コールマン・ホーキンスの肖像(4)

<親分子分>

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 左から: トミー・フラナガン、ホーキンス、メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)

 ’50年代から’60年代にかけて、ホーキンスはしばしば若手ミュージシャンと共演している。エディ・ロック(ds)、トミー・フラナガン(p)、メジャー・ホリー(b)といった面々である。最近、彼等はホーキンスについて次のように語った。

tommy_coleman.jpg トミー・フラナガン(p)「とてもユーモアがある面白い人だった。あの独特の低音で、物凄く長い物語をとうとうと話してくれた。その声はいつだって、他の誰よりも大きくて、彼のサックスと同じだった。あらゆるジャンルの音楽を網羅し精通していた。まさしく真の巨匠だ!」

 

eddie_terai.jpg エディ・ロック(ds)「私をクラシック音楽に開眼させてくれた人だ。自分の音楽にクラシックを取り入れたのだと確信している。それによって、彼のプレイは、他のサックス奏者と一線を画したものになった。もちろん、彼が演奏したのはジャズだが、むしろクラシカルなジャズと言うべきものだった。

 彼はまたピアノを非常に愛した。いつもピアノ弾きを家に出入りさせていた。例えばジョー・ザヴィヌル、それにモンク…モンクはね、コールマンが大好きだったんだ。彼はコールマンの前では別人だったよ!奇人でも変人でもない、きちんと普通に話をしていた。」(訳注:ロックは、ホーキンスと関わり深いサー・ローランド・ハナ(p)とトリオでOverSeasに来演し、そのときのCaravanでのドラムソロはOverSeas史に残る名演。)

 メジャー・ホリー(b): 「とても博学な人だった。音楽に関係のないことでも、驚くほどよく知っていたなあ。自coleman_hawkins-major_holley.jpg動車の構造にもすごく詳しかった。ほんとだよ、だって、私は自動車工場で働いた事があるので、よく判るのさ。(訳注:メジャー・ホリーもモーターシティ、デトロイトの出身で、フラナガン達の先輩。) 芸術一般に通じていたし、花のことまで良く知ってた。洋服のセンスは完璧、ワイン通でもあった。それに料理の名人だった!シチューを作らせたら、本格的なヨーロッパ料理みたいで、ジャガイモやニンジンが丸ごと入ってるんだ。それを食べに来いと招待されて、もしも行かないものなら、えらくご機嫌斜めになった。

 彼はピアノも弾けた。それもプロ顔負けの腕だった。サックスは、ロータリー呼吸法(鼻で呼吸しながら、口中に貯めた息で吹く呼吸法、これが出来ると息継ぎなして吹き続けることができる。)が出来たから、すごく長いラインを吹くことが出来た。チェロを手にとって、とてもうまく演奏したのも一度見たことがある。それが40年ぶりに弾いたというんだから驚いた。

 彼は人を笑わせる名人で、ジョークの天才でもあった。よくセントラル・パーク・ウエストの自宅に若手連中を呼んでくれた・・・トミー・フラナガンやローランド・ハナ(p)、ルー・タバキン(ts,fl)やズート・シムス(ts)といった面々だ。

 みんなが来ると、おもむろに、クラシックのレコードを一時間ほどかけるんだ。ショパンが多かった。レコード鑑賞の後、ローランド・ハナに向かって、今かけたショパンのエチュードを弾けと言う。その頃には、ローランドは当然のことながら、しこたまブランデーを飲んで出来上がっている・・・で、後は言わないでおこう。

 時々、ホーキンスはいたずら電話をかけてきた。電話のベルが鳴り受話器を取ると、グラスの氷のカチャカチャ言う音だけが聴こえていて、遠くで笑い声がする。そしてすぐ切っちまうんだ。とても人見知りでシャイな人だったが、すごく思いやりがあった。ツアーに出ると、刑務所で服役している知り合いのミュージシャンを面会に行ったりしていた、親友かどうかは知らないけどね。そうそう、セント・ジョセフに行くと必ずお母さんを訪ねていたな。規律や道徳というものをきちんと持っている人だった。子供時代に教わった礼節を大人になってもそのまま持ち続けた人だ。若者に興味を持っていて、自分のアイデアも伝えてくれた。若い人の為に演奏したいという大いなる野望があった。私達が一緒に仕事をしたのは、2-3年の間だ。私の大切な友人でもあった。だが、もっと彼をことを良く知りたかったよ。まだまだ自分は、彼のことを本当に理解していたわけじゃない。あれほどの人を完璧に理解するためには、余りにも時間が足りなかった。」 

〈この章了〉

コールマン・ホーキンスの肖像(3)

<コールマン・ホーキンス芸術の変遷>

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 1939年7月、ホーキンスはヨーロッパから帰国、10月に、かの有名な”ボディ&ソウル”をVictorに録音した。翌1940年初め、自己のビッグ・バンドを結成。ホーキンスの演奏は、その生涯で4段階に大別されるが、まさに第三段階の最良の時期に到達しようとしていたところであった。ホーキンスの第一段階は’20年代後半まで、サウンドは硬質で、リズムはスタッカートを多用するアグレッシブなアタックで、音の密度の濃いものだった。その時期は、ニュー・オリンズ由来で、歯車のような音を出すスラップ・タンギング 奏法さえ使用している。彼の演奏は、1930年代初頭、第二段階に移行し、彼のトーンは豊満さを極めた。スタッカートのアタックは影を潜め、代わりに豊かなビブラートを特質とするようになり、”トーク・オブ・ザ・タウン”、”アウト・オブ・ノーホエア”、”スターダスト”と言ったスロー・バラードを好んで演奏するようになる。出たとこ勝負、絶叫するような大音量、それまで現世の音楽だと思われていたジャズが、実は、この上なくロマンティックに成れる事を、ホーキンスが証明し、従来の「ジャズ」という概念を根底から覆したのである。

 103324636.jpgヨーロッパから帰国してからも、不遜とも言えるほどの自信は揺らぐことなく、出かける先々で、うやうやしくもてなされた。しかし、きっとなにか苛立ちを感じていたに違いない。
 Victorから発売された”ボディ&ソウル”、それは、飾り気なく、切れ目のない2コーラスの即興演奏で成り立っている。このレコードの大ヒットは、明らかに彼に活力を与えた。その後1940年から43年までの間のレコーディングはない。(ミュージシャン組合のレコーディング禁止令が理由の一つである。)’43年から’47年にかけては100曲以上の録音があるが、いくつかは凡作である。

ホーキンスを尊敬したマルチリード奏者、ボブ・ウィルバー は40年代初め、有名ジャズクラブ”ケリーズ・ステイブル”に出演したホーキンスを回想する。
bobwilbur.jpg 「コールマン・ホーキンスが出るから聴きに行こう!と、私たちは”ケリーズ・ステイブル”に繰り出した。彼はグレイのピンストライプのスーツを着て登場した。我々は何か特別な、ものすごい演奏を期待したんだが、ピアノ弾きが「ホーク、何を演るんだい?」と聞くと、ホーキンスは、ただ「ボディ」と言った。つまり、”ボディ&ソウル”のことで、当時の大ヒットしていた。後は、”アイ・ガット・リズム”のコード・チェンジを基にしたオリジナルの中から1曲、似たような曲をまた1曲演奏した。それでセットは終り、2時間たたないと次のセットはなかった。」

