第23回トリビュート・コンサート曲目解説

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  11月16日に開催した「第23回 Tribute to Tommy Flanagan」コンサート、ご参加のお客様、たくさんの拍手、掛け声、笑顔、激励メール、差し入れ、お供え、ほんとうにたくさんの皆様にご協力をいただき、ありがとうございました。もうすぐ、コンサートの3枚組みCDが出来る予定ですので、OverSeasまでお申込みください。

 私自身、今回のメインステムはかなりすごくて、長いOverSeasの片隅生活の中でも、思い出に残る演奏になりました。

 寺井尚之は師匠のことですから、まあ当たり前ですが、宮本在浩(b)、菅一平(ds)の化けっぷりにぶっ飛んだ感じです。ジャズの歴史を色々調べていると、巨匠と呼ばれるミュージシャン達の芸術的な岐路というものは、何かを「得た」ときと同じくらい、何か大きなものを「失った」ときに訪れるのだということが判ります。

 いずれにせよ、メインステムには、このレギュラー・トリオでしか出せないという強烈なメインステム・サウンド目指して化け続けて欲しいです。


 トミー・フラナガンの名演目を演奏するトリビュート・コンサート、23回目を数え、毎回HPに曲説をUPしているのですが、回を重ねる毎に曲についての新しい事実も判明し、今回の曲説も限られたスペースですが、かなり改訂を加えました。

 もしご興味があればぜひ読んでみてくださいね。

<第23回トリビュート・コンサート曲目説明>http://jazzclub-overseas.com/tribute_tommy_flanagan/tunes2013nov.html

 

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 なお、演奏写真は、全てジャズ評論家、後藤誠先生のご提供です。後藤先生、ありがとうございました。

サー・ローランド・ハナ:滅多に聞いてもらえぬ物語

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 1990年代初頭、NYの寒い春、当時隆盛を誇ったジャズ・クラブ、《Sweet Basil》に出演するトミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ bass, ルイス・ナッシュ drums)を聴きに、ほぼ2週間毎晩通ったことがありました。
 たとえNYに住んでいても、フラナガン・トリオがクラブで演奏するのを聴けるのは1年にのべ数週間だけ。このときは2週間通しの出演で、フラナガンから「うちのアパートのすぐ近所のホテルを取るから聴きに来い!」というお達しがあり、店の都合をなんとかつけてNYに飛びました。寺井尚之は夜ごと五線紙と鉛筆を持って、有機的に変化するアレンジや演奏ヴァージョンを文字通り「かぶりつき」で凝視、そういうことを何度も繰り返しながら現在に至っております。

 《Sweet Basil》は当時NY観光の名所となっていて、フラナガンゆかりのジャズの巨人たちが現れる日もあれば、日本やヨーロッパ、オーストラリアなど、各国の団体客では賑わっていました。外国人のお客様は概ね静かで、1st Setだけ聴いて帰ってしまうのですが、私たち「聴きたい人」にとって厄介なのが、間違ってやってきたジャズファンではない米国人。自国の文化にリスペクトがないせいか、演奏中に大声で話すから・・・

 その夜は、トミー・フラナガンのソウル・ブラザー、サー・ローランド・ハナさんが「ヒサユキちゃん」(ハナさんはいつもこう呼んでいた。)に会いに来てくれた。ハナさんが同じテーブルにつけば鬼に金棒、勇気100倍!なにせ掛け声がプロ!前のパートナー、ジョージ・ムラーツがソロで、指板の上から下まで目にも止まらぬフレーズを繰り出した瞬間に「One mo!(もう一丁!)」の声を入れる。すかさずムラーツ兄さんが、そのフレーズを繰り返す。お客さんはもう大喜び!

 そんな楽しい演奏中に、水商売風のお姐さんを連れた酔っぱらいのグループ客が入ってきて、バラードの最中に大声でおしゃべりを始めた。ダイアナ・フラナガン夫人や周りの人が「シ~」と言っても聞く耳なし。店のマネージャーも知らん顔。怒り狂った獅子座の女、ダイアナが立ち上がったとき、止めたのがハナさんだった。
「ダイアナ、やめとけ。君が行ったら店に対して面倒なことになる。僕が替わりに言ってやるから・・・」

<天才児>

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 トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナ、デトロイトを代表するピアノの巨匠達も、世界でどれほど敬愛されてるのか判ってない同国の人々には却ってこんな仕打ちに遭うんだな・・・

 ハナさんはフラナガン以上に過小評価されてきた。その理由は、NYジャズシーンで本格的に活躍を始めた時期が60年代であったことが原因であったかもしれません。

 クラシック音楽一筋だったハナさんが中学校時代に、フラナガンのプレイに感化されてジャズに転向したのは有名な話ですが、ローランド少年は小学生のときからデトロイトの天才児として英才教育プログラムを受けていた。同時期、中西部地区で他に同じ英才児として選ばれて、ショパンやリストをガンガン弾いていたのがカーティス・フラーのお姉さん、メアリー・エリザベス・フラー、それにシカゴの巨匠、アーマッド・ジャマルがいます。

 ところがRoland “Hack” Hannaという名前で、ジャズに転向すると、デトロイトにはハナさんに負けない若き天才がゴロゴロいた。ハナさんは、フラナガンの弟分、二番手的な存在として切磋琢磨されていきました。

 フラナガンとハナさんは、ともにアート・テイタムをピアノ演奏の理想型としつつ、バップの洗礼を受けたピアニスト。美しいソフトタッチと品格はまさに同じDNAでした。ただ二人の目指すところは微妙に違っていて、フラナガンが”ブラックな音楽”を標榜した一方で、ハナさんが目指したのは、クラシックだのジャズだのというカテゴリー通念を破る音楽だった。
 ハナさんにとって「ショパンもファッツ・ウォーラーも、同様に優れた即興演奏家」だし、ラフマニノフもルビンシュタインも、アート・テイタムと同一カテゴリーに属するピアノの巨匠だった。

  そんなハナさんの偏見のなさが、「クラシックかぶれ」とか「代表作がなくて地味(!?)」だとか、奇妙きてれつな偏見を生んだ。哀しいね。

<A Story Often Told Seldom Heard>
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  ”A Story Often Told Seldom Heard”(いつも話すのだけれど、滅多に聞いてもらえない物語)は、ハナさんのオリジナル曲。ハナさんが愛したモネの「睡蓮」のように、翳りと光に溢れた不思議な美しさに溢れた作品です。

 この曲は、恐らく’70年代の初めに書かれたものだと思いますが、クラブ演奏で、満員のお客さんが騒々しくて自分の演奏をちっとも聴いてくれない悲哀を曲にしたものなんだそうです。それは《Five Spot》でセロニアス・モンク・グループの対バン・ピアニストとして演奏していた頃の思い出なのか? NY大に近い《Knickerbocker Bar and Grill》でステーキを食べるのに忙しいお客さんの前で演奏していたときの気持ちだったのか?

 OverSeasで繰り広げられたハナさんの演奏は、イマジネーションが溢れ出るのが止まらないといったものでした。ソフトタッチで美しい雄叫びのようなフォルテッシモから胸の奥まで届く静謐なピアニッシモ、弾いてもらうピアノが「嬉しくて堪らない!」と言わんばかりに響きます。ハナさんがピアノで繰り出すストーリーに胸が張り裂けそうになって泣いてしまうお客さんも珍しくなかった。そんな音楽家が「聴いてもらえない」ときに、こんなに美しい曲が生まれたとは、皮肉だなあ!

