらタブーだった。黒人はシリアスであってはダメという社会だった。ですからバラードで女心をメロメロにしたエクスタインの人気は、全く前例のない快挙だった。屈せず媚びない芸術家魂は、チャーリー・パーカーと共通するものがあり、若手の黒人ミュージシャンに尊敬された。その人気ぶりに、1944年、エージェントはエクスタインに自己楽団を組織して独立することを勧めます。

 ハインズ楽団で産声を上げた後にビバップと呼ばれる新しいジャズのかたちに心酔していたエクスタインは、自分のバンドをビバップのドリーム・チームに仕立て、本気で器楽演奏を主体とする活動を目指しました。トミー・ドーシー楽団から独立して、映画と歌の両方で大成功したフランク・シナトラとは、全く違う道を目指したわけです。いくら人気があっても、ハリウッドに黒人スターはあり得ない時代です。もしも、当時の映画界に有色人種をスターとして受け入れる度量があったら、ジャズの歴史はまた違うものになっていたのかもしれませんね。

 ビリー・エクスタインは自己バンド結成の理由をこんなふうに語っています。
 「バンドシンガーは楽団の使い捨てにされる。歌手としての私の自衛策は自分でバンドを持つ事だった。当時の人々は、私のような黒人歌手がバラ-ドやラブソングを歌うことをよしとしていなかった。今ならおかしいと思うかもしれないが、そんな時代だった。我々黒人は労働歌やブル-スや、アホな歌だけ歌っていればよく、愛については歌うべきではないとされていた。それにもうひとつ、私はビッグバンドが大好きだった!」
 
 billy-eckstine-orchestra-1.jpgビリー・エクスタイン楽団の在籍ミュージシャンを列記しするだけで、ドリーム・チームの様子がお分かりになるはずです。(ts)ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、フランク・ウエス、(as) チャーリー・パーカー、ソニー・スティット (tp)ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、ケニー・ド-ハム、マイルズ・デイヴィス、(ds)シド・カトレット、アート・ブレイキー・・・すごいでしょう!

メンバーたちは、仕事がはねてから次の午前中まで、ディジー・ガレスピーを中心にリハをやり、ピアノの前に集まってバップの新しいイディオムを創っていきました。ジュリアードなんて必要ない。バンドが大学だった!メンバー達はそう言いました。

エクスタイン自身もバルブ・トロンボーンを担当しました。なかなかの腕前だったけど、ビバップだけ、インストルメンタルだけというのは、世間は許さなかった。

 エクスタインの歌をフィーチュアした、A Cottage for SaleとPrisoner of Loveはミリオン・セラーになりましたが、大所帯、バンドの経営は大変です。戦時中でビッグ・バンドは遊興税を課せられ、移動手段のバスのガソリン配給もままならないイバラの道、地方巡業の公演地では、ほとんどのお客さんのお目当てはダンスとエクスタインの歌で、ビバップは理解されなかったんです。

 
1944savoy.jpg おまけに南部を旅すると、行く先々で人種差別や、ヤクザ絡みのトラブルがある。おまけに団員の音楽的な規律はビシっとしていたけれど、私生活はグダグダ。エクスタインは、上等のスーツの下にピストルを常に携帯してトラブルに備えた。それがまた「かっけえ!」と団員に慕われる!男の中の男だった。

 でも、バンド経営は別問題。あるときは公演地に譜面帳を忘れ、またある時は、チャーリー・パーカーがクスリ代のためにアルトを質入し、オカリナでソロをとる。そんなドタバタな毎日で、1947年、楽団は経済的に破綻してしまいます。

 儲からないと世間は冷たいもんだ!後に「最も過小評価されたバンド」と評したレナード・フェザーだって、その当時は、「調子っぱずれのバンド」と酷評してた。

 戦争とビッグバンドという形態の過渡期にあったドリーム・バンド!彼らの活躍ぶりをちゃんと捉えたレコーディングはないとブレイキーは残念がっています。  

<バラードを極める>


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 エクスタインはそれでもスターであり続けた。新境地はここからです。1947年 バンド解散直後、新生MGMレ-ベルと契約し、その2年後、ビリー・ホリディの献身的な伴奏者であった名手ボビ-・タッカ-を専属伴奏者し最高のバラード・シンガーとして活躍を続けました。タッカーとのパートナー・シップは、1992年、脳卒中で引退するまで終生続きました。 70年代はTVや映画などなど多方面で活躍。80年代は、ヨーロッパや、日本の「ブルーノート」にもたびたび出演し、さらに身近な存在になりました。

 2度の結婚で、連れ子を含め7人の子供のよき父親でもありましたが、そのうち、エド・エクスタインはマーキュリー・レコードの社長になり、日本公演にもドラマーとして同行したガイ・エクスタインは、プロデューサーとなり、クインシー・ジョーンズと共同で何度もグラミー賞を受賞し、現在私たちが頻繁に使うMP3の開発を手がけた音楽界の大物です。

 

 時代を先取りしながら、挫折に負けず終生「智」と「情」のある音楽を全うしたMr.B、晩年の味わいも、ビバップの土台があってこそ。その辺りを土曜日一緒に楽しみましょう!

 

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アポロ劇場主の息子ジャック・シフマン著:<ハ-レム ヘイデイ>より:
 「終戦後の芸能界の変革期に躍り出たニュ-スタ-は、ハンサムで才能あるビリ-・エ クスタインであった。Mr.Bは戦後初の真のス-パ-スタ-であった。・・・彼の発散する強烈なセックス アピ-ルは、黒人エンタテイナ-として初めて、アメリカ白人社会に受け入れられた。そのセクシ-さとは、ずば抜けた容姿だけでなく彼の音楽性、ショウマンシップ、人間性から出る魅力であった。」

Relaxin’ at Camarillo、西の情景

 Jimmy-Heath.jpg先週末、バードの生誕を記念する,恒例” チャーリー・パーカー・ジャズフェスティバル”がNYハーレムで開催されました。金曜日には、我らがジミー・ヒース(ts)がビッグ・バンドで書き下ろし演目のコンサートを!
 NY特派員、Yas竹田によればジミー・ヒースのプレイは素晴らしく、最高のコンサートだったとのこと!10代でリトル・バードと呼ばれたジミー・ヒースは現在86才!万歳!

