’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(3)

 朝鮮戦争から故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード・イン》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。そこは 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

<ブルーバード・イン>

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《ブルーバード・イン》、デトロイトの史跡として保存を望む声もありますが今は廃墟に…

  フラナガンは《ブルーバード・イン》を懐かしむ。「もう閉店しています。あんなクラブは、国中探してもないでしょう。NYでさえ、見たことがありません。地元愛と同時に、ジャズクラブには不可欠な支援や応援がありました。デトロイトの至るところからジャズ・ファンが集まってきました。出演バンドも素晴らしかった。サドとエルビンのジョーンズ兄弟、それにベーシストはジェームズ・リチャードソン(カウント・ベイシー楽団に在籍したベーシスト、ロドニー・リチャードソンの兄弟)でした。

  《ブルーバード》では、我々バンドの演りたい音楽を演奏することができて、お客もそれを気にいってくれました。客入りも良かったし、バンドとしての一体感が高まって行くことを実感しました。サドとビリー(ミッチェル)は、当時すでに自分の演奏スタイルを確立していたと思います。エルヴィンのプレイも、今とさほどかけ離れたものではなかった。エルヴィンはバンドの中で、常に最も面白い存在でした。デトロイトにあんなプレイをするドラマーは居ません。(最初は違和感があっても)共演を重ねれば重ねるほど、うまくいくようになる。彼はそういうドラマーです。約一年位その店のハウスバンドとして出演し、客離れが始まると、他所の店に移りました。」

<いざNYへ>

tommyatartsession.JPG 1956年、ケニー・バレルとフラナガンは車でNY見聞に向かった。滞在資金節約のために、最初の数週間はバレルの叔母の家に居thad-jones-during-his-the-magnificent-thad-jones-session-hackensack-nj-february-2c2a01957-photo-by-francis-wolff.jpg候したが、一足早くNY入りしていたデトロイト同郷のサド・ジョーンズとビリー・ミッチェルが、あちこちのバンドリーダーに彼等を推薦してくれたおかげで、新参者は2人とも、すぐに自立することができた。フラナガンはレコーディングに参加し、コンサートに出演、それに今は亡きベース奏者、オスカー・ペティフォードのスモール・グループでライブをこなしている。
 その頃、エルビン・ジョーンズは、バド・パウエルと《バードランド》に出演中であった。ところが、フラナガンがギル・フラーとのコンサートに出演後、そこへ行ってみるとパウエルの姿はなかった。おかげでフラナガンは、仕事をすっぽかしたパウエルの代役として、2週間のギグをこなすことになる。その直後、エラ・フィッツジェラルドから初めて仕事を頼まれ3週間共演。状況は好転していく。デトロイト時代に《ブルーバード》で共演した縁で、マイルズ・デイヴィスとのレコーディングにも呼ばれた。ドラムのケニー・クラークからも声がかかり、演奏場所に行くと、当のクラークはギグにやって来なかった。だが、そのバンドでソニー・ロリンズと出会い、後の共演へとつながっていく。フラナガンはNYのジャズの高波に乗り、多忙を極めながらも、ここぞというチャンスは決して逃さなかった。

<リーダー作に思いを込めて>

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 「エラと共演した後、私はJ.J.ジョンソンのバンドに入りました。1956年から’58年迄、約3年dial_jj5.jpg間です。J.J.はカイ・ウィンディングとコンビ別れして、クインテットを新編成し、かなりきっちりした音楽を目指していました。結成後、たちまちバンドのサウンドは良くなった。メンバーは、エルビン・ジョーンズ、ホーンにボビー・ジャスパー、ベースがウィルバー・リトルです。1957年にスウェーデン・ツアーをしましたが、素晴らしい体験でした。ツアー中、 現地の”メトロノーム“というレーベルで、初リーダー・アルバムを作り、後にプレスティッジがそれを買い上げました。私は、ああいう種類の音楽がとても好きなんです。まもなく、もう一枚トリオのアルバムを作る予定です。ちゃんと用意をして、何らかの想いを込めたアルバムにしたいですね。」

 J.J.ジョンソンのバンドを辞めた時、フラナガンは楽旅に疲れ果て、NYの街に落ち着きたいと思っていた。’58年後半には《ザ・コンポーザー》にトリオで出演、トロンボーン兼ヴァイブ奏者、タイリー・グレンのバンドでは《ラウンド・テーブル》に2年間断続的に出演している。

「まあ、私にとっては良い時期でした。何とか食べて行く収入があり、レコーディングも数多くこなすことができました。ジャズの録音依頼は、おおむね偶発的に舞い込むものでしたから、何をするのか分からぬままスタジオ入りしなくてはなりません。現場に入るや否やリーダーに、『イントロをくれ!』と指示されます。出やすいイントロをあれこれ考えて作るのは好きな方ですが、スタジオに入るなり、イントロ、イントロと言われると、いい加減うんざりします。時にはエンディングまで、こっちで考えて作らなければいけません。だから、世間で”ブロウイング(吹きまくる)セッション”と呼ばれる録音も、私にとってはむしろ”シンキング(考える)セッション”でした・・・

 『予め譜面に書かれた』ことより高内容なことを、ささっと考えて、その場で演奏することは可能です。しかし、即興のアイデアに対する所有権はありません。現場で、そういうことをやればやるほど、同じ成果を繰り返し要求されることになります。「こいつはアレンジがなくても演れる奴だ」と判ると、ずっとあてにされることになるのです。

<コールマン・ホーキンスとの至福の時>

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 フラナガンは《ラウンド・テーブル》に数ケ月出演した後、NY周辺でフリーランスとして活動した後、コールマン・ホーキンスとの最初の共演作を録音した。ホーキンスとの共演は、まさに至福の音楽体験であった。

Editor~~element63.jpg 「ホーキンスは素晴らしくて、一緒に演ることがいつも楽しかった。彼の方も、まあまあ私のプレイを気にいってくれていたと思います。私は、クラリネットとサックスを演っていましたから、彼が名手であることがよくわかります。それに、もの凄く良い耳をしていました。あの年齢で、彼のような思考が出来る人はいません。2枚目のアルバムを録音した後は、ライブも一緒に演るようになりました。彼とロイ・エルドリッジの2管バンドで《メトロポール・カフェ》へ出演したり、コネチカットのハートフォードや、NY州北部のスケネクタディー、果ては南アメリカやヨーロッパまでツアーしました。ライブがない時は、もっぱらスタジオで一緒に演奏していました。ヨーロッパから帰国後は、カルテット編成に縮小しました。ホーキンスのワン・ホーンで一緒に演るのは最高です!彼との共演は本当に楽しかったですし、今もそれは変わりありません。とにかく一緒に居るのが好きなんです。」

1963-02-04.png コールマン・ホーキンスとの活動が小休止すると、フラナガンはギタリストのジム・ホールの誘いを受けた。ちょうど《ファイブ・スポット》が移転し、キャバレー・ライセンスを取得していなかった頃である。ライセンスがなければ、ドラムを入れることができない。そこでホールとフラナガンはベースのパーシー・ヒースと共にドラムレス・トリオで出演することになった。