 ”A Story Often Told Seldom Heard”、ハナさんに直接語ってもらうことはもうできません。

   トミー・フラナガン没後1年、後を追うように逝ってしまったサー・ローランド・ハナ(1932年2月10日ー2002年11月13日没)11月に偲ぶもう一人の巨匠です。

hanna_roland_ramona_hisayuki_terai.jpg 上の動画は、ジョージ・ムラーツ(b)とメル・ルイス(ds)とのトリオ。ハナさんが録音の出来に満足して、寺井にCDを送ってくださったアルバム『Round Midnight』にも収録されていて最高!でも、これはやっぱりハナさんの「物語」として、一曲ではなく、一枚通して向かい合って欲しいです。

トミー・フラナガン:名演目のレシピは?

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Tommy Flanagan (1930-2001)

 
<フラナガンの演目はマニアックか?>
 このところ、トミー・フラナガンの名演目といわれる曲の、ごく一部を紹介してきました。 
 
 「フラナガンの名演目」と言われてもなあ・・・マニアックな曲ばっかりじゃん」と言うなかれ。馴染みのない曲でも、心にすっと入ってくる違和感のなさには驚くばかり!それにも拘らず、演奏する者がほとんどいない理由は、ひとつに「難曲」であること。もうひとつは、「譜面が入手できない」ことが、とりあえずの原因です。今はスマホでも、リアルブックと呼ばれる膨大なジャズ・スタンダード譜面集がダウンロードできますが、メロディーもコードも惨憺たるもので、そのまま演奏しても格好がつかない。
 
  フラナガンは昔気質で、譜面を見せないミュージシャンだったし・・・というか、真正のスコアはあの立派な禿頭の中にしっかり格納されていた。だからフラナガン・トリオの歴代の共演者達も、レコーディングすら譜面なしでやっているものが殆どなのです。それがほんとのジャズ・ミュージシャン。だって五線紙に音楽に必要なデータを完全に書き入れることはできないのだから。 フラナガンは一応、演奏場所には、譜面の入った茶封筒を持参してはいたけれど、実際の演奏とはだいぶ違っていたのかもしれません。でも寺井尚之には、書きおろしの新曲を写譜させていたこともありました。その原本ににもあっと驚く「書き間違え?」があって、「こんなん初めてのベーシストに渡したらエラいことになるやろな。」と寺井は呆れてた。むしろ、フラナガンの方が寺井の書いた譜面を持って帰ったりしていたくらいです。
 
 往年のデューク・エリントン楽団でも、譜面台に立てられたスコアと、実際の演奏はずいぶん食い違っていて、(恐らく何度もヴァージョン・アップがなされていて)、「ぽっと楽団に入ると全然どこを演ってるのかわけがわからない!」とディジー・ガレスピーがボヤいていたから、ジャズってそんなものなんだ!
 
 
 
<フラナガン流ブラック・ミュージック> COVER.jpg  
 エリントニア、モンク、ダメロン、バド・パウエル、それにチャーリー・パーカー!そこから派生するサド・ジョーンズ、トム・マッキントッシュという辺りがフラナガン好みの作曲家です。
 フラナガン的選択基準は“ブラック”であること。
 「ジェームズ・ブラウンのようなソウル・ミュージックのことなのか?」と、インタビューで質問されると、「そんなもんワシは知らん!」と気色ばんだことがあった。
 
   フラナガンの言うブラック・ミュージックってなんだろう?
 
 そのヒントになるのが、”Something Borrowed, Something Blue”というフラナガンのオリジナル曲。グローヴァー・ワシントンJrが録音して、たくさん印税をもらったらしい。エレクトリック・ピアノで演奏されたことは別にして、気になるのは、この曲の題名。  元は英国に伝わる花嫁さんの幸せを約束する縁起のよいもので、全体はこんな詩。
 

Something old, something new,
  Something borrowed, something blue,,
And a silver sixpence in her shoe,
古いものと新しいもの、,
 借りものとブルーなもの、,
そして花嫁の靴の中には銀貨を入れて。

  ここで連想するのが、前々回に紹介したトム・マッキントッシュの作品を取り上げたディジー・ガレスピーのアルバム『Something Old, something New』(1963年)。新旧の名曲がうまく組み合わされたこのアルバムに収録されたマッキントッシュ作品のうち”Cup Bearers”と”The Day After”はトミー・フラナガンのレパートリーになっている。
 
 ”Something Borrowed, Something Blue”という曲は、ディジーとマッキントッシュへのリスポンスではなかったのだろうか?
 
 そんな風に前提を立ててから、もう一度このフレーズを訳してみると・・・
 

“Something Old (自分のルーツを自覚して), 

Something new (革新の心を持ちながら),,

Something Borrowed (先人や西洋音楽のアイデアを借り),

Something Blue (ブルース・フィーリングを保て)”

 

  花嫁に向けた格言には、トミー・フラナガン流、ブラック・ミュージックの極意が隠されていたのかも知れませんね。 

 と、いうわけで、これからもトミー・フラナガンの名演目がマニアックなもので終わらぬように、紹介していきたいと思います。

 え?私のブログがすでにマニアックって?テへへ・・・わかる奴だけわかればいいの。

 

 

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 何よりも、フラナガンの背中を見て盗み、フラナガンの教えを受けた寺井尚之と、彼が手塩にかけた宮本在浩(b)、菅一平(ds)とのメインステムの演奏を、トリビュート以降も愛していただけますように!どうぞよろしくお願い申し上げます。

CU

トミー・フラナガンの名演目(3): Chelsea Bridge

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 『Overseas』(’57)や『トーキョー・リサイタル』(’75)の圧倒的な演奏を始め、ライブでは”エリントニア”(デューク・エリントン・メドレー)に組み込んでフラナガンは愛奏しました。ご存知のようにデューク・エリントン楽団のヒット曲ですから、元々はビッグ・バンド用、それをコンパクトなピアノ・トリオのフォーマットで演奏したピアニストは、フラナガンが史上初!エラ・フィッツジェラルドと共にフラナガンが待望の来日を果たした1975年、曲目紹介なしに始めた<チェルシーの橋>、僅か3拍で、怒涛のような歓声と拍手に京都国際会館が揺れた。文字通り、トミー・フラナガン、極めつけの名演目!

billy-strayhorn-duke-ellingtons-arranger-terry-cryer.jpg 作曲は、エリントンの右腕、ビリー・ストレイホーン。フラナガンはこの天才作曲家を”生涯一書生”と呼んだ。咲き乱れる花々や美術品に囲まれながら、孤独と苦悩を抱え続けた彼の人生については、随分以前に書いています。 ”チェルシーの橋”とはNYではなくロンドンのテームズ川にかかる吊り橋、およそ浮世離れし耽美的な作品ですが、「お金」をめぐる世俗の争い事がなければ、この作品の幻想的な美しさも、ビリー・ストレイホーンという天才も広く知られることはなかったかも知れません。