 彼のプレイは絶頂期を過ぎていた。(*訳注:トミー・フラナガンと寺井尚之はこの文言には絶対反対している。

 彼のスロー・ナンバーは、包容力のある音色、散漫とさえいえるヴィブラート、そしてどの曲のアドリブにも挿入される男性的な斬新なメロディで、他者と一線を画していた。一変してアップテンポのナンバーになると、大胆で向こう見ずになった。コーラスを重ねる毎に、曲を再構成しながら吹きまくった。息継ぎのために、一旦停止することは決してなかった。弾みをつけてたたみかけるように吹き、頭の中に聴こえるサウンドを、物凄い速さでサックスの音に置き換えた。例え、ごく稀にミスノートを吹いたとしても、そんなものは完璧な音の中で雲霧消散してしまった。彼の絶頂期の即興演奏に見られる濃密さと大胆さ、そして強靭さに、彼と肩を並べるのはアート・テイタム(p)だけである。(ホーキンスは1930年代初頭にアート・テイタムの演奏を初めて聴き、強い印象を受けた。)

 ’40年代の終り、ホーキンスはノーマン・グランツのJATP に参加してツアーを始めた。’50年代にツアーを辞めて落ち着いてから、彼のスタイルに再び変化が起きた。彼の芸術的変遷は最終段階に入ったのである。時として、絶好調の状態もあったが、不安定な兆候が増え始めた。彼のヴィブラートは、消えたり、震えたりすることがあった。トーンは硬めになり、20年代終りの初期のサウンドを思わせるようになった。また驚くような甲高く、叫ぶ様なトーンのリアー・サウンドを使い始めた。創造的なメロディの迸りは減り、素晴らしいリズム感も衰えを見せ始めた。(*訳注:トミー・フラナガンと寺井尚之はこの文言にも異を唱えています。

<盟友ロイ・エルドリッジの証言>

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  ホーキンスのビッグ・バンドは失敗で、1年足らずしか存続しなかった。一時期、シカゴで活動、そこで彼はデロレス・シェリダンという女性とめぐり合う。二人は1943年にNYで結婚し3児をもうけた。コレット、ルネ、ミミである。ビッグ・バンド以降はJATPか、リズムセクションだけのワンホーン・カルテットを率いて活動を続けた。’50年代初めには、仕事をホサれる憂き目に会い、第一線に返り咲いたのは’50年代中盤で、亡くなる1-2年前まで、活躍した。

 彼は健啖家として有名であったが、徐々に酒が食べ物に取って代わっていった。晩年には殆ど何も食べずに、飲み続けるようになった。痩せ衰えて、長老の様なあごひげを蓄えていたが、それは多分やつれを隠す為だったのだ。椅子に腰掛けて演奏する時もあった。

 彼の死後間もなく、旧友ロイ・エルドリッジ(tp)が彼について語っている。

「コールマンは、何につけても最高級の奴だった。

 昔気質で、絶対にエコノミー・クラスでは旅行しなかった。

 そして、勿論、いかにも天才ホーン奏者だった!多分誰よりも私が彼をよく知っているかも知れないな・・私が初めて仕事をもらったのは1927年で、週給12$だったんだが、それも彼のおかげだよ。私は、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の”スタンピード”のレコードの彼のソロを一音漏らさずコピーしていたので、仕事にありついたんだ。

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 1939年に彼が5年ぶりでヨーロッパから帰ってきた時も、一番最初に一緒に居たのが私さ。私の愛車はリンカーンで彼はキャデラックだった。我々は旅でもいつも同じルートを追いかけ合っていた。同じ場所にダブル・ビルで出演したりしてね。 

 彼には近寄りがたい雰囲気があった。仕事で何かうまく行かない事があったら、皆彼に近寄らないようにして、僕の方に寄って来た。プライドは高いが、冷たい人間じゃなかった。それに、ユーモアのセンスもあった。好きじゃない人間とは距離を置いていただけさ。世間は、彼がレスター・ヤングを、最大のライバルとして嫌っていたと、言っとるようだ。しかし、私とコールマンは’50年代に朝までレスターと一緒に飲み明かしたこともあるんだぞ!それはJATPに出演していた時だった。一体なんでレスターはあんなにきちっとしてるのか調べようってことになってね。まあ、それは全く判らんかったんだが。

  亡くなるまでの5年間、コールマンは病気だった。殆ど食べる事を止めてしまった。随一の例外が中華料理だ。これもレスターとおんなじだ。私は夕方になると彼に電話をして、私が何を夕食に作っているのか教えてやったもんだ。すると彼は『へえ、そりゃうまそうだな。そっちへ食わせてもらいに行くよ。』と言う。来ないので、翌日また電話をすると、昨日の電話のことは全部忘れていた。 

chrysler-imperial-1940-1.jpg コールマンはいつでも金を持っていたが、無駄遣いはしなかった。彼はライカやスタインウエイ、300$の高級スーツを持っていたが、何を置いても、まずは妻子の生活費と家賃の$600を確保した。自分自身の小遣いなんてあるのかと思ったこともあったが、金の話はしない決まりだったんでね。

 昔、コールマンがロールス・ロイスを買いたいと言うので一緒に見に行った事がある。私は彼に言ったんだ。

 「おい、こんなもん乗り回してたら、バカだと思われるぞ。」ってね。そうしたら、奴はクライスラー・インペリアルを買ったよ。$8,000ポンと現金払いだった。だが、結局1000マイルも走っていないんじゃないかな。」

(続く)

コールマン・ホーキンスの肖像(2)

977.jpg  <生い立ち>

 

  ホーキンスは1904年、あるいはそれより数年前、ミズーリ州セント・ジョセフに、コーデリア・コールマンとウィル・ホーキンスの第二子として生れた。(第一子は女児で生後まもなく死亡。)「両親がヨーロッパでヴァカンスを過ごし、帰りの船の中で自分が生れた。」という話を、数々のインタビューで喜々として語っている。彼は人をかつぐ名人であり、伝説を作る名人でもあった。

 実のところ、彼の父親は電気工事の作業員であった。父は1920年代に事故死しているが、母親は学校教師で95歳まで長生きした。(祖母も104歳の長寿であった。) ホーキンスは5歳でピアノを始め、その後チェロを数年間学ぶ。テナー・サックスを与えられたのは9歳、13歳になると、もう心身ともに十分成長したことを確信した両親は、息子をシカゴへと送りだした。彼はこの大都会で、友人と同居し、高校に通った。

lg-louis-armstrong-and-king-oliver.jpg左:ルイ・アームストロング、右:キング・オリヴァー

 シカゴでは、キング・オリヴァー(tp)やルイ・アームストロング(tp)、ジミー・ヌーン(cl)を聴くことになる。高校卒業後、トペカ(カンザス州)のウォッシュバーン・カレッジに入学したと言うが、証拠はない。ホーキンスは、1921年にカンザス・シティの《12丁目劇場》に出演、そこでブルース歌手、マミー・スミスに見出される。彼女の伴奏者は、エリントン楽団のトランペット奏者、ババ・マイリーや、名マルチリード奏者、ガーヴィン・ブシェルなど、錚々たる顔ぶれであった。

 ブシェルはジャズ・ジャーナリスト、ナット・ヘントフのインタビューで、「12丁目劇場》に出演していた時にコールマン・ホーキンスと初めて出会った。」と証言している。

 ガーヴィン・ブシェル:オーケストラボックスにサックスを加えようってことになってね。だが、ホーキンスは、加入したサックスプレイヤーより、ずっと上だった。確かCメロディのサックスを吹いていたと思う。いずれにせよ、彼はまだほんの15歳くらいだった。我々が彼を巡業に連れて行く許可をもらおうと、セント・ジョセフのお袋さんの家を訪ねたら、こう言われたよ。

