トミー・フラナガン:思い出の種

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 3月16日は トミー・フラナガンの誕生日で、第22回トリビュート・コンサート開催です。

 昨夜は、「ずっと来たかったでんです。」と、OverSeas初見参のグループが!ハードバップ大好き、トミー・フラナガン大好き!と言う言葉に偽りなし!寺井尚之と宮本在浩のデュオで、”They Say It’s Spring”に”Joy Spring”の一節が挿入されると、大きく頷いてニッコリ!音楽をとてもよくご存知なお客様が楽しんでくださる様子を観るのは最高!生きてて良かった、と思える瞬間です。マナーも紳士的な方々だと思ったら、英国のジェントルメン!「フランスのマルシアックでフラナガンを聴き、原宿のビー・フラットで、ジョージ・ムラーツやサー・ローランド・ハナを聴いた。」とヒュー・グラントみたいなかっこいいクイーンズ・イングリッシュで言われると、良い音楽に国境はないんだ… と改めて感じます。

 1984年に初めて演奏アーティストとしてお迎えした頃、フラナガンは、日本→西海岸→NYに帰ったと思えば、その翌週からヨーロッパ・ツアーと慌しく世界中を駆け回っていました。

 

<温厚紳士>

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 トミー・フラナガンは、”Soft-spoken”=物静かで温厚な紳士という風に評された。確かに、普段の話し声は低くて、”WOW!”なんて言うのは、めったに聞いたことがない。

 NYに行っても、信号無視が普通のマンハッタンの街を、トミーが赤信号で渡ったのを観たことない。私達が大阪流に渡っても、トミーは無表情で、青信号になるまで悠然と待っている。食事に行っても、ウエイターに注文をつけたり、急がせたりすることは絶対になかった。そういうことは、全部、奥さんのダイアナがするのです。

 楽団の元歌手で、ビッグバンド時代が終わると、国語の先生になったダイアナは、’70年代にトミーと再婚し、彼がエラ・フィッツジェラルドの許から独立してからは、トミー・フラナガンのパーソナル・マネージャーになった。トミーが独立後、フリーランスでありながら、あれよあれよという間に名実ともにトップ・ピアニストになれたのは、ダイアナの敏腕のおかげだったかどうかは別として、とにかくフラナガンが表に出さない強い自我の代弁者として、ダイアナを憎まれ役にしていたことは確かです。J.J.ジョンソンが、2度目の結婚の直後、それまでジャズに無縁な保険会社のOLだった新譜をマネージャーにしたのは、元レギュラー・ピアニストで親交厚かったトミーの成功を見倣ったということです。

<寺内貫太郎一家>

 デトロイト・ジャズ史、『Before Motown』には、フラナガンを、数多くのデトロイト・ジャズメンの内でも、コマーシャリズムを徹底的に拒否する、並外れたビバップ原理主義者だったと書いてある。身内だけしかいない時のトミー・フラナガンは、Before Motownに書かれた20代の血気盛んな青年と全く違わない。

 フラナガンは並外れて「情の深い」人だったのだと思います。言葉や文化が違っていても、人生を賭けて慕う寺井尚之を、真正面から受け止めて、自分の手の内を全部見せてくれました。

 寺井尚之に対しては日常とても優しかったけど、私に対しては、時にはとても厳しかった。だいたい、ヒサユキは「息子」と呼びながら、なぜか私は「娘」じゃなくて「シスター」で、「行儀」や「礼儀」、ジャズ界の「掟」を守れるよう、厳しく仕込んでくれました。理由はここで言えないけど、目に染みるくらい電話で怒鳴られたこともあります。その時は悔しかったけど、今では怒ってくれたことを、とても感謝しています。

 日本のバブルが弾けて、景気が落ち込んだ時は、深夜送っていったホテルで、「ヒサユキに手紙を書いたから渡してくれ」と封筒を預かり、持って帰ると、綺麗な文字で、長い励ましの言葉を書き綴った便箋と一緒にお金が入っていたこともあった。

 フラナガンは、何かにつけ、そういう人だった。演奏も、言葉も、行動も、口先だけのものは何一つないリアルな人。

 その反面、大きなジャズクラブに出演した時は、わざと「OverSeasの寺井尚之さ~ん、どこにいらっしゃいますか?フラナガンさんが楽屋でお呼びです。」と、スタッフに大声で言わせてPRをしてくれるようなイタズラなところもありました。

 情が深くて、自我が強くて、それでいて、ピアノにも世間様にもソフトタッチであった巨匠。だから心臓を悪くして早く亡くなったんだと、私は固く思ってます。

 決して器用な生き方ではなかったけれど、真のバッパーは器用なだけではなれないのだ!

 寺井尚之は、そういうところも受け継いでしまったんだなあ・・・そう思うトリビュート前、思い出の種が一杯です。

   

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名文で知っておきたいジョージ・シアリング

トミー・フラナガンの親友でありピアノの名手、知性と知識を兼ね備えたジャズ・ライター!我らがディック・カッツ氏がMosaicのボックス・セット、『The Complete Capitol Live George Shearing』のために書いたライナー・ノートのサワリの部分をここに和訳して掲載いたします。

Tommy Flanagan and Dick Katz 著者、ディック・カッツ氏とトミー・フラナガン

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ジョージ・シアリング
George Shearing (1919-2011)

ジョージ・シアリングがロンドンで送った子供時代、それは、決して「バードランドの子守唄」あるいは、どこかよその子守歌のようなものでもなかった。ぎりぎりの貧困での生い立ちから、裕福な音楽的有名人としての成功は、ハリウッドの黄金期の映画さながらに、ボロ服から大金持ちへの大転換だった。
勿論、彼のスタートも慎ましいものであった。1919年8月13日、9人兄弟の末っ子として、生まれながらの全盲として誕生。父は石炭人夫、母は子供達を世話する傍ら、夜は列車の掃除婦として働いていた。

ジョージの学歴は控え目に言っても多彩なものだ。1987年、文芸誌「ニューヨーカー」で、シアリングはホイットニー・バリエットにこのように語っている。
「3才の時に伊達男を気取って音楽を試みたものの、方法が不適切で・・・トンカチでピアノをガンガン叩いたものです。」 これはロンドン南西部、バターシーの「シリントン・スクール」の出来事だ。

12才から16才の間は、緑多い田園地帯にある寄宿制盲学校、「リンデンロッジ」に在学。入学は強制的なものではあったが、ロンドンのすすけた下層労働階級から逃れ、ほっとできる喜ばしい機会であった。彼がバッハ、リストなどクラシックの作品の弾き方や音楽理論を学んだのもそこ「リンデンロッジ」である。

卒業後、パブのピアノ弾きの仕事にありつく。そしてほどなく、クロード・バンプトン率いる全盲ミュージシャンで編成した17ピースのバンドに加入する。紳士服で有名なサビルロウで仕立てのユニフォームでの仕事は、フィナーレには6台のグランドピアノが並ぶという、彼の最初の大仕事であった。リーダー以外、全員が視覚障害者で、譜面はシアリングが概に学んだ点字譜に書き直された。そこが若きピアニスト、シアリングと生のジャズとの初めての出会いである。楽団で、ジミー・ランスフォード、エリントン、ベニー・カーターなど名楽団のアレンジを演奏した経験がシアリングに大きな刻印を残した。やがて、当時最新の、アート・テイタム、ルイ・アームストロングなど一流ジャズメンのレコーディングを聴き始める。