<著作権をめぐる仁義なき戦い>


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  現在も「著作権」トラブルは絶えませんが、第二次世界大戦勃発以降、音楽業界を震撼させる争いが次々と起こり、ジャズ界は大きな影響を被ることになります。ひとつは、1942~43年のレコーディング禁止令(Recording ban)、もうひとつが、ラジオ業界とASCAP著作権組合 (The American Society of Composers, Authors and Publishers )との前代未聞の抗争でした。1940年、大恐慌から著作権収益が低迷するASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)は、世界大戦の影響で更に業績が悪化する中、最大の収入源であるラジオ業界に対し、翌年度の著作権料を前年度から一挙に448%値上げするというとんでもない通告をします。「てやんでい、この野郎!」ラジオ業界は猛反発。CBS、NBC二大ラジオ・ネットワークと傘下局は、1941年1月1日よりASCAPに帰属する楽曲を放送しないことを決議、逆に、BMI(Broadcast Music Inc.)なる自分たちの著作権団体を新設、安い著作料を設定し、ASCAPに倍返しを企みます。おかげで、ASCAPが門戸を閉ざしてきたリズム&ブルースの隆盛につながるなど、ポップ・ミュージックは新たな局面を迎えるのですが、困ったのはASCAP会員のデューク・エリントン。1930年のハーレム・コットン・クラブ時代より、ラジオを通じて全米で人気を誇った楽団のレパートリーが一切放送不可になるのですから絶体絶命!エリントンがいくら新曲を創ってもASCAPに登録されてしまうのですからダメ!とにかくエリントン以外の名義で楽団のレパートリーを総入れ替えすることが急務となります。ラジオ番組のテーマ・ソングも刷新せねば・・・それができなければエリントン楽団の前途はない。

 そこで白羽の矢が立ったのが息子のマーサー・エリントンと、書生ビリー・ストレイホーン。二人は「放送禁止になる新年までの僅か数週間で楽団の譜面帳を作れ!」という究極のミッション・インポッシブルを課せられます。

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デューク&マーサー・エリントン:

ストレイホーンという天才の存在が親子関係に陰を落とすことに・・・

 新曲を揃えるだけでなく、パート譜も全て書き上げろなんて・・・エリントンが楽団を率いて笑顔で演奏に明け暮れる間、二人はシカゴの有色人種用のホテルに缶詰で作曲編曲、24時間不眠不休で作業に従事。

 ストレイホーンはこれまで陽の目を観ることのなかった自作品を一挙に楽団用に仕上げていきました。マーサー・エリントン21才、ストレイホーン25才の冬です。

 かくして必死のパッチで出来上がった新曲集から、デュークが楽団の新しいテーマ・ソングとして選んだのが「余りにもフレッチャー・ヘンダーソン楽団っぽすぎるから」という理由でストレイホーンが一旦ゴミ箱に放り投げた”A列車で行こう “で、これはご存知のように楽団最大のヒット曲、ジャズで最も有名な曲になりました。「売れる」とか「売れない」といか言ってる場合じゃない。主にストレイホーンが書き溜めていたスケッチから出来上がった新レパートリーには、師匠エリントンから習得した作曲技法と、ストラビンスキーやドビュッシーなどクラシックの作曲家からのエッセンスが融合し、これまでにないコンテクストを持っていた。その中でも、” Chelsea Bridge”は、耽美的で印象派的、ストレイホーン独特な世界を醸し出し、ベン・ウェブスターのソロと相まって、他の楽団と一線を画し、エリントニアの象徴的作品となります。
 

<耽美派>

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「青と金のノクターン:バターシー・ブリッジ」
 曲のイマジネーションの源は、19世紀の米人画家で、日本美術の影響を受けた耽美派と言われているジェームズ・マクニール・ホイッスラーの作品にあったとストレイホーンは語っています。ホイッスラーが橋を描いた作品は多いのですが、「チェルシー橋」を描いたものは見つからない。上の”青と金のノクターン-オールド・バターシー・ブリッジ”はホイッスラーの代表作、確かに曲と共通する幻想的なムードを感じます。ストレイホーンは芸術全般に造詣が深く、美術や骨董を収集し、仏像や彫刻など美しいものに囲まれて暮らし、その代金は全てエリントンのポケット・マネーから支払われた。

 
 

<芸能から芸術へ>
 

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   では、フラナガンにとって、ストレイホーンは、”Chelsea Bridge”は、どんな意味があるのだろう?
 
 ギル・エバンスは、”チェルシー・ブリッジ”を聴いた途端、自分の目標が定まった、と語っています。つまり「型」から入った人。それに対して、フラナガンは「こころ」から入ったのではないだろうか?
 
 ニューオリンズの歓楽街、シカゴのサンセット・ラウンジ、NYのコットン・クラブ・・・ジャズは、どれほど高級になろうとも、酒や美しいコーラス・ガールあっての音楽、ハーレム貴族のお楽しみ。
 
 ところが、著作権抗争のおかげで、慌てて表舞台に出た”Chelsea Bridge”は、ダンスもキャビアもドンペリも必要としない自己完結、、「わかる奴だけわかればいい」というスタンスで創造された芸術、ジャズには無謀なほど芸術的だった。その精神は、ストレイホーンが夜な夜なハーレムのクラブでジャム・セッションに興じたディジー・ガレスピーやマックス・ローチによってビバップとして引き継がれていく。
 どれほど卓抜な演奏者でも、黒人の音楽家はシリアスな演奏や、奥深いラブ・ソングを歌うことが許されぬ、、道化者でいなくてはいけない米社会に風穴を開ける、革新的音楽、美しい公民権運動とすら呼べるものだった。これこそ我が道、「ブラック・ミュージック」のあるべき姿だ!フラナガンはそう思ったのに違いない。
 
 『Overseas』録音直前、若き日のフラナガンは、奇しくもNYの街で憧れのストレイホーンに出会う。「実は、もうすぐあなたの作品をレコーディングさせて頂きます。」と自己紹介すると、ストレイホーンはフラナガンに、自作の譜面をありったけくれた。運命の出会い!フラナガンの想いはどんなだったろう?  
 
  この”Chelsea Bridge”、フラナガンのヴァージョンは、エリントン楽団のものとは微妙にコードも違うし、勿論構成にも秘密がある。世間に出回る譜面では、到底フラナガンの世界にはならないのです。
 かつて寺井尚之は、深夜のクラブ、Bradley’s でエリントン楽団はこう、フラナガンはこうと、ロニー・マシューズとロイ・ハーグローブ、名伴奏者、マイク・ウォフォード相手、「ジャズ講座」をやるは、フラナガン自身があきれるほどに、演奏の中身を知っている。
 
 トリビュート・コンサートでは、そんな寺井尚之が「チェルシー橋」の上にまたたく星も、夜のテームズ川の流れも、橋の上を吹き渡る風の色も、全て再現してご覧に入れます。どうぞお楽しみに!
 
