ベルリン発 ジョージ・ムラーツ情報、大人のジャズファンの為の絵本情報など…

<トリビュート前、ピアノも絶好調>
 トリビュート・コンサートが来週に近づき、路地裏は何となく慌しい雰囲気,
でもピアノは、いつもに増して高らかにサウンドしています。トリビュートに備えて寺井尚之が寸暇を惜しんで稽古しているせいで、ヒット・ポイントと呼ばれる鍵盤のツボをずーっと刺激しているから、ピアノのアドレナリンが増幅されているのだろうか?? 不思議な現象です。
 遠方でトリビュート・コンサートにお越しになれないフラナガン・ファンの皆さん、沢山激励メッセージなど頂戴し、ありがとうございます! お店のフラナガンの写真に向いながら逐一報告していますよ!コンサートは、まだ少しだけ席がありますので、お早めにどうぞ!
bonne_femme-2.JPG 摩周湖から贈られた極上ポテトのお供えは、特別メニューに変身!
ジャック・フロストさま、ありがとうございました。

<ジョージ・ムラーツ情報>
george_mraz_europe.jpg  ベルリンジャズ祭HPより
 
 我らのアニキ、ジョージ・ムラーツはヨーロッパ楽旅もとうとう終盤、ベルリンから’70年代にムラーツと盛んに共演したウォルター・ノリス(p)先生から、ムラーツ情報が届きました。

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「…君たちが教えてくれたとおり、ムラーツは、リシャール・ガリアーノ・カルテットで演奏しました。ゴンザロ・ルバルカバ(p)、クラレンス・ペン(ds) ベルリン・ジャズ祭で、彼らの奏でる一音一音全てがビューティフルだった。
 コンサートが終わってから、妻のクリステンと一緒にホテルでムラーツとゆっくり会ってOverSeasの君たちの噂で盛り上がったよ。そして、1973年の共演時代の思い出、私たちが共有した、沢山の音楽的瞬間のことを語り合いました。
ああ、人生は一度じゃあ足りないね!・・・OverSeasの皆によろしく伝えてください!」

ノリス-ムラーツ・コンビのDrifting(’73 Enja)や、Hues of Blues (Concord ’95)は研ぎ澄まされたナイフのようなインタープレイが「妖艶」とでも言えばいいのか…しっぽり魅了されてしまいます。
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<パノニカ夫人に夢中!>
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 不景気なのに物価高、まるでエラ・フィッツジェラルドの『ノーバディズ・ビジネス』のような昨今ですが、円高をいいことに、この秋、やっと英語版で出版されたパノニカ夫人の写真集、『Three Wishes: An Intimate Look at Jazz Greats』を買いました。オリジナルは昨年出た仏語版、でも当時はユーロ高、おまけに仏語はムズカシイと躊躇していたけど、今回はペーパーバックス、紀伊国屋のサイトで1,900円弱とお買い得!届くのに数週間かかりましたが、買ってよかった!楽しくて切なくて、大人のジャズ・ファンのための、数少ない良書です。
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 この本は、ニカ夫人が遺した多数のスナップ写真と、親しいミュージシャンに投げかけた問いかけ:『あなたの3つの願いは?』に対する沢山の『答え』の草稿を、上手にデザインして仕上げた極上の「大人の絵本」
 ジャズメンたちをこよなく愛したパノニカだからこそ撮れた、様々なジャズメンの屈託のない表情が最高!「奇人」として知られるセロニアス・モンクが、尊敬するコールマン・ホーキンスの傍らで見せる検挙な表情や、トミー・フラナガンがニカの飼い猫に見せる笑顔など、商業写真では絶対に拝めない「素顔」のショットばかりです。
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 「3つの願い」を告白したジャズメンの顔ぶれは、ジャズの聖人、サムライたちがずらり!冒頭のセロニアス・モンクから、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、AT、ジミー・ヒース、ディック・カッツ、スティット、ロリンス、Aブレイキーetc…勿論トミー・フラナガンも!!ジャズの巨人達の『お答え』には、その人の人生が見え隠れして、楽しかったり切なかったり。
  本文に負けないほど感銘を受けたのは「序文」! それは、アーティストであるナディーヌ・ケーニグスウォーターが、大叔母さんへの愛情をこめ、近親者のみ知る事実を交えながら書いた簡潔なパノニカの伝記。私たちも生前のパノニカ夫人を観たことがあるし、色んなミュージシャンから彼女の噂を聞いたことがあります。そこから感じるパノニカのイメージは、「タニマチ」とか「男爵夫人」とかいう枠を越えた人だった。だから、モンクの代理妻とか、上品な男爵夫人とか、メディアが伝えるパノニカ像に、どうも釈然としないものを感じていたんです。
 ところが、今回の序文からは、20世紀のユダヤ上流階級の文化、汎ヨーロッパ的精神、父の悲劇的な死、ホロコースト、レジスタンス運動、アフリカ文化などなど…修羅場をくぐってきた高貴な女性の生き様を象徴するキーワードに満ちていて、リアリティ・ギャップが一気に解消された爽快さを味わいました。
 「エラ・フィッツジェラルドMontreux’77」の対訳の合間に作った抄訳は、近日掲載予定。
 
 明日は荒崎英一郎トリオ、新人ベーシストのプレイを聴くのが楽しみです。
CU!

トリビュート・コンサートの前に:トミー&ダイアナ・フラナガンのレア映像

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 民主党オバマさんが第44代合衆国大統領に! 日本のTVなのに開票速報が順次報道され「ここはどこの国?」と思うくらいアメリカの選挙一色、直後に届いたNYタイムス速報メールの見出しが印象的でした。
Obama Elected President as Racial Barrier Falls
「人種の壁崩壊、オバマ、大統領に!」

  トミー・フラナガン未亡人ダイアナは、根っからのリベラル、民主党支持者…米国のジャズ界で共和党支持の人を私は知らない。さぞ浮かれているだろうと思って電話してみたら、意外にも風邪をひいて大人しくしていた。
  ところで、ジャズ講座の資料準備で、Youtube検索していたら、思いがけずトミーとダイアナ・フラナガン夫妻、1972年の貴重な映像に遭遇!必要は発見の母? それともトミーの思し召しか??
  映画のタイトルは「Born to Swing:The Movie About the Alumni of the Count Basie Band of 1943」
 Born to Swingは、日本語なら『生まれながらのスイング野郎たち』という感じでしょうか? 『1943年のカウント・ベイシー楽団員の現在』という副題がついている。’73年作品、英国のTV用ドキュメンタリー映画で、ヴィデオでも販売されていたようなのですが、現在は入手不可。
  ダイアナに聞いたら、「そうそう!エキストラでセッションに行ったけど、出来たフィルムは全く観たことがない。」らしい。撮影は、二人が結婚したしばらく後の’72年、トミーはNY滞在中で番組に参加したそうで、ダイアナが映っている唯一の動画だと言っていた。
  ラッキーなことにYoutubeに、番組を11のパーツに分割しアップロードしてくれた親切な人がいた!ありがとう!!
 勿論、番組には字幕がないし、残念なことには、ストーリーと直接無関係なトミー・フラナガンのソロがカットされている。だけど、ジョー・ジョーンズを初めとする巨匠達の神業がアンビリーバブル!それだけでなく、’70年代の文化に興味があれば、とっても面白いのでお暇なときに見てみてください。下の映像は、11に分けられたパーツのうちの<Part10>です。