 『だめだめ!あの子はまだ、ほんの赤ん坊です。まだ15歳なんですからね!』

 若い頃から、途方も無い実力があった。ミス・ノートは全くなく、完璧な読譜力があった。あれから37年、。私しゃ彼が一音でもミスするのを、いまだかつて聞いた事がないよ。昔、サックスという楽器は、トランペットやクラリネットと同じような感覚で吹いていたもんだが、彼はそうじゃなかった。すでに、コード進行に添って吹くことも出来た。きっと、子供の時にピアノを習得していたからだ。」

fletcher_henderson_hawk.jpg 1922年、ホーキンスは、”メイミー・スミスのジャズ・ハウンズ”に入団、翌1923年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団(左写真)に移籍、以後11年間在籍した。フレッチャー・ヘンダーソン楽団(パワフルでありながら、好不調の波があり、楽団としての鍛錬は欠けていた。)は、1930年代の殆ど全てのスイングバンドの手本であった。そして、この楽団は、当代一流のジャズ・ミュージシャン、ルイ・アームストロング(tp)、レックス・スチュワート(tp)、ロイ・エルドリッジ(tp)、ジョー・トーマス(tp)、ジミー・ハリソン(tb)、ベニー・モートン(tb)、J.C.ヒギンボサム(tb)ディッキー・ウエルズ(tb)、ケグ・ジョンソン(tb)、ベニー・カーター(as.tp)、ベン・ウェブスター(ts)、チュー・ベリー(ts)、ジョン・カービー(bs,tuba)、ウォルター・ジョンソン(ds)、シドニー・カットレット(ds)達を輩出した最高の学校でもあった。

<合理主義>

rex_stewart1.jpg 楽団の盟友、名トランペッター、レックス・スチュワートは著書『30年代のジャズの巨匠達』で、ホーキンスのことを回想している。

 「公演地に着くと、楽団のお決まりのメンバーで、こぞって街を見物することになっていた。とある町で、たまたまコールマンとデパートを見物に行ったことがある。すると彼は化粧品売り場で、大変高価な石鹸を半ダースも買った。ホークは『バーゲンで得だから、1年分の石鹸を買いだめした。』とのたまった。たった6個の石鹸だけで、どうやって1年持たせるのか?私はあきれ返った。ところが翌朝、ホテルの部屋でわけが判った。まず2枚の飾りの付いたきれいなタオルが出てくる。一枚は高級石鹸用、もう一枚は普通の石鹸用だった。この2枚はきっちりと区別してある。化粧用石鹸は1番タオルの隅に上品にこすりすけて、彼の顔や目の周りだけを洗うことになっていた。もう一方のタオルは、普通の石鹸を泡立てて、体を洗うことになっていた。」

 スチュワートは更に続ける。

 「Mr.サクソフォンのもう一つの顔は、倹約家の顔だ。だからと言って、ホークは決してしみったれた男ではない。用心深い人間だったのだ。彼が銀行預金への不信感を克服するまでは、常時$2,000、$3,000の現金をポケットに入れて歩きまわっていた!ある時は、夏のツアーの間に稼いだギャラを全部持ち歩いた。およそ$9000の大金だ。ある時、何かの事情で、ツアーの途中でギャラをもらえず立ち往生したたことがあったが、彼はポケットの中に蓄えた札束を見せて笑っていた。だが、例え自由の女神が、真昼のブルックリン・ブリッジで、ツイストを見せてあげると言ったとしても、彼は、25セント玉一枚すら浪費したことはなかった。」

 <花のヨーロッパ>

hawk_in_ch.jpg1937、於スイス、 Photograph by André Berner

 1934年、バンドリーダー、経営者であるフレッチャー・ヘンダーソンの無気力ぶりに辟易したホーキンスは、ヨーロッパの上流生活の噂に魅力を覚え、英国のバンドリーダー、ジャック・ヒルトンに電報を打った、すると、早速仕事のオファーが来た。楽団から6ヶ月の休暇をもらい渡欧したホーキンスは、結局5年間ヨーロッパに滞在する。恐らく、この時期がホーキンスの人生で最高の時期であった。

 彼は、ヨーロッパに初めて上陸した名ソロイストの一人として、行く先々で貴族の様に厚遇された。イングランド、ウエールズを旅した後、ヨーロッパ本土に腰を落ち着け、ベルギー、オランダ、スイス、デンマーク、フランスと各国で演奏活動を行った。同時に、英国、オランダ、フランス、ベルギーのミュージシャンと録音を行った。現地の共演者の中にはジャンゴ・ラインハルトやステファン・グラッペリが、アメリカ人には、ベニー・カーター(as, tp その他編何でも)、トミー・ベンフォード(ds)、アーサー・ブリッグス(tp)がいた。

11576.jpg クリス・ゴダード著『ジャズ・アウェイ・ホーム』で、ブリッグスが見たホーキンスのパリ生活が紹介されている。

 「彼は本当に素晴らしい人だった。あれほどアルコールを大量に飲める人間がいる事も信じ難いが、あれほど飲んでもほとんど酔わないというのも、同じほど信じ難いことだった。・・・彼は毎日ブランデーを一瓶空にしていた。・・・よく昼下がりのダンスパーティにゲストとしてフィーチャーされたが、3曲ほど演って、あとはバカラ部屋でくつろぐのが彼の常だった。といっても賭け事はしない。バーでひたすら飲んでいた。私が演奏してくれるよう使いを遣ると、彼はすぐに帰ってきた。練習をしているのは見た事がない。・・・とにかく無口で、抜群に趣味が良かった。一足のソックスに大枚$20使っていたのを見たこともある。美しいシャツやシルクの小物に目がなく、王子のようにお洒落な格好をしていた。彼にとってヨーロッパは安息の土地だったのではなかろうか。」(つづく)0cce7dc63531437cbe816d5dc8e934f5.jpg

 

コールマン・ホーキンスの肖像(1)

tommy_flanagan-coleman_hawkins-major_holley-eddie_locke.jpg  今季の 冬休み(あんまりないけど・・・)の勝手な課題は、月例講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で辿り着いた、トミー・フラナガン至福のコールマン・ホーキンス共演時代に因んで、フラナガンと親しかったNewYorker誌のコラムニスト、ホイットニー・バリエットが書いたコールマン・ホーキンス論にしました。ロリンズもトレーンも、この巨人が敷いたレールの上を突っ走った。「テナーサックスの父」の肖像を読み解くことにします。

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 =Coleman Hawkins=
American MusiciansⅡ(1996)より
ホイットニー・バリエット著

 <二人の帝王> 

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 テナー・サックスの世界には二人の皇帝がいる。それは、コールマン・ホーキンスとレスター・ヤングだ。彼らはそれぞれ、「帝王」の名に相応しく、独自の音楽を発明した

 二人の個性は全く対照的である。ホーキンスの即興演奏は垂直的だ。彼は、バックミラーでメロディを確かめながら、”コード・チェンジというハイウエイをひた走った。一方、レスター・ヤングは水平的だ。彼はメロディを小脇にかかえ、燃えたぎるコード・チェンジの熱を鎮めるような演奏をした。ホーキンスは、豊満にして包み込まれるような音色トーン、ヤングは、遠くから聴こえる浮揚感のあるサウンドが身上。ホーキンスがコーラス毎に繰りだす音の量は、太陽も覆い隠すほどだが、ヤングは注意深く選りすぐった音を、光や空気にかざしては、きらめかせて見せた。ホーキンスは猛獣のごとく、激しくビートに挑みかかった、ヤングは、ビートに牽引されているようであった。ホーキンスはハンサムで逞しく颯爽とし、ヤングは細身で一風変わった神秘的な風貌だ。ホーキンスの声は良く響き、話し方は早口だがはっきりとしていた。ヤングの方は静かな声で、独特のおもしろい詩的な言葉を使い、略語だらけの判りにくい話し方だった。眺めていると、ホーキンスの方は、だんだんと逞しく大きくなるように見え、ヤングは今にも透明になって消えてしまうようだった。