CU

トミー・フラナガンの名演目(2): With Malice Towards None

ballads_and_blues_0.jpeg OverSeas的大スタンダード、”With Malice Towards None” (ウィズ・マリス・トワーズ・ノン)。トミー・フラナガンはジョージ・ムラーツ(b)とのデュオ・アルバム『Ballads and Blues』(’75)、トリオでのバースデー・ライブ、『Sunset And The Mockingbird』(’97 )、ソロはフランク・モーガン名義の『You Must Believe In Spring 』と繰り返し録音し、ライブでも演奏し続けた愛奏曲です。

 作曲者はトム・マッキントッシュでラナガンのお気に入り!この曲以外にもCup Bearers, A Balanced Scaleなど数多くマッキントッシュの作品を取り上げている。

 

 生前、フラナガンはこの曲についていくつかのヒントをくれました。

     

① この曲はリンカーンの名言がタイトルで、メロディーの元は賛美歌だ。

     

② トム・マッキントッシュはとても信心深くて、音楽そっちのけで牧師をしていたことがある。(笑)

     

③ マッキントッシュの作品が好きな理由は非常に”ブラック”だからだ。

 フラナガンの言葉はいつも謎、謎、謎ばかり。少し調べてみよう!

       

<エイブラハム・リンカーン+賛美歌=ウィズ・マリス・・・>

 

quote-with-malice-toward-none-with-charity-for-all-with-firmness-in-the-right-as-god-gives-us-to-see-abraham-lincoln-112732.jpg “ウィズ・マリス・トワーズ・ノン”・・日本人には言いにくいし、聞きづらいタイトルですが、米国ではだれでも知っているエイブラハム・リンカーンの名言、大統領第二期就任演説の結びの言葉。   

 

何ものにも悪意を向けず、すべてのものに慈悲の心を向けよう…」

    南北戦争終結直前のスピーチ、今は敵と味方でも、終戦後は一丸となって平和な国歌を目指そう!という呼びかけです。でも、リンカーンはこの演説の3週間後に暗殺されました。

 曲のの名付け親はマッキントッシュの友人でGene Keyesという名のシカゴのピアニスト。曲を聴いていて、この名言が浮かんだのだそうです。
 
 そして、どこか懐かしいメロディーの元になった賛美歌は、日本のキリスト教会でも極めてよく歌われる「賛美歌461番:主われを愛す(Jesus loves me,this I know)」だった。  余談ですが、同じ賛美歌が、中山晋平作曲、野口雨情作詞の「シャボン玉」の元になっている!明治時代、国策として編纂された「唱歌集」以降、賛美歌のメロディーをベースに造られた童謡は日本にも多いらしい。
 
 
  

<神童マック> Mac05dac.jpg トム・マッキントッシュ(1927-)

 

  作曲者、トム・マッキントッシュについて:ジャズ通の皆さんは、”ジャズテット”やサドーメルOrch.の一員としてご存知かも・・・一般的な人気よりも、仲間内の評価がずっと高い、いわゆるMusician’s Musicianです。ジャズが下火になった’70年代は映画やTV音楽の世界で活躍。「スパイ大作戦」、それにオスカー受賞の「黒いジャガー」の映画音楽は、アイザック・ヘイズ作とされていますが、本当のところはマッキントッシュ作だった。(ヘイズは譜面の読み書きができなかった。)
 
 でもフラナガンとの接点はどこにあったのだろう?
 
 トム・マッキントッシュ、愛称”Mac”は1927年、メリーランド州ボルティモア生まれ、当時、多くの黒人家庭がそうであったように、生活保護を受けながら子供時代を過ごした。黒人層の収入が他の都市より遥かに多いデトロイト育ちのフラナガンとは違い、楽器のレッスンなど受ける余裕なし。でも類稀な歌声と素晴らしい耳を持っていた。どんな音楽でも一度聴くと覚えちゃう。そして数日後でも、再びそのメロディーを歌って聴かすことができた。さらに、天性のハーモニー・センスがあった。メロディーを聞くと同時に、長3度、6度といったハーモニーが、頭の中で聴こえていて、瞬時に声で再現できたそうですから天才だ!フラナガンと一緒だ!ただし、幼い頃からクラシックの英才教育を施されたフラナガンと異なり、マックの中学校には「音楽」という教科すらなかったんです。
 ところが、担任の先生が偉かった!彼の並外れた才能に気づき、奨学金を申請、原則白人オンリーの名門音楽学校、ピーボディ・インスティチュートの声楽科に特別枠で入学し、首席になります。当時のマックはまだまだジャズには縁遠く、”ダニー・ボーイ”のような伝統的なアメリカ歌曲を愛した。フラナガンが「クラシック音楽の呪縛から解放されているブラックな音楽家」と絶賛する秘密はこの辺りにあるのかも・・・ところが、 学校の窮屈さと経済的な理由でさっさと陸軍に入隊志願、天才マックがジャズに出会うのは、戦争の酷い爪跡が残る敗戦国ドイツの駐屯地でした。
 

<ドイツでジャズと出会う>  
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 ドイツに上陸したマッキントッシュを迎えたものは、至る所に立ち込める「死臭」、そして貧困に苦しむ人々。戦争さえなければ裕福で知的なレディでいたはずのドイツ人女性が、飢えないために娼婦に身を堕とし、道端でマッキントッシュ達、若い進駐軍を誘う。ガス室に送られて死に絶えたドイツ系黒人達の死体、ホロコーストはキリストのせいと、神を断罪するユダヤ人たち、その惨状に大きなショックを受けます。それがマックを「エホバの証人」の信仰に駆り立てたのかも知れません。 洗濯兵だったマックは、声楽家ながら軍楽隊に転属し、21歳で初めてトロンボーンを始めます。同時にバンド仲間を通じて、デューク・エリントンやチャーリー・パーカーの音楽に出会い、たちまち虜になりました。マッキントッシュは、エリントンに魅了された理由を、「単にハーモニーが素晴らしいと言うのではなく、楽団の各メンバーが歌う様々な歌が合わさって、エリントン・サウンドというひとつの音楽に統合されていることに驚いた。」と語っています。
 
 トロンボーンを独習し、わずか数ヶ月でトルーマン大統領直属の特別な軍楽隊の選抜メンバーに抜擢。マックの伸びしろの大きさを看破したオーディションの担当上官がなんとレッド・ミッチェル(右:写真)!上官にはチャーリー・パーカーの共演者だったピアニスト、アレン・ティニーが、トロンボーンの同僚にはジョージ・ベンソンのお父さんがいた。ベンソンもマックと同じ「エホバの証人」の信者で、ミュージシャンとしては、プリンス、テニスのビーナス & セリーナ・ウィリアムズ姉妹たちも教団の著名人欄に名前を連ねています。後に、マッキントッシュがパラマウント映画から解雇された理由は、余りに熱心な宗教活動のためだったらしい・・・ 
 
