The Mainstemで夕涼み

ms_7_19.-1.JPG ’08 7/19(土) 於OverSeas
 ピアニスト寺井尚之が、長年の英知を総結集して大きく育てる新ユニット、The Mainstemで、爽やかなジャズの夕涼み!
 
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   毎回違う素材を、Mainstemならではのしつらえで、お客様に満足していただくには、寺井尚之(p)だけでなく、宮本在浩(b)、菅一平(ds)の、見えない努力が欠かせない。Mainstemのセカンドライブは、骨太でありながら冴え冴えしたサウンド、ダイナミクスの振幅も大きく、爽やかな後味だった。
kin%3Dmunazou-reunion.JPG “BOYS2MEN” 元寺井尚之ジャズピアノ教室のホープだった金ちゃんが、東京から久々に聴きに来て、むなぞう若頭とリユニオン!二人とも大人になったなあ…

 The MainstemSpecial Selection: 今夜の曲目
(曲目のブルーの字は、先週のジャズ講座に登場したナンバー。)
<1st Set>
1. Crazy Rhythm (Irving Caeser, Joseph Meyer, Roger Wolfe Kahn)
2. One Foot in the Gutter (Clark Terry)
3. Repetition (Neal Hefti)
4.Little Waltz (Ron Carter)
5. Well, You Needn’t (Thelonious Monk)
<2nd Set>
1. Summer Serenade (Benny Carter)~ First Trip (Ron Carter)
2. Moon & Sand (Alec Wilder)
3. Mrs. Miniver (Dexter Gordon)
4. I Cover the Waterfront (Johnny Green)
5. Old Devil Moon (Burton Lane)
<3rd Set>
1. Syeeda’s Song Flute (John Coltrane)
2. Central Park West (John Coltrane)
3. Trane Connections (Jimmy Heath)

4. Star-Crossed Lovers (Billy Strayhorn)
5. Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)
Encore: Caravan (Juan Tizol- Duke Ellington)

 <1st Set>
 オープニングで爽快にスイングした“クレイジー・リズム”は、昨年暮に講座で取り上げてから、寺井の愛奏曲になった。
Terry-1.jpg “ワン・フット・イン・ザ・ガター”は寺井尚之が大好きなトランペッター、クラーク・テリーのオリジナル、天井の高いひんやりした教会のステンドグラスを震わせるようにブルージーなピアノのエンディングに泣けた!『溝にはまった片足』なんて、変てこなタイトルでしょ? 実は「聖者の行進」の昔、テリーが育ったセント・ルイスの街でパレードの花形だったハム・デイビスというトランペッターに捧げた曲なんです。
 ジャズ史の影には無名の巨人が沢山いるのだ!ハムは、行進の時、わざと脇の溝に滑り落ちながら、ハイノートをピリっとも狂わせずにヒットする名手!クラーク・テリー少年のヒーローだった。メロディより遥か2オクターブ上を朗々と吹くペットの音は、町中に響き渡り、10マイル先でも、「あっ、ハムだ!」と判ったというのです。テリーは、もう一曲、“Two Feet in the Gutter”という曲もハム・デイヴィスに捧げている。
    リピティションは、ニール・ヘフティのダンサブルな曲、チャーリー・パーカーの、風が吹き抜けるような名演で知られている。寺井が、宮本在浩(b)+菅一平(ds)のリズムチームの為に書き下ろしたアレンジで、今後、The Mainstemのおハコになるでしょう!

 
  1-4,5,2-1,2はこのアルバムに!
『Sugar Roy』/ロイ・ヘインズ(ds)

“リトル・ワルツ”は、モネの「睡蓮」のように光や風の「ゆらぎ」を感じさせてくれます。宮本在浩(b)のベースラインが、ピアノのサウンドに絡まる様子が素晴らしかった!
ラストのモンク・チューンには、ドラムの菅一平が、強力にパワーアップしていることを改めて思い知らされました。
<2nd Set>
 湿気で鍵盤が重い故、ことさらタッチを研ぎ澄ませているせいか、湿気を含んだせいなのか、ピアノは熟した果実のような芳香を放ちます。夕涼みにぴったりのサマー・セレナーデをプロローグに、ジャズ講座で聴いたロン・カーター(b)が印象的だったファースト・トリップで、宮本在浩さんの茶目っ気溢れる、「変則ビート」が飛び出して、講座に来られていた常連さんはニンマリ!
  
 ムーン&サンドは、アメリカ東海岸の文化の権化みたいな、ユニークで偏屈でロマンチックな作曲家、アレック・ワイルダーの名曲。寺井のプレイで長年聴いてきましたが、今までのベスト・バージョンのひとつ!この夜のハイライトだった。ワイルダーは多分、ニューイングランドの夜の海をイメージして書いたのだろうけど、今夜のThe Mainstemのバージョンはどこの海だったのだろう…私はインド洋の離島、電気のないコテージで過ごした夜を想いました。
 Mrs.ミニヴァーも、『ザ・パンサー/デクスター・ゴードン』でジャズ講座に登場した曲、ゴードンの大きなストライドの吹きっぷりそのままに、ゆったりしたテンポでスイングしてヒップだったね!
 波止場に佇みは、寺井尚之にとって、映画の主題歌ではなく、ビリー・ホリディのおハコです。「恋人の帰りを、荒涼とした波止場で待ち望む切ない曲」ただし、ホリデイの歌う恋人は「きっと帰っては来ない」けど、寺井尚之の解釈には「希望」の光が点る。えっ?イントロのメロディがどっかで聴いた事あるけど思い出せないって? だからね、「男はつらいよ」のテーマ・ソングだったんです。こういうところが寺井イズム! 
 
 そして、ラストはオールド・デヴィル・ムーン ラテンと4ビートのギアチェンジで、ハッピーエンドに楽しく仕上げました。
 
<3rd Set>
  
 レパートリーの視点から一番惹かれたのはラスト・セット。コルトレーンの2作は、トレーンの作曲家としての偉大さを教えてくれます!ジミー・ヒースがトレーンに捧げたトレーン・コネクションズも、ライブでは滅多に聴けない名作で、聴けて良かった!
 寺井が初めてジャズを聴いたのは、予備校時代、涼みに入った真夏のジャズ喫茶での「至上の愛」だった。ジョン・コルトレーンの命日は7月。トレーンの曲は手強いけれど、バッパーが演ると、冴え冴えして色気が出るという見本だった。
 コルトレーンの世界から、いとも自然に7月の曲、スター・クロスト・ラヴァーズへ!この辺りの組み合わせが『メインステム流』!ロマンティックだけどベタベタしない、最高の七夕のバラード!
 ラストはエリントニアの極めつけ黒と茶の幻想!河原達人さんの数々の名演を見ながら覚えた菅一平のマレットさばきに目を奪わた。
 アンコールのキャラバンは、弾丸スピードのスインガー、F1スポーツカーで飛ばしながら、シフト・チェンジするのは、こんな快感なのだろうか?グルーブが変化しながら快感も加速!
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 次回のThe Mainstemは、今週の金曜日です。曲のウンチクを知らなくたって、初めてジャズを聴く人だって、フィンガー・スナップ・クラックル、きっと楽しいワンダーランド! The Mainstemにお越しやす! 
CU

ギンギンギラギラ…ボビー・ダーハム(ds)追悼

RIP_durham.jpgBobby Durham(1937-2008)
 7月7日未明、イタリアのジェノバでドラマー、ボビー・ダーハムが亡くなった。享年71歳。肺がんと肺気腫であったとのことです。
 