詳しいパーソネル&サウンドトラックのデータは、imdbでなくアメリカ国会図書館にありました。
どんな内容かというと、スイングジャズの黄金期に活躍したカウント・ベイシーのメンバー達の’70年代の姿にスポットを当てた『あの人は今』風の番組。人間国宝級のアーティストにアメリカは優しくなかったということがよーく判ります。故にこの番組もUK製作でUSAじゃない。
   トランペット教室の講師が黒鉄ヒロシそっくりなジョー・ニューマン(tp)で、授業参観がバック・クレイトン(tp)だったり、ジョー・ジョーンズ(ds)の神業が拝めたり、テキサス・テナーの大御所、バディ・テイトの「ハーレム・ノクターン」が聴けたり、ジャズ講座や講座本に登場する偉人が沢山拝める。私は、深夜、一気に見てしまいました。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
★勿体無いので各パートをごく簡単に説明しておこう。
Part1 プロローグ、黄金期、1943年当時のベイシー楽団の映像。
Part2 カンザスシティ の巻き:ベイシー楽団のルーツ、カンザス・シティやダンス・ホールと結びついたスイング・ジャズについて、当時のもう一人の名バンマス、アンディ・カーク達が、ダンス音楽として発祥したスイング・ジャズの歴史を、当時の貴重映像と共に語る。
Part3: スイング時代の白人スタードラマー、ジーン・クルーパ(ds)と、ベイシー・サウンドに魅了され、彼らをスターダムにのし上げたプロデューサー、ジョン・ハモンドが、当時の状況をベイシー・サウンドに乗せて語る。最後のダンスシーンの関取みたいな人は、かの有名なブルース歌手、ジミー・ラッシングです。
Part4: 引き続き、ジョン・ハモンドが当時のベイシー楽団のメンバーが非常に読譜力があり、同時にアドリブの能力があったかを語り、’72年現在のメンバー達のリハーサルへとシーン・チェンジズ!最初のテナーが、バディ・テイト!左に座るアルトが、来月の講座に登場するアール・ウォーレン! メインストリーム誌(英ジャズ誌)の編集長、アルバート・マッカーシーは、スイング時代の名手が現在では、必ずしもアメリカで厚遇されていないと語る。凄いインパクトの赤シャツのベーシストはジーン・ラミー(b)。2:35あたりに、トミー・フラナガンのアップが!
Part 5 ディッキー・ウエルズ(tb)の巻 :英国では高い評価のミュート・トロンボーンの名手、ウエルズも今は、現在はハーレムの小さなアパート暮らし、なんとウォール街のメッセンジャー・ボーイとして生計を立てていた。なんちゅうこっちゃ…現在の日本の不景気な状況下では、配達の封筒にスタンプを押すウエルズの姿が一層身につまされる。
Part 6 バディ・テイトの巻: ’72現在、現役として活動するテイトが、自分の一部のようなブルースや、奥さんとのなれそめなどを語る。ソロで吹くハーレム・ノクターンやトミー・フラナガン参加のリハーサル・シーンが最高、Bテイトの後ろでスイングしているのがダイアナ・フラナガンです。
Part7: トランペッター:バック・クレイトン&ジョー・ニューマンの巻 スイング時代に最高の美男とビリー・ホリディが絶賛した大スター、バック・クレイトン(tp)は体調を崩し引退を余儀なくされた。演奏できない辛さを酒で紛らわせたと語るクレイトン、そして、ジャズモービル(NYの夏のジャズ風物詩でした)のトランペット・セミナーで、演奏技術を後進に伝えるジョー・ニューマン先生の姿が!勉強になります。傍らで見守るクレイトンの表情は何とも言えないほど深い。
Part8 :圧巻!ジョー・ジョーンズ(ds)の巻き!!全モダン・ドラマーの祖父と呼ばれる、ジョー・ジョーンズ(ds)も現役だが、現在ドラムショップの共同経営者で、お客さんにインストラクターをしている。
 指導シーンも、Jニューマン、トミー・フラナガンとトリオでのLizaのプレイも、全てが圧倒的!!メインステムのドラマー、菅一平さんは、実家が経営していたすし屋の花板さんのイメージが重なったそうです。にこやかに接客しながら、注文を間違わずに、さっさとすしを握る仕事ぶりと似ていると、言っておられました。
 Part9:コンマス アール・ウォーレン(as)の巻   43年当時楽団のスターアルト奏者、アール・ウォーレンは、家族が病気になり収入を確保するため、現在はブロードウェイなど商業音楽の世界で暮らしているが、音楽への情熱は失ってはいない。リハ・シーンでコンサート・マスターの腕をいかんなく発揮。一流ビッグバンドのリハを観るチャンスはなかなかないので勉強になる!
 Part10:リユニオン・バンドの巻 レコーディング・セッションで往年のメンバー達が、今の自分たちのサウンドでスイングする。もちろんピアノはトミー・フラナガン!「Blues for J.Jones」 最高!壁際に座ってたダイアナに聞いたところでは、「あれは完全な即興よ、その場のヘッドアレンジだけでささっと演っちゃったの!」と言ってました。
<Part11>エピローグ
 このヴィデオは、龍谷大学の図書館にあるようなので、心ある龍大の方、どなたかコピーしてくださったらダイアナに送ってあげられるのですが・・・OverSeasは学割チャージ半額ですよ!
  とにかく今の私より若いダイアナやトミーの姿、叩き上げの名手達の姿を観て、とっても元気が出ました。
  土曜日はジャズ講座で、トミー・フラナガン3 at Montreux ’77を皆で聴こう!北海道のジャック・フロスト・フラナガン氏が届けてくださった、おいしいジャガイモと地鶏で、おいしい料理を作ります。皆来てね!
CU

タッド・ダメロンについて話そう!(3)

<ドラッグ刑務所にて>
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   1958年4月、有罪判決を受けたタッド・ダメロンはケンタッキー州レキシントンにある連邦麻薬患者更正病院(The Federal Narcotics Hospital:通称 Narco)に入院した。
narcotics_farm.jpg   ナルコは、ドラッグ犯罪者の刑務所であると同時に、施設には牧場もあった。
 一般市民にも門戸を開放し、入院者が労働や娯楽活動を通じて、麻薬で失った自尊心や自信を回復できるプログラムを持つユニークなリハビリ施設だったが、治癒率は7パーセントと低く、隠密に麻薬の人体実験を行うなどの「影の仕事」が、閉院後にTVドキュメンタリーや左記の書物で明らかになっている。 

  ’40年代、「レキシントンに行く」と言えば、この病院を指すほど麻薬中毒は多かった。アメリカでは、当時ドラッグはアスピリンと同じくらい簡単に入手できたからだ。おまけに、教育を受けられない有色人種の子供は、売人にとって格好の潜在的マーケットとして、ただで薬を配られ、麻薬に親しまされた、という経緯がある。チャーリー・パーカーは、芸術的恍惚感を得る為だけにドラッグ中毒になったのではないのです。
 ここにお世話になったジャズの巨人達は枚挙に暇がない、思いつくだけで、ロリンズ、エルヴィン、キャノンボール、チェット・ベイカー…加えてスティット、アモンズ、デクスター・ゴードンは、「所持」でなく麻薬売買の罪で服役した。当然、刑務所内にはジャズバンドがあり、ダメロンは入所後、すぐに指揮者となるのですが、すぐに辞めてしまう。理由は、一般入院患者がすぐに退院してしまうので、固定メンバーが少なく、バンドがまとまらないからだったそうです。そしてダメロンは一般労働につく。レキシントンでは麻薬所持だけで犯罪歴のない者は、病院外で就労することもできたんです。
<クロフォード家のコックは幸せ者>
 ダメロンが選んだのは意外にもコックの仕事(!) なんでも養父の経営するレストランの調理場で7歳の時から働いたというキャリアがあったらしい。施設の近所にあるクロフォードさんというお宅に通い、毎日料理を作った。地獄で仏、クロフォードさん一家は、タッドを音楽家と認め、家族のように親切にしてくれた。このお宅にはピアノがあり、ご飯の支度以外、タッドはピアノにずっと向かっていてよかった。彼がピアノを弾いたり作曲する様子を見ているのが、クロフォード家の人達は大好きだったのだそうです。
   「あのお宅で、生まれて初めて他人の親切というものを知った。」と、タッドは述懐している。出所後も、レコードを送ったり文通し、この一家と交際を続けた。普通ならシャバに戻れば、牢屋の記憶は消し去りたいはずでしょうから、ダメロンとこの家族の間には、よほど特別なつながりがあったのではないだろうか?
<レキシントンから吹く風は…>
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 もう少しで刑期が終わる頃、NYからダメロンに一通の手紙が届いた。それは、リヴァーサイド・レコードの重役、オリン・キープニュースからの仕事の依頼だった。
 ブルー・ミッチェル(tp)とストリングス、ブラスアンサンブルを組み合わせたアルバムの制作にあたり、ダメロンに編曲を依頼することに決定したのだ。NYからはるか彼方で服役中のダメロンに白羽の矢を立てた裏には、キープニュースと懇意であったダメロンの親友、フィリー・ジョー・ジョーンズの尽力があったのことは、容易に想像できます。
 ダメロンは、レキシントンから、アルバム中、2曲の書き下ろしオリジナルと5曲の編曲を提供。
 心にすがすがしさと平穏をもたらしてくれる名曲“Smooth As the Wind”は、服役中に書かれたものだったのだ。クロフォード一家の優しさに触れなければ、OverSeasで皆が大好きな、Smooth As the Windも、この間ジャズ講座で楽しんだA Blue Timeも生まれていなかったかも知れない。
  アルバムの出来について、自分が現場にいればもっと良いものになったろうと悔やんでいる。
  <浦島太郎>
  ’61年 6月末、タッド・ダメロンは刑期を終えNYに帰還。しかし3年間の空白の後に観たNYのジャズシーンは「アヴァン・ギャルド」へと向かい、ダメロンには到底受け容れ難いものだった。
 