「こんな編成は、デトロイト以来初めてでした。」と彼は言う。

 「私は、このフォーマットの演奏に夢中になりました。ジムは素晴らしいリズム感があるので、ドラムレスがいい感じでした。出演後2週間ほど経った頃に、レコーディングしておくべきでした。演奏の熱が冷めず、トリオで何が出来るのか、どこまで行けるのかが把握できた時期にね。やがて、二人目の子供が生まれたので、私はエラ・フィッツジェラルドとの仕事を再開しました。」

 伴奏者としてのフラナガンの実力は、数多くのレコードで証明されているが、伴奏の役目は彼に充足感を与えることはなかった。

「最近の自分の演奏は、もうひとつ気に入りませんね。」と彼は言う。

<目指すはエリントン!>

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coleman7.jpg 「伴奏の仕事を少しやり過ぎてしまいました。それが自分のやりたいことならいいんですが・・・ 私の音楽的な理想はエリントンの様なアプローチです。いつか、あれほど聴き手の心を掴む音楽を書ければと思います。つまり、編曲ではなく作曲です。これまで、自分で誇りに思えるような曲は何一つ書いたことがありません。でも、今まで演って来たことを発展させれば、オーケストラ的なものになります。自分で聴きたいと思う音のイメージを、そのまま譜面に書き下ろす能力は、充分身についたと自負しています。例えば、コールマン・ホーキンスのためのバックを書きたいんです。彼をインスパイアするようなリズム・セクションなら書けると思います。私が提供したアイデアを気に入ってもらえれば、きっと凄いことを演ってくれますよ!

 無論、そういう音楽を独力で作るには時間が必要です。これまでは、そういう時間がありませんでした。誰だって即興演奏を重ねていくと、プレイの先が読めるようになるものです。前もって、あれこれ考えるのと同じようにね。何事も、行き当たりばったりに生まれることはありません。頭より指のほうが先に動くということは往々にしてあります。でも、指なりのフレーズは、過去に学習したパターンの反復なんです。実際、そういうことが多すぎます。でも指がたまたま間違った所に行ってしまうと、頭がシャキっと動いて、考えながら弾くようになります。」

 ことによると、将来のフラナガンは作・編曲に向かうのかもしれない。しかしいずれにせよ、これ程妥協をせず、短期間のうちに素晴らしい業績を達成したにも拘らず、現状に満足していない、こんな人物がいるとは思いもしなかった。今回のインタビューでそれが判っただけでも良かったと感じる。

聴き手:Stanley Dance / ダウンビート ’66 1/13 flanagan1164.jpg

(了)

 35才のトミー・フラナガンの発言は、現在の「足跡講座」で寺井尚之が展開するフラナガン論と、驚くほど合致していました。このインタビュー、皆さんはどう読み解きますか?

 

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その2)

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(前回よりつづき)<トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

 静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

<アート・テイタムのことなど>

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    フラナガンにとって、特に思い出に残る場所は、《パラダイス・シアター》(訳注:デトロイトの黒人街の中心に在った映画館兼劇場です。)の少し北にあった《フレディ・ギグナーズ》と言うアフター・アワーズ・クラブ(訳注:ギグが終わったミュージシャンのたまり場となる朝まで深夜営業の店)だった。

 「ジミー・ランスフォード、アール・ハインズ、ファッツ・ウォーラー・・・レコードで愛聴した名手たちを初めて見た場所です!」-フラナガン 

   オーナーであるギグナードが自宅の地下で営業していたクラブで、テイタムもそこに足繁く現れた。テイタムは、良いピアノさえあれば、どんな場所にでも立ち寄るのであった。テイタムの弟子格のピアニスト、ウィリー・ホーキンスが出演していたためでもある。地元の名手であったホーキンスの演奏はテイタムに酷似しており、テイタムや、それ以外にも演奏しようというピアニスト達がスタンバイするまで演奏していた。

 「その頃の私はかなり内気でした。」フラナガンは言う。「まあ、今でもアート・テイタムがその場に居れば、やっぱりそうなると思います。ただし、彼が来ると判っていれば、ずっとその店で粘っていて、実際に弾いてくれるのを待ち構えていました。テイタムがもの凄い演奏をした夜のことは今もよく覚えています。皆すごいと言って、一体どんなコードを弾いていたのか?と尋ねたんです。実は、前座でウィリー・ホーキンスが弾いた一つのコードが気に障ったテイタムが、この曲は「かくあるべし」というコード進行をで、最初から最後まで弾いて見せた、と言うわけでした。すると今度は、テイタムがいかに和声進行に習熟しているかと、皆がわあわあ話し始めた。すると、テイタムは彼らに向き直ってこう言いました。

『デューク・エリントンこそがコードの達人だ!』

  テイタムがどの程度エリントン楽団を聴きこんでいたかは分かりませんが、少なくとも、あらゆるピアニストを熟知していたのは間違いありません。

  私が聴きたいのはテイタムだけでした。なぜなら彼のアプローチは私が探求していることと密接に繋がっていたからです。有り余る才能に恵まれた、真の天才だと思っていました。最初は全盲だと思っていましたが、後になってそうではないと知りました。でも、字や譜面は読めなかったと思います。あれほど凄いピアノ・テクニックをどうやって編み出したのか分かりませんが、彼の演奏する和声構造を聴くと、修練したことは明らかです。彼こそ正真正銘の名人(ヴァーチュオーゾ)だ。名人芸というものは、基本的な修練なしには、絶対に得られない!

  もう1人フラナガンに大きな影響を与えたピアニストがハンク・ジョーンズである。フラナガンがハンク・ジョーンズを初めて聴いたのは、コールマン・ホーキンスとの共演盤だった。

<ソフトタッチ>

hank-jones.jpg 「彼の演奏は、テディ・ウィルソンと同型だと感じました。」フラナガンは言う。「ただし、ハンクはテディをアップデートしたスタイルだった。私はハンクがテイタムの次世代のピアニストであると、常に感じていました。今も、その意見は余り変わっていません。あの頃からずっとハンクの演奏を尊敬してきたし、その思いは自分のプレイに反映されていると思います。あの頃の私は、きっといつかテイタムみたいに弾ける時が来ると思っていましたが、やがて、テイタムと全く同じように演奏する望みはないと思い知った。それからは、ハンクをよく聴くようになりました。バド・パウエルもよく聴きました。(訳注:これらの昔話はフラナガンの高校時代のことです。念のため)良く話題になるタッチの相違は、多分身体的な問題ではないかと思いますが、鍵盤を叩きつけるようなハードなタッチは絶対に嫌です。私の好むスモール・コンボ(ビッグ・バンドではなく)なら、ハードなタッチでプレイする必要は全くないし、とにかく、ハードなアプローチはどんな場合も必要ではないと思います。」

