タッド・ダメロンについて話そう!(2)

dameron_tadd.jpgTadd Dameron 1917-1965
 このところ不景気なのに物価高、金融スパイラルで異様な円高…そうだ!今まで手の出なかった洋書の買い時だ!…しかし、先立つものが…
 ともあれ、今夜は、今までに貯め込んだビバップ資料から、タッド・ダメロンの紆余曲折の人生をちょっと眺めてみよう。今夜はその前編です。
<ミスキャスト?タッド・ダメロン>
 1962年、麻薬更正施設からNYにカムバックしたタッド・ダメロンは、ダウンビート誌のインタビューの冒頭に、「私は音楽界で、最もミスキャストの、合わない役柄ばかりこなしてきたミュージシャンだ。」と発言した。私はそれがダメロンのB級なイメージを増幅したのではないかと危惧します。天才に対するリスペクトも情もないビル・コスのまとめ方に、記事を読んだダメロンはきっと「こんなはずじゃなかった」と思ったに違いない。
 
 <独学の天才>
 タッド・ダメロンは、タドリー・ユーイング・ピーク(Tadley Ewing Peake)として、1917年(大正6年)に、アメリカ中西部の大都市、オハイオ州クリーブランドのピーク夫妻の次男として生まれた。今でもお元気なハンク・ジョーンズ(p)さんよりたった一つだけ年上です。
marylou_dameron.jpg  真ん中の眼鏡紳士がハンク・ジョーンズ、その左がタッド・ダメロン(’40s)
 シーザー&タッド兄弟が幼い時、両親が離婚し、母親がアドルファス・ダメロンというクリーブランドのレストラン経営者と再婚したので、兄弟も養父のダメロン姓になりました。兄シーザー・ダメロンは、タッド同様、ピアニスト、編曲家、バンドリーダーに加え、サックス奏者として地元やシカゴで活躍、タッドがジャズの道に進んだのも、この兄さんの影響でした。
  ダメロン夫妻は、兄を音楽家、弟を医者にしようと考え、シーザーにはピアノを習わせサックスを買い与えましたが、タッドには「勉強しなさい」と自宅でピアノを弾くのを禁じたそうです。
「だめ」と言われると、子供は絶対したくなる…タッドは、母が留守をするとピアノの独習に励み、兄さんからはジャズの手ほどきを受けながら、音楽理論の書物を読み漁った。同時に映画が大好き!お好みは、ガーシュインが流れるフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズの「美しい」ミュージカル映画、タッドは映画館に行くと鉄砲玉みたいで、母親が迎えに行くまで帰ってこない子供であった。
  タッド・ダメロンは、作編曲、ピアノ、ぜーんぶ独学だった。 そのため、ハイスクールの音楽理論の授業があまりにも「あほくさく」、サボリまくった結果「落第」するという皮肉な結果を招く。
 
