明日は一夜限りのスペシャル・イベント、フラナガニアトリオ・オリジナル・メンバー、寺井尚之、宗竹正浩(b)、河原達人(ds)のリユニオン!
宗竹、河原両氏から、「久々の共演、楽しみにしてます!」とメールいただきました。
「フラナガニアトリオ」という名前は、多分、アルバム「フラナガニア」(’94)以来、いつの間にかそう呼ぶようになったのだと思います。
今では貫禄の3人だけど、アルバムをめくっていたら、懐かしい写真が・・・
左は『Dalarna』レコーディング中、どちらも旧店舗OverSeasにて。
左は渋谷に珍道中し、NHKのラジオ番組で。右は熊本にあったジャズクラブJanisさんに出演したとき。
左はNHK、右は熊本、古荘さんを初めとして九州方面の皆さんと交流(宴会?)出来て楽しかった~!焼酎の味も馬刺しも覚えました!現在も九州の皆さんとお付き合いさせてもらっていて幸せです!
久々のリユニオン、名画『カサブランカ』に登場するめっぽうソフトタッチの酒場のピアニスト、サムの名台詞に「A lot of water under the bridge.」(月日の経つ間、いろんなことがありました。)というのがあるけれど、フラナガニアトリオの橋の下に流れた水はどんな水だったろう?今は甘いかしょっぱいか・・・
明日は皆さん、お楽しみに!
なお、残席僅かですので、お越しになる方は必ずご予約くださいね。TEL 06-6262-3940
CU
I’ve Found a New Baby: “エコーズ” 鷲見和広
鷲見和広さんとNew Babyの2ショット!新しい楽器はストラディバリを生んだイタリアの弦楽器の町、クレモナでも現存する最高のコントラバス製作者マルコ・ノリの作品。明日出演する宗竹正浩さんの愛器も同じマエストロの作品です。因みに鷲見さんの今までの楽器は、宮本在浩さんと同じカルロ・コルシーニ作。
5月20日のエコーズは、鷲見和広さんが新しい愛器で奏でる記念すべき夜。エコーズ愛好会長、副会長や、噂を聞き付けたベーシストたちが集合して、じっくり鑑賞会。府立大Orch.のメンバーや、ふらりとジャズを聴きに来てくれたお客様たちも、「すごいね!」と言い合ったり、音楽で奏でるジョークに大笑いしたり・・・今夜も華も実もあるプレイを聴かせてくれました。
先日The Mainstemでも聴けた”I Wants to Stay Here”にはガーシュインの名曲の数々が、”In a Mellow Tone”はデューク・エリントン・ヒット・ソング集がどんどん挿入されて、”エコーズ”らしいインタープレイに皆大喜び!
鷲見さんの新しい恋人マルコちゃんは、元カノのコルシーニより少し大柄でグラマー、鷲見さんは”モンスター・ベース!”と楽器の潜在能力に惚れこみながらも、まだ初日は「弾きにくい~!」と言ってました。でも、後ろのレジのところで聴いていると、倍音が店中に拡散されている感じですごい快感!
寺井尚之も、新しい楽器の音色が気に入ったようです。
寺井:「倍音がよう鳴ってるなあ。今度のベースの方が、だいぶええんちゃうか?」
鷲見:「まあ、後10年位経ったら一番良い音になってるんじゃないですかねえ。僕そしたら50過ぎてますけど・・・」
寺井:「10年か・・・そんならわしはもう70近いやないか・・・どないすんねん?!はよ年金欲しいわ。」
・・・なんか話は変な方向へ・・・
銀太(b)くんは、「調整直後で、殆ど弾き込んでいないはずなのに、アンプ入れてないみたいに生音が聴こえるし、何よりもしっかり鷲見さんの音色に鳴っているのがスゴいですねえ!」と感服。
休憩時間には、ベーシスト達が名器の周りに集まって、糸巻きの形を鑑賞したり、うっとりした表情で曲線をなぞってみたり、弾かせてもらったり、皆の惚れ惚れした表情に鷲見さんもにっこり。
ベーシストたち:左から宮本在浩、銀太、鷲見、休校中府大Orch.のアーサー(敬称略)
愛器が変わると、自ずと”エコーズ”のサウンドも変化していくはず。“エコーズ”は毎週水曜日、要チェック!
CU
Un-plugged 寺井尚之 The Mainstem 5/16(土)
週明けの大阪、出勤時の環状線や地下鉄は休校になった学生さんで超満員。殆どの人がマスク姿、バイオハザード in Osaka?? えらい光景になってました。
実家の知人のメキシコ在住の方の話では、向こうの国ではインフルエンザの報道も余りないし、マスクしている人はほとんどいないとか… ボストンのしょうたんも同じようなことを言っていた。とにかく用心に越したことはないので、うがいや手洗いをきっちりして、OverSeasのドアの取っ手は頻繁に消毒薬で拭き、衛生管理に充分注意しています。どうぞ安心してお越しください。
The Mainstem3の第一ラウンド、16日の土曜日はダンスする5月に似合わぬ雨模様、却って客席は親密なムード一杯。休憩中はあやめ生徒会長主催の勉強会や、客席交流会もありデトロイト・ハードバップ風文芸サロンの楽しい雨の夜。
セット・リスト
<1st set>
1. The Con Man (Dizzy Reece)
2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)
3. Muffin (Ron Carter)
4. Monk’s Mood (Thelonious Monk)
5. Speak Low (Kurt Weill/ Ogden Nash)
<2nd set>
1. Yours Is My Heart Alone (Franz Lehar, Ludwig Herzer, Fritz Loehner)
2. Moon & Sand (Alec Wilder)
3. Azure (Duke Ellington)
4. I Didn’t Know What Time It Was (Richard Rodgers/ Lorenz Hart)
5. Fine & Dandy (Kay Swift/ Paul James)
<3rd set>
1. Repetition (Neal Hefti)
2. 46th & 8th (Waymon Reed)
3. Mean What You Say (Thad Jones)
4. I Loves You Porgy (George Girshwin / Dubose Heyward)
5. Tin Tin Deo (Dizzy Gillespie)
Encore: 50-21 (Thad Jones)
今夜の曲目は、The Mainstemの強み=ラン&ヒットの持ち味を生かしたセレクション!この曲を聴くいつもの状況と違い、ざわめきのない静かな客席に響く「Speak Low 」は片隅派には格別の味わいだった。
二部には五月の青空を思わせるエリントニア、「アジュール」が湿気を一掃した後、『スティット-パウエル-JJ』の名演が忘れられない「Fine & Dandy」で軽快に締めてくれました。fine and dandyは「サイコー!」という意味だけど、突然の雨で傘を持ってないし、いくら手を挙げてもタクシーが全然止まってくれないとき、「fine and dandy!」と自嘲気味に言ったりしますよね!