さて、ここで若く熱意にあふれた、新進気鋭の批評家レナード・フェザーの登場となる。「リズム・クラブ」のジャムセッションでシアリングを聴いたフェザーは、この若きジャズの修行生にできるかぎりの援助を申し出た。シアリングわずか19才の時に、フェザーはレコーディング、ラジオ出演の御膳立てをした。おかげで1939年迄に、英国のジャズピアニストの人気投票で第1位に輝き以後7年間その地位を守り続ける。それまでに、主要な米国のジャズピアニストのスタイルを習得し、しばしば「英国のアート・テイタム」あるいは「テディ・ウイルソン」あるいは「No1ブギウギピアニスト」という称号を贈られた。だが、この贈り物は後に逆効果を生むことになる。

早くからグレン・ミラー、メル・パウエル(p)、そしてファッツ・ウォーラーから支持され、勇気を得たシアリングは、もはや英国に留まって活動すべきではないと感じていた。大戦後の1946年,、アメリカのジャズ界で腕試ししようと渡米。期待は大きかったが、その顛末は後の1986年、NYタイムズでジョン・S・ウィルスンに語ったとおりである。

 「私は芸能エ-ジェントに会いに行き、演奏を聞かせました。テディ・ウイルソンやアート・テイタム、ファッツ・ウォーラーの様に弾いて見せますと、こう冷たく尋ねられました。『他には何ができるんだい?』って…」

アメリカでは、自分の真似た本家が、いつでも生で聴けるのだと悟ったシアリングは、聴衆にアピールする自分自身のアイデンティティを確立する必要性を痛感、そして帰国。再び腕を磨いてから1年後に再渡米した。

再挑戦の初仕事は52丁目にあるクラブ、「オニキス」でサラ・ボーンの対バンとして演奏することであった。彼のピアノの卓抜さはすぐに注目の的となり、ミュージシャンの口コミも彼の評判を確立するのに役立った。

洗練された彼の演奏は、折衷的であるにせよ、確かに驚異的ではあった。とはいえ、まだまだ音楽的に”自分自身のヴォイス”を確立するところまでは行かなかったのだ。だが、その”ヴォイス”が生まれるのも、長くはかからなかった。

1949年1月、彼はカルテットを率いてブロードウェイ、「クリーク・クラブ」に出演、クラリネットのバディ・デフランコをフィーチュアしスムーズなボイシングと微妙なリズムのアプローチを強調し、ドラマーであり作曲家、ブラシ・ワークの名人、デンジル・ベストが、グループのサウンドを周到に計算した。2週間後、デフランコは別の契約の為に退団。シアリングの米国への移民手続きをしたレナード・フェザーはグループにユニークなサウンドを与える方法を思いついた。ドラムのベストと、後にマネージャー となるベースのジョン・レビーはそのままにして置き、シアリングはバイブのマージョリー・ハイアムスとギターのチャック・ウエインを新たに加入させ、それが決定的な転機になった。昔のグレン・ミラーのグループを模したオクターブ・ユニゾンのボイシングのおかげで、完璧にユニークなクインテットのハーモニーを手中に収めたのだった。その頃、シアリングが会得していた「ロック・ハンド」といわれるブロックコードで、ギター+ヴァイブラフォンのラインを肉付けした。そのピアノスタイルの元祖はデトロイト出身のミルト・バックナーだが、シアリングは、もっと完璧な和声感覚で、コードを驚異的なスピードで変化させ、自分のアドリブの番になると、更に聴衆を驚嘆させてみせた。一方、ナット・キング・コールもまたブロック・コードで大成功を収めたが、キング・コールの場合は非常に繊細で、スイング感のある使い方だった。

NY、「ダウンタウン・カフェソサエティ」とシカゴ、「ザ・ブルーノート」のギグを皮切りに。グループはNYの高級クラブ、「ジ・エンバーズ」と当時のジャズのメッカ、「バードランド」に出演。成功は目前であった。

そしてMGMが”9月の雨”を録音、1949年2月に発売するや否や、シアリング・クインテットは全国的な名声を掴んだ。それは驚異的なヒットだった。その後はジャ
ズ史と商業音楽史そのものである。引き続き多くのヒット曲が生まれたが、それらは皆同様のアレンジの方程式を使っており根本的には同じサウンドであった。アレンジは元々シアリングとマージョリー・ハイアムスとで分担していた。ハイアムスは素晴らしいバイブ演奏家でもあり、優美で堂々とした存在感を印象付けた。ジャズのバンドスタンドに女性がほとんど居なかった時代のことである。(例外はメアリー・ルー・ウィリアムズと、マリアン.マクパートランドだけである。)

このグループのユニークなアイデンティティは以後29年間持続する。そして先のNYタイムスの記事でシアリングが語っている様に「最後の5年間、僕は自動操縦状態でプレイしていた。寝ながらでも、ショウを最初から最後まで通して演ることができた。」という状況に陥る。

1978年、クインテットは解散、以来シアリングは、主にカナダ人のドン・トンプスンやニール・スウェインスン達、トップの技量を持つベーシストとデュオで活動してきた。また交響楽団とモーツアルトで共演したり、メル・トーメや、カーメン・マックレー、ジム・ホールなど彼のお気に入りのアーティストとの共演など様々に活動の範囲を拡大してきた。それ以外にNYのラジオ局WNEWでDJを勤め、ワークショップで教えたりしている。

1949年~1978年、クインテットは度重なるパーソネルの交替を行ったが、このグループを出発点としてメジャーに成ったアーティストは極めて多い。幾人か名前を挙げると、ヴァイブではゲイリー・バートン、カル・ジェイダー、ギターではトゥーツ・シールマンス、ジョー・パス、リズムセクションでも、デンジル(ベスト)以外にベストなプレイヤーが居る。時代の移り変わりに従って、アル・マッキボン(b)、イスラエル・クロスビー(b)、バーネル・フォーニエ(ds)達が、グループのサウンドにきらめきを与えた。クロスビーとフォーニエは、アーマッド・ジャマール(p)トリオの成功にも、大きな役割を占めている。

1954年になるとシアリングは、コンガ奏者、アルマンド・ペラーツァをグループに加入、ラテンリズムを徐々に導入することで、グループはしばしば、純正のアフロキューバン・バンドのようにサウンドした。特にシアリングは、アフロ・キューバンのイディオムを完璧にマスターしていた。

また、シアリングは、ピアノ同様、創造性に溢れた卓抜な作曲家であることを証明している。”バードランドの子守歌”、そのクラブに出演したアーティストにとって、礼儀上、不可欠な演奏曲目と成っただけではなく、いつの時代でも最も頻繁に演奏される、実り多いジャズスタンダードとなった。他にも”コンセプション”のような複雑なビバップのメロディ(バド・パウエルの愛奏曲であった)や、彼のもっとも人気を博したイージーリスニング・アルバムのタイトル曲で、コマーシャルなボレロ風の作品”ブラック・サテン”なども作曲している。

