サー・ローランド・ハナ伝記 (1) ビバップ・ハイスクール

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  サー・ローランド・ハナのバイオグラフィーは、英文のものは色々ありますが短く、日本語のものは余り見かけません。
&nbsp以下にまとめたものは、ハナさんの’70,’75年のダウンビート誌のインタビュー、ハナさんのHPのバイオ、ミシガン大から発行されているデトロイト・ジャズ史:“Before Motown”、寺井尚之と私が、生前のハナさんから直接伺った話を短くまとめてみました。
“BeFore Motown”:デトロイト・バップ・ファン垂涎の貴重な写真や情報満載!
<雪の降る街に…>
&nbspピアノの巨匠サー・ローランド・ハナは、ローランド・ペンブローク・ハナとして、1932年2月10日、デトロイトに生まれた。ハナさんの父はキリスト教バプティスト派の伝道師、ハナさんが2才で読み書きが出来たのは、お父さんの教育の賜物だそうだ。、後年のハナさんの、訴えかけるようなMCは、お父さんから受け継いだものかもしれない。
 
&nbspハナさんは5才の時、音楽と不思議な出会いをする。それは雪積もる寒い日のことだった。ローランド少年が路地で遊んでいると、雪の中に何かが埋もれているのが目に入った。雪をどけると音楽書が出てきたのだと言う。グリム童話“野いちご”か?落語“金の大黒”か? いや、音楽書は、天からの授かりものだったに違いない。
 初めに言葉ありき。少年は、拾った本を手がかりにピアノの独習を続け、8才でバッハ、ショパン、ベートーヴェンを弾いた。天才ですね! 11才で、ようやく正式なピアノ・レッスンを受ける。教師はジョセフィン・ラヴという黒人女性で、オーストリアに音楽留学の経験があり、医師の夫君と共に地域の医療、文化に貢献した名士だった。
love.jpg 右は、ローランド少年の才能を看破した最初の教師、ジョセフィン・ラヴ氏、後年は医学の道に進んだ。
 
 ローランド少年は、レッスンを受ける前の10才からプロ活動をしており、後年、バリー・ハリス(b)やレッド・ガーランド(p)達とレコーディングのあるベーシスト、ジーン・テイラーの証言によれば、彼の初ギグは、’42年、13才の時で、バンドのピアノは当時10歳のローランド・ハナであったという。日本が戦時中で音楽どころでなかった頃、デトロイトでは、庶民の生活に、ジャズが溢れていたのだ!
 
<ビバップ・ハイスクール>
&nbsp’45年、ノーザン・ハイスクールに入学。ハナ夫人、ラモナさんは、ノーザン高校時代の同級生だ。当時、デトロイトの公立高校は、職能訓練を優先し、音楽技能の習得に専念したい生徒は、他の教科の単位取得を免除されたと言う。故にローランド少年は、毎日稽古三昧、どれほど稽古をしたかと言うと、高校の音楽堂のグランドピアノで練習したいから、7時に登校し、深夜11時まで、音楽の授業以外はパスして稽古をする。早く来て遅く帰るから、用務員さんと顔なじみになり、校門の鍵を預けてもらったそうだ。しかし、うっかりすると、もっと早く登校して、ピアノを占有する先輩がいるので、かなり気をつけなくてはならなかった。
NORTHERN%20HIGH98.JPGノーザン高校’98撮影
 