<13才のプロ・ミュージシャン>

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  初期の参加バンドで、フラナガンにとって特に思い出深いのは、中学時代に活動したピアノとサックスとドラムのトリオだ。当時、まだ13才ではあったが、プロに相応しい卓抜した技量をすでに備えており、早くもデトロイトでのギグが次々と舞い込んできた。1947年、ラッキー・トンプソンがデトロイトの町に戻ってくると、ミルト・ジャクソン(vib)、ケニー・バレル(g)と共に、彼のセプテットに参加している。 

  クラブ演奏可能な年齢に達する頃には、地元デトロイトでの仕事場は潤沢で、良いミュージシャンも多数居たものの、多くは名声を求めてNYへと進出した。テナー奏者のフランク・フォスターもこの街にやって来て、軍隊に入る前の2年間を過ごした。彼は “強烈な印象をもたらした。”とフラナガンは言う。 

  PepAda.gifフラナガン自身、1951年から1953年まで陸軍に入隊している。すんでのところで、音楽家等級なしで、一歩兵として韓国に送られるところであった。だが、幸運にも、訓練地のショウでピアニストの募集があり、オーディションを勝ち抜いたフラナガンは特別芸能部(Special Service)に転属となった。彼が居たキャンプ、ミズーリ州、レオナード・ウッド基地では、例のラッキー・トンプソンのデトロイト・バンドの盟友であったバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスとの偶然の再会があった。 

  「彼は、すでに数週間の基礎演習を修了していて、私がホヤホヤの新兵で居ることを知っていました。」フラナガンは回想する。「初めて野営地に向かって行進している時に、ペッパーが現れた!隊列の中の僕を目がけて走ってきたんです。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込みました。 『きっと役に立つよ!』と言って…」 

韓国駐屯を経て除隊、故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。

 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

(つづく)

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その1)

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今日はトミー・フラナガン生誕85周年!

Stanley and Earl - photo by Brian Kent.jpg 来る28日(土)は、当店OverSeasで第26回目の追悼コンサート、“Tribute to Tommy Flanagan”を開催。 この時期に愛奏した春の曲(Spring Songs)など、フラナガンならではの名演目でありし日の巨匠を偲びます。ぜひぜひご参加ください!

 というわけで、今週、来週は、当店OverSeasで毎月開催している「トミー・フラナガンの足跡を辿る」が’60年代の演奏解説に入っていますので、’60年代のフラナガン・インビューを掲載することにしました。
 ソースはダウンビート誌、1966年1月13日号、聴き手は英国からNY近郊へ移住しジャズに一生を捧げた歴史家スタンリー・ダンス(左の写真は、アール・ハインズと)。ダンスは”Mainstream”という言葉をジャズ界に定着させ、その知力とペンの力で、多くのジャズメンやビッグ・バンドを、「芸人」から「芸術家」へと正しい評価へ導いた人、その反面、”ビバップ嫌い”ではありましたが、ここでは、好意に溢れた対話を展開しています。



 

 <トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

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 NYに進出して10年、トミー・フラナガンは、卓抜した趣味の良さ、繊細さ、そしてオリジナリティを併せ持つピアニストとして名声を手にした。その名声の源は、ケニー・バレル(g)、タイリー・グレン(tb)、マイルズ・デイヴィス(tp)、J.J.ジョンソン(tb)、コールマン・ホーキンス(ts)、エラ・フィッツジェラルド(vo)といった様々な主役たちとライブやレコーディングを通じた多岐に渡る活動であるが、それは決して偶然に得られたものではない。

tommy2.bmp ”あらゆる仕事をやってみたかったので。” と、彼は説明する。

 多くのレコーディング参加は、仲間うちの彼に対する好感度と評価の高さを示すものだ。しかし、リーダー作は今のところ、プレスティッジに於るトリオ作品2枚に留まっている。それ故、彼の実力に相応しい知名度が一般のファンには行き渡っていない。

 ”決して目立つことがないんです。” 彼は少し残念そうに言ってから、すぐさま微笑んで付け加えた。”でも、自分が売れるか?売れないか?なんて気にしていません。”

 1961年、ダウンビートのレコード・レビューはいみじくも、「派手にひけらかすことはないが、複数の音楽的ルーツを継承していることを示す演奏家。」と評していた。様々なルーツを踏まえた上でのスタイルが彼独自のものであることは、言うまでもない。

 物静かで控えめな物腰とは裏腹に、フラナガンの談話は、鋭い機知と皮肉が随所にちりばめられ、彼の音楽的信条に反する不合理な仮説や教条を持つ連中に痛烈な一撃を与える。同様に、彼が大尊敬するミュージシャンについて、私が「もう盛りを過ぎたのでは?」と言うや否や、 ”じゃあ、彼の全盛期はいつだと思っておられるのですか?”と、いともクールに斬り返された。すなわち、彼の音楽性は、 尖ったり、押し付けがましさの一切ないものであり、現在も手堅く的を得たプレイは衰えることなく健在であるという所以である。

 1930年 デトロイト生まれ、フラナガンは子供の頃のクリスマスを回想する。-彼が6歳の時、ギタリストの父とピアニストの母に、子供たち全員が楽器をプレゼントされたのだった。

 私には4人の兄と一人の姉が居まして・・・” トミーは言う。”私がもらったプレゼントはクラリネットでした。高校までは、ずっとクラリネットを続けました。高校時代はサックスなどいろいろな楽器をいじくりましたが、主楽器は相変わらずクラリネット、もう少しで首席だったんだ!学校行事、例えば行進などで演奏もしました。ジャズに興味を持ったのはその頃です。当時はベニー・グッドマンが大流行で、兄貴はよくビリー・ホリデイとレスター(ヤング)の共演盤を家に持ち帰って、一緒に聴いたものでした。

 ”自分が聴いて、自分でも演奏したいと思えば、そのまま演奏することができました。まあ、単なる物真似ですがね。クラリネットが、ピアノ上の思考に影響していると思います。ずっとクラリネットを続けていましたが、いつのまにかピアノの方が好きになってしまった。それは多分ピアノ・レッスンを受けていたからです。クラリネットは、学校の教科に近かった。クラリネット教本で勉強するにはピアノに向かうことが必要だったし。”

 さらに、フラナガンは、長兄、ジョンソン フラナガンJr.のピアノの演奏を見て、兄を見習おうとした。ジョンソン・フラナガンJr.は、現在NY近郊で活躍する実力派ピアニストで、ラッキー・トンプソンとレコーディングした”ベイズン・ストリート・ボーイズ“に加入し、’40年代半ばにデトロイトを離れている。

  “兄のように演ってみたいと思って…” とフラナガンは言う。 ”そういうわけで、聴けば聴くほど、ますますピアノが好きになった。そして兄と同じピアノ教師、グラディス・ディラードに就きました。彼女は文字通り、私の家族全員にレッスンをした先生です。通常、彼女の元で修了するのに7年間かかる。彼女は完璧な教師だったから、悪い所をそのままにして見逃すことは決してなかった。