シアリングのクインテットが、よりコマーシャルなサウンドに変化すると、『政治的正当性』を重んじる派閥のジャズ・ジャーナリズムの態度はシアリングの才能に対して冷淡に成った。「コマーシャル」ということで、こっぴどく叩かれたのである。ルイ・アームストロングやデューク・エリントンでさえもが、ショウビジネスの現実にへつらったといって、不興を買ったのあるから、シアリングは純粋主義者の魔女狩りに合った最初の一流ジャズ・アーティストではない。

’50年~’60年代の評論家連中は、ジャズに生きながら、余りにも経済的に成功することに我慢がならなかった。アーティストは成功すればするほど、コマーシャルになったと非難されたのだ。

耳に聞こえたものは、殆ど何でも全て自分で演奏してみせてしまうシアリングの能力は、逆に彼自身の真の創造性をわかりにくくしてしまう傾向があった。仲間を形容する為に、良い耳でミュージシャンのフレイズを借用して、彼らを描写するジョージにはどんなに細かい微妙な音でも聞き分けることができた。

だが彼が、ジャズやそれ以外のどんなスタイルでも真似できるから、「何でも屋」というわけでは決してない。むしろ多国語を流暢に話すことのできる人のようなもので、言葉の代わりに、スイング、ビバップ、ラテン、クラシックを問わず、彼の想像力を刺激するものなら何でも、自分のピアノの鍵盤にも譜面の上にでもいとも容易に写し取ることができるのだ。

勿論、彼の作曲は、目の見える筆記者に書き取られることが多い。批判的な評論とは逆に、口述筆記されるということに関する贅沢な悩みを、アンサンブルのサウンドに投射してみせるのは、むしろポジティブなことだ。結局のところ、そのクインテットは、ジャズ界にも、一般大衆にとっても、大いなるレコードの遺産をもたらしたのだった。

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ビジネスの成功と真の評価、その間の葛藤を露ほども見せず、至芸を磨いたジョージ・シアリング、あなたはどの時期のシアリングがお好きですか?日曜日にゆっくり鑑賞してくださいね!

楽しいジャズ講座、ぜひお待ちしています!

CU

ルイ・アームストロング -フォーバス知事のもうひとつの寓話

 Jazz Club OverSeasで好評開催中、「映像で辿るジャズの巨人」、秋のプログラムにルイ・アームストロングが登場!
 先日、大学で「マンガ」について講義をしている先輩が嘆くには、まんがを勉強しよういう学生が、あの手塚治虫を知らないのだとか。ジャズの世界でも状況は一緒かも・・・。とはいえ、ルイ・アームストロング(1901-’71)という名前は知らなくても、「この素晴らしき世界」のしわがれ声は知ってるでしょう。ニューオリンズで生まれ、万人が楽しめるジャズを広め、世界中で愛されました。「ジャズの王様」「ミスター・ジャズ」「Pops」「サッチモ」…ニックネームの数もハンパではありません。
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 ハンカチ―フで汗をぬぐいながら、まん丸な目(ポップス)と大きな口(サッチモ)で表情豊かに歌い、笑わせ、圧倒的なトランペットを聴かせる姿は、一度見たら忘れられません。世界中の人々が、ジャズよりもビートルズを愛する時代になっても、「ハロー・ドーリー」はヒットチャートのトップに留まり続けました。
 難しい顔つきで腕組みして聴く難解なジャズとは真逆、楽しい楽しいジャズだ、サッチモだ!その反面「ルイ・アームストロングは楽しいだけの音楽家、昔の音楽構造は単純だし、芸術性は浅いんだ。白人に媚を売るさもしい黒人(アンクル・トム)芸人」などと批判する人もいたらしい。
louis-armstrong-house.jpg 同じように、ルイ・アームストロングはビバップを嫌い、ビバップのジャズメンが彼を過去の遺物としていたというのは全くのデマです! 私が寺井尚之と初めてNYに行った時、勿体なくも、車で観光案内を買って出てくれたのがビバップの巨匠ジミー・ヒース(ts)、愛車Volvoを駆ってまず最初に連れて行ってくれたのがクイーンズにあるルイ・アームストロングの自宅でした。(現在はルイ・アームストロング博物館) この赤レンガ作りの建物の前で、彼がいかに偉大な人間であり芸術家であったか、ディジー・ガレスピーがどれほど彼を尊敬していて、折あればこの家を訪ねたか・・・ということを話してくれました。
<リトルロック発言>
 黒人アーティストの例に漏れず、ルイ・アームストロング自身、人種差別の現実に日々直面していました。世界中どこに行っても外国に行けば、どこでもVIP待遇であったのに
公民権法以前の時代は、母国の超一流ホテルに出演しても、そこに宿泊することはできないし、ツアー中は、トイレを借りるにも苦労していたんです。
 公民権運動を金銭的に支援した黒人アーティストは、デューク・エリントンを始め、数多いですが、歴史上初めて公然と強い発言を行ったのは、なんとルイ・アームストロングなんです。
cn_image.size.poar01_littlerock0709.jpg それは1957年にアーカンソー州のリトルロックという街にあるセントラル高校で起った事件が発端でした。チャーリー・ミンガスの”フォーバス知事の寓話”という曲も、この事件へのプロテストです。南部の諸州は19世紀から、所謂ジム・クロウ法に基づいて人種隔離政策を取っていました。有色人種(日本人も有色人種ですよ)は、白人と公共施設を共有することを禁止するという法律です。病院、学校、ホテル、交通機関から、小さいところはレストラン、トイレ、水飲み場に至るまで。どこでも”Colored”という表示のある場所しか入れないし、人種混合の結婚はもちろん御法度、学校も別々でした。ところが、最高裁は「黒人に白人専用のリトルロック高校への入学を許可する」という画期的な裁定を下し、それに従って9人の黒人学生が登校を試みたのですが、反対派VS賛成派の対立で大騒ぎになります。当時のフォーバス州知事は「暴動を阻止するため」という口実で州軍を派兵、彼らを高校からシャットアウトするという異常な状況が3週間続きました。通学を試みる男女の黒人学生は、毎日怒号を浴びせられ、校門に待機する兵隊に阻止されるという考えられない光景に対して、全米の世論も真っ二つ、アイゼンハウワー大統領は、世論に配慮する形で、当初、不干渉の姿勢を取っていました。
<大統領には意気地がない!>
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 そんなビミョーな状況下、ルイ・アームストロングは、ツアー中に行われた記者会見できっぱり発言!
「南部にいる私の同胞に対する仕打ち、政府は地獄に堕ちて当然だ。」
 おまけに、アイクという愛称で親しまれる大統領を、「意気地なしだ!the President has No guts!」と一刀両断!ジャズに造形深い政治ジャーナリスト、ナット・ヘントフは「ルイ・アームストロングの発言が、全米の一流各紙の一面を飾ったのはこれが初めてだったはず。」と回想しています。
 一黒人芸能人が政府と大統領を批判するとは、なんちゅうことをやってくれたんや!と、ジョー・グレーザーを始めとするアームストロングの事務所は真っ青!なんとか謝罪させて、穏便に済ませようとするのですが、サッチモは頑として意見を撤回することを拒否。それまで、「笑顔が売り物の金持ち芸人」と思い込んでいた世間の度肝を抜きました。
 それどころか、国務省の依頼で親善使節として決まっていたソビエト連邦への楽旅をキャンセルすることによって、政府に抗議したのです。なんたる根性、なんたるガッツだ!そんなことをすれば、どれほどバッシングがあるか、仕事を失うだけでなく、下手したら殺されるかもしれないのに、ルイ・アームストロングは意思貫徹!
LSA-P-LouisArmstrong-mainpic-071511.jpg 彼の発言が世論を後押しする形となり、アイゼンハウアー大統領は、陸軍第101空挺師団を派遣、9名の生徒は空挺師団のエスコートで初登校に成功しました。ただし、この黒人学生たちへのいやがらせはさらに続き、公民権法の成立までは何年もかかります。
 その8年後、キング牧師がアラバマ州で「行進」という平和的デモを行ない、警察の妨害を受けます。コペンハーゲンに楽旅中のルイ・アームストロングは再び名言で援護しました。
「もしもイエス・キリストが黒い肌で行進をなされば、やはり彼らは殴打するのだろうな。」
 笑顔とハンカチがトレードマークの黒い天使、ルイ・アームストロング、彼が勇気ある正義の人であったことは、日本では余り語られていないけど、米国の小学校では、人種統合が行われた60年代から、学校の授業で習うそうです。
オウ、イエ~ズ!

