秋のトミー・フラナガン・トリビュート 11月17日に

 やっと大阪の街もジャケットを来た人が多くなりました。

 OverSeasの秋と言えば、トリビュート・コンサート!今年はトミー・フラナガンの命日の翌日に開催します。

 

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  トミー・フラナガンが遺した名演目の数々を再現して、皆さまにお楽しみいただくコンサート!フラナガンが亡くなって12年経ってしまいましたが、名曲、名アレンジがいつまでも色褪せないよう、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、菅一平(ds)のThe Mainstemが、精魂込めて演奏させていただきます。

 

 トミー・フラナガンをよくご存じの皆さまも、余り馴染みがないという皆さまも、どなたにも聴いて頂きたいコンサートです。初めての方も大歓迎!騙されたと思って、ぜひ来てみてください!前売りチケットはOverSeasで販売中!座席指定ですのでお早目にどうぞ!

audienceP1040320.JPG第21回 Tribute to Tommy Flanagan 追悼コンサート  

  • 日時: 2012年 11月17日(土) 7pm-/8:30pm- (入替なし)
  • 前売りチケット ¥3,150
    当日 ¥3,675

出演:寺井尚之Trio  The Mainstem  b.宮本在浩 ds.菅一平

 

 

 トリビュートに併せて、11月にはトミー・フラナガンを映像で偲ぶ関連イベントをいろいろと企画しました。デトロイト・ハードバップやトミー・フラナガンへのご理解を深めていただくことができれば最高です!

 

tf_gm.jpg11/3(土) 6:30pm- 
 Tommy Flanagan trio ’91
 with Geoge Mraz bass, Alvin Queen drumes
 

 

 

 

 

 

Benny_Carter.jpg11/24(土) 6:30pm
 Tommy Flanagan trio with Benny Carter (as)


 

 

 

 

 

 

flanagan_tommy.jpg11/25(日) 正午-
 Ella Fitzgerald & Tommy Flanagan trio
at Montreux ’77

 

 

 

各講座とも受講料¥2.625 (税込) 学割チャージ半額

 

ぜひお越しくださいね!

CU

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知っておきたい裏ジャズ史② フレンチなジャズ評論家:シャルル・ドローネー

今日は路地裏から、澄み渡る秋空が…皆さんの街はいかがですか?
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  このところ、講座や本の資料作りにずっとゴソゴソしています。
 トミー・フラナガンやサド・ジョーンズなどデトロイト系、ジミー・ヒースやジョン・コルトレーンなどフィラデルフィア系の音楽家たち…ジャズの歴史は本当に面白くて、秋の夜長にぴったり!調べるほどに、未知の領域、ヨーロッパのジャズ界にぶつかります。というのも、フラナガンより少し上の世代、1920年代或いはそれ以前に生まれたジャズ・ミュージシャンは、ヨーロッパ楽旅を経てから、ワンランク上のアーティストに「化ける」人が多いように思えます。その理由は、ヨーロッパの聴衆の素晴らしさと「おもてなし」が深く関係しているようなのです。故国アメリカでは、どんなに人気があっても、フルトヴェングラーのように尊敬されることは絶対なかった。アメリカの南部ツアーでは、食事できるレストランを捜すにも苦労したコールマン・ホーキンスやベニー・カーターたちが、ヨーロッパでコンサートをすれば、盛装した紳士淑女が熱狂し、王侯貴族のサロンでは同じコニャックを飲み、知識人やセレブが客分として歓迎し、自分達の値打ちを教えてくれたんです。

jazzpoet.jpg   ダイアナ・フラナガンは、「ヨーロッパ、特にフランスのジャズ評論は、こっち(USA)よりずっと知的で素晴らしい。」と言っていました。大学でデカルトの『哲学原理』を購読したにもかかわらず、フランス語といえば、店に来たお客さんにBon Appetit!とニッコリするのが関の山…『Beyond the Blue Bird』や『Jazz Poet』で素晴らしいライナーを書いてくれた大評論家、ダン・モーガンスターンも英国人ですから推して知るべし…

ヨーロッパで咲いたジャズの華として、私がまず思い浮かべるのは、ジプシーのギタリスト、ジャンゴ・ラインハルト、彼を知る前からM.J.Qの演奏するDjangoは知ってました。ウディ・アレンの映画「ギター弾きの恋」を観ると、ジャンゴのギターだけでなく、醸し出すムード全てが、アメリカ人にとって、どれほど”ハイカラ”かというのがよく判ります。

books.jpeg  ジャンゴの時代、フランス・ジャズ界は、ジャズを心底愛する評論家達が、執筆だけでなく、米国ミュージシャンの招聘やプロモート、レコードのプロデュースをしたというからすごい!ジャンゴとヴァイオリニストのステファン・グラッペリで名を馳せたフランス・ホット・クラブ五重奏団…いえ、仏語はhを発音しないのでオット・クラブかも…?とにかく、ホット・クラブというのはジャズ・ソサエティの名前で、このクラブを主催したのが、ベルギー人のヒューゴー・パナシエと、フランス人のシャルル・ドローネーという二十歳そこそこの二人の評論家でした。彼らは、本格的ジャズ評論の元祖と言える人たちで、彼らが1934年に創刊した “Le Jazz Hot ル・ジャズ・オット”は世界初のジャズ専門誌でした。ダウンビートの創刊も同じ年でしたが、当時はジャズ専門ではなかったんです。

