続報:ジャズの専門店ミムラ 閉店セール

mimura_symbol_small.gif <閉店セール>
8月23日~28日
11:00~19:00
閉店セール(委託、客注以外)
(ご注意)現金のみのお支払いでお願いいたします。誠に申し訳ありませんが、カードは使用できません。

 粋な和服からTシャツに着替えて4日間、汗とホコリにまみれながら、在庫整理をお手伝いされたジョン・コルトレーン研究家、藤岡靖洋さんよりセール割引率などご連絡がありました。
8月23日-25日 通常価格より30%割引(予定)
8月26日-28日 通常価格より50%割引(予定)
*店の外でサンプル盤を寄付金制にてお分けいたします。

 皆様ご存知のように、ミムラさんのお店はそんなに広くないので、普段でも外でお客様が順番待ちされていました。故にセール最初の数日間は入場制限があるかも知れませんが、どうぞご容赦くださいとのことです。
 在庫の徹底売り尽くしを目指しています。ミムラ・ファンの皆様、どうぞご協力お願いします!ミムラさんのブログはこちら!
 この機会に沢山お買い物なさってください!
CU

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新譜: Sir Roland Hanna 至福のソロを聴こう!

 暑いと言っているうちにお盆も過ぎ、暑さは一緒でも、陽射しや風の色合いが、ほんの少し変ってきたような気がします。
Roland Hanna 87.jpg
ハナさんことSir Roland Hanna
 先日、ナニワが世界に誇るジョン・コルトレーン研究家、藤岡靖洋さんが「サー・ローランド・ハナの新譜やから聴いてみて!」と”Colors From A Giant’s Kit”というCDを持ってきてくださいました。没後約10年、まさか新譜なんて?!…”Colors”は息子さんのマイケル・ハナ(vo)と演ってるから、名前を変えただけじゃない?寺井尚之と一緒に半信半疑で聴いてみたら、ソロピアノの歴史的名盤と言ってよいほどの作品で、最初から最後まで釘付け!しっかりアルバム・コンセプトがある正真正銘の新譜でした!
 滅多にレコード紹介したりしないけど、これだけは聴いて欲しいと思いました!
cd_colors_giant_kit.jpg1.Colors From A Giant’s Kit
2.Natalie Rosanne
3.A Story, Often Told But Seldom Heard

4.Robbin’s Nest (Charles Thompson,Illinois Jacquet)
5. My Romance (Richard Rodgers /Lorenz Hart)
6. Blues
7.’Cello

8.Moment’s Notice (John Coltrane)
9.Lush Life (Billy Strayhorn)
10.20th Century Rag
11.Naima (John Coltrane)
12.Chelsea Bridge (Billy Strayhorn)
13.In A Mellow Tone (Duke Ellington)
14.Cherokee (Ray Noble)

 選曲はハナさんのオリジナル(斜体)にジョン・コルトレーンやビリー・ストレイホーンの作品、アート・テイタムやファッツ・ウォーラーといった先人達へのオマージュなど、ドラマチックな演目を聴くうち、息も出来ないなくほどの高揚感に包まれます。有り余る技巧は二人の演奏者が弾いているのではと思ってしまうほどです。
round_midnight.jpg 3,10,11は’80年代に録音したピアノ・ソロ『Round Midnight』に収録済、あのアルバムもハナさん自身が寺井に送ってきた会心のソロ・アルバム作でしたが、テーマやテンポに変更が加えられ、新しい色合になっている。
 オーディオ・マニアじゃないけれど、音質が最高です!録音はティム・マーティン、タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団のシニア・エンジニアを努める巨匠です。空気感のある自然なピアノのサウンドが、生前のハナさんの音色を思い出させてくれる。制作はハナさんの弟子であり崇拝者でもあるビル・ソリン主宰のIPO、前作はトミー・フラナガンへのトリビュート・アルバム『Tributaries: Reflections on Tommy Flanagan』、これも同じエンジニアがスタジオでなくクラシックのコンサート会場で録音した作品だったので、90年代の録音とジャズタイムズには出ていたけれど、ひょっとしたら同じセッティングなのかも知れません。
 テイタム直系の鮮やかなラン、強靭かつ繊細なストライド、口を尖らせて、牛若丸のようにピアノのベンチを左右にワープしながら繰り出すウルトラDの鮮烈パッセージ、小柄な体で大きなプレイを繰り広げた剛速球派、在りし日のハナさんの勇姿が目に浮かびます!
 ハナさんはハイスクール時代、2年先輩のトミー・フラナガンに影響を受け、クラシックからジャズに転向した。ダイアナ・フラナガンは二人をソウル・ブラザーズと呼んでる。
 「チェルシー・ブリッジ」などトミーも愛したストレイホーンを聴くと、ハナさんの色合いはフラナガンに比べて青みが薄く赤みが強いように感じたり・・・ソウルブラザーズの似たところ、違ったところを聴くのもまた楽しいですよね。
 先月、ハナさんの未亡人ラモナさんからお便りをいただきました。ハナさんは日本ツアー中に体調を崩し、共演者の中山英二(b)さんと、NY在住のベーシスト、青森善雄さんの献身的な努力で、日本で入院治療を受け、帰国後、ご家族に看取られて亡くなりました。その顛末についてこんな風に書いておられます。
「ローランドは日本をこよなく愛していました。最後の来日を決めたとき、決して健康体ではなかった。それでも行かねばならなかった。 あの人は日本に”さよなら”を言いたかったのだと思います。最後の日本ツアーの後、彼は一度も演奏せずこの世を去りました。きっと死期が迫っていることを無意識に予感していたから、無理を押して日本に行ったのだと確信しています。」
 トミー・フラナガンが亡くなった直後、悲嘆にくれていた私たちに「私は絶対に泣かない!」と強い語調で宣言し、渇を入れてくださった。そして翌年ハナさんもトミーの後を追うように逝ってしまった。このアルバムから、真っ直ぐなハナさんの心根が聴こえてきます。私はレコード会社の回し者ではないし、ミムラさんでは買えないけれど、ぜひ聴いてみて下さい!淀んだ心が洗われます。
 余談ですが、昨日は寺井尚之+鷲見和広(b)のエコーズ、いつものようにサー・ローランド・ハナの演目を沢山やりました。ジャズ評論家の後藤誠先生がレポートしてくださったのでぜひご一読を!
 8月20日(土)は寺井尚之メインステムトリオ。先日のジャズ講座、“Lady Be Good…For Ella”の演目が聴けますよ。ぜひお越しくださいね。お勧め料理も寺井尚之の自信作、「黒毛和牛の赤ワイン煮」です。お楽しみに!
CU
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ジャズの専門店ミムラ 閉店セールのお知らせ