 4月からジャズ講座で毎月、彼の鮮やかなドラムを聴いていて、より身近に感じていた矢先の死去でした。
    エラ・フィッツジェラルド、モントルー'75 
 講座で聴いて来たボビー・ダーハム参加アルバムは凄いのが一杯!左から”トーキョー・リサイタル” ”エラ・フィッツジェラルド、モントルー’75″…
<ニッポンイチ!>
 寺井が雪の京都で初めてトミー・フラナガンに弟子入り志願した’75年、エラ・フィッツジェラルドと来日したフラナガン・トリオのドラマーが、このダーハムだった。寺井尚之は、先日のジャズ講座で、京都会館の控え室に入ってきたボビー・ダーハムの印象を、こんな風に語っている。
 「暴走族の兄ちゃんが、ヤクザの組事務所に行って、正真正銘のほんまもんの極道に初めてメンチ切られた感じ。ダーハムは、オスカー・ピーターソン・トリオですでに名を成してはったし、とにかく物凄いオーラがあった…」
  そのステージのトリオ演奏は、“前座”には程遠い圧倒的にハードな演奏だった! 私は某氏の秘蔵する音質の悪いテープで聴いたのですが、演奏に負けないほどソリッドだったのは満員のお客さんの反応! …涙が出た。
 まるで、背番号だけで、全選手を熟知するヤンキー・スタジアムか熱闘甲子園… 
 近畿一円からプロのバンドマン達も沢山来ているから、手拍子もズレないし、口笛だって最高のタイミングで入るんです。
  Caravanのドラムソロでボビー・ダーハムがクライマックスに達した瞬間、すかさず大向こうから「日本一!」の掛け声がかかる!多分ダーハムは、その意味は知らないはずなのに、ハイハットの二段打ちを炸裂させて、大見得を切った。
 ストレイホーンのAll Day LongからOleoまで… 天から何かが降りて来たような状態で、エラが登場するまでに、もの凄いことになっていた… 
 この夜に、寺井尚之も、客席にいた未来の鉄人、中嶋明彦(b)さんも、一生プロでやって行こうと思ったそうです。
  私自身、JATPやオスカー・ピーターソン3で何度かボビー・ダーハムのステージを観ました。個人的には会ったことはないけど、寺井の印象はよく判る。アーサー・テイラー(ds)がサムライであり『剣豪』であるならば、ボビー・ダーハムは、無頼であり『人斬り』だ。腕はめっぽう立つし、自分の持ち場を心得て、緩急自在のツボにはまったプレイだけど、シズルの付いたシンバルもギラギラで「今宵の虎轍(こてつ)は血に飢えた」風情、絶対カタギじゃない! だからこそカッコよくて堪らないドラマーだったんです。
<かつてドラマーはダンサーだった。>
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 ダーハムは’37年、フィリー・ジョー・ジョーンズやヒース・ブラザーズを輩出したフィラデルフィア生まれ。両親も叔父もタップ・ダンサーの家系に生まれ、よちよち歩きの2歳から、母にタップと歌を習う。トロンボーンやヴァイブラフォン、ベースなど、色んな楽器を習得した上で、ドラマーの道を選びました。
 デューク・エリントン楽団のハーレム時代の花形ドラマー、ソニー・グリアーや、ドラム・ソロが、そのままダンスだったエディ・ロック…タキシード姿でも、ドラム・スツールに座るとボロボロのダンス・シューズに履き替えたパパ・ジョー・ジョーンズ… ’昔はダンサー出身のドラマーが多かった。“華”のあるドラムとダンスには、秘密の関係があるに違いない。
  ダーハムの名前を一躍有名にしたのは、何と言ってもオスカー・ピーターソン(p)トリオです。エド・シグペン(ds)の後、断続的に’66~ ’71まで在籍、モンティ・アレキサンダー(p)とも名トリオを組んだ。エラとフラナガンは言うまでもないけど、元々R & B畑のダーハムはジャズだけでなく、ジェイムズ・ブラウン、マーヴィン・ゲイやレイ・チャールズ、そしてフランク・シナトラとも録音しているらしい。具体的にどのアルバムなのか、知っていたら教えてください。
<コワモテ>
  ステージでみせた「カタギでないかっこよさ」そのままに、ボビー・ダーハムは、なかなか難しい人であったらしい。アル中と噂され、トミー・フラナガンが独立後も、ボビー・ダーハムとは断続的に共演しているけど、ギグに遅刻することも、たびたびあったらしい。
Village_Voice_ad.jpg 私のスクラップfrom the Appleから:’89年のヴォイス誌のad.
 寺井尚之の友人、チャック・レッド(ドラマー、ヴァイブ奏者)が、その昔、NYにトミー・フラナガン3を聴きに行った時のこと。ドラムのダーハムがヴィレッジ・ヴァンガードの演奏時間になっても現れない。それで、フラナガンは客席にいたチャックに急遽代役を頼んだ。ラッキー・ガイ!チャックは、憧れのトミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツと、天にも昇る心地でプレイしていたのですが、1セット目が終わる頃に、酔っ払ったボビー・ダーハムが現れた。
 ダーハムは、チャックに穴埋めの礼を言うどころか、物凄い剣幕で「おまえ何やってんだ。さっさとどけよ!」とドヤしつけたらしい。だからってチャックは、ダーハムを恨んだりする人じゃないんだけど、怖かっただろうな…
 <人格者オスカー・ピーターソンの証言>
Oscar-Peterson.jpgオスカー・ピーターソン時代に弾丸スピードで“Daahoud”を演っている圧巻の動画発見。ベースはレイ・ブラウン
 UKの高級新聞、「インデペンデント」誌にスティーヴ・ヴォースが寄稿した追悼記事には、ピーターソンの興味深い証言が載っている。
 オスカー・ピーターソン: ボビーは、初参加した時でも、まるで何年も一緒に演っているように感じた。他のプレイヤーなら、譜面に予め書いておかないと判らないような細かいところまで見越して叩いたからだ。
 私がボビーに付けたニックネームは“Thug(殺し屋)”だ。フィラデルフィアでも、一番物騒な土地の出身で、昔ボクシングで鳴らしたを荒くれ男だったからね。
 ダーハムは、トリオのベーシスト、サム・ジョーンズと仲が良かったんだが、スイスのツアー中、列車の中で大喧嘩をやらかした。サムは長身でダーハムは小柄なのだが、サムに乱暴しようとしたんだよ。ボビーは後から、ノッポを殴り倒す極意を、とうとうと講義していたよ…
OscarPeterson_HelloHerbie.jpg一番左がダーハム、右端がサム・ジョーンズです。ダーハムは背伸びしているみたい…
 
 <あのデュークがクビにした…>
   ピーターソンがボビー・ダーハムを気に入ったのは、エリントン楽団の複雑なアンサンブルで、いとも易々と華のある演奏をしていたからだったと言いますが、ダーハムは、メンバーを解雇しないことで知られる名君主、デューク・エリントンからクビにされた数少ないミュージシャンの一人でもあります。(もう一人は、ベーシスト、チャーリー・ミンガスらしいです…)
 息子のマーサー・エリントンの証言によると、解雇の原因は、生意気で、デュークの言う事を聞かなかったからだった。
 ところが皮肉にも、「2週間後解雇の通告」を受けてからのダーハムのプレイは、あっさりトゲが取れて、エリントン楽団にぴったりのリラックスしたものになっていた…「なんだ、最初からこう演ってくれればいいのに!」ということになり、解雇の撤回を決定した時には、すでにオスカー・ピーターソン・トリオへの移籍が決まっていたんです… 
   プライドが高くて喧嘩っ早いけれど、超一流の腕があったダーハムには、一匹狼の板前みたいに、いくらでも職場があった。ピーターソン・トリオを退団後、即、当時売り出し中の若手だったモンティ・アレキサンダーとトリオを組み、何枚も名盤を録音、その後、エラ・フィッツジェラルドのバックに参入した。
   フラナガンがエラのトリオから独立した後も、ダーハムはノーマン・グランツに可愛がられ、世界中のジャズフェスティバルに出演、特にヨーロッパで人気を博しました。
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 晩年のダーハムはスイスと、イタリアに住居を持ち、地元ミュージシャンと活動を続けていた。亡くなったジェノヴァの小さな村、イーゾラ・デル・カントーネでは、ここ数年間『ボビー・ダーハム・ジャズフェスティバル』というイベントが開かれ、ダーハムが亡くなる数日前にも開催されていた。
  気難しいヤクザな名ドラマー、ボビー・ダーハムも、自分の天才を判ってくれる人達には、聖人のようにとことん良くした人だったのではないだろうか?と、私は思う。 
 晩年すごしたイタリアの村では、一肌も二肌も脱いで、アメリカのミュージシャンを呼び、村起こしに貢献したのではないだろうか?
 今後のジャズ講座では、エラ・フィッツジェラルド、トミー・フラナガン3のライブ盤 <Montreux ’77 >や、 来月は、Eddie “Lockjaw” Davisのワン・ホーン作品 -< Straight Ahead>などでボビー・ダーハムのプレイを偲ぶことが出来ます。
 合掌

寺井珠重の対訳ノート(11)スター・クロスト・ラヴァーズを聴きながら…

  

tanabata_129193679.jpg 7月になると、“Star-Crossed Lovers”(不幸な星めぐりで、添い遂げることの出来ない恋人達)という名の美しいバラードが、OverSeasで聴ます。

  寺井尚之は“Star-Crossed Lovers”に「七夕」にしか逢うことの出来ない恋人たち、織姫、彦星のイメージを重ねて、天の川のように瞬く幻想的なサウンドに乗せて聴かせてくれる。

<Such Sweet Thunder>

 “Star-Crossed Lovers”、言葉の起源は、エリザベス朝時代、文豪シェイクスピアが戯曲『ロメオとジュリエット』のために創りだしたものだった。以来『ロメオとジュリエット』の物語は、どんなに時代が変わっても愛され続けます。

 シェークスピアの時代から4世紀が経った1956年、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンのコンビは、カナダ、オンタリオ州で開催された”シェイクスピア・フェスティヴァル”のために、“Such Sweet Thunder”というシェイクスピア組曲を書き下ろす。それは、マクベスやハムレットなど、シェイクスピアの作品に因んだ12曲から成るもので、“Star-Crossed Lovers”は、もちろん『ロメオとジュリエット』に因んだ作品だった

 
組曲のタイトル・チューン、”Such Sweet Thunder”(かくも甘美なる雷鳴)は、”真夏の夜の夢”のセリフですが、「甘美なる雷」とは、エリントン楽団そのもの!この言いえて妙なネーミングはストレイホーンのアイデアかな…

  ビリー・ストレイホーンは、バンド・メンバーから”シェイクスピア”とあだ名を付けられる程の、シェイクスピア・オタク。何しろビリーをちゃんと言うとウィリアム!4世紀前のビリー・シェイクスピアが同性に対して謳った哀切なソネットに共感したのかも・・・、ですからこの組曲のオファーに張り切ったのですが、作曲期間はたったの3週間!その間、デューク・エリントンは楽団と共に”バードランド”に出演中で、演奏の合間に曲のデッサンを書きまくる。それを元に、アパートに缶詰になったストレイホーンが、作曲と組曲の体裁を整えるという自転車操業…おまけに別の大プロジェクトを同時進行させていて、到底締め切りに間に合わない絶体絶命でした。そこで、前に作っていた“Pretty Girl”というタイトルのバラードを、”Star-Crossed Lovers”と改題して使いまわした。

シェイクスピア組曲録音風景 組曲録音中のエリントンとストレイホーン

  料亭の「使いまわし」はバッシングにあうけれど、このリサイクルは大成功!キーは D♭メジャー、A(8)-B(4)-C(4)-D(6)、計22小節という優雅な変則小節で奥行きを感じさせ、色気と品格を併せ持つこの作品には、”プリティ・ガール”より”Star-Crossed Lovers”の方がずっとぴったりすると思いませんか?