  今や常識のディスコグラフィーの元祖もこのドローネーさん、1936年に歴史上初のジャズ・ディスコグラフィーなるものを出版!ドローネーは貴族の血統で、両親は二人ともキュビズムのアーティストです。パリが占領された後も、貴族の責任、ノブレス・オブリージュを果たし、レジスタンス運動に参加、命がけで、たった一枚のチラシとなっても”ル・ジャズ・オット”を出し続けました。

Dela0001.jpg 占領下のパリ、1943年、レジスタンス活動の隠れ蓑となったホット・クラブの編集部をゲシュタポがガサ入れし、ドローネーと他のスタッフ、そして英国の諜報員が根こそぎ連行されてしまいます。取り調べの厳しさは並大抵ではありません。独房に入れられ数週間、ついにゲシュタポの隊員が一人でやってきました。

 拷問か、強制収容所か、ガス室か…? 覚悟したドローネーに向かって、その隊員はこう言ったそうです。

 「あなたのディスコグラフィーを読みました。ラッキー・ミリンダー楽団の頁ですが、2番トロンボーンの名前が間違っていましたよ。」驚いたことに、ナチ秘密警察にも、隠れジャズ・ファンがいたんです。その隊員のおかげで、まもなくドローネーは釈放されましたが、二人の仲間はガス室に送られたそうです。同じころ、アフリカでレジスタンス活動した、パノニカ男爵夫人との接点はあったのでしょうか?色々興味は尽きません。

 命がけでジャズを愛したシャルル・ドローネーはこんな言葉を残しています。

 「生まれて初めて耳にしたジャズのコンサート、私の感動を言葉にすることはいまだ不可能である。」(Django: The Life and Music of a Gypsy Legendより)

 浮世絵を「美術」と認めたのは日本人でなく欧米人だった・・・私たちも負けずに、全てを賭けてジャズを愛して行こうと思います。どうぞよろしく!

CU

10/13(Sat.) Party開催します。

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christmas_feast-2.JPG来る10月13日(土) 6:30pm-  「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の一巡と、同時に11月10日(土)からの新開講を祝し、Jazz Club OverSeasでパーティを開催!  

 ビッフェスタイルの無礼講、おいしい御馳走やお飲物を沢山ご用意!「ジャズ講座」と言っても、堅苦しいものではないと知っていただきたいので、
ご興味のある方は、
冷やかしで結構です!ぜひこの機会に覗いてみてください。

  当日は、ご飲食と共に、トミー・フラナガン・トリオのお宝未公開音源(’78 Carnegie Hall)をお聴き頂きながら、寺井尚之がミニ講座でお楽しみいただくほか、講座本編集委員、あやめ生徒会会長講座本の苦労話トークを、「権威」でおなじみの後藤誠先生が「講座を振り返って」の思い出話を、その他、色々お楽しみ企画中。

 

 司会進行役は、寺井尚之ジャズピアノ教室の秘密兵器、日頃何千人の聴衆を前にしているプロフェッショナル=伊藤加奈さんが、NHK紅白歌合戦でも通用する美しい日本語で、エクセレントに超楽しく盛り上げてくれる予定!

 講座やOverSeasにお越しになったことのないお客様も、EVERYBODY  WELCOME! フレンドリーな仲間がお迎えいたします!

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足跡Jazz PARTY

10月13日(土) 6:30pm-9pm (予定)
会費: ビュッフェ形式飲食 4,000yen

写真左から:伊藤、寺井、あやめ(敬称略)

どんなごちそうを作ろうかなあ…いろいろ楽しく計画中です!

ご参加お申込みはOverSeasまで!