terai_01Lecture.jpg  先日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」、寺井尚之は先日急逝された三村晃夫さんを偲ぶ談話から始めました。ワルツ堂時代は、寺井尚之のジャズ講座にも、欠かせない存在だった三村さん、その人となりや、ジャズ界への貢献、彼を失ったことが、私たちにとってどれほど大きな損失なのかなど・・・勿論、客席にはミムラさんの長年のお得意さまが沢山おられ、それぞれが思いにふける感慨深いひとときでした。
 偶然にも、この日の講座で最初に取り上げたのが、三村さんが一番お好きだったソニー・ロリンズ、不思議な偶然です。
 「ジャズの専門店ミムラ」さんの閉店セールが来週から始まりますので、三村さんのブログ より転載しておきます。
<閉店セールのお知らせ>
8月23日~28日
11:00~19:00

閉店セール(委託、客注以外)
(ご注意)現金のみのお支払いでお願いいたします。誠に申し訳ありませんが、カードは使用できません。

mimura_symbol_small.gif 閉店に伴う在庫整理など大変な作業は、私の知る限りでお名前を挙げますと、生前の三村さんの盟友、大阪駅前第一ビル≪Waltyクラシカル≫のオーナー、中岡教夫氏や、ジョン・コルトレーン研究家、藤岡靖洋、当店のジャズ講座を通じて交流を深めたドラマーの河原達人氏などの皆さんが、多忙中な中、ひと肌もふた肌も脱いで協力されているとのことです。三村さんのお人柄のおかげと存じますが、本当にごくろうさまです。
 大阪のジャズ文化の愛すべき史跡も、もうすぐ閉店。この機会に初めて行って見ようと思われる方、いっぱい買い物してください!アクセスなどは<a href="“>「ジャズの専門店ミムラ」さんのHPでどうぞ。
 もしOverSeasが同じように閉店になったとしても、セールで売るものすらありません。どうぞ今のうちに、我らが寺井尚之の演奏を聴きに来てくださいね!
CU

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エラに宛てたラヴ・レター 『Lady, Be Good… for Ella』

 残暑お見舞い!明日から夏休みという方もいらっしゃるのでしょうね。うらやましいな!
 13日の土曜日はジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」開催です!
 寺井尚之の解説アルバムは先月から続くソニー・ロリンズとのリユニオン盤、『Old Flames』とエラ・フィッツジェラルドへのトリビュート盤、『Lady, Be Good… for Ella』の2枚なので、映写用ファイルは楽勝!とタカをくくっていたら、エラによるオリジナル盤の対訳など作成資料リストを沢山もらって、世間様の夏休みモードと裏腹に慌てふためく週になってしまいました。
ladyella_tommy.jpg
&nbsp;『Lady, Be Good… for Ella』は、トミー・フラナガンがスイスのプロデューサー、ジャック・ムイヨールに「あなたの好みで何なりとアルバムを作って欲しい。」と乞われ、レギュラー・トリオ(ピーター・ワシントン、ルイス・ナッシュ)の布陣で、闘病中のエラ・フィッツジェラルドに捧げた作品です。エラは糖尿病が悪化し、膝下両足切断の大手術をして入院中でした。病床のエラは、このお見舞いを、大変喜んで、このCDを病室のサイドテーブルにずっと飾っていたそうです。トミー・フラナガンのプレイを誰よりも理解していたエラには、トミーのプレイの一音、一音がメッセージとして聞こえていたに違いありません。
Lady_be_good_for_Ella.jpg またオリジナル盤にはライナー・ノートの代わりに、エラ・フィッツジェラルドに宛てたフラナガンの手紙が添えられています。
 「親愛なるエラ、僕が初めてあなたを伴奏したのは1956年の夏でした・・・」という書き出しで始まる短い公開書簡は、トミーらしい言葉遣いで、病床のエラに対する温かい気持ちが溢れ、行間から、二人が大観衆の前で繰り広げた、数え切れない名演や歓声の残響が漏れ聞こえてくるような名文です。トミーの話し方や書き方に親しんだ不肖私が日本語にしました。名演のサイド・ディッシュになれば嬉しいな!
EllaGershwin.jpg 『Lady, Be Good… for Ella』はガーシュインナンバー、スローな“Oh, Lady Be Good”で始まり、ファースト・テンポの“Oh, Lady Be Good”で終わります。ガーシュインの権威 Lawrence D. Stewartの冊子『Words Upon Music』には、ガーシュインがこの曲に設定したテンポは”(ユーモラスに)やや遅く”でした。ところが、1947年に大ヒットしたエラのスキャット入りヴァージョンは急速で、『ソング・ブック』は指定よりずっとスローで歌っています。当初、ソング・ブックを監修したアイラ・ガーシュインは「余りスローで歌うと歌詞の流れが悪くなる」と反対したのですが、プレイバックを聴いて大満足し、すぐ反対を取り下げたという逸話が書かれています。
 “Oh, Lady Be Good”は、恋人を募集するサビしい紳士の歌、それを女性のエラが歌うとどんな意味になるのでしょう?以前「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場したキャロル・スローンのバージョンは、どこまでも「女が歌う男の歌」でしたが、土曜日お聞かせするエラの歌は、ある意味スローンよりずっとモダンな新しい歌詞の世界が見えてきます。
 レコーディングしたトミー&エラのコラボからの選曲でなく、あくまでエラの音楽性にこだわってセレクトした『Lady, Be Good for Ella』は、数多ある「トリビュートと銘打つアルバム」とは一線を画す趣味の良さとクオリティがありますね!
 余談ですが、このアルバム録音直後、まだ20代の若手だったトミーのベーシスト、ピーター・ワシントンが、寺井尚之にこのアルバムの○○は、自分の演っていたコード進行で良かったのか?と訊きにきたことがありました。何て真摯なミュージシャンなんでしょう!寺井は「あいつは今にエラいモンになるで!」と言っていたけど、本当に現在は巨匠になりましたね!
 通の方に、ジャズを聴き始めた方に、ジャズを志す若い方、ぜひぜひ、最高の音楽と、寺井尚之の解説を聞いてくださいね!面白くてためになりますよ。
寺井尚之のジャズ講座:「トミー・フラナガンの足跡を辿る」
8月13日(土) 6:30pm-
受講料 ¥2,625
於:Jazz Club OverSeas

