11月16日(土)はトミー・フラナガンの命日!OverSeasでは、寺井尚之(p)が宮本在浩(b)、菅一平(ds)を擁するトリオ、The Mainstemで、在りし日の名演目を演奏するトリビュート・コンサートを開催!ぜひこの機会に、Jazz Club OverSeasにお越しください。
フラナガンが亡くなって12年!現在もフラナガンの音楽に親しむ常連様から、トリビュート・コンサートに先駆けて、聴きたい演目の「総選挙」をしてはどうか?というご提案をいただきました。「総選挙」の体制が整うように、当ブログで演目のご紹介をしていきたいと思います。今日は、フラナガンがよくラスト・チューンとして愛奏した”Tin Tin Deo (ティン・ティン・デオ)”のお話を!
<アフリカ発~キューバ経由~USA着>
寺井尚之が初めてトミー・フラナガン・トリオの”Tin Tin Deo”を聴いたのは今から25年前の“ヴィレッジ・ヴァンガード”。むせ返るようなラテンの土臭さと都会的な洗練美が同居する演奏に大きな衝撃を受けました。作曲はChano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespieと3人の連名、1951年にディジー・ガレスピー楽団がデトロイトでレコーディング。フラナガンの親友、当時19才のケニー・バレル(g)が録音に参加しています。
フラナガン自身のレコーディングは1993年ですが、亡くなるまで演奏ヴァージョンはどんどん進化していきました。トリビュート・コンサートでは、その中でも最高のアレンジメントでお聴かせします。
ビバップの生みの親、ディジー・ガレスピーは、キューバ出身のコンガ奏者、チャノ・ポソとの出会いで、アフロ・キューバン・ジャズという新しいスタイルを創造しました。それまでにも、ルンバやマンボは、ダンス音楽として米国で人気がありましたが、ガレスピーとポソの音楽は、Slave Christianityと呼ばれるアフリカの土着信仰とキリスト教が融合した宗教的なルーツを持っていました。
<暴力と神:チャノ・ポソの凄絶な生涯>
(Chano Pozo 1915 – 1948)
ハヴァナ生まれのチャノ・ポソはアフリカから連れて来られた奴隷の子孫で、元は奴隷の居住地だっ
たスラム育ち、小学校中退で札付きの不良でした。13才で少年院に送られ、そこで打楽器と宗教に目覚めます。スペイン統治時代、キューバの奴隷たちは、強制的にキリスト教に改宗させられたために、自分たちのアフリカの神々を、ローマン・カトリックの聖人になぞらえて信仰する「サンテリア」という宗教が生まれたんです。サンテリア教で打楽器は神々と人間を結ぶ重要な役割を果たすもので、それぞれの神々に一定のドラム・パターンがあり、打楽器と歌とダンスによってトランス状態になりながら神々と交信する宗教儀式が行われました。ポソは、そのような宗教的なミュージシャンだったんです。
でも、ポソは決して清廉な宗教音楽家ではなかった。少年院からシャバに出た後は、靴磨きからボディガードまで、様々な職を転々としながら、ミュージシャンとして有名になり、作曲も行うようになりました。NYのラテン系ミュージシャンの間で、ポソの評判はとても悪かったそうです。呑む、打つ、買うの三拍子、派手に遊んだポソの音楽が、世俗的なものではなく、逆に深く宗教に根ざしているのが面白いですね。倫理的、哲学的な「宗教」というより、むしろ「まじない」と考えた方が判りやすいのかも知れませんね。
1942年、マチートがポソの作品を録音したことで、NY在住のラテン系ミュージシャンの間でポソの名前が知られ、1946年渡米、翌1947年9月、ディジー・ガレスピー楽団に参加。12月のカーネギー・ホールで行われた楽団のコンサートは大好評でアフロ・キューバン・ジャズという新しいジャンルの到来に湧き、ヨーロッパでも絶賛されました。
その僅か1年後、12月3日の午後、ポソは粗悪なマリワナを売りつけられた腹いせに、同胞キューバのヤクの売人を殴り倒し、その日の夜、バーから出たところを、その売人が倍返しと射殺。34歳の誕生日を迎える一ヶ月前のあっけない最期でした。
<ディジー・ガレスピーの吸収力>
Dizzy Gillespie playing with the Giants of Jazz, Hamburg, Germamy, 1973 (Photo credit: Wikipedia)
チャーリー・パーカーにせよ、ポソにせよ、ディジー・ガレスピーは短命な盟友達から新しい音楽のエ
ッセンスを貪欲に取り込んで、仲間のミュージシャンを指導してジャズ史を発展させて行ったというのが凄い。ポソは英語も読み書きもだめで、楽団のミュージシャンと決して良好な関係は築けなかった。ガレスピーが優れた統率力で団員をまとめ、僅か一年余りの共演期間中、できる限りポソに寄り添い、「サンテリア」の各々の神にまつわる「クラーヴェ」というリズム・パターンを吸収していきました。ポソの伝える複雑なリズムや哀愁に満ちたメロディーは、ガレスピーにとってエキゾチックなものというよりは自身のルーツへの道案内だったのかも知れません。彼の持つアフリカ土着の音楽言語をビバップの洗練された文体に取り込んだものが、この”Tin Tin Deo”であり、 “Manteca”であり、いかにも『チャント:お経』の趣がある”Cubana Be, Cubana Bop” (作曲はジョージ・ラッセル名義)です。サルサを始め、NYという水に洗われたラテン音楽の中でも、ガレスピーとポソが創ったアフロ・キューバン・ジャズは独特の香りがあります。
<トミー・フラナガンのヴァージョン>
後年、ディジー・ガレスピーはキューバのミュージシャンを米国に受け入れる支援をし、オール・スター・バンドとしてアフロ・キューバン・ジャズを披露していましたが、ポソが在籍していた頃の土臭さが時代とともに薄まって行ったように感じます。それでは、フラナガンのヴァージョンは当時のアフロ・キューバンの再現かというと決してそうではないんです。
ビッグ・バンドの演目をピアノ・トリオに置き換えて本来のダイナムズムを失わないというのは大変な作業ですが、それこそフラナガンの得意技!キューバ音楽の特徴であるコール&リスポンスを、ピアノとドラムの掛け合いに生かしてイントロにし、名ドライバーがシフトチェンジとクラッチワークで、走りを自在にコントロールする如く、ラテン・リズムと4ビート、倍ノリ、4倍ノリと、変幻自在のグルーヴ変化、そして印象的なリフ、黒人ピアニストの伝統的な10thボイシングの奥行きで、強烈なダイナミズムを描出!洗練されて、一層鮮やかな仕上がりですが、日本料理のように素材本来の持ち味はは損なわれていないんです。
そんなTin Tin Deo、フラナガンの名演目ってこんなだったのか!と思わせる演奏を11月のトリビュート・コンサートでお楽しみください!