作曲家のキモチ: ベニー・ゴルソン

 暑中お見舞い申し上げます♪
 先週からOverSeasのライブを聴きに来日されていたフィオナさん、寺井尚之の演奏と大阪の街を満喫したウルルンな滞在でした。来日中、寺井尚之のデュオやトリオ、全ライブを心の底から楽しんで、共演ミュージシャン達にも最高の応援をいただきました。
 お忙しい中、はるばる来てくれた彼女にHelloと挨拶に来てくださったお客様、ほんとにありがとうございます。彼女も大喜び!その分別れはさびしかったですね。本日早朝、無事帰国、「夢のような一週間だった」とメッセージを頂きました。私も初めてNYに行った時、トミー・フラナガンやジミー・ヒースといった巨匠の奥さんたちに、たいへんお世話になったので、少しでも同じようにしてあげられたのだったら、最高です。
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 さて、ヘッポコ観光ガイドがお払い箱になり、私も再び日常の業務に。コルトレーン評論家の藤岡靖洋氏とのプロジェクトで、フィラデルフィア時代のジョン・コルトレーンの仲間、ベニー・ゴルソン(ts)の原稿がやっとのことで仕上がりました。ベニー・ゴルソンと面識はありませんが、Five Spot After Darkは高校時代から好きだったし、寺井尚之の愛奏曲も多いし、フラナガン参加の『Blues-Ette』はピアノ教室の必聴盤だし、とても身近な存在です。藤岡氏も何度かインタビューをされていますが、書物やネット上にも膨大な肉声の証言があるので、それらを網羅するのに時間がかかりました。とはいえ、ゴルソンは、演奏に負けないほど話が上手く、どれもこれも面白くてためになるものばかり!それにゴルソンを調べ始めたら、DVD講座でも登場する機会が多くなり、寺井尚之の解説が大変役立ちました。
 明日の「映像で辿るジャズの巨人」ジャズ・ドキュメンタリー、A Great Day Harlem でもベニー・ゴルソンの証言が沢山登場しますから、ぜひチェックしてみてくださいね。ゴルソンは、ホレス・シルヴァーとのトーク場面の冒頭に、こんな面白い話をしています。
 「僕は、よく名曲を作曲する夢を見るんだ。だが翌朝目覚めると、どんな曲だったかすっかり忘れてる。でも或る夜、そんな夢を見た途端に目が覚めた。それで、夜中に慌てて五線紙に走り書きして、それかたまた寝たんだ。次の朝一番に、その曲を弾いてみたら、何となくどこかで聞いたことがあるなと思って…よく考えてみたら”スターダスト”だったよ・・・(笑)」
front1041.jpg “アイ・リメンバー・クリフォード” ”アウト・オブ・ザ・パスト” ”ウィスパー・ノット” ”ステイブルメイツ”…ゴルソンの曲は、どれもメロディが覚えやすいし、口づさみ易い。ところが、長調なのにマイナー・コードから始まったり、基本的な和声進行のルールとは違うものが多いし、コーラスのサイズも変則的なものが多いのですが、聴き手にはとても自然に響きます。
 ゴルソン自身、作曲するうえで一番の基本は和声でなく「メロディ」と言い切っているのも、なるほどと頷けますし、実際に歌詞が付いて沢山の歌手に歌われている曲もあります。
 例えば“アイ・リメンバー・クリフォード”は、ジョン・ヘンドリクスが歌詞を後付して、ダイナ・ワシントンやヘレン・メリル、それにイタリアの歌手、リリアン・テリーがフラナガンの名演と共に録音していますよね。Whisper Notは大評論家レナード・フェザーが歌詞を後付けし、メル・トーメ、アニタ・オデイ、エラ・フィッツジェラルド達が名唱を残しています。この2曲はゴルソン自身が歌詞を付けることを承諾したのですが、基本的に自分の曲に歌詞は不要という主義。『Freddie Hubbard & Benny Golson』の中のドラマチックな作品”Sad to Say”は、大歌手トニー・ベネットが、あの有名なビル・エヴァンスとのデュオ・アルバムを録音する際に「歌詞を付けて歌いたい」と頼んだそうですが、「エヴァンスはイメージに合わん!」と一蹴したそうです。
 それどころか、男性ジャズ・ヴォーカリスト、ケヴィン・マホガニーが”ファイブ・スポット・アフター・ダーク”に無断で歌詞を付けて録音したときには、出来上がったCDを市場から回収させたというから、ハンパじゃありません。トミー・フラナガンもそうでしたが、納得のいかないことは絶対に許さないというのがハード・バッパーなんですね。
 すでに芸術として完結している作品には、余計な付属品は不要なのでしょう。ゴルソンは自作以外のジャズのオリジナルに歌詞がついたのも好きじゃないし、何よりも嫌いなのは、ジャズのアドリブに歌詞を付けるヴォーカリーズなんだそうです。
 とにかく、「向こうは歌詞をつけて歌ってもらって名誉なことだろ。」と言う人も多いけど、ゴルソン自身はまっぴらごめん。熟年になってからは、どうしても必要ならと、自分で作詞作曲しています。
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 というわけで、明日の「映像で辿るジャズの巨人:A Great Day In Harlem」は真夏のハーレムで撮影されたジャズメンの写真を基に作られたとても面白いドキュメンタリー!ぜひお越しください!
 おすすめ料理は「ビーフのパイ包み焼」です!CU

Rahsaan Roland Kirk ローランド・カーク (1936-77)

