サー・ローランド・ハナ伝記(2) 真実一路

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<ハナさん・リターンズ>
 苦労して奨学金を得て合格した名門校、イーストマン・スクール・オブ・ミュージック、しかしローランド・ハナに突きつけられたのは「ジャズ禁止」の校則だった。
 

「クラシックとジャズの間に区別なし。」
「アドリブとは瞬間的作曲法だ。」

確固たる信念を持つハナさんは、名門校に何の未練も残さずさっさとデトロイトに帰郷、翌年、ジュリアード音楽院に合格し、再びNYで仕切りなおしをする。ジュリアードは、テディ・ウイルソン(p)達ジャズの巨匠を講師に迎えるリベラルな校風だから、ジャズ禁止の校則もなかった。以前ブログに書いた、ディック・カッツ(p)さんは、’56年にジュリアードでテディ・ウイルソン(p)に個人レッスンを受けた。マイルス・デイヴィスやニーナ・シモン(vo)も、ジュリアード、後年、ハナさんとNYJQで共演したヒューバート・ロウズ(fl)も同校出身だった。
<ベニー・グッドマンからファイブ・スポットまで>
 ローランドは水を得た魚のように、クラシックとジャズ・シーンを併走しながら、学生生活を送る。ジョージ・タッカー(b)、ボビー・トーマス(ds)とトリオを結成、クラブやTVのジャズ番組に出演するうち、ベニー・グッドマン(cl)に認められ、学校を一時休学し、ベルギー、ブリュッセル万博やヨーロッパ各地を楽旅した。
 後に、ハナさんの来日時、パスポートが期限切れだったのに、「グッドマンと共演した人だったらOK」と、審査官が一発でハンコを押して通してくれたという話は語り草だ。
benny_goodman.jpgベニー・グッドマン(cl)
 ジャズの仕事に流されず、きっちり4年で卒業したというのもハナさんらしい。卒業後は歌手の伴奏者として、サラ・ヴォーンと2年半、エリントンとの共演で有名な盲目の男性歌手、アル・ヒブラーの伴奏者として2年活動し「伴奏者」時代を卒業、グリニッジ・ヴィレッジの有名ジャズクラブ、<ファイブ・スポット>で、チャーリー・ミンガス(b)のバンドに参加、自己トリオでセロニアス・モンク・グループの対バンを務める間に、モンク音楽への理解を深め、後年の名盤、Plays for Monkに結実した。(対バン:クラブなどで、メインの演目の休憩中に演奏するバンド、60年代まで、NYの殆どのジャズクラブには、対バンが入っており、2バンド聴けたのです。)
 
five_spot.jpg ’50年代、Five Spotのモンク・カルテット
  同時期、コールマン・ホーキンス(ts)と出会い、大きな影響を受ける。ヨーロッパ生活の長かったホークはクラシック音楽に対して大きく心を開く巨匠だった。コールマン・ホーキンス親分が声をかけるピアニストはトミーが一番、二番手がハンク・ジョーンズ、三番手がハナさんだったという。ハナさんは後年、コールマン・ホーキンスに捧げた名曲、After Parisを上辞している(Prelude Book 1)。
<初来日>
 ’64年、大映の「アスファルト・ジャングル」という映画音楽の仕事で、カルテットで初来日。同行メンバーは行サド・ジョーンズ(cor)、アル・ヒース(ds)、アーニー・ファーロー(b)、日本で、「自分のビッグ・バンドを持ったらどうか」とサドに助言し、2年後、サド・メルOrch.が生まれた。
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 気がつけば、もう60年代中盤、NYの町に響いていたジャズはビートルズにとって代わっていた。ベトナム戦争が始まり、街の大人達はナイト・クラブに行かずに、夜は自宅の居間でTVを観る生活スタイルになっていく。ジャズメンにとって、クラブ・ギグだけで、食べていけない冬の時代がやって来たのだ。腕のあるミュージシャンの多くは、生活の糧を放送メディアに求めた。トミー・フラナガンは、スタジオの仕事より、エラ・フィッツジェラルド伴奏の道を選び、しばしNYから離れることになる。
 ハンクやサドのジョーンズ兄弟、クラーク・テリー(tp)と言った人たちは、三大ネットワークTVの人気番組の専属バンドのメンバーとなり、メル・ルイス(ds)やリチャード・デイヴィス(b)、ペッパー・アダムス(bs)たちは、スタジオ・ミュージシャンとして安定した収入を確保した。ツアーがないから、ずっと家族と過ごすことが出来る反面、ジャズの喜びは得られない。
 そこで、彼らはジャズ・メン本来のの芸術的欲求、あるいは快楽のため、ストレート・アヘッドな音楽を損得なしでやろうとした。実力派が、ノーギャラのリハーサルを惜しまず、本番で熱く燃える姿は、結果として、お客さん達を狂喜させることになった。’70年代の新しいジャズのかたちだ。
 この典型が伝説のビッグ・バンド「サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.」だった。デビューまでに、レパートリーを用意し、週一回、スタジオを借りて、リハーサルに3ヶ月を費やした。このバンドの本拠地となった<ヴィレッジ・ヴァンガード>のマンデイ・ナイト、当初のライブ・チャージは、僅か2.5$、バンド・ギャラは一人、たった17$だったという。それでも、毎週演奏場所があるから、バンドのクオリティを何年も保つことが出来たのだ。月曜のジャズクラブは、スローと決まっていたのだけど、サド・メル時代のヴァンガードの月曜は大盛況となったのだ。
 下は、TV番組“ジャズ・カジュアル”でのサド&メルOrch.ビッグ・バンドの醍醐味とハナさん節が堪能できます。