 お勧め料理は「加茂なすグラタン」を作る予定です。
CU

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バド・パウエル至高の名曲 Un Poco Locoを演奏します!

 一週間が怒涛のように過ぎてしまいました。今年はなかなか始まらなかった蝉時雨も、高校野球開幕に合わせようと、今週は全開。おかげで早起きになり我が家もセミ・サマータイム。稽古魔、寺井尚之の練習時間は増える一方。
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 8月6日(土)のメインステム・トリオでは、バド・パウエルの大作、”Un Poco Loco”をお聴かせします!
AmazingBudPowell.jpg “Un Poco Loco” は、『Amazing Bud Powell Vol.1』で有名なバド・パウエルのオリジナル(’51)、ウン・ポコ・ロコというのはスペイン語で、「”A Little Crazy”ちょっとイカれてる」という意味。
 ご存知のように、天才バド・パウエルは20才のとき、師匠セロニアス・モンク(p)を守ろうと、警官に殴打され、脳にひどい損傷を受けました。病院では治療と称する電気ショックの実験台にされ、病状はさらに悪化、ひどい頭痛を和らげるためにアルコールや麻薬に浸り、僅か42才の壮絶な生涯を終えるまで、入退院を繰り返しました。タイトルはブラック・ユーモア?確かにクレイジーなくらい凄い曲、彼の人生のように激しい閃光を放っていますね!
bud_monk_paris.jpg 文芸評論家、ハロルド・ブルームは20世紀最高のアメリカン・アートと、ジャズ批評家は汎アフリカ音楽と呼ぶ。つまりビバップの斬新で複雑なテーマとハーモニー、アフロキューバンのリズム、ブルース・フィーリング、反復を繰り返す土着性のあるアドリブのコードパターンを備える包括的なブラック・ミュージックということなのかな?
 難しいことはさて置き、寺井尚之にとってこれは思い出の曲、なにしろ師匠トミー・フラナガンが初めてOverSeasでコンサートをしたとき、サウンドチェックで最初に”Un Poco Loco”ガツンとやられてブチかまされたのです。寺井のこだわりは、パウエルですら引っかかるサビ部分の左手の返し。がんじがらめの題材を頭と体で充分稽古して手中に収めれば、自由な音楽的地平が眼前に開けるんや!と寺井は言います。
 フラナガニアトリオ時代、アルバム『Fragrant Times』以来、長らく封印してきた大作、メインステムが演るとどんな味わいになるのでしょうか?土曜日の首尾は如何に?
 当日は他にバド・パウエルに因む曲としては“Bouncing With Bud”、Roostの『Bud Powell Trio』(バド・パウエルの芸術)で有名な“I Should Care”も予定しています。夏の花火のようなバド・パウエルの名曲をどうぞお楽しみに!ぜひお待ちしています。
8月6日(土) 寺井尚之(p)メインステム:宮本在浩(b)、菅一平(ds)
演奏7pm-/8pm-/9pm-
Live Charge 2,625yen

 お勧め料理はサーロインのパイ包み焼きを作ります!
CU!