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 猛暑到来!どんなに暑くても、若いときは街歩き大好きだったのですが、今はとにかく時間が取れません。来週はオーストラリアから、寺井尚之ファン、Fionaさんが遠路はるばる来られるので、今日は観光案内の下見にミナミの街へ行って来ました。
 「かに道楽」や「グリコ」、パチンコ屋さんの喧騒や、食べ物の香り一杯のコテコテで暑いナニワの繁華街には、ローランド・カークの「カッコーのセレナーデ」が似合うなあ・・・
 というわけで、8月5日(日)正午より、「映像で観るジャズの巨人」DVD講座にローランド・カーク (Rahsaan Roland Kirk)登場!
 若いファンのみなさんは、ローランド・カークなんて言っても知らないかも・・・沢山の楽器をガブっとくわえる上の写真を観て「アクロバットか」と横向く人、ちょっと待って!ローランド・カークは、正真正銘、本物のメインストリームです。そんな方こそ、ぜひ8月5日に来てくださいね。
<マルチ・リード>
 カークは1936年8月7日、オハイオ州コロンバスの蒸し暑い夏の日に生まれました。2歳の時に失明、盲学校でトランペットを習得し、15歳ですでに2管の楽器を同時に演奏する技を会得していたといいます。
rahsaan-roland-kirk-1-lee-santa.jpg カークの演奏楽器は多種多様!テナーサックス、クラリネット、フルート(鼻で吹くときも)、そして、トランペットにサックスのリードを付けたものや、マンゼロ、ストリッチというカークのオリジナル・ホーンがあります。
 左のモノクロ写真で左端のホーンが「Manzello(マンゼロ)」、真ん中の長いのが「Stritch (ストリッチ)」と言う楽器で、どちらもカークが名付けた名前です。前者は H. N. White 社製のサクセロというB♭のソプラノサックスに、メロフォンという金管楽器のベルを付けたもの。後者は、ブッシャー社製の直管のアルトサックスのキーを改造して片手で演奏できるようにしたものです。
 盲目のカークが、一体どうやって、いろんな楽器を開発したかというと、NYロウワーイーストサイドに馴染みの質屋があって、質流れ品の楽器で気に入ったものを、更にカスタマイズして使ったのだそうです。その他にも「サウンドツリー」と名付けられたスタンドには、ゴングやベル、タンバリンといった小道具が色々つりさげられて、その都度必要に応じて使ってました。
 ロータリー式呼吸法を駆使し、ノンストップで、複数の楽器を演奏するというと、「体力勝負」のサーカスと思われるかも知れませんが、キーの異なる楽器でハーモニーやリフを付けて演奏するには、それ以上に大脳を駆使しなければなりません。まして、そのプレイがソウルフルで、即興演奏をガンガン聴かせるのですから、カークが多くのミュージシャンに尊敬され、愛されるのは当然!子供の頃にNHKの音楽番組で観た
カークはほんとにカッコイイ!と思いました。その迫力は、カークがNYに出てきたとき、まっさきに起用した恩人、チャーリー・ミンガスや、ミンガス一派のジョージ・アダムス&ドン・プーレンのバンドに通じるものがあります。
<ライブの迫力!>
vanguardgordon_MED.jpg ヴィレッジ・ヴァンガードの店主、故マックス・ゴードンの回想記”Live at the Village Vanguard”を読むと、カークはヴィレッジ・ヴァンガードに出演するのが好きで、年間3-4週間は演奏していたと言い、いかにもNYっぽいライブの様子がリアルに描かれています。
 「ラシャーンは黒いベレー帽とサングラス姿で杖を持っていたが、不思議なことに、ヴァンガードの店内のトイレも電話もバーも、全てどこにあるのか判っていて、狭いテーブルの間をかいくぐって辿りつくことが出来た。」
 「彼は、自分を聴きに来るファンのことを”信者(believer)”と呼び、たまに”不信心者(Unbeliever)”が客席にいるのを感知すると、間違いなくその席に降りて行き、そのお客の首根っこを摑まえて追い出した。」
 「興が乗ると、カデンツァにクラリネットで”聖者の行進”を吹きながら、客席に下りて行進し、そのままドアを開け、地下から上に上がり、再び吹きながら戻ってくるのだった。」

<輝く星>
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 カークは、夢のお告げで本名のRonaldのNとLを入れ替え、アラビア語で「輝く星」を意味する”Rahsaan”を冠しました。
 沢山の楽器を持つ姿はなかなかヤヤコシイ感じがしますが、気性はまっすぐ!歯に衣着ぬ弁論家で、サックスにエレキを使ったり、ロックやフュージョン(’70s当時はクロスオーバー)に走るミュージシャンたちを、はっきりと一刀両断にバッサリ切り捨てています。
 僅か41歳という短い一生で、幼い時に失明、晩年は脳溢血で右半身付随という不幸に見舞われましたが、それでもテナーサックスを改造し、片手で演奏活動を続けた「輝く星」ローランド・カーク!偉大なジャズ・ミュージシャンに乾杯!
 「オースティン・パワーズ・デラックス」しか知らない皆さん、ぜひ一緒にDVD観ながらランチして、寺井尚之の解説を聴いてみてください!講座のサイトはこちらです。
<映像で辿るジャズの巨人>
8/5(日) 正午- 2pm 「 マルチリードの醍醐味!Rahsaan” Roland Kirk」
受講料 2,625yen (要予約)