 

<村上春樹『国境の南、太陽の西』>

 この曲は、日本を代表する文学者、村上春樹のお気に入りでもあり、ジャズファンよりハルキストの方がよく知っている曲かもしれない。村上が’90年代初めに書いた長編、『国境の南、太陽の西』には様々な曲が作品に彩りを添えているけど、エリントン楽団による”Star-Crossed Lovers”は、この長編の「愛のテーマ」的な役割として使われている。というか、村上さんは、ジョニー・ホッジスの演奏スタイルを使って、一編の長編小説を作ってみたのでないか、という印象さえ受けます。

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 読んだことのない方に簡単にストーリーを説明しておきますね。

   1951年という時代には稀な一人っ子として生まれ、何となく屈折した思いを持つハジメという名前の「僕」は、小学生の時、やっぱり一人っ子で、足の不自由な女の子、「島本さん」と出会い、唯一心を通わせるのだけれど、中学に入ると別れ別れになり、別々の人生を歩む。

 次に交際したガールフレンドは「イズミ」で気立ての良い魅力的な女の子だったが、「僕」は彼女の従姉妹と同時に肉体関係を持ち、「イズミ」をひどく傷つけてしまう。誰と交際しても、「島本さん」のようには、心を通わせることが出来ない。

  バブル時代の東京、「僕」は30代で結婚をし、子供をもうけ、都心の洒落たジャズ・バー“ロビンズ・ネスト”のオーナーとなり、適当に浮気も楽しみながら、裕福な生活を送っている。
 「僕」が経営する店に赴くと、必ずハウス・ピアニストは、彼のお気に入りの曲、”Star-Crossed Lovers”を演奏する。そんな彼の店に、美しい大人の女性に成長した「島本さん」が不意に訪ねてくる。彼女も同じように、ずっと自分のことを思い続けていたのだ。

  「島本さん」は私生活を明かさず、彼の店に通い詰めたかと思えば、数ヶ月姿をくらまし消息を絶ってしまう魔性の女、まるで星の巡行のように、数ヶ月単位で近づいたり離れたりするのです。「僕」は、そんな彼女に、どうしようもなくのめりこみ、とうとう箱根の別荘で一夜を過ごし、「気持ち」だけでなく「肉体」も結ばれるのです。
 
  思いを遂げて幸せになったと思えばさにあらず….
 全てを投げ打って、島本さんと人生を再出発しようとする「僕」とは逆に、島本さんは「僕」と心中することを決意していた。「僕」と死ねなかった彼女は結ばれた翌朝、忽然と姿を消してしまう… そして、何も気づいていないと思っていた「僕」の妻も、夫の恋に気づいていて、自殺を考えていた事を知らされる・・・
 
 「島本さん」を失った「僕」は、映画カサブランカのリックのように、店のピアニストに向かって言う、「もう、スター・クロスト・ラバーズは弾かなくてもいいよ。」…
 

 
 結局、スター・クロスト・ラバーズは、「僕」と「島本さん」だけでなく、この小説に登場する全員のメタファー(隠喩)で、様々な「星」の行き違う様子を語った物語だったのだと、読んでから判るんです。
 

リリアン・テリーの歌うStar-Crossed Lovers

 前にも書いたように、トミー・フラナガンは、《Tommy Flanagan Trio, Montreux ’77》や、《Encounter!》で演っているのですが、もう一枚、イタリアのジャズ・シンガー、リリアン・テリーとの共演作でも、フラナガンは息を呑むようなソロ・ルバートを聴かせています。このアルバムは、ピアノの役割が、単に「歌伴」というカテゴリーに納まらないほど大きいんです。歌詞は、原型の<Pretty Girl>にストレイホーンが付けた歌詞を、ほんの少し変えて、とってもうまく歌いました。
 アルバムのタイトルは《A Dream Comes True》(Soul Note ’82作)、楽曲や共演者に対する尊敬が伝わる、いい感じの作品です!

Star Crossed Lovers
 Billy Strayhorn=Duke Ellington

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Lover boy, you with a smile,
Come spend awhile with poor little me.
Lover boy, you standing there,
Won’t you come Share my eternity?

You could make me a glad one I long to be
Instead of a sad one that you see.

Let me live for awhile,
Won’t you give just a smile?

Lover boy, you with the eyes,
Won’t you surprise me some fine day.

愛しい人、どうぞ私に微笑みを、
あなたを想う哀れな私と
しばしの間、ご一緒に、
愛しい人、佇むあなたをただ見つめるだけ、
どうぞ永遠の愛を受け入れて。

あなたなら、幸せな夢を叶えてくれる、
寂しい私を変えられる。

しばらくだけでいいんです、
どうぞ私に生命を与えて。
微笑んでくれるだけでいいのです。

愛しい人よ、その瞳で魔法をかけて、
いつの日か、思いがけない喜びを下さいな。

 ”Star-Crossed Lovers”のメロディを胸の中に鳴らしながら、私は、店からの帰り道、夏の夜空を眺める。
 小説を読むのもよし、エリントン楽団や、トミー・フラナガン、色々聴くのもいいけれど、私はやっぱりOverSeasで7月に聴くのが好き!
 『国境の南、太陽の西』に出てくる”ロビンズ・ネスト”みたいな、一流のバーテンダーはいないし、アルマーニのネクタイを締めたハンサムなオーナーもいないけど、プレイはずっとうちの方がいいと思う!

 そんなStar Crossed Lovers...Mainstemの演奏で7月にぜひ聴いてみて欲しい!

CU

コールマン・ホーキンスの話をしよう!(2)

colemanhawkins_by_terry_crier.jpg 撮影:Terry Cryer
<ホーク、ヨーロッパに行く>
 10代でテナーの実力者と称えられたコールマン・ホーキンスは、20歳で名バンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板奏者となり、実力、名声、そしてお金を手にします。楽団の人気を分けたルイ・アームストロングは僅か2年で独立したけれど、ホークは約10年勤続、その間、スターに相応しいファッションや高級車にはお金を使っても、無駄使いは決してしなかった。