「いつも、ローランドは僕の弾きたいピアノを独り占めしていたんだよ…」と言った先輩は、勿論、トミー・フラナガンだ。すでにフランク・ロソリーノ(tb)のバンドでプロ・デビューしていたトミー少年は、アート・テイタムやバド・パウエルそのままに、講堂のピアノをスイングさせていた。ショパンやバッハ一辺倒だったローランド君に、トミー先輩のかっこよさは衝撃的で、あっという間にジャズの虜となる。そしてトミーの真似をして、未成年ながら、アート・テイタムが出入りしたアフターアワーの店にせっせとライブ通いする。ローランドは、ピアノ以外にアルトサックスをたしなみ、音楽の名門校、カス・テクニカル・ハイスクールに編入後は、チェロをたしなんだ。
280px-CassTechHighSchool.jpg カス・テック高
 当時ハナさんが一番影響を受けたピアニストとして、まずトミー・フラナガン、そして、アート・テイタムや、ルービンシュタイン、それにデトロイトのフリーメイスン教会で観たラフマニノフに感銘を受けたと言う。それだけでなく、当時のデトロイトには、ウィリー・アンダーソン(p)など、地元に留まり世界的には無名で終わった名手が数多くいた。
youngKB.jpg&nbsp PepAda.gif 左:ペッパー・アダムス(bs) 右:バレル&フラナガン 若い!
 同時に、デトロイトには、ハナさんやフラナガン以外に、未来のスター達が、花開くのを待っていた。ケニー・バレル(g)、ミルト・ジャクソン(vib)、フランク・フォスター(ts)、ビリー・ミッチェル(ts)、バリー・ハリス(p)、ペッパー・アダムス(bs)と言った人たちだ。デトロイトの音楽的豊穣は、決して神のいたずらではなく、必然性があったのだ、と、サー・ローランド・ハナは言う。自動車産業の隆盛で各地から黒人達が集まり、音楽を愛する環境があっただけでなく、ナチの迫害を受け、米国に逃げ延びたヨーロッパの一流音楽家達が、多数、デトロイトの地に音楽教師として赴任していて、若い才能を大きく育んだからだと言うのです。
<カス・テック高へ>
 ハナさんはノーザン高からカス・テックニカル・ハイスクールという、音楽の名門校に編入後、ピアノと同時にチェロもたしなみます。同校は、ルーマニア人やポーランド系ユダヤ人の音楽家達が教鞭を取り、ローランド少年の才能を見抜き、コンテストに出るように薦めました。
 ローランド少年は、フラナガン、バリー・ハリス(p)、ドナルド・バード(tp)、ペッパー・アダムス(bs)、フランク・フォスター(ts)達、ジャズ・ジャイアンツ予備軍である仲間たちと切磋琢磨を続けます。週一度、放課後に皆で自動車を駆り、近郊のポンティアックにあるジョーンズさんというお宅へと走った。そこにはグランドピアノがあり、ジョーンズ家のお母さんが、皆のためにフライドチキンなどのご馳走を用意してくれ、ジャム・セッションをやっていた。そのお家の兄弟は恐ろしい名手ばっかり、長兄のハンク(p)は、もうプロとしてツアーしていたので、殆ど家にはいなかった。後はサド(cor)とエルヴィン(ds)楽器もそれぞれですが、並外れた力量を持っていた。ピアノの椅子は一つだけですから、トミーやバリーが先、ローランドに出番が回ってくることはなかなかなかったけれど、サド・ジョーンズがコードを自在に変えていく様子や、先輩達の演奏に学び、自らは“ハック”・ハナという名前で、ラッキー・トンプソン(ts,ss)や、同世代バンドでギグを重ねました。
 1949年9月7日付のミシガン・クロニクル誌には、「ローランド・ハナによるバップとクラシック音楽」というコンサート広告が載っています。(Before Motownより)
<NYへ行ったけど…>
 カス・テック卒業後、ローランド少年は2年間の兵役に就き、奨学金資格を取り、ジャズとクラシックの中心地NYの名門“イーストマン・スクール・オブ・ミュージック”に入学、昼間は学業、夜はクラブ演奏と、念願のクラシック-ジャズの二足のわらじで精進しようとしたのも束の間、当時のイーストマンには「ジャズ禁止」の校則があり、教官にジャズを演奏しているのがバレてしまう。その教官はジャズ・ファンだったのだろうか?
 若きローランド・ハナは、どうしたか? クラシックか?ジャズか?とハムレットのように人知れず苦悩したのか? NO! ハナさんは、了見の狭い名門校をスパっと辞め、サッサとデトロイトに帰ってしまう。この話をした時ハナさんは、“I Quit.”とひとこと、眉を上げてきっぱり言った。筋の通らないことは絶対に受け容れない!ここがハナさんらしいところ。ハナさんは再度NYに赴くのですが、続きは次週。
CU

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