   タッド・ダメロンは出所後のジャズクラブの感想をこのように語っている。
 「何のフォーマットもないプレイに、僕はびっくり仰天した。…お客さんたちは、何に対する拍手なのかも判らず、やたらに拍手しているだけ、ミュージシャンたちは、ブロウするだけで「かたち」というものがまるでなかった…。」
  「僕は、人を煙に巻くために音楽を演っているんじゃない。自分の演っていることを、鑑賞してほしい。演奏の帰り道、僕の書いた音楽を口笛で吹いてくれればそれでいい。」
<癌と戦った晩年>
magic%20touch%20of%20tadd%20dameron.jpg  カヴァー写真は、床の上で譜面を書くダメロン:彼はフィリー・ジョー・ジョーンズと同居中、いつもこんな姿勢で楽譜を書き、ピアノに向かうのはサウンドを確認する時だけだったという。
 『Smooth As the Wind』に続きダメロンは、やっと自己名義の『The Magic Touch』を録音、3日間の録音を与えられ、スイングの風を送り込むドラムには最高の理解者フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)を据え、ダメロン・サウンドの切り札、トランペットにはブルー・ミッチェルやクラーク・テリーのトランペットを擁して、ソロ・オーダーまで、きめ細かく陣頭指揮した録音は、ダメロンにとって最も満足の行く仕上がりとなる。これがダメロン自身のラスト・レコーディングとなった。
five_spot.jpg Tadd_Dameron_late_years.jpg
 最後のライブ出演は1964年11月8日(日)の午後、場所はイーストヴィレッジのジャズクラブ、「ファイブ・スポット」で、ビバップ時代の仲間、バブズ・ゴンザレス(vo)主催:“ダメロン音楽の集い”と書物(Jazz Masters of the Forties/ Ira Gitler)に記載されているが、週刊誌NewYorkerのタウン情報を見ても、日曜は休業日となっていて、どこにも記載がない。 Ira Gitlerの本では、ダメロンは入院先から外出許可を取っての出演であったと書かれている。そうすれば、末期がんのダメロンを励まし、治療費をカンパを募るような内輪のイベントであったのかも知れない。
   翌65年、3月8日タッド・ダメロンは、イギリス人のミア夫人に看取られ、アップタウンのルーズベルト病院にて没。3日後の葬儀には、兄シーザーや母ルースがクリーブランドから駆けつけ、ビリー・テイラー(p)ロイ・ヘインズ(ds)など多くのジャズメンが参列した。牧師の説教はごく短時間で、葬儀の殆どが演奏で占められた。「ベニー・ゴルソン(ts)が、ダメロン作“The Squirrel”を演奏した。」とNYタイムズには記載されている。享年48歳だった。
mia_dameron.JPG’08 1月ASCAPの受賞式に出席したミア・ダメロン未亡人、右はジョン・クレイトン(b)
<ミュージシャンが魅了され続ける『美・バップ』>
 タッド・ダメロンは、ビバップの高度な理論を駆使し、独自の美的世界を完成させ、多くの音楽家に影響を与えた。
   作編曲だけでなく、ミュージシャン、特にトランペットの「使いどころ」を熟知していて、最高のソロオーダーを指示できた音楽監督であったと言います。また、「聴かせるツボ」を抑える為に、ソロイストに演奏表現を事細かく指導することで、ファッツ・ナバロ、クリフォード・ブラウン(tp)やサラ・ヴォーン(vo)の天才を開花させたのだと、フィリー・ジョー・ジョーンズやデクスター・ゴードン達、ミュージシャン達は語る。
  批評界には、「ビバップ期の作編曲家」としか格付けされなかったダメロン音楽を、再評価して再生させたのは、業界でなくミュージシャン達だ。
 ’81年、フィリー・ジョー・ジョーンズは、エロイーズ夫人の尽力で、米国芸術基金を取得、ドン・シックラー(tp)の協力を得て、伝説的なバンド“ダメロニア”を結成、ダメロン音楽を蘇らせた。2枚のアルバムを発表後、各地で公演を行い、特にNYで大きな評価を得た。
 ’88年に、リンカーン・センターで伝説的なコンサートが開催される。“The Music of Tadd Dameron”と銘打ったコンサートが、前半がトミー・フラナガン3+チャーリー・ラウズ(ts)後半がダメロニアで、全編タッド・ダメロンの名曲を聴かせ、スタンディング・オベーションの嵐となったのは今も語り草です。。
 寺井尚之にとっては、フラナガンにコンサートの最前列を取ってもらいながら渡米の日程が合わず、泣く泣く聴き逃した逸話がありますが、後にラジオで放送されました。
 mad_about_tadd.jpg  それ以外にも、’80年代はジミー・ヒース(ts)、アーサー・テイラー(ds)達のバンド、“コンティニアム”もダメロン集をリリースしています。
 と、いうわけで、2回続けてタッド・ダメロンの人生がどんなだったのか、少し書いてみました。スイングしていて美しい!ビバップというより“美・バップ”と呼びたいダメロンの名曲は、OverSeasの日常には欠かせない。11月22日のトリビュート・コンサートにも演奏されます。ぜひお楽しみください。
 
 

「この世は醜いものだらけ。私が惹かれるのは“美”だ。」
  
 「ホーンや歌手が“歌う”のに最も重要なのは“息遣い”だ。多くのミュージシャンがそれを忘れている。」
 「まずはスイングすること。そして美しくあること。」
 
 タッド・ダメロン

タッド・ダメロンについて話そう!(2)

dameron_tadd.jpgTadd Dameron 1917-1965
 このところ不景気なのに物価高、金融スパイラルで異様な円高…そうだ!今まで手の出なかった洋書の買い時だ!…しかし、先立つものが…
 ともあれ、今夜は、今までに貯め込んだビバップ資料から、タッド・ダメロンの紆余曲折の人生をちょっと眺めてみよう。今夜はその前編です。
<ミスキャスト?タッド・ダメロン>
 1962年、麻薬更正施設からNYにカムバックしたタッド・ダメロンは、ダウンビート誌のインタビューの冒頭に、「私は音楽界で、最もミスキャストの、合わない役柄ばかりこなしてきたミュージシャンだ。」と発言した。私はそれがダメロンのB級なイメージを増幅したのではないかと危惧します。天才に対するリスペクトも情もないビル・コスのまとめ方に、記事を読んだダメロンはきっと「こんなはずじゃなかった」と思ったに違いない。
 