ジャズの専門店、三村晃夫さんを偲ぶ

 「ジャズの専門店ミムラ」の三村晃夫さんが7月29日未明に急逝されました。いつも笑顔で元気一杯、永遠のお兄さん、52歳なんて速過ぎる。同日の午前中、携帯にSMSが入ってきた時、てっきり悪い冗談だと思い込み、お知らせくださった、ジョン・コルトレーンの権威、藤岡靖洋氏に怒りの電話をしてしまったほどです。
 仕事の後、応援しているミュージシャンのライブの帰り道に心不全に襲われたとのことです。あの日のTwitterで、三村さんは、「目がチカチカする」「やばい!」と何度か投稿されていました。ひょっとしたら無意識にSOSを発信されていたのでしょうか?「はよ家に帰って休みなはれ!」と、大阪のおばちゃんらしく返信すればよかった。約束を守るミムラさんだから、結果は一緒かも知れないけど、悔やまれてなりません。
mimura-1.JPG 「ジャズ講座」チャーリー・パーカー特集で。
 三村さんと私たちOverSeasのお付き合いは「ワルツ堂」時代の1990年代初めからです。「エスト1のワルツ堂のジャズ担当マネジャーは凄いやり手や!予約分のレコードが顧客別に分けられて山積みになってるで。」と評判で、寺井尚之が父の代から懇意にしていた「ワルツ堂」堂島店の名物マネージャー、大井さんと稲村さんを通じてお知り合いになったのがきっかけだったと覚えています。
 デビュー盤『Anatommy』から寺井尚之のアルバムでお世話になり、やがて’97年に「寺井尚之のジャズ講座」が始まると、各回のテーマに沿ったアルバムをOverSeasに持ち込んで、ワルツ堂出張所として毎回即売するのがお決まりの行事になっていました。
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 講座で気に入ったアルバムが一般市場で入手困難だったりすると、ジャンケンで取り合ったり大変!おかげで講座の後は夜店みたいで楽しい雰囲気でした。エスト1のお店に行くと、三村さんは常連さんに取り囲まれていて、挨拶ももできないほどと寺井尚之の生徒達が言い、「カリスマ・ミムラ」というあだ名をつけました。
 そのころは、まだジャズ専門のレコード屋さんがキタにもミナミにも沢山あり、各店舗に名物のオヤジさんや、名物マネージャーが必ずいらっしゃったものです。その中で、素人のお客さんと同じ目線で、イチゲンさんでも分け隔てなく、気さくに判りやすく接客してくださる「優しいお兄さん」的キャラクターは、ある意味、濃い目のジャズの世界で、全く新しいタイプの実力者でした。
 とにかく几帳面で整理整頓の出来る人、ジャズ講座でトミー・フラナガンのディスコグラフィーを最初に作ってくださったのが三村さんです。本番の講座でも、レコードやCDを入念に並べてから、初めて見るお客様の名前を予め覚えたり、皆が寺井尚之の講義を楽しんでいる間に、セールスの準備をしっかりされていて、凄いプロ意識と敬服していました。三村さんの接客術に色々勉強させてもらったことを今も感謝しています。うちの常連様は三村さんのところで買い物をし、三村さんのお客様もOverSeasに寺井尚之を聴きに来て下さるということが続きました。TVでしか知らなかった桂南光師匠もその内のお一人です。
 2002年にワルツ堂が閉店し、「ジャズの専門店ミムラ」として独立される際も、それまでに築き上げた、お金で買えない人間関係が成功の基だったのではないでしょうか?ミムラ開店のニュースがTVや新聞に大きく載ったのも、関西メディアの方々に「ミムラさんを応援したろう!」という気運が高かったからだと思います。やがて、熊本放送のラジオ・パーソナリティや雑誌のコラムなど、三村さん自身がメディアの世界に移行されていっているように見受けました。肩肘張らず、それでいて几帳面な文章も三村さんのお人柄がよく出ていました。時々「珠重さんのブログからネタ拾わせてもらいましたわ~」なんておしゃっていたっけ。
6fe1b63f.jpg その一方、ミムラさんのもう一つの功績が、若い人たち、特に学生さんにジャズの扉を開けてくれたこと。若手ミュージシャンを積極的に応援し、これからジャズを目指す人たちにCDを売るだけでなく、生演奏を聴いて勉強しなさいと勧めてくれた。また彼らの演奏に足を運ぶことにで励ましを与えていたのは、本当に素晴らしいことです。同時に、しっかり未来の顧客を開拓するプロフェッショナルの姿勢であったとも思っています。
 ご家族を一番大切にされていたから、音楽好きな若者を見ると、ご自分の子供さんと同じように温かく接してあげることが出来たんですね。独立された時、真新しいお店でこうおっしゃったのを覚えています。
 「僕は家族が一番大切やから、なんぼジャズが好きやからって、嫁さんに迷惑かけて、赤字出してまで続ける気はないねん。儲からんかったらトラックの運転でも何でもする気でいてるから。」

 お酒も煙草も嗜まず、節制されていた三村さん、赤穂浪士、三村包常(かねつね)の子孫、ややこしい人間関係もスルリとうまくまとめるコミュニュケーションの達人、優しき三村さんは、たったの52歳で旅立ってしまった。奥様やお父様、子供さんたちは、どれほどご無念でしょう。思うだけで胸が詰まります。同時に、ジャズ界にとっては、かけがえのない大きなものが失なわれてしまった。
 また日曜日のお葬式に参列し、長年ご無沙汰していた恩人にもご挨拶が出来ました。それも三村さんの心遣いかと感じています。
 帰り道京阪電車のホームで、涙でボロボロになった顔を直していると、隣の女性に「三村さんをご存知だったんですか?」と声をかけられました。息子さんがトランペットを勉強していて、ミムラに通っていたのだそうです。「三村さんには、学校では教わらない色んなジャズの知識を授かって、ガンバレ!と背中を押してもらってました。本当に感謝しています。良いCDやライブを聴くためにバイトしているから、どうしても今日は抜けられず、母親の私が替わりにお礼とお別れを言いに来ました。」と・・・そのとき「僕CD売ってただけとちゃうのよね!」と聞きなれた声が私に囁きかけました。
 三村さん、本当に色々お世話になりました。いずれ再びそちらでお目にかかるまで、私も寺井尚之も、出来る限りがんばりますね!
 寺井尚之と共に、心よりご冥福をお祈りいたします。