3部はThe Mainstemが”New Trio”と名乗っていた時代のオハコだった『レペティション』が久々に聴けて嬉しかった!宮本在浩(b)+菅一平(ds)は当時よりチームのまとまりが出来て大きくなっていたのを実感!
意表を突かれたのは三部のバラード、常日頃水曜のエコーズで聴いているI Wants to Stay Hereの異名同曲でした。1-5同様、先日のジャズ講座に登場したアルバム、『City/土岐英史』に因んだ選曲だったのでしょうが、今日の演奏解釈は水曜版と全く違う味わい。水曜のエコーズと聴き比べもまた楽し!
雨の夜なのにピアノのサウンドは円くて冴え冴え・・・いつもよりお客様が少ないせいかな・・・と勝手に思ってた。でも本当は寺井尚之がピアノのサウンドを自分の描くイメージに合わせる為、マイクのスイッチを切ってしまってたんです。不思議なことに音量が減ったようには思えませんでした。これから毎日ノーマイクだったらエコポイントもらえるのかな?
’84にトミー・フラナガン3が初めてOverSeasでコンサートを演った時、ぎゅうぎゅう詰めの満員のお客様の前でフラナガンはやっぱりUn-plugged だった。寺井尚之もその境地に近づいているのだろうか・・・
次回のThe Mainstemは5月29日(金)、またよろしくお願いします!ありがとうございました。
CU
浪速のケニー・バレル、末宗俊郎(g) の夜
末宗俊郎(g) : 写真:後藤誠
5月15日(金)の末宗俊郎(g)ライブは、寺井尚之(p)、銀太こと田中裕太(b)とトリオでしたが、3セット目から今北有俊(ds)がSit In!急遽、末宗俊郎(g)+Super Fresh Trioとなって盛り上がりました。
ブルース・ナンバーや、”There Will Never Be Another You”や”It’s Only a Paper Moon”、”Love for Sale””ジェニーの肖像”のスタンダード、うっとりするバラードなど、末宗俊郎の絶妙のギターいに冴え冴えしたピアノが絡みついてうっとり。
この夜は府立大のOrch.のメンバー達が団体で来てくれたり、初めてOverSeasの扉を開けてくださったカップルも何組か・・・新鮮な反応を味わえたカルテットがプレイで応えました。
中には台湾からやって来た寺井尚之ファンも!
左から寺井、張光佑さん、田中裕太(b)、今北有俊(ds)、前列、末宗俊郎(g)
張光佑さんはギタリスト、日本留学の経験があるので、休憩中は日本の本を読んでらっしゃるし、言葉もネイティブ・ジャパニーズ、最初はてっきり日本のお客様だと思っていました。彼は台湾で寺井尚之のCDを愛聴していて、今回の日本旅行の際、OverSeasを探して聴きにきてくれたんです。張さんはお土産に正規品のCDも何枚が買って帰ってくれたけど、今まで彼が愛聴していたCDは、寺井尚之本人は全く知らない海賊版だったと知り、再度びっくり!ご自分もギターをやっているので、末宗4は凄く楽しかったそうです。「寺井さんみたいピアニストは台湾にいません。」と言ってくださいました。張さん多謝!
末宗俊郎ライブ初体験のお客様からも、「かっこよかった~」「また伺います!」と、レジで、メールでお言葉いただき嬉しかった!次回の末宗俊郎3は6月19日(金)、次回は坂田慶治(b)共演、またよろしくお願いします!
なお、Super Fresh Trioは銀太君がNY修業に行くので、5月30日(土)で一区切り。銀太くんのファンはお見逃しなく!!
CU
“Ballads & Blues” 古新聞古雑誌 根掘り葉掘り・・・
先週の“Ballads & Blues”ジャズ講座は皆が好きなあの曲、このブルース・・・正にOverSeasヒットパレードで、凄い熱気!一生もの名盤を共に聴いた仲間達の色んな感動がOverSeasの掲示板にズラリと並んでいましたね!
講座のあった5月9日はOverSeas開店30周年記念日、時間音痴、方向音痴の私は寺井の解説を聴くまで完全に失念…、温かいお祝いメッセージ、皆様どうもありがとうございました!