 ”自分で、レッスンの成果が出ていると判ると、上達する過程が嬉しくてたまらない。それでずっと彼女に付いて習った。兄がデトロイトを離れてから数年間は、兄の影響は少なくなりましたが、ますますジャズを演奏することに興味を持つようになりました。

 ”最初は、もっぱらレコードを聴いて影響を受けました。バド・パウエルやその他の人達も、デトロイトに来た時を除いては、全てレコードを通して聴いたのです。生で聴いて感動したのは、スモール・コンボでのチャーリー・パーカーです。メンバーはマイルズ・デイヴィス、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マックス・ローチ・・・素晴らしかったなあ。まだ子供だったので演奏している店の中には入れなかったが、横手のドアにへばりついて必死で聴いた。そこは店内よりずっと音がよく聞こえる場所でね。私にとって、特に素晴らしいことは、前もってレコードで聴いたものを、改めて生で聴けるということだった。

 ”ダンスホールに出演する人気バンドも、いくつか聴きに行ったことがあるのだけど、そういうバンドは、レコードと寸分違わぬ様に演奏するんだ。だがバードとディジーのバンドはそうではなかった。当時はホーンに感動しました。もちろんピアニストもいいのだけれど、それ以上にバードとディジーに圧倒されました。自分は、特にフレージングの点で、彼らから大きな影響を受けていると思います。

tatum444.jpg ”その頃の私は、なんとかピアノの腕前を上げようと四苦八苦していたんです。アート・テイタムを聴いてからは、ソロで仕事ができる位うまくなりたいと思ってね。そうして、自分に欠けているのは、テイタムのようなピアニスティックな要素だと痛感しました。それは自分の考え方が余りにもホーンライクで、ホーンのフレーズを引用しているためだと気付いた。ほんの初期のころから、ずっと、リズミックなシングル・ライン中心のスタイルで、分厚いコードのオーケストラ的サウンドを弾きたいと切望するようになった。”

 フラナガンは、最初、テディ・ウィルソンやカウント・ベイシーを愛聴し、その後、やはりレコードで、アート・テイタムと出会う。そして1945年、テイタムがデトロイトを訪れた。

 ”フリーメイソンの寺院でソロのコンサートがあった。”フラナガンは回想する。

 ”途中の休息を計算に入れず、テイタムは1時間半演奏した。お客の入りは余り良いというわけではなかったが、とても熱のこもった演奏だった。二階席の切符しか買えなかったが、二階には僕以外ほとんど人が居なかった。目の前で彼の生の演奏を聴くということが、私にとって、とても大事だった。これまで彼の演奏をよく聴いて知っていて、そういう風に弾きたいと思っていたのだから!”

 (続く)

巨星クラーク・テリー逝く

funeral11021224_927702457254519_1407399710584103427_n.jpg  巨星クラーク・テリー逝く… トランペット、フリューゲル、ポケット・トランペット、ある時は 掌に隠されたのマウスピースだけでの妙技、そして“マンブル(Mumbles)”と呼ばれる独特のスキャット、どれをとっても音楽の喜びに溢れる至高のミュージシャン!バックステージで初めてお目にかかった時に、指をパタパタしながら”ハッロ~~~~”ってめちゃくちゃ可愛い挨拶をされた姿が忘れられません。

 really_big_Jimmy 51ldCZk9cJL._SS500_.jpgクラーク・テリーといえば、もうひとつ思い出があります。寺井尚之と一緒にクイーンズにあるジミー・ヒース(ts)さんのお宅にお呼ばれした時のことです。料理上手なモナ夫人が夕ごはんを用意してくださって、いそいそテーブルに付きました、すると、「ディナーはこのクイズに答えてからじゃ!」そうジミーが言っておもむろにレコードに針を降ろします。

「ヘイ、先発ソロを取ってるのは誰や?3秒以内に言うてみい!」

 ただでさえ大巨匠を前にして緊張してるのに、答えられなかったらどないしょう???…もう泣きそうになったけど、一秒で分かった!”Clark Terryですか?”と恐れながら答えると、”Yeah~! オーライト!!最近はわからんアホがたまに居るんだからな…Damn…”と例の甲高いベランメエ英語。めでたくお祈りをして夕飯にありつきました。

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 CTことクラーク・テリーはジミー・ヒースと大親友、ジミーが刑期を終えた後の初レコーディング”Really Big”にキャノンボール・アダレイ達と共に、プロデューサー、オリン・キープニュースに志願して参加しています。(奇しくも、CTが亡くなった数日後に、キープニュースさんもまた91才で大往生されています。)

 「ジミーのレコーディングなら、いつだって最低ギャラで喜んで参加する!」スカッとした男気のある人です。

 日本じゃ「トランペッターと言えば帝王マイルズ」と相場が決まっているのかもしれないけど、そのマイルズの若い頃のアイドルが同郷セント・ルイスで傑出した実力を誇るCTだった。マイルズがボクシングを好むようになったもCTに影響されたからだし、それどころか、麻薬でボロボロになった宿なしマイルズにホテルの自室を提供し、留守中に自分の所有品を一切合切売り飛ばされても慌てず騒がず、マイルズの父親に連絡して救済するように勧告した大人物です。

<生き神様>

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 CTは、カウント・ベイシー、デューク・エリントンのジャズ史を代表する楽団両方の全盛期に在籍した数少ないミュージシャン。「カウント・ベイシーOrch.は大学で、エリントンOrch.は大学院だった。」と彼は語っている。

duke12.jpg エリントン楽団で一番仲良しだったビリー・ストレイホーンへの追悼盤『…And His Mother Called Bill/エリントンOrch.』での”Buddha”のソロは、哀しみを突っ切った底抜けの明るさと、いとも容易そうな超絶技巧で、ストレイホーンの極楽浄土を描いています。
 独特のスイング感に溢れたMumblesスキャットが人気を呼んだオスカー・ピーターソンとの共演や、バルブ・トロンボーンの達人、ボブ・ブルックマイヤーの双頭コンボなど、活動歴は書ききれませんが、ジャズが下火になった’60年代になると、同胞ジャズメンの先鞭を切って、三大ネットワーク、NBCのハウス・ミュージシャンとなり、人種の壁を破った。そんなCT=クラーク・テリーさんは、米国の人間国宝、ミュージシャンにとっては生き神様!亡くなる数ヶ月前にはウィントン・マルサリス始め数多くの後輩トランペッター達がNYから貸し切りバスを駆って入院先のアーカンソー州の病院で、生演奏付のお見舞いを献上している。