クライスラー・インペリアル’32型:友人になだめられロールス・ロイスを諦めて、こんなのを即金で買ったらしい…
 当時、コールマン・ホーキンスが自分を磨くために心がけていたことが一つあります。
  どこに楽旅しても、必ず「その地元の音楽を聴くこと。」
 トップ・プレイヤーでありながら、常に新しいアイデアを取り入れようとしていたんですね!グローバル化されていない世界には、色んな地方に、斬新なアイデアや奏法が、ダイヤの原石の様にゴロゴロころがっていた。ホークは色んな場所で見つけたアイデアに磨きをかけ、自分のものにしたのです。
 「いつか耳にしたものが、気づかないうちに、自分の中のどこかに留まっていて、忘れていても、ひょっこりと顔を出す。」と述懐しています。彼が受けた影響の内、最も顕著なのは先週書いたように、アート・テイタムだった。
  やがてジャズとギャングのビッグ・タイムだった禁酒法時代が終わり、大恐慌がやって来た。楽団の凋落ぶりに失望したホーキンスは、30歳で一路ヨーロッパに向かいます。(’34)
ColemanHawkins.jpg新天地で彼を待っていたのは、一流音楽家に相応しい厚遇でした。ヨーロッパには黒人差別も区別もなかった。むしろ、肌の黒い人達は、エキゾチックで優美な美の象徴だったのです。
 トップ・プレイヤーのプライドを持つ彼が要求したギャラに、ヨーロッパ人は驚いた。…安すぎたんです。ロンドン、パリ、ブリュッセル、どこに行っても、大歓迎を受けました。
 サロンで催されるお昼のティーパーティなら、たった3曲演奏するだけ! 後は、バカラ・ルームで最高級のコニャックが飲み放題! 故国では、どんな豪華なボールルームで仕事をしようとも、どれほど一流でも、黒人は調理場でしか飲食は許されません。白人専用ホテルに宿泊なんてとんでもないことだった。ヨーロッパでは、そんな差別はない。彼は上流階級のエレガンスを吸収し、シックな服やクラシックの譜面を買い漁り、ロンドンを本拠にして、ステファン・グラッペリ(vln)やジャンゴ・ラインハルト(g)達とツアーもしました。
 「人種差別はないが、音楽的にインスパイアされない」と、ロンドンから早めに帰国したベニー・カーターに比べ、ホーキンスは、ヨーロッパの水が合ったのかもしれない。
BennyCarter.jpg ベニー・カーターは今月12日(土)のジャズ講座に!
<Body & Soul>
 ホークのヨーロッパ生活は五年で幕を閉じました。民族主義、ヒトラーの台頭で、黒人は、もはやドイツ国境を越える許可が下りなくなったのです。あれほど厚遇してくれた新天地に失望したホークは、’39年に合衆国に帰国。ヨーロッパで成功したアーティストとして、意外なほどの歓迎を受けましたが、トップの地位は、レスター・ヤングに変わっていた…ホーキンス35才のことです。
 普通なら、音楽家としての発展はこれで一巻の終わりとなってもおかしくないんだけど、ホーキンスは非凡で運も味方した。帰国した年に、スタジオのレンタル時間が余っていたので、クラブ出演のアンコールとして愛奏していたバラードを録音してみただけの<Body & Soul>が大ヒット!
 これを聴いたジミー・ヒース(ts)は、「これこそがサックス奏者のメロディ解釈の手本!」と実感したと言っています。後に、その印象を元にして<The Voice of the Saxophone>という名曲を書きました。ヒース・ブラザーズの『In Motion』というアルバムに入っているし、寺井尚之のレパートリーでもあります。
 テイタムのプレイをサックスに取り込んだ和声の展開法が、間接的にビバップの誕生を促し、ホーク自ら進んでビバップに身を投じた。
<ビバップ>
 ビバップの聖地52丁目のクラブ<ケリーズ・ステイブル>を根城にしたホークは、セロニアス・モンク(p)、マイルス・デイヴィス(tp)、オスカー・ペティフォード(b)など革新的な若手をどんどん起用。「まともなピアノを雇え!」とモンクに物議をかもしても、ビバップの革新性を理解するホーキンスは意に介さなかった。マイルス・デイヴィスの良さをいち早く看破したのも実はホーキンスだった。ディジー・ガレスピー、J.J.ジョンソン、ハワード・マギーといったバッパー達とどんどん共演し、モダン・ミュージックをバリバリ吹きまくるのです。
 チャーリー・パーカーに影響を与え、BeBopの元になったのはレスター・ヤングというのが定説ですが、「もしホークが、アート・テイタムを聴かなかったら…、もしホークがヨーロッパから帰ってこなかったらBeBopという音楽は全く別物になっていただろう」と言うミュージシャンは多い。
<After Paris>
 ’50sに入ると、ロイ・エルドリッジ(tp)との双頭バンドやJATPで活躍しながら、アルコールが災いし「下降期」に入ったと、批評家達は言うけど、本当にそうだったのでしょうか?
 ’60年代、コールマン・ホーキンス・カルテットの一番手のピアニストだったトミー・フラナガン、二番手のサー・ローランド・ハナ…レギュラー・ベーシストのメジャー・ホリー、最後を看取ったエディ・ロック(ds)、晩年のホークを慕うミュージシャンは批評家達には賛成しない。
 ホークは、第一人者であったのに、新しい音楽に心を開き続け、自分の演奏する姿を見せることによって、後輩達に立派なミュージシャンの姿を示したと口を揃えて言うのです。
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 60年代後半からは、アルコール依存症で内臓をやられ、レスター・ヤングがそうだったように、食事が摂れず痩せこけ、やつれを隠す為に口髭を生やした。思えばトミーもハナさんも、晩年は口髭を蓄えてたなあ…パノニカ夫人は独り暮らしのホークを気遣って、体調が悪くなったらすぐ電話できるよう、彼のアパートの至る所に電話を備え付けたと言います。
 
「その頃のホークは本当にアル中だったの?」とダイアナに尋ねたら、彼女は即座にこう切り返した。
「タマエ、歴史上のジャズの巨匠で、アル中でない人はいる?いたら言ってみなさい!」
ハナ+ムラーツの24のプレリュード ハナさんがホークに捧げた作品“After Paris”は、自宅の壁に掲げたパリの地図を懐かしそうに眺めていた最晩年のホークのイメージ。
  最晩年、コールマン・ホーキンスは、体調を押してヨーロッパにツアーし、ヴィレッジ・ヴァンガードに定期的に出演したが’68年になるとさすがに仕事を控えた。それでも、サド・メルOrch.のライブはしっかり客席で見守っていたそうです。母親が96歳で天寿を全うした4ヵ月後、ホークは巨木が朽ちるように’69年5月に静かに亡くなりました。享年64歳。葬儀には、NY中のありとあらゆるミュージシャンが駆けつけたと言います。
 BeBopの土壌を耕し、フラナガン達のミュージシャン・シップを育てたテナーの父、コールマン・ホーキンス。ぜひ、『At Ease』や、『No Strings』『Good Old Broadway』を聴いて見て欲しい。トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナがホークに見た「父親像」は、この二人のピアニストが身をもって寺井尚之に見せてくれた姿でもあったんです。
tommy_terai_1999.jpg  口髭を蓄えたトミー、’99 OverSeasにて。
  コールマン・ホーキンスをもっと知りたければ、講座本第5巻を一度読んでみてください!
CU

寺井尚之の旅立ち:初演

 6月28日(土)、寺井尚之の新ユニット、<The Mainstem>が初めてのライブを開催しました。
看板
 ベース:宮本在浩(みやもと ざいこう)、ドラム:菅一平(すが いっぺい):ここ何年も、寺井と腕を磨いてきましたが、この日は特別な夜。唄の文句じゃないけれど、First-Nightingには心踊る魔法があります。二人とも口には出さないけど、今日の為に多くの時間と稽古を費やしたことは、音を聴けばすぐにわかった。
 

今夜の曲目:

1. Bitty Ditty (Thad Jones)
2. Out of the Past (Benny Golson)
3. A.T. (Frank Foster)
4. If You Could See Me Now (Tadd Dameron)
5. Minor Mishap (Tommy Flanagan)

1. Almost Like Being in Love( Frederick Loewe, Alan Jay Lerner)
2. I Can’t Give You Anything But Love (Jimmy McHugh,Dorothy Fields)
3. I Never Knew (Gus Kahn,Ted Fiorito)
4. If I Had You (Ted Shapiro/ Jimmy Cambell/ Reginald Connelly)
5. It’s All Right with Me (Cole Porter)

1. Let’s (Thad Jones)
2. A Blue Time (Tadd Dameron)
3. Mean What You Say (Thad Jones)
4. I Want to Talk About You (Billy Eckstein)
5. Raincheck (Billy Strayhorn)
アンコール: Cherokee (Ray Noble)

 First-Nightingは、じめじめした日本の梅雨だった。こういう日は鍵盤が重く、太鼓のチューニングは下がり、ベースも鳴りが悪くなりますが、新ユニットは雨も湿気もなんのその!プレイヤーの気迫と楽しさが伝わってきて、片隅で聴く私の心も日本晴れ!
mainstem_1st.JPG
 <The Mainstem>の初セレクションはデトロイト・ハード・バップ!サド・ジョーンズで始まりビリー・ストレイホーンに終わるという、逃げのない王道を突き進みました。
 オープニングの“ビッティ・ディッティ”に入る前のイントロで、寺井が聴かせたのは、朗々としたガーシュイン・ナンバー“フロム・ディス・モーモント・オン”、どうやら即興で入れたらしい。つまり、「このときから、わしはメンステムで演って行く!」というアナウンスの替わりだったんですね!
 演奏に溢れる季節の趣、“Out of the Past”のルバートで、さりげなく聴こえて来た“Here’s That Rainy Day”は「やっぱり雨になってしもたなあ…」という、ピアニストの洒落たモノローグだったのかな?
寺井尚之
 寺井初演の曲<A.T.>は初演? A.T.とは勿論アーサー・テイラー(ds)のこと!ケニー・バレル(g)のアルバム、『All Day Long』の収録曲でフランク・フォスター(ts)のオリジナルです。今夜の為に、寺井が譜面を新しく書き直していました。憧れの巨匠のフィーチュア・ナンバーをプレゼントされた菅一平(ds)は、水を得た魚のように、活きのいいドラムソロを聴かせ、大喝采を浴びました。河原達人さんのMean Streetsのように、これから、この曲が彼のおハコになるのだろうか?
菅一平     宮本在浩
 ジャズ講座でフラナガンのアルバム解説をするうちに、自然にレパートリーに取り込んでしまった名曲も登場!
 エラ・フィッツジェラルドが歌った-2や5は、最近の私的ヒット曲!コール・ポーターの“It’s All Right…”のイントロとして、『モントルー’75』や『カーネギー・ホール』でエラが歌った“ビッグ・ノイズ・フロム・ウィネトカ”がピアノソロに挿入されていてニンマリ! -3,4のスタンダードは、モントルーのJATPオールスターズで、クラーク・テリー(flg,tp)やトミーのソロが印象に残るけど、解説をするだけじゃなくて、自分のプレイの栄養にしているのはさすがです。宮本在浩(b)もそんな寺井に応えて予習十分、良いラインを作って、ハーモニーがヒットします。
 
 ラストセットは、大胆にもサド・ジョーンズの極めつけ、“Let’s” から始まった。あの悪魔的なテーマが一糸乱れぬユニゾンで決まると、在浩、一平の顔に快心の笑みが浮かび、片隅から聴く私の心に爽やかな風が吹きました!えっ?寺井の顔はどうだったかって?隅から聴いていたから、顔は見えないけど、きっと表情は変わってないと思います… とにかくトリオはどんどんスイングして、色んな色合いを見せてくれた。!
 