講座には、 河原達人(ds)さんや菅一平(ds)+宮本在浩(b)のメインステム・チーム、若手ドラマーImakyくんなど、ピアニスト以外のミュージシャンの顔も沢山客席に!ギグで来れなかった鷲見和広(b)さんからは「僕も行きたかった~(涙)」とメールが…。
パルスとメロディラインを併せ持つベーシスト、ジョージ・ムラーツは “Ballads & Blues”以外にも、サー・ローランド・ハナやウォルター・ノリスたちと数多くデュオの名盤を残しています。胸が張り裂けそうになる高揚感が体験できるハナさんとのプレリュード集や、たった4分ほどの演奏でフランソワ・トリュフォーの濃密な恋愛映画を見たような気分にさせてくれるノリスさんとのデュオ作品…どれも心を奪われるけど、“Ballads & Blues”はまた違う。深いところでぴったり寄り添いながら、息を読み合い奔放に流れるプレイ・・・緻密な構成表を見ながら聴くと、こんなに自由で完璧な音楽があるのか!とまた感動してしまいました。
「最高の酒は水の如し」と言うけれど“Ballads & Blues”は丁度そんな感じ。残り少ない人生、一生聴いて楽しもう。
<1978年>
“Ballads & Blues”が録音されたのは’78年11月。’78年といえば、トミー・フラナガンが10年努めたエラ・フィッツジェラルドの許から独立した節目の年でした。理由は心臓発作で楽旅が困難になった為となっていますが、実際はどうやったんやろう?講座の前に気になって、当時の雑誌や新聞を調べてみました。
NYタウン情報とダイアナ・フラナガン情報によれば、“Ballads & Blues”(11/15)録音直前10/16~30の2週間、フラナガンとムラーツはNY大学のそばにあるピアノ・バー、Bradley’sに出演していた。名盤のアウトラインはきっとこの2週間の間に固まったのに違いない。講座の皆で「飛ぶ教室」みたいに当時のNYにツアーすれば、さぞ面白かったでしょうね!
ムラーツ関連では、同年2月に、サー・ローランド・ハナが新生New York Jazz Quartet結成の記事も!自己グループで活動を始めたロン・カーターに替わり新メンバー、ジョージ・ムラーツ参加とありました。コンサート情報やレコード紹介では、ズート・シムス(ts)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb),ジミー・ロウルズ、ハナさん、フラナガンと数え切れないアーティストと共演していたみたい…34歳のムラーツ兄さんは、NYの一流ミュージシャンたちの間ですでに引っ張りだこになっていた。
<フラナガン独立の真相>
意外だったのは、NYタイムズの電子版アーカイブに、フラナガンではなくエラ・フィッツジェラルドが病気でコンサートをキャンセルしたという記事です。
’78 6/6付 NYTimes
『エラに大喝采!』 エラ・フィッツジェラルドは3月19日に予定していたエイブリー・フィッシャー・ホールのコンサートを病気のためキャンセルし、代替公演が先週の日曜日の夕方行われた。満員のファンの前でエラは絶好調・・・
ダウンビートや他の書物にはフラナガンはその3月に心臓発作をおこし17日間入院したと書いてあるのに… どういうことやろ?
ダイアナがフラナガンと結婚したのは’76年だから、その辺りの事情は知っているはず。電話して訊いてみました
<ダイアナの証言>
ダイアナ・フラナガン: 「トミーの心臓発作??ああ、最初の発作のこと?確かに’78年3月よ。あんなのぜーんぜん大したことなかったわ。
体調を悪くしたのはエラの方だった。あの頃から糖尿病が悪くなって、予定しているコンサートをキャンセルした後、意図的に仕事を減らしたの。
当時トミーは、エラのコンサートで、トリオだけでたっぷり演奏するようになっていた。世界中で賞賛されたけれど、それだけでは満足できず、自分の音楽をしたくてたまらなくなっていたの。だからフリーになっただけ。本当は心臓発作なんて関係ないの。もっと深刻だったのは、何年か経って大動脈瘤が出来ていると判ったときよ。あんたもよく知ってるじゃない。
私と一緒にいたいから辞めたのかって?まさか!だって私はエラ時代も、トミーにくっついて行ってたもん。それにエラのところを辞めたってトミーは世界中を飛び回っていたわ。
とにかく辞めるためにはエラの後任を見つけるのが先決だった。だけどエラがどうしてもトミーを引き止めたがってね、とうとう直接電話をかけてきたの。「トミー、あなたどうしてもジャズに戻っちゃうの?」って。すったもんだの末、結局ジミー・ロウルズ(p)に決まったのよ。え?トミーとタイプが違うって?いいのよ!伴奏者は決まった仕事をきっちりすればいいの。ジミーならうってつけだからね。
へえー!”Ballads & Blues”のレクチュアが予約で満員なの!?すごいわねえ!そうそう、この間のトリビュート・コンサートの写真ありがとう。部屋に飾って楽しんでるわよ!
だけどタマエ、あんた、私が忘れていることを根掘り葉掘り訊いて一体どうするつもり?トミーの伝記でも書くつもりなの?…」
エラの専属ピアニストとしてのフラナガンの最後のNY公演は、同年のニューポート・ジャズフェスティバル、やはりエイブリー・フィッシャーホールだったともダイアナは言っていました。
『エラ・フィッツジェラルド、エンジェル・アイズで大成功!』
タイムズ紙のジョン・ウィルソンは、フラナガンとの最後の大舞台でエラが歌った”エンジェル・アイズ”を絶賛しています。後年トミー・フラナガンがエラに捧げたアルバム『Lady Be Good』の”エンジェル・アイズ”は、きっとラスト・コンサートの思い出なんだ!
トミー・フラナガンがエラの許から独立したというインタビューがジャズ専門誌ダウンビートに載ったのは、本当の独立から4年後で、遅ればせもいいところ。レコード会社の広告収入が大事なジャズ誌は、フリーランスのフラナガンの記事はなかなか書いてくれなかった。
逆にNYのメディアは、速攻でフラナガン独立のニュースを報じていた。
NYタイムズ ’78 11/24付 :当面フラナガンはカーライル・ホテルのベメルマンズ・バーで演奏すると書いているけど、実際はごく短期の仕事だったとダイアナは言っていた。
<ホイットニー・バリエットの記事>
私の愛するホイットニー・バリエットは珍しく自分のコラムをフラナガンだけに絞り込み、さりげなく後方支援していました。(The NewYorker 11/20号)
『Tommy Flanagan』というシンプルなタイトルのコラムは、『American MusiciansⅡ』の中の名文<Poet>の原型で、フラナガンの人となりをうまく描き上げてから、フラナガンの独立を「良いニュース」とだけさらりと書いてある。趣味の良い音楽を愛する読者だったら、ぜひ一度聴きに行きたいと思うような粋な書きっぷりです。
秀逸なのはコラムの最後のアルバム紹介。フラナガンが初期に録音したサイドマンとしての有名盤については一切語らず、『Eclypso』『Montreaux ’77』『Tokyo Recital』などアメリカのジャズ誌ではマイナー・レーベル作品として、長い間正当に評価されなかった新譜のリーダー作ばかりズラリと並べて絶賛しています。この辺りが超一流文芸誌The NewYorkerの面目躍如!