<憎しみを乗り越えて>

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clarkterry_in_karati.jpg CTのコンサートを観ると、底抜けにハッピーなエンタテイナーの顔と、鳥肌が立つほど至芸を磨き抜く厳しいアーティストの顔が、いとも自然に共存している。言葉や人種のバリアをスイスイ越えていく音楽の力で、米国国務省の親善大使として中近東をツアーしたり、クリントン大統領の命を受けて世界ツアーをしました。その音楽の力は、激しい人種差別の波にもまれた末のかもしれません。
 ’30年代からミュージシャンとして各地を渡り歩いたCTは、命の危険にさらされてきました。死別した最初の妻、ポーリーンさんも幼いころKKKの襲撃に遭い九死に一生を得ています。その際、一緒のベッドで寝ていた仲良しの従兄弟は幼くして庭先で吊るされ、酷い「奇妙な果実」になり果てた。

 一方、CTは10代のときに、南部ミシシッピー州をカーニバルの楽団で巡業中の雨の夜、次の公演地へ向かう鉄道の駅で出会った白人に話しかけられて”Yeah.”(Yes,Sirでなく)と言ったのが失礼だと、こん棒で滅多打ちにされた。その男、殴っただけでは物足らず、リンチして吊るしてやると仲間を呼びに走っていった。ぬかるみで血だらけになって倒れているCTを助けてくれたのが、列車の白人乗務員達で、CTを抱え楽団の車両まで運んでくれた。すると、さっきのこん棒男が仲間を引き連れ大挙して戻ってきた。シャベルやつるはしやナイフなど様々な凶器を手にテリーを血眼で探している。すると、乗務員は「ああ、あのニガーか、面倒を起こす厄介者だから、俺たちがケツを思い切り蹴飛ばして、向こうの方へ転がしておいたぜ。」と全く反対の方角に暴徒を誘導し、そのおかげで命拾いしたと言います。

 「殺そうとしたのも白人、命の恩人も白人」CTは、その体験から人種に対する憎悪を抱くことを止めたと言うのです。

 彼が長いキャリアを歩むに連れて、人種差別は少しずつ改善されてきたけれど、その反面「黒人富裕層はバッハやモーツァルトだと、子弟にクラシックは習わせても、ジャズを演奏させることは好まない。全く残念なことだ!」と、晩年は音楽教育に力を入れて各地の大学でセミナー活動を行っていました。11人兄妹での7番目として貧困家庭に生まれたCTは音楽の先生に就くことも、楽器を買ってもらうこともありませんでした。

 ’90年代から糖尿病の合併症で視力が低下して以降、公の音楽活動は減少していきましたが、世界中からトランペット奏者が教えを乞いに彼の自宅を訪れています。2010年、グラミーで生涯功労賞受賞、公の葬儀はNYハーレムのアビシニアン教会で行われた後、ニューオリンズ式の葬送行進がウィントン・マルサリス達後輩ミュージシャンによって盛大に行われました。かつてダン・モーガンスターンは、いみじくも彼をこんな風に評しています。「成功しても、人間的にダメにならなかった男」
 
この男、なんでそれほどハッピーなんだ? funeral11016823_983468061670963_7668005501549149957_n.jpg

彼は余り眠ることをしない。

彼はビッグ・バンドを持ってる。

小さなバンドも持っている。

彼はちびっ子どもに教える。

レコードも作る、

彼はスタジオ・マンだ。

ブツブツ歌う。

この男、なんでそれほどハッピーなんだ?

それは彼がクラーク・テリーだから!

ダン・モーガンスターン

参考資料

  • Downbeat magazine 1967 6/1号
  • Downbeat magazine 1996 6月号
  • I Walked with Giants : Jimmy Heath Autobiography
  • Miles, Autobiography of Miles Davis
  • Clark Terry Obituaries; NY Times, The Guardian, The Telegraph, et al.

あの感動を再び! Akira Tana 4月ライブ決定!

akira_tana1981994.jpgアキラ・タナ:Photo by Jim Bourne

 朗報! 昨年10月OverSeasを感動の渦に巻き込んだドラムの巨匠、アキラ・タナさんが4月10日(金)再びOverSeasにやってきます!

 ご一緒するのは、もちろん寺井尚之(p)と宮本在浩(b)のレギュラー・チーム。スマートでサムライの気迫溢れる夢のピアノ・トリオ!

 前回は、アキラさんがレギュラー・ドラマーとして擁した「トロンボーンの神様」J.J.ジョンソンや、伝説的バンド、ヒース・ブラザーズの名演目、そして震災復興支援の為にアキラさんが率いる日系人オールスター・バンド「音の輪」が得意とする日本の名歌のジャズヴァージョンなどで、ひと味違った演奏を聴かせてくれました。今回は、一体どんな驚きと感動を与えてくれるのか?今からとっても楽しみです。

 前回お越しくださったお客様も、初めてのお客様も、ぜひOverSeasのアキラ・タナを聴きに来てください!

 

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寺井尚之(p)トリオ featuring Akira Tana (ds)

with 宮本在浩(b)

【日時】4月10日(金) 開場:18:00~
MUSIC: 1st set 19:00- /2nd set 20:00- /3rd set 21:00- (入替なし)
チケット制:前売り ¥3500(税抜)
当日 ¥4000(税抜) 

(当店は、入場料以外にチャージはありません。ご飲食料のみ頂戴します。)

関連HP:http://jazzclub-overseas.com/concert.html#Akira Tana

3月28日(土) 恒例春のトミー・フラナガン・トリビュート開催!

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     写真は Jazzpar賞のフラナガン:フォトグラファーJan Perssonのサイトより

 今年はトミー・フラナガン生誕85周年、亡くなってからも、「ああ、あの時のプレイはそういう意味だったのか、あの言葉はそんなに深い意味があったのか・・・」と新しいことが判るのが巨匠!何年も経ってから、改めて笑っちゃう落語の名人のオチみたいです。

 そんな我らがトミー・フラナガンを偲んで開催するJazz Club OverSeas春秋の定例コンサート《Tribute to Tommy Flanagan》、今年の春は3月28日(土)に決定しました。

 在りし日の勇姿を思い出す名演目の数々を、寺井尚之(p)が名リズム・チーム 宮本在浩-bass, 菅一平-drums を擁する「The Mainstem」で、心技体整えてお聴かせいたします。初めてのお客様も大歓迎!どうぞみなさまお待ちしています。

 OverSeasでチケット好評発売中! (お問い合わせ Eメール info@jazzclub-overseas.com:TEL 06-6262-3940)

tribute_mainstem.JPG トリビュート to トミー・フラナガンHP

日時:2015年 3月28日(土) 
会場:Jazz Club OverSeas 
〒541-0052大阪市中央区安土町1-7-20、新トヤマビル1F
TEL 06-6262-3940
チケットお問い合わせ先:info@jazzclub-overseas.com

出演:寺井尚之(p)トリオ ”The Mainstem” :宮本在浩(b)、菅一平(ds)
演奏時間:7pm-/8:30pm-(入替なし)
前売りチケット3000yen(税別、座席指定)
当日 3500yen(税別、座席指定)

ジーン・アモンズの肖像(2)