 というわけで、先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」<Overseas特別講座>で改めて感動した”Relaxin’ at Camarillo”のことを調べてみました。日本で語られる逸話は、主に、パーカーゆかりの”Dial Records”の創始者でプロデューサー、パルプ・フィクション作家でもあったロス・ラッセルの著書“Bird Lives”からの出典が主のようですから、ここでは、パーカーと同じ世界に生きたミュージシャンの証言集、アイラ・ギトラーの”Swing to Bop”や、バードを神と崇めるミュージシャンたちのインタビューを色々紐解いてみました。

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(Charlie Parker August 29, 1920 – March 12, 1955),

 
カマリロでリラックス

 ・・・と言っても、カマリロは熱海みたいなリゾートではなく、ロスアンジェルスから車で一時間ほどの場所にある精神病院、バードはそこに6ヶ月入院していました。かなり自虐的タイイトルです。

 1946年、パーカーは、ディジー・ガレスピーとのコンボでハリウッドにある”Billy Berg’s”というクラブで演奏、NYに帰る交通費はクスリ代になったのか、コンビを解消し、単身ロスアンジェルスのガレージを改装したアパートで暮らした。LAとNYは、同じ米国でも西と東で、文化も違う。NYでは飛ぶ鳥落とす勢いのパーカー・ガレスピー・バンドも、西海岸ではマニアック。狂喜するのは、ビート族か若手ミュージシャンで、売上げに貢献してくれない客層。一般的な人気はまだまだだった。なにしろ、この当時、西の一番人気がキッド・オーリーのシカゴ・ジャズ、ビバップと銘打つなら、スリム・ゲイラードみたいに歌の入ってなくては喜んでもらえない。私たちがタイムマシンに飛び乗って聴きたいビバップ・バンドへの客足は日に日に遠のいたといいます。

 LAで、バードの一番の仲良しはトランペット奏者、ハワード・マギー、バードはマギーにしょっちゅうお金を無心して、彼の自宅にある酒やマリワナをごっそり拝借して行ったらしい。

 それは、LAの麻薬事情と関係がある。LAではヘロインの流通が少なく、入手困難の上に価格はNYの3倍(!)。曲の名前になるほどバードが世話になった(?)売人”Moose the Mooch”は既に服役していたから四面楚歌。

 

<リトル・トーキョー>

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 ディジーと袂を分かったバードの新しい本拠地は、「クラブ・フィナーレ」という店で、共演者はマイルズ・デイヴィスと、地元のジョー・オーバニー(p)、アディソン・ファーマー(b)、チャック・トンプソン(ds)というメンバーでした。

 その店は意外にも日系人の街、リトル・トーキョーにありました。住所は230 1/2 East First Street、元はオフィスビルの会議室だった場所ですが当時は空き家。大戦が連合軍の勝利に終わった後も、日系人は強制収容されていたから空いていた。皮肉だな・・・日系人がやっとリトル・トーキョーに戻り、死に物狂いで復興を始めるのは、1949年になってからです。
 
 さてParkerFinale-1.jpg、「クラブ・フィナーレ」は会員制、アルコール販売免許がなく、お客が自分で酒を持ち込み、入場料を払いライブを楽しむシステム、夜中から朝まで営業するアフターアワーズのクラブとして、知る人ぞ知る店となります半分非合法な業態ですから、閉店、開店を繰り返し、結局ハワード・マギー(tp)がマネージメントを担当、チャーリー・パーカーがレギュラー出演するので、パーカーを信奉する多くの若手ミュージシャンで大盛況、一時はラジオ中継されるほど賑わいます。ところが、繁盛ぶりを観た警察に「みかじめ料」を要求され、あえなく閉店。バードはたちまち生活に困窮。ガレージの家賃が払えず、安ホテルに引っ越した。

 

 当時のバードの状態をハワード・マギーはこう証言しています。「朝の5時でも、正午でも、夜中でも、バードはガレージで、常に起きていた。ベンゼドリンを大量に飲んでいたからだ。」

[Portrait of Howard McGhee and Miles Davis, Ne...

[Portrait of Howard McGhee and Miles Davis, New York, N.Y., ca. Sept. 1947] (LOC) (Photo credit: The Library of Congress) 

ベンゼドリンは覚せい剤、通称bennyと言われ、ヘロインはhorseと呼ばれてた。

 「起きている間、彼は常に読書をし、勉強していた。クスリでおかしくなっている時以外は、彼はものすごく教養にあふれた深い人間だった。女性には殆ど興味を示さなかった。

 バンドと編曲にしか注意を払わなかった私に、ストラヴィンスキーやバルトーク、ワグナーたちを教えてくれたのもバードだ。よく一緒に”火の鳥”や”春の祭典”を聴いた。」

  尊敬するバードがクスリをやるならと、真似をしたアルト奏者が死亡するという事故も起きた。バードは致死量のクスリを飲み、酒を浴びるほど飲み、何日も寝ない。

1946年7月29日、歴史的に有名な”Lover Man” セッションの夜、、ついに錯乱状態になり、ホテルのロビーに全裸で表れて注意され、その間には部屋で消し忘れた煙草でベッドが燃えてボヤ騒ぎ。10日間の勾留後、カマリロ精神病院に送られた。

<ようこそカマリロ精神病院に>

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 後記:上と左の写真は、ジョン・コルトレーンのエキスパート、藤岡靖洋氏が膨大なフォト・コレクションの中から探して送って下さったものです。上は現カリフォリニア州立大チャンネル・アイランド校となっているカマリロ病院。左は”ベル・タワー”、元男性患者の病棟で、バードが滞在していたと推測される建物です。Fuji先生ありがとうございました!)


 バードが6ヶ月過ごしたカマリロ州立精神病院は、1997年に閉院し、今はカリフォリニア州立大学の一部になっている。彼が入院していた頃は4000人を超える患者であふれていた。

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 彼はなかなか手ごわい患者、なにせ頭がいい。おかげで、彼を担当した精神分析医は、彼の精神状態を全く理解することが出来ずに、自殺未遂をします。ウィーン出身の研修医、ミイラ取りがミイラになってしまった。

 その間、マギーは何度も見舞いに行き、共演ピアニストだったジョー・オーバニーも治療の為に入院。病棟でであったバードが余りにも太っていたので、最初誰かわからないほどだった。仲間の殆どが再起不能と危惧していたバードは2月に退院し、復活を果たします。

<バスタブで生まれたオフ・ビートのブルース>

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 1947年2月、再びダイアルでセッションが決まりました。メンバーは、マギー、ワーデル・グレイ(ts),ドド・マーマローサ(p)、バーニー・ケッセル(g),レッド・カレンダー(b)、そして何故かドン・ラモンド(ds)、ラモンドは、バードとの共演を大喜びし、ジミー・ロウルズ(p)に大自慢していたといいます。

 録音の一週間前に、リハーサルがあり、マギーはバードを迎えに行きました。するとバードはお風呂に浸かって、譜面を書いている最中だった。LAのその地域で車を止めておくのが心配で、マギーはせかした。

「譜面は僕がバンド用に仕上げるから、もう服を着て行こう!」
 

 それじゃあ頼むわ、とバードが手渡した12小節の譜面。裏から入るオフ・ビートの意表をつくリズムは、これまで観たこともないようなものだった。それが「Relaxin’ at Camarillo」だ。マギーは懸命にパート譜を書き上げて、録音当日にメンバーに配って、バードがテンポを出した。

 ありゃりゃ、バード以外の全員があえなく撃沈。譜面を仕上げたマギーまでわからなくなったといいます。

 それから、格好がつくまで、バード以外の全員が、ゆっくりと譜面を見て練習しなくてはならなかった。

 それを観たバードはうんざりした様子で言った。

「君たちができるようになったら、呼びに来てくれ。」

 バードは酒を買って、車の中で飲みながら待った。マギー達が、一応プレイできるようになった頃、ボトルは空になり、彼は酔いつぶれていた。

 翌日、仕切りなおしの録音で、バードは絶好調!マギーは、彼が本当にカムバックできたことを実感して、嬉しかったといいます。

 <西からの福音書>

 この録音の直後、やはりバードを信奉しアルトを吹いていたジョン・コルトレーンが、キング・コラックスOrch.の一員としてLAにたどり着き、ジャムセッションでバードに遭遇、「Relaxin’ at Camarillo」の譜面をいただき、フィラデルフィアに持ち帰りベニー・ゴルソンと必死で練習したと言います。西海岸からもたらされたバードの新曲の譜面は、西方浄土の経典か、聖なる「福音書」として、うやうやしく取り扱われたんだろうな!