CU

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知っておきたい裏ジャズ史 その①

 阪神タイガース背番号6番、金本知憲選手の引退が、とてもさびしいです。私よりずっと若いけど「アニキ」と呼ぶことのできるヒーローだった。哀しい秋の気配の中、私は11月から始まる「新・トミー・フラナガンの足跡を辿る」(仮題)の為に、色んな本を読みながら資料収集中!トミー・フラナガンというアーティストのレコーディングを丁寧に辿って行くと、ジャズ史の変遷と共に、音楽以外の社会や文化の様相が見えてくるから面白いですね!
<ナット・ヘントフを知っていますか?>
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nat74896.jpg コルトレーンの”Giant Steps”やバド・パウエルの”Blues in the Closet”などなど、数えきれないジャズ名盤のライナーノートの末尾にNat Hentoffという署名をご覧になったことがおありでしょう。これまで私が最もよく読んだ「ジャズ評論」は、ナット・ヘントフのものかもしれません。英語を読み始めた大昔、定期購読していた週間新聞”The Village Voice”にヘントフが書いたジャズや政治のコラムは、”Down Beat”よりもずっと言葉が難しかった。でも、ヘントフ自身の生の体験をベースに、思いがけない切り口で考察する彼の文章は、NYの香りとインテリっぽい魅力があり、ミーハー気分で、辞書を引くのももどかしく、夢中で読みふけりました。
nat1060196_p.jpg ナット・ヘントフ、1925年,ボストン生まれ、ジャズ批評だけでなく、自ら”Candid”というジャズ・レーベルを主催、ジャズに深くコミットしながら、小説家、ジャーナリストとして多面的に活動、80才を越えた今も、論議を巻き起こすようなコメントをどんどん発信しています。ヘントフにとって、ジャズとは「強烈な主張と個性を持つミュージシャン達が、お互いの言葉(プレイ)を誠実に聴き合うことによって、音楽と言う素晴らしい調和を作り上げる」アート!それはアメリカの唱導してきた自由民主主義そのものなのです。彼は時代の風向きに動じず、堂々と人工中絶に反対を唱え、「誇り高き時代遅れ、石頭で不信心なユダヤ人」を自称している日本にないタイプのジャーナリストです。
<ジャズ雑誌のジム・クロウ>
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 少年時代からジャズに魅せられたヘントフは、僅か10代で、ボストンのラジオ局のジャズ番組のホストを担当してから、ジャズ評論家への道を歩むのですが、「師と仰ぎ尊敬する人」とヘントフが挙げるのは、先輩評論家ではなく、音楽だけでなく、人間的な触れ合いから色々学ぶことのできたという、デューク・エリントンやジョー・ジョーンズ、チャーリー・ミンガスやコールマン・ホーキンスなどのジャズメンばかりです。ひょっとすると、それがダウンビートに解雇される一因だったのかも知れません。
 1952年、JATPを主催するノーマン・グランツの推薦で、レナード・フェザーの後任として、憧れていた”ダウンビート”マガジンの共同編集者としてNYで勤務。毎夜ジャズ・クラブで演奏を聴き、尊敬するミュージシャンの話を聞きながら、嬉々として執筆活動を続けます。
 現在の”ダウンビート”は月刊誌ですが、当時は週刊誌として相当な発行部数を誇っていました。本社はシカゴで、NYやLAに支所があり、黒人の芸術であるジャズのニュースを発信していたのです。まだ公民権法は成立していなくとも、「ジャズ・ジャーナリズムに、人種の隔離はありうべからざるもの。」少なくともヘントフは固く信じていました。
でも、”ダウンビート”社の隅から隅まで探しても、黒人の従業員はいなかったのです。
 1957年、ヘントフの勤務するNY支社で、「受付」やその他の秘書的な業務をしてくれるスタッフが欠員となり、新人を募集することになりました。会社の規則には「スタッフの雇用は事前に社長の許可が必要」という項目があり、ヘントフがその理由を聞いてもはっきりしなかった。とにかく人手不足で困っていたので、面接の結果、一番経歴が優秀で、頭脳も性格もよさそうな候補者は、たまたま黒人女性でした。黒人の音楽で利益を得ている会社なんだからと、ヘントフの一存で採用決定!ところが、その直後にシカゴ本社の社長がNYにやってきて、受付に黒人が座っているのを発見されてしまいます。
 週明けにヘントフが、レビューするレコードや原稿一式を抱えて出社すると、彼のデスクはなくなっていました。ヘントフは、その黒人女性とともに名門ジャズ雑誌、”ダウンビート”を解雇されてしまったのです。
 後に、その女性が黒人ではなくエジプト系アメリカ人であったと判ったのですが、有色人種であることには変わりありません。あなたが、どんなにジャズを愛し、聡明でシックな人であったとしても、有色人種である限り、1957年代のダウンビート黄金時代のスタッフにはなれないのです。
nat9a970c-320wi.jpg 1957年といえば奇しくもトミー・フラナガンのOverseas録音の年、余談ですが、この年のNYには、三島由紀夫が長期滞在していました。自作の戯曲でブロードウェイを征服したいという野望を持って意気揚々とやって来ましたが、色々な努力も徒労に終わってしまいました。時代が早過ぎたんですね。
 さて、ジャズ誌をクビになったことで、ヘントフはタイム・マガジンや全米の一流誌のコラムニストとして、活動の幅を広げたわけですから、人生は不思議です。私としては、解雇されたエジプト系の女性が、その後どのような人生を送ったのかを知りたいのですが…
 というわけで、毎月第二土曜の新講座、ヘントフ以上に率直に、ジャズへの愛情をこめて、寺井尚之が、皆さんの聴きなれた名盤の、まったく新しい切り口をお見せしていきます。どうぞよろしく!