  
<NYとトミー・フラナガン>
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    1956年、マックはリスク覚悟で音楽の道に進むことを決意、GI ビル(退役軍人の学費免除制度)を利用し、NYのジュリアード音楽院に進学しました。除隊の際、軍楽隊の仲間でデトロイト出身のトップ・ピアニストがこんな風にアドバイスした。  「君は僕を最高のピアニストと思ってるみたいだが、本当はそうじゃない。NYにはトミー・フラナガンというピアニストが居る。彼こそが本当に”弾ける”奴だ。彼を訪ねて行くといいよ。」   NYにやって来たマックがフラナガンを見つけるのは簡単でした。フラナガンは街中のジャズメンが共演を望む引っ張りだこの存在だったし、二人の住むアパートは目と鼻の先、たちまち親友になります。
 「最高の人間になる近道は、最高の人間と付き合うことだ。」
 フラナガンの人脈のおかげで、マックはジャズ・シーンの若頭的存在だったジョン・コルトレーン宅のジャムセッションに参加することができ、元上官のレッド・ミッチェルと再会を果たします。やがてミルト・ジャクソンやジェームズ・ムーディといったディジー・ガレスピー組に迎えられ、アレンジャーとしての実力が知れ渡っていきました。
<フラナガンの思う壺、With Malice…>
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 ”With Malice…”は、トム・マッキントッシュの処女作。マックの作曲センスに興味を抱いたフラナガンは、作曲していると現れる。「さて、ここからどうしよう・・・」と迷って考えこむと、肩越しに覗きこんで「こうすれば?」「こっちの動きの方がいいんじゃない?」と逐一ナビゲートした!そのアドバイスはいつも適切で、「トミーが僕の作品をキメてくれた。」と、マッキントッシュ自身が語っています。
 フラナガンはマッキントッシュが紡ぐメロディーに、エリントンの”Come Sunday”に通じる黒人音楽のブラックな輝きを見つけたのに違いない。フラナガンは、自分がこの曲を演奏するという前提に立って、創作の舵取りをしたのではないだろうか?例えば、フェリーニがニーノ・ロータに注文を付けるように、マックのイマジネーションを喚起したのではないだろうか?

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 出来上がった作品は、チャーリー・ミンガスの目に留まり、マックに編曲を依頼して”ファイブ・スポット”で初演された。ただし、ミンガスが曲名を”With Malice Towards Those Who Deserve It” (憎まれても当然な奴らに悪意を向けて)と勝手に変えてしまったのですが・・・
 以来、有名ジャズ・スタンダードではないにせよ、”With Malice Towards None” は様々なミュージシャンが演奏している。フラナガンは、サイドマンとして『Dusty Blue/ Howard McGhee 』(’60)、同じ曲ながら”Mallets Towards None”という曲名で『Vibrations / Milt Jackson 』(’60)に参加(トム・マッキントッシュ編曲)。2003年にやっと出たという感のある、トム・マッキントッシュ自身の作品集のタイトル曲にもなっています。
 色々聴いてみましたが、曲の持つ良さ、つまり曲名が象徴する、魂を揺さぶるゴスペルの感覚と、エリントン的な洗練を併せ持つヴァージョンということでは、フラナガンが傑出している感があります。
 フラナガンの演奏に咲く華は、作曲の段階でフラナガン自身が撒いた種のせいに違いありません。
  フラナガン亡き後、この演奏解釈を再現できるのは寺井尚之だけかもしれない。11月のトリビュート・コンサートでメインステムの演奏を聴いてみてくださいね!
参考資料:
  • Reflections on Jazz and the Politics of Race/Tom McIntosh
Vol. 22, No. 2, Jazz as a Cultural Archive (Summer, 1995), pp. 25-35 Published by: Duke University
  • Smithsonian Jazz Oral History Program NEA Jazz Master Interview 

http://www.smithsonianjazz.org/documents/oral_histories/McIntosh_Tom_Transcript.pdf

トミー・フラナガンの名演目(1): Tin Tin Deo

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 11月16日(土)はトミー・フラナガンの命日!OverSeasでは、寺井尚之(p)が宮本在浩(b)、菅一平(ds)を擁するトリオ、The Mainstemで、在りし日の名演目を演奏するトリビュート・コンサートを開催!ぜひこの機会に、Jazz Club OverSeasにお越しください。

 フラナガンが亡くなって12年!現在もフラナガンの音楽に親しむ常連様から、トリビュート・コンサートに先駆けて、聴きたい演目の「総選挙」をしてはどうか?というご提案をいただきました。「総選挙」の体制が整うように、当ブログで演目のご紹介をしていきたいと思います。今日は、フラナガンがよくラスト・チューンとして愛奏した”Tin Tin Deo (ティン・ティン・デオ)”のお話を!

<アフリカ発~キューバ経由~USA着>

Flanagans_shenanigans.jpg  寺井尚之が初めてトミー・フラナガン・トリオの”Tin Tin Deo”を聴いたのは今から25年前の“ヴィレッジ・ヴァンガード”。むせ返るようなラテンの土臭さと都会的な洗練美が同居する演奏に大きな衝撃を受けました。作曲はChano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespieと3人の連名、1951年にディジー・ガレスピー楽団がデトロイトでレコーディング。フラナガンの親友、当時19才のケニー・バレル(g)が録音に参加しています。

 フラナガン自身のレコーディングは1993年ですが、亡くなるまで演奏ヴァージョンはどんどん進化していきました。トリビュート・コンサートでは、その中でも最高のアレンジメントでお聴かせします。

 ビバップの生みの親、ディジー・ガレスピーは、キューバ出身のコンガ奏者、チャノ・ポソとの出会いで、アフロ・キューバン・ジャズという新しいスタイルを創造しました。それまでにも、ルンバやマンボは、ダンス音楽として米国で人気がありましたが、ガレスピーとポソの音楽は、Slave Christianityと呼ばれるアフリカの土着信仰とキリスト教が融合した宗教的なルーツを持っていました。

 

<暴力と神:チャノ・ポソの凄絶な生涯>

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(Chano Pozo 1915 – 1948)

 ハヴァナ生まれのチャノ・ポソはアフリカから連れて来られた奴隷の子孫で、元は奴隷の居住地だっ

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たスラム育ち、小学校中退で札付きの不良でした。13才で少年院に送られ、そこで打楽器と宗教に目覚めます。スペイン統治時代、キューバの奴隷たちは、強制的にキリスト教に改宗させられたために、自分たちのアフリカの神々を、ローマン・カトリックの聖人になぞらえて信仰する「サンテリア」という宗教が生まれたんです。サンテリア教で打楽器は神々と人間を結ぶ重要な役割を果たすもので、それぞれの神々に一定のドラム・パターンがあり、打楽器と歌とダンスによってトランス状態になりながら神々と交信する宗教儀式が行われました。ポソは、そのような宗教的なミュージシャンだったんです。

 でも、ポソは決して清廉な宗教音楽家ではなかった。少年院からシャバに出た後は、靴磨きからボディガードまで、様々な職を転々としながら、ミュージシャンとして有名になり、作曲も行うようになりました。NYのラテン系ミュージシャンの間で、ポソの評判はとても悪かったそうです。呑む、打つ、買うの三拍子、派手に遊んだポソの音楽が、世俗的なものではなく、逆に深く宗教に根ざしているのが面白いですね。倫理的、哲学的な「宗教」というより、むしろ「まじない」と考えた方が判りやすいのかも知れませんね。

 1942年、マチートがポソの作品を録音したことで、NY在住のラテン系ミュージシャンの間でポソの名前が知られ、1946年渡米、翌1947年9月、ディジー・ガレスピー楽団に参加。12月のカーネギー・ホールで行われた楽団のコンサートは大好評でアフロ・キューバン・ジャズという新しいジャンルの到来に湧き、ヨーロッパでも絶賛されました。

Courtesy Frank Driggs Collectionchano-dizzyg.jpg

 その僅か1年後、12月3日の午後、ポソは粗悪なマリワナを売りつけられた腹いせに、同胞キューバのヤクの売人を殴り倒し、その日の夜、バーから出たところを、その売人が倍返しと射殺。34歳の誕生日を迎える一ヶ月前のあっけない最期でした。

<ディジー・ガレスピーの吸収力>

Dizzy Gillespie playing with the Giants of Jaz...