バリエットのコラムは、フラナガンが「珠玉のピアニスト』から『ダイアモンドのピアニスト』に変貌したことを宣言して結ばれていました。
…『Montreaux ’77』もまた秀作、リラックスした雰囲気のある”イージー・リヴィング”はフラナガンの愛奏曲、イン・テンポに落ち着いた時、彼が繰り出す高音部の縦横無尽のランは、光を反射しながらきらめいて、まるでダイアモンドのようだ。
来月のジャズ講座は、これほどの名盤が聴けるかどうかは判りませんが、色んな話や音源が聴けて、きっと面白いプログラムになるはずです!
明日はBop & Bluesの末宗俊郎(g)3、そして旬の曲が楽しめる土曜日のThe Mainstemもお楽しみに!
CU
5月9日(土) 名コンビ登場!Tommy Flanagan-George Mraz
GW明けの大阪は早朝の雷が”Party Is Over!”と高らかに2発。皆様、ゆっくりお過ごしになりましたか?
今週末のジャズ講座は、トミー・フラナガンとジョージ・ムラーツのファンににとって”JUST MUST”。とうとう『Ballads & Blues』の登場です。
このアルバムが出たときの、関西学生ジャズ・シーンの興奮はいまだ忘れられません。「デュオ」のレコードは売れないという業界の定説があるそうですが、そんなん関係ない!
寺井尚之が30余年じっくり聴きこみ、自分の一部にしたピアノ・デュオの歴史的名盤、録音時の色んな事情など、トミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツの二人から直接聞いた逸話や、深い音楽的考察を聴くのが楽しみです。
加えて、フラナガン-ムラーツの名コンビが収録曲をどのようにヴァージョン・アップしていったか、即興演奏家の軌跡を、秘蔵音源と共に一望することが出来るでしょう。
『Ballads & Blues』の残りテイクを収録した『Confirmation』のデュオ、2曲も併せて解説!
初参加でも大丈夫です。 残席僅か、必ずご予約のうえお越しください。
CU
GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (最終回)
ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (4)
<晩年>
ヤングは晩年の大部分をノーマン・グランツのJATP一座で過ごした。彼はアル中となり、演奏はぼうっとした不確かなものになった。変わらずスーツとポークパイハット姿であったが、演奏中は座っていることが多くなった。
1957年にTV番組『ザ・サウンド・オブ・ジャズ』に出演した時の彼は「心ここにあらず」という風情だ。スタジオではビッグバンド・ナンバー2曲のパート譜を読む事を拒んだ。(代役は、かつてヤングの父に師事したベン・ウエブスターだった。)ビリー・ホリデイのブルース、<ファイン&メロウ>で1コーラス吹いているが、音色は完璧だがソロには生気がない。(訳註;番組制作に関わったナット・ヘントフによれば、この日のヤングの体調は最悪でスタジオで立っている事すら出来ない状態だったという。)
ソロに耳を傾けるビリー・ホリデイの愛に満ちた微笑みを見ると、彼女に聴こえているのは、今そこに座るレスターのソロではなく、彼女の脳裏に刻まれた昔の彼のソロではなかったのかという気がする。
テナー奏者バディ・テイトは番組の翌年、ニューポートジャズフェスティバルに出演したヤングを車で送って帰った。
「私がレスターと初めて会ったのはテキサス州シャーマンで、当時の彼はまだアルトを吹いていた。しばらくして、彼がフレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍した時、ベイシー楽団に後釜として入ったのが私だ。その当時レスターは酒も煙草もやらなかった。とても粋でナイーブな人だったな。1939―1940の第2期ベイシー楽団では同僚だった。演奏中に小さなベルを持っていてね、バンドの誰かがドジを踏むとそれをチンと鳴らすんだよ。
1958年のニューポートフェスティバルの帰り道、NY迄乗せて帰った。彼はとても落ち込んでいたよ。ギャラが少なくてがっかりしていたし「自分の演奏も良くなかった」ってね。「いいや、あんたのプレイはすごく良かったよ!例えば…」と私が言うと、彼は答えた。
「レイディ・テイト、もしも本当に僕が良かったらさ、僕を真似している他のテナー連中が、一体なぜ僕より儲けてるんだい?」
アレンジャ―、ギル・エヴァンスは40年代に西海岸でヤングと知り合い、彼の晩年はNYでも親交があった。
「レスター・ヤングの様に孤独な人は、往々にして自分に目隠しをしてしまうものだ。善いにつけ悪いにつけ、全ての根源は過去にあるとして、昔のことをずうっと引きずっているんだ。亡くなった年、彼がアルヴィン・ホテルに引越した頃でもまだ、「十代に譜面を読む勉強をしなかったので、父に嫌われた」と言うような話を持ち出してくる。だけど本当は、他のものに対する現在の怒りをはっきり表現できないので、昔の出来事とすり替えていたのではないだろうか? 何に怒っているのかをはっきり言えずに、時々彼は泣いていた。
ずっと昔、たまたまカリフォルニアに行った折に、ジミー・ロウルズ(p)と連れ立ってプレズに会いに行ったことがある。彼はお父さんの所有する3階建ての建物に住んでいてね、その家を訪ねたら、丁度、親子喧嘩の真っ最中だった。プレズはすすり泣いていた。これから家を出てウエスト・ロサンジェルスの母親のバンガローに引っ越すから手伝ってくれないかと言うんだ。僕達は借り物のクーペに乗ってきていたので、言われるとおり、僕らで荷造りから引越しまで何もかもやったよ。レスターのあの涙はずっと忘れられない。
