(前回よりつづき)<トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>
静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス
<アート・テイタムのことなど>
フラナガンにとって、特に思い出に残る場所は、《パラダイス・シアター》(訳注:デトロイトの黒人街の中心に在った映画館兼劇場です。)の少し北にあった《フレディ・ギグナーズ》と言うアフター・アワーズ・クラブ(訳注:ギグが終わったミュージシャンのたまり場となる朝まで深夜営業の店)だった。
「ジミー・ランスフォード、アール・ハインズ、ファッツ・ウォーラー・・・レコードで愛聴した名手たちを初めて見た場所です!」-フラナガン
オーナーであるギグナードが自宅の地下で営業していたクラブで、テイタムもそこに足繁く現れた。テイタムは、良いピアノさえあれば、どんな場所にでも立ち寄るのであった。テイタムの弟子格のピアニスト、ウィリー・ホーキンスが出演していたためでもある。地元の名手であったホーキンスの演奏はテイタムに酷似しており、テイタムや、それ以外にも演奏しようというピアニスト達がスタンバイするまで演奏していた。
「その頃の私はかなり内気でした。」フラナガンは言う。「まあ、今でもアート・テイタムがその場に居れば、やっぱりそうなると思います。ただし、彼が来ると判っていれば、ずっとその店で粘っていて、実際に弾いてくれるのを待ち構えていました。テイタムがもの凄い演奏をした夜のことは今もよく覚えています。皆すごいと言って、一体どんなコードを弾いていたのか?と尋ねたんです。実は、前座でウィリー・ホーキンスが弾いた一つのコードが気に障ったテイタムが、この曲は「かくあるべし」というコード進行をで、最初から最後まで弾いて見せた、と言うわけでした。すると今度は、テイタムがいかに和声進行に習熟しているかと、皆がわあわあ話し始めた。すると、テイタムは彼らに向き直ってこう言いました。
『デューク・エリントンこそがコードの達人だ!』
テイタムがどの程度エリントン楽団を聴きこんでいたかは分かりませんが、少なくとも、あらゆるピアニストを熟知していたのは間違いありません。
私が聴きたいのはテイタムだけでした。なぜなら彼のアプローチは私が探求していることと密接に繋がっていたからです。有り余る才能に恵まれた、真の天才だと思っていました。最初は全盲だと思っていましたが、後になってそうではないと知りました。でも、字や譜面は読めなかったと思います。あれほど凄いピアノ・テクニックをどうやって編み出したのか分かりませんが、彼の演奏する和声構造を聴くと、修練したことは明らかです。彼こそ正真正銘の名人(ヴァーチュオーゾ)だ。名人芸というものは、基本的な修練なしには、絶対に得られない!」
もう1人フラナガンに大きな影響を与えたピアニストがハンク・ジョーンズである。フラナガンがハンク・ジョーンズを初めて聴いたのは、コールマン・ホーキンスとの共演盤だった。
<ソフトタッチ>
「彼の演奏は、テディ・ウィルソンと同型だと感じました。」フラナガンは言う。「ただし、ハンクはテディをアップデートしたスタイルだった。私はハンクがテイタムの次世代のピアニストであると、常に感じていました。今も、その意見は余り変わっていません。あの頃からずっとハンクの演奏を尊敬してきたし、その思いは自分のプレイに反映されていると思います。あの頃の私は、きっといつかテイタムみたいに弾ける時が来ると思っていましたが、やがて、テイタムと全く同じように演奏する望みはないと思い知った。それからは、ハンクをよく聴くようになりました。バド・パウエルもよく聴きました。(訳注:これらの昔話はフラナガンの高校時代のことです。念のため)良く話題になるタッチの相違は、多分身体的な問題ではないかと思いますが、鍵盤を叩きつけるようなハードなタッチは絶対に嫌です。私の好むスモール・コンボ(ビッグ・バンドではなく)なら、ハードなタッチでプレイする必要は全くないし、とにかく、ハードなアプローチはどんな場合も必要ではないと思います。」
<13才のプロ・ミュージシャン>
初期の参加バンドで、フラナガンにとって特に思い出深いのは、中学時代に活動したピアノとサックスとドラムのトリオだ。当時、まだ13才ではあったが、プロに相応しい卓抜した技量をすでに備えており、早くもデトロイトでのギグが次々と舞い込んできた。1947年、ラッキー・トンプソンがデトロイトの町に戻ってくると、ミルト・ジャクソン(vib)、ケニー・バレル(g)と共に、彼のセプテットに参加している。
クラブ演奏可能な年齢に達する頃には、地元デトロイトでの仕事場は潤沢で、良いミュージシャンも多数居たものの、多くは名声を求めてNYへと進出した。テナー奏者のフランク・フォスターもこの街にやって来て、軍隊に入る前の2年間を過ごした。彼は “強烈な印象をもたらした。”とフラナガンは言う。
フラナガン自身、1951年から1953年まで陸軍に入隊している。すんでのところで、音楽家等級なしで、一歩兵として韓国に送られるところであった。だが、幸運にも、訓練地のショウでピアニストの募集があり、オーディションを勝ち抜いたフラナガンは特別芸能部(Special Service)に転属となった。彼が居たキャンプ、ミズーリ州、レオナード・ウッド基地では、例のラッキー・トンプソンのデトロイト・バンドの盟友であったバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスとの偶然の再会があった。
「彼は、すでに数週間の基礎演習を修了していて、私がホヤホヤの新兵で居ることを知っていました。」フラナガンは回想する。「初めて野営地に向かって行進している時に、ペッパーが現れた!隊列の中の僕を目がけて走ってきたんです。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込みました。 『きっと役に立つよ!』と言って…」
韓国駐屯を経て除隊、故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。
「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」
(つづく)