Dizzy Gillespie playing with the Giants of Jazz, Hamburg, Germamy, 1973 (Photo credit: Wikipedia)

 チャーリー・パーカーにせよ、ポソにせよ、ディジー・ガレスピーは短命な盟友達から新しい音楽のエ

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ッセンスを貪欲に取り込んで、仲間のミュージシャンを指導してジャズ史を発展させて行ったというのが凄い。ポソは英語も読み書きもだめで、楽団のミュージシャンと決して良好な関係は築けなかった。ガレスピーが優れた統率力で団員をまとめ、僅か一年余りの共演期間中、できる限りポソに寄り添い、「サンテリア」の各々の神にまつわる「クラーヴェ」というリズム・パターンを吸収していきました。ポソの伝える複雑なリズムや哀愁に満ちたメロディーは、ガレスピーにとってエキゾチックなものというよりは自身のルーツへの道案内だったのかも知れません。彼の持つアフリカ土着の音楽言語をビバップの洗練された文体に取り込んだものが、この”Tin Tin Deo”であり、 “Manteca”であり、いかにも『チャント:お経』の趣がある”Cubana Be, Cubana Bop” (作曲はジョージ・ラッセル名義)です。サルサを始め、NYという水に洗われたラテン音楽の中でも、ガレスピーとポソが創ったアフロ・キューバン・ジャズは独特の香りがあります。

<トミー・フラナガンのヴァージョン>

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 後年、ディジー・ガレスピーはキューバのミュージシャンを米国に受け入れる支援をし、オール・スター・バンドとしてアフロ・キューバン・ジャズを披露していましたが、ポソが在籍していた頃の土臭さが時代とともに薄まって行ったように感じます。それでは、フラナガンのヴァージョンは当時のアフロ・キューバンの再現かというと決してそうではないんです。

 ビッグ・バンドの演目をピアノ・トリオに置き換えて本来のダイナムズムを失わないというのは大変な作業ですが、それこそフラナガンの得意技!キューバ音楽の特徴であるコール&リスポンスを、ピアノとドラムの掛け合いに生かしてイントロにし、名ドライバーがシフトチェンジとクラッチワークで、走りを自在にコントロールする如く、ラテン・リズムと4ビート、倍ノリ、4倍ノリと、変幻自在のグルーヴ変化、そして印象的なリフ、黒人ピアニストの伝統的な10thボイシングの奥行きで、強烈なダイナミズムを描出!洗練されて、一層鮮やかな仕上がりですが、日本料理のように素材本来の持ち味はは損なわれていないんです。


 そんなTin Tin Deo、フラナガンの名演目ってこんなだったのか!と思わせる演奏を11月のトリビュート・コンサートでお楽しみください!

 

 

 

 

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11/16(土)開催:トミー・フラナガン・トリビュート

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<第23回トミー・フラナガン追悼コンサート>
11/16(土)
7pm-/8:30pm (入替なし)
演奏:寺井尚之トリオ ザ・メインステム 
寺井尚之(p)
宮本在浩(b)
菅一平(ds)
前売りチケット¥3,150(税込、座席指定)
当日 ¥3,675(税込、座席指定)
 

 台風の後、10月半ばを過ぎて急に肌寒くなった大阪です。

 OverSeasでは、来月、トミー・フラナガンの命日にトリビュート・コンサートを開催することになりました。
 
 寺井尚之がトミー・フラナガンの音楽に魅入られてから42年、フラナガン没後、実に12年の月日が経ちました。
  寺井尚之メインステムがフラナガンの名演目をお聴かせして、巨匠を偲ぶトリビュート・コンサート。今年はフラナガンの祥月命日、11月16日(土)に開催します。
 「名伴奏者」「名盤請負人」「紳士」「職人」…フラナガンを賛美する形容詞はいろいろあるけど、正直言うと、どれも私にはしっくりきません。私が生身に触れたフラナガンという人は、ポーカー・フェイスの奥に、自分でも制御できない熱いマグマが燃える天才だった。その演奏はもう生で聴くことは叶いませんが、エリントンやモンクなどジャズ史の稀代の天才の作品の持ち味を最高に活かしたアレンジや、決めのフレーズの隅々に、熱いマグマを感じることができます。そして、譜面として残されていないそのアレンジを再現できるのは、手前味噌と言われても、世界で寺井尚之しかいないんです。
  一方、モダンジャズのレコードが、名前のないBGMとして聴かれる昨今、トミー・フラナガンの名前は一応知ってるけど、「名演目」と言われてもコマル・・・という皆様のために、来週からトリビュートの演目を少しずつご紹介していきたいと思います。
 トリビュート・コンサートのチケットはOverSeasでのみお取り扱いしています。お問い合わせは

トランペッター人生いろいろ(その2):レッド・ロドニーの七転び八起き

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<I stayed in music and I stayed a junkie>

 レッド・ロドニーはチャーリー・パーカーに共演者として選ばれた白人トランペット奏者。クリント・イーストウッド作品『Bird』の登場人物としてさらに有名になりました。
 見出し(私は音楽界に留まり、ジャンキーであり続けた。)は、ロドニーがチャーリー・パーカー・クインテット以降の自身を語った言葉です。

<フィラデルフィアのユダヤ人ゲットーから>

 red-rodney-20130710050556.jpgロバート・ロドニー・チャドニック)は1927年、ジャズメンを多く輩出したフィラデルフィアのユダヤ人ゲットーに生まれました。高校の仲間にジョン・コルトレーンやバップ・クラリネットの第一人者、バディ・デフランコがいます。ユダヤ教男子が13歳になると行う成人儀式、”バル・ミツヴァ”のお祝いにもらったトランペットをきっかけにジャズに開眼します。

 1942年、ニュー・ジャージーのレジャー都市、アトランティック・シティーに移ったロドニーは、トランペットでかなりなお金が稼げることにびっくり!戦時下でミュージシャンたちが次々と召集されてしまい、15歳で徴兵年齢に達しない駆け出しのロドニーが引っ張りだこになったのです。学校なんか行ってる場合じゃない!翌年、高校を中退しベニー・グッドマンのツアーに参加。その頃のアイドルはハリー・ジェームズだった!