 ホーキンスは結果的に酒で身を滅ぼした。ヤングも、その点では同じで、一足早く他界している。(ホーキンスは1969年没、享年64歳、ヤングは1959年没、享年49歳)そして、どちらもベスト・ドレッサーであった。ホーキンスはファッション雑誌から抜け出たかのようにダンディであった。両者とも音楽に人生を捧げ燃え尽き、音楽的に多くの子孫を遺した。

<テナー・サックスの父>

ColemanHawkins2.jpg(Coleman Hawkins 1904-69) 

 17世紀、近代小説を発明した英国の文学者、サミュエル・リチャードソンと同じ意味に於いて、ホーキンスはテナー・サックスを発明した。それまで誤用され続けた「テナー・サックス」という楽器を、初めて正しく演奏したのである。テナー・サックスは、クラシックやマーチング・バンドの世界に於いて、チューバ同様、コミカルな役割を受持ち、金管楽器と木管楽器の混合種の様に見做されていた。ホーキンスといえども、この楽器の可能性を完璧に理解し開花させるのに、十年の歳月を要した。彼はこの楽器に、従来では考えられない程幅広のマウスピースと、硬いリードを使う事を思いつき、1933年には、過去に誰も聴いた事のないようなサックスの音色を創造していたのである。(無論、彼以前にもサックスの名手は存在したが、先人達の音色は軽く、終始流麗なグリッサンドとアルペッジオの華麗な表現に留まっていた。) 彼の音色には、チェロやコントラ・アルトの歌手のように、とげのない丸みがある。その音色を聴くと、暖炉の灯に照らしだされた赤褐色の情景、雄大な土地、にれの大樹といったイメージが浮かぶ。非常に無口な人ではあったが、一旦、口を開くと、その話しぶりは、演奏と同じく、沢山の言葉を繰り出して弾みがつく。’50年代にリヴァーサイド・レコード“で、彼の自伝的レコーディングが制作されており、その中で彼自身は自分のスタイルについて論じている。 

 ホーキンス: 「色々な音楽との出会いによって私のスタイルは自然と変化した。音楽家は誰でも、自分の聴いたものが演奏に現れる。わざとではなく、自然にそうなっただけだ。そうするために練習する必要はないし、そんな練習をしたこともない。いまだかつて、ある特定のスタイルを習得するための練習は、生まれてこのかたやったことはない。演奏を続けているうちに、音楽的方向が一変したり、同じ曲でも、1年前とは全く違った演り方をしているのに気が付く。それは、私が色々な音楽を聴く事によって生れた自然の結果なのだ。つまりね、私は何かを聴くと、それを覚えてしまうんだよ。次の夜になると、もう忘れてしまっているんだが、6ヵ月後、ふいにそれが自分のプレイに顔を出す。そういうことが良く起こる。それで、常にスタイルが変わっていく。

 もうひとつ私のよくする事を話そうか。これは私だけのやり方で、他の誰もやっていない事だ。

 フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代には、しょっちゅうツアーをした。私は、行く先々で、必ず自分の耳に、なにか新しいものを聴かせてやる事にしていた。その土地の小さなクラブや、生演奏のある店に行くんだ。小さな街に公演に行くと、私はよく、そんな場所に出かけてプレイした。この習慣は絶対止めない。今も同じ事をやっている。何処に行っても、その土地の音楽は、どんなものであろうと聴いてみることにしている。」

 そして、同じリヴァーサイドの録音で、彼は、NYという土地が、地方から出てきたばかりのミュージシャンに与える影響について語っている。

 「NYという所は、よその土地からぽっと出てきたばかりの者なら、誰であろうと、最初は、おかしな演奏に聴こえてしまう土地だ。、出身はどこであれ、初めてNYに来ると、こてんぱんにされる事を覚悟しなくてはいけない。毎回さんざんな目に合わされる。だから、実際にこっちに来ると、一から勉強だ。失敗して一旦故郷に帰るもよし、腕を磨き直し、もう一度NYに来て勝負すれば、今度は大丈夫だ。あるいはこっちに居残り、頑張って勉強して、うまくなればいい。」

  ホーキンスは早足でさっさと歩いた。背筋をピンと伸ばし、「会議がもう始まる!」という雰囲気であった。余り笑わないし、決して愛想は良くない。寡黙な雰囲気に包まれている。だが、寡黙な人は、往々にして腕白小僧のような素顔を隠していたりする。ホーキンスも、親しい友人には、ジョークを飛ばすのが大好きだったし、スピード運転を好んだ。友人であったトロンボーン奏者、サンディ・ウィリアムズはスタンリー・ダンスの著書”The World of Swing”でダンスにこう語っている。

chrysler-imperial-1948-9.jpg 「彼とウォルター・ジョンソン(ds)と私の三人でフィラデルフィアからNYまでドライブした事を思い出すなあ。彼はインペリアルの新車を手に入れたばかりだった。全速で長距離つっぱしろうという事になり、彼は時速103マイル(165km/h)でぶっ飛ばした。私は時速100マイル以上を体験したのは生れて初めてだった。だが、ホークの運転はうまかったよ。

『俺はまだ死にたくないっ!』と言ったら、すぐ言い返してきたもんだ。

『一体何言ってんだよ?心配するなよ。』ってね。」 

 (つづく)

トリビュート・コンサートの模様がCDになりました。

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 先日の第27回トリビュート・コンサートに沢山の応援、誠にありがとうございました。

コンサートの模様がCDになりました。

ご希望の方は当店まで。

 プログラムはこちら。

http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2015/12/27tommy-flanagan-tribute.html

第27回Tommy Flanagan Tribute

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 第27回トミー・フラナガン追悼、トリビュート・コンサート、色んな土地からFlanagania同志大集合!ここ数年で一番の盛況になりました。80代から中学生までの皆さんが、フラナガンの往年の名演目を全力で演奏する寺井尚之、宮本在浩、菅一平のThe MainstemTrioを強力バックアップして下さいました。

 終演後は「トリオのバランスが良かった!」「楽しかった!気分がすっきりした!」「きれいだ~」「神業!」って嬉しいお言葉を!また、お供えや差し入れもありがとうございました。

 一方、私は、新しいエプロン持ってくるのも忘れ、ずるずるのエプロンで必死のパッチ、写真一枚撮る余裕もなく、キッチンであたふた、じっくり演奏を聴く余裕が全くなくて、The Mainstemの3人のバランスが完璧に、ふくよかに響いていることだけしかわかりませんでした。CDができたらゆっくり聴こうと思っています。

 この日は、沢山の方々のおかげで、自分たちが今ここに存在しているということを、このコンサートが一層深く実感させてくれました。

 応援してくださった皆様に感謝あるのみです。

 演目の曲説は後日HPにUPしますので、またご一読いただければと思います。

 ほんとうにありがとうございました。

=演奏曲目=

<1st Set>

1. Beats Up (Tommy Flanagan)

2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)

3. Epistrophy (Thelonious Monk)

4. Embraceable You (George Gershwin)- Quasimodo (Charlie Parker)

5. If You Could See Me Now (Tadd Dameron)

6. Rachel’s Rondo (Tommy Flanagan)

7. Dalarna (Tommy Flanagan)

8. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespie)

<2nd Set>

1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)

2. Smooth As the Wind (Tadd Dameron)

3. Thelonica- Minor Mishap (Tommy Flanagan)

4. Mean Streets (Tommy Flanagan)

5. I Cover the Waterfront (Johnny Green)

6. Eclypso (Tommy Flanagan)

7. Easy Living (Ralph Ranger)

8. Our Delight (Tadd Dameron)

 

<Encore>

1. With Malice Towards None (Tom McIntosh)

2. Ellingtonia
  Chelsea Bridge (Billy Strayhorn)
  Passion Flower (Billy Strayhorn)
  Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)

トリビュートで聴いて欲しいこのメドレー:エンブレイサブル・ユー~カジモド

tommy_red4.jpg  トミー・フラナガンの生演奏をお聴きになった事がある方なら、忘れられないのがメドレー!