 

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 それから10年、やはりバードを尊敬し、ビバップのエッセンスを中学時代から吸収したトミー・フラナガンが、エルヴィン・ジョーンズとウィルバー・リトルで録音した「Relaxin’ at Camarillo」、フラナガンはドド・マーマローサのイントロをピカピカに磨き上げていとも自然に弾いている。オフ・ビートのユニークなリズムがエルヴィン・ジョーンズの鮮烈なブラシで一層際立ち、曲の解像度が大幅にアップしている。

 このときチャーリー・パーカー没後3年、もしもバードがジミー・ヒースのように長生きしてくれていたら、どこかのセッションで、このトリオと演ってくれたかも知れないですね。

 フラナガンは、それから40年後、『Sea Changes』で再録音し、ライブでも何度か演奏したのを聴きました。47年に、ミュージシャン達が度肝を抜かれた意表をつくリズムは、すっかりトミー・フラナガン達の血となり肉となって行ったんですね。

 

 

閑話休題: Summertime

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 夏のひととき、大好物のマンゴのデザートに、幸せ一杯の寺井尚之です。17日(土)は自己トリオ、メインステム!お客様をこんな顔にしたいですね!7pm開演 Live Charge 2,625yen 入れ替えはありません。

 OverSeasはお通常営業、夏休みがありませんが、私は「夏の友」(古いなあ・・・)のような課題で、別ジャンルの偉大なる「曲説」の勉強中。というわけで、今週のInterludeは休符です。

 

Summertime
Dubose Heyward / George Gershwin

サマータイム、
暮らしは楽だ、
魚は飛び跳ね、
綿花は豊作。

父さん金持ち、
母さん美人、
だから、赤ちゃん、
泣くのはおやめ。

そのうち、おまえも大きくなって、
立ち上がって歌う朝が来る、
翼を拡げて、
大空に羽ばたくよ。

その朝が来るまで、
誰にも悪さはさせないよ。
父さん、母さんが、
見守っていてあげるから。

対訳ノート(38) 「夫婦善哉」の味 She (He)’s Funny That Way

残暑お見舞い!

 ここ最近、パノニカ男爵夫人やドリス・デュークといったリッチ・ガールズの話題が続きました。今日は、今回は身の丈に合ったテーマ、貧乏っぽくてやるせない歌の話を。

 

 もうすぐTVドラマで始まるのがうれしい、上方を代表する文学者、織田作之助原作「夫婦善哉」の主人公、柳吉のテーマソングみたいな歌。

<ビター・スイートなラブ・ソング>

 ”She’s Funny That Way”という味わい深い古い歌曲(1928)を御存知ですか?大恐慌勃発の年(1929)に、ジーン・オースティンという歌手で大ヒット、エロール・ガーナー(p)、コールマン・ホーキンス(ts)など多くのジャズ・ミュージシャンが取り上げました。が、なんといってもビリー・ホリディの十八番として有名な歌。ホリディは1937年、レスター・ヤングを擁するOrch.とVocalionに初録音して以来、度々歌詞を変更しながら何度もレコーディングしています。

 ビリー・ホリディの忠実なフォロワーといえるアート・ファーマー(flh)が1979年にトミー・フラナガン3と来日公演したときに大阪サンケイ・ホールで演奏していたのを思い出します。もちろん、ビリー・ホリディが歌うときは、”He’s Funny That Way”となり、歌詞もそれなりに変わります。オースティンのノスタルジックなヴァージョンはここに。

 

 この歌は風変わりなラブ・ソングで、実らぬ恋のトーチ・ソングでも、燃えるような情熱の歌でもない。この”That Way”は「そんな風に」と「大好きで」のダブル・ミーニング、力づくで日本語にすると「おかしなほど私に惚れている」という感じ。自慢話のようなのですが、歌が進むに連れ、だんだん哀しく切なくなってくる。

 自分は愛される値打ちのない人間、相手がダメになっていくのは、”私”が足を引っ張っているせいなんだ。だけどもう身を引くことなんて出来るもんか!歌の主人公は、まるで”Sex and the City”で流行語になった”フレネミー”(friend +enemy)だ。でもこの歌はTVドラマより、ずっとずっと甘くて苦い。その稀有な味わいゆえに、映画の挿入歌として効果的に使われています。例えば、ウディ・アレンの『地球は女で回ってる』とか、エド・ハリスが精神を病んでいくアーティスト、ジャクソン・ポロックを演じた『ポロック 2人だけのアトリエ』とか・・・・

<唯一の作詞に隠された愛の物語>

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 作詞 リチャード・ホワイティング(1891 – 1938)、作曲 ニール・モレット(1878 – 1943)、作詞のホワイティングは作曲家として”Too Marvelous for Words”や”Miss Brown to You”などのヒット曲を作った。ヴォーカル通ならマーガレット・ホワイティングの父としてお馴染みかもしれません。かれが生涯で作詞したのはこの一曲だけ!こんなに味わい深い歌詞が書けるのなら、もっと書けばよかったのにと思ったら、それには理由があったんです。

 マーガレット・ホワイティングが父の書いた歌詞について面白い逸話を語ってる。(”They’re Playing Our Song” Max Wilk著) 
 イリノイ州出身のホワイティングは元々デトロイトを拠点に充実した作曲活動をしていた。ところが彼の所属する音楽出版社から、ハリウッドで映画音楽の仕事をするよう要請されます。仕事も順調で、住み慣れたデトロイトから遠く離れた西海岸に移るのは外国に挑戦しに行くようなもの。当たらなければお終いだ。きっと妻のエレノアは反対するだろうな・・・そこでホワイティングは、この歌詞に、「着いてきて!」という願いを込めた。だから、三コーラス目の歌詞にこんな言葉がある。 

“僕は凡人、せいぜい臆病者がいいところ、
だけど僕が西部に行くなら
きっと彼女は着いてくる”

Margaret+Whiting+59308898.jpg 聡明な娘、マーガレットは本の中でこう語ってる。
「父は、母が西海岸に着いてこないと、本気で心配をしていたわけではなかったでしょう。ただ、父は母のことをとても愛していたんだと思います。その気持が、父に唯一の歌詞を書かせた理由です。」 

 

 


SHE’S FUNNY THAT WAY
(I GOT A WOMAN, CRAZY FOR ME)

原歌詞はこちら(Verseなし)

作詞:Richard A.Whiting / 作曲: Neil Moret

<Verse>

昔はたいそうめかし込み、
ロールスロイスまで持っていた。

それが今じゃ落ちぶれて

堕ちる風情は流れ星。

いったなんで惚れてくれたのか?