 <塀の中のボス>

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joliet7610578.jpg ジーン・アモンズは、違法薬物所持とそれに関連する罪状で、のべ10年間服役しています。最初は、多くのバッパーがお世話になったケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設、通称”NARCO”で2年間(1958-60)。タッド・ダメロンもほぼ同時期に、ここに収監されていましたが、ここから舞い戻ったものの、ジャズメンの多くが、再びヘロインに手を出し、さらに厳刑を課せられることになった。アモンズが典型的な例で、“NARCO”から帰ってきて間もなく、仮釈放中にクラブ出演をしたとして再び拘束され、その2年後には、7年間という長期間をシカゴのジョリエット刑務所で過ごすめになります。ジョリエットという名前にピンと来た映画ファンは我が同士!かの有名な『Blues Brothers』のファースト・シーン、兄のジェイクが入っていた刑務所として、今や観光スポットになっているそうです。

 アモンズの逮捕は、有名人を狙った違法な「おとり捜査」だったと言われていますが、本人は後年、麻薬に手を出したことについて、ボス・テナーにふさわしく、誰のせいにもすることなく、淡々と語っている。

「環境だ、生活状況だ、それに、逃避したくなるような苦悩があるから、ということが原因だという人もいる…だが、私が薬に手を出した理由として、自分で言えることは、『好奇心』だったってことくらいだ。一番肝心な時に、自制心が足りなかった。そして気がついた時には、どうすることも出来ないほど深入りしていたというわけだ。」

 アモンズが「どうすることも出来ないほど深入り」してしまったのは、エクスタイン楽団に居た’40年代ではなく、ウディ・ハーマン楽団からソニー・スティットとコンビを組んだ時期だったようだ。

gallery7.jpg ジュニア・マンス(p)の証言:「私が1951年~53年の軍隊生活を終えてシカゴに戻ってきた時、ジャグは完全な麻薬中毒になっていた。」

 アモンズのヒット作の大部分を制作したPrestigeのオーナー、ボブ・ワインストックは先見の明があったようで、レキシントンから帰ってきたスター奏者、アモンズが活動休止に追い込まれた時のため、シカゴやNYで、せっせと彼のセッションを録音、7年間の服役中に、それらの音源を新譜としてリリースする離れ業をやってのけた。 「親友アモンズのために一肌脱いだ」と言われているけれど、それほどアモンズは売れたのだ。

 アモンズはジョリエット刑務所からワインストックに何度か手紙を書き送っている。そこには、自分の名前が、塀の中に居る間に忘れられないよう、継続的に自分の新譜をリリースして欲しい、そのために録り貯めた音源が枯渇しなければいいのだがという願いが綴られていたそうです

 さて、刑務所の中のアモンズは、ずっと鎖に繋がれていたわけではなく、音楽の実力を買われ、受刑者バンドの音楽監督に任命されます。おかげで、更生教育の一環として団員に音楽を教え、編曲をする傍ら、テナーを持つことを許され、暇さえあればテナーを吹くことが出来た。

 出所前の18カ月間は、レコード・プレイヤーだけでなく、ラジオやTVも視聴することができたので、世相の変化や、音楽の流行、アヴァンギャルドへと向かうジャズの潮流をキャッチしながら、出所したあどんな音楽をするべきか?ということを冷静に見定めていました。

<プラグド・ニッケル>

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 1969年11月、出所後わずか12日目に、アモンズはシカゴの《プラグド・ニッケル》でカムバックを果たしました。満員の聴衆が総立ちになり拍手でアモンズを迎え、全くブランクを感じさせないアモンズ・サウンドに熱狂した!伝説のコンサートに立ち会った評論家ダン・モーガンスターンは、「完全にリラックスして、再びバンドスタンドに戻った幸福感に満ち溢れる演奏だった、」と書いていますモーガンスターンが、幕間にインタビューを行い、現在流行りの前衛ジャズについてどう思うか?と質問すると、「あれは自分の柄には合わない。自分はやっぱり、ジーン・アモンズのままでいたい。」と答えています。

  アモンズは、並のテナー奏者ならヴォリュームの点で食われてしまうハモンド・オルガンを、テナーのバンドで初めて使ったり、ソウル・ジャズという新ジャンルを容易く確立してきました。カムバック後は、一時期アンプを使ってサックスのサウンドをオーバーダブするという流行も取り入れてはみたけれど、すぐに元の自然な音色に戻している。

 カムバックしてから数年後は、がんに冒されながらも、死の3か月前までボス・テナーであり続けました。ラスト・レコーディングは亡くなる年、1974年の3月、プレスティッジには稀な一日のセッションでたった一曲だけの録音。曲目はいみじくも”グッバイ”でした。その2ヶ月後、1974年5月、オクラホマ・シティで、アモンズ・サウンドは、演奏中に腕を骨折するという形で終焉を迎えます。肺ガンの合併症で骨が弱くなっていたんでしょう・・・

 享年49歳。あの重厚さ、あの貫禄のサウンドからは信じられない若さでした。

 死後40年経った今も、アモンズの音色はやっぱり私達の心を掴んで離さない。ヘヴィー級チャンピオンであり続けています。

参考資料》: 米国公共放送 NPR Documentary: Gene Ammons ‘The Jug’

Living with Jazz / Dan Morgenstern

Jazz and Death: Medical Profiles of Jazz Greats / Frederick J. Spencer

Jazz Wax : Gene Ammons :  Up Tight

ジーン・アモンズの肖像(1)

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 2月14日(土)「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、ジーン・アモンズの名作『Boss Tenor』(’60 Prestige)が登場します。アモンズがケンタッキーの麻薬更生施設から出所した直後に録音されたこの作品、2年間のブランクなど微塵も感じさせない圧倒的なワン・ホーン・アルバム!

 アモンズのサウンドが大好き!極上の大トロ、口当たりがよく滑らかで、とびきり脂が乗っているのに、ほんのり甘い余韻が残ります。

 シカゴの王者、”Boss tenor”と謳われたアモンズは、ブギウギ・ピアノの帝王、アルバート・アモンズの王子として産まれ、幼い時から桁外れのテクニックを持ちながら、技に溺れない父のクールな姿勢を見て育った。

 <天井桟敷の人々に愛されて>

 

 アモンズのプレイをこよなく愛し、どんな時も応援し続けたのは、評論家の先生やジャズ通でなく、「一般大衆」。楽しい時、哀しい時、日常の憂さを忘れたい時、街角のジューク・ボックスにコインを入れて、こぞって聴いたのが”Red Top”、”My Foolish Heart “そして、この『Boss Tenor』の”Canadian Sunset”だった。

 

  バッパー達が崇拝する女神、ビリー・ホリディは1950年代始め、メトロノーム誌の「私のお気に入りレコード」として、アモンズの”My Foolish Heart”に一票を投じた。短い歌の中に恋愛映画丸1本分のドラマを再現してみせるレディ・ディが大いに共感するプレイだったに違いありません。それを聴いた他のテナー奏者達のジェラシーのため息が聞こえてきそう… ブルースもバラードもバップ・チューンでも、アモンズのプレイにはドラマがある。ビバップの型をしっかり持って、溢れ出るメロディー、溢れ出るソウル、なによりもそのタイタニックなサウンド!一度でいいから生音を聴いてみたかった!彼の代表作を皆と一緒に聴けるのが嬉しくて、少し紹介。

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   数多のテナーの巨人たちの代表アルバムに参加してきたトミー・フラナガンは、後年、こんな事を言っている。

 「録音に際するテナー奏者というものは、自分の準備は万端だということを、いつも実感した。どんな曲をやろうとも(またやらされようとも)、テイクを重ねようとしない。1テイクでビシっとキメてしまう。」

 ジーン・アモンズも、その通り。同郷シカゴ出身で、10代から長らくレギュラー・ピアニストを努めたジュニア・マンスも、米国公共放送のアモンズ特集番組『Boss Tenor』で同じことを証言していました。即興演奏家として、いかなる状況でも、いかなるプレイをすべきか、全く迷いがないという事は、まるで「剣豪」の世界! 

