
『Overseas』(’57)や『トーキョー・リサイタル』(’75)の圧倒的な演奏を始め、ライブでは”エリントニア”(デューク・エリントン・メドレー)に組み込んでフラナガンは愛奏しました。ご存知のようにデューク・エリントン楽団のヒット曲ですから、元々はビッグ・バンド用、それをコンパクトなピアノ・トリオのフォーマットで演奏したピアニストは、フラナガンが史上初!エラ・フィッツジェラルドと共にフラナガンが待望の来日を果たした1975年、曲目紹介なしに始めた<チェルシーの橋>、僅か3拍で、怒涛のような歓声と拍手に京都国際会館が揺れた。文字通り、トミー・フラナガン、極めつけの名演目!
作曲は、エリントンの右腕、ビリー・ストレイホーン。フラナガンはこの天才作曲家を”生涯一書生”と呼んだ。咲き乱れる花々や美術品に囲まれながら、孤独と苦悩を抱え続けた彼の人生については、随分以前に書いています。 ”チェルシーの橋”とはNYではなくロンドンのテームズ川にかかる吊り橋、およそ浮世離れし耽美的な作品ですが、「お金」をめぐる世俗の争い事がなければ、この作品の幻想的な美しさも、ビリー・ストレイホーンという天才も広く知られることはなかったかも知れません。
<著作権をめぐる仁義なき戦い>

現在も「著作権」トラブルは絶えませんが、第二次世界大戦勃発以降、音楽業界を震撼させる争いが次々と起こり、ジャズ界は大きな影響を被ることになります。ひとつは、1942~43年のレコーディング禁止令(Recording ban)、もうひとつが、ラジオ業界とASCAP著作権組合 (The American Society of Composers, Authors and Publishers )との前代未聞の抗争でした。1940年、大恐慌から著作権収益が低迷するASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)は、世界大戦の影響で更に業績が悪化する中、最大の収入源であるラジオ業界に対し、翌年度の著作権料を前年度から一挙に448%値上げするというとんでもない通告をします。「てやんでい、この野郎!」ラジオ業界は猛反発。CBS、NBC二大ラジオ・ネットワークと傘下局は、1941年1月1日よりASCAPに帰属する楽曲を放送しないことを決議、逆に、BMI(Broadcast Music Inc.)なる自分たちの著作権団体を新設、安い著作料を設定し、ASCAPに倍返しを企みます。おかげで、ASCAPが門戸を閉ざしてきたリズム&ブルースの隆盛につながるなど、ポップ・ミュージックは新たな局面を迎えるのですが、困ったのはASCAP会員のデューク・エリントン。1930年のハーレム・コットン・クラブ時代より、ラジオを通じて全米で人気を誇った楽団のレパートリーが一切放送不可になるのですから絶体絶命!エリントンがいくら新曲を創ってもASCAPに登録されてしまうのですからダメ!とにかくエリントン以外の名義で楽団のレパートリーを総入れ替えすることが急務となります。ラジオ番組のテーマ・ソングも刷新せねば・・・それができなければエリントン楽団の前途はない。
そこで白羽の矢が立ったのが息子のマーサー・エリントンと、書生ビリー・ストレイホーン。二人は「放送禁止になる新年までの僅か数週間で楽団の譜面帳を作れ!」という究極のミッション・インポッシブルを課せられます。
デューク&マーサー・エリントン:
ストレイホーンという天才の存在が親子関係に陰を落とすことに・・・
新曲を揃えるだけでなく、パート譜も全て書き上げろなんて・・・エリントンが楽団を率いて笑顔で演奏に明け暮れる間、二人はシカゴの有色人種用のホテルに缶詰で作曲編曲、24時間不眠不休で作業に従事。
ストレイホーンはこれまで陽の目を観ることのなかった自作品を一挙に楽団用に仕上げていきました。マーサー・エリントン21才、ストレイホーン25才の冬です。