じっくり考えてみなくては。

 

<Chorus①>

見栄えも悪く、深みもない

生きてるだけがとりえの男、

なのに幸運なのは、

恋人がいる、

おまけに私に夢中、

それがあの女のおかしなところ。

1セントの貯金もできぬ、

価値の無い男、それが私、

でも、彼女は嘆きもせず

テント暮らしも厭わない。

この女、
私に首ったけ、
そんなおかしな女。

彼女は私の為に、
毎日進んで働く。
もし私が身を引けば
ずっとましな暮らしができるだろうに。

だけどわざわざ自分から、
何でこの身を引かねばならぬ?

きっと私がいなければ、

不幸せになるにきまってる。

私の女、 私に夢中、
そんなおかしな女。

(②中略)

<Chorus③>

財産もなく、身内もない、

私にしては身に余る、

私の彼女、私に夢中、

それほど変な女、

 

ときおり彼女の心を傷つける、

それでも笑顔で答える女、

私の彼女、私に夢中、

それほど変な女。

 

思うに最善の方法は

別れて自由にしてやって、

ましな男に添わせること、

だけど私は凡人、

いいとこ ただの臆病者、

これだけは言える、

私が西に行くならば

彼女は私についてくる!

私の彼女、私に夢中、

それほど変な女。

 

<夫婦愛から曽根崎心中まで>

 この作詞が功を奏したのか、翌1929年、一家はロスアンジェルスに移住し、alecwildermages.jpeg映画界で成功した。ホワイティング家には、音楽サロンとして、アート・テイタム始めさまざまなミュージシャンが出入りしました。美しき哉、夫婦善哉!

 でも、ビリー・ホリディの歌唱を聴くと、そんなアット・ホームな歌の世界をはるかに超越してしまってる。ホリディが歌うのは、「夫婦善哉」どころじゃない!同じ上方ものでも、近松門左衛門の曽根崎心中だ!レディ・ディって和事だなあ!その「解釈」の力、卓抜な演出力に感服です。

 ポピュラー・ソングを隅々までメティキュラスな批評してみせたうるさ型系音楽家アレック・ワイルダーでさえ、歌詞を絶賛し、サビへの移り変わりを「革新的」とまで評しています。

 “He(She)’s Funny That Way”、あなたは近松派?それとも夫婦愛系ヒューマン派?どちらがお好きですか?

アメリカン・パトロネス: ドリス・デューク

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Doris Duke (1912-1993) 

 先日、パノニカ男爵夫人のことを書きました。多くのミュージシャンに援助の手をさしのべ、沢山の曲を献上されたパトロン、彼女は英国人。ミュージシャンは、パトロン自慢が好き!モナコ国王レーニエ大公やタイのプミポン国王が大のジャズ・ファンだとか、ヨーロッパの貴族がフィリー・ジョー・ジョーンズに多額の遺産を残したとか、いろんな人から、いろんな話を聞いた事があります。それじゃ、ジャズの母国アメリカ国民でパノニカに匹敵するようなパトロンはいなかったのでしょうか?

oscarpettiford-orchestra.jpg トミー・フラナガン初期のレコーディング、”Oscar Pettiford in Hi-Fi”は私の大のお気に入り、アルバムのオープニングはオスカー・ペティフォード作、 “The Pendulum at Falcon’s Lair”(はやぶさ邸の振り子)という一風変わったタイトルが付いている。丁度、時計の振り子に併せたようなテンポのバップ・チューンで、ハープが効果的に使われています。(足跡講座に出席されている方なら、この題名について色々論議があったのを覚えていらっしゃるかも)、“Falcon’s Lair”の女主人、ドリス・デュークは、アメリカ人として最も著名なジャズのパトロンだった。



<Falcon’s Lairとヴァレンティノの幽霊>

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rudolph+valentino+in+turban+and+pearls.jpg ”Falcon’s Lair”は「刑事コロンボ」の担当区域、ビヴァリー・ヒルズ有数の大邸宅で、本館と召使の館、広大な車庫や馬屋からなるV字型のカリフォルニア式建築。1925年、サイレント映画の伝説的スター、ルドルフ・ヴァレンティノが何億というお金で購入し、”Falcon’s Lair”と名付けた。アラブの王子様が当たり役だったヴァレンティノが収集したイスラム美術品など、贅を尽くした調度品で埋め尽くされた豪邸でしたが、この屋敷に住んで僅か1年後にヴァレンチノは亡くなった。邸にはヴァレンチノの幽霊が出ると言われ、主が転々とし、1950年代始め、やはりサイレント時代の伝説的女優、後年「サンセット大通り」で再ブレイクしたグロリア・スワンソンから邸を買ったのがドリス・デューク。でも”Falcon’s Lair”は、ドリスが全米各地に所有する5つの大邸宅のうちの一軒に過ぎなかった。季節に応じて住み分けたそうで、ハワイの豪邸”シャングリ・ラ”は今も名だたる観光名所。
 


<The Richest Girl>
 

Cecil-Barton.jpg ドリスは、タバコ産業で巨万の富を築いた億万長者の一人娘。全米屈指の名門校、デューク大学は、彼女の祖父と父が財政支援して設立された。ところが父のジェームズ・デュークは、ドリスがたった12才の時に病死。なんでも、ドリスの母親が、窓を開け放った寝室に、風邪をこじらせた夫を監禁したため肺炎が治らなかったと噂されるキナ臭い死でした。

 おまけに、父の遺言状は、「遺産の大部分を(妻でなく)娘に遺す」という内容であったために、実の母娘ながら、二人の間には大きな確執があったと言われている。以来、ドリスは「全米一のリッチな女の子」として、マスコミに追っかけまわされることになります。

 そのためなのか、母親はドリスに高等教育を施さず、ヨーロッパの社交界に無理やりデビューさせるという教育法をとりました。ヨーロッパの上流社会では成金娘と陰口をたたかれ、故国ではセレブとしてスポイルされ・・・ドリスの少女時代は、さぞかし窮屈なものだったでしょう。

 <Something to Live For>
 

doris_joe0111013195.jpg 成人後、7000万ドルという途方も無い財産を手にしたドリスが一番欲しかったのは、お金で買えるものではなく、”自由”と”生き甲斐”だったのかも。大戦中は週給1ドルで水兵の食事係、戦後はヨーロッパ各地の状況を米国に発信する特派員活動、でも、どれも長続きはしなかった。歴史に残るのは、ハワイ暮らしのおかげで、史上初の女性サーファーになったこと。パノニカが、レジスタンスで活動し、英国初の女性A級パイロットになったのと似ていますが、多くの親戚がガス室に送られ、自分や家族もアウシュビッツに連行されるかも知れないという修羅場をくぐってきたパノニカとは、必然性が少し違うのかもしれません。 

<ジャズに惚れ込み>

joe_castro4y80x.jpg ドリス・デュークは2度結婚している。最初は米国人の政治家、2度めの夫はドミニカの外交官だった。どちらも、世界一周や、B29爆撃機の購入などなど、ふたりとも彼女の財産を相当派手に使った。

 それ以来結婚せず、ハリウッドスターやスポーツ選手と浮名を流す。セレブな彼女がジャズに惚れ込んだのは、ジョー・カストロという西海岸で活動するピアニストと恋をしたのがきっかけのようです。

 億万長者のお相手、ジョー・カストロは1958年から西海岸で活動したバップ・ピアニスト、テディ・エドワーズ(ts)、ルロイ・ヴィネガー(b)、ビリー・ヒギンス(ds)とカルテットでの活動が有名です。二人は”Falcon’s Lair “で同棲し、カストロはお城のような家からギグに出かけた。何十もの部屋がある大邸宅には、カストロを訪ねてルイ・アームストロング始め多くのジャズ・ミュージシャンが入れ替わり立ち代り逗留していました。

 マイルズ・デイヴィスのバンドが西海岸に演奏旅行すると、メンバーのキャノンボール・アダレイはホテルを取らず”Falcon’s Lair “を定宿にしていた。屋敷に遊びに行ったジミー・ヒースは「あんな豪邸を訪問したのは生まれて初めて」とびっくり仰天!

