義を見てせざるは…美しきミュージシャンシップ
ビリー・ハーパー(ts,ss)
ビリー・ハーパーというテナー奏者をご存知ですか?
トミー・フラナガンゆかりのOverSeasのサイトですから、ここを訪れてくれる若い皆さんには、特に馴染みがないかもしれませんね。ビリー・ハーパーは、テナーの宝庫、テキサス出身、1943年生まれで、昔は何度も来日しました。でも’94年のコンコード・ジャズフェスティバルで、<テナー・サミット>と銘打ってジョニー・グリフィンと競演して以来、日本に来たという話は聞きません。
幼い頃から歌っていたゴスペルの延長線上でテナーサックスを習得、16歳でプロ入りしNYに進出するや否や、魂を揺さぶるような歌心のあるハードなプレイで注目を浴び、ジョン・コルトレーンの跡を継ぐ若手の逸材と騒がれます。以来ギル・エヴァンスOrch.、ジャズ・メッセンジャーズ、サドーメルOrch.など名だたる楽団で活躍しました。特に’74年、サド-メルOrch.で、サー・ローランド・ハナ(p)、ジョージ・ムラーツ(b)や、弱冠20歳の天才トランペッター、ジョン・ファディスと共に来日して、強烈な印象を残しました。深夜、確かサンTVでサド・メル特番があり、その迫力と、個性溢れる人種のるつぼの様なメンバー達、圧倒的なフルバン・ジャズ!高校生だった私は、ものすごく感動したのを覚えています。
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アジアビルにあったOverSeas
これからの話は、もう20年も前のこと、来日中のビリー・ハーパー(ts)カルテットがツアー中に、大阪で数日間オフとなり、OverSeasに、プライベートで遊びに来た或る夜の出来事です。
同行メンバーは、サー・ローランド・ハナ(p)の一番弟子と言われた超絶技巧のピアニスト、ミッキー・タッカー(p)、スタンリー・カウエル(p)、チャールズ・トリヴァー(tp)のMusic inc.またジョン・ヒックス(p)やウディ・ショウ(tp)と共演するベーシストで速弾きの鬼才と言われたクリント・ヒューストン、現在、巨匠として第一線で活躍するビリー・ハート(ds)、全員が新主流派の錚々たる面々です。寺井尚之は30歳少し出たくらい、OverSeasはボンベイビルからアジアビルに移転して間もないころでした。
その夜、OverSeasの客席にはハーパー達の他に、サラリーマンの団体さんが、居酒屋気分でワイワイ飲んでいました。演奏が始まっても、一向に耳を貸そうとしません。それどころか、音楽に負けじと自然に声も高くなる…ジャズ演奏を提供しているNYのレストランでも、よく出くわす光景です。
客席のハーパー達の前で、何となく恥ずかしく、またプレイヤーに申し訳ない、そう思いつつも、ホール係りの未熟な私は成すすべなしのお手上げ状態でした。
ハーパー達は、細長いお店の後部にある9番テーブルに陣取り、ざわめきも気にならないのか、真剣な表情で演奏に耳を傾けてくれています。一曲目のピアノソロが終わった瞬間、4人のミュージシャンが、一斉に大きな歓声と拍手を爆発させました。すると、大騒ぎしていたお客さんたちが、ぎょっとなって彼らの方を振り向き、演奏をしていることに初めて気付いたように静かになったのです。
クリント・ヒューストン(b)
4人の風貌だけでも人目を引くのに充分でした。ビリー・ハーパーは身長190センチ以上の長身で肌はチョコレートの様に艶のある褐色、大きな瞳がマッチ棒の先の様に小さな顔の強いアクセントになっています。ジーンズに漆黒のタートルセーター、精悍な姿はバスケ選手のようにも見えました。ビリー・ハート(ds)は対照的に、クレオールの浅黒い肌、ずんぐりした体型で、鋭い目つきと、角刈りのような短髪がいかにもコワモテ、クリント・ヒューストン(b)は、白人の様に白い肌と淡いへーゼル色の瞳が美しく、アフロヘアと濃い髭面がビートニク詩人のように知的で個性的、ミッキー・タッカー(p)が、激しい演奏ぶりと裏腹に一番目立たない風貌だけど、甲高い掛け声が凄かった。
ビリー・ハート
ほとぼりが冷め、再び大声を出す背広姿のお客さんに、今度はハートが、射抜くような視線を投げ、絶妙のタイミングで、バンドスタンドに喝采を送ります。今思えば、メジャーリーグのベンチの様でもありました。
強力な味方に意を強くした寺井尚之デュオがゴキゲンに2曲目を演奏し終える頃には、客席はすっかり静かになっていました。騒いでいたお客さんたちも、ハーパー達の魔法にかけられたように、いつしかプレイに大きな拍手と歓声を送りながら、一緒に音楽を楽しんでくれていたのです。
私はハーパー達の応援ぶりに、初めてミュージシャンシップというものの素晴らしさを体験したのです。格の上下は関係なし、心のこもったプレイには、受け手も全力で聴くのがジャズメンの道、バンドスタンドの窮地を見れば、進んで手を差し伸べるのがジャズメンの掟と学びました。