CU

マリリンはエラ・フィッツジェラルドがお好き

 あっと言う間に5月も終盤、6月2日は、寺井尚之プロ入りのきっかけとなった、エラ・フィッツジェラルド&トミー・フラナガン3の京都公演(’75)を聴く秘蔵音源講座を開催します。毎月第2(土)の定例「トミー・フラナガンの足跡を辿る」でも、6月&7月は『Ella in Japan』が登場するので、卒業気分になっていた「対訳」作りにアタフタ。エラの歌を聞き取りしてると、体がスイングして止まりません!皆さま、いかがお過ごしですか?
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「マリリン・モンローには大きな借りがあります…」:エラ・フィッツジェラルド ”女性誌 MS magazine 1972年 8月号掲載”
 エラの画像検索をしていたら、こんな2ショットが!太目の自分を歌の中で笑い飛ばすエラさんとブロンドのセックス・シンボルが親しげにおしゃべり中。エラを聴いたことがない人がいるとしても、マリリン・モンローの妖艶なショットを観たことのない人は多分いないでしょう。実は、モンローは知る人ぞ知るジャズ・ファン!NYに滞在すると、ウォルドルフ・アストリアに宿泊し、夜はジャズ・クラブに入り浸っていたそうです。中でも彼女のお気に入りはエラ・フィッツジェラルド、「お熱いのがお好き」での名唱も、ジャズファンならではのものだったのかも知れません。
 先日、コルトレーン研究家の藤岡靖洋氏がNYで入手されたノーマン・グランツ(エラ・フィッツジェラルドのマネージャー)の伝記を差し入れしてくださったおかげで、エラ&モンローについて、かなり詳しいことが判りました。藤岡先生にオオキニです。
<同志愛>
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 銀幕のモンローは「ちょっと脳みその足りない肉弾ブロンド美女」、愛くるしい美貌とグラマーな肢体、私生活ではケネディ大統領や、野球の名選手、ジョー・ディマジオなどなど歴史に残る人物との幾多のロマンス、睡眠薬の常用、謎めいた死など、何もかもが神話的!でも、実際はNYの名門アクターズ・スクールで学んだ知的な女性、普段は余りにも地味で、マリリン・モンローだと判らないほどだった。多分、繊細でありながら筋の通った姐さんだったんでしょう。
 前にも書いたけど、私はビリー・ワイルダー監督の名言が忘れられません。
「モンローの凄さはオッパイではない。耳だ!彼女は話の達人だ。誰よりもコメディを読み取る力がある」 
 聞き上手でコメディの理解が深い!だから、エラ・フィッツジェラルドが好きだったのかもしれないな。モンローもエラも、幼い時から不遇だった。どん底から一流にのし上がった苦労を味わった者同志、姉妹のような気持ちがあったのかもしれません。
<高級クラブ”モカンボ”の人種隔離主義>
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 時は1956年、にノーマン・グランツがマネージメントを始めたエラ・フィッツジェラルドはジャズ界では十分にトップスターでした。そんな彼女の行く手に立ちはだかったのは「人種の壁」、当時の超一流のクラブは「人種隔離主義」と「格式」が同義で、お客様も出演者も白人以外お断りだったんです。中でも「ナイトクラブの中のナイトクラブ」と謳われた店が、LAのサンセット大通りにある「モカンボ」というクラブ。ハンフリー・ボガートやクラーク・ゲーブルなど常連客はハリウッドのセレブや億万長者、出演者はボブ・ホープやダイナ・ショア、エディット・ピアフと、アメリカ人でなくても白人ばかり、豪華なダンスホールの装飾は、サルバトーレ・ダリが手掛けるという桁違いの高級店でした。
bogart-bacall-mocambo.jpg その店にエラ・フィッツジェラルドが出演すれば大きな飛躍になる。「私がひと肌脱いであげる!」と、言ったかどうかは知りませんが、モンローは、「モカンボ」のオーナー、チャーリー・モリソンに何度も直接電話して出演を掛け合います。さすがのモンローでも、良い返事はもらえません。そこで、Something’s Gotta Give!(うまく行くには、身を切って何かを与えなくちゃ)と、映画のタイトル通り、ある条件を提示します。
 「エラをブッキングしてくれたら、私はその間、毎日最前列にテーブルを予約するわよ。」マリリン・モンローが来店を予告すれば、ファンもパパラッチも集まって、大入り満員間違いなし!とんとん拍子に、エラ・フィッツジェラルドの一枚看板で2週間の出演が決まり、マスコミは大騒ぎ!
 マリリン・モンローは初日には、黒人スター、ナット・キング・コールと、アーサー・キットを同伴してご来店!映画の撮影時間は遅刻の常習者で悪名高いモンローが約束通り、毎日エラを聴きに通ってきました。
 エラ・フィッツジェラルドの歌唱とモンローの応援のおかげで、当初2週間だった出演は3週間に延長され、この話題を受けて、それまでジャズに興味を示さなかった西海岸の一流店がこぞってエラの公演を依頼し始めたといいます。マリリン・モンローの快挙を受け、ラスベガスの白人専用カジノにエラが出演した時には、リベラルな気風を持つ大女優、マレーネ・ディートリッヒが、黒人スターのレナ・ホーンとパール・ベイリーと三人で腕を組んでご来店!「ガーシュイン・ソング・ブック」のリリースと相まって、エラのステイタスはゆるぎないものになったんです。
<マリリン・モンローという女性>
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 というわけで、アメリカのセックス・シンボル、マリリン・モンローの意外な一面は、21世紀になってから、”Marilyn and Ella”という舞台劇になってロンドンで上演されました。
 マリリン・モンローは、公民権運動にも大きな支援をしているし、撮影中に左翼的な本を読んでいて監督に注意されたこともあったほどでした。共産党員であったイヴ・モンタンとのロマンスや、彼女の死因も、あれこれ考えると妄想の種は尽きません。
 映画史上最高のコメディエンヌ、マリリン・モンローに乾杯!また「お熱いのがお好き」を観なくちゃ!
 そして、OverSeasにもご来店お願いします!Something’s Gotta Give!ですよ!

セロニアス・モンクの真実

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 子供の時、NHKの音楽番組で観たセロニアス・モンクの衝撃は忘れません!人里離れた山奥に住む仙人がチャイナ帽とメガネをかけてる!コワイ顔つきで「ど・れ・に・しようかな…?」と逡巡するように鍵盤を叩く様子は、それまで観たリヒテルやアシュケナージと全く違う世界。見た目もサウンドもなんかカッコイイ!”Blue Monk”演奏後のインタビューで発した言葉。「私は常に鍵盤にない音を模索しています。」ゲージュツ家や!子供をジャズの世界に引っ張り込むのに充分な殺し文句でした。
 セロニアス・モンクが、警察署長という黒人エリートの息子として生まれ、6歳でピアノを始めたハーレム・ストライドの達人であり、ショパンやラフマニノフを演奏した人であったこと。先日の芸術史をしっかり踏まえたうえで、従来の音楽理論を革新した人であったと知るのは、それから何年も経ってからでした。
<虚像×実像=リアリティ>
picture-10.pngニカ男爵夫人とモンク
 セロニアス・モンクの奇行は、自分の音楽をアピールするためのパフォーマンス、そして自己武装の鎧として始まったものだった。ファッションや言動を含め、全てをアートにしてしまう、ヴィジュアル系アーティストの先駆者であったのかも知れません。でも、モンクには、レデイ・ガガのようなイメージ戦略チームもなく、マイルス・デイヴィズを大きくした石岡瑛子のようなアート・ディレクターも雇わず、全てを自分でプロデュースした。
monk200305_033b_depth1.jpg 世俗を超越したポーズとは裏腹に、モンクには、妙に人間臭い、というか「カワイイ」エピソードが多い。例えば、エスカイヤ・マガジンの歴史的記念写真、”A Day in Harlem“(’58)の撮影時、「大人数の中、どんな服を着れば一番目立つか?」と、迎えの車を待たせ、衣装選びに延々と時間をかけたとか・・・
 インタビュー中、トイレに行って帰って来なかったり、意味不明の言葉を吐く一方、大尊敬している巨匠たち、デューク・エリントンやコールマン・ホーキンスの前では、常識ある一般人として丁寧に会話をしていたと、エディ・ロックたち、ジャズ・ミュージシャンは証言しています。
 ディジー・ガレスピーと
 やがて、モンクは、自由でいるために身に付けた鎧に囚われてしまう。最後には精神を病み引退。それは彼の最愛の弟子、自分の作品の「理想の演奏者」であったバド・パウエルを失ったためだったのでしょうか?パウエルが脳を病んだのが、モンクをかばい警官に殴打されたためだったのでしょうか?あるいは、自分が成し遂げた革命的音楽理論が足かせになり、袋小路に突き当たってしまったせいなのか?色んな伝記や資料を読んでも、その辺りは亡羊としてはっきりしません。
monk_nellie_trane.jpgネリー夫人、ジョン・コルトレーンと。モンクはコルトレーンにとって、多くのことを隅々まで懇切丁寧に教えてくれる師匠だった。
 モンクに寄り添い、彼を最もよく理解した人たち、妻のネリーや、守護神パノニカ夫人、以心伝心の完璧な共演者であったチャーリー・ラウズ、みんなモンクの秘密を持ったまま、お墓に入ってしまいました。
 自由に成るために創造したものによって潰される、まるでギリシャ悲劇のように、抗いがたい宿命が恐ろしくもあります。
 最近話題のジャズ本、”バット・ビューティフル”(ジェフ・ダイヤー著、村上春樹訳)、ハルキストのドラマー、河原達人さんは、「もしセロニアス・モンクが橋を造っていたら」という章がとても気に入ったそうです。この本が、これまた虚実混合であることも象徴的なのかも知れません。
 虚実を併せた矛盾の中にモンク・ミュージックの真実があるということ、日曜日にOverSeasで開催する「映像で辿るジャズの巨人」で、寺井尚之の解説を聞きながら、セロニアス・モンクの黄金カルテットの演奏をご覧になると、より実感されると思います。
 日曜のお昼、よかったらぜひご一緒にDVDを見ませんか?
<映像で観るジャズの巨人達>
【日時】2月5日(日)12pm~2:30pm (開場 11:30am)
【会場】Jazz Club OverSeas E-mail : info@jazzclub-overseas.com 