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resize.jpg はやぶさ邸”には、各部屋に豪華な録音機器が設置され、ミュージシャン達のセッションが録音できるようになっていた。オスカー・ペティフォードは言うまでもなく、ジェリー・マリガン(bs)、スタン・ゲッツ(ts),ラッキー・トンプソン(ts,ss)などのセッションを含む150本のオープン・リールが現存しているそうで、そのうち、ズート・シムスがアルト・サックスを吹いているプライベート・セッションがリリースされています。ジャケット写真は、屋敷内のセッションの模様で、しどけないTシャツ姿で。

 

 

 

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 1960年、カストロとドリスは、共通の友人、デューク・エリントンともに”Clover”というレコード会社と音楽出版の子会社を設立しましたが、結局はカストロのレコードを一枚リリースしただけで頓挫、二人の愛人関係も1966年に終わりました。その後は、最新の録音機材の数々もガレージに山積みで使われることはなかった。

 二人の長い愛人関係は、ジャズが結ぶ「大人の関係」とは行かなかったようで、カストロに「妻」呼ばわりされるのをやめてもらうため、ドリスはわざわざ裁判を起こさなくてはならなかった。まあ、色々あったけれど、ドリスのジャズに対する支援は続き、現在もドリス・デューク基金から、ニューポート・ジャズ・フェスティバルや、ミュージシャンへの活動支援として、高額のお金が拠出されているようです。

 ドリスは、エイズ研究や自然保護、恵まれない子供達の支援など、ありとあらゆる慈善活動に貢献した。”Falcon’s Lair”が数ある邸宅の一つに過ぎなかったのと同じように、ジャズへの愛も彼女の人生に彩りを与えるOne of Those Thingsだったのかもしれない。

 パノニカの名前を冠したジャズ作品は多いけれど、ドリスにまつわる作品は、彼女の名前でなく、屋敷だったというのは、何故なんだろう? この屋敷でドリス・デュークは亡くなった。享年80才、沢山豪邸があっても、寝たきりで動くことが出来ず、看取ったのは執事だった。

 ”Falcon’s Lair”は、道路建設用地として大部分が取り壊され、現在はエントランスの一部が残るのみ。

 

人がうらやむ贅沢も、  殆ど私は手に入れた。

 車や家や別荘も、

 熱い暖炉のその脇の、熊の毛皮の敷物も…

 なのに何かが欠けている・・・

(ビリー・ストレイホーン:Something to Live For)

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トミー・フラナガン・トリオ:Overseas にまつわる話

 

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 大阪の街は天神祭、暑い暑いと言っているうちに、学生諸君は夏休みの話題で持ち切り!
寺井尚之とトミー・フラナガンの運命的な出会いとなった名盤『Overseas』が、8月10日(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場します。当日はこの一枚に焦点を絞って徹底的に聴きながら、寺井尚之が語りつくします。旧講座で取り上げたのが2004年7月、今回は新たな発見も沢山ご紹介していきます。前回以降、オリジナルEP盤のBOXセット(DIW)や、メトロノーム・レコードのアンソロジー『Jazz in Sweden』(ワーナーミュージック・ジャパン) など、様々なかたちで復刻が続いています。8月の足跡講座、Overseas Specialに先駆けて、ここではレコーディングにまつわるエピソードを。

 

<J.J.ジョンソンとの海外遠征>

downbeat_1957_9_5.JPG ご存知のように、本作はJ.J.ジョンソンとスウェーデン楽旅中、1957年8月15日に、ストックホルムで、バンドのリズムセクション(エルヴィン・ジョーンズ、ウィルバー・リトル)でピアノ・トリオとしてレコーディングした『海外』作品。当時のダウンビート誌(1957年9月5日付)には、”Dear Old Stockholm”と題して、J.J.ジョンソン速報が掲載されています。

 王立公園で2万人以上の聴衆を熱狂させたこと、アフターアワーズのでジャム・セッションをするにも、ストックホルム、イエテボリ、マルモといった大きな街以外にはジャズ・クラブがないので仕方なくレストランで行ったこと、北欧の人々は英語に堪能で言葉の心配がないことなどなど、北欧ジャズ・ブームのSCN_0015.jpg一端を垣間見ることが出来ておもしろい!

 



<陰の立役者:ダールグレン>
 

 J.J.ジョンソンがキャバレー・カードを剥奪され、NYのジャズ・クラブ出演が長期にわたって規制されていたことは以前書きました。そのような状況下に舞い込んだ数ヶ月間のヨーロッパ楽旅は願ってもない仕事だったでしょう。

clas-dahlgren.jpg スウェーデン政府の招聘によるJ.J.ジョンソンのツアーとメトロノーム・レコードでのフラナガンの録音のお膳立てをしたのが、「スウェーデンのジャズ大使」と謳われたクラエス・ダールグレンという人物です。(左写真:Claes Dahlgren.1917 – 1979) )生粋のスウェーデン人ですが生まれはコネチカット、金融、工業など様々な企業の要職に就き、1949年から60年代まで米国に駐在し、スカンジナビア・ラジオやメトロノーム・レコードの代理人も務めていました。自他共に認める大のジャズ・ファンで、スカンジナビア・ラジオに”Jazz Glimpses of New York”という自分のジャズ番組では、自らレポーターとしてNYのジャズクラブから最先端のジャズ情報を発信していました。ダールグレンはまたジャック・ハーレムというステージ・ネームでピアニストとしても活動し楽団まで組織したこともある人ですから、新進ピアニスト、トミー・フラナガンにいち早く目をつけて、スウェーデン楽旅の際にはぜひ!と録音を依頼していたことは容易に想像がつきます。

 各方面に責任ある名士のアレンジメントですから、『Overseas』の録音契約は、フランスでライオネル・ハンプトン楽団のメンバーがハンプトン抜きで行ったVogueのセッションとは違い、抜け駆けの仕事ではなかったと推測できます。なによりもジョンソンはコロンビア・レコードの専属ですから他の会社でレコーディングはできなかったし、ボスを裏切るようなレコーディングであれば、フラナガンとジョンソンが終生個人的に親しくお付き合いすることもなかったでしょう。

 <ビリー・ストレイホーンの厚意>

 

billy-strayhorn-festival-2.jpg 『Overseas』にさきがけて、プレスティッジで録音した初リーダー作『The Cats』の出来が、想定外の憂き目にあったフラナガン、同じ轍は踏まず。