翌日再びやって来たミッキー・タッカー(p)と寺井尚之
音楽を聴いてくれない人たちの前でシリアスにプレイするということが、どんなものかを一番良く知っているのは演奏家自身です。一流ピアニストのサー・ローランド・ハナやジュニア・マンスでさえ、騒々しいヤッピー達には無力であるバンドスタンドの悲哀を口にしたのを聴いたことがあります。
そんな光景に出くわせば、絶対に見殺しにせず助けてやろうというミュージシャンシップは、「義を見てせざるは勇なきなり。」の武士道精神と同じやん!と、意気に感じたのでした。
それ以来、OverSeasでも他所のお店でも、NYでもどこでも、同じような光景に出くわすと、必ずその夜のことを思い出して、私も同じように応援しようとします。この事件の後、トミー・フラナガン達、ジャズの巨人というものは、目下の者の演奏であろうと、全力で聴く態度が備わっていることに気づきました。
他人の演奏を全力で精魂込めて受け取ろうとする人は、自分が演奏の送り手となる時のエネルギーも、より大きくなる。ジャズの世界でも、「エネルギー保存の法則」は成り立つのです。
夜が更けると、楽器を持ってきていなかったハーパー以外のメンバー達と寺井尚之のセッションが始まりました。送り手となった彼らの演奏は、やはり物凄いものでした。
ただのセッションなのに、寺井尚之とデュオで顔を高潮させ汗だくになってプレイしたヒューストンや、ハイハットの二段打ちのウルトラCをまざまざと見せつけてくれたハート、タッカーの剃刀の如く研ぎ澄まされたピアノ・サウンド、今でも強く心に焼き付いています。
その後ミッキー・タッカー(p)は単身で何度も何度も寺井尚之を訪ねて来てくれるのだけど、それはまた別の機会にお話しましょう。
現在もビリー・ハーパーは活躍中で、最近ポーランドで60人の合唱団を入れたコンサートがDVDになるらしい。ビリー・ハートは押しも押されもせぬドラムの巨匠となり、’99年にムラーツカルテットのコンサートで正規に演奏してくれました。
一方クリント・ヒューストンは2000年に53歳という若さで亡くなりました。ミッキー・タッカーは、’89年に奥さんの祖国オーストラリア、メルボルンに移住、’91年、当地の音楽学校で教鞭を取っている最中に突然脊椎を損傷し、不幸にもピアノを演奏することが出来なくなったけれど、音楽への情熱は衰える事無く、現在もプロデュースなど活動を続けているそうです。
或る夜、旅の途中でふらりとOverSeasに立ち寄った4人のジャズのサムライ達、彼らのくれた贈り物は、今も私の心にしっかり焼き付いています。
さて、次回は、ジャズ講座名場面集シリーズ、サド・ジョーンズの名盤 – Detroit-New York Junctionを聴きながら、デトロイト・ハード・バップについて語る予定です。
来週末に更新予定、CU
とても興味深く読ませて頂きました。
読んでいて泣けました。
次回も楽しみにしています。
tubbyさま
泣けるコメント、ありがとうございました。
ミュージシャンのtubbyさんだから、共感してもらえたのかな?
なかなかレゲエはしませんが、可愛い僕ちゃんと一緒にお立ち寄りください。
こんばんは、はじめまして。ちょっと迷い込んで、こちらのブログにやってきてしまいました。四日に大阪に行くことになって、せっかくだからJAZZが楽しめる場所はないかと探していたらトミーフラナガンにアンテナが引っかかってしまいました(笑)実は大阪は初めてみたいなものなので、たどりつけるか心配ですがお伺いしようと思っています。演奏も楽しめるとあったのでワクワクです。よろしくお願いします!
Sachiさん いらっしゃいませ!
新規オープンのブログに来て下さって、お店にも初めて来てくださるのは、Sachiさんが、初めてです!
明日、お目にかかるのが楽しみです!!
ありがとうございました。
寺井さんのデュオの相手は誰だったんですか?
ビリー・ハーパーを一番最近聴いたのが13年も前だったのがわかりました。
通りすがりのお客様、コメントありがとうございます。
デュオのベーシストは、現在も活躍している福呂和也さんです。その夜のセッション後、Bハートが彼のメモリーブックの表紙に「Enjoyed it? = 楽しかったかい?」とサインをしてはりました。
どこの方かは存じませぬが、また通りすがっておくれやす。
先日はありがとうございました!無事、大阪の旅を終え平日に戻って参りました。大阪ってそんなに遠くない!ってのが感想。また遊びにいきます。マスターにもよろしくお伝えください。
Sachiさんは、とてもチャーミングな女性でした。ぜひまたお会いできますように!!
また、そちらのサイトにもお邪魔しますのでヨロシク!!