 6月の名歌は、ビリー・エクスタインのバラード、I Want to Talk About You、この唄が何故6月の唄かというと、爽やかな初夏の夜、好きな人と月明かりに照らされる公園を、散歩しながら、こんな文句で愛を告白する唄なんです。
『6月の夜が素敵だとか、
月光に照らされる神秘的な小道、
そんな話はもうやめて。
僕は君の事が話したいんだ。…』

 そして、プログラムの最後は日本の梅雨のじめじめを払拭してくれる、ビリー・ストレイホーンのRaincheck! Rain Checkというのは、元々野球のゲームが雨で流れた時に配る振替券、『雨切符』のことなんです。ストレイホーンがカリフォルニアで作った曲を言われ、雨の曲なのに、どこまでも明るく軽快なスインガーで締めくくりました。
 アンコールは、想定外の“チェロキー”で客席の度肝を抜きました!ノロシの上がるのを見たインディアン達が雄叫びを上げながら攻めてくる。雄叫びが近づいたり、峠の向こうに遠ざかったり…ダイナミクス溢れるトリオのコンビネーションで、聴く者の心をわし掴みにしたまま、ライブが終わりました。
<The Mainstem>…初の船出は雨だったけど、明るい船出だった!次回は7月19日(土)、CU

コールマン・ホーキンスの話をしよう!(1)

coleman_hawkins_1.jpgコールマン・ホーキンス(1904-69)
  コールマン・ホーキンスの名演は、ジャズ講座で大反響を呼びました。
それを言い換えれば、私たちには当たり前のコールマン・ホーキンスの素晴らしさが、忘れられつつある証拠なのかも知れない。
 今、このブログを訪問して下さっているあなたが、最近ジャズに興味を持ったのなら、「ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンなら知ってるけど、ホーキンスて誰やねん?」と思っても、ちっとも不思議じゃない。
 だけど、ソニー・ロリンズだって、少年の頃は、サイン欲しさに、ホークの家の前で、毎日待ち伏せしてたんですよ。
 この間、お店で新じゃがをボイルしながらダイアナ・フラナガン未亡人と電話でおしゃべりしていたら、’60年代に友人に連れられてホークのアパートに何度か行ったことがあると自慢していました。
ダイアナ: 「まだトミーと親しくなる前のことだった。コールマンは、“パークウエスト・ヴィレッジ”という、当時新しく出来た高層アパートに住んでいてね、窓からセントラルパークが一望できる部屋に暮らしていた。だいたいは独りでね。家にはピアノがあって、クラシックのLPのコレクションが凄かった。」
珠:あなたから見て、コールマンはどんな人だったの?
 ダイアナ:「正に巨匠(a great master)って感じ。容易に人を寄せ付けないオーラがあって、誰にでも気さくというタイプじゃない。だけど、とっても優しい人だってことは、よく判るのよね。
 無口だけど、何か自分の意見を言うときはズバっと言った。当たり障りのないものの言い方をしない人よ。でも、奥の深い言葉だった。トミーはコールマンが大好きだったけど、別にトミーだけじゃないわ、ジャズマンなら、誰だってコールマンのことは大好きだったのよ!」
 近寄りがたいオーラがあって、優しくって、奥の深いことをズバっと言う巨匠?ダイアナ、それじゃあトミーと同じじゃないの!
 だから、ちょっとホークの話をしてみよう。
<テナーサックスの父>
 “Hawk”や“Bean”という愛称で親しまれたコールマン・ホーキンス(1904 – 1969)は、日本なら明治37年生まれの辰年で、カウント・ベイシー(p)やファッツ・ウォーラー(p)が同い年。シュール・レアリズムの鬼才、サルヴァトーレ・ダリとか、名優、笠智衆、「歌謡界の父」古賀政男もこの年に生まれた。
 ホーキンスには、“テナーサックスの父”という名前もある。
   というのも、この楽器は19世紀中ごろにベルギーのアドルフ・サックスによって発明されたのだけど、ブーブーと変てこりんな音を出す『三枚目役』専門だった。幅広のマウスピースと、堅いリードを用い、重厚な音色を開発して、音楽史上初めて、テナーサックスを、シリアスな主役を張れる『二枚目』に仕立て上げたのがコールマン・ホーキンスだからなんです。
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 コールマン・ホーキンスの写真を見ると、今では過去の遺物かも知れない『父』の風格が漂う。家の中で、一番偉くて、恐くて、頼り甲斐があって、信念に溢れる家長の姿だ。
 普通『父』は、子孫を沢山作ると、『爺さん』になり、お役目御免となるのが常ですが、ホークは違った。自分の蒔いた種から育った子孫と共に、更に音楽を開拓したんです。
   トミー・フラナガンは郵便配達夫であった父について、「ちゃんと労働をし、家庭を守り、人間としてやるべきことをきちんと子供達に教えた人」と言っていた。フラナガンのホーキンスに対する敬愛の念は、このお父さんの印象とオーバーラップする。
   スタジオ入りしてからレコード会社が決めた曲目のメモと市販の譜面だけを頼りに、その場でどんどんアレンジして、後世の私達を魅了する名盤を数多く録音した巨匠…フラナガンにとっては「音楽家としてやるべきことを、きちんと教えてくれた」音楽の父ではなかったろうか?
 コールマン・ホーキンス、どんな生い立ちだったんだろう?
 <ミズーリの天才少年>
 コールマン・ホーキンスの生地は、ミズーリ州のセント・ジョセフという町で、音楽家の母と、電気工事作業員の父の間に生まれた一人息子、大事にされました。
 西部劇でジェシー・ジェームズという銀行強盗を見たことがありますか? ブラット・ピットも演じたアメリカン・ヒーローです。彼が、賞金稼ぎと撃ち合いの末、壮絶な死を遂げた町がセント・ジョセフ。ホーキンスが、銀行を信頼せず、長年、全財産をポケットに入れ持ち歩いたのは、そのせいなのかも…。
 コールマンは5歳からチェロとピアノをみっちり稽古し、9歳の時に、たまたまプレゼントにもらったCメロディのサックスが気に入って独学で習得してしまった。
 つまり10才かそこらで、譜面が完璧に読め、ピアノもチェロもサックスも演奏できた! 即戦力!子供のときから、劇場のオーケストラに駆り出され仕事をしていた。
 後に、多くのミュージシャン達が、彼のピアノやチェロが、プロ並の腕前だったと証言している。サー・ローランド・ハナが、チェロで活動していたのも、ホーキンスの影響に違いない!
<一流ヴォードヴィルから一流楽団へ!>
 それは、ラジオすらない時代、庶民の娯楽として大人気だったのが、旅回りのヴォードヴィル・ショー。ダンスや歌、お芝居に手品やアクロバット、何でもありのヴァラエティ劇団で、サーカスみたいに巡業します。黒人のヴォードヴィルで最も人気を博していたのが、『マミー・スミス&ジャズハウンズ』という一座でした。
   12歳になると、女座長マミー・スミスさんが、ホーキンス少年のサックスの腕を見込んでスカウトにやって来ます。彼は体が大きかったので、そんな子供とは知らなかったんだって。さっき書いたように、サックスは、サーカスや、ヴォードヴィルのような演芸には重宝されたんです。
mamie_smith_jazz_hounds.jpg “マミー・スミス&ジャズハウンズ”真ん中の女性がマミー・スミスで右がホーク、左から二人目のトランペット奏者が後にエリントン楽団のスターとなった、ババ・マイリーです。
 息子を音楽学校に通わせて、立派なチェリストにしたいと思っていたお母さんは断固断り、黒人でもちゃんと教育が受けられる大都会シカゴへ息子を送り出した。その後、カンサス州都トペカのハイスクールに進学、トペカから車で1時間ほど飛ばすと、そこはジャズのメッカ、享楽の都カンサス・シティ!内地留学は、檻の中のライオンをジャングルに放つような結果となった。コールマン少年は、ルイ・アームストロングやキング・オリヴァー達がニューオリンズから持ってきたジャズのエッセンスを吸収し、どんどん実力を高める。カンサス・シティでは大学まで行ったと言われていますが、本当のところは判りません。演奏に忙しく、学費はあっても、そんな暇なかったじゃないかしら?
 18歳になると、青田刈りされていたマミー・スミスの人気一座に入り、たちまち高給取りとなります。
fletcher_henderson.jpg フレッチャー・ヘンダーソン楽団(’24) 左から2番目がコールマン・ホーキンス、3番目がルイ・アームストロング、真ん中で腰掛けているのがフレッチャー・ヘンダーソン。アメリカの人気ジャズサイト:Jerry Jazz Musician.comより。
   20歳になると、メジャーに移籍! 当時、エリントンと人気を競い合ったフレッチャー・ヘンダーソン楽団に入り、更に給料が上がった。サックスを手にして僅か10年、この楽団で、ホーキンスは豪快なテナーの音色を開発し、NYに進出、ハーレムのキングの一人になったのです。
 この楽団でオハイオに旅した時に、あのアート・テイタム(p)を聴いた事は、ホーキンス自身だけでなく、それ以降のジャズの変遷を決定付ける運命的なものになります。 ホーキンスは、テイタムのハーモニー感覚とバーラインを超えたフレージングをテナーのプレイに取り込んで、新境地を開拓したのです。その革命的なスタイルが、後にビバップが芽吹く土壌を作ったと、多くのミュージシャンは言う。
<好敵手登場!>
 ホーキンスをテナーサックスの東の正横綱とするなら、西の横綱はレスター・ヤング! 性格も、演奏スタイルも、ファッション感覚も、何もかも対照的なレスター・ヤングはホークより5才年下で、何につけてもホークと比較され、辛酸をなめた。メディアは二人を「仇同志」にしたがるけど、実際はそうではなかったらしい。
 