 録音プランは、自分のオリジナル曲と、尊敬する音楽家たちへのトリビュート的なヴァージョンの2本柱になっていました。

restau72.jpg 今回のメンバーは、J.Jのレギュラー・リズムセクションですから、”Dalarna”や”Eclypso”といった手強いオリジナル曲も、下準備の余裕がある程度あったはず。それらと、フラナガンが最も尊敬する3人の音楽家に因む曲を組み合わせて録音しようという構想を立てた。

 アート・テイタムの名演で知られる”柳よ泣いておくれ”はスタンダードですが、チャーリー・パーカーの、”Relaxin’ at Camarillo”は難曲!でもデトロイト時代からのエルヴィン・ジョーンズが一緒だから心配はなかった。そして、もうひとつの大きな要が、大好きな作曲家、ビリー・ストレイホーンの『チェルシー・ブリッジ』でした。

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 なんたる幸運!出発前、フラナガンは、マンハッタンでビリー・ストレイホーンにばったり会った!場所はジャズ・ミュージシャンの溜まり場になっていた『Beefsteak Charlie’s』というステーキハウス兼居酒屋でした。 現在も『Beefsteak Charlie’s』はありますが、ファミリー・レストランみたいになっていて往時の雰囲気はありません。

 新人のフラナガンにとって、デューク・エリントンの懐刀ストレイホーンは雲の上の人、だけど男として、ミュージシャンとして、きちんと筋はとおさなければ。、私はこれこれこういう者です。「実は今度、あなたの名曲をレコーディングさせていただきます。」とご挨拶をした。
 そうするとストレイホーンは「時間があるなら、ご一緒にどう?」とティン・パン・アレイにある自分の音楽出版社まで同行し、オリジナル曲の譜面をごっそりくれたのだそうです。フラナガンの大きな瞳はどれほど輝いたことでしょう!

 ストレイホーンの厚意をしっかり受け止めた結果が、あの名演!後のビリー・ストレイホーン集『Tokyo Recital』も、ライブでの名演目『Ellingtonia』も、この素晴らしい偶然の出来事から始まっのではないだろうか。

 
 <水浸しのスタジオ、マイク1本録り!>

 

overseas2.jpg 1957年8月15日、ストックホルムの某地下スタジオに入ったフラナガン一行は唖然とした。数日前に洪水に見舞われ床は水浸し!機材に損傷があったのか録音マイクは1本という”terrible”な装備だったのです。ピアノの状態は推して知るべし・・・その話をしてくれたときのフラナガンのへの字の口と天を仰ぐ目つき、今でもはっきり覚えています。

 そんな悪条件を思いやってか、地元の人から差し入れが届いた。ビールが2ケース(!)とジンが1本、レコーディングしながら全部3人で飲んじゃった!ウェ~イ!いい気分!完全に出来上がった状態でスイングしまくった即興ブルースは、そのまんま「乾杯、ブラザー!」”Skål Brothers”になった。

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 <続きは講座で>
 

mitsuplate8.jpg トミー・フラナガン27才のレコーディングは『Tommy Flanagan trio』として 、メトロノーム・レコードから3枚のEP盤として発売され、まもなく米国のPrestigeから『Overseas』のC並びのジャケット(デザイン:エドモンド・エドワーズ)でLPとして発売されました。(左の写真は、さらにシャレたお客様に当店が頂いた手作りプレートです。)

 

 ジャケットも実に様々なものがあり、トミー・フラナガン公認ファンクラブ「フラナガン愛好会」のサイト

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に詳細が掲載されていますが、私の初恋Overseasは、大学時代の先輩に強制的に購入させられたテイチク盤、ジャケット写真がDUGの中平穂積さんの撮影で、それがフラナガンの姿との初対面でした。

 ずっと後に、フラナガンに中平さんとの交友について聞かされて、NYのアパートに行ったときは中平さんから頂いたという豪華な羽子板が飾ってあり、数年前にご本人とお会いできたときは感激でした。

 コンプリート盤やSACD…これからも、様々な形でOverseasは再発されていくのかな?別テイクの収録は、研究者にはありがたい資料ですが、フラナガン自身はとても嫌がっていました。

 たくさんあるレコードの中には、「別テイクでない別テイク」という摩訶不思議なものもあってややこしい・・・

 そういう辺りや、演奏内容、内から外から、音楽についての目からウロコのお話は、どうぞ8月10日(土)6:30pmから、寺井尚之の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」でお楽しみください。

CU

パノニカに夢中 (4): ロスチャイルド家の女


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dvd28470096718934.jpg 先日、英国BBC放送のドキュメンタリー番組「The Jazz Baroness(ジャズ男爵夫人)」を観ました。The Jazz Baronessとは、言うまでもなく、パノニカ男爵夫人、数年前に出た「三つの願い」は、パノニカの孫娘によって編纂されたものでしたが、この作品は、パノニカの実家、兄の孫娘である放送作家、ハナ・ロスチャイルドが、パノニカ本人や、自分の一族、モンクゆかりの人々を入念にリサーチしながら、ヨーロッパの名家、ロスチャイルドの親族としてまとめ上げた興味深いドキュメンタリーでした。

 

 ハナ自身がナビゲーターとして、ヨーロッパ大富豪の末裔であるニカと、西アフリカ出身の黒人奴隷の子孫である天才音楽家セロニアス・モンクの生い立ちをシンクロさせながら、二人の結びつきが必然的なものだったことを暗示していきます。
 以前、パノニカ夫人、Kathleen Annie Pannonica de Koeningswater について散々書いたのですが、この番組を観たら、また話題にしたくなりました。
 
 証言者として登場するのは、パノニカの姉(昆虫学の世界的権威 ミリアム)や甥(ハナの父)、デヴォンシャイア公爵夫人といった上流階級、そして、セロニアス・モンクの息子、TS.モンク、クインシ―・ジョーンズ、ジョージ・ウエイン、アーチー・シェップ、ロイ・ヘインズ、チコ・ハミルトン、それにモンクのドキュメンタリー、『Straight No Chaser』を作ったrクリント・イーストウッドなどなど。ヨーロッパ、米国、色んな立場の証言で、一見かけ離れた二人の接点を見事に浮き彫りにしていました。
<ヒントは『Thelonica』に!>
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 ハナは1962年生まれ、私のように出来の悪い子は「名門ロスチャイルドの一員としてふさわしくないのではないか?」というプレッシャーを常に抱えてきた女性。彼女にとって大叔母であるパノニカ(1913-88)は家の恥、下品な女、はみ出し者として、話題にすることすらタブーだったのですが、自分と似ているように直感し、強い興味と親近感を覚えるようになります。パノニカを探る旅は、作者ハナ自身を探す旅でもあります。
 
 パノニカを訪ねて、彼女がロンドンから初めてNYに旅をしたのが1984年。偶然にも私がヴィレッジ・ヴァンガードでニカを観たのと同じ年でした。

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 NYに着いたハナはニカに電話をかけます。
「大叔母様、私は今、NYにおります。ぜひお目にかかりたいのですが。」
 「それじゃ、真夜中にダウンタウンのジャズクラブにいらっしゃい。」とニカは神経質そうにクラブの住所だけ言った。
 「住所だけで判るのですか?」 物騒なNYの町で右も左も分からないハナが不安気に言うと、
 「目印はベントレー。」それだけ言って電話は切れた。
  地下組織で活躍したニカらしい逸話です。
 毛皮のコートに真珠のネックレスのニカは、お決まりのテーブルに陣取り、いかにもくつろいだ雰囲気だった。71才の大叔母はジャズのために、家族を捨てた人。彼女は初対面のハナにこう言います。
「覚えておおき。人生は一度しかないのよ。」