 親の希望をよそに、兄と共にプロ活動、僅か16歳で、プロのバンドにアレンジを提供していたというのですから、音楽の授業に出ている暇がなかったのかも知れません。
<もう一人の天才、フレディ・ウエブスター>
freddie_webster.JPG ダメロンは初期のサラ・ヴォーンのSP盤“If You Could See Me Now”にフィーチュアされているけれど…
 高校時代から共演していたのが、伝説のトランペッター、フレディ・ウエブスターで、ダメロンは彼のバンドで歌手(!)とピアノを担当していた。ウエブスターはトランペット発明以来、最高といわれる大きなトーンとヴィブラートを持つ名手で31歳の若さで亡くなり、彼の往時のプレイを偲ばせる録音は殆ど残っていないんです。初期のマイルス・デイヴィスが、本番でフレディのソロの完コピーを吹いたという有名な逸話もあり、多くのトランペット奏者に影響を与えた。後年、タッド・ダメロンは、彼を規範にしてクリフォード・ブラウンやファッツ・ナバロを育て上げたそうです。生で聴いてみたかったものですね。
<ミスキャストな医学生>
 高校卒業後、オハイオ州一の名門大、オバーリン・カレッジに入学、ここは音楽部門が特に有名で、今OverSeasで話題沸騰のスタンリー・カウエル(p)も卒業生です。
 しかし、タッドは両親の希望で、医学部の予備コースへ。2回生の時、人体解剖で切除されかかった腕がブランブランしているのを見て、吐き気を催し、「無理や」と諦めたタッドは、バンドに入り巡業の日々を送ったそうです。
  ところが、最近、研究者がオバーリン大の名簿を調査しても、ダメロンの名前はなかったそうです。ひょっとしたら、親から学費をもらいながら、バンドでビータ(旅)をしていたのか?とにかく、家族は「こんなはずじゃなかった!」とびっくり仰天!
blanch_calloway.jpg学生だったタッドをスカウトして巡業に連れて行ったブランチ・キャロウエイはキャブの姉だった。
<カンザス・シティ>
  様々な楽団で演奏と作編曲をしながら各地を渡り歩くダメロンは、30年代のジャズのメッカ、カンザス・シティにしばし落ち着き、NYから帰ってきたチャーリー・パーカーと初めて出会います。しかし、Good BaitStay on Itと言ったビバップらしいダメロンの代表作は、パーカーと出会うずっと前、すでにクリーブランドで書いていた作品だったのです。
 独学でビバップの和声とリズムを開発した天才も、第二次大戦勃発後、2年間、軍需工場で労働し、音楽とは全く無縁の労働に従事しなければなりませんでした。丁度、エリントン楽団の「A列車で行こう」が全米のラジオで鳴っていた頃のことです。
Jimmie-Lunceford.jpgランスフォード楽団もラジオを通じコットンクラブから一流になった楽団でベニー・グッドマン楽団はこのバンドのアレンジで人気を博した。
 軍需奉仕から解放されると、ダメロンは即ジミー・ランスフォード楽団で、編曲、リハーサル指導として活動、やがてベニー・カーターやカウント・ベイシーなど様々な楽団に自作やアレンジを提供するのだけれど、何故かレコーディングの機会は回ってこないアンラッキーな下積み生活が続く。
<52番街からビバップの寵児に…>
52ndst.jpg当時の52丁目、左にはオニキス、右にスリー・デューシスと名店が軒を連ねる。
 ダメロンがNYに進出するのは、終戦前の1944年になってからで、NYジャズの中心地がハーレムから52丁目に南下した後のことです。ほどなく、ディジー・ガレスピー・クインテットに代役としてピアノで出演したのをきっかけにブレイク、コール・ポーターの「恋とはどんなものでしょう」の枠組を基に、スモール・コンボ用に作ったHot Houseが大ヒット、’46年には、サラ・ヴォーンのおハコとなる、“If You Could See Me Now”を作詞作曲編曲、ビリー・エクスタインのビバップ・ビッグ・バンドの編曲を担当し、花形アレンジャーとなるのです。
  当時のダメロンは、セロニアス・モンク(p)と連れ立って、「ビバップ虎の穴」、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)のアパートを訪ねては、お互いのプレイに触発されながら、モダン・ミュージックのアイデアを練り合った。
mary_lou_dizzy_tadd.jpgマリー・ルーのアパートはビバップ虎の穴だった。
<作曲家のはずなのに…>
 ビバップ・ブームの影の立役者、モンテ・ケイの主催する大手芸能事務所に所属し、事務所に言われるまま、バンドを率い、元々チキン料理店だった『ロイヤル・ルースト』に出演、するとオープニングに口コミだけで500人のお客がごった返すほどの人気を博し、ラジオ放送されてからは、更にピアニストとして有名にる。
  1947年には、ジャズに力を入れていた男性誌、「エスカイヤ」の人気投票で、「アレンジャーの新星」部門第一位、翌年には、ピアノの腕にはからきし自信がないのに、ラジオ番組で人気投票、ピアノ部門一位を獲得してしまいます。タッド・ダメロン自身は、「自分の天職は作曲だけど、誰も編曲してくれないから仕方なくやっただけ」にも関わらず、ミスマッチな役柄で有名になっちゃった。
 ビッグバンドのフィクサー的存在だったバド・ジョンソン(ts,arr)は「ダメロンの編曲は、実際にはディジー・ガレスピーに言われたことをそのまま書いただけでだ。」と批判的ですが、整然として明るく気品のあるオーケストレーションは、全てのパートが主旋律のように美しく、吹くと楽しい、アドリブもしやすい(ただし、腕があるなら)と、デクスター・ゴードン(ts)を初め、演奏者である楽団員達に熱烈な指示を受けます。
 タッド・ダメロンの本性はメロディ・メイカーであったのか?
トミー・フラナガンの考えはそうではない。
   「タッド・ダメロンの曲はオーケストラによる演奏を予定して書かれているから、ソロ・ピアノで演りやすい。」と語っている。(講座本Ⅲ:特別付録参照
 つまり、ダメロンは頭の中で楽団をサウンドさせながら、間口の広いきれいなメロディを書くことで、新たな編曲のアイデアを、他人にも提示してほしかったのではないだろうか?
 