 <生い立ち>

 

 ユージーン・アモンズは、1925年、シカゴ生まれ、皆さんがご存知のように、父はブギウギ・ピアノの帝王、アルバート・アモンズで、母もピアニストという音楽一家。いわばサラブレッド。子供の頃から、ミード・ラクス・ルイスやピート・ジョンソンといった強力なブギウギの巨匠達が家に出入りし、ピアノの至芸を聴いて育った。だから、”ソウル・ジャズ”というジャンルのない時代、人の心をわし掴みにするような、そういうプレイになったんですね。幼なじみのテナー奏者、ヴォン・フリーマンは10才になるかならない少年時代、アモンズ家でサックスを吹いていると、アモンズのお母さんから、「あんたは良い耳をしているのはわかるけど、これからは、譜面をちゃんと読んで、和声を勉強しなくちゃだめよ!」と言われた。ここから、自分のサックス人生が変わったと言っています。 

captain.jpg  シカゴの名門 黒人高校、デュ・セーブル校に入学してからは、名教師のほまれ高い”キャプテン”ウォルター・ダイエットに師事し、さらに腕を磨きました。元々ヴァイオリン奏者であったダイエットは、シカゴの高校の音楽監督として、選抜生徒によるレヴューを毎年プロデュースした。レヴューは毎年大人気、収益は教育資金基金となりました。鬼のように厳しい指導で有名でしたが、各自の個性を最大限に伸ばす教育法で、ナット・キング・コール、ダイナ・ワシントン、ミルト・ヒントン(b)、ジョニー・グリフィン(ts)、クリフォード・ジョーダン(ts)とキラ星の如く多くのスターや名手を輩出した偉人です。

 <バップ・エリート集団-ビリー・エクスタイン楽団>

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 Eckstine’s jazz band at the Savoy Ballroom with saxophone players Gene Ammons, Leo Parker, John Jackson, Bill Frazier, and Dexter Gordon. Tommy Potter was on bass and Art Blakey was on drums, circa 1944-1945.

 

  高校卒業後すぐさまキング・コラックス楽団に入団、中西部の巡業に出ます。その頃にはアモンズの崇拝する二人の巨匠、コールマン・ホーキンスの強靭さと、レスター・ヤングのリラックス感と繊細な陰影を、親から受け継いだアーシーな味わいとブレンドして、自分のサウンドを作り上げた。まだ18才の彼のサウンドにいち早く注目したのがビリー・エクスタインで、翌年、エクスタインが組織したビバップのドリーム・バンド、ビバップ・ビッグバンドに入団、デクスター・ゴードン達とともにテナーのソロを分けあいました。このバンドの十八番”Blowing the Blues Away”では、エクスタインが””Blow Mr. Gene, blow Mr. Dexter too”と歌って、テナー・バトルを促すのが楽しいです。

t_jughead2_170.jpg ある時、エクスタインが団員のためにステージ用の小粋なストロー・ハットを調達したのですが、アモンズだけ頭が大きくて入らなかった。それを観たエクスタインが、当時の漫画のキャラクターで、王冠みたいな帽子を頭のてっぺんにちょこっと乗っけた”Jugheadジャグヘッド”みたいだと言ってアモンズに付けたニックネームが”Jug”だったんです。

この頃、他の楽団員と同様「ほんの好奇心から」ヘロインに手を出したアモンズは、僅か50年に満たない人生の2割の年月を獄中で過ごすことになります。マイルス・デイヴィスがヘロインに手を出したきっかけはアモンズだった。

 

  バッパーのドリーム・チーム、エクスタイン楽団が、経済的な理由で解散を余儀なくされたアモンズは、自分おバンドを率いて独立、1947年、妻のニックネームをタイトルにした”Red Top”を録音、彼の初ヒットになり、本拠地シカゴでの「テナー・サックスの王者=Boss Tenor」の名前を欲しいままにしました。(続く)

対訳ノート(44):Come Sunday

 さて、今月の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、『Moodsville9 トミー・フラナガン・トリオ』の解説がありました。本来この『Moodsville』シリーズは、ムード・ミュージック、BGM目的。フラナガンの演奏は、制作意図にしっくり馴染むように見せかけながら、曲の持つ気骨と品格をしっかりプレイに忍ばせる、静かな炎のソロ・ピアノ!いつも聴いてるのに、講座でまたまた感動して、この演奏の元になったマヘリア・ジャクソンとエリントンの決定版を聴き、久々に対訳ノートを書きたくなりました。

<歌のお里は超大作だった>

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 ”Come Sunday”は、現在、賛美歌として教会で歌われているそうですが、元々、”エリントン、アメリカ黒人史を語る“という趣向の壮大な組曲“Black, Brown and Beige”(’43)の第一楽章“Black”の一部分でした。この楽章は、3つのパートから成り立っていて、アメリカに連れて来られた黒人奴隷達の姿を音楽で描いています。”Come Sunday”は、過酷な労働を唄う”Work Song”と、苦難の中の希望の光見出す”Light”の間のモチーフで、稀代のアルト奏者、ジョニー・ホッジスをフィーチュアしたスピリチュアル(黒人霊歌)、現在の私達におなじみの“Come Sunday”は、このパートの中の32小節を抜粋したものです。

  “Black, Brown and Beige”は、エリントンが、従来のエンタテインメント的イメージから脱却し、アーティストとして、黒人音楽の金字塔にするべく挑んだ芸術作品で、48分の超大作だった。つまり、コットンクラブに象徴される奔放で官能的なイメージとはおよそかけ離れた組曲だったんです。

 超人気バンドリーダーして不動の地位を保ちながら、40代半ばで、おまけに戦争中、しかも、黒人ミュージシャンは道化であることを強いられた人種差別時代、マネージャーの反対を押し切り、敢えて芸術的大作を発表したというのはどういうわけなのだろう? 戦時下の遊興税によってダンス・バンドが先細りになることを見越して路線変更をしたのだろうか?いえ、それよりも、この時期に勃興したビバップ同様、「ダンス・ミュージック」ではなく「鑑賞するジャズ」に向けて黒人たちが創造力を振り絞った時代、その世界のトップランナーとして当然のことをしただけだったのではないだろうか。

 ともかく、勝負を賭けたカーネギーホールのコンサートは、満員御礼ではあったものの、クラシック畑の評論家からは「話にならない低レベル」、ジャズ評論では「退屈極まりない。おもろない!さっぱりわからん。」と、ケチョンケチョンに叩かれて、この企画にずっと反対していたマネージャー、アーヴィング・ミルズと袂を分かつことになりました。

 でもエリントンは諦めなかった。

<マヘリア・ジャクソン>

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  この曲が大きな注目を集めたのは、公民権運動が全米各地に波及しつつあった1958年にリリースした“Black, Brown and Beige”改訂版。オリジナル版を大幅に短縮して、ゴスペルの女王、マヘリア・ジャクソンが”Come Sunday”に、新しい命を吹き込んだ!