Brilliant Corners

Brilliant Corners (Photo credit: Wikipedia)

 ニカに会って、ハナはますます興味を掻き立てられます。そんな彼女の元に、ニカは2枚のLPを送ってきた。一枚は、”Pannonica”を収録したモンクの『Brilliant Corners』、そしてもう一枚がトミー・フラナガンの『Thelonica』だった。

 ホレス・シルヴァーやソニー・クラーク、ジジ・グライス・・・数多の音楽を献上されたニカは、多くのレコーディングの中から『Thelonica』を選んだ訳は、音楽を聴けばよく分ります。フラナガンが、モンクとニカの関係を、最善の形で音楽として表現していたということに違いありません。
 Pannnonicaは蝶ではなかった> 
 

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ニカとその兄弟:(左から、ヴィクター、ミリアム、リバティ、パノニカ)

220px-Narranga_tessularia_male.jpg “パノニカ”という名前が、父の発見した新種の「蝶」に因んだものだということは、以前Interludeに書きましたが、このドキュメンタリーでは、実際の”パノニカ”は美しい蝶ではなく「蛾」だった。英国王立自然史博物館に所蔵される標本を観たハナは、その蛾の色を、ヒトラー以前、ロスチャイルド家のハウス・ワインであった、「シャトー・ラフィット・ロートシルトに浸したような色と表現している。

 
 

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 その逸話が象徴するように、令嬢パノニカの子供時代は決してバラ色でなかった。一家の住居は、人里離れた丘の上に建つ ワデスドン・マナーと呼ばれる城、英国王や首相を始め各国の要人が客として訪れる。ロココ風の豪奢な調度品や、当主が集めた珍しい動物の剥製の数々!
 
 紅茶に入れるミルクだって、3種類の牛からお好みの乳を選ぶんですから、私のようなドブ板庶民には想像もできない世界。
 でも、子どもたちにとって、その城は、おとぎの国どころか、息の詰まる場所だった。清潔過ぎる部屋、看護婦や召使に囲まれて、鬼ごっこすら出来ないし、好きな洋服も食事も選べない。
 女の子はドレスのリボンの色まで決められていた。
 母親ロジツカに会えるのは寝る前に、お祈りする時だけ。
 そして何よりも驚くべきことは教育。女の子には高等教育が許されなかった。美しく成長したら、社交界にデビューし、よき伴侶をゲットし、多くの子供を作ることが女の努め。
 ロスチャイルド家だけでなく、名家というものはそういうものだったそうです。
 <モンクとロスチャイルドの共通点>

  

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nica (Photo credit: ChrisL_AK)

 女性の教育を嫌ったロスチャイルド家ですが、ニカの姉上、ミリアムは「蚤の研究家」として生物学史に名を残しているし、父チャールズ、兄ヴィクター、銀行家として投資に勤しむ傍ら、科学の研究でも成果を残しています。彼らのペットがフクロウで、まるでハリー・ポッターの魔法学校!

 パノニカだって英国女性として初めてA級パイロット免許を取得しています。(だから、兄ヴィクター・ロスチャイルドは、ニカの結婚祝いに飛行機(!)をプレゼントした。) 脳のCPUが並外れた家系なのかも知れません。

 その反面、パノニカの姉、リバティは統合失調症で苦しみ、父チャールズはうつ病のために自分の喉をナイフで掻き切ったという負の歴史を背負っています。

 チャールズ・ロスチャイルド卿の自殺のニュースは国中を駆け巡りましたが、母ロジツカは子供達にその不幸な事実を隠して、病死を偽った。子供達が成長して、悲惨な事実を知った後も、家庭でその話をすることはなかったといいます。パノニカが家庭を捨てて、ジャズメンと人生を共にした遠因はそこにあったのでは、とハナは感じています。
 
 一方、セロニアス・モンクの父親も警察署長になったほどの優秀な人でしたが、後に精神を病み療養所で亡くなり、モンク自身も精神を蝕まれて亡くなった。
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 ニカの子どもたちの親権は全てケーニグスウォーター男爵に。

<ニカはモンクの愛人だったのか?>

   

round_midnight_single.jpg パノニカがモンクに惚れこんだのは1948年、まだモンクが無名の頃、兄のピアノ教師であったテディ・ウイルソンに”Round Midnight”のレコードを聴かされたのがきっかけでした。それからニカは20回以上立て続けにこのレコードを聴き続けたと言います。モンクの音楽のおかげで、彼女はアルコール中毒から立ち直った。
 ニカの非凡なところは、その時の思いを一生持ち続けたところ。
 ニカはモンクのためなら何だってやってのけた。自らマリファナ所持の罪をかぶって拘置所に入った。何故ならモンクは黒人で無防備なアーティスト、自分は白人女性で金持ちだからダメージは少ないと。チャーリー・パーカーが彼女の住むホテルの部屋で「変死」し、黒人と共に逮捕されたパノニカは、変態、淫乱男爵夫人として、マスコミから大バッシングを受け、ロスチャイルド家からも見放され、夫から離婚を言い渡されても、モンクとジャズへの愛情は揺るがなかった。
 ニカはモンクだけでなく多くのジャズ・ミュージシャンの面倒を観ていました。
 ハナは、彼女の信念が、ロスチャイルド家で父を亡くした生い立ちと、ホロコーストにつながったユダヤ人差別に密接に関わっていることを映像で証明していきます。
 
 モンクにはジャズ界で良妻の誉れ高いネリーといういう妻と子供がいましたが、ニカとの関係は男女のものだったのか?これまでの伝記と違って、ハナはその辺りを興味本位でなく、真摯にクローズアップしています。
 
  晩年、ネリーは精神に以上をきたしたモンクに付き添い、ニカの邸宅”キャット・ハウス”に移り住み、葬儀には、ネリーとニカが並んで参列者に挨拶をした。 妻妾同居?  息子のTSモンクは、「そりゃニカはモンクに惚れてたんだ。」とシニカルにコメントしています。一番上の写真でも、ニカのモンクに対するまなざしは愛情に溢れています。  それでも、三角関係のややこしさの痕跡はどこにもありません。夫や子供を犠牲にしてモンクの元に走った女なら、それこそ財力にモノを言わせて、モンクを離婚させる事だって出来たかもしれない。  でもそんなことは全然起こらなかった。確かに愛していたのでしょうが、私たちの定規を越えた愛だったに違いない。 
 トミー・フラナガンの名作『Thelonoca』の硬質なバラードを聴くと、二人の稀有な友情が、色恋を超えたものだったことが、何となく分るように思えます。  私も、まだまだパノニカに夢中、今度はハナ・ロスチャイルドの書いた伝記本も読んでみよう!  
 