 フラナガンが織りなすメドレーは、深い意味が紡ぎこまれていて、何年も経ってから「あっ、そうだったのか!」と判るようなものが多い。<エンブレイサブル・ユー~カジモド>も、フラナガン・ミュージックの醍醐味を味わわせてくれる名演目でしたが、残念なことにレコーディングは残っていません。

 今週のトリビュート・コンサートで演奏予定、フラナガン・ミュージックの醍醐味と、幻のメドレーについて、ぜひ!

<歌のお里>

  “Embraceable You”とても有名なガーシュイン作のバラードで、お里はブロードウェイの『ガール・クレイジー』(’30)というミュージカルでした。後にジュディ・ガーランド主演で映画化され、愛らしくて華麗なパフォーマンスはYoutubeで観ることが出来ます。一方、フラナガンや寺井尚之が奏でると、しっとり耳元で甘く囁きかける大人のバラードの趣に変化します。

 
私を抱いて、抱き締めたいあなた、
愛しいひと、

あなたも私を抱き締めて、かけがえのない恋人よ、
一目見るだけで、酔い痴れる。
私に潜むジプシー女の情熱を
呼び覚ますのはあなただけ・・・

  そして”Quasimodo”は、チャーリー・パーカーがこ作品の枠組みを使って作ったいわゆるバップ・チューンです。先鋭的なメロディとアクセントは永遠のモダン・ミュージック!
 ジャズ評論家のジム・メロードも、このメドレーに感動した一人、フラナガンへの追悼文では、ガーシュインとパーカーによる二つの作品を、17世紀スペイン・バロックの巨匠ベラスケスの作品「ラス・メニーナス(女官達)」と、その構図をそっくりモダンアートに置き換えたピカソの同名作品に例えて説明しています。(下写真「ラス・メニーナス」 左がベラスケス、右がピカソ)

 (抄訳)Tommy Flanagan, a reminiscence by Jim Merod,. April  2002 より

…トミーは彼のヒーローの一人、チャーリー・パーカー作品をくまなく取り上げた。トミーが展開する即興演奏のアートそのものが、普段は寡黙なトミーの饒舌なパーカー論であった。中でも彼が愛奏したのがガーシュインの”Embraceable You”と、パーカーによる改訂版”Quasimodo”を組み合わせたメドレーだ。トミーは、一方の曲の視点から、もう一方の曲に光を当てて、メドレーの形で二つの作品を掘り下げていく。このメドレーを聴く者は、あたかもヴェラスケスの古典的名画『ラス・メニーナス』と、ピカソがそれをキュビズムによって再構築した同名のモダンアートを並べて鑑賞しているような感動を覚えた。…

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   チャーリー・パーカーが、いつ”Quasimodo”を作曲したのかは判りませんが、絵画では3世紀かかったアート革命を、バードはたった20年足らずでやってのけたことになります。この映画から数年後、’47年11月に、ダイアル・セッションと呼ばれるレコーディング群に録音されており、前の月に同レーベルに、テーマ抜きのEmbraceable You を録音している記録を見ると、その時期の作品なのかも知れません。”Quasimodo”って何なのでしょう?

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<カジモドって何?>

  ’89年にヴィレッジ・ヴァンガードでフラナガンが口にしたチンプンカンプンな言葉の意味を教えてくれたのはダイアナ・フラナガンでした。  「ヴィクトル・ユーゴーの小説に出てくる、ノートルダムのせむし男(Hunchback)の名前よ。」  

 カジモドはハリウッド映画では、キングコング以前のホラー映画に再三登場しています。ですから”抱きしめたくなるあなた”を元にチャーリー・パーカーが作った”せむし男”の曲について、上のジム・メロードを含め、洞察力があるはずの多くの評論家が、バードの”ブラック・ユーモア(Sly Joke)”であると、異口同音に解説していますが、ほんとうに単なるシャレなのだろうか?トミー・フラナガンの演奏を聴くとどうしてもそんな風には聴こえない…pepper_adams.gif   トミー・フラナガンの親友、ペッパー・アダムスの証言
 (ジャズ月刊誌Cadence’86 11月号より) チャーリー・パーカーはとにかくものすごい読書家だった。ボキャブラリーが豊富で、深みのあるいい声で整然と話す人だった。物事に精通しており、洞察力があり、いとも簡単に物事の本質を捉えることができた。

 パーカーのバップ魂を受け継ぐバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスはチャーリー・パーカーが、並外れた読書家であったことを証言しています。文芸全般に精通していたチャーリー・パーカーはホラー映画だけじゃなく、ユーゴーの原作「ノートルダム・ド・パリ」をきっと読んでいたはずです。

 だから、19世紀に書かれたヴィクトル・ユーゴーのロマン派小説、「Notre Dame de Paris」のストーリーを駆け足で見てみよう。

<本当のカジモドの物語>

tear4water.jpg     昔々、フランス郊外のノートルダム寺院の前に赤ん坊が捨てられていた。その子供は、寺院の司祭に拾われて、カジモドと名付けられ、寺の鐘つき男として働いている。背中は曲がり顔は片目がつぶれた醜い姿、毎日、鐘楼で大きな鐘を撞くため鼓膜は破れ、耳も聞こえず、言葉もまともに話せない。街の人々は、カジモドを「せむし男」と呼び嘲った。

  ある日、街でリンチされ、さらし者にされたカジモドに同情し、水を飲ませてくれた美しい娘が居た。異教徒として差別されるジプシーの踊り子、エスメラルダだった。カジモドはたちまち彼女に叶わぬ恋をしてしまう。類まれな美貌のエスメラルダは、家柄の良いエリート騎兵隊長に恋をして逢瀬を重ねている。だが、その男にとって、エスメラルダは所詮遊び相手に過ぎない。男は、出世に役立つ良家の娘と婚約してしまうのに、エスメラルダは、その男の不誠実に気づかない。もちろん、どれほどカジモドがエスメラルダに純粋な愛情を捧げても、憐れに思いこそすれ、余りにも醜いカジモドの愛を受け容れるはずもなかった。やがて、カジモドの恩人である司祭までもがエスメラルダの美しさの虜となる。聖職者でありながら、淫らな欲望を遂げようとして、エスメラルダに固く拒まれる。逆恨みした司祭は、エスメラルダに殺人の罪をきせ、彼女を死刑に追いやってしまう。怒り狂ったカジモドは鬼となり、親と慕った司祭を、ノートルダム寺院にそびえ立つ鐘楼の上から突き落として復讐するのです。

esmeralda.jpg  うわべだけの魅力に屈し、愛のない男に弄ばれるエスメラルダ、怪物であるためにいくら真の愛を捧げても成就しないカジモド、聖職者でありながら欲望に溺れる司祭、現世の欲望や社会の偏見によって3つの恋が絡み合った悲劇のお話です。

marriage.jpg  でも、物語はこれで終わりではありません。罪人の死体置き場に眠るエスメラルダの亡骸に寄り添いながら、カジモドは死んでしまいます。 死体置き場に捨てられた二人の肉体が、野ざらしにされ朽ち果てるにつれ、エスメラルダとカジモドの遺骨は固く絡み合い一つになり、分かつことができなくなっていた、というところで、物語は結ばれているのです。

 この物語は、単なるホラーではなく、精神の美しさと、人はみな神の前で平等であることを教える物語だったんですね!