トミー・フラナガン・インタビューを読もう!(3)

tommy_and_flowers.JPG
  フラナガンは、ホーン奏者と同様のアプローチをピアノでしていると語る。彼にとって、曲のテーマは、聴きなれた曲を作り変える為の出発点である。コンサートやクラブで真夜中が近づくと、モンク作のジャズ聖歌、“ラウンド・ミッドナイト”をよく演奏するが、同じ演り方で弾くことは二度とない。
  ある秋の夜、ノルウェイの豪華客船上で開催される『フローティング・ジャズフェスティバル』で西カリブ海を航海中、ピアノに向かうフラナガンは出だしの5分間テーマを弾かずにじらした挙句、おもむろに”ラウンド・ミッドナイト”のメロディに戻った。翌晩、フラナガンはまた違ったアプローチでこの曲を弾くのである。
<テイタム、パウエル、パーカーたち>
tatum444.jpg 「アート・テイタムには私の演りたいことの原型がある。アートの様に弾く事は誰にもできないが、ミュージシャンはどうあるべきか、その目標として、向上心を与えてくれる。彼のメロディ、テクニック、タッチ、ハーモニー・センス、全てが時代や流行を超越している。」
  「テイタムのように、いつまでも時代遅れにならないソロ・プレイを目指すのは、常に正しい!充分に長い間演奏し、あらゆる要素が合致すれば、うまく流れに乗ることが出来て、前よりは良い演奏になっていると感じるだろう。」
  「NYに出てくる以前に私が聴きこんだ人々のうち、バド・パウエルはテイタムの次に影響を受けた名手達の一人だ。テディ・ウイルソンとファッツ・ウォーラーはテイタムと同じくらい大きな影響を受けた。この三人は初めて私が熱心に聴いたピアニストたちだ。彼らこそ、”ピアノの世界:The World of Piano“だった!」
bird71520.jpg 「テディ・ウイルソンは他の巨匠よりも判りやすく、初心者の私にはとっつきやすかった。ウイルソンを理解する事はアート・テイタムに進む布石となった。
 バド・パウエルはチャーリー・パーカーと切っても切れない存在だ。彼の音楽は一生懸命取り組むのに相応しい完璧なものだった。10代の高校生だった私にとって、パーカーの音楽は、まさに進むべき道を示すメッセージのようなものだった。バドとの共演盤を聴く迄は、私が聴く器楽奏者はバードだけというという時期もあった。だがバドとバードが一緒にやっているのを聴き、これだ!と思った。二人のコラボの中に全ての要素が凝縮されていた。ビバップのピアニスティックな要素とホーンの要素が融合し、ここから全てが始ったのだ。」

  
  フラナガンは時にオリジナルを作曲し録音している。だが彼は、他の作曲家作品への嗜好が強いと明言する。
 「私は、作曲家がどのようにその曲を演奏して欲しいのかを突き止めることに没頭する傾向が、どうもあるようだ。自分で作曲する能力より、作曲家が私に説明してくれる能力の方が優れているんだろうな。デューク・エリントンの音楽を例にするなら、演奏すれば演奏するほど、私には一つ一つの音によって彼が何を言おうとしているか、彼が何故その曲を何度も演奏し、繰り返しても飽きなかったのかが、よく判るようになるんだ。
 ラッセル・プロコープ(cl)は毎晩”ムード・インディゴ”でフィーチュアされることが判っていたが、それでも26年間、毎晩、ムード・インディゴを演奏することを心待ちにしていた。そうでなくてはならないんだ!その曲が好きならば、何度演奏しようと、お客さんも自分自身も退屈なんてすることはない。」
<楽曲の真髄に到達するには>
  大いなる音楽の冒険家であるフラナガンが、一旦スタンダード作品を弾き始めると、疑問が湧く。『一体彼は、この曲を始める時に、はっきりした構想があるのだろうか?それとも、曲に誘われるまま、音楽的冒険を楽しんでいるのだろうか?』
 「どんな感じになるのか確かめているんだ。」フラナガンはこう答える。「演ってみて、流れがよくなければ、曲を乗りこなすための正しい方法を探す。つまり、自分にとって最高の流れを探すんだ。そしてうまく構成して演奏しようとする。」
 「私のレパートリーは、あちこちからとりとめなくかき集めたものだ。アメリカ・ポピュラー音楽の有名作曲家の作品もあるし、知人の作品にもこだわっている。要するに演りたいものなら何でも演る。何もガーシュインばかり演ることもない、他の人間がプレイしようと思うのであればね。私はジェローム・カーンやハロルド・アーレンの曲が好きだ。ジャズ以外の分野ではこの二人が最も好きな作曲家だ。自分の知っている古い曲をプレイしたいし、プレイのためにはより深く理解しなければと感じる。
  新しい曲には、何となく束縛されるように感じるときがある。うまく演奏する方法は一つしかなくて、良くしようとしても変更の余地がない。逆にみたいな曲であれば、20人の演奏家がいまだに20通りの方法で演奏するだろう。もう変えようがないと思った途端、モンクが全く違うヴァージョンでやっているのを聴いたりするわけだ。」
jazzpoet.jpg   現在フラナガンは新作アルバム、『ジャズポエット』を製作中。タイムレス・レーベル制作でジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)とのピアノトリオ作品である。その他チェスキー・レーベルからのフィル・ウッズの新作『ヒアーズ・トゥ・マイ・レイディ』に参加している。
let's.jpg フラナガンは近い将来、サド・ジョーンズ作品集を録音したいと言う。(名盤『Let’s』として結実)
 「私は他の人の音楽を自分なりに解釈して演奏したい。曲を作った人間を良く知っていると、より良い演奏をする事が私にとって容易になる。私は30年前に、サドの音楽をデトロイトで演奏していた。今やっと、楽曲のあるべき姿、最高の形態が見えてきた。曲の真髄に達すると言う事は、それほど長い年月と道のりを要するものなのだ。」
(了)
 いかがでしたか?フラナガンの発言には、彼自身の姿勢だけでなく、ジャズ・ミュージシャンの進むべき道が色々暗示されているように思いました。「楽曲を愛する」意味もよくよく判ります。
 翻訳にあたり、「ジャズタイムズ」のバックナンバーを提供いただき、上の同誌カラー写真もお送りいただいたジャズ評論家、後藤誠先生に心より感謝いたします。
CU!