 <独学の天才>
 タッド・ダメロンは、タドリー・ユーイング・ピーク(Tadley Ewing Peake)として、1917年(大正6年)に、アメリカ中西部の大都市、オハイオ州クリーブランドのピーク夫妻の次男として生まれた。今でもお元気なハンク・ジョーンズ(p)さんよりたった一つだけ年上です。
marylou_dameron.jpg  真ん中の眼鏡紳士がハンク・ジョーンズ、その左がタッド・ダメロン(’40s)
 シーザー&タッド兄弟が幼い時、両親が離婚し、母親がアドルファス・ダメロンというクリーブランドのレストラン経営者と再婚したので、兄弟も養父のダメロン姓になりました。兄シーザー・ダメロンは、タッド同様、ピアニスト、編曲家、バンドリーダーに加え、サックス奏者として地元やシカゴで活躍、タッドがジャズの道に進んだのも、この兄さんの影響でした。
  ダメロン夫妻は、兄を音楽家、弟を医者にしようと考え、シーザーにはピアノを習わせサックスを買い与えましたが、タッドには「勉強しなさい」と自宅でピアノを弾くのを禁じたそうです。
「だめ」と言われると、子供は絶対したくなる…タッドは、母が留守をするとピアノの独習に励み、兄さんからはジャズの手ほどきを受けながら、音楽理論の書物を読み漁った。同時に映画が大好き!お好みは、ガーシュインが流れるフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズの「美しい」ミュージカル映画、タッドは映画館に行くと鉄砲玉みたいで、母親が迎えに行くまで帰ってこない子供であった。
  タッド・ダメロンは、作編曲、ピアノ、ぜーんぶ独学だった。 そのため、ハイスクールの音楽理論の授業があまりにも「あほくさく」、サボリまくった結果「落第」するという皮肉な結果を招く。
 
 親の希望をよそに、兄と共にプロ活動、僅か16歳で、プロのバンドにアレンジを提供していたというのですから、音楽の授業に出ている暇がなかったのかも知れません。
<もう一人の天才、フレディ・ウエブスター>
freddie_webster.JPG ダメロンは初期のサラ・ヴォーンのSP盤“If You Could See Me Now”にフィーチュアされているけれど…
 高校時代から共演していたのが、伝説のトランペッター、フレディ・ウエブスターで、ダメロンは彼のバンドで歌手(!)とピアノを担当していた。ウエブスターはトランペット発明以来、最高といわれる大きなトーンとヴィブラートを持つ名手で31歳の若さで亡くなり、彼の往時のプレイを偲ばせる録音は殆ど残っていないんです。初期のマイルス・デイヴィスが、本番でフレディのソロの完コピーを吹いたという有名な逸話もあり、多くのトランペット奏者に影響を与えた。後年、タッド・ダメロンは、彼を規範にしてクリフォード・ブラウンやファッツ・ナバロを育て上げたそうです。生で聴いてみたかったものですね。
<ミスキャストな医学生>
 高校卒業後、オハイオ州一の名門大、オバーリン・カレッジに入学、ここは音楽部門が特に有名で、今OverSeasで話題沸騰のスタンリー・カウエル(p)も卒業生です。
 しかし、タッドは両親の希望で、医学部の予備コースへ。2回生の時、人体解剖で切除されかかった腕がブランブランしているのを見て、吐き気を催し、「無理や」と諦めたタッドは、バンドに入り巡業の日々を送ったそうです。
  ところが、最近、研究者がオバーリン大の名簿を調査しても、ダメロンの名前はなかったそうです。ひょっとしたら、親から学費をもらいながら、バンドでビータ(旅)をしていたのか?とにかく、家族は「こんなはずじゃなかった!」とびっくり仰天!
blanch_calloway.jpg学生だったタッドをスカウトして巡業に連れて行ったブランチ・キャロウエイはキャブの姉だった。
<カンザス・シティ>
  様々な楽団で演奏と作編曲をしながら各地を渡り歩くダメロンは、30年代のジャズのメッカ、カンザス・シティにしばし落ち着き、NYから帰ってきたチャーリー・パーカーと初めて出会います。しかし、Good BaitStay on Itと言ったビバップらしいダメロンの代表作は、パーカーと出会うずっと前、すでにクリーブランドで書いていた作品だったのです。
 独学でビバップの和声とリズムを開発した天才も、第二次大戦勃発後、2年間、軍需工場で労働し、音楽とは全く無縁の労働に従事しなければなりませんでした。丁度、エリントン楽団の「A列車で行こう」が全米のラジオで鳴っていた頃のことです。
Jimmie-Lunceford.jpgランスフォード楽団もラジオを通じコットンクラブから一流になった楽団でベニー・グッドマン楽団はこのバンドのアレンジで人気を博した。
 軍需奉仕から解放されると、ダメロンは即ジミー・ランスフォード楽団で、編曲、リハーサル指導として活動、やがてベニー・カーターやカウント・ベイシーなど様々な楽団に自作やアレンジを提供するのだけれど、何故かレコーディングの機会は回ってこないアンラッキーな下積み生活が続く。
<52番街からビバップの寵児に…>
52ndst.jpg当時の52丁目、左にはオニキス、右にスリー・デューシスと名店が軒を連ねる。
 ダメロンがNYに進出するのは、終戦前の1944年になってからで、NYジャズの中心地がハーレムから52丁目に南下した後のことです。ほどなく、ディジー・ガレスピー・クインテットに代役としてピアノで出演したのをきっかけにブレイク、コール・ポーターの「恋とはどんなものでしょう」の枠組を基に、スモール・コンボ用に作ったHot Houseが大ヒット、’46年には、サラ・ヴォーンのおハコとなる、“If You Could See Me Now”を作詞作曲編曲、ビリー・エクスタインのビバップ・ビッグ・バンドの編曲を担当し、花形アレンジャーとなるのです。
  当時のダメロンは、セロニアス・モンク(p)と連れ立って、「ビバップ虎の穴」、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)のアパートを訪ねては、お互いのプレイに触発されながら、モダン・ミュージックのアイデアを練り合った。
mary_lou_dizzy_tadd.jpgマリー・ルーのアパートはビバップ虎の穴だった。
<作曲家のはずなのに…>
 ビバップ・ブームの影の立役者、モンテ・ケイの主催する大手芸能事務所に所属し、事務所に言われるまま、バンドを率い、元々チキン料理店だった『ロイヤル・ルースト』に出演、するとオープニングに口コミだけで500人のお客がごった返すほどの人気を博し、ラジオ放送されてからは、更にピアニストとして有名にる。
  1947年には、ジャズに力を入れていた男性誌、「エスカイヤ」の人気投票で、「アレンジャーの新星」部門第一位、翌年には、ピアノの腕にはからきし自信がないのに、ラジオ番組で人気投票、ピアノ部門一位を獲得してしまいます。タッド・ダメロン自身は、「自分の天職は作曲だけど、誰も編曲してくれないから仕方なくやっただけ」にも関わらず、ミスマッチな役柄で有名になっちゃった。
 ビッグバンドのフィクサー的存在だったバド・ジョンソン(ts,arr)は「ダメロンの編曲は、実際にはディジー・ガレスピーに言われたことをそのまま書いただけでだ。」と批判的ですが、整然として明るく気品のあるオーケストレーションは、全てのパートが主旋律のように美しく、吹くと楽しい、アドリブもしやすい(ただし、腕があるなら)と、デクスター・ゴードン(ts)を初め、演奏者である楽団員達に熱烈な指示を受けます。
 タッド・ダメロンの本性はメロディ・メイカーであったのか?
トミー・フラナガンの考えはそうではない。
   「タッド・ダメロンの曲はオーケストラによる演奏を予定して書かれているから、ソロ・ピアノで演りやすい。」と語っている。(講座本Ⅲ:特別付録参照
 つまり、ダメロンは頭の中で楽団をサウンドさせながら、間口の広いきれいなメロディを書くことで、新たな編曲のアイデアを、他人にも提示してほしかったのではないだろうか?
 