<耽美か耽溺か>
 1949年、パーカーやガレスピーに象徴される、ベレー帽や派手なストライプのスーツでてんとう虫(Lady Bird)の様に着飾るバッパー達に替わり、ブルックス・ブラザースのトラッドファッションに身を固めたマイルス・デイヴィスがスポットライトを浴びる時代が到来します。NYのトレンドはビバップからハード・バップ、クール・ジャズへと風向きを変えたのです。
   NYでの活動が頭打ちになったダメロンはマイルスとヨーロッパに楽旅し、そのまま英国に2年間留まり音楽活動をしますが、NYのように刺激的なものではなかったのかもしれません。
 
   ’51年に帰国、ダメロンが参加したのは、R&B系のブルムース・ジャクソン楽団、タッド・ダメロンの弟子格のベニー・ゴルソン(ts)、最高の理解者、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)などハード・バップの名手が在籍していたのですが、どう見たってR&Bはミスキャストだった。そこで、フィリー・ジョーやゴルソンを連れ、新人だったクリフォード・ブラウンを引き受け、自己楽団を結成する。しかし、取れた仕事は、たった一ヶ月のジャズと無関係なダンスの仕事。一ヶ月で解散の憂き目に合います。この頃から、ダメロンは、だんだんとヘロインに依存して行く。 
 1953年に、ブラウン・ローチ・クインテットが録音した名作The Scene Is Cleanは、ダメロンの麻薬根絶宣言の曲であったのですが、実際はそうは行かなかった。不本意なことが次々と重なるのです。
   1956年に、自作の組曲、『フォンテンブロー』を録音するのですが、トレンディでないとリリースが見送られます。『メイティング・コール』は発売されましたが、アルバムの名義は、ジョン・コルトレーンと並列になっていました。タッド・ダメロンは音楽ビジネスでは「過去の人」になっていたんです。
 
 八方ふさがりとなったタッド・ダメロンは、1958年1月、麻薬所持容疑で逮捕されてしまいます。
 
 続きは次回へ…
 野球シーズンも終盤で気分はしっぽりインディゴ・ブルー、明日は寺井尚之メインステムの爽快なプレイで心を癒そう…。
CU
 
 
 
 

「タッド・ダメロンについて話そう!(2)」への2件のフィードバック

  1. いつも読ませていただいてます
    お世話になっておきながら、お店には中々伺えず申しわけないです
    しかしホント、勉強になります!
    またトミー・フラナガンとの記事は何度読んでも良いですね、昨日も読み返しました

  2. こんばんは!
    今ライブが終わったところです。
    タッド・ダメロンのこと、長々書いて反省してますが、OverSeasには、よそではダメロンの曲が聴けないからと言って来てくださるお客様もおられるので、PR活動しています。
    鷲見和広さんとのエコーズで、またぜひお待ちしています。
    ありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です