<チャーリー・パーカー・いのち>

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 1940年代中ごろに再びフィラデルフィアに戻り、CBSのラジオOrch.で子分格のジェリー・マリガンと活動中に、町にやって来たディジー・ガレスピーの全く新しい音楽、ビバップに衝撃を受けます。ガレスピーも彼の才能を見逃さず、NYに呼び寄せた。ジャズのメッカ52番街の”Three Deuces”、そこで目の当たりにしたパーカー・ガレスピー演奏、そしてチャーリー・パーカーの並外れた知性に多感なロドニーは完全に魅了されてしまいました。

 1948年、パーカーはマイルズ・デイヴィスの後任として自己クインテットにロドニーを抜擢!マイルズがビル・エヴァンスを加入させて物議を醸す以前の出来事でした。バンド中、ただ一人のホワイト・ボーイ、人種隔離の南部のツアーでは、白子の黒人「アルビノ(色素欠乏症)・レッド」という芸名で有色人種のホテルに投宿し演奏した。そんな苦労は映画「バード」に詳しく描かれています。バードに憧れるあまり、(パーカーの意に反して)、ヘロインを打つことまで真似をしたロドニーは、入院や服役を繰り返す壮絶な人生を歩むことになります。

<バッパーの末路>

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 1955頃からチャーリー・ヴェンチュラ楽団の仲間で、トランペット、サックスなど何でもこなす名マルチプレイヤー、アイラ・サリヴァンと組み、今回のアルバムを始め、晩年に至るまで数多くの共演作を録音しています。ルイス・スミスは家族のためにジャズのキャリアを放棄しましたが、ロドニーは、麻薬の前科が災いし、各地のジャズ・クラブから閉めだされました。

 そのため一時期、ジャズ界を離れ、結婚式やバル・ミツヴァの盛大なパーティを専門に行うユダヤ系の宴会場で演奏とマネジメントを担当し、チャーリー・パーカーとの共演時代より遥かに高収入を得ていた時代もあります。しかし、ジャズへの想いは断ち切れず、フラストレーションのために、再びヘロインに耽溺し、財産も家も失いホームレスに… 挙句の果てに流れ着いたサンフランシスコでは、陸軍将校になりすまし、サンフランシスコで原子力委員会から10000ドルを盗み逮捕。27ヶ月の服役期間中に心を入れ替えて、刑務所で法律の学士号を取ったというから、頭のいい人です。

 出所後は、辣腕弁護士の誉高いMelvin Belliの支援を受け、調査員の仕事をしながら法律学校を卒業、法曹界にデビューとおもったのですが、カリフォルニア州では前科者は法律の仕事につけなかった。 それで60年代はラスベガスのショウ・バンドに入り、エルヴィス・プレスリー、サミー・デイビス・ジュニアといった超一流タレントのバックを勤め、結構なギャラをもらった。でも華やかなヴェガスにもビバップはなかった・・・・

<バッパーの再起>

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 世の中がジャズを「流行:と別物として捉え始めた1972年、ロドニーのジャズライフが再び始まります。西海岸に移住してLAの名門クラブ、『ドンテ』などで活動を再開。脳卒中に襲われて後遺症を抱えながらも’75年には、実に15年ぶりのアルバム” Bird Lives!”を発表して話題になりました。

 ヨーロッパと米国の両方で活動を続けたロドニーは、 ’80年代にアイラ・サリヴァンとのコンビを再結成し、各地で活躍。ラスト・レコーディングとして発表したチャーリー・ラウズと(ts)の2管によるバップ・アルバム『Social Call 』(’84 Uptown)は、世界中のバップ・ファンに衝撃的とも言える感動を与えてくれる名盤で、私たちも長年愛聴しています。

 1988年にクリント・イーストウッドが制作、監督したチャーリー・パーカーの伝記映画『バード』のコンサルタントを担当、ロドニー役の俳優への演奏指導や、サウンドトラックに演奏参加したロドニーは、一般的な知名度も俄然アップしました。1990年にダウンビート誌、「名声の殿堂」入りを果たし、肺がんのため1994年に67才で亡くなっています。

 ポスト・クリフォード・ブラウンと言われながらも、たった数年のキャリアでジャズ界を去り、たくさんの教え子たちに愛されたルイス・スミス、バードに溺れて地獄を観て、さらにバードのおかげで再起したレッド・ロドニー、ジャズもいろいろ、人生もいろいろですね!

 10月12日「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」6:30pm- 開講 受講料:2500yen (税別)
 どうぞお楽しみに!

トランペッター人生いろいろ(その1):ルイス・スミス

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いつまでたっても扇風機がしまえない大阪、ライブで「枯葉」も聴けないむし暑さです。

  毎月第二土曜日は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、10月12日(土)は名盤揃いでおすすめです!
  J.J.ジョンソンが新編成のコンボで録音した『J.J. in Person』を頂点に、クリフォード・ブラウン亡き後、彗星の如く現れて消えたトランペット奏者、ルイス・スミスのブルーノート・デビュー作『Here Comes Louis Smith』と、チャーリー・パーカーがマイルス・デイヴィスの後任者として迷わず白羽の矢を立てたトランペット奏者、レッド・ロドニーのアルバム『Red Rodney』の豪華三本立!

  ルイス・スミスとレッド・ロドニーは、とりわけ若いジャズ・ファンの皆さんにあまり馴染みがない名前かも知れません。二人の芸風もその人生も全く対照的!
 音楽性は寺井尚之が講座でズバリ納得の行く解説をしてくれますので乞うご期待!Interludeでは、全く違う人生模様を覗いてみよう!

<その1:ジャズより家族:ルイス・スミス>

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 日本ではルイ・スミスという呼び名が一般的なようですが、ここでは実際の表音に近い「ルイス」と綴ることにします。ルイス・スミスは1931年、南部テネシー州メンフィス生まれ、トミー・フラナガンよりひとつ年下になります。
 従兄弟に23才でこの世を去った夭折のトランペッター、ブッカー・リトルがいます。10代でトランペットを始め、学業にも優れていたため、奨学生としてテネシー州立大学で音楽を専攻、天才ピアニスト、フィニアス・ニューボーン・ジュニアとともに、大学の選抜バンドで活躍しました。卒業後さらにアナーバーにあるミシガン州立大の大学院に進みます。その時同じミシガンのデトロイト勢と交友を持ち、NY進出後、ケニー・バレルとも共演しました。

<ジュリアン・アダレイ先生と>

  1954年から2年間の兵役後、南部で音楽教師として教職に就き、昼は公立高校の教師、夜はジャズミュージシャンの生活。

 フロリダ州のリゾート都市、フォート・ローダレールの公立高校の同僚が、今回のアルバムに覆面参加しているキャノンボール・アダレイでした。二人で高校バンドの顧問をを担当したいたというのですから羨ましい話ですね!

 『Here Comes Louis Smith』の録音当時、アダレイはマーキュリー・レコードの専属アーティストだったので、”Buckshot La Funke”という不思議な偽名で参加しているのですが、爆発的な「火の玉」サウンドは隠しようがありません!実際にスミス夫妻にインタビューされたジャズ評論家、後藤誠氏によれば、この名前は、二人が顧問をしていた楽団名に因んだものだったそうです。さらに余談ですが、アルバム・ジャケットのユニークなチャイニーズ・ルックは、「たまたま来ていた部屋着」だったことも後藤インタビューで明らかになりました。

<さよなら、ジャズ界>

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 スミスは、奥さんのLuluに捧げたアルバム、『Ballads for Lulu』を’90年代にリリース

 

『Here Comes Louis Smith』は、もともと”Transition”という別のレーベルの作品だで録音後倒産、ブルーノートが買い取って、スミスを逸材と見込んだアルフレッド・ライオンが専属契約をして、更にもう一枚『Smithville』というリーダー作をプロデュースしています。それにもかかわらず、ルイスは、1958年にあっさりとジャズの第一線から引退!理由は「家族を養うため」でした。モダンジャズの黄金時代でも、ジャズだけで食べていけるミュージシャンは、ほんの一握りであったんですね!