<耽美か耽溺か>
 1949年、パーカーやガレスピーに象徴される、ベレー帽や派手なストライプのスーツでてんとう虫(Lady Bird)の様に着飾るバッパー達に替わり、ブルックス・ブラザースのトラッドファッションに身を固めたマイルス・デイヴィスがスポットライトを浴びる時代が到来します。NYのトレンドはビバップからハード・バップ、クール・ジャズへと風向きを変えたのです。
   NYでの活動が頭打ちになったダメロンはマイルスとヨーロッパに楽旅し、そのまま英国に2年間留まり音楽活動をしますが、NYのように刺激的なものではなかったのかもしれません。
 
   ’51年に帰国、ダメロンが参加したのは、R&B系のブルムース・ジャクソン楽団、タッド・ダメロンの弟子格のベニー・ゴルソン(ts)、最高の理解者、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)などハード・バップの名手が在籍していたのですが、どう見たってR&Bはミスキャストだった。そこで、フィリー・ジョーやゴルソンを連れ、新人だったクリフォード・ブラウンを引き受け、自己楽団を結成する。しかし、取れた仕事は、たった一ヶ月のジャズと無関係なダンスの仕事。一ヶ月で解散の憂き目に合います。この頃から、ダメロンは、だんだんとヘロインに依存して行く。 
 1953年に、ブラウン・ローチ・クインテットが録音した名作The Scene Is Cleanは、ダメロンの麻薬根絶宣言の曲であったのですが、実際はそうは行かなかった。不本意なことが次々と重なるのです。
   1956年に、自作の組曲、『フォンテンブロー』を録音するのですが、トレンディでないとリリースが見送られます。『メイティング・コール』は発売されましたが、アルバムの名義は、ジョン・コルトレーンと並列になっていました。タッド・ダメロンは音楽ビジネスでは「過去の人」になっていたんです。
 
 八方ふさがりとなったタッド・ダメロンは、1958年1月、麻薬所持容疑で逮捕されてしまいます。
 
 続きは次回へ…
 野球シーズンも終盤で気分はしっぽりインディゴ・ブルー、明日は寺井尚之メインステムの爽快なプレイで心を癒そう…。
CU
 
 
 
 

タッド・ダメロンについて話そう!(1)

   Tadd Dameron (1917-’65)
 
  OverSeasで拍手を沢山いただけるスタンダード曲、そしてトミー・フラナガンの名演目の作曲者の一人にタッド・ダメロンがいます。ダメロンはビバップ時代を代表する作編曲家…とは言うものの、ダメロンに関する情報はネット上では凄く少ない。「ああ、Hot House 作った人か、ジョン・コルトレーンと共演してたバッパーや。麻薬中毒やろ、ピアノは下手やな。」と、なんかBクラスの格付けが多いような気がする。
  トリビュート・コンサートまでに、少しタッド・ダメロンとその作品の話をしておこう!今夜はまずプロローグ。
 タッド・ダメロンといえば、デトロイト出身ということで、フラナガン、ハンク・ジョーンズと共に一くくりにされがちなピアニスト、バリー・ハリス(p)がタッド・ダメロン集、『Barry Harris Plays Tadd Dameron』(Xanadu ’75)を録っていて、リリース時には私も愛聴しました。ここでバリー・ハリスが表現したタッド・ダメロンは、絵画で言えばモディリアーニ、女性の肢体に、彫刻刀でゴリゴリ削ったような陰影と質感を付け、カンバスに命を吹き込むのと同じような手法のプレイには、洗練された楽曲とビバップ的な硬質さの渋いコントラストを感じていました。
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 一方、トミー・フラナガンが描き出すダメロンは、同じ「デトロイト」のカテゴリーに関わらず、バリー・ハリスとはかなり違う。
 最近、ジャズ講座で聴いた、<A Blue Time>、や、<Smooth As the Wind>、極めつけの<Our Delight>…どれもこれもすっきり垢抜け、金箔輝く尾形光琳の屏風のように華やかなれどケバくなく、ビバップならではの手に汗握るスリルがある。
 きっちりと襟を正しているんだけど、どこかにゆるみのある、芸者さんの着物の着方みたい!色気があって粋なんです。…とかなんとか言ったって、百聞は一見にしかず!
 下のYoutube動画は、寺井の生徒達が何百回も観ているヒット画像、トミー・フラナガンが<Smooth As the Wind>をソロで演っています。ホストは、これまた巨匠ビリー・テイラー(p)、<アクターズ・スタジオ・インタビュー>など、ユニークな教育番組で知られるCATV、『Bravo TV』のジャズ番組からの映像。これを観るとタッド・ダメロン作品の良さが判ってもらえるはず!

 ねっ!はじめはシンプルなメロディ、ひとつひとつの音が、扇のように次々とハーモニーの花を開いて、思いがけなく大きく分厚い模様になる。スイング感も倍増し、沢山の扇が大輪の花になったと思うと、最後に全ての扇があっと言う間に畳まれて元通りになる。まるで手品みたい!なんと華麗で優美な曲でしょう!
   この映像の冒頭で、ホスト役のビリー・テイラーはこう言っています。
「エラやコルトレーンとの共演も有名ですが、トミーはなんと言っても、立派なソロイストです。今日はぜひともソロ・ピアノを弾いてもらって、トミーならではのコード・ヴォイシングの素晴らしさを見せて欲しいのですが…」
それに対してフラナガンはこう答える。
「子供のときから、バンド・ミュージックを聴きながら育つと、楽団の演奏が、そのままピアノで弾けてしまうものでね… そうすると今度はちょっとピアノ向きに変えてみたりするんです。これから演るタッド・ダメロンのSmooth As The Windは、バンドのアレンジをそのままソロ・ピアノに使いました。…まずはフレンチホルンのイントロから…」
 フラナガンより10歳近く上の大先輩、ビリー・テイラーに対するフラナガンの話し方はとっても謙虚!「私は腕があるから、何人ものバンド演奏をピアノ一台でやってしまえる」という一人称でなく、「子供のときから楽団を聴いていれば、どんなピアニストだってそれ位のことは出来ますよ。」と、二人称を使っているところが、英語の勉強にもなります。
Smooth As The Windを日本語にするのは、簡単なようで難しい。「風のように、肌触り良く、淀みなく疾走する」という感じかな?快適なヨット・セイリングや、新車のステアリングなどにぴったりなことばです。
 <嵐の中の『そよ風』>
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  Smooth As the Windは、寺井尚之にとっても、大変思い出深い曲です。フラナガンが丁度『Jazz Poet』を録音した’89年、8月末にジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)との黄金トリオでOverSeasに出演した後、フラナガン夫妻が郊外の香里園という住宅地にあった自宅に泊りに来たことがありました。丁度台風が大阪に接近していて、外は土砂降り、翌日の飛行機が飛ぶかどうか判らないような状況でしたが、コンサートは大盛況。大雨の中、第二部の当日券が出るのを期待して、漏れてくるフラナガン3のプレイを聴きながら、ジーン・ケリーみたいに傘をさして踊っているファンの方々がおられました。今でもお元気でしょうか?
   その頃のトミーは、渾身のプレイの後でも元気溌剌!夜食にそうめんを食べてから、ダイアナがお風呂に入ったり、荷解きしている隙に、深夜の地下のピアノ室で「ヒサユキ、何か教えてやろう!」と、急に稽古を付け始めました。
「何を教えたろかなあ…よし!今日はタイフーンだから(!?)、Smooth As the Windにしよう!」そう言うと、こんな風にソロ・ピアノを弾き始めたんです。
 トミー・フラナガンらしいウィットだなあ!
 沢山開いた扇が次々と畳まれて行くようなこの鮮やかなエンディングも、その夜から寺井が完全に身に付けて覚えたものです。
 私以外には誰も外野の居ないピアノ室で、師匠の一言一句、一挙一動にかじりつかんばかりにしていた寺井尚之の姿に思わずシャッターを押したのがこの写真です。この師弟の緊張感は、長年の師弟の歳月の間にも、緩んだり色褪せたりすることはなかった。だから、今でもトリビュート・コンサートの為に骨身を削って稽古できるのかな?
 さて、タッド・ダメロンの作品がどんなのか、ほんの少し聴いたので、来週はタッド・ダメロン自身のことを少し書いてみようと思います。
 ダメロンの名曲はOverSeasにお越しになればいつでも聴いていただけるんですけど…
CU

「Eclypso」 ジャズ講座:片隅感想文


一昨日は『Eclypso』ジャズ講座!お越し下さった皆さん、本当にありがとうございました。
 
 録音スタジオに煙るパイプ煙草の香りが伝わるような解説に、大笑いしたり頷いたり…、楽しい気分がOverSeasの中に溢れると、パイプをくわえたトミーの大きな瞳がギョロっと動いた。あれは幻覚だったのか?
 