寺井尚之より: “新”講座のお知らせ

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 毎月第二土曜日に催してきた「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は。8年11か月の年月を要しましたが、無事辿りつけました。
  ひとえに、皆さまのご協力と応援あってこそと。誠に感謝しております。
  ’12 11/10(土)からは、新シリーズとして「再びトミー・フラナガンの足跡を辿る」を開催いたします。
  弟子として、師匠の足跡は巡礼のように何度でも辿り、さらなる発見を図り、勉強する所存です。
  講座本の誤字脱字を訂正し、新たな発見、感動を、より判りやすく、皆さまにご説明したいと思います。
  再び皆様に師匠の足跡を紹介できることを、誰よりも楽しみに思ってわくわくしております。
 
 どうぞご参加ください!
寺井尚之

「トミー・フラナガンの足跡を辿る」千秋楽

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 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、寺井尚之が、毎月第二土曜日、師匠フラナガンのディスコグラフィーを年代順に聴きながら解説してきました。2003年秋、ケニー・バレル(g)との”Get Happy”(Kenny Burrell Vol.2)から始まった講座も、9月8日(土)、第107回を持って、グラミー賞 最優秀インストルメンタル・ソロイスト賞にノミネートされた”Sunset and the Mockingbird”(ライブ盤 A Great Night in Harlem)、亡くなる約2か月前の録音をもって千秋楽となります。
 大学の授業ならいざ知らず、寺井尚之が、315セットのアルバム内容を、徹底的に解析し、定説を覆すびっくりの真実、レパートリーの組み合わせの妙や、アルバムの聴きどころなど、毎月お伝えし続けることができたのは、何と言ってもご出席のお客様、そして、様々な資料を提供してくださったジャズ批評家、後藤誠氏をはじめ、音源その他の資料、映写機器など、ソフト、ハードの両面でご協力いただいた方々のおかげ!心より感謝しています。
<晩年のトミー・フラナガン>
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 フラナガンは、心臓に大動脈瘤という爆弾を、長い間抱え、亡くなる前の数年間は、今は日本でも流行しているマクロビオティックという食事療法を心がけ、ワンナイターのハードな楽旅は避けていました。飛行機での旅行は禁じられていましたが、仕事柄、そういう訳にもいかず、演奏中にペースメーカーが止まって、大騒ぎになるというようなこともありました。生活のためというよりも、やはり生涯現役として、命を縮めても弾き続けたかったのではないかと思います。
 最後の来日は、2000年の春の”ブルーノート”での公演(bass ピーター・ワシントン、drums ケニー・ワシントン)でした。その時OverSeasにやって来たときのことは、HPに寺井尚之が書いています。
 “ブルーノート”大阪で、すっかり痩せてしまったフラナガンがハードな曲を演奏すると、首の後ろの静脈が浮き上がって見えて、晩年のレスター・ヤングの演奏を観に行ったズート・シムズのように、オイオイ泣きそうになりましたが、演奏自体はじつに美しく、素晴らしいものでした。
 後日、電子版の朝日新聞を読むと、アンコールに応えなかったフラナガンを傲慢と批判する記事が掲載されていました。本当は、アンコールしたくともできないほど体調が悪かったのです。
<千秋楽は多彩なアルバムで>
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 さて、土曜日の講座は、特別ゲスト待遇で、スポット的に参加したアルバム群と、ヤマハの自動演奏ピアノのための音源として収録された素晴らしいソロピアノなど、全6枚の多才なレコーディングで、賑やかにお送りする予定です。
 なお、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、11月から内容をリニューアルして、より充実したジャズ講座として新たに開講予定。
 最近、日本文学と日本文化研究の第一人者であるドナルド・キーン先生の自伝で、とても興味深い話を読みました。NYブルックリン生まれの彼は(ジャズには見向きもせず)、日本の文化を追求、コロンビア大、ケンブリッジ、ハーバード大を「編参」し、日本学の第一人者と言われている様々な教授の講義に、感動と失望を繰り返しながら、自分の講義のポリシーを確立した。それは、「(図書館などで調べれば判るような無味乾燥なデータを教えるのでなく)私自身の日本文学に対する情熱を伝えたい。」ということでした。
 「日本文学」というのところを、「トミー・フラナガン」に置き換えれば、寺井尚之のジャズ講座と同じです。キーン先生の英訳した「曽根崎心中」に匹敵するような、ジャズ歌詞の対訳を作ることは、この脳みそが100個あっても不可能ですが、私も資料の翻訳をがんばります!
 これからも、トミー・フラナガンの楽しさ、ジャズの楽しさを講座で伝えて行けるよう、寺井尚之とJazz Club OverSeasを応援していただけますよう、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
「トミー・フラナガンの足跡を辿る」<その107>
9月8日(土)6:30pm-
受講料 2,625yen

 おすすめ料理は「黒毛和牛の赤ワイン煮込」にします。
CU!