CU

ジョージ・ムラーツ後日談

 大阪は久しぶりの雨模様、先週「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で”Here’s That Rainy Day”を聴きました。この歌の中の「雨の日」は、「まさかあるまいと思っていた不幸」を表現する決まり文句ですが、今日の雨はカラカラに乾燥しているこの季節への恵みの雨!OverSeasも加湿器2台フル稼働中でした。
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 さて、先週ジョージ・ムラーツさんのベース嫁入りのご報告をした直後、兄さんから新しいオーナーに宛てた手書きの礼状が届きました。
 ジョージ・ムラーツの1コーラスソロのように、達筆で心の籠った文章には、謝辞とともに、このドイツ製のベースをどれほど気に入っていたかということが書かれていました。
 手紙によると、そのベースは、歴代チェコ大統領が主催するプラハ城のコンサートで、必ず使っていたものでした。
Vaclav-Havel-Smiling-New_Yorker.jpg 民主化以降、チェコスロバキアとチェコ共和国の初代大統領を歴任、同時に世界的な劇作家であったヴァーツラフ・ハヴェル前大統領は、チェコ民主化の象徴、左写真のように、ブラピを超知的にしたようなイイ男、チェコの政治と文芸、両方のヒーローです。共産政権下は、文人カフェで芝居をしながらバーテン稼業、同じ店でムラーツが演奏していたという若い頃からの飲み友達でした。
 ハベル前大統領のジャズ好きは有名で、ビル・クリントンが米大統領としてチェコを訪問した時はサックスをプレゼントし、一緒にジャズ・ライブを楽しんだとか。
praha_castle.jpg 現在のクラウス大統領は、自らピアノをたしなむジャズ・ファンです。大統領府のプラハ城で「Jazz na Hradě (ジャズ アット プラハ城)」と銘打つ定期コンサートを開催し、内外の一流ミュージシャンを招き、自らMCを務めるという徹底ぶりです。
 このベースが最後に出演したコンサートは、このプラハ城、共演者はハンク・ジョーンズ(p)でした。
 ナチスやソ連占領など、古代から歴史的苦難の多いチェコの人々にとってジャズは、自由と民主主義の象徴!
 日本にやってきたベースは、民主化政権の拠点であるプラハ城でスイングしながら、「自由」の幸せ聴衆と共に謳歌した由緒正しい名器だったのです。
 1800年代にドイツで製造されたこの楽器は、いわゆる「オールド」と呼ばれるものですが、名工房のラベルはありません。でも、巨匠ムラーツが何千というベースから選び抜き、長らく愛奏することによって、その体を余すところなく震わせて演奏者に応える楽器になったのです。そして、ピアノにせよベースにせよ、木でできた楽器には魂が宿ります。
 素晴らしい演奏者に心をこめて演奏されると楽器の魂が輝きます。OverSeasでトミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナが演奏した後は、ピアノのサウンドが輝きを増し、ものすごく良く鳴ります。寺井尚之も調律の川端さんもそれを「奇跡」と言います。「ピアノが喜んでいる」としか思えない音色になるんです。逆もまた真なり。大切にすればするほど、楽器の情が深くなり、喜んだり悲しんだりするものです。
george_mraz_04_milano2008.jpg ムラーツが故国のお城で演奏する喜び、歴代大統領の感慨、一般市民の楽しさがこもった楽器、今回の嫁入り騒動中、実は嫁入り先を日本に決めたは、ムラーツ兄さんではなくて、この楽器自身だったのでは・・・と思ったこともありました。
 新しいベースのオーナーは、何よりもまずムラーツが大好き、これからはムラーツ以上に愛し続けてくれることでしょう。彼は現在、彼女の類い稀なサウンドバランスに惚れ惚れしている様子です。
 素晴らしいマッチング、ジョージ・ムラーツも3月にNYでカムバックが決まっています。きっと来日して、このベースに再会する日が来ることでしょう。
どうぞ末永くお幸せに!
CU

ジョージ・ムラーツ、ベースの嫁入りとカムバックのご報告

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  寺井尚之がHP上で告知していたジョージ・ムラーツさんの秘蔵ベースの件、良縁に恵まれ日本に嫁入りが果たされました!
 夏の楽旅で負傷し、高額な治療費用を捻出するために「愛器を日本の方に」と願ったムラーツさん、その願いをブログやTwitterやフェイスブック…様々な伝達方法でお声掛けくださった皆様、ご心配やお見舞いメールを下さったファンの皆様、本当にありがとうございました。ムラーツさん共々、心より感謝しています。数か月に渡りご心配をおかけしましたが、やっと良縁が決まりました。嫁ぎ先は、神奈川県在住のベーシスト。ムラーツの音楽をこよなく愛し、クラシックとジャズの両方で活躍されている心優しいサムライです。
 12月中旬にトントン拍子に話がまとまり、これでOverSeasのミッション完了!と喜んだのですが、ムラーツ兄さんから、運送&支払完了まで、引き続き言葉の面倒を見るように指令が来て、それからが大変!
mraz_terai.jpg まず、運送を安全かつ経済的に行う為には、空輸とハードケースと保険が大前提ということになりました。当初のプランは、NYでムラーツが持っている上等のハードケースを一旦自費でプラハに送り、梱包するというものでしたが、なにせミイラの棺桶!空輸なら大変なコスト、船便なら大変な時間のロスがあることを認識。現地で中古ケースの調達を試みたものの、頼みにしていたプラハの友人ベーシストはあいにくツアー中。
 また運賃は、個人で運送業者に依頼すると、法外な金額になることが判明。買い手の方に負担をかけぬよう、これもジョージ・ムラーツが色々苦心して、チェコの友人の会社に代行してもらうことにしました。ハードケースを捜したり、万全の保険の手配をしたり、普段の楽旅ならすべてのアレンジはプロモーターにまかせっきりのベースの巨匠が、一人で手配するのはさぞ大変だったでしょう。
 慌てふためくうちに、チェコ民主化のシンボル、ハベル元大統領(ムラーツの友人です。)が逝去され、チェコ全国民が喪に服することになり、クリスマスの長期休暇を目前に、銀行も会社も業務がストップしてしまったんです。このまま新年まで街は休止状態かも…「どないしょう!!」寺井尚之とジョージ・ムラーツ、プラハの関係者、そして買ってくださった方の間でメールや文書のやり取りが続き、まるでタモリの4か国連合麻雀です。
 その時の兄さんの慌て方は、ステージ上のクールな演奏ぶりからは想像もつかないほどでした。NYから夜討ち朝駆けのマシンガン現状報告、長文メールも要約すれば、「俺は一番中起きて頑張ってるのに、段取りがつかん!どないしょう?!」というものだったのですが、結局、私の翻訳作業も24時間体制…。
 でも、ムラーツさんの慌てぶりは、本当にうれしい事でした。なぜなら、予約金のみの受領で楽器を搬出すると固く決めていたのです。「もしも残金が振り込まれなかったら」なんて全く想定せず、新しい持ち主のために、指板もネックも新品に交換して「とにかく年内に届けてあげたい!」と思っていたから焦ったのです。
 言っておきますが、兄さんは、単なるお人よしではありません。チェコの民主化運動に対するソ連の弾圧を潜り抜け、ジャズに命を懸け、すべてを捨てて米国に逃れた人です。ムラーツは、こんなに日本人を信用してくれてるんだ!そう思って、寺井尚之と大喜びしました。後から伺ったのですが、嫁入り先もその気持ちを察し「日本人として恥ずかしくない態度を取らねば!」と肝に銘じたそうです。義侠の兄弟、ジョージ・ムラーツと寺井尚之、ベースのご縁を結んだ方も同じような心根の方だったのが不思議ですね。
 ベースはフランクフルト、パリを経由して1月6日に神奈川に到着!
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 新しいご主人の感想です。
 「オールド・ドイツというよりも外観も音もイタリアンに近いおとなしめの深い鳴りをするベースでした。やはりムラーツ氏の審美眼、好みが反映されているようです。」
 「弾くたびにどんどんとその本領を発揮してきています。なんといっても1から4弦のバランスがすばらしく統一されているので非常に弾きやすい楽器になってきています。
1・2弦がうなる楽器というのは非常に珍しく理想的です。」