 レスター・ヤング(1909-59)
   カッティング・コンテストと呼ばれるジャムセッションの勝負が盛んに行われたカンザス・シティで、夜明けから昼過ぎまで、二人が死闘を繰り広げ、結局レスターに軍配が上がったという伝説のセッションは、後に映画になったけど、真偽はよく判ない。タイムスリップできるなら、自分の耳で確かめたい!
 文字通り相撲の横綱のように、20代前半に頂点に上り詰めたコールマン・ホーキンス、続きはまた来週! 
 最後にこの映像をぜひ観て欲しい。1945年のミステリー映画「クリムゾン・カナリー」という日本未公開のミステリー映画の一シーンです。撮影用ですが、オスカー・ペティフォード(b)、デンジル・ベスト(ds)、ハワード・マギー(tp)、サー・チャールズ・トンプソン(p)という顔ぶれの中でブロウするホーク!テナーサックスの父でありながら、若手に引けをとらないモダンなかっこよさ!バリバリのバッパーです。

CU!

寺井珠重のTiddy-Bitty

皆さん、お元気ですか?
 今週は私の周辺のちょっとしたジャズ・ニュース(tidbits)をお届けします!

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<寺井尚之 Mainstem 初Live!>
 
寺井尚之メインステム寺井尚之の新ユニット、The Mainstem Trio、いよいよ6月28日(土)にJazz Club OverSeasで初ライブを行います。
 宮本在浩(b)、菅一平(ds)の若手パートナー達と、熱のこもったリハーサルを重ねて来ました。従来とは一味違う、緊張感に満ちたソリッドなステージを聴かせてくれるはず。
『メインステム』のthe first nighting=初コンサートは、片隅で聴く私にとっても、興味津々!
 6月28日(土) 7pm-/8pm-/9pm チャージ\2,500 必ず予約してくださいね!


<当店のことではないけれど…News①> 
photo by Eddy Westveer

   寺井尚之のアニキ、ジョージ・ムラーツから「9月に会おう!」とメールが来ました。
 ジョージ・ムラーツは、今夏のジャズフェスティバル・シーズン、チェコ人のアーティスト、イヴァ・ビトヴァのグループ、リッチー・バイラーク、ハンク・ジョーンズ3の掛け持ちで、とっても忙しそうです。
 6月21日のJVCジャズフェスティバル、ハンク・ジョーンズ90歳記念コンサートを皮切りに、地元NYと、ヨーロッパ、日本を飛び回ります
 来日ツアーは、ハンク・ジョーンズ(p)3。スケジュールは、8月30日の『東京ジャズ』から、福岡、大阪、名古屋と、ビルボード、ブルーノートの大型クラブを巡演。
   来日日程は、ジョージ・ムラーツ公式HPからリンクされているJapanese Biographyの頁に載せておきました。どの公演地でも、ジョージ・ムラーツ・ファンの皆様は、ベースソロに一際大きな拍手をお願いします! 
   大阪の皆さん、ちょっと待って! この週、OverSeasに来るのを絶対忘れないようにね!
   なお、当然ですが、お問い合わせは、私や多忙なジョージ・ムラーツ自身でなく、直接お店にお願いします。  



<当店のことではないけれどNews② >
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  寺井尚之と同い年、20年来の仲良し、今や巨匠の風格を漂わせるドラマー、アキラ・タナがディナ・デ・ローズ(vo.p.)3で、7月下旬に来日します。
 アキラ・タナは現在サンフランシスコ在住、ジミー・ヒースの『ヒース・ブラザーズ』でデビューし、今や巨匠の風格を持つ日系ドラマーです。
  初めて会ったときは、たどたどしい日本語だったけど、今は独学でかなりのものです。
 だいぶ前、寺井尚之が、アキラさんのプレイに感動して「アキラは日本の誇りや!」と言ったら、その時は、「日本の埃(ホコリ)」と勘違いして、がっかりしてたけど、今はペラペーラのバイリンガル!
   アキラさんと寺井は、共演を願っているのですが、残念ながら正式ライブはまだ実現していない。近い将来できればいいな!
 アキラさん自身もツアーの詳細は不明らしいけど、東京は、Pit InnさんとBody& Soulさんが決まっているようです。詳細が決まれば招聘元のOffice Zooさんのサイトで公表されると思いますのでチェックしてみてください。


<ビリー・ストレイホーンあれこれ>
 

  先月Interludeに書いた、ビリー・ストレイホーン関連記事、ご感想のメールも頂戴し、ありがとうございました!
   米国のダグ・ラムゼイというジャズライターによる有名ブログ、『ダグ・ラムゼイのリフタイド』 を覗くと、偶然にも、6月6日付で、ストレイホーン関連の記事を発見。
  当Interlude同様、伝記『ラッシュ・ライフ』の話題や、数多のYoutube動画から、同じものがチョイスされていました。天国のストレイホーンが、世界中にテレパシーを送ったのかも…と、何となく嬉しい気分。
   とはいえ、ラムゼイさんがフォーカスしていたストレイホーン関連のコンサートは昨年5月にLAで開催された、ゲイの男の人達による合唱団『Gay Men’s
Chorus』によるストレイホーンへの大トリビュート・コンサートでした。カリフォルニア州で、同性婚が認められたタイミングで取り上げたのかもしれません。
 『Gay Men’s Chorus』の1時間半に渡る熱演も動画で観れます。アレンジはアラン・ブロードベント、ベースはウォルター・ノリスさんのベーシスト、プッター・スミス、サックスの中にはゲイリー・フォスターと、ジャズ畑の人達も参加してた。 Gay Men’s Chorusはゴージャスなサイト!右側のプログラム欄の一番下、『May 5, 2007』の、【View Video】をクリックしてください。
 残念なのことには、ラムゼイさんは、ゲイ・メンズ・コーラスは熱く語っても、トミー・フラナガンの『Tokyo Ricital』には何の言及もなかった。
アイ・アム・ソーリー…  


<「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第5巻はお早めに>


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   寺井尚之ジャズ講座の新刊書「「トミー・フラナガンの足跡を辿る 第五巻」は、おかげさまで、沢山の方に読んでいただいてます。大阪近辺の読者の皆様、ぜひ一度、生「ジャズ講座」にもいらしてください。気楽な雰囲気で、本に載り切れない、というか載せられない寺井尚之の楽しい毒舌に大笑いして、おなかの皮がよじれるかもしれません。
 梅田第一ビルのレコード店、『ワルティ堂島』さんに伺ったら、講座本の新刊を予約してくださっていたお客様が丁度来店されていました。直接お話ができて嬉しかった~!
  その紳士は、講座本3のおかげで、コールマン・ホーキンスが大好きになって、『At Ease』を愛聴されているとのこと!うれしいなあ!“Poor Butterfly”が蝶々夫人の歌と知り、ますます好きになったとか!対訳係りとして光栄だなあ!
 OverSeas以外では、そのほかに『ジャズの専門店ミムラ』さんにも置いていただいていますので、ぜひどうぞ。
 講座本第5巻といえば、コールマン・ホーキンス!さっきダイアナとも、その話をしたところなので、次回はコールマン・ホーキンスについてちょっと書いてみよう!
CU  