 今回、貴重なDVD、『The Jazz Baroness』を見せてくださったサックス奏者、高橋氏に心より感謝します。  
 
CU  

MR. PC: 素顔のポール・チェンバース

paul1.gif   左から:ポール・チェンバース(b)、クリフォード・ジョーダン(ts)、ドナルド・バード(tp)、トミー・フラナガン(p) 『Paul Chambers 5』(BlueNote)のセッションにて。撮影:Francis Wolff


 今週(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に『Paul Chambers Quintet (Blue Note BLP 1564) 』が登場します。
 
 高校入学した頃、ジャズ評論家、いソノてるヲ氏と懇意だった従姉のお姉さんの部屋に行くと、いつも『Kind of Blue』がかかっていたので、ポール・チェンバースは、ごく当たり前のベーシストという感じでした。だってそれしか知らないから。OverSeasに来てしばらくした頃の大昔、寺井尚之が、ジョージ・ムラーツ(b)に「好きなベーシストは?」と訊いたら、ポール・チェンバースとレイ・ブラウンという返事で、なんか「当たり前やん・・・」と思ったけど、ジャズの歴史を調べると、スラム・スチュアートと共に、ジャズ史上、初めてピチカートと弓(アルコ)を併用したベーシスト。当たり前どころか革新者!
 

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 Paul Laurence Dunbar Chambers, Jr. デトロイトで育ち、NYで開花したベーシスト、Mr. PCは、僅か33才と8ヶ月の人生を、太いビートで駆け抜けた。
Paul Chambers Quintet

Paul Chambers Quintet (Photo credit: Wikipedia)

 デトロイト出身の名手に数えられるMr.PCことポール・チェンバース、でも生まれは母方のピッツバーグ、13才の時、お母さんが亡くなって、お父さんの住むデトロイトに移ってきた。最初はチューバを吹いていて、チャーリー・パーカーやバド・パウエルを聴いてからベースに転向したのが14才頃、体育会系のお父さんは、ベーシストに成るのに猛反対したといいます。

 チェンバースは1935年生まれで、トミー・フラナガンより5才年下、あの頃のデトロイトの音楽年齢を考えると、完全に一世代下の異次元世代と言えます。20才になるかならないケニー・バレルとフラナガンが、十代の学生たちのパーティで演奏(バンド用語なら「ショクナイ」という営業か?)しているところに、「すみません、一曲演らせてもらえませんか?」と飛び入り志願したのが中学生のチェンバース少年、バレルは大学でセカンド・インストルメントとしてベースを勉強していたので、「ベース奏法のABCを最初に教えてあげた師匠は私だ!」と自慢しています。

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 チェンバースとダグ・ワトキンス(b)が従兄弟同士であったことは有名ですが、血縁関係はないらしい。異なるDNAでも、この二人は親友で、デトロイトの黒人街に同居し、多くのジャズの偉人を輩出したカス・テクニカル高校に通いながら、現在の音大に優るクラシックの高等教育を受け、お互いのベースの腕を磨きあったといいます。
 学校ではデトロイト交響楽団のコントラバスの名手が、そして放課後は、ご近所の住人、ユセフ・ラティーフやバリー・ハリスがジャズ理論をしっかり教えてくれて、ホーム・ジャム・セッションまであったんだから、モーターシティはジャズ・エリート養成所でもあった!
 『Paul Chambers Quintet』の参加ミュージシャンは、テナーのクリフォード・ジョーダン以外、全員デトロイターで、トランペット奏者の、ドナルド・バードはカス・テック高の同窓生です。ティーン・エイジャーながら、ピンホール・カラーのワイシャツがトレードマークで、デトロイトのジャズクラブに盛んに起用されました。デトロイト時代に儲けた息子さん、ピエール・チェンバースは、現在歌手として活躍中です。
 
 1955年、レスター派でVice Prez(副大統領)と呼ばれたテナー奏者、ポール・クイニシェットにスカウトされてNYへ。ジョージ・ウォーリントンや、J.J.ジョンソン & カイ・ウインディグの双頭コンボを経て、マイルズ・デイヴィスのバンドでブレイクします。
 <アイドルか?ニュー・スターか?>

paul-chambers.jpg マイルズ・デイヴィスやジョン・コルトレーンとの活躍は名盤と謳われるアルバム群が示すとおりですが、ライブのステージでも、チェンバースのベース・ソロは、いつでもお客さんの喝采と掛け声が凄かったと、マイルズ・バンドでしばらく共演していたジミー・ヒースが驚いています。それほど大きなベース・サウンドで『掴み』のあるプレイだったんですね。
 
 丸顔で愛らしい風貌と、マッチョな体躯とファッション・センス、そして痺れるビートで、どこに行っても女性にモテモテだったそうです。
 
 でもチェンバースは、クラシックの地道なトレーニングをコツコツやると同時に、激しいデトロイトの競争社会を勝ち抜いて、真面目に下地を作ったプレーヤーですから、チヤホヤされても努力は怠らなかった。しこたま飲んだ翌日も、デトロイト時代からお世話になっているカーティス・フラーの家に、朝の10時ころから、ライブで演奏する曲を予習したいと、出稽古に押しかけて、そのうち、ジョン・コルトレーンやクリフ・ジョーダンも加わって、夕方までずっと練習三昧の生活をしていた。音楽も快楽も、子供のようにむさぼって、並の人間よりも、人生を疾走しすぎたのかもしれません。
 <Big P>
 
  
 ジミー・ヒース(ts)は、麻薬で服役した後に、ジョン・コルトレーンの後任者としてマイルズ・デイヴィス・クインテットに入団。当時の同僚は、ウィントン・ケリー(p)、ジミー・コブ(ds)、そしてチェンバース(b)でした。コブは、前任者フィリー・ジョー・ジョーンズと対照的に、空手もたしなむ礼儀正しい優等生タイプ、後の二人は天才肌で大酒呑みだった。ケリーは酒好きでも、自分をコントロールする術を知っていたけど、チェンバースは赤ちゃんみたいに無邪気で、ブレーキをかけることが出来ないタイプだったそうです。だからツアーともなると、しばしばベロベロになってステージに上がるというようなことがあったらしい。そうなると、リーダーのマイルズは、わざと、早いテンポで出たり、ベースのイントロが要の”So What”を演ってお仕置きした。ベロベロのチェンバースが、噛むわ、滑るわで凹んだ時には、マイルズが、あの嗄れ声で囁きかけた。
 
 ”OK、ポール、もういいよ。今夜は飯を食いに連れてってやろう。”
 
 マイルズにご馳走してもらうと、ポールは子供みたいに無邪気な顔で、パクパクと食べ物にむしゃぶりついた。ツアー中、ジミーとホテルのバーに行くと、まるで駄菓子屋にいる子供みたいに、あれも、これもと飲みまくる。
「後にも先にもあんな奴、観たことない・・・」
 
latepaulchambers.jpg マイルズ・バンド時代、チェンバースは、尊敬するチャーリー・パーカーの三番目の妻だったドリス・シドナーと同棲していた。ドリスは13歳年上だったらしいけど、ポールのような無邪気な天才には、ベスト・マッチだったのかも知れないですね。
 
 
 その間、クスリと酒は彼の強靭な体をゆっくりと蝕み、結核を患ってから、半年余りで、あっけなくこの世を去りました。
 ビートも、その生き様も、文字通り”BIG P”の名前に相応しいサムライ!
 
 
 「スイングの定義?それはポール・チェンバースが繰り出す二つの連続音である。」
Joel Di Bartolo、ベーシスト
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