 海を越えたベースのお嫁入り、新しいご主人も、ムラーツさんも、本当に良かったです!
324_georgemraz.jpg<ジョージ・ムラーツのカムバックが決まりました!>
 そして、もう一つGOOD NEWS!ジョージ・ムラーツのカムバックが3月に決まりました!
 丁度、一昨日VISAの手続きで帰国しているジョージ・ムラーツの弟子&アシスタント、石川翔太君によれば、ムラーツは順調にリハビリを続け、傍目には普通通り楽器を触れる程度まで回復しているそうです。
 3月23、24日の二日間、NYリンカーンセンターのアレン・ルームで開催される、偉大なるテナー奏者たちに因んだ特別コンサート”The Music of the Tenor Masters”に出演が決まりました。メンバーはジョー・ロバーノ、ベニー・マウピン(ts)、ケニー・バロン(p)、ルイス・ナッシュ(ds)とムラーツ。
 地元NYのこじんまりした会場で、なおかつ一流の演奏場所ですからカムバックには最適ですね。地元のみなさんは、ぜひ応援に行ってください!
 石川翔太君は昨日OverSeasでプレイしましたが、ムラーツの弟子は肩書きだけではありません!驚くほど沢山のことを師匠から吸収しているのがわかりました。石川君は未来のジャズ界を背負って立てる逸材です!
 約一か月の日本滞在中、元師匠の鷲見和広、先輩の宮本在浩など、皆に会いに時々遊びに来るそうですから、ぜひ聴いてみてくださいね!
 ジョージ・ムラーツさんにも、皆さまにも、今年はずっと良い年になりますように!
 寺井尚之からのご報告は、土曜日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で改めて。
CU

コルトレーン クロニクル 写真で辿る生涯

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コルトレーン・クロニクル / 写真でたどる生涯
藤岡靖洋 (著) / 菊田有一 (編集) DU BOOKS刊 ¥3.800

 皆さんはジャズ・フォトグラフィーはお好きですか?
 私が著作のお手伝いをしている世界的ジョン・コルトレーン研究家&コレクター、Mr. Fujiこと藤岡靖洋氏は、写真蒐集もハンパでなく、チャック・スチュワートやフランシス・ウルフなど著名写真家の名作から、ジャズメンが個人的に所蔵しているスナップまで、途方もない資金をつぎ込んだ膨大なコレクションをお持ちです。今回、貴重なコレクションから、藤岡さん自身が選りすぐった200点余りの作品が一冊の本になりました。
 題して『コルトレーン・クロニクル 写真で辿る生涯』
 紙も印刷もいかにも上等!さしずめNYならパークAve.の、ちょっと気取ったリッツォーリ書店に並べれば似合いそうな豪華本、でも豪華なだけではありません。コルトレーンの40年余りの生涯を目で辿れば、ジャズ界の移り変わりが一目瞭然!コンサートのチラシや、チケットなどがさり気なく挟まれ、何でもかんでもスクラップしていた子供の頃の楽しさと、シリアスなドキュメンタリーの視線が同居していて、コルトレーン・ファンでなくとも、ページをめくるのが楽しい本になっています。
 小学校のクラス写真から始まり、ディジー・ガレスピー楽団でのアルト奏者時代、チャーリー・パーカー、マイルズ・デイヴィス、キャノンボール・アダレイなどジャズ史を彩ったスターたちとの共演ショット、代表アルバムの録音風景、プレイバックに耳を傾ける少し疲れた顔にも、深い味わいがありますね。世界初公開という貴重なショットにびっくりしたり、お馴染みのチャック・スチュワート作品は、印刷画質の素晴らしさで、新しい印象を受けました。年を経て変わる面構えと眼光は、コルトレーンが背負っているものも、時代と共に変化していることを教えてくれます。
 レイアウトやキャプションなど細部まで凝った仕上げは編集のおかげかな?藤岡さんとチームを組む編集者は素晴らしい方ばかりと、つくづく感じました。
 ベストセラー、「ジャズの殉教者」(岩波新書)を読まれた方は、見覚えのある写真も改めてクリアに観れるので、楽しさ倍増でしょうね。
 岩波新書「ジャズの殉教者」では、コルトレーンが小学生のときに作った「黒人の歴史」というスクラップ・ブックのことが書かれていました。私はラッキーなことに、そのコピーを閲覧させていただいたことがあります。かつて奴隷であった自分達の歴史から始まり、その当時、様々な分野で活躍していた黒人のヒーローたちを、写真や新聞記事の切り抜きと手書きの解説で、語っていくという、それは素敵なものでした。『コルトレーン・クロニクル』に一貫して漂う少年の視線は、このスクラップ・ブックと不思議に似通っています。
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 『コルトレーン クロニクル 写真で辿る生涯』は、NYのディックス・ヒルズにあるコルトレーン・ホーム記念館のオフィシャルブックに指定されるそうです。
 こんな豪華な本を、たった3,800円という値段で出版してくださったDU BOOKSに感謝!全部売れても赤字らしい・・・
 藤岡さんの言葉を借りるなら、「こんな贅沢なもん、買わな損でっせ!」
 お求めは書店のほかディスクユニオンさん澤野工房さんなどで。
 OverSeasでも閲覧できますのでぜひどうぞ!
CU