 勤務先の北京からは常連KD氏から、ボストンからは鷲見和広(b)さんの一番弟子しょうたんちゃんから、「僕も参加したかった…」とメールを頂戴しました。いずれ講座本シリーズに収録されますので、どうぞお楽しみに!
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講座の当日はパ・リーグ・クライマックス初戦と重なって、オリックス応援と講座ダブルヘッダーのツワモノも!
 OverSeasのBBSには、若きピアニスト達から詳細な感想が数多く書き込まれているし、今さら片隅から私が書くのも何ですが、ちょっと一筆書いておこう。
 『Eclypso』が録音された1977年当時、トミー・フラナガンは、まだエラ・フィッツジェラルドの音楽監督時代で、録音直前にトミーがジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと組んでギグをした記録もない。恐らくリハーサルも当日スタジオ入りしてからやったのではないだろうか? 
 リリース時に、ジャズ・ベーシスト達がこぞってコピーした歴史的名演、“Denzil’s Best”は、なんと当日トミーから渡された譜面を初見で演ったのだと、ムラーツ兄さん本人から聞きました。初見であれほど輝きのあるプレイをするムラーツ(当時32歳)の凄さは当然ですが、共演者の資質を看破し初見の曲でフィーチュアしたフラナガンの「眼力」の凄さ!アルバム・カヴァーのパイプをくゆらすポートレートそのままですね。
ジョージ・ムラーツ公式HPギャラリーより
   ところで、最近、TVで黒澤明の『七人の侍』を数十年ぶりで観ました。日本人であることを幸せに思わせてくれる映画史上に残る傑作だから、皆さんもご存知でしょうが、島田勘兵衛という初老の浪人が、自分を含めてたった七人のチームを急ごしらえし、綿密な作戦を立てて、農民を脅かす野武士集団を退治する時代劇です。
 20世紀を代表する名優、志村喬演じる島田勘兵衛の、温厚さと厳しさを併せ持つ奥の深い人格や、まなざしの輝き、ふと見せる雄弁な表情が、トミー・フラナガンの思い出と重なりました。レギュラー・トリオでなく、限定された条件で録音した『エクリプソ』の仕上がりを鑑賞していると、何度も『七人の侍』の名シーンを思い出してしまいました。
 G先生によれば、プロデュース側のアイデアは、「トミー・フラナガンとエルヴィン・ジョーンズのリユニオン」であったそうですから、“Relaxin’ at Camarillo”は、プロデューサーのリクエストであったのかも知れません。それに対して、ジャズ・スタンダードと言うには知名度の低い“Cup Beares”(トム・マッキントッシュ)、“A Blue Time”(タッド・ダメロン)といったあたりは、明らかにトミー・フラナガン自身の選曲に違いない。
 次回、11月8日(土)のジャズ講座には、キーター・ベッツ(b)、ボビー・ダーハム(ds)からなる当時のレギュラー・トリオのライブ録音、『Montreux ’77』で『Eclypso』と好対照を成します。
 トム・マッキントッシュ、タッド・ダメロン、サド・ジョーンズ、デューク・エリントン、トミー・フラナガンのレパートリーの源流(mainstem)を作った作曲家たちのことは、トリビュート・コンサートまでに、少しでも書きたいなと思っています。
 CU

寺井珠重のJazz News “Tiddy Bitty” 秋の号


①エクリプソ講座は土曜日開催
今週のジャズ講座には、いよいよ『エクリプソ』が登場しますよ。
私自身も発売時からリアルタイムで聴いたアルバム。すぐに買った(というか、先輩に買わされた…)それだけでなく、どこのジャズ喫茶に行っても『エクリプソ』がかかっていたのを覚えています。
 バンドの人達とジャズ喫茶で聴きながら、「ここどないなってんねん?」、「ムラーツなんでこんなん弾けんねん?!ベースの弦足らんがな!?」とか、小声でワイワイ言っていたのが昨日のことのようですが、もう30年前のことだっなんだ…
 土曜日は、若い皆さんにも、大人の皆さんにも、そんな興奮を味わってほしいものです。初めてでも大丈夫!ぜひお越しください!
② NY特派員 Yas竹田のこと。

 ここ数ヶ月間、NYで活躍するベーシスト、Yas竹田の音信が全く途絶えていました。ネットで調べると、NYのライブ情報で名前は見つかるので、生きていることは判っていたのですけど、常連さま方に「YAS竹田帰国ライブはいつですか?」そして、アメリカ在住の方々から「今度NYに行くけど、Yasさんに会えますか?」と、お問い合わせを頂く度に、またサブプライム・ローン関連のニュースを見る度に「一体どないしてんねん!?」と心配が募りました。結局、四方八方手を尽くし、やっと無事を確認。
 
 Yasちゃんの奥さんが病気で寝込んでいて、中学生の息子さんの世話など、色々大変だったようです。
 音楽活動の方は快調で、最近はライターとして有名なビル・クロウ(b)のトラなどもやっているらしい。
 NY生活も20年のYasちゃんも、ご家族が病気だとそりゃ大変だ!!これから寒くなるし、私は何もしてあげられないけど、彼が愛読する週刊文春でも送りますから、お大事にしてあげてください!
③トミーの親戚!
 ジャズ講座の準備で、トミー・フラナガンをGoogle検索していたら、ずっと前に読んだ、Musician Biographyサイトのトミー・フラナガンのページに、ステファン・L・ジャクソンなる人物のコメントが入っているのを発見!
 
 

Stephan L. Jackson (Carl Anthony Flanagan)
トミー・フラナガンは私の大叔父です。私はデトロイト生まれで、生後すぐに、ジャクソン夫妻(二人とも教育者)の養子となりましたが、生みの母は、モニカ・フラナガン・ルイス、彼女の父、つまり私の祖父にあたる人が、トミーの兄となります。
 成人するまで、私は自分の出生について知りませんでしたが、子供の頃から音楽が好きで、学校時代も音楽を副専攻しまし、パーカッションやヴォーカル、役者の勉強もしました。3人の息子も皆音楽をやっています。遺伝子って本当にあるんですね!
 トミー叔父さんに敬意を!あなたの遺産は今も受け継がれていますよ!
 

トミーには、現在少なくともお孫さんが6人いるし、7人兄弟だから、デトロイトやアトランタに親戚は沢山いる。
 トミーのお兄さん、ピアニストのジョンソン・フラナガンJr.の孫にあたる、スコット君は、10年ほど前に、広島の中学校で英語教師をしている間、OverSeasを訪ねて来てくれたことがあります。とっても好青年だったけど、ジャズに余り興味はなかったみたい。
 私は早速、ステファン・ジャクソンさんに、日本でトミー・フラナガンを尊敬する寺井尚之が、自分のクラブ、OverSeasでフラナガンへのトリビュート・コンサートをするよと、メールを送りました。
 そうしたらステファンさんから、すぐに返事が来て、自分の生い立ちなどが詳細に書かれてあった。驚いたのは、彼が海軍時代に、岩国で4年間を過ごしていたことだ。それも、彼の従兄弟にあたるスコットが広島で教鞭を取っていたのと同じ時期というのが不思議です。
 彼は現在ニュージャージーのアトランティック・シティで市長の私設秘書をする傍ら、自分の人生経験や、音楽や演技の技術を活かして自己啓発的カウンセラーのような仕事をしているらしい。 
 「経済的な余裕が出来たら、ぜひOverSeasに来たい」と書いてあったので、いつかステファンさんに会うこともあるかも知れません。
④ジョージ・ムラーツ(b)ヨーロッパ・ツアー
 ジョージ・ムラーツ兄さんは早くも来週にヨーロッパに旅立つそうです。イタリア、モナコ、スイス、イギリス、ポーランド、オーストリア、スペイン、ポルトガル…、ハンク・ジョーンズ(p)やジャズ・アコーディオンのリシャール・ガリアーノさんと大ホールばかりのツアー、もしヨーロッパ在住でご近所の方がいらっしゃったら、ぜひ行ってみてください。コンサート・スケジュールはこちら
 