寺井尚之ジャズピアノ教室 第23回発表会

 寺井尚之ジャズピアノ教室第23回発表会、日曜日に無事終了。初出場のnaoさんの初々しさ一杯のAnother Youから、大トリあやめ会長のLotus Blossomまで。演奏者達が日ごろの成果を発揮して、素晴らしい演奏を楽しむことが出来ました。
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 あやめ会長に続くライブ予備軍ピアニストたちも着々と育っています。楽器の習得は、何と言ってもコツコツと日々の練習が不可欠なもの。弾く、聴く、読む、書くと言った様々な練習を「楽しむ」ことが上達への一番の近道のように思えます。
 様々な楽曲を、自分だけのアレンジで仕上げた出演者たちを尊敬するのみ!
hamo.JPG また、今回は、ピアノ教室と併設のジャズ理論教室から、クロマチック・ハーモニカ奏者、はもかなさんが記念すべき初出場!寺井門下の可能性がさらに大きく広がっています。
 演奏者をサポートしてくれたThe Mainstemのベーシスト:宮本在浩、ドラマー:菅一平のお二人。発表会の写真撮影や録音のお世話をしてくださったYou-non氏、生徒たちのピアノの悩みを解決し、記念品提供してくださった名調律師 川端さん、同じく極上スイーツを差し入れてくださった常連、山口さま、ご協力いただいた皆さまに心より感謝です。
 今回、やむを得ない事情で欠場した生徒会副会長、むなぞう君の演奏も、近いうちに聴きたいです!
 発表会レポートをHPにUPしました。寺井尚之ジャズピアノ教室にご興味のある方はぜひどうぞ!
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ルイ・アームストロング -フォーバス知事のもうひとつの寓話

 Jazz Club OverSeasで好評開催中、「映像で辿るジャズの巨人」、秋のプログラムにルイ・アームストロングが登場!
 先日、大学で「マンガ」について講義をしている先輩が嘆くには、まんがを勉強しよういう学生が、あの手塚治虫を知らないのだとか。ジャズの世界でも状況は一緒かも・・・。とはいえ、ルイ・アームストロング(1901-’71)という名前は知らなくても、「この素晴らしき世界」のしわがれ声は知ってるでしょう。ニューオリンズで生まれ、万人が楽しめるジャズを広め、世界中で愛されました。「ジャズの王様」「ミスター・ジャズ」「Pops」「サッチモ」…ニックネームの数もハンパではありません。
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 ハンカチ―フで汗をぬぐいながら、まん丸な目(ポップス)と大きな口(サッチモ)で表情豊かに歌い、笑わせ、圧倒的なトランペットを聴かせる姿は、一度見たら忘れられません。世界中の人々が、ジャズよりもビートルズを愛する時代になっても、「ハロー・ドーリー」はヒットチャートのトップに留まり続けました。
 難しい顔つきで腕組みして聴く難解なジャズとは真逆、楽しい楽しいジャズだ、サッチモだ!その反面「ルイ・アームストロングは楽しいだけの音楽家、昔の音楽構造は単純だし、芸術性は浅いんだ。白人に媚を売るさもしい黒人(アンクル・トム)芸人」などと批判する人もいたらしい。
louis-armstrong-house.jpg 同じように、ルイ・アームストロングはビバップを嫌い、ビバップのジャズメンが彼を過去の遺物としていたというのは全くのデマです! 私が寺井尚之と初めてNYに行った時、勿体なくも、車で観光案内を買って出てくれたのがビバップの巨匠ジミー・ヒース(ts)、愛車Volvoを駆ってまず最初に連れて行ってくれたのがクイーンズにあるルイ・アームストロングの自宅でした。(現在はルイ・アームストロング博物館) この赤レンガ作りの建物の前で、彼がいかに偉大な人間であり芸術家であったか、ディジー・ガレスピーがどれほど彼を尊敬していて、折あればこの家を訪ねたか・・・ということを話してくれました。
<リトルロック発言>
 黒人アーティストの例に漏れず、ルイ・アームストロング自身、人種差別の現実に日々直面していました。世界中どこに行っても外国に行けば、どこでもVIP待遇であったのに
公民権法以前の時代は、母国の超一流ホテルに出演しても、そこに宿泊することはできないし、ツアー中は、トイレを借りるにも苦労していたんです。
 公民権運動を金銭的に支援した黒人アーティストは、デューク・エリントンを始め、数多いですが、歴史上初めて公然と強い発言を行ったのは、なんとルイ・アームストロングなんです。
cn_image.size.poar01_littlerock0709.jpg それは1957年にアーカンソー州のリトルロックという街にあるセントラル高校で起った事件が発端でした。チャーリー・ミンガスの”フォーバス知事の寓話”という曲も、この事件へのプロテストです。南部の諸州は19世紀から、所謂ジム・クロウ法に基づいて人種隔離政策を取っていました。有色人種(日本人も有色人種ですよ)は、白人と公共施設を共有することを禁止するという法律です。病院、学校、ホテル、交通機関から、小さいところはレストラン、トイレ、水飲み場に至るまで。どこでも”Colored”という表示のある場所しか入れないし、人種混合の結婚はもちろん御法度、学校も別々でした。ところが、最高裁は「黒人に白人専用のリトルロック高校への入学を許可する」という画期的な裁定を下し、それに従って9人の黒人学生が登校を試みたのですが、反対派VS賛成派の対立で大騒ぎになります。当時のフォーバス州知事は「暴動を阻止するため」という口実で州軍を派兵、彼らを高校からシャットアウトするという異常な状況が3週間続きました。通学を試みる男女の黒人学生は、毎日怒号を浴びせられ、校門に待機する兵隊に阻止されるという考えられない光景に対して、全米の世論も真っ二つ、アイゼンハウワー大統領は、世論に配慮する形で、当初、不干渉の姿勢を取っていました。
<大統領には意気地がない!>
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 そんなビミョーな状況下、ルイ・アームストロングは、ツアー中に行われた記者会見できっぱり発言!
「南部にいる私の同胞に対する仕打ち、政府は地獄に堕ちて当然だ。」
 おまけに、アイクという愛称で親しまれる大統領を、「意気地なしだ!the President has No guts!」と一刀両断!ジャズに造形深い政治ジャーナリスト、ナット・ヘントフは「ルイ・アームストロングの発言が、全米の一流各紙の一面を飾ったのはこれが初めてだったはず。」と回想しています。
 一黒人芸能人が政府と大統領を批判するとは、なんちゅうことをやってくれたんや!と、ジョー・グレーザーを始めとするアームストロングの事務所は真っ青!なんとか謝罪させて、穏便に済ませようとするのですが、サッチモは頑として意見を撤回することを拒否。それまで、「笑顔が売り物の金持ち芸人」と思い込んでいた世間の度肝を抜きました。
 それどころか、国務省の依頼で親善使節として決まっていたソビエト連邦への楽旅をキャンセルすることによって、政府に抗議したのです。なんたる根性、なんたるガッツだ!そんなことをすれば、どれほどバッシングがあるか、仕事を失うだけでなく、下手したら殺されるかもしれないのに、ルイ・アームストロングは意思貫徹!
LSA-P-LouisArmstrong-mainpic-071511.jpg 彼の発言が世論を後押しする形となり、アイゼンハウアー大統領は、陸軍第101空挺師団を派遣、9名の生徒は空挺師団のエスコートで初登校に成功しました。ただし、この黒人学生たちへのいやがらせはさらに続き、公民権法の成立までは何年もかかります。
 その8年後、キング牧師がアラバマ州で「行進」という平和的デモを行ない、警察の妨害を受けます。コペンハーゲンに楽旅中のルイ・アームストロングは再び名言で援護しました。
「もしもイエス・キリストが黒い肌で行進をなされば、やはり彼らは殴打するのだろうな。」
 笑顔とハンカチがトレードマークの黒い天使、ルイ・アームストロング、彼が勇気ある正義の人であったことは、日本では余り語られていないけど、米国の小学校では、人種統合が行われた60年代から、学校の授業で習うそうです。
オウ、イエ~ズ!