トミー・フラナガン・インタビューを読もう!(2)

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<巨匠たちに学ぶ>
 強い音楽的個性が人気を博し、演奏スケジュールが多忙を極め、特に必要の無い限り練習をしないという贅沢を味わっているフラナガンではあるが、かつて1940年代のデトロイトでの成長期には、常に練習していたと語る。兄ジョンソン・フラナガンJr.(ピアニストとして地元デトロイトで活動し、後進の指導にあたった。弟子にはカーク・ライトシーがいる。)に倣い、迷うことなくピアノへの道を選択したのだった。
 「ほんの幼いころ、兄がピアノを弾いてるのを見つけた。背伸びをしてなんとかピアノによじ登ろうとした。最初は、兄が家でレッスンをしているのを真似て弾こうとした。8歳の頃、まだレッスンを受けていなかったが、兄の練習曲を弾いていた。10歳で、やっとレッスンをさせてもらえるようになった。私は練習がとても好きだったので、誰も私に稽古しろとやかましく言う必要は無かった。むしろ誰かが止めないといけない程だった。『さっさと表に行って遊びなさい!』ってね。」
youngKB.jpg 当時のモーター・シティ(デトロイト)は、ツアー・ミュージシャンの仕事場として、新人アーティストの育成地として、音楽的に隆盛を極めた。ドナルド・バード(tp)、ケニー・バレル(g)、ペッパー・アダムス(bs)、カーティス・フラー(tb)、メジャー・ホリー(b)、オリヴァー・ジャクソン(ds)、ビリー・ミッチェル(ts)、ハンク(p)、サド(cor)、エルビン(ds)のジョーンズ兄弟(隣町のポンティアック育ち)、ベティー・カーター(vo)…この土地から巣立ったミュージシャンは枚挙に暇が無い。デトロイトのミュージシャンの多くは、カス・テック・ハイスクールに通った。フラナガンは1930年3月16日生まれで、同世代のローランド・ハナ(p)やアルト奏者ソニー・レッドと同じノーザン・ハイスクール卒である。
 「中学に入学する頃までには、他の楽器をかなりうまく弾ける同じ年頃の子供達が何人もいた。そんな優秀な子供達は、高校入学までに、プロとしてツアーに出れる実力をしっかり身につけていた。私が15歳の頃時、ダンスパーティに行けばジーン・アモンズ(ts)が演奏していたし、バンドのピアニストはジュニア・マンスだった。彼も15歳でツアーに出ていたんだ。そんな具合だから、いやでも一生懸命練習する様になるんだ。」フラナガンは語る。
art_tatum.jpg 「音楽的に成長するのに、戦後は良い時代だった。私はあらゆるジャズの巨人たちを間近に聴けたし、会うことだって出来た。アート・テイタムはアフターアワーズの店でしょっちゅう生で聴いた。色々なピアニストが、交代にピアノを存分に弾いた後、おもむろにテイタムがピアノの前に座ると、それまでのピアニスト全員がぶっ飛ばされた。」
Image-BillieHoliday.jpgのサムネール画像レイディ・デイも、歌唱とルックスの絶頂期に生で聴いた。私はまさに彼女に恋をしていた。バードともデトロイトで何度か共演した、私がまだ十代のときだ。」
 「高校時代、ディジー・ガレスピー楽団がデトロイトにやって来た。公演場所はパラダイス・シアターと言う大劇場で、高校から歩いて行ける距離だった。その頃までに有名なミュージシャンは全て知っていた。初めてチャーリー・パーカーをジューク・ボックスで聴いたのが1945年、15歳の時だ。
 もう、そんなジュークボックスは無くなってしまったなあ。良い音楽が流行していて、良い音楽に出会うにも、上達するにも、最高の時代だった。今は、そういう音楽が無くなって寂しいし、そういった音楽を創造した人達が亡くなった事も同じくらい寂しいね。」
John_Coltrane___Giant_Steps.jpg 1956年、ケニー・バレル(g)と共にNYのジャズシーンに進出したフラナガンにとって、デトロイトでのキャリアは大きく幸いした。NYに移って僅か数日で、トランペット奏者、サド・ジョーンズが自己リーダー作に彼を抜擢。フラナガンの26歳の誕生日には、デトロイト時代にすでに親交があったマイルス・デイヴィス(tp)とソニー・ロリンズ(ts)がレコーディングに起用した。プレスティッジのセッション(『Collector’s Items』)には、<Vierd Blues><No Line>、デイブ・ブルーベック(p)の<In Your Own Sweet Way>が収録されている。その僅か数ヵ月後、ソニー・ロリンズの代表作、『サクソフォン・コロッサス』に参加、3年後には、さらに歴史的名盤の録音でスタジオ入りする事になる。ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』であった。
<エラ・フィッツジェラルド>
poster040609-24.JPG フラナガンがNYに進出した年、代役としてエラ・フィッツジェラルドの伴奏者を務める。それがきっかけでエラは1962年に、正式にフラナガンを招聘、二人の音楽的コラボレーションが開始した。音楽監督として専任した1968-78を含めて、二人の共演は断続的に16年間続く。
 「歌手の伴奏はもう私のするべき仕事ではない。」現在のフラナガンは言う。
「だが、非常にやりがいのある仕事だった。他人の気質や趣味についてあれこれ気配りしなければならないのだから。…
 エラは文字通り仕事一筋で、年間52週のうち48週は仕事をする。我々は年に2回ヨーロッパ中をツアーした。伴奏者達には、余り自由に演奏させる機会を与えてはくれなかったがね。とにかく、世界中回ったよ。…」
 エラ・フィッツジェラルドの仕事に慣れたと思う間もなく、演奏のパターンはしょっちゅう変った。トリオで伴奏したかと思えば、次はベイシー楽団と一緒に何ヶ月か公演する。彼女にとっては大変な違いだ。ベイシーをバックに歌うコンサートの次の夜がトリオだったら、エラは私にこんな風に言った。
 『一体どうなってるのよ? 何が起こったっていうの?』
で、私はこう答える。
 『15人ほどいなくなったんだだけだよ。何かが起こったと言うのならね。』
  おかげで、どんなことがあっても、自分の演奏を高度に保持する術を学んだ。エラのエネルギーも芸術的レベルも本当に凄いものだったよ。」
(つづく)
 寺井尚之のコメント::師匠の若いときの回想は、わしが’70年代に思うことと良く似ています。師匠は、どんなときでも、誰よりも練習をしていました!騙されてはイケません!おわり
 ヨチヨチ歩きでピアノを弾いた天才トミー・フラナガン少年、子供の頃はクラシック・ピアノのレッスンを受けていました。恩師はグラディス・ディラードという女性の先生で、フォームや指使い、タッチなど大変厳しい指導で有名だったそうです。
 チャーリー・パーカーやビリー・ホリディと共演した話は、私たちも直接何度か伺ったことがあります。記念写真があればいいのですが、トミーは何度も引越ししていて、その間に紛失してしまったとか・・・残念です。
 それにしても高校のダンスパーティにジーン・アモンズとジュニア・マンスが来たら、ダンスするのを忘れて、グレーヴィーなサウンドに聴き惚れてしまうでしょうね!