50年代にNYの52丁目近くのレストランで、彼と一緒に食事をしていたら、トルコ帽に聖衣を着た妙な男が入ってきてキリストについて説教を始め、彼を「預言者(PROPHET)」と呼んだんだ。するとプレズはその男がイエスと「恩恵(PROFIT)」について何か言ったのだと勘違いし、プイと店を飛び出してしまった。僕が追いついた時彼は泣いていた。なぜ彼がイエスにそんな強い感情を持つようになったのか判らない。子供の頃教会に通っていたからか、或いは彼は不平等や不正に強く悩んでいたからか… 例えどういう種類の不平等や不正にしても、彼にとっては絶対に耐えがたいものだった。
彼は晩年、アルヴィン・ホテル(訳注:NY、ブロードウェイの52丁目にあった。)に大きな部屋を借りていた。部屋を訪ねると、食べ物の皿が所狭しと置かれていた。友達の差し入ればかりだったが、彼はもう食べる事が出来なくて、ただワインを飲むだけだった。彼の飲酒が手におえなくなった理由の一つに歯の問題があった。歯がボロボロで常に歯痛に悩まされていたんだ。
それでも彼は、ヘアスタイルとかそういう事にはすごくこだわっていた。長く伸ばしていたんだけど、とうとう私の妻(散髪がうまいんだ!)が彼の髪をカットする事になった。すると妻がハサミを一度入れるたびに、鏡を見せろって言うんだ。まだ髪の毛も床に落ちていないのね。すごいことだよ!大なり小なり意識的に自分を死に追いやっている人間が、なお自分のヘアスタイルにこだわるというのは。」
テナー奏者ズート・シムズは、40年代にヤングを崇拝し徹底的に聴きこんだ。彼もまたレスターの無邪気なナルシズムの目撃者だ。
「1957年にバードランド・オールスターズでツアーした時、レスターと相部屋だった。ある日、彼が着替えで裸同然にになったんだけど、真っ赤なショーツでね。力こぶを作ってポーズをとってゆっくりとターンしながら言うんだ。
『おじんにしては悪くないなあ…』って。
ほんとにその通り、いい体格でね。あの人は心も綺麗だったなあ…。それにとても知的な人だったよ。」
ヤングはパリ公演から帰国した翌日、アルヴィン・ホテルで亡くなった。死の直前、フランスでフランソワ・ポスティフが行ったロング・インタヴューは沈鬱なものだ。多分彼は死を予感し、そこに自分の墓碑銘を残したのかもしれない。
『社会は全ての黒人がアンクル・トムやアンクル・レミュス、アンクル・サムというようなものに成るように望んでいる。私にはそんなことは出来ない。ずっと同じことの繰り返しだ。
生きる為には戦わなければならない。―死が戦いから解放してくれる日まで。それが勝利の時だ。』
了
トミー・フラナガンは、レスター・ヤングとの録音はありませんが、ヤングの晩年にレギュラーで共演していました。レスターが大好きだったので、友達のサックス奏者がアルヴィン・ホテルに訪ねて行くと言うと、必ずくっついて行ったそうです。
レスター・ヤングの不思議な言葉使いが、浮揚感あるサウンドにつながっているというのも、ジャズ講座に来ていらっしゃる皆さんには、わかりやすかったのではないでしょうか?
音楽だけに限らないと思いますが、巨匠の最盛期を知る人ほど、晩年の衰えを見るのは辛い。人間は皆そうなるもんなんだ。でもジョン・ルイスやジミー・ロウルズ、ズートといった人たちは、(多分知っているんだろうけど)一言も惨めったらしい姿については話していません。
トミー・フラナガンという人は、こういう行儀についてとてもうるさい人だったので、(フラナガンの教えてくれたルールを、私はインディアンの掟と呼んでる。)インタビューされる人たちの「見識」についても色々興味深く読みました。
初めて掲載してしまったホイットニー・バリエットのポートレートはどうでしたか?バリエットは巧者そろいのNew Yorkerのコラムニストのうちでも「英語の達人」と呼ばれ、原文はもっとリズムと格調があります。私のような若輩者では、どうにも日本語にしきれなくてゴメンネ。
原書もペーパーバックで入手可能、辞書をひくのがイヤでなければ楽しめます。
CU
GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (第三回)
ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (3)
<独立独歩>
ヤングの才能はカウント・ベイシーの元で開花した。比類なき軽やかさと陰影のある歴史的名演を数え切れぬほど録音し、ビリー・ホリデイの伴奏で名盤を作った。ビリー・ホリディとレスター・ヤングのサウンドは、一つの声から派生した双子だ。コールマン・ホーキンスが独立してから数年経った1940年代後半、ヤングも自己グループで活動を決意、NY52丁目で短期間スモールグループで活動した後、西海岸で弟のリー・ヤング(ds)とバンドを結成した。
ティーン・エイジャーの頃、52丁目でヤングと交友のあったシルビア・シムズ(vo)は語る。
シルビア・シムズ:「ヤングはとても快活な人で、髪が素敵だった。40~50年代に皆がつけていたポマードは絶対使わなかった。服の着こなしも素晴らしくて、頭の後ろにちょんとかぶったポークパイハットが、彼のファッションのアクセントだった。いつもコロンのいい匂いをさせていた。一度、お客が騒いでちっとも演奏を聴かないと彼にグチをこぼすと、彼はこう言ったわ。
『レディ・シムズ、店の中で誰かたった一人だけでも聴いてくれる人がいるとしたらどうする? その人はトイレに行ってるかもしれないが、それでも君にはお客さんがいるってことだろう?』
彼の話は’レスター語’だらけで理解するのが大変だったけれど、音楽は判りやすかった!レスター独特のあの言葉でフレージングしていたんだわ。私の歌は彼に大きな影響を受けている。私だけじゃなくて多くの歌手がずっと彼の演奏から学んでいるんだもの。」
ジミー・ロウルズ(p)はヤングの西海岸時代に共演した。
