寺井珠重の対訳ノート(2) The Lady Is a Tramp再考

ella and tommy

米公共放送(NPR)のラジオ番組で、マリアン・マクパートランドの司会で人気のあった「Piano Jazz」にゲスト出演したトミー・フラナガン(上写真左)は、エラ・フィッツジェラルド(上写真右)とのコラボ時代を回想し、「彼女がヴァース(本コーラスに入る前の、歌の前置きの部分)を歌う時が、特に楽しかった。」と語っていた。 (番組のインタビュー全文は講座本Ⅲに載ってます。)

Ella in Budapest

“The Lady Is a Tramp“は、’60年代終わりから’70年代の前半にかけ、エラ・フィッツジェラルドが世界各地で歌いまくった十八番の一つだ。フラナガンによれば、エラさんには、この唄のヴァースが6パターンあったそうだ。歌伴なのに飽きない仕事、これが根っからのバッパーであるフラナガンがエラの伴奏者を長く務めた理由の一つだろう。

フラナガンが、エラのヒット・レコードをコンサートで再現するための“伴奏者”から、 “コラボレーター”としてアップグレードしたヴァージョンを生み出す時期が始まったことを告げるアルバム《Ella in Budapest》に収録されている“The Lady Is a Tramp”が、先日、寺井尚之のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場したのだが、3巡目ながら、また対訳作りに苦労する。前回講座に登場したのは約10年前、そのときから日本語自体が変化しているし、若い人たちの知らない過去の有名人が歌に登場するのが苦労の種。余り対訳が説明的になると、エラの楽しさが表現できない。けれど、意味をなおざりにして、何となくやりすごすと、それはそれで面白さが伝わらない。

歌のお里

左:Richard Rodgers 右:Lorenz Hart

この曲はロレンツ・ハート(作詞)&リチャード・ロジャーズ(作曲)の名コンビが”Babes in Arms”というミュージカルのために、1937年(昭和12年)に書いた曲です(オリジナル歌詞はこちら。)当時17歳の子役スター、ミッチ・グリーンが歌いヒットしたといいます。

ブロードウェイで芝居見物するのに、精一杯着飾って、目立ちたいから、わざと開演時間に遅れて劇場に入ったり、ハーレムで夜遊びし、口先だけの社交辞令を並べる上流レイディ達、自己顕示欲が強くて、見栄っ張り、いけ好かない気風を皮肉った歌詞は、エラのヴァージョンでなく、オリジナル歌詞を読むだけでも充分楽しめる。

この歌の作詞家、ロレンツ・ハートは、コール・ポーターや、この曲のヴァースにも登場するマルチタレント、ノエル・カワード同様、同性愛者だったそうだ。この歌にも、20世紀のゲイカルチャーに特有の、飛び切りお洒落で、チクリとするウィットが感じられる。それが100年近く経ったいまも、古臭く感じない理由かも知れない。私の対訳サポーターだった、フラナガン夫人、ダイアナは、この歌詞の視点から、ずっとポーターの歌と思いこんでいたそうだ。

対訳係りとしては、そのお洒落なところを何とか日本語にしたいのだけれど…

Trampってなに?

だけど、”ザ・レイディ・イズ・ア・トランプ”のトランプは、日本語で何と言ったらよいのだろう? 辞書をひいてみようか…(因みに、ポーカーやババ抜きをするトランプはtrump、米国の45&47代大統領はTrumpです。)
● 研究社「カレッジ・ライトハウス英和辞典」で名詞の”tramp”の項には、①【主に英】浮浪者、放浪者、④【主に米】〔軽べつ的〕ふしだらな女 :と書いてある。
●Merriam-Webster Dictionaryに書いてあることを日本語にすると、①徒歩で旅行する人 ②浮浪者、放浪者、③不道徳な女性、売春婦…と続く。

昔、ダイアナは「a trampとは、a hoboであり、同時にa woman (who) sleeps aroundである。」と教えてくれたから、やはり辞書と一緒だ。でも、「寝まわる」なんて…、英語はオモシロイ。

何故、浮浪者と不道徳な女が、同じ言葉なんだろう?
どないやねん?対訳係の心は千路に乱れる。

“a tramp”で、思い出すのは、20世紀米文学を代表するJ.D.サリンジャーの初期(’48)の短編”A Perfect Day for Bananafish(バナナフィッシュにうってつけの日)”だ。(ケッタイな題名は、ここでは気にしないでください。)
この短編の主人公は、第二次大戦中、戦地で精神を病み、戦後帰還するものの、「戦争なんてアタシにはカンケーない」と、ノー天気でチャランポランな妻を『1948年度のMiss Spiritual Tramp』と呼び、自分がエラい目に会った戦争に無関心な周囲とのギャップを埋められず、ピストル自殺してしまう。この小説の翻訳者の人たちも、”Tramp”の日本語には手こずっているようで、”1948年度ミス精神的るんぺん”とか”放浪者”とか”あばずれ”とか、本によって色々変わっているようです。

だいたい、日本には、放浪者と性的にふしだらな女をひとくくりにして、一つの言葉で表す文化がない!となると、翻訳者は辛い。”Tramp”はステディな相手を定めず、男から男へと放浪する女を軽蔑する英語なのですね。

この曲のヴァースの、“メイン州からアルバカーキまでヒッチハイクしてたから、大きな舞踏会に出損ねた”、”Hobohemiaこそが、私の居場所”のくだりの“Tramp”なら「放浪者」でしょ。

1番の歌詞に入り、”嫌いな連中とは付き合わない”つまり、口先だけの社交生活をしないという“Tramp”は、”あばずれ”であるかも知れないけど、”浮浪者”じゃない。

2番に入ると、エラ流の歌詞となり本領発揮、上流とは程遠く、男にだらしない、いわゆる「あばずれ」の面を、歌詞を変えてわざと強調し、歌の書かれた時代でなく、”現代”のタッチと、歌の楽しさを前面に出して、圧倒的にスイングして行く。

シナトラの青い目にシビレて見せた後、オリジナル詞の“I’m all alone when I lower my lamp=ランプを暗くして寝る時、私はひとりぼっち”のラインを、エラは、意図的に、こう変える。
“I’m always happy when I lower my lamp. =私がランプを暗くする時は、いつでもハッピーよ。” わざと男性との情事を匂わせて、「あばずれ度」をアップしてから、そういう手合いは”tramp”って言うの!なんか文句ある?と高らかに「寝まわる女」を賛美するのだ!

サビになると、バンドと一緒にエラは歌全体のカラーを一層すがすがしくさせる。とりすました世間に”Tramp”と軽蔑される女は、髪を風になびかせたり、顔に雨が降りかかるのが気持いい、とホザく。ヘアメイクで作りこまない自然体、風が吹いても、ヘアスタイルは崩れないし、雨が降ってもマスカラが落ちてタヌキのような顔にはならないから、気持ちがいいのです。

 そう!エラ・フィッツジェラルドの歌う”Tramp”は、「既成概念や周りの評価に左右されず、自分に正直な女」、それは、ステージの表現者としての自分自身のことなんだ!と気づかされる。現在も名作として歌われるスタジオ録音のソングブック・シリーズにおける完璧な歌唱とは一線を画する、ステージのエラを象徴する歌なのだと思います。

エラ・フィッツジェラルドは、歌っている言葉の意味がわからなくとも、充分楽しめる大歌手ですが、歌の意味だけでなく、歌詞解釈を考えると、さらに楽しいものですね。

 

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