知っておきたい裏ジャズ史 その①

 阪神タイガース背番号6番、金本知憲選手の引退が、とてもさびしいです。私よりずっと若いけど「アニキ」と呼ぶことのできるヒーローだった。哀しい秋の気配の中、私は11月から始まる「新・トミー・フラナガンの足跡を辿る」(仮題)の為に、色んな本を読みながら資料収集中!トミー・フラナガンというアーティストのレコーディングを丁寧に辿って行くと、ジャズ史の変遷と共に、音楽以外の社会や文化の様相が見えてくるから面白いですね!
<ナット・ヘントフを知っていますか?>
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nat74896.jpg コルトレーンの”Giant Steps”やバド・パウエルの”Blues in the Closet”などなど、数えきれないジャズ名盤のライナーノートの末尾にNat Hentoffという署名をご覧になったことがおありでしょう。これまで私が最もよく読んだ「ジャズ評論」は、ナット・ヘントフのものかもしれません。英語を読み始めた大昔、定期購読していた週間新聞”The Village Voice”にヘントフが書いたジャズや政治のコラムは、”Down Beat”よりもずっと言葉が難しかった。でも、ヘントフ自身の生の体験をベースに、思いがけない切り口で考察する彼の文章は、NYの香りとインテリっぽい魅力があり、ミーハー気分で、辞書を引くのももどかしく、夢中で読みふけりました。
nat1060196_p.jpg ナット・ヘントフ、1925年,ボストン生まれ、ジャズ批評だけでなく、自ら”Candid”というジャズ・レーベルを主催、ジャズに深くコミットしながら、小説家、ジャーナリストとして多面的に活動、80才を越えた今も、論議を巻き起こすようなコメントをどんどん発信しています。ヘントフにとって、ジャズとは「強烈な主張と個性を持つミュージシャン達が、お互いの言葉(プレイ)を誠実に聴き合うことによって、音楽と言う素晴らしい調和を作り上げる」アート!それはアメリカの唱導してきた自由民主主義そのものなのです。彼は時代の風向きに動じず、堂々と人工中絶に反対を唱え、「誇り高き時代遅れ、石頭で不信心なユダヤ人」を自称している日本にないタイプのジャーナリストです。
<ジャズ雑誌のジム・クロウ>
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 少年時代からジャズに魅せられたヘントフは、僅か10代で、ボストンのラジオ局のジャズ番組のホストを担当してから、ジャズ評論家への道を歩むのですが、「師と仰ぎ尊敬する人」とヘントフが挙げるのは、先輩評論家ではなく、音楽だけでなく、人間的な触れ合いから色々学ぶことのできたという、デューク・エリントンやジョー・ジョーンズ、チャーリー・ミンガスやコールマン・ホーキンスなどのジャズメンばかりです。ひょっとすると、それがダウンビートに解雇される一因だったのかも知れません。
 1952年、JATPを主催するノーマン・グランツの推薦で、レナード・フェザーの後任として、憧れていた”ダウンビート”マガジンの共同編集者としてNYで勤務。毎夜ジャズ・クラブで演奏を聴き、尊敬するミュージシャンの話を聞きながら、嬉々として執筆活動を続けます。
 現在の”ダウンビート”は月刊誌ですが、当時は週刊誌として相当な発行部数を誇っていました。本社はシカゴで、NYやLAに支所があり、黒人の芸術であるジャズのニュースを発信していたのです。まだ公民権法は成立していなくとも、「ジャズ・ジャーナリズムに、人種の隔離はありうべからざるもの。」少なくともヘントフは固く信じていました。
でも、”ダウンビート”社の隅から隅まで探しても、黒人の従業員はいなかったのです。
 1957年、ヘントフの勤務するNY支社で、「受付」やその他の秘書的な業務をしてくれるスタッフが欠員となり、新人を募集することになりました。会社の規則には「スタッフの雇用は事前に社長の許可が必要」という項目があり、ヘントフがその理由を聞いてもはっきりしなかった。とにかく人手不足で困っていたので、面接の結果、一番経歴が優秀で、頭脳も性格もよさそうな候補者は、たまたま黒人女性でした。黒人の音楽で利益を得ている会社なんだからと、ヘントフの一存で採用決定!ところが、その直後にシカゴ本社の社長がNYにやってきて、受付に黒人が座っているのを発見されてしまいます。
 週明けにヘントフが、レビューするレコードや原稿一式を抱えて出社すると、彼のデスクはなくなっていました。ヘントフは、その黒人女性とともに名門ジャズ雑誌、”ダウンビート”を解雇されてしまったのです。
 後に、その女性が黒人ではなくエジプト系アメリカ人であったと判ったのですが、有色人種であることには変わりありません。あなたが、どんなにジャズを愛し、聡明でシックな人であったとしても、有色人種である限り、1957年代のダウンビート黄金時代のスタッフにはなれないのです。
nat9a970c-320wi.jpg 1957年といえば奇しくもトミー・フラナガンのOverseas録音の年、余談ですが、この年のNYには、三島由紀夫が長期滞在していました。自作の戯曲でブロードウェイを征服したいという野望を持って意気揚々とやって来ましたが、色々な努力も徒労に終わってしまいました。時代が早過ぎたんですね。
 さて、ジャズ誌をクビになったことで、ヘントフはタイム・マガジンや全米の一流誌のコラムニストとして、活動の幅を広げたわけですから、人生は不思議です。私としては、解雇されたエジプト系の女性が、その後どのような人生を送ったのかを知りたいのですが…
 というわけで、毎月第二土曜の新講座、ヘントフ以上に率直に、ジャズへの愛情をこめて、寺井尚之が、皆さんの聴きなれた名盤の、まったく新しい切り口をお見せしていきます。どうぞよろしく!

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