足跡講座で映画イングリッシュ (The Blues Brothers)

 お盆休みも今日までという方が多いようですね!今年は、夏休みを利用してOverSeasに来られるお客様が多かったです。懐かしい再会♪ 新しいお客様♪ お客様のおかげで、毎日楽しく仕事をすることができました。
 一方、本ブログ、「寺井珠重のInterlude」開設以来早5年!!貯金は貯まらないのに、コンテンツが貯まり過ぎ、ここ数か月間、個々のエントリーをアーカイブできなくなってしまいました。検索しても見つからないとお叱りを頂き申し訳ありません。
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 さて、今回はジャズでなく英語のお話を。先日「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で番外鑑賞した『Blues Brothers』のアレサ・フランクリンやキャブ・キャロウエイの名シーン、文句なしに楽しかったですね!監督のジョン・ランディスはマイケル・ジャクソンのPV「スリラー」も監督していて「音楽を見せる」達人!映画の舞台になったシカゴの出身だから、荒唐無稽なストーリーにリアルな街のムードが出ています。
 私が印象に残ったのは、ソウルフード食堂のおかみさん(Mrs.マーフィー)役のアレサが、お客を装い亭主をバンドに勧誘して、自分たちを育ててくれた孤児院を救済するためにやって来たジェイク&エルウッド(ブルース・ブラザーズ)の注文を取る短いシーン、”Think”の名唱直前のとても短い会話です。私自身ウエイトレスですから、レストランの会話はいつも興味津々。『Blues Brothers』って、ゴキゲンな音楽の聴けるドタバタ喜劇のように思われているけど、人種のるつぼであるアメリカとその文化を理解するのにうってつけの教材なんですよ。
blues_brothers_aretha.jpg 前半のエルウッドのご注文はこんな感じ。
Mrs.マーフィー: May I help you boys? (お二人さん、ご注文は?)
エルウッド: You got any white bread? (白パンあります?)
Mrs.マーフィー: Yes.
エルウッド: I’ll have some toasted white bread please. (じゃあ、白パンをトーストで)
Mrs.マーフィー: You want butter or jam on that toast, honey? (お兄さん、バター?それともジャム・トースト?)
エルウッド: No ma’am, dry. (いいえ、何もつけずドライでお願いします。)