 不思議なことですが、毎回トリビュート・コンサートが近づくと、OverSeasに向かって風が吹く。世界中から色んなニュースが来て何となく慌しい。
 今夜も、ブリュッセルに住む琥珀色の肌の私の妹分が請け負う翻訳仕事の助っ人です。チェコやタヒチの血を引くハイブリッドな彼女は現在妊娠5ヶ月、助太刀せねば!こんなとき、インターネットは便利だけど眠いよー。
 土曜日のジャズ講座トリビュート・コンサートのチケットお申し込みは、どうぞお早めに!
 CU
 

11月22日(土) トリビュート・コンサートのお知らせ

tommy%27s%20back.JPGTommy Flanagan(1930 3/16- 2001 11/16)
 <第13回 トリビュート・トゥ・トミー・フラナガン>
出演:寺井尚之 The Mainstem (宮本在浩:bass/ 菅一平drums)
 日時:11月22日(土)  7:00pm-/ 8:30pm- (入替なし)
 前売りチケット(座席指定:税込) 3,150円 (当日:3,675円)

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 トミー・フラナガンが亡くなってから7年の歳月が経ちました。毎年3月と11月に開催するトリビュート・コンサートも早13回!
 寺井尚之(p)が、宮本在浩(b)、菅一平(ds)を擁するThe Mainstem(ザ・メインステム)は、トリビュート初お目見え、メインステムも正念場です。
 「トリビュート」は寺井尚之の音楽活動の節目、寺井だけでなく、宮本在浩(b)、菅一平(ds)のメインステム全員がトリビュート準備態勢で、当日まで稽古に余念なし。宮本在浩さん(b)の音色も眼光も鋭くなってきました。驚いたことにOverSeas酒豪番付関脇の菅一平さん(ds)は先日から禁酒中!なんと演奏中にビールを飲むと、フラナガンの視線を感じるらしい…
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 生前のフラナガンが寺井尚之のプレイを聴くときは、あの大きな瞳を見開き、みじろぎもせず、レーザービームの眼差しで終始プレッシャーを与え続けた。トリビュート・コンサートでは、三人ともその視線を感じながらプレイするのだろうか?
 生前のフラナガンのプレイを生でご覧になった方が少なくなってきた現在、フラナガンの名演目と銘打ってお聴かせする者には、それ相当の覚悟が必要です。
 トミー・フラナガンは、お客様になじみのない曲を、「どこかで聴いたことのある懐かしい」曲、「まるで前からよく知っていたスタンダード」みたいに聴かせる名手だった。トリビュート・コンサートでは、きっとそんな気持ちが味わえるに違いない。
 寺井尚之が身近に接した稀有な天才、フラナガンのイメージを少しでも多くの皆さんにお伝えすることができれば、私も幸せです。
 先日の金融恐慌の直後、ベルリンのピアノの巨匠、ウォルター・ノリスさんから来たメールには、こんなことが書いてありました。
 “1930年代の世界恐慌で、ミュージシャン達は大変な苦労を味わった。今起こりつつある金融不安で、再び大恐慌が来たら、ハンク・ジョーンズのようなピアニストは、’90歳の高齢で再び同じ苦労を強いられることになる。そんなことにならないように祈るばかりだ。”
 
 今でも私たちがトリビュート・コンサートを続けられるのは、OverSeasを応援してくださる皆さんが、おられるからこそです。
 当日は、皆一緒にフラナガンの名演目を聴いて、元気一杯、幸せになろう!トミー・フラナガンを知ってる人も知らない人も、ひとりでも多く来てください!
一緒に聴きましょう!!
  おいしいお酒も料理も楽しんでくださいな!!
 それが、トミー・フラナガンへの何よりの供養になるはずです。
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 前売りチケットはOverSeasでのみ販売中。座席に限りがありますので、どうぞお早めに!!
 CU
 
 

発表会レポートできました!

寺井教室の発表会は、演る人だけでなく、聴く側も真剣そのもの!こういう発表会は珍しいらしいです。黄色いシャツが審査委員長:寺井尚之、ピアノの後ろで、壁にもたれて耳を澄ますのは、川端名調律師。
 寺井尚之は、トミー・フラナガンが心臓大動脈瘤で倒れてから、一念発起、フラナガンの音楽を守るために、後進の指導に当たる決意をしました。丁度今から10年前のことです。
   今では、学生から熟年まで、アマからプロまで、色んな環境の沢山の生徒さんが、フラナガンの演目を熱心に勉強する、ユニークなピアノ教室になりました。実年齢と音楽頭脳の年齢は、余り関係ないみたいです。熟年でも凄く柔軟に音楽に取り組めるものなんですね!
   今年8月末に開催した発表会も15回目!普通のピアノ発表会とは違い、事細かに、各演奏者に対する、寺井尚之の厳しくて優しい批評付き。だから発表会が終わると、頭の中が生徒達の音で一杯になってしまい、寺井は誰よりも疲労困憊してます。
 
   一方、寺井尚之の師匠、天才肌のフラナガンは、一般的な意味での「教える」ということが全く不得意な人だった。逆に、弟子に大変な努力と苦労をさせて、師匠のアイデアや技術を、真に受け継がせる目的でそうしたのなら、フラナガンは「教える天才」であったのか? だけど、それは寺井尚之にしか使えない方法だったかも…。
トミー・フラナガンのNYの自宅にて
   寺井尚之の教授方は、「教え魔」であったフラナガンの弟分、サー・ローランド・ハナの影響かもしれません。
Sir_roland_hanna.JPG クイーンズ・カレッジで教鞭をとるハナさん:サー・ローランド・ハナ公式サイトより。
   レッスンや発表会で、生徒達のプレイを聴かせてもらっていると、私も思いかけず、色んなことを学ばせてもらえます。
  第15回の発表会レポートは、修業するピアニスト達への感謝の気持ちで書きました。ピアニストたち、応援してくださる皆さん、どうもありがとう!
 寺井尚之がどんな風にフラナガンから教えられたかは、いずれ気合を入れて書きたいと思っています。
CU
 