「ビリー・ホリデイが一体いつ頃、”大統領(プレジデント)”を略したプレズというあだ名を付けたのが知らないが、彼と最初に知り合いになった頃、楽団の連中は彼のことを”アンクル・バッバ(Bubbaはブラザーの意)”と呼んでいたよ。
私もこの業界で色んな人間に会ったが、レスターは極めてユニークだ。一人ぼっちで物静かな人でね。本当に腰が低くて、怒るという事がまずなかった。もし気を悪くしたら、ジャケットの一番上のポケットにいつも入ってる洋服ブラシを取り出し、左の肩をサッと一掃きしたもんさ。
あの人と知り合いになりたけりゃ、一緒に仕事をするしかない。それ以外は、カードをやるか、チビチビ酒を飲むだけだ。万一何かしゃべったりしたら、皆びっくり仰天して交通がストップする位珍しいことだったよ。
スーツ以外の姿を見た事がない。お気に入りはダブルのピン・ストライプだった。かっちりしたタブカラーのワイシャツで、ズボンの折り返しは小さく、つま先が尖り細い踵のキューバンヒールを履いていた。
1941年頃、まだまだ年上のうるさ型たちは、彼の真価を認めていなかった。自分たちより格下と思っていたんだよ。ちゃんとキャリアを積んでいたのに、新参者と思われていたんだ。彼のプレイには変な特徴があった。彼のお父さんもサックスを上下に揺すって吹いたんだよ。一種ヴォードヴィル的な演り方だな、多分レスターのあの構えはそんなところから来たのかも知れない。いずれにせよ、レスターがノッて来るれば来るほどサックスの構えは上になり、殆ど水平になっちゃうのさ。」
<兵役の闇>
1942年、ヤングは弟のリー・ヤングと共にNYの有名なクラブ<カフェソサエティ・ダウンタウン>に出演、その後ディジー・ガレスピー(tp)やテナー奏者のアル・シアーズと共演後、ベイシー楽団に再加入した。
1944年の徴兵は、彼が生涯決して克服できなかった第二の苦難となった。
いったい軍隊で彼に何が起こったのか?真相は諸説あるが、重要なことは、彼は生まれて初めて現実と衝突し、現実が彼を打ちのめしたという事実だ。彼は軍隊で過ごしたのは15ヶ月間だが、兵役期間中の大部分、営倉に拘留されていた。罪状はマリファナと睡眠薬の所持、言い換えれば不当な扱いに対し無垢な黒人が、たまたま不適当な時と場所に居合わせたという罪だ。極めて不名誉な除隊を強いられてからというもの、彼の演奏と生活は、ゆっくりとすさんで行ったのである。
ジョン・ルイス(p)は1951年にヤングの下で演奏した。
「バンドは大体ジョー・ジョーンズがドラム、ジョー・シュルマンがベース、トニー・フルセラかジェシー・ドレイクスがトランペットだった。私達はNYの<バップ・シティ>の様なクラブで演奏してから、シカゴへ巡業した。
レスターは各セット同じ曲を演奏するという日が時にあった。そして次の週も同じ曲を繰り返す。先週の火曜に<Sometimes I’m Happy >を演奏し、今週の火曜も演るんだが、今週は一曲目にを演ってみる。そして前の週に彼が演ったソロの変奏を吹き、次の週はそのまた変奏を吹くというようなことが続き、彼のソロは巨大な有機体に変わっていくんだ、
その頃から彼の演奏が荒れたと世間じゃ言うが、私が彼と一緒の時、劣悪な演奏など聴いた事がない。彼の演奏が変わったと感じたのは最後の数年間だけだ。その変化について明確な証拠や、いやな体験などしていない。ただね、そこはかとない絶望感が漂っていた。
彼は私の目の前に実在する本物の詩人だったよ。物凄く無口だったから、一旦彼が口を開くと、一つ一つの言葉が、小さな爆発物のように強く感じた。私は彼が意識的に特別な言葉を発明したとは思わない。アルバカーキに居た従兄弟の話し方と少し似た所があったし、20年代後半から30年代前半には、オクラホマシティ、カンザスシティやシカゴで彼の言葉に似たようなものがあった。その地方の人々もやっぱりお洒落で、レスターのようにポークパイハットなんかをかぶっていた。だから彼の話し方や服装は自然と身に付いたのじゃないかな。扮装とか、本当の姿を隠す術ではなかったと思う。ただ彼はヒップであろうとしただけさ、何もかもがスイングしているという意識の表現だろうね。
勿論、彼は役立たずの連中の為にわざわざかっこよさを浪費したり、下手くそと共演し、せっかくの良い演奏を台無しするような愚かな事はしなかったさ。もしも彼が不当な扱いを受けたとすれば、心の傷は決して癒ることはなかったろうな。
昔、52丁目の<バップ・シティ>に出演した時のことだ。レスターは、彼の音がか細いと世間に非難され、どれほど深く悩み続けているか話してくれたんだ。
楽屋で話の途中に、レスターはサックスを取り上げ、素晴らしく大きな音でソロを吹いて見せてくれたよ。コールマン・ホーキンスとはまた違い、分厚く滑らかで濃密な音色で、最高に美しいサウンドだった。」
(明日につづく)
GW にバリエットはいかが? 連載”PRES” (第ニ回)
ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (2)
<キング・オリヴァーとの出会い>
(右)Joe “King” Oliver (1885-1938) コルネット&バンドリーダー。深いブルース・フィーリングを持ち、ニューオリンズからシカゴで花開いた。キング・オリヴァーはルイ・アームストロング(左)以前のKing of Jazzだ。写真は’28年、Frank Driggs Cllectionより
ヤングが家族の楽団、ヤング・ファミリーを辞めたのは18歳の時で、それ以降6~7年の間に、しばらくファミリーに戻った後”アート・ブロンソンのボストニアンズ”に参加、ミネアポリスの『ネストクラブ』でフランク・ハインズやエディ・ベアフィールド(saxes)と共演した。また「オリジナル・ブルーデビルズ」、ベニー・モートン(p)、クラレンス・ラブ、キング・オリヴァー(cor)と活動、そして1934年、カウント・べイシーの最初の楽団に入団した。