 和訳も不要な簡単イングリッシュ。アメリカのベーカリーで注文する時に役立ちそうです。でも、ここには寓意があります。「白パン (White Bread)」は、中流階級の普通の白人やWASPを表現する隠語なんです。そしてジャムもバターもない「ドライ」は「退屈」っていう意味。ヒップな黒人の経営するソウル・フード食堂にやってきた無骨な白人、エルウッドを食べ物に象徴しているんですね。
 一方、兄貴分のジェイクはムショ帰り、言葉は汚いわ、ムサクルシイ肥満体、でもダンスがめちゃくちゃ上手!ヒップなジェイクは、黒人の家庭料理の代名詞、フライド・チキンを注文するんですが、これは日本人の私たちに、「数詞」の面白さを教えてくれる英語教材です。
ジェイク: Got any fried chicken? (フライドチキンある?)
Mrs.マーフィー: Best damn chicken in the state. (うちのチキンは、この州じゃあ一番よ。)
ジェイク: Bring me four fried chickens and a Coke. (それじゃフライトチキンを4つとコークをくれ。)
Mrs.マーフィー: You want chicken wings or chicken legs? (4つって…ウイング?モモ?どの部位にしましょうか?)
ジェイク: Four fried chickens and a Coke. (丸ごと4羽分のフライとコーク。)
エルウッド: And some dry white toast please. (それと白パンのドライ・トーストね。)
・・・
Mrs.マーフィー: Be up in a minute.(すぐにご用意します。)

 日本語には、名詞に冠詞も付かないし、単複形もないし、不加算名詞、可算名詞の区別もありません。それは、日本語と英語の「数」に対する意識が根本的に違うせいで、思わぬドツボにはまることも。たとえば、犬が好き、猫ちゃんが好きと言うつもりで、”I like dog!””I like cat!”と冠詞なしの単数形を使うと「犬の肉」「猫の肉」を意味してしまい、思わぬゲテモノ好きと思われるのでご注意ください。
 フライド・チキンは、KFCでも1ピース、2ピースと書いてあるでしょう。冠詞のないchikenは、もちろん鶏肉の意味です。なのに”four fried chickens”と複数形で注文するところがオモシロイんです。ジェイクにそう注文されたアレサ、最初は、”four fried chicken wings”や”four fried chicken legs”のつもりだと思うんですが、実は「ニワトリ4羽分丸ごと揚げろ」というとんでもない注文!このやりとり、英語を母国語とする人たちには、最高に笑える会話で、この映画の中でも、最も有名な名台詞で、”Four fried chickens and a Coke”というロックン・ロールバンドもあるらしいです。 映画のシーンを観てない方はこちらをdouzo

 ジャズ歌詞の対訳を作る時も、冠詞や数詞をはっきり解釈して、正しいニュアンスを出す訳文を作ることが肝要です。逆に英訳をする場合は、単複のない日本語の単語を、原文作者に確認しないと、とんでもない英訳になる危険も・・・
 というわけで、夏休みの英語講座でした。
 夏休みが終わっても、OverSeasのライブ、引き続き宜しくお願い申し上げます。
CU