<パーカーとフラナガンの真意は?>

  “Quasimodo”はラテン語で、”単に・・・のような・・・”という意味であるそうです。ヴィクトル・ユーゴーは、物語の中で一番美しい心を持つ「怪物」が、この社会では「人間」ではなく、”人間のようなもの“でしかなかったことを暗示していたのだと文学解説には書いてありました。

  アーサー・テイラー(ds)は、パーカーがラテン語に精通していたと話してくれたことがあります。人間扱いされない“人間のようなもの”とは、チャーリー・パーカーの生きた時代のアメリカ社会では何だったでしょう?
  そうなんです!カジモドとは黒人のメタファーであり、パーカーは自分自身をカジモドになぞらえたの違いありません。ダイアル・セッション時代は、チャーリー・パーカーが麻薬で身も心も滅ぼす寸前であったことを思うと、禁断症状に苦しむ自画像であったとも思えてなりません。

 物語を読んで、もう一度、上の<Embraceable You>の歌詞を見てみましょうか。

・・ジプシー女の情熱を
呼び覚ますのはあなただけ・・・

 ほらね!

 トミー・フラナガンのメドレーでは、<Embraceable You>はエスメラルダで、パーカーの創った<カジモド>は、エスメラルダと

魂で結ばれた片割れなんだ!

 音楽的真意をしっかり掴みとったトミー・フラナガンは、元曲と対にしたメドレー形式という、通常ではあり得ない構成によって、皆にこのことを伝えてくれていたんですね!

  フラナガンのこのメドレーは残念ながら、ヤマハの自動ピアノの音源としてソロでしか残っておらず、あれほど素晴らしかったヴァージョンや曲のアクセントを受け継ぐのは寺井尚之しかいません。

 カジモドをまだジョークだと思っている人は、ぜひ寺井尚之とメインステムの演奏を聴いてみて欲しい。この世では結ばれなかった二人の魂のラブ・ストーリーが聴こえてくるはずです。



CU

11/16:トミー・フラナガン忌に

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Tommy Flanagan (1930, 3/16- 2001, 11/16)
写真:Jan Persson Jazz Collectionより

   今日はトミー・フラナガンの命日。フラナガンが亡くなってから丸14年になります。

それは、アメリカ同時多発テロ事件の二ヶ月後でした。911が起こった朝はセントラル・パークを散歩するほど元気だったのに…「インターネットで訃報を見たのだけど」と、ジャズ評論家の後藤誠氏から知らせがあり、確認しようにも、OverSeasのピンク電話(!)では、国際電話ができないので、小銭を沢山握って、公衆電話ボックスを探し回ったのが昨日のようです。

 もちろんフラナガン家には誰も居なかったし、ハナさんの家も留守でした。やっとジミー・ヒースさんの奥さんと連絡が付いて、ニュースが本当だと知りました。しばらくすると、新聞社やジャズ雑誌から訃報の確認の電話が相次いでかかってきて、だんだんと亡くなったことが実感となっていきました。

 しばらくすると、ハナさんから寺井に連絡があり、「無理して葬儀に来なくていい。ほんとうに寂しくなるのは、数ヶ月後なのだからね、その頃にNYに来てダイアナを慰めてあげなさい。」と言ってくださった。まさか、一年後にハナさんも亡くなるとは夢にも思っていませんでした。

tfdoorP1090922.JPG  4日後にセント・ピータース教会で行われた告別式には、フラナガンゆかりの多くのミュージシャンが集まって追悼演奏をしました。後輩として、演奏を披露したマルグリュー・ミラーやジェームス・ウィリアムズも亡き人になってしまいました。( OverSeasの玄関を入ったところにある左の写真は、告別式に飾っていたものです。

 ジャズ雑誌から、告別式の写真を頼まれて、NY在住のYas竹田(b)に頼んだら「トミー・フラナガンの葬式でカメラをパチパチするような失礼なことはできません。」と言われ、大いに恥じ入ったのも覚えています。

 

 今日は、フラナガンの好きだった白い花を一輪飾りました。師匠を思う気持ちは何年経っても不変、寺井尚之はトリビュート・コンサートの練習に余念がありません。

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トリビュートの前に:デトロイト・ピアノの系譜

detroit_pianists.jpg左からサー・ローランド・ハナ、トミー・フラナガン、バリー・ハリス

  トミー・フラナガンを生んだデトロイトは、ご存知のように自動車産業と命運を共にしてきました。20世紀までは函館市と同じ人口(28万人)の中都市に、南部の農場で働いていた多くのアフリカ系アメリカ人が、新天地を求め、大移動し、フラナガンが生まれた1930年代には150万人都市に。自動車産業の栄枯盛衰と、ジャズの流行は同じ歩調で、”ブルーバード・イン”が隆盛を極めた’50年代中期には、全米第5位の大都市に成長していました。

 都市の急速な発展は、激しい人種間の軋轢を生む一方、この都市は、早くから公立学校の人種混合制度を採用し、才能ある黒人師弟に手厚い音楽教育を施した。フラナガンが街のトップ・ピアニストとして名を馳せた頃には、”ワールド・ステージ”という会員数5千人を誇るジャズ・ソサエティが存在し、地元の若手と、全米に知名度を持つミュージシャンを組み合わせるコンサートを定期的に開催していた。当時まだ前例のなかったジャズ・ソサエティ活動の先頭に立っていた学生がケニー・バレルです。

 デトロイトには黒人コミュニティが積極的にジャズを応援するムードがありました。高級ナイトクラブから、大人だけが朝まで楽しむアフターアワーズの店、「ブラック&タン」と呼ばれる人種混合クラブ、バンドも客も未成年オンリーの定例ダンスパーティまで、パラダイス・ヴァレーから郊外まで、デトロイトにはジャズが溢れ、どの家庭にもピアノがあった。ミュージシャンを目指す子供は、放課後になると、自宅に仲間を集めて盛んにジャムセッションを開催し、子どもたちは、その家の家族と一緒に夕食を御馳走になる。当時のデトロイトの黒人社会はそんな状況であったのだそうです。

<デトロイトの水は甘いか?>

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 日本では、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリスの3人を、「デトロイト三羽ガラス」 とひとくくりにし、米国では、この3人にハンク・ジョーンズを加えて「デトロイト派(Detroit piano school)」としています。デトロイト派と言っても、それぞれに独自のスタイルとアプローチがありますし、実のところ、ハンクさんは、デトロイト近郊のポンティアック出身、他の3人より10才以上年上で、三羽ガラスが青年になる頃にはとっくに故郷を離れていた。ですから、必ずしも「デトロイトが育てた巨匠」ではないのですが、やはり、似た味わいを感じます。

 その味わいは、寺井尚之の言葉を借りれば「懐石料理」。スイングからバップへと発展したブラック・ミュージックの潮流をしっかり身につけた者だけが備える品格と洗練、美しいピアノ・タッチと完璧なペダル使い、流麗なテクニック、さりげない転調やハーモニーのセンスなどなど・・・

 ピアノを弾けない素人の私にも、一番わかり易いデトロイト派の特徴は、どれほどオーケストラ的なサウンドを鍵盤から発散している時でも、小柄なハナさんが必要に迫られて椅子の上を牛若丸みたいに飛ぶ、という事以外には、大仰なジェスチャーがないことかな?