ヤングは、ジャズ評論家ナット・ヘントフのインタビューで、50代でなお意気盛んだったキング・オリヴァーとの共演やオリヴァーの晩年について語っている。
「ボストニアンズの後、キング・オリヴァーと一緒に演った。すごく良い楽団だったよ。僕はレギュラーとして、主にカンザスやミズーリ方面で1~2年共演した。
キング・オリヴァーの楽団は金管3本、木管3本とリズム隊4人の編成だった。彼のプレイに衰えはなかったが、なにしろ年だから一晩中出ずっぱりではなかった。だが一旦吹けば、非常に豊かな音色だったよ。オリヴァーはショウのスターとして各セットに1曲か2曲だけ吹いた。
ブルース?無論ごきげんなブルースを吹いたとも!人柄も良くて、明るいおっちゃんだった。若いメンバー全員を凄く可愛がってくれたよ。一緒に演って退屈なんてことは全くなかった。」
<第一のトラウマ:フレッチャー・ヘンダーソン楽団>
Lヤング入団前のFヘンダーソン楽団、前列の囲みが若き日のホーキンス、右端:ヘンダーソン
ベイシー楽団入団後間もなく、ヤングはコールマン・ホーキンスの後釜としてフレッチャー・ヘンダーソン楽団への移籍を要請された。気のすすまない事ではあったが、結局承諾する。それはレスター・ヤングの人生で、克服しがたい最初の苦難であった。ホーキンスはヘンダーソン楽団に10年在籍し、大海を思わせるようなホークの芳醇なトーンと、分厚い和声のアドリブが楽団の核となっていたのだ。通常ジャズ・ミュージシャンというものは、注意深く寛容な聴き手だが、テナーに転向したばかりで、まだアルト臭かったヤングの音色やふわふわした水平方向のソロは、同僚の楽団員達にとっては異端と受け止められた。やがて彼等はレスターの陰口を叩く様になり、フレッチャー・ヘンダーソンの妻は「こういう風に吹いてくれたら」と、彼にホーキンスのレコードを聴かせた。それでもヤングは3~4ヶ月持ちこたえたが、遂に 「自分は解雇されたのではない」という旨の手紙を書いてくれるようリーダーのヘンダーソンに頼んで退団。カンザスシティへと向かう。2年後にベイシー楽団に再加入、彼のキャリアはそこから始まった。
<カウント・ベイシー楽団>
ピアニスト、ジョン・ルイスは当時のヤングを知っている。
John Lewis(1920-2001) ニューメキシコ州アルバカーキ育ち、40年代NYでBeBop時代の頭角を表す。
ジョン・ルイス:「私がまだアルバカーキに居て、まだ非常に若かった時、ヤング・ファミリーが町に逗留していると噂に聞いた。
野外のテント・ショウで巡業に来たものの、金がもらえず立ち往生していたらしい。地元にセント・セシリアズ”という名のなかなか良い楽団があり、レスターはそこで演奏していた。街にはチェリーと言うスペイン人がいてね、ペンキ屋だったが、素晴らしいテナー奏者で、レスターは彼ととサックスで勝負したりした。当時のレスターのプレイ自体は殆ど覚えていないが、軽めの良い音色だったよ。しばらくしてヤング・ファミリーは街を離れミネアポリスに移った。
次に会ったのは1934年頃で、彼が西海岸へ楽旅中にベイシー楽団のコーフィー・ロバーツというアルト奏者を迎えに町に戻ってきた時だ。その時代の彼はすでに1936年の初レコーデイングと同じサウンドだったよ。この地方は真鍮製のベッドが多くてね、レスターはいつもベッドの足元にテナーを吊るして寝ていた。夜中に何かアイデアが浮かぶと、サックスを手に取りすぐ音を確かめられるからだ。」
ヤングの初レコーデイングは、ベイシー楽団選抜のスモールグループだ。メロディの浮揚感は、フランキー・トランバウワーやジミー・ドーシーを想起させる。
ヤングが以後15年間使用する上向きのグリスや急上昇するフレージングはコルネット奏者ビックス・バイダーベックの影響を暗示している。ヤングには深いブルース・フィーリングがあった。それはキング・オリヴァーのセンスを自分の一部として取り込んだのに違いない。淡い音色と最小限に抑制するヴィブラート、「間」のセンス、息の長いフレージング、そして容易くリズムを操る柔軟性を併せ持っていた。
彼の登場まで、大部分のソロイスト達はオン・ビートでリズムに乗り、垂直的で短いフレージングに終始するため、リズムの波は途切れがちになった。ヤングはこのようなバウンスするアタックを滑らかにして、バーラインを越える長いフレーズとレガートを駆使した。(フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代、同僚だったトランペット奏者レッド・アレンと同じ手法である。)さらに彼は、しばしばコードからアウトする音を使った。奇妙な音符こそが、彼のソロで耳を惹きつけるものであり、沈黙は強調の為に使われた。
カウント・ベイシー楽団のベーシスト、ジーン・ラミーはこう回想する。
「ヤングは33年の終わりには、非常に間のあるサウンドを手中にしていた。あるフレーズから次の新しいフレーズを始めるのに最低三拍の間を置いた。」
真正面から胸倉をわし掴みにするようなコールマン・ホーキンスと反対に、ヤングのソロはわざとそっぽを向いて人をはぐらかすようにさえ聴こえる。ヤングのアドリブは非常に論理的に動き、滑らかで耳に優しい。彼は装飾音符の達人であり完璧な即興演奏家であった。
“Willow Weep for Me”や”The Man I Love”といったおなじみの曲を、一瞬そうと判らないほど鮮烈に仕立てた。頭の中に原曲のメロディをしっかり持ちながら繰り出すサウンドは、曲に対して抱く「夢」であり、彼の紡ぐソロは「幻想」だ。-叙情性がありソフトで滑らか―それは演奏だけでなく、恐らくは彼の人生もそうだったのではないだろうか?