寺井珠重の対訳ノート(10) / Here’s That Rainy Day

 
nakara-jun-ichi-a_girl_in_rain.JPG 中原淳一画

梅雨です!
 寺井尚之の演奏する、ビリー・ストレイホーンの軽快な<Raincheck>や、“しとしと”じゃなく“ピタパタ”と降る雨の<When Sunny Gets Blue>などがお楽しみの季節!でも、湿気で鍵盤が重くなるので、変幻する音色で勝負するピアニストには結構たいへんらしい…
 昨夜も雨! 
 OverSeasの出演は、寺井尚之=鷲見和広のデュオ、“Echoes (エコーズ)”。“Echoes”には“笑点”みたいな習性があって、プレイ中、いつの間にか『今日のお題』というのが出来てしまいます。
 この日のお題は童謡、「あめふり」。各曲のテーマでもアドリブでもバッキングでも、手を変え品を変え、キーを変えリズムを変え、“ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン”がピアノから、ベースから出てきて、お客様達は爆笑! 「ネタ合わせ」なしのBOP漫才だ。思い切り笑わせておいてから、ビリー・ホリディのナンバーで、しっかり泣かせてくれるところはかつての松竹新喜劇流。
 お客様の強い要望があり、“Echoes”のレパートリーはおおむね一定しているのだけど、演奏の内容は毎回大きく変わる。だから不思議なことに、鮮度が全然落ちないのです。
 それに“Echoes”のプレイは、一種の表現音楽で、色んなイメージを見せてくれる。相合傘のポーギー&ベス、ずぶ濡れのトム&ジェリーから、スイングしながら指を鳴らすピンク・パンサーまで多種多様!…山中湖の「森の中の絵本館」で、エコーズのCDをよくかけて頂いているのも当然だ!
echoes.JPG  エコーズ:寺井尚之&鷲見和広
<ダブル・ミーニングな洒落た歌>
 絵本と言えば、この日本の梅雨時に、憂い顔の美少女が目に浮かぶジャズ・スタンダードが<ヒアーズ・ザット・レイニー・デイ Here’s That Rainy Day>なんです。
  大昔の高校時代、鉄壁のジャズコーラス“シンガーズ・アンリミテッド”とオスカー・ピーターソン3(ベースはジョージ・ムラーツ!)の最高に気持ちのいいアルバム、『In Tune』で、初めて知った歌だった。

   in_tune.jpg

 対訳を付けたのは、ずっと後になってからで、昨年の夏、<Ella in Humburg>をジャズ講座で取り上げた時。エラ・フィッツジェラルドも歌詞解釈の根っこは『In Tune』と一緒で、乙女のビタースイートな心象風景が伝わるものだった。フランク・シナトラがエヴァ・ガードナーを追憶する姿より、私には、中原淳一や竹久夢二の描く、大人でも子供でない、微妙な年頃の少女達の姿が心に浮かぶ。
 歌詞はジョニー・バークという作詞家のものなんですが、「寂しい」とか「孤独」という常套句を巧みに避けながら、「Rainy Day」ということばのダブル・ミーニングをうまく使って一編の詞にしている。
 “rainy”(雨降りの)という単語を引くと、どの英和辞典にも “for a rainy day”(万一の場合に備えて)という熟語が載っているでしょう。えっ?載ってない!? そんな辞書はヤギにあげなはれ。“万が一の雨の日”(a rainy day)は、貯蓄とか保険の話によく登場する色気のない言葉なんです。例えば、いざという時に備えて貯蓄する為の、倹約方法を紹介するサイトのタイトルになったりする。
 
歌を日本語にすると、こんな感じになりました。 
Here’s That Rainy Day/ Johnny Burke-Jimmy Van Heusen




Maybe
I should have saved
  those leftover dreams;

Funny,
But here’s that rainy day.

Here’s that rainy day
They told me about,
And I laughed at the thought
 that it may turn out this way.

Where is that worn-out wish
 that I threw aside
After my lover was so near?

Funny, how love becomes a cold rainy day
And Funny, that rainy day is here.



  ひょっとしたら
 見残した夢は捨てないで、
 貯めておいたら良かったね;

 おかしいな、
 まさかの時が来るなんて。

 今日みたいな雨のこと、
 いつか皆が言っていて、
 そんなはずはないと、
 笑い飛ばしていたのにね。



 使い古しの擦り切れた望み、
 あれはどこに行ったっけ?
 恋人ができてから、
 置き去りにしちゃったの。

 恋に冷たい雨がつきものなんて、
 おかしいよ、
 まさかの雨が降っちゃった。




 しっとり、しんみり、愛らしい歌でしょう!
 
「雨の日」が来ないと、人間は成長しないのかも知れない。若さに溢れたこの歌の主人公は、青春の輝きに満ちていて、何も失った事がない。だから大人があれこれ言っても、耳なんか貸さなかった。ひょっとしたら、恋人にも、ちょっぴりひとりよがりなところがあったのかも知れない。

 初めての失恋は、大変なショック!だけど、泣くだけ泣いた後、「雨」が彼女を、大人にしてくれる。「まさかの雨」は、大事な「恵みの雨」なんだ。若いときに「まさかの雨」に降られないまま、いい年になってしまうと、なにかと大変かもしれない。この主人公も、やがて「雨の日」を、やがて懐かしむ日が来るかも知れない。ひょっとしたら、これからも、「雨の日」はやって来るのだから。
<ジョニー・バーク>
   もちろん<Here’s That Rainy Day>はアメリカ生まれ、’53年(昭和28年)のブロードウェイ・ミュージカルの歌らしい…だけどその興行はたった6回の公演で大コケしたそうだから、殆ど観た人はいないはずで、後にスタンダードになったそうです。
 この歌を作ったのはジミー・ヴァン・ヒューゼン(曲)とジョニー・バーク(詞)の名コンビ。このチームはブロードウェイよりもハリウッドの映画畑で成功した。ビング・クロスビーとボブ・ホープの「珍道中」シリーズと言って「フーテンの寅」のように長続きしたコメディー映画の為に、わんさか歌を作ったのでした。ですからジョニー・バークの作品のほぼ半分は、「珍道中」シリーズのもので、寺井尚之やトミー・フラナガン・ファンの皆さんが大好きなバラード、<But Beautiful>も、実は<Road to Rio>(日本の題名も最高!『南米珍道中』)の中の曲なんです。
 <But Beautiful>もやっぱり、ダブル・ミーニングの言葉遊びが効いている。「(恋は)美しい、素晴らしい」というのと、「(哀しくても、楽しくても、失恋しても)べつにいいじゃん、ええやんか、よか!」という、Beautifulの両義性をうまーく使って、粋な歌詞にしているのだけど、ザッツ・アナザー・ストーリー! また詳しく書きたいと思ってます。
takehisa-yumeji.JPG竹久夢二画集の表紙
 
  ご存知のように、昭和の歌謡曲は雨=失恋というのが定型句だけど、室町時代の能楽に遡ると「雨」はとっても心地よい「音楽的」なコンセプトになる。
 「雨月」という作品は、「屋根に降り落ちる雨の音を、もっと楽しみたいから軒の屋根を葺こう」と言うおじいさんと、「月光をもっと楽しみたいから、軒は取っ払ってしまいましょう」とおばあさん、老夫婦が古家の茅葺の屋根を巡り、言い争いをするのです。
昔の日本人はHipだったんだ!
CU

FlanaganiaからMainstemへ:寺井尚之の旅立ち

 Jazz Club OverSeasの看板として、15年間の長きに渡り、皆様にご愛顧頂いたフラナガニアトリオが、先日5月30日のライブを区切りに活動休止となりました。最後の演奏曲は奇しくも“Caravan”、長い旅路への乾杯の歌か…粋だね!
kawahara-1.JPG    flanagania-final-4.JPG 横浜フラナガン愛好会から贈られたワインで乾杯!
 このトリオのレギュラー・ドラマーとして絶大な人気を誇った河原達人(ds)さんと寺井尚之の共演歴は33年だから半端ではない。レギュラーとしての活動期間はバリー・ハリス(p)とリロイ・ウィリアムス(ds)もかなわないだろう。
mc-terai.JPG    kawahara-4.JPG  KD-kawahara-1.JPG  KD-kawahara-2.JPG
右側の2枚は、埼玉から駆けつけてくださったKD氏から送って頂いたショットです!ありがとうございました!!

  税理士として多くのクライアントを抱え、山のようなアポイントとデスクワークをこなす傍ら、15年間、毎回、曲目を総入れ替えするフラナガニアのライブに付き合い、年2回のトリビュート・コンサートをこなすのは、並大抵のことではなかったはずです。
 以前は、月2回ペースで行っていたフラナガニアも、ここ半年は月一回のみのお楽しみ。リハーサルすらままならなくなっていました。それでも、あれだけの演奏レベルを保つことが出来たのは、「二人が過ごした歳月」のおかげだったのだろう。
 最後の舞台挨拶:「50歳になってドラムを叩くのは大変なことです。皆さんも50になったら判るでしょう。」は、同い年として深く受け止めました。
 河原達人:スタンダードの歌詞の「美の壺」を、音楽的にも文学的にも正しく理解した稀有なドラマー、寺井尚之のフレーズを先読み出来た理解者。巧みなタムの使い方や、音量のコントロール、「可愛い」という日本語の最良の意味での装飾音の数々に、他のドラマーは驚愕した。テクニックをひけらかす「目立ちたがり屋」でなく、アニタ・オデイ(vo)の最良のパートナー、ジョン・プール(ds)のように、聴く者の心をそっと静かに揺さぶり、コンサートが終わっても、温かく爽やかな余韻が尾を引くプレイだった。
kawahara-2.JPGフラナガン愛好会からワインと共に贈られたユニフォームに手を通す河原達人氏 
 私にとって河原達人は、一緒にお酒を飲んで一番楽しくおもろい人!ガサツではなく繊細な、真の意味での関西人!「教養」というものが、「知ってても知らんでも、実生活に全くカンケーのない素敵なもの」であるならば、河原達人ほど教養のある人を私は知りません。もしも突然に、和田誠と三谷幸喜から「飲みに行こう」と誘われたって、迷わず私は河原達人と飲みに行く!自分の美点を、決してひけらかしたり、威張ったりしないところは、彼のドラミングと同じだ。河原さんが、人知れず、「こいつ嫌いや」と思う人はいるかも知れないけど、河原さんのことを「嫌い」な人なんてこの世にいないはずだ。
young_tatsuto_kawahara.JPG遊びに来たトミー・フラナガンと一緒にセッションした後に。(’93)
 良き父であり夫であり、税理士の先生でありながら、音楽しか頭にない独立独歩の無頼派ピアニストで天衣無縫の変わり者、寺井尚之と、よくぞこれまで付き合っていただいたと拝みたい。これからは、気の向いたときに、OverSeasで気楽なセッションを続けながら、菅一平さん(ds)たち後輩の教科書役、お目付け役でいてほしい!
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 今月からは、新ユニット、“The Mainstem”(メインステム)で、スマートで集中力に溢れる斬新な演奏をお聴かせします。
 ベースは、このところ逞しさが付き、大化けしてきた宮本在浩(b)と、折り目正しい性格が、そのままビートに反映する菅一平(ds)
 ”The New Trio” で、ビバップのビッグバンド時代の大ネタ、“ラ・ロンド・スイーツ”(別名 Two Bass Hit)や“マンテカ”、ファッツ・ウォーラーの古典をビバップで疾走する“ジターバグ・ワルツ”など、大胆にスイングするピアノ・トリオの斬新さは、すでに新局面を予感させ、新しいお客さまのハートを掴んでいる。
 “メインステム”という名前は、ジャズの深いリズムとハーモニーを、大河の潮流や、大木の逞しい幹に例えたデューク・エリントンの曲に因んだものです。
 “The Mainstem”、今日、56歳になった寺井尚之のデトロイト・バップ大行進はどんどん続く!
 