 南部の綿畑の日々の過酷な労働の中、詠み人知らずの歌として、自然に歌い継がれた「黒人霊歌」(Black Spirituals)は、アフリカと西洋の異文化融合の原点と言われています。そんな趣を湛えるこの歌詞は、基本的にエリントンが作り、オリジナル・ヴァージョンを演奏したジョニー・ホッジス(録音には不参加)とマヘリアが修正を加えたもののようです。当初エリントンは、自分の歌詞がキリスト教の規範に合わなかったらどうしようと、かなり悩んだと言われています。duke-ellington-feat-mahalia-jackson-black-brown-and-beige-1958-inlay-cover-21853.jpg

 一方、リハーサル中に、マヘリア・ジャクソンが歌うのを初めて聴いて、楽団のレイ・ナンス(tp, vln)は、感動で涙が止まらなかった!

  この録音の前日、LAのスタジオでこのアルバムの録音が行われた時、エリントンの片腕、ビリー・ストレイホーンは楽団から離れ、ジョニー・ホッジスとともに、LAから遠く離れた東海岸のフロリダにいました。この当時は、経済的な問題をクリアするためだったのか、ホッジス達は一時的に独立して公演することが許されていたのです。ところが、ぎりぎり録音の前日に、エリントンが長距離電話をかけてきて録音曲のアレンジを頼んできた!必要な編曲の中には、”Come Sunday”も含まれていて、ストレイホーンはタクシーの運転手をホテルに待たせ、徹夜で楽団用にアレンジを書き上げ、その譜面の束を運転手が全速でマイアミ空港まで飛ばし、文字通りエアメイル・スペシャルでLAのスタジオに届けました。ところが、ジャクソンをフィーチュアしたトラックでは、ストレイホーンがアレンジした楽団とのヴァージョンはボツになり、エリントンのピアノがイントロと間奏に少し入る他は、ア・カペラで歌うトラックが採用されました。ジャクソンの芳醇な声は、オーケストラ的なハーモニーが内蔵されているから、敢えて楽団を取っ払う快挙に出たのでしょうか?

 黒人霊歌(Black Spirituals)は、南部で過酷な労働に従事する奴隷達が創造した、黒人と白人の文化をつなぐ最初の架け橋であり、同時に、神を敬う歌詞の裏には、自由への願いや、逃亡に際する秘密の教えが隠されている。エリントンは、この架け橋から産まれた天才。初演から15年、公民権運動の高まりにつれ、“Black, Brown and Beige”にも、「日曜」がやってきて、”Come Sunday”は公民権を願うプロテスト・ソングとして聞こえてきます。

 

<Come Sunday>

Duke Ellington

主よ、愛する主よ
天にまします全能の神よ、
どうか我が同胞に
苦難を乗り越えさせ給え。

(くりかえし)

太陽や月は
また空に輝く。
暗黒の日にも、
雲はいつか通り過ぎる。

神は平和と慰めを、
苦しむ皆に与えられる。
日曜が来ますように。
それは我らの待ち望む日。

我らはよく疲弊する。
でも悩みは密かに届けられる。
主はそれぞれの苦悩をご存知で、
それぞれの祈りをお聞きになる。

百合は谷間に
物言わずひっそりと居るけれど
春には花を咲かせ、
鳥達はさえずる。

夜明けから、日没まで、
同胞は働き続ける。
どうか日曜が来ますように。
我らの待ち望む日曜が。

中平穂積さんの『ジャズ写真展』京都で開催!

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 トミー・フラナガンの大切なお友達だった新宿”DUG“のオーナー、ジャズ・フォトグラファー、中平穂積さんの写真展が2月に京都で開催されることになりました。上の写真は、フラナガン夫妻が中平さんの写真展にお祝いにやって来たときのものです。

straight_no_chaser.jpg フラナガンのアパートには、中平さんに頂いた羽子板や日本人形が飾られていて、来日時には、お食事をご一緒したよと、楽しそうでしたから、私にとって中平さんといえば、トミー・フラナガンのことを連想してしまいます。

 中平さんは、トミー・フラナガンだけでなく多くのジャズ・ミュージシャンに好かれた稀有な方!一般人を寄せ付けない奇人として知られるセロニアス・モンクが、中平さんから頂いた「荒城の月」のオルゴール時計が大好きで、聞き覚えたそのメロディーを、ニューポート・ジャズフェスティバルに来てくれた彼のために演奏し、アルバム『Straight No Chaser』に”Japanese Folk Song”として収録したのは有名な話ですよね。

 世界中を旅して、色んな人達と接する機会のあるジャズの巨人たちは、人を見る目が肥えているから、中平さんの誠意と愛情をダイレクトに感じ取ることが出来たのだと思います。

 フォトグラファーとしての中平さんが捉えたジャズ・ミュージシャンのポートレートには、中平さんの愛情が投影されていて、私も大好きです。

 東京の個展にはなかなか伺うことが出来ませんが、この京都展にはぜひ伺おうと思っています。お近くの皆様もぜひジャズ・ミュージシャン達のぬくもりを感じに行きましょう。オープン日には、中平さんと京都ジャズ喫茶を代表する名店”ヤマトヤ“さんの熊谷忠文氏とのトークライブもあるそうです。

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中平穂積 ジャズ写真展

 会場: WRIGHT商會 ギャラリー HP

 期間:2/16(月)-2/28(土)12:00-19:00

〒604-8036 京都市中京区寺町三条下ル一筋目東入ル

Tel: 075-211-6635

入場料無料/※2/22(日)はイベントにつき、展示のみご覧のかたは17-19:00となります。

■2/16(月)18:00~ オープニングパーティー
■2/22(日)トークイベント 14:00~開場、受付開始/15:00-16:30開演:入場料:1000円(1Drink付き)。
(展示のみご覧になりたいお客様のご来場を、この日のみ17:00~19:00とさせていただきます。)
東京は新宿”DUG”の中平穂積氏と、京都”ヤマトヤ”熊代忠文氏による、ジャズとっておきの話し。