中秋の名月に吠える Blues for Dracula

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 13日(土)のジャズ講座の冒頭、寺井尚之が、日本映画の巨匠、マキノ雅弘監督晩年の名言:
 「ご覧になった映画が、少しでも面白いと思って下さったら、一人でも二人でもええから、どうかそのことをお友達に話してください。そして、映画を見に行くように伝えてください。」
 マキノ監督が車椅子から皆に頭を下げ語ったこの言葉を引用しながら、ジャズを取り巻く危機的な状況について訴え、じーんとなりました。講座の帰り道に観たお月さんはとっても明るく輝いていた。
  満月には、犯罪や交通事故が増える…元警視庁の人が言っていました。ヴァンパイヤと同じで、潜在的な獣性が騒ぐのでしょうか?満月を観ると、私は“ブルース・フォー・ドラキュラ”に登場する狼の遠吠えを真似しながら、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)の絶妙の語りと、破天荒な人生、ジャズとお笑いの深い関係に思いを馳せる…
  寺井尚之も落語好き、昔の漫才好き、鷲見和広(b)さんは月亭可長のファンですね。
 Philly%20Joe%20Jones%20-%20reading%20music.jpg  “ブルース・フォー・ドラキュラ”は、「色物」と扱われることが多いらしい。あのジャケットや、冒頭の長い語りが冗長で「ストレイト・アヘッドな作品じゃない」という意見がある。それが、全くの誤解であることは、ジャズ講座の本 Vol.Ⅱを読んでいただければよく判ります。本には、トークの対訳もばっちり掲載してありますので、レコードを聴きながら、本を読むとめちゃ笑えます。笑えても「色物」じゃないよ、トークとプレイが一体化する名演です!
  何故、“ドラキュラ”がタイトル・チューンになったのかと言いますと、この録音の直前まで在籍していたマイルス・デイヴィス六重奏団のライブで、フィリーは盛んに、このベラ・ルゴシの物真似を演って人気を博していたからだったんです。
  あのトークのルーツを調べると、レニー・ブルース (1925-1966)という一人のお笑い芸人にたどり着きます。 ジョージ・ムラーツ(b)もコンサートのMCで言っていましたが、昔のジャズクラブは、ジャズ演奏とお笑い芸を抱き合わせにしていたんです。レニー・ブルースのスタンダップ・コメディと、ビル・エバンス(p)3(無論ドラムはフィリー・ジョー・ジョーンズ)の組み合わせでクラブ出演したこともありました。
lenny.gif  レニー・ブルースは、従来タブーだった人種ネタ、宗教ネタで、世の中を痛烈に風刺したスタンダップ・コメディアン、ビートニクやボヘミア志向の若者達にカルト的な人気を博した。
   四文字言葉、差別用語もおかまいなし!話の枕に「今夜は客席に何人“ニガー”がいるのかな?」と言ってのけた。
  私服刑事がレニーのステージを内偵している時は、わざと、警官に多いカトリック教徒ネタ、アイルランド系をコケにするネタを使って挑発した。店が摘発されたら、どないすんねん!?ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンが青くなると、「だってお客にウケるんだから」と平然としていたらしい。
 民族ネタがイジメにならず、イジられる側にもウケたのは、ユダヤ人である自分自身を笑い飛ばす自虐性が根底にあったからです。当然ながら当局に睨まれ(ビリー・ホリディやバド・パウエルたちと同じですね。)、猥褻語の使用や、麻薬所持で逮捕歴数度、徐々に活動の場を失い、40歳の若さで薬物中毒で(ということになっている)亡くなった人です。彼の信奉者は、ロビン・ウィリアムスやウッディ・アレン、リチャード・プライヤーなど後輩コメディアンから、フランク・ザッパ、ボブ。ディランに至るまで音楽界にも多く、フィリー・ジョー・ジョーンズもその一人だったんです。
 現在残されているレニー・ブルースのトークを聴くと、卑猥な言葉を絶叫し、お客をいじって笑いを取る「漫談」というよりはずっと「落語」に近い。ストーリーの完成度が高くて、細かく計算された印象を受ける。「過激」と言われているけど、近年のエディ・マーフィーやクリス・ロックより余程上品です。
 
 一方、ジャズのドラムの概念を変えたフィリー・ジョー・ジョーンズも、太く短く生きたハチャメチャ破滅型、仕事きっちりの天才同志、レニーとフィリーの絆は深かった。
  このアルバムのプロデューサー、オリン・キープニュースの著作集、『The View from Within』によれば、レニー・ブルースがクラブ出演すると、フィリー・ジョー・ジョーンズは、頻繁に団体を引き連れて応援に行ったそうです。
   “ブルース・フォー・ドラキュラ”のトーク部分も恐らくは、レニーが書いたものかも知れません。当初レニー自身が、トーキング・サイドマンとしてこの録音に参加したがっていたのですが、契約の問題で実現しなかった。
 “ブルース・フォー・ドラキュラ”の独特な話し方は、ドラキュラ役者ベラ・ルゴシの声帯模写、ルゴシはハンガリー出身の役者、Rを巻き舌に、VをWに、WをVにして話すのが、誰にでも出来る東欧弁です。
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「我輩はビバップ・ヴァンパイヤ。」と、まずは自己紹介。
  音楽に対する愛を仰々しい東欧弁で語ってから、自分の子供たちにネスカフェならぬインスタント血液を飲ませ、「お休みのキス」ならぬ、「お休みの噛み噛み」をママの頚動脈にさせて、就寝させる優しい吸血鬼のお父さん、しかし血液の禁断症状に襲われ、次第にヴァンパイヤの本性を表わしていきます。すると、子分の吸血コウモリが「だんな様、あの奇妙な鳴き声は?」とネタを振る。この辺の芸が細かいね。
 応えるドラキュラ伯爵は、「夜の子供たちが、麗しき調べを奏でておるのじゃ」と自分のお抱え楽団を紹介し、ドラムの強烈なビートから息もつかせぬソリッドなプレイが展開し、ラストで再びビバップ・ヴァンパイヤが登場します。
 「夜の子供たち」が、他の吸血鬼たちに襲われそうになっているの助けようと、親切に避難させる伯爵が、別れ際に言う、貴族らしくないクダケた台詞がオチ。
「ギャラは貸しといてくれや!」 …おやおや、伯爵はギャラを一文も払わず、にミュージシャンを追い払っちゃった!
 これをジャズ・クラブで演ったら、お客さんにどれほどウケたろうと容易に想像できます。日本のジャズ界ならEchoesしか太刀打ちできないかもしれない。
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 本家、レニー・ブルースのドラキュラ噺はベラ・ルゴシだけでなく、フランケンシュタイン映画でお馴染みの役者、ボリス・カーロフの声帯模写も出て来る。
 アメリカに移民したドラキュラが、芸人になりドサ回りしたり、奥さんに、「オールバックのコテコテ頭は、枕カバーが汚れるからやめなさいよ!」と文句を言われたり、NYの安酒場でトマトジュースを飲んでいると、酔っ払いに絡まれたり…とっても面白いんです。そういえばウディ・アレンも、ドラキュラネタの戯曲を書いてます。
   ヴァンパイヤは陽の当たる世界では生きていけない日陰者、芸人やジャズ・ミュージシャンと同じです。クラブ・オーナーやレコード会社は、そんな彼らの生き血を吸って搾取する。
 そして、血が吸いたくなると本性をさらけ出す姿は、麻薬中毒の禁断症状を思わせます。“ドラキュラのブルース”は強烈なブラック・ユーモアだったんですね!
  ヘロイン常習者として、神戸でも逮捕歴(’51)があるというフィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)は、横山やすしも真っ青の破滅型人生を送りました。
  マイルス・デイヴィスとのバンドも、ドラッグが災いし、一旦、ジョン・コルトレーンと一緒にクビを言い渡されるものの、他のドラマーではかっこが付かずに、呼び戻されている。マイルス六重奏団では思い切りハードなドラミングをしているけど、フィリー・ジョーが一番得意としたのはブラッシュワークだった。
 マイルスは音楽的意図から、フィリーにブラッシュ禁止令を言い渡した。フィリーはきっちり言いつけを守り、うるさく叩きまくるプロだった。
  ディック・カッツ(p)さんは、若い時に、「エラい目に会うでー」と周囲の止めるのを振り切って、フィリー・ジョー(ds)のバンドでツアーし、音楽的には最高の経験をした。でも皆が言ったとおり、ギャラはもらえなかった。フィリーはギャラを前金で受け取っていて、仕事がするときにはすでにオケラだったんです。
 それでも、フィリー・ジョー・ジョーンズを悪し様に言う人はいない。私はビル・エヴァンス(p)3で来日した時に見ましたが、他のバンドが出演している間、舞台の袖に腰掛けて、足をブラブラさせながら、缶ビールを飲んではった姿が印象的です。
philly-joe-jones.jpg Philly Joe Jones (1923 – 1985)
 片手には「正統派のテクニック」もう一方の手には「ストリートで培ったヤクザなセンス」を持つと言われた稀有なドラマー、フィリーの一生は、ザッツ・アナザー・ストーリー…後の機会に一杯書きたいと思います。
 OverSeasには、アーサー・テイラー(ds)によるフィリー・ジョー・ジョーンズのインタビューの邦訳を置いているので、ご希望の方はどうぞ!
 CU