 引退後、ルイスはミシガン州の学園都市アナーバーに戻り、古巣のミシガン州立大やアナーバーの公立高校で後進の指導に専念し、ジャズ・ヒーローだった伝説的音楽教師として生徒たちに愛されました。

 ’70年代になってからは、レコーディング・アーティストとして復帰し、教職の傍ら”Steeplechase”に10枚近いアルバムを録音しています。

 2005年に、脳卒中に見まわれ失語の後遺症が残りましたが、2011年には、アナーバーで「地元のジャズ・レジェンド」の80才の誕生日を祝うイベントが盛大に行われた模様です。

 後輩トランペッター、元ジャズ・メッセンジャーズのブライアン・リンチは、ルイス・スミスに捧げた””‘Nother Never””(唯一無比)を作曲、スミスのオリジナル曲”Wetu”と共に、自己アルバム『Unsung Heroes』に収録しているのが泣けます。

 第一線としては、わずか数年間のジャズライフに終わったルイス・スミス、でもこの人の表情からは、志半ばで道を諦めた屈折感は、どこにも感じられません。

 

 明日は、スミスと対照的に起伏の激しい人生を歩んだトランペッター、レッド・ロドニーのお話を!

 

CU

 

 

 

アイ・ミス・ユー !”あまちゃん”

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 NHK連続TV小説”あまちゃん”、毎日続けて観るのが楽しみだったTV番組は、「鉄腕アトム」や「ひょっこりひょうたん島」以来かも・・・ある意味快挙!?

 きっかけは、ひそかに敬愛する映画評論家の町山智浩さん始めいい年をしたおっさん…いえ、お兄さん達が、毎日ツイッターで絶賛していたこと。関西人が「・・・けろ」だの「んだ!」だの東北弁で嬉しそう。ここまでの強い感染力を持つドラマって?と興味を覚えました。
 初めてのオープニング、そのテーマ・ソングは、スカのアップビートがそのまま「んだ、んだ、んだ」って東北弁に聴こえてて、なかなかやるやん!
 
 飛ぶ鳥落とす勢いの宮藤官九郎さんのドラマは、ニール・サイモンやビリー・ワイルダーに負けない心に残る名セリフ、NHKにも拘らず、ブラック・ユーモアやアドリブが一杯で、有機的にスイングしてる!個性豊かな登場人物にベストマッチな役者さんたちが命を吹き込んで、隅々まで作り手の愛情が感じられる描き方!まるで、デューク・エリントン楽団のBrunswick盤を毎日一枚ずつ聴いてるような15分間ドラマには毎回ダイナミックな見せ場があって、笑って泣ける。日本のTVドラマ、たいしたもんだと思いました。

<Quote, Unquote>

Singing_1.jpg このドラマには時代遅れな私のストライク・ゾーンにビシっと入る浅草っぽいギャグや、名画の泣けるクオートがいっぱい!あまちゃんのママ、天野春子さんが、うつろいやすい歌唱力(音痴)の鈴鹿ひろみさんの吹き替えをしたことから起こる人間模様。その設定はジーン・ケリーとデビー・レイノルズのミュージカル「雨に歌えば」の引用ですよね。琥珀やスターの原石に魅了される水口クンの姿は、ジョージ・バーナード・ショウだ、「ピグマリオン」だ!うれしいね!その他、「フィールド・オブ・ドリームス」「マトリクス」から「探偵物語」まで…ジェームズ・ブラウンもありました!ロックやJポップのことは知らないけど、一人で見てても笑ってました。

 

tommy_uniform.JPG 架空の町(東北のグロッカ・モーラみたいな)北三陸市と東京を舞台に、1986年から現代へと行きつ戻りつしながら、実在のアイドルや実際のエピソードが混在して、不思議なリアリティを醸し出します。

 ヒロイン”あきちゃん”は可愛いホーリー・フール、不変の彼女を中心に皆が変わって行く。あきちゃんの出演する教育番組「見つけてこわそう」が伏線で、震災に見舞われた北三陸市も、壊れた夫婦関係も、「逆回転の魔法」で元通りになっていく。最終回もエラ・フィッツジェラルドみたいに希望が一杯!その構成の力はハンパなく、ジャズに例えれば、じぇじぇ…J.J.ジョンソンだ。

 ドラマのテーマソングのひとつになる「潮騒のメモリー」がヒットした(ことになっている)のは1986年、この年はピアニスト、スタンリー・カウエルがOverSeasにやってきた。その2年前からトミー・フラナガンとお付き合いが始まった。本物の天才を目の当たりにした衝撃を抱きながら、無我夢中で一日13時間ウエートレスとして働いていた時期で、TV観る時間も殆どなかったですから、松田聖子と言われても判らなかったくらい、このドラマのテーマであるアイドルとは無縁です。そんな私が激しく共感を覚えたのは「潮騒のメモリーズ」のお座敷列車のシーンや終盤の「鈴鹿ひろみ復興チャリティ・コンサート」でした。音楽のジャンルは違っていても、OverSeasに北海道から九州からファンの皆さんが集まってトミー・フラナガン・トリオの日本初のジャズクラブ演奏に酔い痴れた一体感、皆がフラナガンのプレイで元気になった、あの時の情景とダブってしまったんです。

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 「プロでもない、素人でもない、アマチュアがなせるワザ」という太巻さんのセリフ、トミー・フラナガンが燃えたのは、人生をフラナガンに捧げたい寺井尚之の思いが通じたからだった!

<対訳ノート的「アイ・ミス・ユー」>

zuka.jpg 「あまカフェ」の復興チャリティ・コンサート、袖ヶ浜で振袖を着た大女優、(隠れ音痴の)鈴鹿ひろみさんが歌うシーン!春子(小泉今日子)さんが吹き替えのためにマイクを握るけど電池が抜けて音が出ない。その6小節の空白…「雨に歌えば」を想像すると、真逆だった。”アイ・ミス・ユー“から始まる鈴鹿ひろみの完璧な歌唱が最高のクライマックスになりましたよね。6小節の空白で浮き上がる”アイ・ミス・ユー“ (あなたがいなくなって寂しい)は、影武者とこれまでの自分への惜別の辞。対訳ノートに載せたいです!

 それからターンバック、 「来てよ、そのを飛び越えて」という恋の歌が、復興の想いとともに「来てよ、その震災のを飛び越えて」の意味に替って復興ソングに化けた!一曲の歌にびっしりドラマが詰まっていました。ハリウッド映画でも真似の出来ない化けっぷり。ジャズのアドリブもこうありたいなあ!

 
 と、いうわけで、私にとっての「あまちゃん」は、ジャズの心を改めて教えてくれた稀有なNHK連続ドラマになりました。エキストラとして出演されている東北の方々の姿にも心が揺さぶられました。あまちゃん、どうもありがとう!

この感動を胸にして第23回トリビュート・コンサートに向けて頑張ろう!

え?ジャズのブログにこんなテーマは相応しくないって?

「わかる奴だけわかればいい!」

CU