 明日22(金)は河原達人(ds)リターンズ!23(土)は寺井尚之The Mainstemトリオ!お勧め料理は、自家製のバジルをふんだんに使ったチキンのジェノヴァ・ソース、やはり自家製の柔らかいナスを付け合せにしておいしいメニューを作ります。
CU

トミー・フラナガン・インタビューを読もう!

 暑中お見舞い申し上げます。
 「節電のお願い」CMが流れる大阪、電車に乗ると照明は薄暗いのに、冷房は寒いほど効いていて、不条理感は募るばかり・・・。
 トミー・フラナガンを愛する皆さんが暑さをしのげるよう、日本未公開のインタビューを連載したいと思います。
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 タイトルは「At the Top of His Game」、”ゲームのトップ”とは、「絶好調、絶頂」という意味、カナダのジャズ誌「Jazz Times」1989年8月号に掲載されたインタビュー、聴き手はケン・フランクリング。
 ジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)との黄金トリオで録音した“Jazz Poet”が世界中で評価され、「名脇役」から「主役」として真価が認められた時代。あの頃のトミー・フラナガンならではの深い言葉をお楽しみください。
「ただ今絶好調!トミー・フラナガン」(インタビュー:Ken Frankling)
Jazz Times ’89年8月号より 訳:寺井珠重
 トミー・フラナガンは、ピアノの妙技を磨くための練習をあえてする必要はないと感じている。毎晩仕事がある時はなおさらだ。彼は、練習しない理由として十の根拠を挙げる。彼の指先は鍵盤上を縦横無尽に疾走する為、硬いタコが出来て、爪は割れている。
 「こういうのが治るには時間がかかるんだ・・・」
 フラナガンは自分の両手をまじまじ眺めながら言う。
 「深夜帰宅し、翌朝起きてこうつぶやく。『ああ、また指に血が逆流してる!』これが痛いんだな!両手に休みをやりたいくらいだよ。私は時々、必要以上に力強く弾いてしまうんだ。それでまた痛くなる。」
 指の損傷は、最近のフラナガンの気合いと、引っ張り凧の仕事ぶりの証明である。彼は現在、ジャズ・ピアニストの最先端だ。ビル・エヴァンス、セロニアス・モンク、バド・パウエル、メアリー・ルー・ウィリアムズ、アール・ハインズというシングル・ノート・スタイルの系譜において、第一人者として安定した地位を保っている。
 1978年、16年間の長期に渡るエラ・フィッツジェラルドとの実り多き共演時代の後、フラナガンは伴奏者の役を辞すことを選んだ。以来、ソロ活動、ジョージ・ムラーツ(b)とのデュオ、ここ2年間のレギュラードラマーであるケニー・ワシントン(ds)を加えたトリオに仕事を絞り込んでいる。
 フラナガンは、どの編成も同等にやりがいがあると語る。
 「ソロ、デュオ、トリオという編成は、どれも気に入っている。私はこれらのフォーマットを交代でやるのが好きなんだ。ミュージシャンは腕が上がれば、それに見合うレベルの高い相手との共演を楽しむべきだ。」
 「我々ミュージシャンは皆、最初は一人で演奏する事から始める。そして、グループで演奏し始めると、音楽的な責任は減少し、共演者と相互に影響し合えるようになる。そしてソロに戻ると、何かが足りないように感じる。そうすると、、自分自身のプレイを、自分で聴く感覚を取り戻して、ソロという形態に自分を落ち着けなくてはならない。例えば、左手でどの位ベースノートを弾くべきかを判断する能力を取り戻さねばならないんだ。」
<ジョージ・ムラーツのこと>
gallery11.jpg 「今の私には現在ジャズ界最高のベーシスト、ジョージ・ムラーツがいる。彼と演る時には、ベース・ノートにあれこれ心を煩わせる必要はない。我々が良い領域、つまり、今迄我々が到達した事の無い高みに上る道筋は色々だ。音楽と言うものはすぐに鮮度が落ちてしまうので、注意しなくてはならない。」
  「ジョージ(ムラーツ)はオスカー・ピーターソンの所を辞めた後、しばらくエラの伴奏をしていた。そこで私は彼がどれほど良いプレイヤーなのかを知ったわけだ。彼は非常に音楽的だ。ベース奏者は、ビートを“感じさせる”のと同時に、ベース・ラインやメロディを含めたプレイを“聴かせる”ことが必要だ。彼は、そういうことを、全く苦にしない数少ないベーシストの一人だ。彼のビートの鼓動は、同時に”聴く”価値がある。また彼のイントネーションは、他の弦楽器遜色のない完璧さを備えている。」
<ジャズの詩人>
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  謙虚で穏やかな、この『ピアノの詩人』は、かつてカウント・ベイシーがシングル・ノート・スタイルのピアニストについて述べた如く、水晶の様に透明なサウンドを持っている。彼のプレイはクリアで活き活きと輝き、リリカルでありながら力強いフレーズは、強烈なバップのアクセントと、微妙なダイナミクス、思いがけなく湧き出るメロディが混ざり合ったものだ。
jackson_eric_600x200.jpg 彼がボストン地方に出演する時は、派手な広告をしなくとも常に満員の盛況だ。ラジオ番組を持つエリック・ジャクソンがWGBH-FMの自分のラジオ番組(Jazz with Eric in the Evening) のオープニングテーマ曲に、フラナガンの演奏する”ピース”を使用しているからだ。
 憂いを含んだその演奏は、フラナガン1978年録音のアルバム、(ギャラクシー)での、キーター・ベッツ(b),ジミー・スミス(ds)とのトリオのアルバムのものである。だからニュー・イングランド地方では、毎夜フラナガンの演奏がオンエアされ、作曲者ホレス・シルバーは著作料を儲けるという訳である。
(つづく)
 インタビューで「強く引きすぎて爪が割れている」という記述がありますね。Jazz Club OverSeasでも、「神様が降りてきた」ようにハードなプレイで爪を浮かせていたのを見たことがあります。でも、それは決してガンガン弾いたためではなく、最高のタッチで弾くからこそ、指に負荷がかかって爪を傷めていたのです。どんなに長時間弾きまくっても、演奏後のピアノが傷んだことはありませんでしたよ!
 追記 by 寺井尚之
 誤解をまねかいないように、4点付け加えることがあります。
(1) 誰よりもよく練習していました。
(2)指先は柔らかく、タコはありません。
(3)必要以上に「強く弾く」など、感情に左右されることはありません。常にコントロールされていました。
(4)トリオが好み。デュオ、ソロは好みでなかった。
おわり