ハミングにさえ思える気楽なソロ、だがそれは見せかけだ。音の動きは急速で、不意にホールドしたと思えばガクっとビートを落とす。リズムのギアチェンジで大胆に変化を付け、ソロは絶え間なく変化を続ける。繰り出すメロディは時に非常に美しい。スロウな演奏は優しい子守唄のようだが、テンポが速まるにつれ、彼のトーンは荒々しくなった。同時にヤングは随一無比のクラリネット奏者でもあった。30年代後半に、メタル・クラリネットを吹き、心に訴えかけるような澄み切った音色を手中にしていた。(しかし、クラリネットが盗まれたので、ヤングはいとも簡単に楽器を諦めてしまった。)
(明日につづく)
GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (第一回)
ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (1)
サックス奏者レスター・ヤングが独創性に欠ける点はほぼ皆無だ。腫れぼったい瞼と飛び出し気味の目、少し東洋的で角ばった顔、飛び切り小さな口髭、歯の隙間が見える笑顔。彼は内股で軽やかに歩き、話し声はソフト、何かしらダンディなところがあった。スーツとニット・タイにカラー・ピン、踝(くるぶし)丈のレインコート、それにトレードマークのポークパイ・ハットを、若い時には後頭部に軽くのせ、年を取ると目深にかぶった。性格は内気、話し掛けられた場合に限り、しばしば自分も話す。演奏中は前方斜め45°にサックスを構え、まるで水中に櫂(かい)を漕ぎ入れるカヌー乗りの様に見えた。その音色は空気の様に軽くしなやか、それまで耳にした事もないようなフレーズは、何とも言えず抒情的で捉えどころのないものだった。
サックス奏者がこぞってコールマン・ホーキンスに追従した時代、ヤングは二人の白人奏者を模範とした:Cメロディのサックス奏者フランキー・トランバウアーとアルトサックスのジミー・ドーシー、両者とも一流ジャズ・プレイヤーではない。だが1959年にレスター・ヤングが没した時、彼は白人黒人両方の無数のサックス奏者の模範となっていた。優しく親切な男で、人をけなした事はない。
左から:Frankie Trumbauer(1901-56), Jimmy Dorsey (1904-57)
そして彼は暗号のような言葉を使った。
<レスター・ヤング的言語について>
レスター・ヤングの暗号化された言語についてジミー・ロウルズ(p)はこう語る。
「彼の言う事を理解するためには、暗号の解読が必要だった。それは辞書を暗記するようなもので、私の場合は判るようになるまで約3ヶ月はかかったと思う。」
ヤングの言語は大部分が消滅してしまったが以下はその一例である。
- ビング(クロスビー)とボブ(ホープ)= 警察
- 帽子(Hat)= 女性 中折れ帽 orソンブレロ= 女性のタイプを表す。
- パウンドケーキ = 若く魅力的な女性
- グレーの男の子 = 白人男性
- オクスフォードグレイ= 肌の白い黒人、つまりレスター自身も意味する。
- 「目玉が飛び出る」=「賛成する。」
- カタリナの目orワッツの目 =どちらも非常に感嘆した時の表現
- 「左の人たち」 =ピアニストの左手の指
- 「召集令状が来る気分だ。」= 人種偏見を持った奴が間近にいる。
- 「お代わりを召し上がれ。」=(バンドスタンドでメンバーに対して)「もう1コーラス演れ。」
- One long, Two long = 1コーラス、2コーラス
- 「耳元がざわざわする」=人が彼の陰口を言っている。
- 「ちょいパチをもらう。」= 喝采を受ける。
- ブンブンちゃん = たかり屋
- ニードル・ダンサー = へロイン中毒者
- アザを作る =失敗する。
- 種族=楽団
- トロリー・バス =リハーサル
- マダムは燃やせるかい? =お前の奥さんは料理が上手か?
- あの人たちは12月に来る。=2人目の子供が12月に出来る。(因みに彼は3回結婚し2人の子供を持った。)
- あっと驚くメスが2時。 =美女が客席右手”2時”の方角に座っている。
<旅芸人>
奇人変人は往々にして、混雑しつつ秩序ある場所に棲息する。ヤングが人生の大半を過ごしたのは、バスや鉄道の中、ホテル、楽屋、車の中やバンドスタンドであった。
彼は1909年ミシシッピー州ウッドヴィルに生まれ、生後すぐに家族でニュ―オリンズの川向こうの街、アルジャーズに移った。10歳の時に両親が離別、レスターは、弟のリー、妹のイルマと共に父に引き取られ、メンフィスからミネアポリスへと移り住む。父親はどんな楽器でも演奏することが出来、家族で楽団を結成し、中西部や南西部をテント・ショウの一座として巡業した。ヤングは最初ドラムを演奏し、後にアルトサックスに転向した。初期の写真を見ると、彼のサックスの構えは後年と同様非常にヴォードヴィル的なものだ。
「自分は譜面を読める様になるのが人より遅かった。…」かつて彼は語った。
レスター・ヤング : 「ある日、父がバンドのメンバー全員に各自のパートを吹くよう言った。父は僕が出来ない事を百も承知で、わざとそう言ったんだ。僕の小さなハートは張り裂け、オイオイ泣きながら思った。家出して腕を磨こう!あいつらを追い抜かして帰ってきてやる…帰って欲しけりゃな。覚えてろ!そして僕は家を出て、たった一人で音楽を学んだ。」
(明日につづく)