 或るとき、「何故デトロイトのピアニストは洗練されているのか?」 と質問され、フラナガンは独特のユーモアで答えた。

「その原因はデトロイトの水だ。」

the-band-don-redman-built.jpg  フラナガン達が生まれた1930年前後、すでにデトロイトには実力のあるミュージシャンがひしめき合っていました。その中には例えば”マッキニー・コットン・ピッカーズ”のようにNYに進出し、ハーレム・ルネサンスの一員となったミュージシャンも居る一方で、録音が現存しないため、忘れられた天才達も居ます。ベニー・グッドマン楽団で世界的な名声を得たテディ・ウイルソンも、フラナガンが赤ん坊の頃はデトロイトで活動していました。

 アート・テイタムやバド・パウエルと言ったジャズ史に残る人々と並んで、地元の先輩ミュージシャンがデトロイト的なアプローチの源流となったことは、想像に難くありません。

<テクニックとテイスト>

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1961-weaver-of-dreams-kenny-burrell-columbia-lp-cs-85033.jpg トミー・フラナガンと親友のケニー・バレルは十代の頃、バレルがヴォーカルとギターを担当、ベーシストを加え、ナット・キング・コール・スタイルのトリオを組んでいたというのは有名です。バレル名義の『Weaver of Dreams』には、その当時の演奏が偲ばれます。フラナガン少年にとって、憧れのテイタムは、余りにスケールが大きすぎて近寄りがたい。でも、キング・コールの洒脱なピアノ・スタイルは、ハンク・ジョーンズやテディ・ウイルソンと同様、「より現実的な目標」だった、というのですから恐ろしい!

 ただし、その発想はフラナガンにとって極めて自然なものだった。テイタム―キング・コールと若いフラナガンを結ぶ線上には、もう一人、フラナガン達デトロイト派の源流なる巨匠の存在がありました。彼の名は”ウィリーA”ことウィリー・アンダーソンと言います。

 トミー・フラナガンはウィリー・アンダーソンに受けた影響を、様々なインタビューの場で繰り返し語っています。

 「・・・デトロイトの街にも、手本となるアーティストが沢山いた。その好例がウィリー・アンダーソンという人だ。独学の音楽家で、非の打ち所のないテクニックと趣味の良さがあった。彼のスタイルはテイタムとナット・コールの系統で、ピアノ+ギター+ベースでナット・コール・スタイルのトリオを率いていた。ケニー・バレルの兄さんが、そのグループのギタリストだった。なかなか良いギタリストだったよ。ビリー・バレルという名前だ。(訳注:ビリーはフォードに勤務する傍ら音楽活動をし、プロに転向することはなかった。)

 ・・・それは’40年代の始めで、私達が12か13才の頃、ちょどケニーと知り合った頃だ。アンダーソンのトリオを聴き、練習しているのを見て、色々勉強した。私達はナット・コールのレコードを全部持っていたし、それらと、彼らのスタイルはとても近かった。実際、ウィリー・アンダーソンはナット・コールのほぼ全レパートリーをカヴァーしていた。とはいえ、単なるモノマネではなく、しっかり自分の個性を持っていた。テイタムやナット・コールから、技術的なアイデアを吸収した上で、自分自身のかたちを作っていた。ほんとうに素晴らしい音楽家だった!」(WKCRラジオ・インタビュー ’94)

<伝説のピアニスト、ウィリー・アンダーソン>

young_burrell_willie_anderson_papa_jo.jpgケニー・バレル(g)、ウィリー・アンダーソン(p)、ジョー・ジョーンズ(ds)(’46) photo courtesy of “Before Motown”

  アンダーソンは、終生デトロイトで活動したピアニストだ。年齢的には、ハンク・ジョーンズとフラナガンのちょうど中間の1924年生まれで、中退したデトロイト市立ミラー高校の同級にラッキー・トンプソン、ミルト・ジャクソンがいる。この時代までの多くの天才と同じように、ピアノだけでなく、ベース、トランペット・・・とにかくどんな楽器でも一旦手にすれば、上手に(!)弾きこなすことが出来た。癌を患い47才で早逝しており、音質の粗悪なプライベート録音しか残っていない、私達には幻のピアニストです。

 そのスタイルは「アート・テイタムの饒舌さと、ナット・キング・コールの洒脱さ、エロール・ガーナーのスイング感を併せ持つ」と、当時の演奏を知るミュージシャンは口々に語る。フラナガンの証言通り、’40年代初めからキング・コール・スタイルのバンドを組み、途中からヴァイブのミルト・ジャクソンが参加して”The Four Sharps(ザ・フォー・シャープス)”というバンド名で人気を博しました。

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The Four Sharps (撮影年’44or ’45) from Detroit Music History
ミルト・ジャクソン(vib),アンダーソン(p)、ミラード・グローヴァー(b)、エミット・スレイ(g)

 当然、NYからやってくる一流ミュージシャンやプロデューサーはアンダーソンをスカウトしようと躍起になった。ベニー・グッドマンは二度も自分の楽団に勧誘し、彼のプロデューサー、ジョン・ハモンドは、’45年、エスカイヤ誌の”All American Jazz Band”のピアノ部門に彼をノミネートした。
 デトロイト派と呼ばれる4人のピアニスト全員を代り代りにレギュラーとして擁したコールマン・ホーキンスも、(当然ながら)彼のプレイをとても気に入って、NYに一緒に来るよう誘った。そして、ディジー・ガレスピーは単身デトロイトにやってきて、リハなしで”フォー・シャープス“と共演している。どんなに速く複雑なバップ・チューンでもピリっとも狂わずコンピングする彼らに、ディジーはめまいを覚えるほどぶっ飛んだ。このリーダーを、なんとかNYに連れて帰りたい!でもやっぱりアンダーソンは首を縦に振らなかった。結局ガレスピーは、ヴァイブでもピアノでも仕事ができるミルト・ジャクソンを連れて行ったので、フォー・シャープス“は解散、後に、ケニー・バレルがこのバンド名を継承している

willie_emitt.jpg アンダーソンはたびたびレコーディングのオファーを受けたのですが、制作会社が弱小で、録音セッション自体がボツになったり、リリースまでに会社が倒産したり、満足な音源がありません。もしも彼が、グッドマン達についてメジャーになっていれば、今頃ジャズ史は変わっていたかも・・・

 フラナガンはアンダーソンが地元に留まった理由を、「譜面が読めないコンプレックスのため」と推測している。そして、「白人音楽の呪縛から解放されているわけだから、譜面が読めないのは決して恥ずかしいことではないのに。」と深遠なことを言っています。

 ケニー・バレルを始め多くのデトロイト・ミュージシャンはアンダーソンの性格について異口同音にこう語る。「非常に無口で内向的だが、内に激しい情熱を秘めていて、そのプレイは饒舌そのもの。仲間に対しては、心の広い優しい人だった。」

 トミーと似てる!!フラナガンは、ウィリー・アンダーソンを最も身近な手本として、テクニックと感情をコントロールする術を身に付けたのかもしれません。

 第27回 トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートは11月28日(土)、皆様のご来場をお待ちしています!