 寺井の口癖は、「季節の懐石」のようなプレイ。だけど、どこぞの老舗のように使いまわしはしないよ! だいたい、お客様に食べ残しされるものなんて、絶対に作らない所存。「ご立派なお献立でございました」なんて言われるのはイヤだ!
 「あー、おいしかった!明日も元気モリモリや。」と言っていただけるものをお聴かせします!
 記念すべき初演は6月28日(土)7pm- 勿論Jazz Club OverSeasにて!
 
CU

ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」Vol.5が出来ました。

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「トミー・フラナガンの足跡を辿る」編集委員会のG委員長や、貴重な時間を割いて、毎月、講座の度にテープ起こしに多大な労力を費やしてくれる寺井尚之ジャズピアノ教室のあやめ副会長、そして、講師、寺井尚之、皆の苦労の5番目の結晶が、やっととなりました。
 今回は’61年~’64年の全録音アルバムを網羅しています。読みどころは、何と言ってもコールマン・ホーキンス(ts)の一連のアルバムについての解説だ!
 コールマン・ホーキンス(1904-69)
 ありとあらゆるジャズの巨匠と共演し尽くした感のあるフラナガンが脇に回った歴史的名盤は、数限りなくあるのですが、コールマン・ホーキンスとの共演作は、少し意味合いが違います。
 トミー・フラナガンが、ボスとして、人間として最も敬愛した人は、J.J.ジョンソンでもエラ・フィッツジェラルドでもなく、勿論マイルスやコルトレーンでなく、ホーキンスだったのです。
昨日、ダイアナ・フラナガンと講座本について色々話したのですが、彼女はこう言っていた。「Good Old Broadway, No Strings,…ほんとにいいアルバムよね!トミーは、ホークと録音したブロードウェイの作品集をほんとに気に入っていて、いつもその話をしていたわよ。あんた、早く講座本を英語に訳しなさいよ。忙しいって?何がそんんなに忙しいのよ?」
  『テナーサックスの父』と呼ばれるコールマン・ホーキンス(1904-69)、フラナガンがレギュラー・ピアニストとして共演していた晩年の60年代。実は一般の評論界では、音色も衰えた下降期と言われており、本書に収録しているアルバム群は、全く正当な評価を受けていません。フラナガンは、そういうステレオタイプに対して、真っ向から反対していました。
 「生」ジャズ講座に出席された皆さんの間でも、コールマン・ホーキンスのブームが起こって、今も懸命に原盤を集めている人がいる。

 寺井尚之の解説は、音楽的な楽しみどころを判りやすく教えてくれるし、これらのアルバムが、全く準備なく、スタジオ入りしてから、レコード会社が提示する曲目のメモと市販の譜面だけを元に、ホーキンスがその場でどんどんアレンジして、簡潔にメンバーに意図を伝え、録音した様子を見せてくれます。
 会社の企画に従ってスタジオでプレイするだけ、そして演奏後は何を演ったのかも忘れてしまう。普通なら、コマーシャルな演奏になって当然の「お仕事」です。
 デューク・エリントンは、お客様の顔を見ずにやっつけ仕事をする、心のこもらないスタジオ・ワークを「音楽の売春行為」とさえ呼び糾弾しました。ところが、ホーキンスの、一連のブロードウェイ・ミュージカル集は、手塩にかけたお気に入りの楽曲に対するのと同じ温かみと品格が感じられる。
 何故なんだろう?
寺井尚之の解説からは、コールマン・ホーキンスという巨人の持つ、音楽に対するの余りある愛情というものが浮き彫りになっていく。
常に音楽的に演奏することしかできない。誠意ある演奏しかできない!高潔なミュージシャンの魂が見えて来る。トミー・フラナガンはホークのそういう点を愛し、敬ったのに違いない!
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 寺井尚之がトミー・フラナガンから直接聞いたホーキンスのエピソードに加え、特別付録として、ホーキンス・カルテットの同期生、名ドラマーエディ・ロック(ds)のインタビューの日本語訳が付いています。エディさんに直接インタビューをすることも考えたのですが、締め切りに間に合わなかったのと、ハーレムのジャズ・ミュージアムの講演会で、このインタビュアーのローレン・ショーンバーグさんが、私達が訊きたかったことを殆ど全て質問していました。ショーンバーグさんは名テナー奏者であり優れたジャズ史家です。ですから、エディさんも本音で応えている。ジャズ・ファンでなくとも、とっても面白くて為になる事が沢山見つかりますよ!原文はこちらです!
サー・ローランド・ハナ(p)3のコンサートで意気投合!寺井尚之とエディ・ロックさん(ds)
   Bean & the Boys
左からフラナガン、コールマン・ホーキンス、メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)

 コールマン・ホーキンスは、テナーサックスという楽器を、音楽の世界で初めて主役にした偉人だけど、創始者の地位に安住することはなかった。ホーキンスの蒔いた種から育ったビバップ革命に身を投じ、クラシックにも造詣深い真の音楽家だった。そんなホークが晩年、心から愛したのがデトロイトのミュージシャン達で、メジャー・ホリー(b)も、エディ・ロック(ds)もデトロイト出身、トミー以外にホーキンスがよく使ったハンク・ジョーンズもサー・ローランド・ハナも勿論デトロイトの水に洗われたピアニストなんです。ホーキンスは『デトロイトのピアニストの美点は、ピアノを“打楽器”でなくて、ちゃんとピアノとして弾くことだ。』と言っている。
 寺井尚之のジャズピアノ教室も、ピアノをピアノとして弾けるように指導しているから大変です。
 対訳係りの私は、エディさんのインタビュー以外にも、パット・トーマスという女性歌手の希少盤の歌詞を作りました。この作品には、伴奏者のクレジットがないのですが、他の演奏者達の謎解きもお楽しみ!
 アルバムには、 サド・ジョーンズの名盤、Detroit-New York Junctionの<Blue Room>や、当ピアノ教室の課題曲(Ⅰ)<There Will Never Be Another You>などのスタンダード曲の歌詞対訳が掲載されています。パット・トーマスの歌詞解釈はとっても素直なので、音源が聴けなくても参考になると思います。
 
有名盤としては、強烈なインパクトのあるマルチ・リード、ローランド・カーク参加の『Out of the Afternoon/Roy Haynes』の章は、レコードを聴きながら、順番に読んで欲しいです。ローランド・カークが次々繰り出す、各トラックに登場する色んな楽器をちゃんと順番に解説している本も、余りないのではないかしら?
 渋いところでは、’60年代、ハーレムのブラック・ジャズ・シーンで最もお客の入ったテナー奏者、ブラック・ジャズ・ソサエティの“杉さま”と言える、Willis “Gator” Jacksonの『Shuckin’ 』。私的講座ヒット作です。ウィリス・ジャクソンは、私の好きなへヴィー級歌手ルース・ブラウンの夫君でもあり、サラ・ヴォーンとも親交深かった。
 いずれコールマン・ホーキンスのことは、機会を改めてInterludeでゆっくり書きたいと思っています。
 ジャズ講座新刊は、今のところJazz Club OverSeasで販売中。特別価格\3,000です。
 来週には、ジャズの専門店、ミムラさんや、ワルティ堂島さんにも置いていただく予定です。大阪まで買いに来れない方は、OverSeasまでどうぞお気軽に
 明日は、長年皆様にご愛顧頂いたフラナガニアトリオの最後のコンサート! 
 心を込めて皆さんをお迎え申し上げます。
CU