 さて、7月16日(土)は、寺井尚之The Mainstemトリオ出演!ぜひ皆さんお越しください!
 なおメインステムのDL用新譜『Evergreen2』新発売!ダウンロードよろしくお願いいたします♪
CU

ジャズのくまモン!熱烈歓迎

furusho_image.JPG 寺井尚之(p)が、毎月熊本のJANISさんというジャズクラブで講座やライブを開催していたとき、たいへんお世話になったベーシスト、古荘昇龍(ふるしょう しょうりゅう)さんが、久々にJazz Club OverSeas訪問!
 古荘さんは、九州の各地で引っ張りだこのベーシスト、サー・ローランド・ハナ(p)の愛弟子、ジェブ・パットン(p)とツアーしたこともあります。ピアノの調律師としても評判が高く、熊本に著名なピアニストが来演するときはファースト・コール。今回は忙しい日程を繰り合わせて駆けつけてくださいました。
 寺井と共に九州でお世話になった宗竹正浩(b)、河原達人(ds)に加え、ぜひお手合わせをと、若い衆、菅一平(ds)、なんと末宗俊郎さんまでギターを抱えて参上!
 歓迎演奏はどんどん過激さを増し、夜更けには、くんずほぐれつのバトル・ロイヤルに・・・
kumamon_sesshion_1.JPG 古荘さんをフィーチュアしたカルテットは、”Ladybird”, “What Am I Here for””You Don’t Know What Love Is”それに、火曜日名物の”Just One of Those Things”を九州新幹線並スピードでサラリと聴かせてくれました。
munetake_if_you_could.JPG 久々の宗竹正浩(b)さんは、”If You Could See Me Now”で、強烈アピール!弾力のある力強いビートは健在!
 レギュラー、宮本在浩(b)はおハコのブルース”46th and 8th”でブイブイ言わせまて迎撃します。
furusho_bassists.JPG drummers.JPG
 菅一平(ds)、河原達人(ds)の名手二人が、手さばき、足さばき、色々凄い技を聴かせてくれて、超刺激的なリズムが溢れました。河原達人(ds)は22日(金)に正式にライブ・カムバックですので、ぜひ応援に来てください!
 プレイの合間には、旧交を温めたり、ベース談義で盛り上がったり・・・いつの間にか’Round Midnight…仲間であると同時にライバルで切磋琢磨するミュージシャンたち、お互いのプレイに真剣にプレイに耳を傾け、心底音楽を楽しんでいる姿は本当に素敵です!
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 古荘さん、遅くまでお付き合いくださってありがとうございました。いつか寺井尚之と本格的なライブでお手合わせお願いします!
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Bravo!くまモン!!大阪より愛を込めて!
CU