 <サド・メル時代>
  ’67以降、ハナさんは、ダブル・ブッキングを常とする超多忙なハンク・ジョーンズ(p)の後釜として、レギュラーの座に8年間就くことになる。サド・ジョーンズとクレジットされている名曲、A Child Is Bornは、実はこの時期のハナさんの作品だ。
 当時のメンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、ペッパー・アダムス(bs)、スヌーキー・ヤング(tp)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)、などなど、様々なバックグラウンドを持った腕利きがサド・ジョーンズという天才の元に結集している。まさにNY・Jazzのドリーム・チームだ。ハナさんの後ろでレギュラーを狙い二軍ピアニストは、チック・コリア、ハービー・ハンコックたちスター予備軍だ。
 楽団の掟もハナさんにぴったり!

「常にストレート・アヘッドで行く!コマーシャルなことをしない。」

 ハナさんは楽団のピックアップ・メンバーを集め、’69年から、ニューヨーク・ジャズ・カルテット(NYJQ)を結成、ソリッドなコンボ活動を始める。また、当時のハナさんは、ヘヴィースモーカーで、大酒豪だったそうだ。
 しかし、’74年に、ハナさんは突然サド・メルを降板。楽団維持のために、スティービー・ワンダーのヒット曲のレコーディングが決定されたのが、引き金となった。
 
 <ハナさん、騎士になる>
 ’70年に、ハナさんはアフリカをツアーした。当地の青少年の教育資金のために、無料でコンサートをしたのだ。
 その功労で、リベリア共和国タブマン大統領から、騎士の称号を与えられ、以後サー・ローランド・ハナと名乗ることになる。ハナさんは、サーの称号を終生誇りにしていた。
 William_Tubman2.jpgウィリアム・タブマン大統領の両親はアメリカで黒人奴隷だった。
 ’70年代半ば、NYJQにジョージ・ムラーツ(b)が加入するのと同時期に、コンビを結成し、日本で10枚近いアルバムを製作、デュオやNYJQでも数え切れないほど来日を果たし、私も何度もコンサート・ホールで聴かせてもらいました。
 ’80年代になると、教育者として教鞭にウエイトを置くハナさんのレコーディングは極端に少なくなるけれど、デンマークの巨匠、ジェスパー・シロ(ts)との共演盤や、ソロ・ピアノの白眉、Round Midnightなど高質名盤が並んでいく。
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 ’90年にやっと、ハナさんはOverSeasに来てくれるのですが、その出会いや、’90年代以降のプレイについては、また機会を改めてゆっくり書こうと思います。
 ハナさんは、寺井尚之がジャズ黄金期と呼んだ’70年代以降、大きく花開いたジャズピアノの大巨匠です。
 サー・ローランド・ハナがリリースした名盤の数々は、華麗さと潔さが同居していて、聴くたびに心が洗われる。これらを廃盤として埋もれさせてしまっていいのでしょうか?
 ジャズ・レコード界の心ある人たちは、ぜひ、ハナさんのレコードを再発させて欲しいものです。宜しくお願いします。
 CU

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