アレサ・フランクリン礼賛

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 土曜日の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に”クイーン・オブ・ソウル”ことアレサ・フランクリン登場!イェーイ!
何で?と不思議に思われる皆さん、トミー・フラナガンとアレサ・フランクリンは、’60年代、コロンビア時代と’90年代に映画音楽で2度も共演しているんです。
まだ信じられないの?そんなら、土曜の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に来てみてください。
 でも気品溢れる珠玉のピアノがお好きな方は、ひょっとしたら、アレサのことをあまりご存じないかも…というわけでちょっと紹介。
<デトロイト私立ノーザン高校 2年B組>
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 フラナガンとフランクリンの共通キーワードはデトロイト。フラナガン(1930-2001)はデトロイトに生まれのデトロイト育ち、アレサ(1942-)はメンフィス生まれですが5歳でデトロイトに移り住み、現在もデトロイト市民です。フラナガンと年齢一回り違いますが、二人とも市立ノーザン・ハイスクールの卒業生です。ご存じのように、サー・ローランド・ハナ(p)やシーラ・ジョーダン、モータウンの重鎮、スモーキー・ロビンソンも同じノーザン高卒業生でした。
aretha-franklin-c-l-franklin-1040kc032111.jpg アレサの父親は米国では歴史に残るバプティスト教の宣教師、C.L.フランクリンで、デトロイトの人種差別撤廃に貢献し、キング牧師と共に公民権運動を推進した偉人でで、講話の達人としても有名です。ダイナミックに呼びかける強烈な説法は、英語が判らなくても感動できる音楽的な魅力に溢れており、何と75枚もの講和のレコードを遺しました。最初の一音から瞬時に聴く者の心を掴むアレサの歌声は、この父から受け継がれたものに違いありません。
 幼いころ両親は別居、子供たちは父のフランクリン師に育てられました。小学校のときから、師がデトロイトに建立したベセル・バプティスト教会で讃美歌を歌い、あの圧倒的な歌声が育まれていきました。黒人社会を代表する名士を持つアレサの環境は、貧しい家庭で、幼いころから売春宿の使い走りをしたビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルドとは少し違います。ただしフランクリン師はキリスト者でありながら、娘たちが世俗的な音楽を楽しむことには寛容で、街で聴こえてくる流行歌を、自宅のピアノで弾き語りしても怒られるどころか、内外からやって来る客人たちの耳を楽しませる役割を務めていました。その中には、マーティン・ルーサー・キング牧師や、ゴスペルの女王、マヘリア・ジャクソン、サム・クックなど著名人が沢山おり、やがてデトロイトのフランクリン師の歌の上手い娘さんの評判が広まって、コロンビア・レコードの大プロデューサー、ジョン・ハモンドに目に留まり、コロンビアの初期の一連のアルバムで一挙スターダムに乗ります。マネージメントは父のフランクリン師でした。
<シビれる歌声>
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 その時代の代表作が『The Electrifying Aretha Franklin』 (1962) で、フラナガンは、マンデル・ロウ(g)やジョー・ワイルダー(tp)とともにスタジオ・ミュージシャンとして参加しています。 Electrifyingとは、感電したみたいにシビレルことです。まだ18才の若さでどこまでもワープするパワフルな歌声と、清らかな歌詞解釈が素晴らしく、無限の伸びしろを感じさせてくれます。
 ちょうど、このレコーディングの頃、アレサは父の反対を押し切って最初の結婚をし、夫がマネージャーとなります。ところが私生活では、彼女に暴力をふるい、女遊びを繰り返す典型的なひどい夫であったようす。そのことを売り物にせず隠し続けていたアレサはエライね。でも、この試練が彼女の歌唱に深みを与えたと言う人も多い。事実、その夫の勧めで移籍したアトランティック・レコードで、アレサは本格的な”クイーン・オブ・ソウル”として大きく開花します。
 公民権法を勝ち取った黒人のパワーを代弁するかのようなオーティス・レディングの作品”Respect”(’68)から、バート・バカラックの”小さな祈り”(’68)、南アフリカでアパルトヘイトに苦しむ人々にとって文字通りゴスペルとなった”明日に架ける橋”(’70)まで、アレサ・フランクリンでしか表現できない音楽世界、ヒットソングが山のように生まれました。ちょうど、私がアレサを好きになったのもこの頃です。まず歌声にシビれ、簡単な単語だけ聞き取れれば、アレサの全てが理解できたように感じられる歌唱は、まさに、お父さんの説教と同じような説得力があるのかも知れません。
<映画二本立て>
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 やがて時代はディスコ・ミュージックへと移り変わり、アレサに新たな試練が訪れます。父のフランクリン師は’79年に強盗に銃撃され、5年間も続くこん睡状態に、アレサは父を見守るためにデトロイトに定住しますが、どっこい、1980年の映画『ブルース・ブラザーズ』にカメオ出演し、”Think”の名唱で、新しいファン層をわしづかみ!アメリカ白人の黒人文化への憧憬一杯の名作映画、名場面の数々は土曜日にしっかりお見せしますよ!
 米国ブラック・ミュージックを代表するアレサの歌声の魅力は、その色合いの多様さです!勿論、エラ、サラ、ビリー・ホリディと言う我らがジャズ界の大歌手も、ヴォイスのカラーパレットは負けずに大きいのですが、色合いが違っていて、ソウル系の明確な転調したときの色彩変化が強烈です。
White_men_cant_jump.jpg 土曜日もう一つ登場するのは、1992年の映画『ハードプレイ』(原題White Men Can’t Jump)の挿入歌、”If I Lose”、これがまた素晴らしい!『サヨナラゲーム』や『タイカップ』など、ひねりの効いたスポーツ映画を得意とする監督、ロン・シェルトン作品、音楽担当がテナー奏者ベニー・ウォレスという面白い映画です。
 テーマになるのはストリート・バスケットボール、1対1あるいは2対2でやる賭けバスケット・ボールのプレイヤーの話で、黒人達が「白人にはまともなバスケはできない(White Men Can’t Jump)という逆人種的偏見を逆手にとって、稼ぐ白人と黒人の二人のプレイヤーたちの泣き笑い物語。そのストーリーにぴったりの歌詞とメロディ、ウォレス作曲、監督のシェルトン作詞、もちろん映画のための書き下ろしで、アレサのふくよかなヴォイスとフレージングが堪能できます。
 というわけで、土曜日はアレサの名唱や、映画の名場面集、それに、クラーク・テリー(tp, flg)の『One on One』では、フラナガンと共に、サー・ローランド・ハナ、モンティ・アレキサンダーとの名演奏も紹介します!

 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」
 日時:8/11 (土) 6:30pm-
 受講料:¥2,625

 おすすめ料理は、ソウルフルな名唱に相応しく、グレービー一杯のビーフ・カツレツをお作りします。
CU