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参考資料: Jazz Lives (Michel Ullman著) New Republic Books刊

Before Motown :A History of Jazz in Detroit, 1920-60
(Lars Bjorn. Jim Gallert共著)
University of Michigan Press刊

Detroit Music History

トリビュート・コンサートの前に:トミー・フラナガンの幼年時代

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<氏より育ち:Breeding Counts More…>

 

  ジャンルに関係なく、どんな音楽や芸能でも、そのパフォーマンスから、「品格」とか「エレガンス」という、浮世離れしたものが、さり気なく漂っているのを感じると、水戸黄門様に出会った町民みたいに、ひれ伏したくなることがあります。

  私が生で見た事のあるジャズのプレイヤーなら、目まぐるしく変動するジャズの潮流の中、”ザ・キング”として、半世紀以上、全ジャズ・ミュージシャンに尊敬されたベニー・カーター(as,tp.comp.arr.その他何でも)や、ジャズ・ヴァイオリンの最高峰、ステファン・グラッペリ、ピアノならジョージ・シアリング、勿論トミー・フラナガンもその一人!これらの高貴な巨匠達は、銀のスプーンをくわえてお生まれになったのかというと、そういうわけでもないみたい。

george_shearing.jpg  例えばシアリングは、英国の労働者階級の出身、父は石炭の運搬人で、自ら貧乏人の子沢山と言い、望まれない9人兄弟の末っ子として生まれた。生まれながら目は不自由で、子供の頃は、毎月借金取りが集金に来ると、帰っていただく役目をしていたと自ら語っている。盲学校に行くまでは、日曜になると、父さんと公園でクリケットの試合を観戦(!)したり、労働党の演説を一緒に聴きに行ったり、母さんは、末っ子の目の不自由さを忘れさせようと、精一杯、家庭を明るくすることに専心した、と楽しそうに語っている。並み居る巨匠ピアニストと共演するクラシックの指揮者達も鳥肌を立てるほどの、天上の調べのようなソフトタッチの演奏は、子供時代に両親から注がれた愛情によって輝いていたのだろうか・・・

  一方、フランスの至宝、グラッペリは幼い時に母親を亡くし、父は第一次大戦に出兵、残されたステファーヌは孤児院で育った。高貴な音楽性に、家族の豊かな愛情はエレガンスの必須要素でもないみたい。
 

では、我らのトミー・フラナガンの幼年時代はどうだったのだろう?

young_tommy_flanagan.jpgTommy Flanagan(21才,  ’51)、巡業中Ohio州Toledoにて

 

 フラナガンに、時々、子供の頃の話をしてもらったことはあるけれど、その頃は、目の前のフラナガンに夢中で、もっと詳しく聞こうと思いもしませんでした。
  未亡人 ダイアナはトミーが40代の時に結婚したから、NY以前の生活は共有していない。
  フラナガンの生い立ちは、雑誌や書物で、断片的知ることは出来るけれど、インタビューが余り好きでないせいか、なかなか、詳しく語られているものがないのです。 

newyorker-2.JPG  その中で、かなり詳しく両親や子供時代のことが述べられている資料が、“The New Yorker”のアーカイブにあります。ジャズ・コラムを担当していた名ライター、ホイットニー・バリエットがエラ・フィッツジェラルドの許から独立したフラナガンにインタビューした記事(’75 11/20)。インテリ文芸雑誌の代名詞、リベラルにした感じ。カリスマ編集長、ウイリアム・ショーンが采配を振るった時代の古き良き”The New Yorker”の記事、さすがにしっかりした内容です。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 「私が生まれたのは、デトロイト北東部にあるコナント・ガーデンズという地域で、男五人、女一人の六人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟は今もデトロイトに住んでいて、生家には、今も何人か兄弟が住んでいる。 

  (訳注:コナント・ガーデンズ(Conant Gardens)は、1910年代、奴隷解放主義の篤志家が、アフリカ系の人達に提供した住宅地。第一次大戦後に、フラナガンの両親を含め多くの黒人が、南部から好況に沸くトロイトに移住、この街に移り住んだ。フラナガンの両親達が、ここに初めて教会を建立した。)

 88歳で亡くなった父は、ジョージア州、マリエッタ出身(綿畑の多い地域です。)で、第一次大戦後にデトロイトに移り住み、35年間、郵便配達夫として働いた。父はまっすぐな気性でユーモアに富む人だった。良い人間になるために何をすべきかを、身をもって子どもたちに示した。父と私は瓜二つなんだ。父も禿げで、私も若いうちから毛髪がなかったから、かなり長いあいだ、そっくりだったと言える。母は私がNYに移ってしばらくした頃、1959年に亡くなった。父と同じジョージア州出身だが、母の出はレンズと言う町だった。

  母はアメリカ先住民の風貌を持ち(訳注:トミーの祖父はインディアンだ。)、小柄で身長158センチそこそこだった。生活が苦しくなると、通信販売会社の内職でドレスを縫い、会社が送ってくるサンプル用のはぎれでパッチワーク・キルトを作って生計を助けた。

   私にピアノを続けるよう励ましてくれたのは母親だ。母は独学でピアノを弾いていて、兄のジェイ(Johnson Flanagan)がピアノを弾く姿を、幼い私が真似するのを見て、弾き方を教えてくれた。後に私も、ピアノ教師、グラディス・ディラードについて正式なレッスンを受けた。彼女は現在もデトロイトで教えている。ディラード先生は、私にピアノの正しいタッチや運指、指先の使い方をしっかり教えてくれた。」

  (訳注:Gradys Wade Dillardは、デトロイトで音楽を志す多くの黒人子弟が師事したピアノの名教師、後に音楽学校を開設、地域の職能教育に大きく貢献した。バリー・ハリスもディラード・スクール出身。トミーの兄、ジョンソン・フラナガンは後にディラードのピアノ教室で教えるようになり、カーク・ライトシー(p)は彼の教え子だ。ディラードが最も誇りにした生徒がトミー・フラナガン、彼が7才の時、レッスン中にアドリブを弾こうとするトミーに手を焼いて、「ちゃんと譜面通りに練習させてください。」と両親に釘を刺したという伝説があります。)

Art_Tatum-49.jpg    母はいつもピアノに興味を持っていた。子供の頃に、アート・テイタムのレコードをかけたら、一緒に聴いて、『まあ!これはアート・テイタムじゃないの?』って言ってくれて、私はいっぺんに得意になったもんだ。

  アート・テイタム以外に、ファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソンを聴いた。しかしハンク・ジョーンズは格別だった。テディ・ウイルソンをさらにモダンにした感じで、私には大きな意味があった。バド・パウエルも同様だ。バド・パウエルはクーティ・ウィリアムス楽団時代にデトロイトで聴いた。その頃からすでに彼は”バド・パウエルだったよ!つまり、『何だこれは!?今まで聴いたことがない!』という感じのピアノだったんだ。それからナット・キング・コール!深いニュアンス、パワー、スイング感、物凄い魅力を感じた。パルスとドライブ感たっぷりの独特の音色があったからだ。彼はピアノの音に命を与えてバウンスさせていた。

  私をジャズ界に入り、経済的にひとり立ちできるようになったのは、兄のおかげだ。初めてのクラブ・ギグは高校時代だった。セットの合間に他の人達と付き合うには、余りに子供だったので、休憩中は家に帰って宿題をしていた。…」

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   フラナガンの言葉の端々から、両親やお兄さんに対する尊敬と感謝の気持ちが伝わってきます。お父さんもお母さんも、決してお金持ちではなかったろうし、立派な学歴ではなかったかも知れないけれど、家族をしっかりと守り、きちんと人生を送った。  フラナガンの兄、ジェイことジョンソン・フラナガンはプロのピアニストとして地元で活躍した。ジェイのお孫さん、スコットはアトランタ生まれ、’80年代に広島で英語教師をしていて、私達を訪ねてきてくれたことがあります。やっぱりトミーと良く似ていました。他の兄弟達は、なんでも教育委員会とか、固い仕事についておられたそうです。  フラナガンのユーモアのセンスは最高だったけど、「業界人」っぽい軽薄なところは全然なかった。

 ただ、広く言われているように「温厚な紳士」とか「控えめな性格」といった印象はありません。確かに「紳士」ではあったけど、家の中では、瞬間湯沸器みたいな気性の激しさと、凄まじいほどの天才のオーラをムンムン漂わせていました。彼のプレイそのままに・・・

piano_tommy_flanagan_autograph.jpg 

 寺井尚之メインステムによる、トミー・フラナガン・トリビュートは11月28日(土)。どうぞお越しください。