かくして必死のパッチで出来上がった新曲集から、デュークが楽団の新しいテーマ・ソングとして選んだのが「余りにもフレッチャー・ヘンダーソン楽団っぽすぎるから」という理由でストレイホーンが一旦ゴミ箱に放り投げた”A列車で行こう “で、これはご存知のように楽団最大のヒット曲、ジャズで最も有名な曲になりました。「売れる」とか「売れない」といか言ってる場合じゃない。主にストレイホーンが書き溜めていたスケッチから出来上がった新レパートリーには、師匠エリントンから習得した作曲技法と、ストラビンスキーやドビュッシーなどクラシックの作曲家からのエッセンスが融合し、これまでにないコンテクストを持っていた。その中でも、” Chelsea Bridge”は、耽美的で印象派的、ストレイホーン独特な世界を醸し出し、ベン・ウェブスターのソロと相まって、他の楽団と一線を画し、エリントニアの象徴的作品となります。
「青と金のノクターン:バターシー・ブリッジ」 曲のイマジネーションの源は、19世紀の米人画家で、日本美術の影響を受けた耽美派と言われているジェームズ・マクニール・ホイッスラーの作品にあったとストレイホーンは語っています。ホイッスラーが橋を描いた作品は多いのですが、「チェルシー橋」を描いたものは見つからない。上の”青と金のノクターン-オールド・バターシー・ブリッジ”はホイッスラーの代表作、確かに曲と共通する幻想的なムードを感じます。ストレイホーンは芸術全般に造詣が深く、美術や骨董を収集し、仏像や彫刻など美しいものに囲まれて暮らし、その代金は全てエリントンのポケット・マネーから支払われた。
<芸能から芸術へ>

では、フラナガンにとって、ストレイホーンは、”Chelsea Bridge”は、どんな意味があるのだろう?
ギル・エバンスは、”チェルシー・ブリッジ”を聴いた途端、自分の目標が定まった、と語っています。つまり「型」から入った人。それに対して、フラナガンは「こころ」から入ったのではないだろうか?
ニューオリンズの歓楽街、シカゴのサンセット・ラウンジ、NYのコットン・クラブ・・・ジャズは、どれほど高級になろうとも、酒や美しいコーラス・ガールあっての音楽、ハーレム貴族のお楽しみ。
ところが、著作権抗争のおかげで、慌てて表舞台に出た”Chelsea Bridge”は、ダンスもキャビアもドンペリも必要としない自己完結、、「わかる奴だけわかればいい」というスタンスで創造された芸術、ジャズには無謀なほど芸術的だった。その精神は、ストレイホーンが夜な夜なハーレムのクラブでジャム・セッションに興じたディジー・ガレスピーやマックス・ローチによってビバップとして引き継がれていく。
どれほど卓抜な演奏者でも、黒人の音楽家はシリアスな演奏や、奥深いラブ・ソングを歌うことが許されぬ、、道化者でいなくてはいけない米社会に風穴を開ける、革新的音楽、美しい公民権運動とすら呼べるものだった。これこそ我が道、「ブラック・ミュージック」のあるべき姿だ!フラナガンはそう思ったのに違いない。
『Overseas』録音直前、若き日のフラナガンは、奇しくもNYの街で憧れのストレイホーンに出会う。「実は、もうすぐあなたの作品をレコーディングさせて頂きます。」と自己紹介すると、ストレイホーンはフラナガンに、自作の譜面をありったけくれた。運命の出会い!フラナガンの想いはどんなだったろう?
この”Chelsea Bridge”、フラナガンのヴァージョンは、エリントン楽団のものとは微妙にコードも違うし、勿論構成にも秘密がある。世間に出回る譜面では、到底フラナガンの世界にはならないのです。
かつて寺井尚之は、深夜のクラブ、Bradley’s でエリントン楽団はこう、フラナガンはこうと、ロニー・マシューズとロイ・ハーグローブ、名伴奏者、マイク・ウォフォード相手、「ジャズ講座」をやるは、フラナガン自身があきれるほどに、演奏の中身を知っている。
トリビュート・コンサートでは、そんな寺井尚之が「チェルシー橋」の上にまたたく星も、夜のテームズ川の流れも、橋の上を吹き渡る風の色も、全て再現してご覧に入れます。どうぞお楽しみに!
CU